視点

~033

(2022年6月25日)

 散華(さんげ)と殉教 

 「日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ヂャナイカ」

 

先月、日本赤軍の女性リーダーが20年の刑期を終えて出所しました。その機会をとらえて、テレビ各局は、イスラエル・テルアビブ空港でのテロ事件のショッキングな映像や実行者・岡本公三の近況や彼の発言を報道しました。悲惨なこの事件は、圧倒的なイスラエルの軍事力によって抑えつけられ無力感に苛まれていたパレスチナ・アラブ民衆の心に火をつけました。他方それは自殺攻撃や無差別自爆テロが抑圧された民衆の抵抗戦術のひとつとなる契機になったとされています。

自殺テロの最大のものは9.11米国同時多発テロでしょう。類似のテロ攻撃はフランスやその他のヨーロッパ諸国でも実行されました。テロ攻撃は、米軍および欧州軍が撤退したにもかかわらず、ターリバーン支配下のアフガニスタンでは現在でも日常的に繰り返されています。しかもターゲットはもはや大国の軍隊ではなく敵対民族、敵対宗派の非武装一般民衆にまで拡大しています。イスラーム世界だけでなく、西洋マスコミでさえ、日本の特攻攻撃になぞらえてこれらのテロを「カミカゼテロ」と表現したりしています。

私は日本の特攻とイスラームの名をかたって行われる自爆テロを同列に扱う表現に大いなる違和感を感じながらも、神や国家の名のもとに遂行される自殺攻撃としての紙一重の共通性を感じます。さらには、あらゆる反撃の手段を封じられ抑圧されている民衆のやむにやまれぬテロ行為はどうなのか、考えてしまいます。

9.11事件に衝撃をうけ、その翌年に、「散華と殉教」と題してエッセーを書きました。以下に掲載いたします。

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想ってごらん、国家なんていらない、と。
むつかしいことじゃない。
そのために殺しあったり、死んだりせず、
ついでに、宗教もいらない。
想ってごらん、人がみな
安らかに生きている姿を。
(ジョン・レノン「イマジン」より筆者抄訳)

2001年9月11日、アメリカ合衆国で4機の民間航空機がハイジャックされ、ニューヨークでは世界貿易センタービルの南棟と北棟にそれぞれ1機が、ワシントンでは米国防省(ペンタゴン)に1機が、乗員・乗客を乗せたまま激突するという事件がおきた。もう1機はピッツバーグで墜落した。ハイジャック犯人たちの目的遂行を乗客たちが阻止したともアメリカ軍によりやむなく撃墜されたのではないかとも推測された。
2機のジェット機に激突されたニューヨークの世界貿易センタービルでは、突入した旅客機に満載されたガソリンが爆発し大火災が発生。2棟とも周辺のビルを巻き込んで崩れ落ちた。この同時ハイジャック・自爆行為により乗員・乗客・地上の人びとや救援に駆けつけた消防士・警察官などあわせて数千人が死亡した。人類史上かつて経験したことのない民間航空機をつかった痛ましい無差別大量殺人事件となった。犠牲となった人びとやその家族・関係者へ大きな同情が寄せられたのはもちろんだったが、事件の規模と残虐さ、および攻撃が米国中枢、その喉元へ仕掛けられたという異常性のため、事件を引き起こした犯人グループや推測される事件の背景に世界中の人びとは驚愕するとともに強い関心を引かれた。もちろんわたしもそのひとりだった。

この事件のあと、さまざまな世界的歴史的出来事がつづいた。アメリカ合衆国のブッシュ大統領は「テロ根絶の戦争」を呼号した。航空機による自爆大量殺人行為は旧日本軍の真珠湾攻撃や神風特攻隊になぞらえて論じられもした。そして「テロ」の温床を提供しているとの咎でアフガニスタンのタリバン政府およびテロ組織と断定されたアルカイダ武装勢力は米英によって激しく空爆された。「テロリストの首領」を殺害または捕縛するためである。一方、嫌疑を掛けられた男、アルカイダ組織のリーダーのひとり、ウサマ・ビンラディンは衛星放送を通じて、アメリカによる広島や長崎にたいする原爆投下こそが人類に対する犯罪だったと非難した。もちろんビンラディンはパレスチナ人を圧殺するイスラエルとそれを支援するアメリカを糾弾するのを忘れなかった。アメリカが主導する「テロとの戦争」はタリバン政府が崩壊し暫定政府が結成されたあとの、アフガニスタン空爆開始後3カ月をすぎた2002年になってもつづけられ、アフリカやアジアのその他のイスラム諸国へアメリカ軍の攻撃が拡大されるのではないかとの恐れがささやかれるようになっていた。

アメリカの航空機を乗っ取り、乗員・乗客を道づれにしてターゲットに激突した自爆犯の行為が「テロ」と表現され「戦争」という政治の言葉を使って語られたり、1972年にテルアビブ空港で無差別大量殺人事件を引き起こした日本赤軍・岡本公三らの行為やいまから半世紀前の日本の特攻隊員の行為との共通性において論じられたりするのをみるにつけ、わたしは穏やかならざる気持ちに陥った。アフガニスタンの地形や空爆の効果、経済状況などについて新聞社やテレビ局からコメントを求められた。それらがテレビの全国ニュースで何度か放送されたりもして、知人から「観たよ」などと声をかけられたりした。

そんなある日、書籍購入はほとんどインターネットショップで済ますようにしていたわたしだが、久しぶりに渋谷の大型書店に出かけてみた。するとそこにはアフガニスタンやタリバンやビンラディンなどをテーマにした関連書籍が数十冊平積みされた特設コーナーが設けられていた。ビンラディンの顔写真を大きく表紙にあしらったけばけばしい本も何種類かある。構造的な出版不況を跳ね飛ばそうとするかのような出版人の意地や商魂が陳列されているようにも感じられた。そんな感想を抱きながら1冊ずつ手にとって立ち読みしていた。そこに5、6人の高校生らしき少年たちの一団がやってき
た。
「スゲー、全部テロの本だ」
「エロじゃねえのか」
「バカ。ビンラディンとかタリバンだよ。見ろよ」
「やっぱり読まなきゃダメか」
「とりあえずどれか1冊くらいはなあ……」
などとわいわいしゃべり始め、その中の1人がビンディンのインタビュー本を選んでレジに持って行った。

また、年が改まった1月の5日、米フロリダ州タンパ市で午後5時過ぎ、15歳のアメリカ人少年が操縦する小型機が42階建ての「バンク・オブ・アメリカ」ビル20 階部分に激突しその少年が死亡するという事故があった。米警察当局は、少年が遺書とみられるメモを所持しておりそこにはウサマ・ビンラディンに共感していることが書かれていた、と発表した。
子供たちの世代がこの事件から強い衝撃を受けている。精神的衝撃は若いかれらの脳裏に消しがたい生涯の記憶となって残ることだろう。そうであればこそ、第2次世界大戦を実体験として持っていない「戦後世代」に属するわたしではあるが、戦後世代からみた日本の特攻作戦を明らかにし、その持つ意味を確認し、次の世代に継承するべき責任があるのではと思った。

そもそも、9・11事件を「テロ事件」と呼ぶことにわたしは違和感を覚える。テロの定義を拡大して便宜的に「米同時多発テロ」と表現してもよいだろうが、国家間の戦争が大規模化、高度化し非戦闘員を巻き込んで展開されるようになった近・現代では「戦争」と「テロ」の区別は難しくなってきている。非戦闘員をふくむ、あるいは非戦闘員による殺傷をテロというのならば、第2次世界大戦時にドイツが行ったロンドン空爆やUボートによる商船無差別撃沈攻撃、規模の大小はさておくとして日本軍が南京で行った市民虐殺もテロ、それも「国家によるテロ」といえるであろう。この論法に従えば、アメリカ軍による広島や長崎への原爆投下は、人類史上最大でもっとも無慈悲・悲惨なテロといいうるのではないか。アメリカが第2次世界大戦後ベトナムや中南米やアフリカでおこなってきた「報復」と称する軍事行動の多くもまさに「国家テロリズム」だった。とくに1998年にクリントン政権がおこなったスーダンの薬品工場の爆撃・破壊がもたらした残酷さは9.11事件以上のものがある。じつは、米国そのものが最大の国家テロリズム、その元凶だったのではないか。9.11事件のせいで、空から爆弾が降ってきて家や家族や自分の体の一部が吹き飛ばされるアフガニスタンの一般民衆にとって、アメリカの空爆はテロ(恐怖)以外のなにものでもないだろう。空爆の3カ月間に空爆により直接死亡したアフガニスタンの民間人は9.11事件によりニューヨークで死亡した人びとの数とほぼ等しくなったという。
9.11事件は戦時下で起きたわけではない、とも反論されそうだが、同事件の黒幕とされるビンラディンは事件の何年も前から米国に宣戦布告をしていた。さらに1998年のケニア、タンザニアで引き起こされた米国大使館爆破事件、2000 年にイエメンで起きた米駆逐艦「コール」爆破事件などの「首魁」として米国FBIはビンラディンを「国際指名手配」していた事実がある。9.11事件後、ブッシュ米国大統領がビンラディンとその組織アルカイダとの戦いを「戦争」と宣言したことにより、9.11事件の実態は国際刑事事件から、「テロ事件」でなく米英その他の国家群と国際テロ組織との「戦争」に、他ならぬアメリカそのものによって、転化させられたのである。

以上がわたしの「違和感」の根拠である。
それまで、わたしの意識にあった「テロ」の概念は、抑圧された人びとのやむにやまれぬ政治的表現手段としての暴力だった。これからはもうそのような概念は古典的な定義になってしまうのかもしれないが、この<真正の>テロは、救済を受けるべき、解放されるべき一般民衆をけっして虐殺の対象とするものではない。そうではなく、「悪逆なる為政者」の命とテロリストそれ自身の命を差し違えることにより、悪政を正し民衆の救済を実現しようとする行動であり、その思想である。わたしは、悪政を正すことも悪政に苦しむ民衆を救うこともできないテロを政治的手段として用いる個人と組織を決して支持しないが、敵であれ味方であれ一般民衆を巻き添えにしない「政治的テロ」が鬱屈する民衆意識を背後に持つこと、さらにはその意識を特殊歴史的な一時期において代弁する場合があることへの理解は持ち合わせている。

たとえば、石川啄木がロシア皇帝を殺害しようとしたテロリストの心情を、

われは知る、テロリストの
かなしき心を――
言葉とおこなひとを分ちがたき
ただひとつの心を、
奪はれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らんとする心を、
われとわがからだを敵に擲(な)げつくる心を――
しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有(も)つ
かなしみなり。

はてしなき議論の後の
冷めたるココアのひと匙を啜りて、
そのうすにがき舌触りに、
われは知る、テロリストの
かなしき、かなしき心を。

1911. 6. 15. Tokyo
(「ココアのひと匙」、『呼子と口笛』より)

と詠(うた)った感懐を理解することができるし、韓国統監として軍事力を背景に韓国の日本への併合を進めかの国の民衆の怨嗟の的となっていた明治の元勲のひとり伊藤博文を中国黒竜江省のハルビンで射殺した安重根がその国の民衆から韓国独立運動の烈士として尊敬されている歴史的事実の背景と民衆意識を同情をもって理解するのである。しかし9.11事件の自爆犯たちの行動やその思想的基盤とされる「イスラム過激主義」「イスラム極端主義」に対してはいささかの同情も感じることはできない。かれらの行動の目的はかれらが敵とみなす民衆への無差別殺人攻撃であり、啄木風にいえば「言葉」と「おこない」が分裂し対立しているからである。かれらの行動はパレスチナの大義を実現する上でなんの助けにもならないばかりか害毒をまき散らすだけの存在にすぎない。だから、9.11事件の自爆犯と日本の特攻隊員を同列に論じることはできない、とわたしは思うのだ。なぜなら、自爆犯たちは、敵の首領に打撃を加えるのでなく、比較的容易に殺害が可能な一般大衆を攻撃の対象とする自己の行動に一寸たりとも疑問を持っていないからである。世界貿易センタービルでなく米国防省と大統領府だけを攻撃目標としていれば少しは非難を軽減できたかもしれない。しかし、それにしても、たとえ乗っ取ったのがアメリカ人乗客の多いアメリカ国籍の航空会社の飛行機であったとしても数百人の民間人乗員・乗客を道連れにしている点では変わらないのだ。犯罪性において本質的な違いはない。かれらはみずからを「イスラム聖戦(ジハード)」の殉教者と位置づけることにより殺人を合理化し、国家的な強制によらないまったくの自発性にもとづいて犯罪を犯した確信犯である。この意味で岡本公三らとその戦術を採用した日本赤軍も同罪であろう。かれらの行為はサリンをまき散らして無差別殺人事件を起こしたオウム真理教の行動となんら変わるところがない。違うのは、前者がその規模、国際性、歴史性において後者をはるかに凌駕している点だけであろう。オウム真理教が仏教を陵辱したようにビンラディンらもイスラム教を冒涜している。

一方、旧日本軍の特攻作戦に参加した若者たちの場合は、国家による戦争という強制力のもとで極めて限定された選択肢からいずれかを選ばざるをえない、強いられた自発性にもとづく行為であったということができる。特攻自爆という作戦が誤った愚劣な作戦であったこととそれとは別の次元の問題である。しかし、国を信じ特攻隊に志願し命を肉弾として捧げる兵士の行為は「散華(さんげ)」と美化された。文字通り「花と散る」この行為が、「聖戦」を呼号する犯人たちのいわゆる「殉教」と似たものと受け止められてもしかたがないかもしれない。ところが、特攻作戦の場合はあくまでも国と国との戦争として相手の戦闘集団に対する打撃を目的とする行為であり、一般民衆を対象にした大量の無差別虐殺行為とは本質的に異なる。

さらにそのうえ、行為者の決心に大きな違いがあった。9.11事件の自爆犯たちは宗教心にもとづき「殉教者としての誉れ」を期待しながら「アッラーは偉大なり」と叫びつつビルに激突したのではないだろうか。純粋に自発的な意思により「神」の命令をみずから掴みとったかれらの行為には「神」に対する疑問を差し挟む余地は論理的にありえない。狂信の類というべきである。他方、日本の場合はかつてのベストセラー『きけ わだつみのこえ』の冒頭に掲載されている慶応大学経済学部の学生であった上原良司のように日本が始めた戦争が論理的に正しくないと認識しながらもこの作戦に参加した若者がいたのである。

上原良司の遺書にはいま読み返しても思わず背筋を正さざるを得ないほどの絶望の深さと歴史に対する揺るぎない確信が漲っている。彼は「自己の行動が論理的・歴史的にみて必ず負ける戦いである」と認識しながら「空中勤務者」としての死生観から、特攻を実行したのであった。そのような気持ちから特攻作戦に参加した若者は上原ひとりではなく、相当の数に上る。しかもそれは日本列島出身者だけでなく朝鮮半島出身の「日本人」にも及んでいる。

わたしの自宅近くにある世田谷観音には特攻「散華者」の鎮魂碑が建っている。その碑文によればそこに祀られている特攻隊員の御霊(みたま)は4615柱とされている。さらにわたしは高倉健・田中裕子主演の映画『ホタル』(2001年、降旗康男監督)を観て、旧日本軍兵士として特攻作戦を戦った韓国人・朝鮮人がいたことを知った。わたしは映画で紹介された東京・目黒区の祐天寺にお参りに行き、ちょうどそのときお勤めをしていた若いお坊さんに尋ね、いまだ遺族のもとに帰れぬ朝鮮半島出身特攻兵(当時は日本人)の霊を同寺が本堂の本尊の裏に預かって安置していること、『ホタル』が上映されたあと朝鮮人特攻隊員の件で問い合わせがあったり、お参りに来る人が増えた事実を確認した。御霊の数は不明とのことであった。

人間魚雷の操縦者として海中で、あるいは航空特攻兵として空でその命を散らせた日朝の若者たちのすべてが上原のような人びとであったとは思わないが、あの無謀愚劣な戦争を無謀愚劣な戦争と知りながら志願して命を捨てた人びとの数は陸上での特攻作戦をも考慮すれば万の数を超えるのではないだろうか。何千人もの一般人の無差別大量殺人を自己目的としてビルに激突した十数人の犯人グループによる今回の事件と巨万の兵士がひたすら命を捨て、捨てさせられた日本の特攻作戦とを同じものとして論ずることはできない、と繰り返しわたしは思う。

日本の特攻作戦の悲劇性は、過ちを過ちと知りつつ一般民衆たる若者が兵士として犠牲を甘受した日本的な「美学」「死生観」およびそれを強制した愚劣な精神と社会のあり様を国民が許容したことにあるのではないだろうか。このことを鮮明に示すのが『戦艦大和ノ最期』(吉田満著)という著作に描かれた事実である。

7万3000トンの排水量と最新兵器を満載した世界最大の巨艦であった戦艦大和の乗組員として沖縄特攻作戦に参加し、九死に一生をえた著者が「終戦直後、ほとんど1日を以て」書きあげたドキュメンタリーがそれである。著者は日本が犯した愚劣な戦争を、それに対する表面的な批評・批判をいっさい加えることなく事実を事実として語らせる手法をとって記録した。

漢字・カタカナの漢文調で書かれた格調高い文学作品となったこの記録は日本軍国主義の戦争を賛美する作品とみなされて、反戦ムードが高まった終戦直後の一般社会になかなか受けいれられなかった。戦後数年、アメリカ占領軍の検閲さえパスすることができなかったという。しかしこの作品は「愚劣な精神」による「愚劣な戦争」の悲劇性を悲しいまでに赤裸々に暴き出している、とわたしは思う。吉田は講談社版のあとがきで次のように書いている。

「古今東西に比類のない超弩級(ちょうどきゅう)戦艦の演じた無惨な苦闘」は、はからずも「日本民族の栄光と転落の象徴を形作っており」「近代日本が明治以来の躍進の果てに到達した頂点の高さを示すとともに、みずからの手で歴史を打ち建てるのにいかに無力であるかを露呈するものでもあった」「科学と技術の粋は非合理きわまる精神主義と同居し、最も崇高なるべきものは最も愚劣なるものの中に埋没することによって、ようやくその存在を許された」と。著者のこの断定は、戦争に負けて初めてえられたものではない。そうではなく、1945年3月29日、沖縄海域を想定した特攻攻撃に向けて呉軍港から出撃した戦艦大和に乗り組んだ士官たちが出港してすぐの航行中に到達しえた観点でもあることが、驚きであり意義深い史実なのである。

片道分の重油しか積まずに呉を出港した大和の艦内では、空から戦艦を防衛すべき戦闘機を1機ももたず、ゆえに作戦地域までたどり着くことすら不可能だと誰の目にも明瞭な特攻作戦の意義をめぐって士官らの間で「鉄拳の雨」、「乱闘の修羅場」となる激論が戦わされたという。「国ノタメ、君ノタメニ死ヌ ソレデイイジャナイカ」とする兵学校出身の中尉・少尉に対して学徒出身士官は色をなして反論した。「君国ノタメニ散ル ソレハ分カル ダガ一体ソレハ、ドウイウコトトツナガッテイルノダ 俺ノ死、俺ノ生命、マタ日本全体ノ敗北、ソレヲ更ニ一般的ナ、普遍的ナ、何カ価値トイウヨウナモノニ結ビ附ケタイノダ コレラ一切ノコトハ、一体何ノタメニアルノダ」と。なぐり合い、乱闘となったこの大激論に決着をつけたのは哨戒長・臼淵大尉の次の発言だった。
「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ 日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ 私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダワッテ、本当ノ進歩ヲ忘レテイタ 敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ハレルカ 今目覚メズシテイツ救ワレルカ 俺タチハソノ先導ニナルノダ 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ヂャナイカ」

「散華」の思想である。臼淵大尉のこの発言にあえて「反駁ヲ加エ得ル者ナシ」となり、激論は収束した。この後、艦内に残ったものは自虐的な「『世界ノ三馬鹿、無用ノ長物ノ見本――万里ノ長城、ピラミッド、大和』ナル雑言、『少佐以上銃殺、海軍ヲ救ウノ道コノホカニナシ』ナル暴言」であったと吉田は書いている。戦艦大和に乗船していた将兵3千数百名はアメリカの空からの徹底的で嵐のように激しい爆撃攻撃になんの反撃も出来ずひたすら爆弾をその身で受け止めるだけの自虐的な敗北主義にまみれて海の藻屑と化したのである。

もし、戦艦大和の艦内での激論が将校のみの議論でなく一般兵をも巻き込んだ議論となっていたらどうだったろうか。ひょっとしたら、セルゲイ・エイゼンシュタイン監督の名作『戦艦ポチョムキン』に描かれたような事態が出現したかもしれない、とわたしは夢想する。日露戦争さなかの1905年、ロシアでは暴虐をふるう皇帝の専制政治にたいする民衆の怒りが高まっていた。緊迫した社会情勢のもと黒海沿岸の軍港オデッサ港沖に停泊していた戦艦ポチョムキン号で水兵の反乱が起きた。反乱を支持して集まった多数の市民が軍により銃撃される事態に直面したポチョムキン号は軍司令部を砲撃する。第1次ロシア革命である。この革命によりロシアは日本との戦争に決定的に敗北することになった。乃木希典の指揮のもと5万9000人の将兵の命と引き換えに勝利した旅順をめぐる激戦、東郷平八郎の指揮のもと日本海海戦でバルチック艦隊を壊滅させた日本海軍の勝利だけがロシア専制政治を打ち倒したのではない。ロシア民衆のたたかいがロシア皇帝の戦争継続の意思を挫いたのだ。ロシア民衆のこのたたかいは帝政を最終的に終わらせた1917年のロシア10月革命まで連綿とつづいた。先の石川啄木の詩に詠まれたテロリストはこのような歴史の戦闘に民衆自身が登場する前の大衆的な行動が封殺されていた一時期の特殊な条件下で生起した同情しうる存在だったのだ。

「『少佐以上銃殺、海軍ヲ救ウノ道コノホカニナシ』ナル暴言」はシニカルに表現された本音だったのではないだろうか。もし、臼淵大尉が論の矛先を内に向けず外に向けたならば、戦艦大和がその巨砲の向きを180度反転させ、愚劣なる作戦を命じる愚劣なる作戦本部に向けえたなら、歴史はどうなっていたであろうか。戦艦大和艦内での激論は砲口を逆転させうる瀬戸際まで来ていたとはいえないのだろうか。もしそうなっていたら、日本がアジアを巻き込んで展開したあの醜悪なる戦争による犠牲者はもっともっと少なくて済んだのではないだろうか、と、ふたたびわたしは夢想する。

しかし歴史はその道を採らなかった。歴史は日本民族が覚醒するための、「日本ノ新生ニサキガケテ散ル」べき犠牲者はまだまだ足らないと見たのであろう。アジア諸国人民が日本軍国主義によって流さざるをえなかった血をみずからの血であがなえとばかり、沖縄戦での犠牲者、日本各地大都市での空襲の犠牲者、広島・長崎の犠牲者をさらに要求したのである。敗戦が決定づけられる前にすでにこの戦争が無謀で無意味なものであることに「諦め」と「ため息」を伴いつつも「目覚め」ていた日本人の数はそれほど少なくなかっただろうに、とわたしは思う……。

ところで、ビンラディンは「イスラームの大義」を振りかざすと同時に日本にも言及した。かれらの論理がいかに醜悪なものであるにしても、その背景やかれらの行動を支持する屈折した民衆意識にアメリカの政策に対するアンチテーゼの側面を見いだしたり、異文化に対する抵抗の要素を見いだすことも可能ではないだろうか。イスラム過激派の発生の源のひとつは、そうした現実世界の矛盾のなかに存在している。つぎにこのことを日本の明治維新後の歴史の文脈に引き据えて考察してみたい。

アラブ諸国やアジアのイスラム諸国のなかで明治維新を断行した日本は高く評価されている。外国の干渉をはねのけて独立を勝ち得たアジアの国としてまた強国ロシアをうち負かした国として。筆者は1980年から88年にかけてアフガニスタンをたびたび訪れる機会があった。そしてそのたびに「日本とアフガニスタンはアジアで最初に独立した国のひとつなのに、日本は世界の最先進国となりわが国はいまだに最貧国のひとつだ。なぜだ」とよく尋ねられたものだ。そんなときには「日本の江戸時代には寺子屋というものがあって、国民の教育水準が高かったから」などと答えていたのだが、イスラム過激派の存在やその無慈悲な行動が一定の支持を得ている事実を目にして、もっと別の、より大きな原因があったのではないか、と思うようになった。日本の「成功=明治維新」が「尊皇攘夷」を掲げて実現されたにもかかわらず、維新が実現するやいなや「脱亜入欧」というアジアを裏切るかのごとき標語に示される、それまでとは正反対のコースを突き進みえたことに、実は成功の要因があったのではないか、と。

アフガニスタンはイスラム教の国である。主要4民族からなる十数民族の多民族国家である。幾十もの部族や異なる言語が複雑に共存している。この山岳地帯の人びとを国家としてまとめる共通要素は「イスラム教」と共通語の「ダリー語」しかない。1919年にこの国の独立を指導したのはアマヌラー・ハーン国王である。この国王は1917年に成立したばかりのソビエト国家を世界のどの国よりも早く承認し、モスクワを訪れてレーニンとともにパレードしたほどの開明君主だった。彼の下で、国民教育の実施、婦人解放などを含む民主的な政策が推進された。だが国王の進歩的な政策は諸外国の敵意の的となり、独立後わずか10年で反革命勢力により崩壊させられる。国内に社会建設のための原資を持たないアフガニスタンは、以来、米ソ2超大国による東西分断のはざまで、双方の陣営から援助を引き出す綱渡り政治をつづけざるをえなかった。その基本的な構造は今もつづいているといえる。

イスラム教は宗教・政治・生活規範が一体化した宗教である。アマヌラー・ハーンの改革が頓挫したのも一般国民を支配しているイスラムの感情を外国勢力と国内反動勢力が利用したからであった。
1923年、アフガニスタンにつづいてアジアで独立を勝ちえた国は同じイスラム国家のトルコだった。それはかつてアジア、ヨーロッパ、アフリカにまたがる強大な帝国を築いていたオスマン帝国の崩壊後に勃発したトルコ革命の帰結であった。この革命を率いて国を独立に導いたムスタファ・ケマル・アタチュルクらは、ロシアに勝った日本を見て、明治維新になぞらえた国造りをしようとした。アタチュルクは、イスラム色を薄めヨーロッパ型の社会経済体制に国を導くため政教分離政策や女性隔離の緩和などを導入した。それまでのアラビア文字を使っていた国語表記をローマ字に変えるなどの大胆な「入欧」政策をとった。ところが、イスラム教を生活原理とする一般民衆の世界観とキリスト教をベースとするヨーロッパ文明とは融合せず、国の政治につねに緊張と軋みを生じさせた。

イスラム教とキリスト教の対立は、「対テロ戦争」を標榜するブッシュ米大統領が「十字軍の戦い」とはしなくも口走ったように、敵対する双方に千年もつづく民衆意識として染みついている。このように牢固とした永続的な確執は、多神教・神仏混合を許す日本人には到底理解不能な心理のあり方ではないだろうか。

国の近代化をソ連に頼って行おうとした80年代のアフガニスタンの試みが、アメリカ、イギリス、パキスタン、サウジアラビア、中国などをはじめとする世界中のすべての「反ソ連」国家の支援を受けた「ゲリラ」勢力によって瓦解させられた92年以後、アフガニスタンはイスラムを標榜する勢力によって支配されることになった。しかしその勢力(2001年、アフガン空爆後の、北部同盟と呼ばれるタジク、ウズベク、ハザラ族の同盟につながる勢力)は分け前争奪の内戦を繰り返し、アフガニスタンを廃墟となす危機に陥れた。そこに登場したのがイスラム原理主義をとなえる極端な過激勢力=タリバンだった。

タリバン支配のアフガニスタンは「イスラムの原点に帰れ、米欧のキリスト教打倒」を掲げる過激派の基地になった。本来は政治の課題であるはずのものが宗教の衣を着て立ち現れてきたのである。これをアメリカが、そして西側世界が「テロの温床を根絶やしにする」と称して袋叩きにしたのであった。宗教と政治が分離されない限り、もっといえば、宗教と国家がなくならない限り、このような不幸はいつまでもつづくしかないのだろうか。散華も殉教も要らない世界が一日も早く来てほしい、とつくづく思う。

日本近代を振り返ると悲しくなる。自分自身の出自を自分自身で叩く愚を何度も繰り返してきた。維新政府を分裂させた征韓論争直後、1874年の「台湾征伐」、韓国への帝国主義的な対応、1900年に中国で引き起こされた義和団事変への対応などにその端緒をみることができる。とくに義和団事変の場合、愚かしさは極みに達する。中国の独立を希求する義和団が掲げたスローガンは、「扶清滅洋」、つまり「旧来の自らの文化・国家である清を守り欧米を滅ぼせ」というものであった。日本での「尊皇攘夷」、イスラム諸国での「イスラム教遵守、異教徒滅亡」と寸分違わぬ同一思想である。

この義和団に対して、日本軍を含む英・米・露・独・仏・伊・オーストリアの8カ国連合軍は1900年8月14日に武力攻撃をかけ鎮圧した。日本は連合国の将兵約6万人のうち最大の2万2000人を派兵した。北京占領後、連合国軍兵士らの激しい略奪と暴行が3日間にわたってつづいたといわれている。日本は多数の国家群による国家テロリズムというべき行為を、「欧米」に伍すだけでなく率先し実行したのであった。

中国にもイスラム諸国にも国外から欧米文明の波が激しく押し寄せた。日本ももちろんそうであった。しかし、他の国と若干異なるのは、日本の場合、「尊皇攘夷」から「和魂洋才」へと立場を巧妙にずらしつつ、比較的早い時期に欧米文化を輸入し旧来の文化を捨てることに成功したことだろう。とはいえこの転換のためには膨大な血を流さなければならなかった。西南戦争がそのひとつだった。中央政界の欧米への屈従、金権腐敗、政官財人の豪奢な生活実態批判と並んで、この戦争の原因のひとつになった征韓論争には、まさに、押し寄せる欧米文明に対して、これを積極的に受容し身も心も襲来してきた文明の一部となるのか、それとも外来文明とは異なる文明を維持しつつ自立する道を選ぶのかの対立が1要素として含まれていたとみることはできないだろうか。確かに西南戦争の首魁とされた西郷隆盛の『西郷南洲翁遺訓』に見られるように彼の思想が農本主義・儒教的であり、政策が反革命的な間違ったものを含んでいたとしても、中央で進行しつつある腐敗堕落に対する日本初の「野党」としての批判、問題提起だったことだけは動かせない事実だとわたしは思う。

この野党的抵抗を力でねじ伏せた中央政府は、富国強兵を達成し欧米と列するため涙ぐましい努力をした。日清戦争に勝利して侵略の味を覚えた日本は神道と天皇を利用し政治と宗教の一体化による軍国主義を奉じて、ひたすら欧米と同じ列に割り込もうと奮闘努力した。だが、「神のご加護」もなくむなしく第2次世界大戦に敗北しその列からはじき飛ばされてしまった。それ以後は形式的であれ政教分離の民主主義制度を導入し、アメリカの核の傘のもと一心不乱、頭を低くして経済発展にいそしみ、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といわれてうかれるほどの成功を収めることができた。しかし、ソ連が崩壊したがゆえに日本を甘やかす必要のなくなったアメリカから、「外資(つまりアメリカ資本)に対して規制緩和しろ」「自分の足で歩け」とばかりにみたび「外圧」を受けるはめに陥った。徳川幕府末期、太平洋戦争敗戦につづく、第3の開国をせまられることになったのである。

明治維新や第2次世界大戦後の「華麗」なる転換を指して、日本人は外からの思想を巧妙にスムーズに取り込むことができる器用な民族であるといわれることがある。確かにそのような側面があったかもしれない。だが、それらふたつの生まれ変わりの前には、次の時代を準備する大衆的な意識が潜在的ではあれ形成されていたと見ることはできないだろうか。

第3の開国が求められている現在、単なる外国の猿真似で日本が直面している社会的・経済的行き詰まりを克服できるとは誰も思っていないだろう。すでに社会的経済的には欧米に並び、部分的にはそれらを凌駕する発展をとげているからだ。そしてつけ加えて言えば、過去2回と同じように、日本が何を捨て何を残すべきか、そして将来をどのような形で実現していくべきなのか、われわれ一般大衆の目に何も見えていないというわけでもないだろう。
過去2回と同じ過ちを繰り返すのか、それとも3度目の正直とするのか、正念場である。

野口壽一

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~032

(2022年06月15日)

 打倒か共存か 

 ~コロナ、アフガン、ウクライナ~  

 

 

3連続パンデミック 

2019年末からのコロナ・パンデミック、2021年夏からのアフガン・パンデミック、そして2022月24日からのウクライナ・パンデミック。世界は立て続けに3種類のパンデミックに襲われました。

それぞれ性格が異なる3種類ですが、国連や各国政府やマスメディアを巻き込んで、地球上の人びとの日常生活を混乱させ、世界的集団ヒステリーともいうべき様相を呈するにいたりました。

感染症という病理現象から始まった国際的大事件の連続ですが、テロ問題・民族問題、国際問題と外見的相違にかかわらず3つのパンデミックには意外な類似点が見いだされます。

まず第1に、事件の発端となっている主要因について「共通認識」ができています。コロナ・パンデミックでは「未知のウイルス」、アフガン・パンデミックでは「ターリバーン」、ウクライナ・パンデミックでは「ロシア」または「プーチン」が「悪玉」で、疑問の余地なしとされています。じつは3問題ともことはそれほど単純ではないのですが、それに疑問をさし挟む議論は、すくなくとも西側諸国では相手にされないか、排除の対象とされています。

第2に問題を解明し解決策を探るための手法として「科学」という言葉が多用されました。しかし逆にその「科学性」に大衆的な疑問が生じました。科学の立場では仮説を第三者が追証して初めて「真実」とみなされるのですが、自称他称の「専門家」が述べる「仮説」や「思いつき」があたかも「真理」であるかの如く流布され政策化されました。いろんな説が乱れ飛び「フェイクニュース」という新語すら生まれました。

第3に国際問題を解決するために世界の英知をあつめて作られたはずの国連という組織の制度疲労、機能不全があぶり出されました。

第4に問題解決の手法において、主要因を根絶ないし打倒するか、それとも懐柔・共存するかで意見が分かれ対策をめぐってカンカンガクガクの議論が交わされています。
(この視点については分類比較表を作成しました。ここをクリックするとpdfでご覧いただけます。)

 

世界はどうなってしまうのか

コロナに関しては2年半をへて、対策は「ゼロコロナ」か「ウイズコロナ」かの2択に収斂しました。世界の大半は「ゼロコロナ」から「ウイズコロナ」に舵を切りましたが、中国はまだかたくなに「ゼロコロナ」にこだわっています。どちらが正しいかはまだ証明されていません。コロナ問題に関しては言いたいことが山ほどありますが、ここではこれ以上の議論はしません。

アフガン問題ではテロを武器に権力の座に居座ったターリバーンに対して国内外でアフガン国民の反対の声がやまず、国民統合を要求する勢力は武力抵抗をつづけています。国際的にはターリバーンに対して金融経済制裁が課せられ、依然として国家承認する国は一国もありません。

ウクライナ問題では、ロシアの「武力による現状変更」への不同意は世界的にも圧倒的多数の意思が表明されてはいても、対応策においてはプーチン打倒から停戦・共存まで幅広い選択肢が議論されています。その間にウクライナの国土は蹂躙され、破壊され、1000万人規模の国内国外難民が発生し、多数の国民が毎日殺されています。

パンデミック以前の世界にもどることはない、との認識が世界を覆いつつあります。では、私たちの生活はどう変わってしまうのでしょうか。どう対応していけばよいのでしょうか。コロナは別として、人間社会でのふたつの紛争について考えてみます。

 

ウクライナ問題での意見や対応の相違

まず、喫緊のウクライナ問題です。
・国連常任理事国5カ国のうち当事者のロシアが侵攻直後に拒否権を発動し否決。他国への侵略、戦争を抑止するために設立されたはずの機関が設立国の理不尽な行為により機能不全に陥りました。
・ロシアのウクライナ侵攻を非難する決議案(3月2日)の採択結果は賛成141カ国、反対5カ国、棄権35カ国(中国、インドなど)。多数の意思は侵攻反対でもそれを即止める有効な策はありません。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN020UR0S2A300C2000000/
・米主導の対ロシア輸出規制は永世中立国のスイスなども参加しましたが37カ国と圧倒的少数です。
(https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN08ED40Y2A400C2000000/
逆にエネルギー・食料問題など、世界経済に及ぼす負の側面が大きくなり始めました。
・対ロシア制裁を支持しない途上国が多数という現実がクローズアップされました。この背景には「民主主義」を押しつける米国や歴史的に帝国主義・植民地主義で搾取してきた「西側」に対する「積年の恨み」や「不信」の念が底を流れている現実があります。
https://jp.reuters.com/article/apps-south-column-idJPKCN2M50AH
・強硬派=米、英、カナダ、日本。懐柔派=フランス、ドイツ、イタリアというG7内の温度差、突出する米国のウクライナ支援。「プーチンに恥をかかせるな」と公言するマクロン仏大統領などの存在があります。

日本経済新聞2022年6月12日

一方、WSJ(ウォールストリートジャーナル、May 25, by Walter Russell Mead)によれば、5月末にスイスのダボスで開かれたいわゆるダボス会議で、99歳の誕生日を迎えるヘンリー・キッシンジャーは、ビデオ登壇し、「ロシアを打ち負かそうとしたり、疎外しようとする試みに反対」を訴え、ウクライナに対し、「戦争を終わらせるために2014年の領土喪失を受け入れるよう呼びかけた」といいいます。
https://news.goo.ne.jp/article/mag2/world/mag2-541620.html

その数時間後、今度は91歳で同フォーラムに直接出席したジョージ・ソロスが、「ウラジーミル・プーチンのロシアとの戦争における勝利は〝文明を救う〟ために必要だ」と警告し、勝利に必要なすべてをウクライナに提供するよう欧米に促したそうです。
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2022-05-25/RCEPKODWRGG001

重鎮ふたりの意見には大きな隔たりがあるように見えますが、キッシンジャーもソロスも、アメリカにとってロシア・ウクライナ問題は究極的には二次的な問題であり、米中関係の将来の方が長期的にははるかに大きな意味をもつと考えている点では同じです。わが『ウエッブ・アフガン』も昨年12月の時点での視点で「アフガンのつぎ、西はウクライナ、東は台湾-アメリカの2番手たたきの標的となった中国(2021年12月13日)」と述べたように、アメリカにとって主敵は中国であり、ロシアではありません。

さらに、93歳になるアメリカの言語学者・哲学者のノーム・チョムスキーは、大意、つぎのように述べています。「私たちに残されているのは、好むと好まざるとにかかわらずプーチンに逃げ道を与える〝不愉快な選択〟しかない、すなわち侵略者プーチンには〝罰〟ではなく、なんらかの〝手土産〟を与えるのです。さもなくば、終末戦争が起きる可能性が高まります。窮地に追い込まれたクマが、断末魔の叫びをあげるのを眺めるのは、さぞ溜飲がさがるでしょう。しかし賢明な選択とは言えません。」(『ウクライナの未来 プーチンの運命』クーリエ・ジャポン編)

ソロスはプーチンの「打倒・根絶」を、キッシンジャーとチョムスキーは「懐柔と共存」を主張しています。

 

 水に落ちた犬は打つべきか?

ここで私が思い出すのは魯迅が評論「『フェアプレイ』はまだ早い」(1925年12月29日)(https://note.com/monolith9000/n/na63b0bbbd26b)で書いた「水に落ちた犬は大いに打つべし」という考えです。魯迅のこの言葉は制裁に苦しむプーチンやターリバーンのような暴力的な権力者についてではなく、そのような強権的反動的支配者に媚びへつらう評論家や知識人を批判した言葉ですが、比喩として分かりやすいので利用させていただきます。
魯迅は、論の対象とする水に落ちた犬には3種類ある、といいます。①自分で足を滑らせて落ちた犬、②他人が打ち落とした犬、③自分が打ち落とした犬の3種類です。魯迅は、その犬がもし「人を咬む犬なら、たとい岸にいようとも、あるいは水中にいようとも、すべて打つべし」と結論づけます。つまり、温情をかけて助けると陸に上がったときにまた人を咬むからです。中国4000年の歴史は食うか食われるか大量虐殺の戦乱と生きるか死ぬかの厳しい政争の歴史でもありました。

自分で足を滑らせてオウンゴールしたプーチンや、相いれない思想や性情を持つターリバーンであれば、陸にあげぬよう打つべきなのでしょう。ウクライナの人びとは、プーチンのウクライナ侵略を勝利させれば次には周辺国を犯す、と警告を発しています。ターリバーンに抵抗するアフガンの人びとも同じ思いでしょう。

魯迅は支配者の本質は「恩すら仇で返す」ところにあり、その本質を正確に把握することなしに「公正」や「中庸」を受け入れるならとんでもない報復を受けるであろう、まず敵の本質を見抜かなければならない、とまで述べています。ユーラシア大陸での闘争は激しく、虐げられるか殺されるか逃避するしかありませんでした。

 

 解決法はないのか 

第2次世界大戦後、近隣の朝鮮半島やベトナムでの戦争に巻き込まれず、逆にふたつの戦争特需で肥え太り平和の恩恵に浴した戦後の日本人には、大陸の激しい民族戦争、政治闘争、階級闘争は理解しがたいかもしれません。しかし、ほんの150年くらい前には、日本にも戊辰戦争という「水に落ちた犬」を徹底的に叩きのめした「なくてもよい」戦争がありました。西郷隆盛ら「不平士族」を叩きのめした西南戦争もそうだったかもしれません。力で政権を奪取した薩長勢力にとって、「人を咬むかもしれない犬」を野に放しておくわけにはいかなかったのです。

そのような日本ですが、『ウエッブ・アフガン』読者の中楯健二さんが貴重な意見を寄せてくれました。「読者の声」に掲載した『「強権国家」と「村八分」考』です。

中楯さんは、共同体の決定に従わない者を「村八分」する制度でも例外として「火事」と「葬儀」の二分だけは制裁からはずした史実を指摘して、その制度ないし考え方はターリバーンのような「強権政権」を国際社会に参加させる方途において有効ではないか、と考察しています。その全文は「読者の声」欄でお読みいただきたいが、適切な指摘だと気づかされました。(ぜひここをクリックして全文をお読みください。

「村八分」というとネガティブな印象しか持っていなかったのですが、共同体運営のシステムとしての合理性がありそうです。日本列島はユーラシア大陸の東の端、石川啄木によれば「東海の小島」です。その先は太平洋という大海原で、災害に会ったりケンカに負けて逃げだそうとしても溺れて死ぬしかありません。恐らく細長いがけっぷちの小島の列島にたどりついた祖先たちは、大陸の激しい騒乱に巻き込まれボートピープルとなって流れ着いたり、あるいは政争に敗れて逃げてきた人びとだったのかもしれません。そのような人びとにとっては大陸でのような激しい争闘を繰り広げる余地はこの小島にはありませんでした。災害多発する厳しい自然の中で肩を寄せ合って生きていくための知恵が独特の共同体論理を生んだのかもしれません。そう考えると、「村八分」はむしろポジティブな合理的なシステムだったともいえるのではないでしょうか。

自業自得とはいえ、国際社会で村八分にされているターリバーンに対して、武装抵抗しているアフガニスタン人でさえ、実は、ターリバーンの排除を要求しているわけではありません。国民を統合する包摂的な政府、民主的な選挙、人権の擁護など近代社会を構成する正当な要求をかかげているだけなのです。

「国の安定に役立とうと思うなら、ターリバーンは政党に変身すべき」(https://afghan.caravan.net/2022/05/27/sakhi-khalid/)のなかで、筆者(アフガン人)は、「ターリバーン、ムジャヒディーン、左翼政党の残党、民族指導者など、現在の混沌とした状況の原因となっているすべての人びとがアフガニスタンの矛盾した現実の一部であることを知っており、一方を排除したり他方を飲み込んだりすることが答えではないことを知っている。つまり、異なる集団の寛容と協力が唯一の解決策なのだ」と主張しています。

ウクライナ問題も、アフガン問題と同じように、複雑な歴史問題や民族問題を抱えています。実際的にはウクライナ人の思惑を超えて、局地的地方的な争いから国際問題に発展しています。まるでデュアランド・ラインという準国境問題を内包し外国軍を引き入れて混乱したアフガン戦争と類似の構造下に置かれています。外部からあれこれと論評され介入され、内部の対立を反映して外部に争いが波及する点も同じです。

このような時にこそ、紛争当事者の要求に寄り添いながら、人類が世界中で試みてきたコミュニティ形成の努力、多文化共生の知恵創造の歴史に学んでもいいのではないでしょうか。

野口壽一

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~031

(2022年05月30日)

 岐路に立つターリバーン 

 国民生活の側に立つのか、独善的教義を固守するのか  

 

KHAAMA PRESS(2010年にカーブルに設立された独立系のオンラインニュースサービス)によれば、2022年5月17日、トルコのアンカラにターリバーンに反対するアフガニスタンの国外在住の著名人士が集まり、アフガニスタンの現在の苦境に対する解決策に焦点を合わせ協議を行ったという。

それは、ターリバーンがカーブルを占拠してから9カ月を経てなされた、国内でのさまざまな動きと呼応するエポックメーキングな取り組みなのか、調べてみた。KHAAMA PRESSがBBCの報道にもとづいてリストアップした、アンカラ会議の主な参加者は下記の通りであった。(カッコ内の注は野口による)

アブドゥル・ラブ・ラスル・サイヤフ(1944年生まれ、パシュトゥーン人。ソ連のアフガン侵攻時、元アフガニスタン・ムジャーヒディーン・イスラム同盟議長、サウジアラビアから財政支援を受け、オサマ・ビン・ラーディンをアフガニスタンに招き、数々のテロ活動を共同で実施。反ターリバーンだが思想的・宗教的にはターリバーンと同類。生粋の過激極端派で現在までアムネスティより追及を受けている。)
サラフディン・ラッバーニ(1971年生まれ、パシュトゥーン人。生粋のムジャヒディーン組織ジャミアテ・イスラミの指導者で1992年6月にアフガニスタン・イスラーム国の大統領に就任したブルハヌディン・ラッバーニーの息子。父が暗殺された後ジャミアテ・イスラミの党首に。2012年アメリカ占領時にアフガニスタン高平和評議会議長、外相などを務める。)
アブドゥル・ラシッド・ドスタム(1954年生まれ、ウズベク人。元アフガニスタン人民民主党パルチャム派所属の軍人。ナジブラ―政権崩壊の立役者でその後ムジャヒディーン、なかでもグルブッディーン・ヘクマティヤールと共同。ターリバーンに追われてトルコに亡命していたがアメリカ軍のアフガン侵攻に伴い北部同盟司令官として帰国。大統領選にも立候補したが当選せず第一副首相として政権に参画。ウズベク人主体の政党イスラム民族運動の元党首。Wikipediaによれば「数々の戦争犯罪や極めて残虐な行為、変節を繰り返したり、政敵に対する拷問、レイプを企ててきたとして悪名高い」)
モハマド・モハキク(1955年バルフ生まれのハザラ人、人民イスラム統一党の創設者兼議長。ソ連侵攻時はムジャヒディーンとして活動。北部同盟をへてカルザイ政権で副大統領。)
モハマド・ユーニス・カヌーニ(1957年パンジシール渓谷生まれのタジク人ムジャヒディーン。マスードの弟子。北部同盟のマスード暗殺後、アメリカ占領下でファヒム国防相、アブドゥラ外相らとのトリオで北部同盟の財源を事実上支配。元国家代表セキュリティ、元副大統領、新アフガニスタン党指導者)
モハマド・カリム・ハリリ(1949年ワルダック州生まれのハザーラ人、1978年のPDPAクーデター後、抵抗組織「ナスル」で活動し、1981年テヘランの「ナスル」の中央事務所所長。1989年、イスラム統一党( HEZB-E-WAHDAT)が設立されると中央議会に参画。1994年、同党党首。カルザイ政権下で第二副大統領)
アフマド・ワリ・マソウド(1964年生まれ、アフマド・シャー・マソウドの弟。タジク人。マソウド財団の創設者兼議長。元ロンドン駐在アフガニスタン大使)
アブドゥル・ハディ・アルガンディワル(1952年、カーブル生まれ、ヒズベ・イスラミ・ヘクマティアル派のムジャヒディーン、カルザイ政権下で財務大臣)
アタ・モハマド・ヌール(1965年生まれ、タジク人。元イスラム協会所属のムジャヒディーン司令官。アメリカ占領下でバルフ州知事。州内で独占的な権勢をふるい反対派からは腐敗した権力とみなされていた。)

 

 栄光か、それとも汚名か 

 

ブルハヌディン・ラッバーニーの息子サラフディン・ラッバーニを除き、他はすべてソ連軍駐留時代からの筋金入り。さまざまな民族・部族・集団・宗派。今はすべて国内を出て亡命生活を送っている古つわものばかり。今回、アフガン国内で進行中の衝突と人びとの苦しみを、ターリバーンと交渉して終わらせるために国民抵抗戦線高等評議会(National Resistance Front High Council)を結成したと報じられている。

国外で開かれたこのアンカラ会議に対してアフガン人がどういう感想を示すのか、何人かのアフガン人の友人・知人にメールで意見を聞いた。しかし芳しい反応はえられなかった。むしろ否定的な反応が多かった。では、アフガン現地で武器をもって戦っている人びとの反応はどうなのか調べてみた。すると、アフガニスタン北部に位置し国民抵抗戦線の本拠地となっているパンジシール州に隣接するバグラーン州の各地でレジスタンスを戦っている国民抵抗戦線部隊による共同声明が、KHAAMA PRESSと同じくカーブルを拠点とする日刊紙の電子版(Hasht e Subh Daily)に掲載されているのを発見した。その記事は本サイトの「アフガンの声」コーナーでも紹介したが、「ターリバーンに慈悲を乞うのではなく戦場で戦うべき」と予想以上に厳しいものであった。

では、国内でターリバーンと武力で対決をつづけている勢力にとって、古くからの反ターリバーン勢力はどうみなされているのか。興味深い論説が、その「hasht e Subh Daily」に掲載されていた。それを読めばアンカラ会議批判者の見解をより深く理解できるように思う。「hasht e Subh Daily」はアフガニスタン現地で日々ターリバーンの暴虐に屈せず活動するジャーナルであるから。対象とする論説は「失敗した政治家がアフガニスタンを救えるのか?」と題されている。

 

 アンカラに集まった政治指導者こそが混沌の原因 

 

アンカラ会議参加者への不信感がつぎのように表明される。
アンカラでの政治指導者の集まりはターリバーンを排除するための希望の窓のひとつである。ターリバーンの全体主義的独占的支配は、その反市民的・反人権的政策によって人びとの生活を耐え難く苛立たしいものにしており、ターリバーンに対するいかなる動きも、解決と救済への希望につながる。だが、アンカラに集まった指導者たちのなかの汚職や横領で告発された人びとへの記憶、また、彼らへの失われた信頼を容易に回復できない深いフラストレーションを生んでいる

わたしの知り合いのアフガン人らとほとんど同じ意見である。論説は、その一般的な評価の上に、参加者の経歴を踏まえてもう一段分析を進める。

もちろん、アフガン国民は、ターリバーンムジャヒディーン左翼政党の残党民族指導者など、現在の混沌とした状況の原因となっているすべての人びとがアフガニスタンの矛盾した現実の一部であることを知っており、一方を排除したり他方を飲み込んだりすることが答えではないことを知っている。つまり、異なる集団の寛容と協力が唯一の解決策なのだ。

論説は、ターリバーンをふくむこれまでのアフガニスタンの全勢力が現在のアフガニスタンの混沌の原因である、と断じている。「矛盾した現実の一部」という表現は、彼らが混沌の原因を生み出した、と指摘すると同時に、その矛盾した混沌がアフガニスタンそのものであると認識している。そしてそれらどの勢力、潮流も排除できるものではない、と言い切っている。これら「異なる集団の寛容と協力が唯一の解決策」であるのだが、その解決策を実施するにはアフガニスタンの宿痾ともいうべき病根を絶つ必要がある。それを論説はつぎのように論ずる。

しかし過去100年間、破滅的な権力闘争が問題の根源にあることに人びとは気づいている。なぜなら、政治集団が掲げた最高の目標は、権力の中心であるカーブルの征服だったからだ。今こそ、この血生臭い、完全に間違った方程式を捨て去る時である。

この「100年」という指摘はじつに意味深い認識だ。それは、よく言われるソ連侵攻後の「40年以上の戦乱」ではなく「100年」だからだ。100年さかのぼれば、アフガニスタンが独立した1919年に行き着く。それ以前もそれからもアフガニスタンは王政から共和制へうつりイスラム共和国やイスラム首長国などへの権力闘争がつづく、論説は、現在の混乱をその「権力闘争」の延長としてとらえている。

権力闘争は民主的な権力への参加に置き換えられなければならない。その方法は、参加資格を城塞ではなく、村、都市、州、地区に分散させることである。民主主義国家というような象徴的で力のない機関では、誰も魅惑されないだろう。人民の権力への参加とは、マフィアの一団に参加することではなく、人民の投票を権力の主柱、正統性の基本的根拠、運命の真の決定要因として推進することである。そのためには、大統領制から議会制に変えるだけでは不十分で、すべてのレベルで役人が選挙で選ばれることが必要である。その選択は、民族主義的なアプローチでもイデオロギー的なスローガンでもなく、人びとの生活の向上を目指したプログラムに基づくものでなければならない。これこそが、アフガニスタンを支配している狂気のような権力という魔力を断ち切り、誰もが血を流さないですむようにする方法である。

つまり、論説は、ソ連やアメリカ・NATOなど外国勢力の介入・介在を混乱の原因(少なくとも主因)ではなく、アフガニスタン国内の権力争いが、カーブルをめぐる「城取り合戦」であったと喝破しているのだ。じっさい、アフガニスタンは、これまで通常の国民国家として成立したことはなくカーブル権力(それが王政であれPDPA支配であれムジャヒディーン政権であれターリバーン支配であれ)と地方権力(民族部族権力)の共存体制であったことを念頭に置いている。カーブル支配もタジク人の極めて短い2回を除けばアフガニスタンの始まりから今日までそのほとんどをパシュトゥーン人が独占してきたのであり、「城取合戦」もパシュトゥーン人の中の有力部族ドゥラーニー族とギルザイ族らが争ってきたのである。アフガニスタンでは、政治社会体制だけでなく国家の基本である税制ですら満足に確立したことがなく、とくにアメリカ占領の20年間には国家財政の半分以上を外国からの支援金にたより、国内で生み出される資金で国家運営がなされたわけではなかったのである。

 

 いまこそ新しいシステムの基礎を築く時 

 

論説は、結論を次のように述べる。

アフガニスタンが歴史的な行き詰まりに陥り、ターリバーンの指導者が適切なシステムを確立する能力を持たない今、危機を終わらせ、持続可能な平和と安定の始まりを保証する新しいシステムの基礎を築く時だ。

ターリバーンの指導者が適切なシステムを確立する能力を持たない今」とは、実は、「100年間」適切なシステムをアフガニスタンは持っていなかった、と論説の筆者は考えている。つまり、冒頭で取り上げた「ターリバーン、ムジャヒディーン、左翼政党の残党、民族指導者など」をもアフガニスタン人の一部としてとりこみ、選挙でえらばれる「村、都市、州、地区」の代表、同じく選挙で選んだすべてのレベルの役人などからなる、国民全体を包摂するシステムが必要とされている、と提案しているのである。

アフガニスタンには、アメリカ占領の20年の間に、この「hasht e Subh Daily」や「KHAAMA PRESS」や「TOLO TV」などの独立系の民主的なジャーナリズムが育ってきている。ターリバーンはジャーナリストの自由な取材活動や報道を弾圧しようとしているが、育ってきて現地で踏みとどまって活動しているジャーナリストたちが確実に存在している。その背後には、街頭に出て声をあげる人びと、銃を持って抵抗する人びと、表に出なくても自宅で密かに少女たちに教育をさずける活動をする人びと、生き抜くための日常の生活のために闘う人びとが、まごうことなくアフガニスタンには存在している。

 

 ターリバーンは政党化すべし 

 

この論説をさらにもう一歩進めた主張が「hasht e Subh Daily」に掲載されている。サキ・ハリド氏の「国の安定に役立とうと思うなら、ターリバーンは政党に変身すべき」、である。全文は「アフガンの声」に翻訳掲載しておいたのでそれを読んでいただくとして、サキ・ハリド氏の核心をついた、ターリバーンへの提言を紹介しておこう。ターリバーンがこのようなアフガニスタンの理性ともいうべき論を一顧だにせず、暴力支配を止めない限り、暴力そのものによって滅ぼされる運命にあるのではないだろうか。サキ・ハリド氏はターリバーンへの処方箋を次のように書いている。
戦争集団を、理性で人びとを納得させるような政党に変えるのは、長期にわたるプロセスだが、不可能ではない。その他のグループはこの変化を歓迎し、彼らと協力して、そのような努力と変化のための環境を可能にする義務がある。市民組織は、社会的、保健的、医療的サービスを提供することによって、再生と再建のプロセスに参加しなければならない。戦闘員を雇用し、労働市場に引きつけるための特別な措置を講じるとともに、社会的・市民的行動を訓練して、徐々に自尊心を高め、人間社会に統合する方向に導かなければならない。

ターリバーン戦闘員の正確な人数は不明だが、アメリカ占領下では約8万人と言われていた。外国軍が撤退した今、ターリバーン指導部は国民の前に自分たちの構成員を食わせなければならない。サキ・ハリド氏は、その「戦闘員の雇用」まで考えている。

千何百年も前の戒律や部族の偏屈なしきたりを固守する姿勢では、国民すべての生活を保障するどころか8万人の戦闘員の生活すら保障できないだろう。社会を破壊する自爆テロと暴力で「ジハード」を達成したターリバーンは、社会建設と国家運営のできる集団に変身できなければ、遅かれ早かれ破綻せざるをえない瀬戸際に、いま、立たされている。

野口壽一

 

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昨年、ターリバーンのカーブル占拠以前から『ウエッブ・アフガン』はさまざまな提言を掲載してきたが、ターリバーン復帰以前に書かれたつぎの論稿は現状を理解するうえでとくに参考になる。

今こそ連邦制を真剣に!(S.A.ケシュトマンド、F.サミ:論説:2021年4月10日:アフガニスタンの恒久的平和は連邦制の実現でこそ可能)

侵略、抵抗、国民の終わりなき受難(A.H.ムータット:論説:2021年4月30日:民主共和国の経験から米軍撤退とタリバンの将来を占う。タリバンは立場を変更して停戦・選挙を受け入れよ)

● 内戦がアフガニスタンに迫っている(F.サミ:論説:2021年7月12日:露中印イランへの拡大が仕組まれた終わりなき戦争)

 

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~030

(2022年05月16日)

 周辺地域のトラブルメーカーとなったターリバーン 

 迷惑をこうむるイランと育ての親パキスタンの苦悩 

 


アフガニスタンのストリートアーティスト、ミラドモハマディの作品
NIKKEI Asia より

 

 

 部族的偏狭と宗教的異端 

先号「視点」(2022年04月25日)ではターリバーンの四苦八苦を十項目にまとめました。そこから見えてきたのは、アフガン情勢は予想以上に流動化と悪化のスピードを速めており、国民の抵抗は新しいステージを迎えようとしている事実でした。

十項目は大きくふたつに区分できます。ターリバーンにとっての内憂と外患です。
内憂はアフガン国民のチャレンジ(抵抗)であり、外患は国際社会や周辺諸国との紛争です。

ターリバーンが政権を取れば、テロ犯人らが政権をとるのだから、治安は少なくとも以前の政府のときよりは良くなるだろうという見方もあったのですが、あにはからんや、国内では自爆テロや武力紛争やターリバーンの内紛が激化し、周辺諸国との衝突さえ発生し、内外ともにターリバーンはトラブルメーカーとなるにいたりました。

そんなターリバーンの、今回は外患、そのなかでもイラン・パキスタンとの矛盾対立の激化についてみてみます。

アフガニスタンは言語や文化の異なる十以上の民族が共存混住する山岳と土漠の国です。民族構成の多様性と国土の自然的分断が国民的一体性の実現を難しくしています。国家を形成するもっとも重要な要素である国境自体、英国とロシアおよび周辺諸国の都合と力関係によって人為的につくられた歴史と現実があります。ウクライナも同じような事情を抱えています。国民的共通性はなにかと思案するに、かろうじて言葉の共通性(ダリー語)と宗教の共通性のふたつだけが残る、といっても過言ではない、ひとつにまとまるには厳しい現実があります。

共通言語であるダリー語は基本的にペルシャ語です。アフガニスタンがペルシャ(イラン)との共通の歴史のうえになりたってきた名残でもあります。また宗教はスンニ派とシーア派(少数派)の違いはあってもイスラームで共通です。民族的少数派であるハザラ族は宗教的にも少数派のシーア派に属しますが、ターリバーン登場以前は民族差別は受けていてもアフガン人として共存していました。

しかし基本的にパシュトゥーン族の宗教集団であるターリバーンはイスラームの極端な異端的解釈とパシュトーン族の中世的固陋な習癖をアフガニスタン全体に押し付けようとしています。アフガニスタンの国内および周辺諸国との対立および混乱惹起の根本矛盾はここにあります。

この根本矛盾がターリバーン復権9か月の間に顕著になってきたといえます。

 イランとの対立の顕在化と激化 

ターリバーンの宗派はスンニ派です。しかも他派に対して偏狭なほど排他的です。アフガニスタンには国民の約1割、300万人ほどの民族的少数派でもあるハザラ族が住んでいます。ハザラ族はシーア派です。ターリバーンはハザラ族に対して民族差別と宗派差別をターリバーン結成当初から一貫して加えてきました。ジェノサイド的虐待といってもいいほどの苛烈な攻撃です。特に最近、ターリバンの一部とも言うべきISKPからの爆破テロは過酷です。イランはシーア派の大国ですから隣国での同一宗派への弾圧や攻撃を見過ごすわけにいきません。そこで、ターリバーンとはターリバーンが権力の座にいるときもそうでないときもいざこざが絶えませんでした。

昨年8月のターリバーン復権以降、両国間の対立が激化するとともに最近は国家間の武力衝突にまで発展してきました。

最近の例を挙げてみましょう。

(1)ターリバーンは文化的価値観の破壊と、アフガニスタンの人口の90%を占める主要言語であるペルシア語—ダリー語の撲滅に熱中しています。書籍市場からのペルシャ語出版物の排除、焚書などです。その一端は、本サイトの「米国アフガン占領20年の失敗―その原因<5>」(Fateh Sami)が詳細にレポートしています。
(https://afghan.caravan.net/2021/12/10/米国アフガン占領20年の失敗―その原因<5>/)

(2)ターリバーンは今年(2022年3月)、伝統的祝祭行事であるノウルーズを公式行事から外し禁止しました。ノウルーズ祭は、二千数百年さかのぼる新旧正月の祝祭にあたる伝統行事。暦の上では太陽が春分点を通過する春分の日で、農事暦上重要。春の訪れを祝って晴れ着を着、祭壇にはご馳走や果物を飾り、親類や友人の家を挨拶して回ったりします。アフガニスタンでは郊外にでかけ歌や音楽や踊り、凧揚げやレスリングなどの娯楽を楽しみます。イランを中心に、パキスタン、中央アジア全域、トルコ、アゼルバイジャンからアフリカに及ぶ広い地域で祝われています。ターリバーンはノウルーズがイラン起源であるとの理由で国の行事から排除しました。

(3)2022年4月1日、ターリバーンは民間テレビ(タマドンTV)でイランのテレビ番組を放送することを禁止しました。

(4)2022年4月23日、ヘラート近郊のアフガニスタンとイランの国境で衝突、イスラム・カラ国境を閉鎖しました。イスラム・カラ国境でターリバーンが行っていた建設作業を停止させようとしたイラン国境警備隊とターリバーンとの間で衝突が発生。ターリバーンはイラン軍の車両と武器を押収したがイラン軍はそれを奪い返そうとして国境が閉鎖されました。ターリバーン国境軍とイラン国境軍が交戦するのはこれが2回目。

(5)2022年4月25日、イラン外務省は正式に次のような表明を発表しました。「ターリバーン政権はアフガニスタン市民、特に少数派であるシーア派ハザラ市民の安全を守っていない。イランはテロリストグループ、とくにISKPとの戦いで主導権を発揮する」と。さらに、イランはテロリストグループとの戦いの経験をターリバーン政権と共有する準備ができているとも述べて、関係断絶はさけています。このようなイランの姿勢の背景には、カーブルを含む多くの州で最近、爆破事件が頻発し数十人が殺害され負傷している現実があります。自爆攻撃は、特にハザラ・シーア派市民を標的にしています。

武力衝突にまで発展したイランとの関係を、本サイトのFateh Sami氏はつぎのように断じています。

・ターリバーンは恐怖を拡散し危機的状況を継続させることによって生き延びようとしている。
・アフガニスタンは地域の安全を脅かすテロリストの安住の地となっている。

その事実を、Sami氏は、イラン人のアブドゥル・モハマド・タヘリ博士へのインタビューで明らかにしています。タヘリ氏は、ターリバン再登場までイラン外務省からアフガニスタン教育省に派遣され何年もアフガニスタンに常駐してアフガニスタンの教育改革についてアドバイスを行った文化顧問でした。

Sami氏によれば、ターリバーンが政権を取れば、少なくとも以前の政府よりは治安が良くなるだろうという見方もあったが、逆にアフガニスタンにおける不安の拡大が、近隣諸国や地域全体に波及しています。特に、イランの東側国境には、他の近隣諸国よりも不安が広がる可能性が高くなる恐れさえあります。

この問題は、政治、メディア、国内の専門家たちに多くの懸念を抱かせています。特にここ数日、イランとターリバーン政権との間の紛争と国境線の緊張が目撃されています。その緊張は、イラン東部国境に軍隊が派遣されるまでに至りました。一方、イランではターリバーン代表を三等書記官レベルで受け入れるという噂もあります。それはイランイスラム国がターリバーン首長国を正式に受け入れることを示すものです。このようなターリバーンとテヘランの複雑で矛盾した安全保障と外交状況において重要な問題は、両国の関係継続が今後可能であるかどうかである、とタヘリ氏はみています。

 

 ますます地域のトラブルメーカーとなるターリバーン 

結論から言うと、アフガン・ターリバーンは昨年カーブルに再登場してから9か月をへて、西のイランのみならず、東のパキスタンとの対立を深め武力衝突を繰り返すまでになっています。

本サイト「トピックス」欄の「Hasht-e-Subh(ハシュテ・スブ)にみるアフガンの3週間―1、2」を見ていただければ、この4、5月の間にデュアランド・ラインを挟んだ小競り合いのみならず、パキスタン軍機がホースト州やクナル州で大掛かりな空爆を行い数十人の民間人死者を出す大事件にまで発展しているのです(4月16日)。
ところが、この空爆事件の2日前には「パキスタン北西部の北ワジリスタン地区で、パキスタン軍の車列が襲撃され7名が死亡する事件(4月14日)が発生しています。パキスタン軍側は、自国の安全保障上の脅威であるTTPなどのテロ組織が、アフガニスタン領内に潜伏していると見做し」(本サイト「トピックス」欄、中東かわら版「№10 アフガニスタン:パキスタン軍機の越境攻撃で多数の市民が死傷」)その報復に空爆したというわけです。
TTPとは、Tehrik-e Taliban Pakistanの略で、いわゆるパキスタンのターリバーンです。組織的には別組織ですが、アフガニスタンのターリバーンと同じパキスタンのマドラサ(イスラームの学校)で同時期に生まれた双子の兄弟です。
アフガン国内でハザラ族にジェノサイド的自爆攻撃を繰り返すのはISKP(Islamic State – Khorasan Province:イスラム国ホラサン州)で、自分たちではないとターリバーンは言っていますが、じつは、ISKPもTTPも(アル=カーイダも)パキスタンとアフガニスタンの両国内でジハードと称してアメリカなどの外国軍を追い出すために民間人を巻き込む自爆テロを繰り返してきた一体化した仲間同士なのです。TTPもISKPもアル=カーイダもアフガニスタン・ターリバーンと同じようにシャリーア法にもとづくイスラム国家の樹立を目標にしています。TTPはパキスタンをアル=カーイダは全世界をそのターゲットにする、同盟組織なのです。

パキスタンでは、2022年4月10日、議会での不信任によりカーン首相が失職しました。翌11日、野党連合を率いてカーン首相を退陣させた最大野党「パキスタン・ムスリム連盟ナワズ・シャリフ派(PML-N)のシャバズ・シャリフ党首が新首相となりました。カーン前首相は、「自分を排除しようとするアメリカ主導の陰謀がある」と、根拠を示さないまま主張をつづけ、現在もパキスタン正義運動(PTI)の党首として新政権批判を続けています。5月14日には「政権を譲り渡すより、パキスタンに原爆を落とした方がましだった」(イスラマバード共同)と過激な発言をしています。

カーン前首相はターリバーンを全面支援し、ターリバーンを国際承認させるために陰に陽に奔走した人物です。アフガン・ターリバーンも、パキスタン・ターリバーンTTPもアル=カーイダも、恩義を感じているかどうかは知りませんが、現パキスタン政権を非難し反政府運動を展開しているカーン前首相とは仲間であることに違いはありません。

これまで、パキスタンを聖地としてアフガニスタンで闘っていたイスラームテロリストが今度はアフガニスタンを聖地および出撃基地としてパキスタンで国家転覆のテロ活動を展開するようになっているのです。自分の体の血や肉であるこれらのイスラーム原理主義極端派を果たしてアフガニスタンのターリバーンが、統制できるでしょうか。はなはだ疑問と言わざるをえません。これについては本サイトの「研究/批評/提言」欄の「アフガニスタン、パキスタンの双子のターリバーン問題」(Asfandyar Mir、Ph.D.著)もご参照ください。

最後に、パキスタンでは、バローチ族の解放組織であるバルーチスタン解放軍(BLA)も活動を活発化させています。これまでもパキスタンでの独立運動のみならず中国の「一帯一路」に反対する闘争を続けてきていましたが、4月26日には、カラチで中国人3人を含む孔子学園の関係者4人を殺害する自爆攻撃を行っています。しかもこの自爆犯は子供のいる女性でした。昨年7月には同じく中国人技術者9人が死亡する爆破事件がありました。両事件ともBLAが犯行声明を出しています。BLAもパキスタンの軍部やアメリカが育てた組織でもあります。
バローチ族はアフガニスタン国内にも存在しており、アフガニスタンではパシュトゥーン族とならんでその独立を支援する「パシュトニスタン・バルーチデー」という祝賀行事がPDPA(アフガニスタン人民民主党)の時代から祝われています。

いまやターリバーンを育てたパキスタンや反米意識でジハードを支援してきたイランは、そのしっぺ返しをくらいつつあり、ターリバーンの存在が周辺地域の不安定化の要因になっている、といえるのではないでしょうか。

アフガン・ターリバーンやバルーチ族もアフガニスタンの構成員です。彼らを抹消することによってアフガン問題(実はパシュトゥーン問題)を解決したり、より良き未来を作り出すことができないのは自明の理です。気が遠くなるような時間がかかるかもしれませんが、彼らを〝変える〟ないし彼らが変わる以外に本当の解決はありません。ソ連もアメリカもNATOもいなくなった今こそ、そこに住む民衆自身により、アフガニスタンとパキスタンの両国を視野に入れた変革進歩発展の努力が求められているのではないでしょうか。

 

野口壽一

 

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~029

(2022年04月25日)

 ターリバーンを襲う四苦八苦 

 Hasht-e-Subh(ハシュテ・スブ)にみるアフガンの3週間から 

 

アフガニスタンの独立系日刊オンラインニュース:Hasht-e-Subh(ハシュテ・スブ)の4月1日からの3週間の報道から気になる事件をピックアップしてアフガニスタンの現状の一端を見てみた。(トピックス欄参照)。この間、マスメディアの目はすべてロシアのウクライナ侵攻に奪われ、アフガニスタンはほとんど忘れ去られてしまった感があった。

記事を一覧してわかったのは、アフガン情勢が予想以上に流動化と悪化のスピードを速め、国民の抵抗も新しいステージを迎えようとしていること 、である。米英などによる海外金融資産凍結やターリバーン自体の暴力的専制政治と行政無能からくる飢餓や生活苦に、アフガン国民は呻吟するだけでなく、ターリバーンに対する抵抗を全国的に強めつつある。それはターリバーンが苦境に追い込まれている実態でもある。それらの事象を列挙するとつぎのようになる。

①国民抵抗戦線(NRF)やそのほかの武力反対派の活動開始と活発化
②ISKPやISISのテロ活動の頻発化
③ターリバーン内の武力衝突の発生
④パキスタン・ターリバーン運動(TTP)の活動活発化、それによるパキスタン政府との対立
⑤デュアランド・ライン紛争でのパキスタンとの衝突
⑥国内矛盾の激化(女性の教育問題、ジャーナリスト・文化人弾圧、ペルシャ文化弾圧、ハザラ・シーア派民族浄化、等々)
⑦海外金融資産凍結による資金不足
⑧国際社会からの国家承認ゼロ
⑨国民を統合し包摂する政府の組織化要求
⑩イスラーム学者からのターリバーン批判、など。

四苦八苦どころか、この3週間をみただけでも、整理に困るほどの数である。ターリバーンの前途は極めて多難だ。これを乗り切るには、ターリバーン単独の専制支配の強化では絶対に無理だ。アフガニスタン国民の一致団結した力が絶対的に必要だ。しかし、アフガン国民だけの努力でも真の解決は無理で、国際社会からの支援がなければ、解決することのできない重い課題である。ターリバーンが政権に残ろうとするなら、偏狭なイスラーム解釈とパシュトゥーン・ワリ(部族の掟)の頑迷固陋から脱却して、アフガニスタン国民の声を聞きあらゆる民族・部族・階層を包摂する政権の一員となりうる力量をつけていくしかないであろう。

各事象を、事実に基づいて瞥見してみよう。(以下、カッコ内の日付は、ピックアップした記事の日付。ピックアップされていない同類の事件はほかにも多数存在している。)

 

 ① 国民抵抗戦線(NRF)やそのほかの武力反対派の活動開始

NRFとは、National Resisatance Front(国民抵抗戦線)のことで、アフマド・シャー・マスードの息子アフマド・マスードをリーダーとする武装抵抗組織である。昨年8月15日のターリバーンのカーブル占拠以降、地元のパンジシールを拠点に活動をつづけている。第1次ターリバーン時代にも、最後までターリバーンの支配をはねのけ、全国制覇を許さなかったのが、パンジシール州だった。今回ターリバーンはパンジシールも支配下に置いたと主張しているが、NRF完全制覇されることなく生き延び、現在では他の州にも活動を拡大している。また、NRF以外にもAFF(アフガニスタン自由戦線)やNLF(National Liberation Front:国民解放戦線)などターリバーンに武装抵抗を試みる組織がいくつも生まれている。特筆すべきは、「実行者名称不明」のターリバーンに対する襲撃事件やターリバーン内部の武力衝突事件がいくつも起きていることである。今後武装抵抗運動は拡大していくだろう(4月1日、3日、4日、7日、9日、10日、11日、12日、13日、18日、20日、21日、22日、23日)

 

 ② ISKPやISISのテロ活動の頻発化 

テロの実行犯であったターリバーンの再登場によって、アフガニスタンの治安はよくなると思われていた。しかし皮肉なことに、危惧されていたIS(イスラム国)やISKP(イスラム国ホラーサーン州)やTTP(パキスタンのターリバーン)らのテロ組織の活動が活発化している。その特徴は、一般人や他宗派(特にシーア派、ハザラ族)や女子教育の現場、経済・金融活動の現場などを狙った残忍な攻撃となっている。(1日、3日、6日、7日、19日、22日)

 

 ③ ターリバーン内の武力衝突の発生 

この3週間以内に報道された事件だけで4件。ターリバーンの組織内統制が効かず内部衝突したものもあれば、ターリバーンをかたって民衆への狼藉を働く例も多発し、ターリバーンが取り締まりに乗り出す例もある。いずれにせよ、寄せ集め集団であるターリバーンの内部統制が彼らの課題となっている。(1日、11日、12日、13日)

 

 ④パキスタン・ターリバーン運動(TTP)の活動活発化、それによるパキスタン政府との対立 

TTP(Tehrik-e Taliban Pakistan)はパキスタンの連邦直轄部族地域(FATA)の南ワズィーリスターンを拠点にカイバル・パクトゥンクワ州などアフガニスタン国境地帯で活動するイスラム主義武装組織。ウルドゥー語の意味は「パキスタン学生運動」(Wikipedia)。アフガニスタンのターリバーンがアフガニスタンを掌握したことにより、アフガニスタンを出撃拠点としてパキスタン政府への武装抵抗闘争を行えるようになった。アフガニスタン・ターリバーンにとって親ともいえるパキスタン政府や軍との軋轢が生じている。(12日、16日、17日、18日)

 

 ⑤デュアランド・ライン紛争でのパキスタンとの衝突 

パキスタンはデュアランド・ラインを両国の国境線としたいのだが、ターリバーンはイギリスが定めパシュトゥーン族の居住地域を分断するデュアランド・ラインを認めておらず、双方が本当の理解に達するための大きな障害となっている。パシュトゥーン族はデュアランド・ラインある時は利用しある時は無視するご都合主義の道具として使っている。ターリバーンはイランとも国境付近で衝突事件を起こしている。(12日、17日、23日)

 

 ⑥国内矛盾の激化(女性の教育問題、ジャーナリスト・文化人弾圧、ペルシャ文化弾圧、ハザラ・シーア派民族浄化、地雷問題等々)

これについては改めてここで確認するまでもなく、明白だ。アフガン人はターリバーンの理不尽な暴力的専制に対抗して戦っている。1970年代以降の自由と民主化を求める人びとと旧来固陋の掟を死守する勢力との歴史的な戦いである。目立ったものを拾ってみた。(1日、3日、6日、7日、8日、9日、10日、12日、18日、19日、21日、22日)

 

 ⑦海外金融資産凍結による資金不足 

アメリカは4月12日、アフガニスタン中央銀行の資産のうち日本円にして凍結している8000憶円のうち半分をアフガニスタンの人道支援に、残りのおよそ4000億円の資産について、2001年の同時多発テロ事件の犠牲者の遺族がターリバーンに対して裁判を起こしていることからその賠償に充てる可能性もあるとして、残しておく考えを示している。一方、ターリバーンの報道を担当するナイーム氏は、11日、ツイッターに「アメリカがアフガニスタンの凍結資産を盗み、勝手に使うのは、道徳心が地に落ちていることを示している」と投稿し、アメリカを批判している。(NHK)なお、この期間には3日に「カーブルのアフガニスタン最大の両替所で爆発が発生」という記事がある。この両替市は過去20年間安全だったという。(3日)

 

 ⑧国際社会からの国家承認ゼロ 

アフガニスタンには国連組織が活動を継続しており、若干の国の大使館は活動しているが、まだターリバーン政権を承認している国はない。ターリバーンはパスポートの発行を始めたが、パスポートの国名は、ターリバーンの主張するIEA(Islamic Emirate of Afghanistan:アフガニスタン・イスラム首長国) でなく、従来のアフガニスタン・イスラム共和国を使用している。この期間の記事にはないが、イスラーム諸国会議や中国、ロシア、パキスタンなどとの会議においても「女子教育の実施」や「包摂的政府」の樹立などが要求されている。
(6日、7日、12日、18日、21日)

 

 ⑨国民を統合し包摂する政府の組織化要求 

総選挙の実施や「包摂的政府」の実施などは、アメリカと交わしたドーハ会議でもターリバーンが承認した合意事項なのだがまったく守られていない。ターリバーンは現在の政府構成が「包摂的」かつ「包括的」なものであると主張している。(18日)

 

 ⑩イスラーム学者からのターリバーン批判 

ターリバーン政権の2大特徴は、イスラームに基礎を置くといいながらその解釈が極端でイスラーム社会の常識からもかけ離れている点、および、パシュトゥーン族の頑迷固陋な中世的因習(パシュトゥーン・ワリ)に固執している点である。このふたつには共通点もあるが対立点もあり、ターリバーンにとって矛盾の原点でもある。ターリバーンが権力に執着して居座ろうとすればするほど、このふたつの思想の矛盾によってターリバーンは自縄自縛におちいるのではないだろうか。女性の扱い、シーア派およびハザラ族との関係、アフガンに根づいているペルシャ文化との折り合いをどうつけるか、喫緊の重要課題だ。(1日、3日、6日、7日、8日、12日、19日、21日)

 

以上に述べたターリバーン政権を苦しめているアフガニスタンの経済・社会的諸条件がターリバーンの存在理由=レゾンデートル(イスラーム極端主義、パシュトーン・ワリ)に発するものでないことはいうまでもない。むしろ、現在アフガニスタンが落ち込んでいる困窮状態は人類世界が中世を脱して近世を経る過程で抱えてきた地球規模の発展格差や帝国主義・植民地主義の暗黒の反映そのものなのだ。アフガニスタン地域に住む諸民族はそれぞれの立場からその暗黒を脱して現代にいたろうと独立を果たし努力してきた。その過程で、周辺諸国や先進諸外国からの支援、援助にたよった。その行為は当然であり、正しい行為であったが、諸外国の軍事力に頼ったために、新しい困難を導入してしまった。言うまでもなくソ連および米英の軍事力に対する「ジハード」という「大義」である。宗教的信念やナショナリズムは人を縛る固定観念として強力な力を持つ。1980年代の10年間と2001年~2021年の20年間、合計30年間は、東側・西側と政治的には対極にあったが社会改革や教育など曲りなりにも近代化が実践された期間であった。問題は、ジハードという外国支配排撃の「大義」のまえに「近代化」の要求が押しつぶされたことだった。実はターリバーンもムジャヒディーンも英、米、パキスタン、アラブ諸国などの外国から陰に陽に軍事経済援助を受けてきたのだが、イスラムの大義をかかげる土着勢力の守旧力の方が勝ったといえる。

ターリバーンは〝イスラームの大義〟と〝民族の慣習〟を基本思想として政権奪取し、彼らなりのアフガン社会を構築しようとしている。しかし、世界のイスラーム社会でも部族社会でも、彼ら自身のレゾンデートルは〝反近代〟の宿痾を宿している。

曲がりなりにも30年間の〝近代〟の波を経験し、ターリバーン戦闘員も含めネット社会の洗礼を受けているアフガニスタン社会において、〝反近代の亡霊〟が近代化の波にあらがえるとは思えない。われわれが、米英NATO軍の撤退は、アフガニスタンが「40年前にもどって再出発」しなければならないことを意味し、今度は外国軍の支配というジハードの的のいない環境での〝近代化〟の闘いであり、30年の蓄積が存在する条件下での闘いであり、必ず勝利するにちがいないと主張しているのはそういう意味である。

そもそも、世界が近代化を果たす上での犠牲者であったアフガニスタンのような地球上の地域を助けるのは、環境問題や経済格差をもたらし、それらの地域の犠牲の上に先に近代を築いた諸国の義務である。言ってみれば、先進諸国は、〝発展途上国〟というゴマカシ用語を捨てて言うならば〝後進諸国〟に対する天文学的借金を返済する義務を負っているのである。

 

【野口壽一】

 

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~028

(2022年04月12日)

  <祝> 豪 華 写 真 集 完 成 

   秘められたシルクロード 

 タジク・ソグドの黄金遺宝 

 ― ソグド人パミールから奈良へ ― 

 

玄関フォンが鳴って「宅配便です」。心当たりがない、なんだろう、と思って出たら、ズシリと重い小包。確かにあて名は自分だ。開けてみたら、1年前に協力金を送った、表題の写真集。企画編集から数えれば大野遼さんたちが6年の苦闘の歳月を費やしてついに完成させた、460ページ完全カラー、重量3.5Kgの豪華秘蔵本。

タジク・ソグド人といえば、アフガニスタンから新疆ウイグルをへて奈良へと、仏教と世界文化を伝えたシルクロードをまたにかけて活躍した民族。いまは、平和と進歩を目指すアフガニスタン国民抵抗戦線(NRF)の拠点パンジシール(パンシール、あるいはパンシリ)州を拠点に戦うタジク人のよりどころタジキスタンを形成する民族。

新生児ほどの重さのあるこの写真集。手に取って1ページ1ページめくっていくと、千年2千年が一瞬の夢のように、また、あたかも、東海のちっぽけな小島を飛び立ち火焔山と天山山脈の高みから麓のタクラマカンに降り立ち、目と汗だくの肌にまとわりつく灼熱の砂に苦しんだ後に訪れるタジク山地の緑に癒され、再びヒンズークシュを越えてアフガニスタンを目指す旅の中にいるような、恍惚とした時間を満喫できる。そしてシルクロードを心ゆくまで旅できる日を夢想する

部族の偏狭固陋な因習に縛られた人びとの心をほぐし和ませるためにも、古来から人種や民族や部族を越えた交流がどんなに豊かで色彩にあふれた美しいものであったかを、さらには人間が生み出した現実の楽しく充実した生活であったかを、保存し提示する必要がある。そうすれば真っ黒な布で全身を包みあるいは薄汚れたひげもじゃで〝美しきもの〟を隠し色彩を拒絶し墨色の瘦せこけて干からびたイデオロギーを掲げた白旗がいかに貧相で固守するに足らないものであるかを、理解するに違いない。芳醇な美と歴史の香りを再現し保存することは極めて現実的な戦い なのではないだろうか。

本書のより詳しい情報は下記をご覧ください。購入もできます。

http://eurasianclub.org/

【野口壽一】

 

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~027

(2022年04月12日)

  戦争を禁止する組織と運動が必要 

  駐日ロシア大使の厚顔無恥な発言に驚いて考える

 

あいにく本番のテレビ番組は観ていなかったが、抜粋がネットニュースで送られてきた。唖然とした。TBSが4月9日に放送した報道特集の抜粋である。その抜粋をさらに要約してつぎに示す。

「ああ言えばジョーユー」か『バカの壁』か

金平キャスターがガルージン駐日ロシア大使にインタビューしている。
金平「(ブチャの)虐殺を認めますか」
「認めない。犯罪を犯しているのはゼレンスキー政権だ」
そしてガルージン大使は大使館が編集したという映像を映して説明する。タイトルは「ブチャ市の真実」。そして言う。
「(映像を見ればわかる通り)明らかにウクライナの軍当局による自作自演のでっち上げです」
金平「私たちの仲間とか日本のジャーナリストとが・・・何があったのか現地で住民から聞いているんですよ。遺体も見ましたよ。それが“でっち上げ”だと言うのですか?」
「ロシア軍に殺されたというのはでっち上げです」
金平「でっちあげだとなぜわかるんですか」
「ロシア軍の発表だからです」
金平「私は仲間の取材を信じています」
「どうぞ信じてください。私は信じていません。それだけです」
同大使はつづけて言う。
「ロシアが攻撃しているのは軍事施設だけで、民間施設ではないです」
金平「そんなことない」
「それは金平さんの意見です」
金平「病院とか民間施設が破壊されている現場で実際に目で見て取材してきましたよ」
「ウクライナ軍が学校や病院から一般人、生徒たちを追放して、それを軍事拠点としたからです」
金平「そんなことは無い。入院していた人がたくさん傷ついたり、死亡した人もいましたよ」
「そんなことはありません」
民間人の犠牲について別の記者が聞くと、
「その方々は残念ながらウクライナ政府の無責任な政策の犠牲者です」
記者「手を下しているのはロシアの兵器であり、ロシアの戦車から放たれたミサイル、また巡航ミサイルです」
「それはあなたの主張です。ロシア軍は軍事施設だけを目的にしていて民間の施設を目的としておりません」
ガルージン大使は最後まで民間人の犠牲が出ていることについて責任を認めなかった。そればかりか、日本政府が8人のロシア大使館外交官を追放すると発表したことについて、言うに事欠いて、推定無罪という西側流の民主主義の大原則はどこにいったのかと逆切れする始末。
https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/tbs/world/tbs-6012342

27年前のサリン事件のときの「ああ言えばジョーユー」とか養老孟司先生の『バカの壁』を思い出してしまった。ロシア大使に人間的な理性や感情を求める気はないけれど、これほど厚顔無恥、無能で無慈悲な受け答えをする人間を大使として日本におく国のみじめさを哀れに感じた。

ソ連のアフガン侵攻時の既視感

ソ連・PDPAとムジャヒディーンとの戦闘が激しかった三十数年前(1984年)、六本木から下る途中の狸穴にあったソ連大使館に呼ばれて記録フィルムを観せられたことがある。それは、渓谷の獅子と恐れられていたアフマド・シャー・マスードが拠点としていたパンジシール渓谷を激しい空爆を繰り返し解放したとするドキュメントだった。最後までアフガン国内に残って抵抗していたマスードらをついに追い出した、と。映像ではマスードらが撤退にあたって捕虜に対して行った残酷な扱いを映したと主張していた。清らかに流れる岩だらけの川の岸壁に掘られた横穴に遺体がころがっている。彼らが撤退するときに殺して去ったのだとナレーション。見るに堪えない映像だった。

当時、われわれは「アフガニスタンを知る会」という任意団体をつくり、西側の特に外電と呼ばれる、その実ユダヤ系の巨大メディアの情報をオウム返しする日本マスコミの報道に惑わされず、アフガニスタンの内部でなにが起きているのかを自分たち自身で見て研究し日本に知らしめようと活動していた。その時までに数回にわけて通算何十人もの友好訪問団をアフガニスタンに派遣していた。マスメディアだけでなくフリーのジャーナリストまで、メディアのほとんど全部が反ソ連・反PDPAの渦中にあって、アフガニスタン政府を承認してアフガン国内の状況を見ようとするわれわれは、「ソ連派」とレッテルを貼られていただろう。しかしわれわれが見たかったのは、国と国、東と西、権力と反権力といった上からの視点で状況を切り取り判断する思考方法に逆らってみえる一般民衆の視点からの現実だった。
幸い、アフガニスタン駐日大使ムータット氏はマスードとおなじパンジシール出身であり大使からの独自の情報も得ていた。マスードらと寝食をともにして書かれたドキュメンタリーや写真報道もあった。そこにはパキスタンに逃亡して外国の資金援助を得て国外から武装抵抗運動を試みるムジャヒディーン各派とは異なり、パンジシールの根拠地で解放闘争を行いつつ住民のための生活を生み出そうとするマスードらの戦い(1984年、長倉洋海『峡谷の獅子――司令官マスードとアフガンの戦士たち』朝日新聞出版刊)も知っていた。ソ連もアフガン政府軍もムジャヒディーンもお互いに激しい戦争=殺し合いをしていたのであり、切り取られた現実を事実だと差し出されても、芥川龍之介の作品をもとに製作された映画『羅生門』(黒澤明)が描いたように〝真実〟は目撃者の数だけありうる。

当時われわれはもうひとつ、「戦争プロパガンダ」の危険性も理解していた。アフガニスタン事件の数年前までのベトナム戦争報道を体験していたからだ。そこでは、解放戦争を戦う側も、傀儡政権を押し立てて北と戦うアメリカも、ともに相手が酷い非人間的戦争行為をしたと主張して大規模な〝プロパガンダ合戦〟を繰り広げていた。われわれもその当事者たちの一部だった(実際にはアメリカの戦争犯罪行為がはるかに大きかったのだが。そしてのちにアメリカは一部自らの戦争犯罪を認めるのだが、このことについては別の機会に述べたい)。
そのような経験をしていたわれわれは、アフガニスタンの政府と連携して運動をしていても、戦争プロパガンダには安易に乗らず、あくまでもアフガン人のアフガン人としての苦悩と戦いに注目しようと方針を定め、大使館で見せられた映画の上映や宣伝はしないことにした。その方針のもとで土本典昭監督の『よみがれカレーズ』は何年もかけてやっと完成した。(なぜアフガン政府と合作でこの記録映画をつくるのかについては土本監督からその論理を幾度となく聞いたがその紹介は別の機会に譲る)。

戦争犯罪と戦争そのものをやめさせるには

残虐行為の証拠として映像や写真を突きつけるのは、相手の行為が「犯罪だ」と主張したいためである。ロシア大使がロシアは民間人を殺していないと主張するのは、誤魔化しだろうと屁理屈だろうと居直りだろうと、「ロシアは戦争のルールを守っている」、という虚構を崩したくないからである。
戦争には戦争をしてよい「目的」「方法」についてルールが決められている。第1次世界大戦や第2次世界大戦の痛ましい悲劇の反省として、とくにニュールンベルグ裁判や東京裁判を経ていくつかの条約などで国際的に合意されたルールである。
概略を言えば、①自衛の戦争であって、②奇襲でなく宣戦を布告し、③民間人を狙わず、④非人道的な武器を使用しない、等々である。そのルールを守って戦争しているかどうか監視するために、国連の下部組織や国際裁判所などがある。しかしソ連もアメリカもそれらに加入していないからたとえ裁判で有罪となっても法的な強制力がない。
戦争や戦争犯罪をやめさせるには、悪辣な戦争をする国家に対して世界世論を高め政治的、社会的、倫理的に圧力をかけるしかない。しかし、各国の政府首脳にとって戦争は「勝てば官軍」だから勝つしか選択肢は残されていず、圧力に屈してなどいられない。結局、現状では、戦争は、なんと批判されようが、そしてまた、為政者にとっては、核兵器の恐怖を使ってでも「勝った者の勝ち」となる世界だ。

戦争には正義の戦争も不正義の戦争もなく、すべての戦争は「悪」だ、それしか民衆の側の選択肢はない、と私はアフガニスタンとの40年以上の付き合いを通して確信するようになった。しかし、「戦争には正義の戦争と不正義の戦争がある」と主張する国家に対しては、そのような国家が存在する限り戦争のルールを守れ、と迫っていくしか有効な手段はない。

しかし最近は、どんな形でも勝ちさえすればいい、相手に打撃を与えさえすればよいと考える国や、非対称戦争とか国際テロなる戦争形態に訴える勢力が登場して、現状ではむしろ宣戦布告なき戦争の方が多くなってきている。戦争や戦争犯罪に反対し、それらを消滅させることはますます困難になってきている。だがしかし、戦争肯定の考え方を許せば、人間社会そのもの、地球そのものが破滅する。「戦争には正義の戦争も不正義の戦争もない、すべての戦争は正義である」、と主張する極端で人間としての思想も倫理観もない集団はいまだ少数派であると信じて、そのような勢力が大きくなる前に戦争そのものや戦争犯罪をやめさせる可能性を追求すべきなのだろう。

冒頭のロシア大使の発言と対応は「馬鹿に付ける薬はない」ということわざそのものだ。だが、「つける薬はない」と諦めるのでなく、外から強制するなんらかの措置がとれないか熟慮すべきだ。
人は人としての倫理観と感情、そして理性を持つと信じ、論理の通じない相手に戦争のルールを守らせ、そして戦争そのものを強制的に禁止する世界的な運動を構想する段階に来たのだと思う。

 

【野口壽一】

 

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~026

  ロシアのウクライナ侵略、40日 

 ソ連のアフガン侵攻との違いは? 

(2022年04月05日)

 

「あいつのほうがもっと悪いし~」は通用しない 

ロシアがウクライナに侵攻してから40日、足掛け3カ月になりました。5月9日の対独戦(ロシア的には大祖国戦争)勝利記念日までになんとか恰好をつけたいプーチン大統領は、ゼレンスキー大統領の「トップ会談でカタをつけよう」という呼びかけに「まだ機が熟していない」と逃げています。その間に、北部戦線の敗北を糊塗して東南部・南部に兵力を集中し、不利な戦局をひっくり返して5月9日を迎えたい、と考えているようです。そう問屋が卸すか、見ものですが、その間にウクライナの人びとやロシア兵の命が失われ、ウクライナの市街や国土が破壊され、ロシアは戦争犯罪を重ねることになります。それとも勝利の形に持ち込めば賠償責任から逃れられるとでも思っているのでしょうか。一国の指導者としての度量と人間性が問われる事態です。

もともと、今回の問題はロシアとウクライナ間の内輪の紛争です。プーチン流にいえば「兄弟ゲンカ」。ソ連邦崩壊に伴う核兵器処理でウクライナなどの核をロシアへ一括移管する際にウクライナの主権、領土保全を保障し核や武力の不行使を約束したブタペスト覚書(露米英が保証)や、その後の紛争を解決する枠組みとしてミンスク議定書など、多国間取り組みの努力もありました。それを保証国間での協議や国連や国際組織などでの外交協議の努力を尽くさず、力による国境変更、国境侵犯、全面侵攻をロシアが強行したため、一挙に「ロシア全面悪」の局面になってしまったのです。自業自得です。内輪の兄弟ゲンカの段階にとどめておけばたとえ子分が殴り合いをしていても「ウクライナにも非がある」とロシアの言い分に理解を示す国はあったはずです。

1979年のアフガニスタンへのソ連の侵攻は、アフガニスタン政府からの再三の要請があり、ソ連内部では逡巡のすえ決定されたものです。ウクライナへも東南部ドンバス地方の2州の一部「ドネツク人民共和国」および「ルガンスク人民共和国」からの要請の形をロシアはとっていますが、クリミア半島併合のときと同じように、ウクライナという独立国の国境変更を力によって変更する行為です。アフガニスタンの場合は、クーデターで政権をとった政府の内政上の事情と反革命反乱鎮圧に対する、あくまでも軍事支援でした。ウクライナの場合は、プーチンの世界観(ロシア・ウクライナ一体論、汎ロシア主義)にもとづく明白な侵略です。もちろん、アフガニスタンの場合には、たとえ反政府(反革命)勢力が外部勢力から支援されていたとしても、外国に軍事支援を頼まざるを得なかったアフガニスタン側の弱点と誤りがソ連の責任以上に大きかったと思います。ソ連は、当時よく言われていた「不凍港をもとめる南下政策」とか「イスラム勢力の拡大を恐れて」といった理由よりむしろ「ソ連圏防衛を怠った」あるいは「革命を見殺しにした」という不名誉につながる批判をより恐れたのではないかと思います。ソ連軍のアフガニスタン侵攻(進駐)にはアフガニスタン政府をバックアップしてムジャヒディーンと戦う側面と、アフガニスタン内部の社会改革を助ける側面のふたつの課題がありました。(この点に関しては後日論じたいと思います。)

ロシアのウクライナ侵攻問題に戻ります。
プーチン大統領はNATOの東方拡大を侵略理由にしていますが、それはロシア側の懸念事項ではあっても武力侵攻を合理化する理由とはなりえません。
ソ連邦が崩壊した1991年前には、ゴルバチョフ大統領がヨーロッパはひとつであり「ヨーロッパという家」の一員になる、とかなり理想的楽天的スローガンを掲げ、東西融和を推し進めました。NATOの側もG7にロシアを招きG8とするなど、和解のムードが進行した歴史がありました。しかし、ロシアは1992年5月に軍事同盟CSTO(旧ソ連6共和国による集団安全保障条約)を結成し、旧勢力圏の取りまとめに動き、プーチンが頭角をあらわし大統領になる過程で周辺の旧ソ連邦構成共和国地域への武力介入を強行し始めたのです。NATOもコソボなどに武力介入しましたが。当然、この間のロシアの動きに対して不安感をいだく旧社会主義圏の国々はNATOに救いを求めました。プーチンのロシアは、2014年のクリミヤ併合でついにG8からも飛び出してウクライナ東部への武力介入を強化拡大したのです。NATOが一方的に東方拡大しただけではなく、プーチンやロシア国家指導者も旧社会主義圏の国々に不安を与え信用されない国家運営をしてきたのです。あるいは米英独仏の経験豊富なずるがしこさに体よくあしらわられた歴史ともいえます。

どんなに言い分があるとしても、先に手を出したものが「悪」とされるのが一般社会のみならず、国際社会でも常識です。米英は、手を出すにしても武力行使の「口実」をこしらえ、賛同者をつのり(国連がだめなら有志連合)、文句を言われても言い逃れできるような周到な準備をしてことを起こします。口実が後からばれてもそんなこと意に介しません。ベトナム戦争のときのトンキン湾事件も、イラクに攻め込んだ時の「ビン・ラーディンとの共謀」も「大量破壊兵器」もそんなもの最初からなかったのは承知の上。要は、イギリスは数百年前から培ってきた悪知恵を、あとからやってきて海外進出経験の乏しいアメリカに伝授し、この100年ほど一緒に悪さをしてきたのです。ソ連時代は別として、ロシアがやっている悪さのほとんどは失われた旧ソ連の失地回復とシリアなど周辺国への軍事支援で、英米が地球をまたにやってきた悪さに比べれば、比較になりません。中国は外国とはベトナムに侵略した以外はソ連やインドといざこざを起こしているくらいです。歴史的には侵略された被害のほうが大きく、加害はまだ、殺人行為としてはベトナム以外ほとんどやってないといえます。そのベトナムと海上での衝突はありましたが南シナ海への進出(埋め立て、軍事基地化)が現在の係争事ではありますが。それなのに、米英からは世界の悪の権化のように言われています。要するに国際場裏での振る舞いに慣れおらず、へたくそなのです。

プーチン大統領がどう思っているか知りませんが、「あいつらはもっと悪いことをやってるしやってきたんだから、オレもやっていいんだ」とはなりません。いま何をどうやっているか、が問われているのです。

 

「調停は可能か 

兄弟ゲンカが世の中を巻き込む騒ぎになって周辺に多大な迷惑がかかるようになったら、当然、世の中では「調停しよう」となります。多種多様な損得勘定をしながら駆けつけたり尻や背中を押されたりして幾つかの国の名前が挙がっています。

日本など、「どこまでも戦争したいアメリカにどこまでもついていく日本」(晶文社)ですから、憲法の縛りがあって軍事物資支援はできないといいつつ、率先してアメリカに付き従い、仲介するどころかウクライナの戦争の片棒を担いでいます。中国およびインドと協力して3国で仲介すべし、と署名を呼びかける運動も始まっています。(憂慮する日本の歴史家の会)。気持ちはわかりますが、朝鮮・韓国との和解もできず、アメリカにおんぶにだっこの国が相手にされるはずはありません。手をこまねいているよりは遥かにましだとは思いますが、失礼を承知で言わせていただければ、所詮はインテリ先生たちの自己満足にすぎないのではないでしょうか。

それに比べれば、トルコやフランスやギリシャなどの交渉や人道支援活動は有益かもしれません。しかし、本当に実効ある仲介ができる国はどこかといえば、アメリカしかないと思います。事ここに至っては、アメリカとロシアとウクライナがしっかり話し合って落としどころを探るしか本当の解決はありえないと思います。場合によっては、ロシアが踏みにじったとはいえブタペスト覚書にもどってイギリスも参加したほうがより有効かもしれません。

 

 バイデン大統領の強硬発言は勇み足、それともボケの失言? 

では、アメリカはどう考えているんでしょうか。

バイデン米大統領は3月26日、ポーランドのワルシャワで演説し、「プーチン大統領は権力の座にとどまることはできない」と述べ、「西側は今、かつてないほど強く、結束している」「この戦いは数日や数カ月で勝てるものでもない。これからの長い戦いに備え、気を引き締める必要がある」と呼び掛けました。

この発言に対して、米国がロシアに対する態度をエスカレートさせたとの見方が高まりました。翌日、米当局者は反響に驚いたのか、火消しに走りました。

大統領が伝えようとしたのは「ウクライナや他のどの国に対しても戦争を仕掛けたり武力で侵略したりする権限をプーチン大統領に持たせてはならない」ということだ、とブリンケン米国務長官は27日にエルサレムで説明しました。

26日の演説で原稿になかった強硬発言は賢明だったかどうかが問われる中、大統領側近らは、米政府がプーチン体制打倒を目指す政策を採用したわけではないと釈明に大わらわです。

しかしバイデン大統領は、29日、本心を隠さず再びこう述べました。「撤回するものは何もない

バイデン大統領はホワイトハウスで記者団に対し、「撤回するものは何もない。道義上感じた激しい憤りを表明しただけだ」と言明しました。先の演説での発言を受けて同盟国の一部に警戒感が生じたことを後悔するかとの質問に答えたものです。

強硬発言をめぐるこの〝迷走〟は、バイデン大統領のボケなのでしょうか、それともつい本心が漏れたものでしょうか

もちろん後者です。バイデン大統領は、プーチン大統領を罠にかけて武力侵攻をさせていらい、きわめて明快で一貫した政策を実行しています。(それが首尾よくいくかどうかはここでは問いません)。

 

 ロシアも戦争経済を望んでいる? 

なぜアメリカが紛争解決、仲介の労を取らないのか。それは、核戦争と第3次世界大戦にさえならなければ、ウクライナが頑張ってロシアとの紛争が長引けば長引くほど都合がいいからです。その理由は、多くの論者が明らかにしているごとく、アメリカは経済的に潤うからです。ロシアの主要な産業(外貨獲得手段)が、原油、農産物、鉱産物の輸出であるのと同様アメリカも同じセクターをもっています。ロシアを経済制裁してもほとんど困らないどころか原油や農産物など価格は高くなるし輸出先は増えます。それと、これが本命ですが、兵器軍需物資の輸出は世界一の売り上げを誇るアメリカの独壇場です。ロシアだってアメリカの5分の1とはいえ、世界2位です。
アメリカもロシアも、核戦争、第3次世界大戦は困るが、戦争が長引き緊張が持続して軍需ビジネスが繁盛することは両国の望むところだからです。

ここで注意しておきたいのですが、ロシアが国際的に孤立していると西側メディアは報じます。しかし、それは西欧視点からみた一面的な見方ではないでしょうか。むしろ、これまで英米西欧がやってきた帝国主義、植民地主義の暴力的な搾取略奪や狡猾な手練手管に苦しんできた発展途上国(かつての言葉で言えば非同盟諸国)は、国連決議でも棄権や投票不参加などで米NATOに賛意を示さなかった国がおおく、それら諸国の人口は世界の過半数を超えています。BRICs諸国(人口32.1億)や上海協力機構(人口32.5億)はほぼすべてが非米NATOだし、世界15億人の信者をもつモスレムは非西欧の傾向が強いのです。(「トピックス」コーナー、2022年03月27日アルジャジーラの記事「世界はウクライナで統一し、アメリカで分割される/第2次冷戦が差し迫る中、世界はどちらにつくべきか警戒している」参照)

 

 ゼニカネの道でなく人倫の道を 

わたしが敬愛するマイケル・ムーア監督が面白いことを言っています
「プーチンがウクライナに攻め入ることを宣言したとき、ロシア陸軍大将(引用者注:長い机の端っこでプーチン大統領との会議に臨んだセルゲイ・ショイグ国防相?)が不満そうな顔をした。私はそのとき次のようなクレイジーな考えが浮かんだ。『荒稼ぎして金もうけして安楽生活をむさぼっているロシアの為政者にとってはもちろん、高給を稼いでいるロシア政府の陸軍大将、高級官僚にとっては、プーチンの戦争を止めさせるか、プーチンを失脚させることによって、資本主義ロシアでの裕福な盗人生活をとり戻せることができると考えているのではないだろうか』と。」

一見突拍子もない深読みのようですが、意外と当たっているのではないでしょうか。士気が低いのは演習だと騙されてウクライナに動員された若い兵士たちだけではないのかもしれない。オリガルヒはもちろん、シロヴィキといわれる人びとの中にもいやいや付き従っている一定数がいるのではないでしょうか。

とにかく、一刻も早く戦争をやめて欲しいという切実な思いはウクライナもロシアもそして世界戦争の不安や物価値上げに襲われる世界庶民の切実な願いです。

米英そしてできるなら中国を引っ張り出し尻を叩いて、軍事・経済戦争に血道をあげるのでなく、ウクライナ・ロシアと協議して一刻も早く戦争をやめさせ人倫の道を進ませてほしい

ついでに、岸田首相に一言。新しい資本主義にはぜひ、「論語と算盤」=人倫の道を採用してほしい。

 

【野口壽一】

 

 

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~025

  ウクライナとアフガニスタン 

 グレートゲームの非情さに苦しむ民衆 

(2022年03月28日)

 

戦争を止める手段がない

2月24日にロシアがウクライナへ軍を進めた行為は明確な侵略です。

(1) 空と陸から軍隊をウクライナ領内に進めました。領土の不可侵性、国境の侵犯。
(2) ウクライナ政府に対して武力行使を行い自治体や同国の施設を破壊ないし占領しています。主権の侵害。
(3) 武力を行使することにより同国国民の生命、財産を破壊ないし奪っています。戦争に関する国際法および普遍的人権を踏みにじる戦争犯罪。
(4) ウクライナ軍はロシア領内に軍隊を送ったり、軍事行動を展開したりはしていません。

ロシアのプーチン大統領は、ウクライナへの侵攻を合理化するために、NATOの約束違反による東方拡大でロシアの安全が侵されているとか、ウクライナの東部地域でロシア系住民を弾圧しジェノサイドを行っているとか、ミンスク合意を守らないとか、もともとウクライナとロシアは兄弟関係であり国家として別々の存在ではありえない、等々、いくつもの理屈を並べています。しかしそれのどれもウクライナ側は納得していませんし、侵攻を合理化できるものではありません。

紛争を処理するには、国連の機関である国際司法裁判所に紛争当事国が提訴すれば裁判が実施されますがロシアは提訴せず裁判が成立しません。また仮に裁判が実施されたとしても結審までに何年かかるかわからず、判決の強制力もないので、国際裁判には頼れません。

そもそも国連は悲惨な被害をもたらした第2次世界大戦を反省し戦争が起こらない世界を担保するためにロシアなどの戦勝国が作った機関です。常任理事国として拒否権をもつロシアが国連加盟国にたいして、戦争という武力を行使して領土侵犯をしたうえに、核兵器の使用さえちらつかせてウクライナおよび世界を脅迫しているのです。ロシアの今回の行為は、侵攻を合理化する理由がいくらあろうとも、自らがつくった自らの存立基盤を否定する行為であり国連の無力化を促進する行為と言わなければなりません。「ロシア即時撤退を」求めた3月2日の国連総会決議では141カ国(加盟国の73.4%)がロシアの侵攻を非難しました。ただし人口比では47%と過半数には届きません。英米の主導する歴史的な二枚舌政策や人種差別への根づよい反発は無視できません。

今回のロシアのウクライナ侵攻の最大の問題点は、国連総会で侵攻を非難する決議が多数決で採択されたとしてもその決議を実行する手段がないことです。明白な悪事と大多数の国が判断しても国連として悪事を抑止する手立てはありません。
だとすれば回り道のようであっても、とにかく今は、ウクライナで頑張る人びとを支援し、世界中の一人ひとりが戦争反対の声をあげ、NATOや各国政府やさまざまな組織が核戦争や生物化学兵器の使用に反対し、ロシア国内の心ある人びとと連帯し、プーチンの侵略の蛮行をやめさせるよう圧力をかける以外に方法はありません。

 

 依然として戦争は国家間紛争処理の最終手段 

人類社会には必要悪の存在があります。国家もそのひとつですが、戦争は必要悪ではなく絶対悪として人類の英知のすべてをかけて消滅させようとあらゆる機会に世界中の人びとが努力をしてきました。核兵器や非人道的大量殺傷兵器などもそうです。戦争や国家間の武力行使に関しては国際法や集団的合意などで縛りをもうけて無制限な拡大をなくそうと努力がなされてきました。

しかし現実には、第2次世界大戦後も世界中で戦争が絶えたことはありませんでした。今回侵略を受けたウクライナでさえ、他国に侵攻して武力行使を行ったことがあります。しかもその対象はアフガニスタンです。

 

ウクライナも他国に侵攻したことがある

ウクライナはアフガニスタンで武力行使つまり戦争をしたことが過去2回あります。

1回目はソ連邦の一員として1979年から1989年の10年間。この戦争でウクライナは死者3,000人、負傷者8,000人を出しています。いまだに72名の行方不明または捕らえられた兵士がいるそうです。(ちなみに、Wikipediaによれば、ソ連軍全体の戦病死者は1万4500人、負傷者は5万3753人、行方不明者は312人)。

ウクライナでは、2004年から毎年2月15日に外国での戦闘行動参加者の追悼行事を行います。この日付はソビエト軍が1989年に撤退を完了させた日です。ウクライナはアフガニスタン以外にもチリ、スペイン、エジプト、ベトナム、エチオピア、キューバ、その他の世界の「ホットスポット」での国際作戦に参加しています。

写真は2020年2月14日、記念行事の前日に記念碑に献花するゼレンスキー大統領。ゼレンスキー氏は2019年に大統領に就任。(https://www.unian.info/politics/10874360-zelensky-honors-memory-of-ukrainians-fallen-in-soviet-afghan-war.html)

もうひとつは、アメリカのアフガン占領期間中の20年間です。
ウクライナはNATOには加盟していませんでしたが、NATO加盟志向国としてアフガン占領行動に参加しました。2018年7月4日付けのTOLOニュース(アフガニスタンの独立報道機関)によれば、当時、米NATOからの支援ミッションには39カ国から1万5000人の外国軍が参加しており、ウクライナはコソボへの40人以外にアフガニスタンにも11人を派遣していました。これを近々29人に増員する予定であると報じています。同時に、この増員は「単なる政治的アピール」ではなく、ウクライナ東部での戦闘任務を遂行するための作戦能力を強化するためのものでもある、とのこと。つまり、プーチン政権がアフガンへの侵攻の口実としているドンバス地域でのウクライナ側の実践訓練を米NATOが行っている、ということにほかなりません。

写真はアフガニスタンにおける国際支援部隊の携帯型ミサイル発射訓練の1シーン。(https://tolonews.com/afghanistan/ukraine-increase-number-troops-afghanistan)

以上ふたつの事実から言えることは、ウクライナが単に主権と領土を侵害された被害者であるだけでなく、ことアフガニスタンに限ってみても、「侵略」する側の一員でもあった、しかも直近まで、という事実です。ゼレンスキー氏も大統領という国家の代表である限りウクライナが国家として行ってきた行動に関しては過去にまでさかのぼって責任をとるべき国家的責務を負っておりそれを実践しているということです。

アフガン人のなかには、単純に「ウクライナ支持、ロシア糾弾」の立場にたてない人びとがいるのは上のような事情があるのでしょう。また、ターリバーンが中立的な立場に立ってロシア・ウクライナ双方に武力対立をやめて平和解決せよと主張している背景にも同じ理由があるものと思われます。

アメリカは軍事関係者だけでなくCIAをも通じて、2014年のロシアによるクリミア併合以来、8年間、ウクライナ国内でも陰に陽に兵器の支援や兵員のトレーニングなど、ウクライナ軍の強化を助けてきました。コソボやアフガニスタンだけでなく、ウクライナ国内で直接の指導を行い、ロシアが2月24日に侵攻する直前にアメリカ人指導員らは退避しています。8年かけて周到な準備を行い、プーチンを罠にかけたのです。(アメリカは民間人、大使館員をも退避させてロシア侵攻に備えました。)

ここに見られるのは、個々人の人命尊重や尊厳など一顧だにしない冷酷な国家同士のゲームであって、われわれ庶民には理解したくない論理と出来事ですが、悲しいことにそれは現実であり、庶民にとってもっとも厳しい死活的な出来事なのです。

 

 ソ連もアメリカの罠にかけられていた 

私は2月28日に配信した<視点22 罠にかかったプーチン>で「欧米はソ連を苦しめたアフガニスタンでの宣戦布告なき戦争(ムジャヒディーンとパキスタンをつかった米英ソなどの代理戦争)の再現を狙っている。」と書きました。2月24日からの1カ月をみれば、プーチン・ロシア大統領が、欧米の代理人としてのウクライナ・ゼレンスキー政権と戦わされていることが明瞭になってきました。しかも、戦局を決定づけているのが、アフガニスタンでソ連を苦しめたスティンガーなどの携帯型ミサイルだというのも、繰り返される歴史の皮肉をみるような気がします。
ではソ連は、1979年12月にアフガニスタンに侵攻するまえに、アメリカからどのような〝罠〟をしかけられたのでしょうか。
そのいきさつを、ソ連邦崩壊後に解禁された機密情報を読み解いて書かれた『アフガン戦争の真実』(金成浩、2002年、NHKブックス)が暴露しています。
「第2章 米国の対アフガニスタン政策」(82ページ)では、ずばり「ソ連に罠をしかける」との小見出しで、罠を仕掛けたズビグニュー・ブレジンスキー(安全保障問題担当大統領補佐官)の発言を収録しています。
アメリカは、1978年4月のクーデターによってPDPA(アフガニスタン人民民主党)が政権をとったあと、この政権をどう評価するか検討をします。ブレジンスキーは民主党内では異色のタカ派として、PDPAへの警戒心をいだいていました。4月革命の前にはイランでホメイニー革命が成功し、パフラヴィ―親米政権が崩壊していたことは彼の危機感を一層掻き立てました。当時ソ連は、アメリカはPDPA政権を崩壊させる工作をしていると非難していました。アメリカはその非難を事実無根として否定していましたが、ソ連崩壊後の1997年に発行されたフランスの雑誌インタビューでブレジンスキーはつぎのように発言しています。
「(アメリカは公式には)ムジャヒディン(反ソ・PDPAゲリラ)へのCIAの援助は、1980年初めに開始されたと、すなわち、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻した1979年12月24日の後であるとしている。しかし、現在まで秘密は守られ、事実はまったく闇の中にある。真理を明かせば、カーター大統領は、1979年7月3日に、カブールの親ソ体制への敵対勢力に対する秘密の支援を許可する命令に署名しており、私は、この援助がソ連の軍事介入を誘発することになるだろうという私見を覚書にして大統領に渡した」
2014年のロシアのクリミア併合の後、危機感をいだいたアメリカがCIAやアメリカ国軍を通してウクライナ軍を教育・支援していった事実と重なる認識と行為だろう。
フランスの雑誌記者は驚いて思わず「あなたは、ソ連を戦争に陥れ、挑発することを望んだということですか?」と聞き返します。するとブレジンスキーは平然と「我々がソ連を軍事介入に追い込んだのではありません。しかし、意図的に力を加え、ソ連がそう出てくる蓋然性を高めていったのです」と答えます。
記者はソ連をだまして後悔しなかったのかとさらにつっこんで聞きます。すると、その答えは、「何を後悔するというのですか? この秘密作戦は、傑出したアイデアでした。ロシア人たちをアフガニスタンの罠に引っ張り込む効果を生みました。私に公開しろとでも言いたいのですか? ソ連軍が正式に国境を越え始めたその日、私はカーター大統領に文書を提出しました。要点を言えば、『今、我々はモスクワをベトナム戦争(のような泥沼の戦争)に引き込むチャンスである』ということでした。実際、そのとおり、モスクワはほぼ10年間そのシステムには耐えられない戦争を行いました。その結果、この戦争はソ連帝国の衰退を進め、崩壊を生じせしめたのです」というものでした。
2021年からウクライナ国境沿いに大軍を配置して圧力をかけるロシア軍の動向を国際マスメディアをつかって仔細に報道させ、「ロシアは〇〇日に侵攻する、アメリカとNATOは直接介入しない」とバイデン大統領は公言し続けたのでした。クリミヤ併合後の8年間の裏工作の総仕上げでもあったはずです。まさにソ連が軍事介入する蓋然性を高め、そうしてもいいよ、という合図を送り続けたのです。
前年、アメリカはアフガニスタン撤退での不手際がありましたが、以前からの計画を粛々と続けています。主敵は中国です。アメリカを経済的に脅かす存在になってきた世界No.2を叩かなければなりません。そのために、トランプ時代に弱まってきた同盟関係の再建強化を図りました。とくにアジア・太平洋地域での英米日豪インド、アセアンとの同盟強化策は、ロシアをウクライナにくぎ付けにし、中国との間にくさびを打ち込む戦略とつながっています。
国際関係、国家間の現代のグレートゲームは非情です。
これまでアフリカや中東やアフガニスタン、ミャンマーなどアジアの民衆は悲惨な状態に追い込まれています。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)によれば2021年の紛争や迫害により故郷を追われている人は世界で8000万人を超えています。しかし、ウクライナではわずか1カ月で国外国内避難民は1000万人になうとしています。

1日も早く無益な戦争を終わらせ、誰もが不安と恐怖を感じないで生きられる地球を手にしたいものです。

【野口壽一】

 

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~024

  中越戦争、1カ月で撤退した中国の決断 

 ロシアは泥沼? それとも停戦・出直し? 

(2022年03月28日)

 

敗北を教訓化した中国

3月26日、The Wall Street Journalは「ロシア軍『作戦第1段階ほぼ完了』 戦略変更を示唆」として次のように報じました。

「ロシア国防省は25日、ウクライナでの軍事作戦の第1段階がほぼ完了し、今後は同国東部に照準を移す方針を明らかにした。ロシア側に損害が広がり、戦況がこう着する中、戦略を変更する可能性がある。」(https://jp.wsj.com/articles/russias-military-says-first-phase-of-operation-in-ukraine-near-end-11648248453)

このニュースを聞いたとき、即座に、中国がベトナムに攻め込んだ中越戦争を思い出しました。

1979年当時、ベトナムの隣国カンボジアでは、中国派といわれるポルポト政権が過激な革命路線により自国民を何百万人と虐殺し対外的にはベトナムとの国境紛争を起こしていました。ベトナムはポルポト政権と闘う勢力を支援するため、前年から軍をカンボジアに送っていました。
ポルポト政権を支持していた中国はその年の1月初めベトナム国境近くに60万人近い兵員を訓練と称して終結させ「カンボジアへの侵略をやめろ」とベトナムに圧力をかけました。
ベトナムは中国の圧力と警告を拒否しました。それに対して中国は「懲罰と教訓を与える」として宣戦布告。2月15日に60万人の大軍で国境を越えました。当時、プロレタリア文化大革命の傷がいえない中国の戦法は朝鮮戦争のときのような人海戦術と旧式の武器。その4年前に近代戦でアメリカを敗北させたベトナムの敵ではありませんでした。それでも突撃ラッパとともに小銃を抱えた歩兵は猪突猛進。ベトナム側が撃っても撃っても味方の死傷者の山を踏み越えて突進してきたといいます。「ほんとうに恐ろしかった」とその10カ月後にホーチミン市を訪れたときベトナム人に聞いたことがあります。
中国軍は膨大な人的損害を出しながらも2週間、やっとこさっとこハノイの近くのランソンまで進軍しました。そのときまで数十万の中国兵と闘っていたのはわずか2個師団と民兵数万人だけ。そこに、カンボジアからベトナムの主力軍が帰還しハノイの守備を固め、中国軍との決戦態勢を整えました。すると、それを知った中国軍は翌日突然「ベトナムへの軍事的懲罰は終わった」と宣言して退却を始めました。村々に火をつけ略奪しながら退却する中国軍をベトナム軍は3月16日までにすべて国外に追い返しました。

中国はウクライナに攻め込んだ今回のロシアと同じく、短期間でベトナムを制圧できると考えていました。しかし現実はおびただしい人的損害と指揮命令系統の内部崩壊。今回のロシア軍とそっくりです。
戦争目的は達したと勝利宣言した中国でしたが、実際は苦々しい敗北でした。これ以後、鄧小平を頭とする中国指導部は、前年から始めた改革開放に注力し軍の近代化を最優先の国家目標としたのでした。

3月23日のウォール・ストリート・ジャーナルの報道によれば、ロシアはウクライナ侵攻の1カ月で、千〜1万5000人の死者、作戦に参加した約19万人のうち最大で計4万人の死傷者、捕虜、行方不明者を出したと推定されています。ロシア軍は装備の10%を失い、現在の作戦を維持するのは難しい状態だそうです。ロシア軍の作戦上の誤算、ウクライナ国民の戦闘意欲の高さ、西側から供給される優秀な武器の威力、さらに、ゼレンスキー政権の機敏で説得力ある情報戦能力など、彼我の戦闘・作戦能力の差にはいかんともしがたいほどの大きさを感じます。

ロシアが誤りを自覚して方向転換をするのは大歓迎なのですが、必ずしもそうではなさそうです。

3月25日のニューズ・ウィークは、「米シンクタンク、戦争研究所(ISW)によると、ロシア軍は主要都市に対しロケット弾やミサイルによる砲撃や爆撃を強める一方で、前線では塹壕を掘り、地雷を埋設するなど、攻撃から防御に転じたとみられる報告が相次いでいる。攻勢を維持するため兵力を追加投入するも、限定的で、今後数週間から数カ月、攻撃の勢いを取り戻すのは困難と考えられている。」と報じています。(https://www.newsweekjapan.jp/kimura/2022/03/2-5.php)

外交交渉が破綻して戦争になった以上、停戦協議の成り行きは戦場での優劣で決まります。国際社会はウクライナ国民の意思を尊重し、国民の命の最大限の防衛を支援しつつ、ウクライナへの政治的軍事的バックアップを強化すべきと考えます。

【野口壽一】

 

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~023

  3月8日は国際女性デー 

 個人の尊厳をかけて戦う女性たち 

(2022年03月8日)

 

ひと昔前まで日本では「国際婦人デー」の名で、婦人団体や民主組織、労働組合などで結構にぎやかに祝賀行事や行動が取り組まれていました。「婦人」という呼称が嫌われて「女性デー」となったあたりから、イベントも下火になったような気がします。しかし世界ではいまでも結構広範囲に祝われていて、創意工夫にあふれた興味深い活動やパフォーマンスが実施されています。

女性が立ち上がれば歴史が変わります。昨年8月のターリバーン再来に抗議するアフガニスタンの女性たちの闘いは、衝撃的でした。ターリバーンの野蛮と武器にもひるまず、アフガニスタンの女性たちは素顔をさらして個人として極限の闘いを敢行しました。

いまも、アフガニスタンを忘れないで! とTwitter やFacebookなどで激しく主張を展開しています。ロシアのウクライナ侵攻に対しても世界中で抗議行動が展開され、そこでも女性たちの活躍が目立ちます。

現代の抗議行動の特徴は、個人が個人の責任で顔を出して抗議したり主張したりできるようになったことです。とても勇気ある行動です。私のネットフレンドも「顔出しプロテスト」ないし「連帯表明」をして写真を送ってきてくれます。

アフガニスタン出身のzalaさんはポーランドのウクライナ大使館の前でウクライナ人への連帯行動を行いました。「ウクライナの女性が泣いて私をしっかりと抱きしめ、アフガン人としてウクライナを支援してくれたことに感謝しました。涙が出てきました。今日、私の故郷は孤独です」と書いています。彼女の行動はTwitterやFacebookなどで世界中でリツィートやシェアされ共感を呼び起こしています。

ロシア出身でチェス女子世界チャンピオンAlexandra KosteniukさんはFacebookで「私が言いたいことは、2022年3月4日のロシア連邦大統領の法令によって禁止されているので、今は何も言うことはありません」と抗議の黒マスクの奥から鋭い眼差しでプーチン大統領に痛烈な目力パンチを見舞っています。

しかし、何よりも世界に驚きと勇気を与え称賛の声を呼び起こしたのはBBCが配信したウクライナ女性のつぎの行動ではなかったでしょうか。

 

ひとりの女性が「あなた誰?」「ロシア人なの?」と銃を持った兵士に詰め寄ります。
兵士はただ一言「ダー」としかいえません。女性はさらに「一体ここで何しているの」「なんで武器を持ってここに来たの」とさらに詰問します。兵士はしどろもどろ。女性はそんな兵士に、「あんたたちみんなこの種をポケットにいれて持っていきなさいよ」「あんたがここで死んだ時そこからヒマワリが生えるように」とひまわりのタネを突きつけます。(この動画はここで観られます。)

この勇気ある女性の行動は、ソフィア・ローレン主演の映画『ひまわり』を下敷きにしています。平和を愛する人びとにとっては忘れられない映画のはずです。

ヨーロッパの穀倉地帯といわれるウクライナはヒマワリも特産でその油や種の輸出では世界トップクラスです。第2次世界大戦で出征したが帰ってこない夫は生きていると信じてウクライナをかけずりまわる主人公が、大戦でなくなった兵士や地元農民らが埋葬されている丘陵地帯に連れていかれます。なだらかな斜面に見渡す限り十字架が立ち並んでいます。本来なら大輪のヒマワリが咲き誇る黄色いじゅうたんの景観が見られるはずです。空の青と大地の黄、つまりウクライナの国旗のイメージが映し出されます。

共同埋葬地の記念碑にはロシアの詩人スエトロフの詩が刻まれています。その一節「なぜ君はロシアの野へ来たのか」が、アップで映し出されます。

それを見て、思い出したのは、旧満州にある現在の中国黒竜江省方正(ほうまさ)県にある方正地区日本人公墓「中日友好園林」でした。これは、在留婦人の松田ちゑさんが白骨の山を見つけて県政府に「私たちが葬りますから許可してほしい」と歎願したのが、周恩来総理にまで届き、「開拓民も日本の軍国主義の犠牲者だ」と方正周辺の岡や森から日本人の遺骨を収集して火葬するよう県当局に命じ公墓を建立したのだそうです。(この間の事情はここをクリックしてご覧ください)。

関東軍将兵だけでなく日本の満蒙開拓団も他国に武力侵入し現地の人びとから土地を奪った侵略者です。「なぜ君たちは満蒙の野へ来たのか」、と問われても仕方がない存在だったのです。

ウクライナの大地でも満州の地でも同じ悲しみを抱えながら敵味方の恩讐を超えて民衆が鎮魂している歴史には戦争の悲しみと怒りを超越する静かな感動を覚えます。

個々の人間は国や民族として憎みあうことがあっても本質的には許しあいいたわりあうことのできる優しさをもった存在なのではないでしょうか。

 

 付記 

揺れ動く怒りと赦しの原因=国家と政治の存在

異なる民族が混交して存在する現代世界における民衆同士の友好的な交流は必ずしも好ましいものだけではない。ウクライナの「ひまわり」が悲しみと赦し=寛恕の精神をイメージさせるだけでなく、今回のロシア兵への怒りの象徴ともなりうる。
同じように、方正県の「中日友好園林」でも、2011年、中国政府の愛国教育に影響をうけた「抗日五勇士」とたたえられ反日感情をたぎらせた愛国主義者たちによって園林に赤ペンキがまかれ、その後、園林は閉鎖された。しかし、アメリカ・トランプ大統領の中国敵視政策により日本との融和をもとめる中国国内のうごきを受けて「園林」を守り続けてきた地元の人びとも、最近、少しずつ昔の活動を取り戻しつつあるという。国の政策で揺れ動く方正県の事情が垣間見える事件だが、そのような両国間の軋みは、日本における靖国神社の存在や嫌中動向の影響も受けている。
「〝友好の絆〟が招いた、富と憎しみの波紋」:朝日新聞 GLOBE+)
「旧満州開拓団の〝碑〟劇 行き過ぎた〝愛国〟も焦点ぼかしのためか:大紀元)
「満洲」移民をめぐる寛容さの記憶――黒龍江省方正県の日本人公墓建立をとおして――:坂部晶子)

ウクライナの場合も

アフガン人のウクライナへの連帯の気持ちにも複雑なものがある。それは、旧ソ連が「アフガン革命への支援」を掲げて侵攻した1979年からの10年戦争にウクライナもソ連の一部として参戦し、2001年からの20年戦争にもアメリカやNATOなど有志連合の一員としてアフガン戦争に加担していたからだ。いまや世界的英雄となっているゼレンスキー大統領も、大統領としてアフガン戦争に加担したウクライナ人の顕彰を行っている。国家と民衆意識のねじれの実例である。もちろん、ソ連人、アメリカ人へのアフガン人からのねじれ感情にはもっと大きいものがある。

ウクライナ避難民問題で意識される民族差別・人種差別

くどくどと説明する必要もないだろうが、アフリカや中東・アジアからの移民受け入れに厳しいヨーロッパが、今回のウクライナ難民の受け入れは迅速でわずか2週間で250万人に達した。この大きな違いの背景には、民族的人種的差別とともに、政治的な動機もあるだろう。

忘れてならない問題

この瞬間に集中せねばならないウクライナ支援だが、片時も忘れてならないのは、その背景にある現代世界の混乱の原点となっているパレスチナ問題、アフガニスタン問題、そこで毎日闘い続けている人びとの存在である。

【野口壽一】

 

~022

  罠にかかったプーチン 

アフガン戦争化に向かう危険性

(2022年02月28日)

 

2月15日付の「視点」で、国際メディアとNATOやその他の西側政府らを動員した、バイデン米大統領の大掛かりで芝居がかったウクライナ大騒動をまとめておいた。

本質的にはどっちもどっちの火遊びだが、プーチン露大統領に少しでも理性があれば米大統領の挑発と誘導をいなしたり押したりして乗らず、武力を誇示しつつ外交交渉で自国に有利な結果を引き出すべく動くのかと思っていた。武力を使って脅すのは国際法違反だけど。

しかし結果は、まったくのバカとしか言いようのない、最低の対応。兵士だけでなく無実の市民の命を失うだけでなく、第3次世界大戦を引き起こしかねない爆弾遊びを始めてしまった。バイデン大統領は、してやったりとひそかな笑みを浮かべているのではないか。
アフガン・イラクへの侵攻とまったく同じ、いやそれ以上に国際的反発を招く行為をしてくれ、アメリカの失態が帳消しとまではいかぬまでも、世界の記憶を薄くしてくれた、と。

昨年、プーチン大統領がウクライナ国境沿いに兵力を増強配備するのを目にしながら、直接の電話会談などでそれを批判はしても「軍事介入はしない」と約束。「するのは経済制裁」と公言し続けてきた。アメリカは早々と外交団や自国民をウクライナから撤退させ、英欧日に追随させた。国際メディアはロシアの侵攻が決まった、決行はいついつ、明日だ!などと書き立てて挑発し、誘導した。プーチンらはまんまとワナにかかった

ウクライナ人の国内での抵抗や世界中のプーチン糾弾の波。足元のロシアでさえ反対の大衆運動が起きている。退役軍人のなかからもプーチン辞任要求の声があがっている。制裁はロシアへの金融制裁だけと表明していた米英EU諸国はウクライナへの武器(スティンガーミサイル)や軍資金の援助を始めた。(「トピックス」コーナー参照)中国をあてにしてウクライナ侵攻という強硬策に出たプーチンだったが、独善支配の終わりの始まりになりそうな気配がただよいはじめた。

アフガン撤退後のアメリカの企みをわれわれは「転んでもただでは起きないしたたかな戦略」と結論づけ、「アフガニスタンをターリバーンとパキスタンに任せ中央アジア混乱の要因として残し、その混乱にユーラシア大陸の西のロシアと東の中国を巻き込んで弱体化する行動に出るだろう」と分析した。21世紀はユーラシア大陸を舞台としたビッグゲームの時代となる。

ウクライナ戦争でいまのところアメリカは少しも痛手を被っていない。それどころか今や世界一の産油国となった手前、原油やLNGの高騰は願ってもない幸運だ。いまやバイデン氏はほくそ笑みを高笑いに変えたい衝動を必死に押し殺しているのかもしれない。

 

【教訓】

・欧米はソ連を苦しめたアフガニスタンでの宣戦布告なき戦争(ムジャヒディーンとパキスタンをつかった米英ソなどの代理戦争)の再現を狙っている。

・経済封鎖に加えた軍資金と武器の供与(1986年に反政府ムジャヒディーンに供与されたスティンガーミサイルは威力を発揮し戦局を変えた。Russia Beyond)による紛争の拡大と複雑さ。経済エネルギーの複合ミックス時代の戦争。アフガン戦争のようにはいかない。

・プーチンはソ連崩壊後の失地回復(旧ソ連ナショナリズムの復活)の勢力圏拡大と数々の戦争(2度のチェチェン戦争、ロシア・グルジア戦争、クリミア半島強制合併など)でのし上がってきた。NATOの東進、ロシアの失地回復努力は1990年東西ドイツ統一、1991年ソ連邦崩壊以降の両陣営の対立抗争。(戦争さえすれば「プーチン支持率」急上昇「中央日報/中央日報日本語版2022.01.31」

・アフガン-ウクライナ-新疆ウイグル・台湾はひとつながり。露中vs米英欧日の対立で得をするのは、両サイドの為政者と軍産複合体システム。一般民衆は苦難を強いられる。他人の問題ではない。国際問題を武力(戦争)によって解決するのでなく平和的手段により解決を目指すのが各国リーダーの責任であることを追及し続けること。

・すでにそうなりつつあるが、アフガニスタンは国際的関心から忘れ去られつつある。忘れることは見捨てること。世界の苦境にある一般民衆の境遇に関心を絶えず寄せつづけることが大切だ。

【野口壽一】

 

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~021

  ウクライナとアフガニスタンの意外な関連 

社会変革の意欲と外国との連携

(2022年02月28日)

 

現代世界の混乱の原点ともなったアフガニスタン紛争にとって、ウクライナとくにキエフは因縁の都市だ。というのは、旧ソ連がアフガニスタンに深入りするきっかけとなったアフガン政府の政変(クーデター)に重要な役割を演じるアフガニスタンの青年将校たちはキエフにある軍事アカデミーで教育を受けたからだ。その事情をWikipediaはつぎのように書いている。

「(1953年9月から1963年まで首相をつとめた)ムハンマド・ダーウードは国軍の近代化を重要な任務と考え、ソビエト連邦に援助を要請した。1956年からソ連の軍事援助がアフガニスタンに提供され、アフガン軍にはソ連の軍事顧問団が駐在し、アフガン軍将校はソ連に留学した。」
ダーウードは1963年に国王ザーヒル・シャーによって首相の座から退けられたが、10年後の1973年に返り咲き同年7月、病気療養のためにザーヒル・シャーがアフガニスタンを離れた隙を突いて、ソ連留学帰りの将校団の支持によりクーデターを成功させた。その一群の青年将校らの働きにより1978年のクーデター(いわゆる4月革命)が成功し、人民民主党(PDPA)政権が出現するのである。しかしPDPAの内紛がソ連軍を呼びこみ、世界を巻き込む大混乱を引き起こしたのであった。

『わが政府 かく崩壊せり』の著者アブドゥル・ハミド・ムータット氏は、60年代にキエフ軍事アカデミーに留学した多くの青年将校候補のひとりで軍事コマンドおよび無線通信技術を専攻し修士課程を修了している。
そして1969年帰国。同年アフガン航空大学教官となり、1970年、空軍中央軍守備部門に所属。各種上級職を歴任し、上記の1973年7月17日に王政を打倒し第一共和国を樹立した政変(クーデター)において中心的な役割を果たした。共和国樹立によりムハンマド・ダーウードがアフガニスタン共和国初代大統領に就任するとともにダーウード大統領により郵政通信相に任命される。しかし、同大統領は改革の約束を守らず、のちのムジャヒディーンの指導者となるイスラーム指導者らの弾圧を始めた。しかしそれに止まらず、改革を支持していた人民民主党勢力などの排除に走るなど独善的態度を取るにいたった。ムータット氏は大統領との意見対立により1974年解任。その後4年間自宅軟禁処分を受ける。同僚の多くも投獄された。1978年4月の再度のクーデターによるダーウード政権崩壊と4月革命により人民民主党政権が樹立され、同年6月、クーデター指導部のひとりであったムータット氏は駐日アフガニスタン大使に任命され来日。政治経済外交面での制裁を受けていたアフガニスタン新政権の代表として東京で外交活動をつづけ、1987年春、任務終了により帰国。その後副首相、副大統領としてアフガニスタンの国民和解、ソ連軍撤退などに尽くし、最後は1992年4月、PDPA政権の死に水を取ったのであった。以上は、『わが政府 かく崩壊せり』に詳述されている。

希望と憧れの中央アジア・ウクライナ

2009年の8月、当時キエフ国際大学で中央アジア・アフガニスタン史を教えていたムータット氏と前掲著書翻訳の打ち合わせを兼ねてキエフを訪れた。キエフは高校生の頃ユル・ブリンナー主演の「隊長ブーリバ」を観て憧れていた。映画に登場する雄大な草原=ステップは実はロケ地の南米アルゼンチンのパンパスであったことを映画を観た後に知ったのだが、日本にはありえない優しい草原や荒くれた土漠のイメージそのものには変わりがない。

キエフは土を固めてできたカーブルの風景と異なり、ヨーロッパ風の威厳のある石造りの高層建築が並ぶ古色蒼然たる風格のなかに現代的なデザインを違和感なく取り入れたハイカラな街、人も景色も自然も美しい都市だった。

アフガニスタンから青年将校候補者たちが留学に来ていた50年前にもその時と変わらぬ成熟した街並みだっただろう。ウクライナの大草原はソ連時代から穀倉地帯となり、ソ連圏だけでなくヨーロッパ全体の胃袋を満たす存在になっていた。ウクライナはヨーロッパに属するが、中央アジアにまで広がる大草原地帯を豊かな大地に変えたのは1917年以降のソビエト政権である。アフガン人は自分たちの国土と地続きの大地の変化をどのように見ていたか。1969年から73年にかけてユネスコの教育専門家としてアフガニスタン・イランに赴任して教育事業にかかわった津田元一郎氏の著書『日本的発想の限界 イラン・アフガニスタン・東南アジアの真相』(1981年、弘文堂刊)は次のように述べる。

「ソ連中央アジアはかつて〝飢餓草原〟と呼ばれてきた不毛の土地であった。それは決して、アフガニスタンより恵まれた条件にはなかった。その不毛の飢餓草原を豊かな大地に変貌させつつあるのはソ連であり、後に諸指標を比較してみると一目瞭然だが、アフガニスタン側に取り残された民衆に比べ、ソ連側の生活が格段に向上しつつあることは否定できない。」(62ページ)

キエフで軍事技術を学ぶ多感なアフガン青年たちは、ソ連社会主義建設の現実の成果を目の当たりにして、中世的な後進性の闇の中でもがく自国の窮乏をいかにして救うか、そのような事情を津田氏は前掲書で次のように結論づける。

「西側諸国が途上国援助への姿勢を改めず、一部特権階級だけを肥らせるような援助しかつづけない限り、途上国の民衆はソ連の指導下で発展する革命の道を選択するしかない。アフガニスタンにとっても、最後に残された道はそれしかなかった。ソ連の軍事介入を招いたのは、自らは民衆の貧困を救おうとせず、ソ連の指導だけを妨害し、自己の覇権主義のための攪乱工作だけをつづけてきたアメリカの責任である。アフガニスタンの絶望的な民衆の貧困を救うのに、ソ連の方がより真面目で誠実であったことは動かしがたい。」(70ページ)

アフガニスタンでの80年代の改革努力は残念ながら失敗に終わった。ムータット氏の『わが政府 かく崩壊せり』には、ムジャヒディーンなどを使った西側諸国・アラブ諸国などによる外部からの宣戦布告なき戦争による妨害だけでなく、人民民主党やソ連など革命遂行主体内部のさまざまな誤りが剔出分析されている。

わたしも、同書の翻訳者あとがきとして「アフガニスタンと明治維新」のタイトルで自分なりの見解を述べたが、今回、キエフとアフガニスタンの関係に思いをはせているうちに書き落としたことがあることに気がついた。それは、明治維新前後に幕府側反幕府側双方の日本の若者たちが欧米を見、それに追いつけ追い越せと奮闘した事実である。幕府側は咸臨丸を建造し遣米使節団を派遣した。その船には福沢諭吉が乗っていた。渋沢栄一は徳川昭武の随員としてフランスに留学した。高橋是清は勝海舟の息子と一緒にアメリカ留学したが手違いで奴隷体験までしている。薩長の若者は鎖国の禁を破ってイギリスで学んでいる。長州の伊藤博文や井上馨もそのなかにいた。これらはほんの一部であって、旧体制の内実であった各藩でも黒船来襲以来、西洋の実力を知り海外事情の習得に努め、「攘夷」を即座に「和魂洋才」に切り替えた。

明治維新そのものはアフガニスタンよりは国全体を巻き込んだ大規模なものであったが、本質的には下級武士と旧封建制力のなかの開明派が手を組んだクーデターそのものだった。アフガニスタンとの決定的な違いは、江戸時代に現代の商品市場を先取りするかのような米相場まで成立していたほど、資本主義成立の土台が成長していた。資本主義に進む経済社会的な土台、条件が日本にはあったが、アフガニスタンにはその条件(社会主義はなおさら)がなかった、という厳然たる事実がある。さらに決定的な要因は、日本の場合、外国勢力に頼らず、国内勢力で国家の政治権力を樹立することに成功した、ということにつきる。結果論でかつ厳しい言い方だが、アフガニスタンは「ないものねだりをして外国に頼ってしまった」のかもしれない。しかもその、頼った外国も自滅に向かう困難を抱えていたことが不幸に輪をかけてしまったと言えるのではなかろうか。

(※ アフガニスタンのような国の成長理論として社会主義陣営からは『資本主義を飛び越えて-モンゴルの歩み』(1977年、B.シレンデブ)という提案があった。歴史的には後進国が「開発独裁+外資」によって経済的に発展する道が示された(中国はその最大のもの)。世界が十分に成長しないうちに貧富の格差の拡大や地球環境問題など「成長の限界」が意識されるようになった。SDGs(国連)やESG(金融界)などが提案されているが、懸念への対策が取られなければ逆に低開発国と先進国との格差を広げてしまう危険性がある。)

【野口壽一】

 

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~020

  アフガン-ウクライナ-新疆・台湾 

地球を滅ぼしかねない危険な火遊び

(2022年02月15日)

 

『ウエッブ・アフガン』では、昨年8月、米NATO軍のアフガン撤退後のアメリカの戦略をつぎのように読み解いた。つまり、アフガニスタンに中国・ロシアを引き込む。そして新疆ウイグル・台湾問題で中国を叩き、ウクライナ問題でロシアを叩き、経済的軍事的に足元を脅かすようになった中国を蹴落とそうとするだろう、と。

しかしこの分析は何もわれわれ独自なものでもない。Newsweekはアメリカの対中、対ロ戦略をつぎように分析していた。それはまさに、われわれと裏表をなす同じ分析といえよう。

「バイデン大統領はアフガニスタンから米軍を撤退させ、イスラム原理主義武装勢力タリバンの復権を黙認した。バイデン大統領の弱気につけ込み、権威主義国家のロシアや中国はウクライナや台湾で揺さぶりをかける。バイデン大統領がオバマ氏と同じように武力行使をためらえば、クリミアの悲劇が繰り返される恐れがある。北大西洋条約機構(NATO)加盟を望むウクライナのゼレンスキー大統領がロシアの神経を逆なでし、プーチン大統領は今年3~4月、ウクライナ国境近くに10万人以上のロシア軍を集結させ、緊張を高めた。プーチン大統領はウクライナのNATO加盟で西側の軍事力がロシアの下腹部に突きつけられることを恐れている。」(2021年12月6日)
(https://news.yahoo.co.jp/articles/dec0869ea7cccacde2c4616f57a30d692d30a48f)

Newsweekは同じ記事で、「米政府高官はワシントン・ポスト紙に『(ロシアは)意図をあいまいにし、不確実性を生み出すため、計画では今年春(2021年)にウクライナ国境付近で行った演習の2倍にもなる100個の大隊戦術グループと推定17万5千人の人員、装甲、大砲、装備品を広範囲に移動させることになっている』と語っている」と書き、北京冬季オリンピック最中または直後の2月中旬にはロシアがウクライナに侵攻する可能性がある、と匂わせている。つまりはロシアのウクライナ侵攻のシナリオを作成し、ゼレンスキー・ウクライナ政権に鞭を入れ、危機を大々的に演出し、世界を戦争前夜の緊張に巻き込もうとする挑発が進行しているのだ。

アメリカはアフガン撤退から半年も経ずして、ウクライナをめぐる緊張を欧州戦争の瀬戸際にまでもってきた。諸報道のキャッチコピーがそのことを明瞭に描き出している。

・1月24日、日経新聞「NATO、東欧に加盟国軍増派 米英はウクライナ退避命令 米も数千人規模の派遣検討 ロシア侵攻に備え」
・2月2日、ブルームバーグ、「米軍が東欧に部隊増派へ、3000人規模-ロシアは『破壊的』と非難」
・2月7日、ロイター、「NATO、ロシアがベラルーシに軍とどめれば増派も=軍事委員長」
・2月8日、産経新聞、「英独、東欧方面に軍増派」

ロシアがウクライナに侵攻することを前提に、経済制裁の準備が着々と進む。
・1月20日、BBC、「ウクライナ侵攻は『ロシアに大惨事』招く バイデン氏が警告」
・1月29日、時事、「米、対ロ経済制裁の準備加速 ウクライナ侵攻備え―日本に影響も」
・2月8日、産経、「米EUが天然ガス供給協議 ウクライナ問題で協力強化」

欧米からの経済制裁は貿易ストップやガスパイプラインの閉鎖、SWIFT(銀行間国際決済システムの利用停止などで、2014年以来、クリミヤ問題ですでに実施されている制裁にさらに上乗せされ、厳しいものにしようとする腹積もりだ。

日本が、ウクライナ問題を対岸の火事視しないように、プレッシャーがかかる。

・2月6日、FNNプライムオンライン、「アメリカが日本にロシア制裁の検討要請 ウクライナ侵攻に備え」
・2月9日、朝日新聞、「日本政府、欧州にLNGの一部を融通へ ウクライナ情勢緊迫化を受け」

マスコミ報道ではすでにロシアのウクライナ武力侵攻が既定の事実となっているようだ。

そのような状況の12日朝、バイデン大統領とプーチン大統領の電話会談が行われた。TBSは会談終了から数時間後の13日6時35分のニュースで次のように速報した。

(1) ホワイトハウスによると、バイデン氏は「ロシアがウクライナに侵攻すれば、同盟国とともに断固として対応し、厳しい代償を科す」と改めて警告。アメリカ政府高官は「ここ数週間の動きと根本的な変化は無いものの、ロシアの懸念にも向き合う考えを提示した」としている。

(2) ロシア側によると、プーチン氏はバイデン氏の提示した考えについて「慎重に分析し考慮する」と表明。その上で、侵攻への懸念について「ヒステリーが最高潮に達している」と指摘し、NATO=北大西洋条約機構がこれ以上拡大しないよう求めるロシアの提案には応じられないとする欧米の回答に対し、近く正式な対応を発表するとした。

(3) プーチン大統領はこれに先立ち、フランスのマクロン大統領とも電話会談。フランス大統領府によると、マクロン氏は「誠実な対話と緊張の高まりは両立しない」と伝えた。プーチン氏は「攻撃を仕掛ける意志はない」と改めて述べたという。

(4) ウクライナのゼレンスキー大統領は南部のヘルソン州で行われた軍と警察の合同演習を視察。ロシアの侵攻が迫っているとするアメリカ政府の見解について問われ、「こうした情報はパニックを引き起こすだけで、我々の助けにはならない」と述べた。

(5) アメリカ政府は、ウクライナにある大使館の職員に直ちに国外退避するよう指示。ウクライナにいる自国民に「退避すべき時はもう過ぎている」として、改めて速やかな退避を呼び掛けた

(6)11日から12日にかけて、イギリスやカナダ、ドイツなど多くの国も自国民に退避するよう勧告や要請を出していて、ロシア軍の侵攻に備えた動きが加速している。

ウクライナ情勢について、日本外務省はつぎのような情勢判断にもとづき国民への要請をすでに発している。

【危険度】
●ウクライナ全土
レベル4:ただちに退避してください。ウクライナへの渡航は、どのような目的であれ、止めてください。(WAJ注:レベル4は最高危険度)

<概況>
(1) ウクライナの国境周辺地域においては、ロシア軍の増強等により緊張が高まっており、予断を許さない状況が続いています。隣国ベラルーシでは、ロシアとの軍事演習が開始され、また、最近ロシア軍の船舶が新たに黒海に入るなど、更に緊張が高まっています。関係国による外交努力の動きがある一方で、事態が急速に悪化する可能性が高まっています

(2)2014年3月、ロシアがクリミア自治共和国及びセヴァストーポリ市を違法に「併合」したことにより、この地域では現在までロシアによる不法占拠が継続しており、ウクライナ政府の統治が及んでいません

(3)2014年4月以降、ウクライナ東部のドネツク州及びルハンスク州において、ウクライナ政府は、武装勢力によって占領された領地を取り返すべく、「反テロ作戦」を開始し、現在まで同地域においてウクライナ政府部隊と武装勢力との間で戦闘が継続しています
(以上、「外務省海外安全ホームページ:ウクライナの危険情報」より)

 

このような緊迫した状況のなかで、ゼレンシキーウクライナ大統領は、2022年2月12日(土曜日)、ウクラインフォーラムで、「ウクライナはアフガニスタンとは違う、ロシアはタリバンではない」と次のように語り、武力侵攻にはあくまでも武力で対抗し、ロシアと闘うとしている。つまり戦争する、ということだ。

ゼレンシキー大統領、ウクライナをアフガニスタンと比較するのは間違いと指摘 「ロシアはタリバンではない」

ゼレンシキー大統領は米CNN局とのインタビューでつぎのように発言した。
司会者から、アフガニスタンからの米軍撤退後、米国が将来「ウクライナを一人で置き去りにする」可能性を恐れてはいないか、と尋ねられると、ゼレンシキー大統領は、「それは正しくない比較だ。なぜなら、ウクライナは、アフガニスタンほどには米国に依存していないからだ」と発言した。
大統領はまた、「そして、私は、これほどに地理的に大きな国で、国民の多いウクライナのような国を5〜7日間で奪取することは不可能だと確信している」と述べた。
加えて大統領は、2014年、ロシアがクリミアを占領し、ウクライナ東部で戦闘が開始された時、「私たちのところは、他には誰も戦っていなかった。私たちには、その時あった兵器と、自国の軍人以外には何もなかったのだ」と指摘した。
続けて大統領は、「しかし、志願の波が生じ、人々の努力と、自らの国を守りたいという皆の願望による志願兵部隊が生まれたのだ。それ以外には誰もいなかった。それでも、4日間ではなく、7年間にわたり、ロシアはウクライナを奪えずにいる。ロシア連邦はタリバン軍ではない。ロシア軍は、世界で最強の軍の一つなのだ。そのため、私は、私たちは自国を防衛したと思っているし、他国から最大限独立していると思っている」と強調した。
(出典:https://www.ukrinform.jp/)

バイデン、プーチン、シーチンピン

みっともない終端場を演じあっけなくアフガニスタンをターリバーンに明け渡したバイデン大統領は、名誉挽回とばかりに頑張ってるんだろうか。「自国を守る意思のなかったアフガニスタンは見捨てたが、自国を守る意欲を見せているウクライナは見捨てない」といわんばかりに。そんな見栄は張らないでほしい。

 

一方、プーチン、シーチンピン(習近平)のロ中コンビは冬季オリンピックを利用してトップ会談。バイデンを旗頭とする米欧日連合に対峙して連携を誇示した。

・2022年2月4日、NHK、「中ロ首脳会談 “NATOのさらなる拡大に反対” 共同声明を発表」

会談後、両首脳は、NATO=北大西洋条約機構のさらなる拡大に反対するとした共同声明を発表。
両首脳は、会談が終了したあと、共同声明を発表し、この中で「世界の一部の勢力は、国際問題に対する一方的なアプローチを主張し、他国の内政に干渉して正当な権利と利益を損なっている」としてアメリカを念頭に強く批判。
さらに「両国は、個々の国や政治・軍事同盟が他国の安全を犠牲にして一方的な軍事的優位性を追求することは、国際的な安全保障秩序と世界の戦略的安定を著しく損なうと考える」とした上で「NATOのさらなる拡大に反対する」と明記。
「中国側は、ロシアが提案しているヨーロッパにおける長期的で法的拘束力のある安全保障の形成について共感し、支持する」としている。

グローバル・パワーゲームの主役の3カ国とも、コロナパンデミックの継続の中、内政に大きな課題や困難を抱えている。アメリカは吹き止まないトランプ旋風の継続や非和解的格差拡大による国内不和を抱え、ロシアはソ連邦の崩壊以来国際的な影響力をそがれNATOにのど元にまで進出され経済制裁による負担も大きい、一見好調そうな中国は共産党の権威を守るためには外交での強硬策(香港台湾)が必要なほど経済発展の行き詰まり感と国内格差の拡大がある。いまさらジョージ・オーウェルの『1984』を持ち出すまでもなく、21世紀世界では、ユーラシア大陸のイーストリア、セントリア、ウエストリアでつねに戦争状態を維持継続することにより寿命がつきつつある国家という支配システムに各国為政者が必死になってすがりついている現実が進行中といえる。犠牲をこうむるのはいつでもどこでも一般庶民、人民大衆、つまりわれわれにほかならない。

※ 今回の「視点」ではウクライナ問題の内実をなすロシア側の言い分、NATO側の言い分双方の検討や、核兵器の存在をちらつかせながら行う恐喝外交の非人間性、やくざ組織と変わらぬ国家権力という巨大な組織悪の本質的な解明、庶民の存在を無視したパワーゲーム思想、人類の未来への責任感の欠如など、問題にすべき数々のテーマはすべて割愛し、マスメディアのキャッチコピーを通して地球の滅亡につながりかねない「火遊びの危険」を浮き上がらせてみました。
地球はかなりヤバイ特異点に差しかかっているような気がします。

【野口壽一】

 

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~019

  国際矛盾と対立の十字路 アフガニスタン 

『破綻の戦略』(髙橋博史著)を読んで

(2022年02月01日)

私(野口壽一)が本書の著者高橋博史氏の存在を知ったのは1999年、キルギスで金および銅鉱床の探査を行っていた日本人鉱山技師4人、通訳らが誘拐された事件の発生のときだった。事件は現地人より現地語に詳しいといわれる駐ウズベキスタン日本大使館員が自己の持つネットワークを駆使して犯人らと交渉し無事救出し解決した。その大使館員が髙橋氏だった。報道に接して「すごい大使館員がいるものだ」と思ったのを覚えている。その後、駐アフガニスタン大使を歴任された高橋氏と面識を得て、中村哲医師の偉業について講演をしていただいたり、『ウエッブ・アフガン』に、原稿の転載を許諾いただくことができた。昨年夏のターリバーンによるカーブル占拠の際には、関係者救出の特別機を飛ばしながら1人しか救出できなかった日本政府の不手際を批判するテレビ番組で「こんなとき高橋さんがカーブルにいてくれたら」と発言したコメンテーターがいたほど、高橋氏の現地通ぶりは知れ渡っている。

本書は日本外務省職員の公務員外交官というより現地政争に積極的に分け入り果敢に情報を探り入手する諜報部員の行動記録の趣がある。氏の思想と行動のあり方の特徴は本書冒頭で明らかにされているようにアフガニスタンに留学するきっかけとなった書が大川周明の『復興亜細亜の諸問題』だった、というところにありそうだ。知行合一の精神といえよう。(ちなみに私は40歳を過ぎてから鶴岡市に招かれて致道館や同市博物館を訪れた際、庄内藩士が西郷隆盛の南洲遺訓をまとめ日本中に広めた史実を知り、その荘内で大川周明が中学高校生活をすごし西郷に傾倒していた事実を知った。鶴岡訪問では頭の中のゼンマイが十回巻かれるくらいの影響を受けた。)

髙橋氏のアフガニスタンとの関りの原点ともいえるカーブルでの留学時代(本書第二章 1978年の軍事クーデターと若き愛国者の死)の記述は、氏の思考と行動の基軸がどう形成されたのかを如実に教えてくれる。氏はアフガニスタンの言語と歴史および庶民の暮らしの実情を自らの眼と手足で視察・学習・取得する傍ら、命をかけて同国の現状を改革しようとする人びとと密接に付き合う。そして、ソ連軍が侵攻する3カ月前の1979年9月、アフガン人友人に危険を示唆されカーブルを脱出する。その十カ月後に私はカーブルを訪れ40日間の取材をし写真記録を出版することになるのだが、この第二章には東京で駐日アフガン大使として私に取材許可のビザを発行してくれたアフドゥル・ハミド・ムタート氏(本書ではモフトゥート)や、その後カーブルで取材したカルマル議長やナジブラー大統領など多くの人びとの名前が出てき、苦かったりすっぱかったりの感慨と複雑な思いをいだきつつ文字を追った。自分もその渦中にあった日本の60年代後半から70年代までの激動の十年間の政党やセクトや全共闘などの激情のぶつかり合いの光景が脳裏に彷彿とした。本書の白眉となる章である。

さて、前置きが長くなった。本書の中身に入ろう。タイトル『破綻の戦略』はなんとも重々しく苦しいタイトルだ。著者は、このアフガニスタン40年の苦難の歴史の中で明日を展望して闘う3人をピックアップし、彼らの戦略の破綻のプロセスとその原因を探ろうとする。その3人とは、氏がアフガンのロビンフッドと呼ぶマジッド・カルカニー(カラカニ)、パジシールのライオンことアフマッドシャー・マスード、ターリバーンの創設者ムッラー・ムハンマッド・ウマルの3人である。アフガニスタンの現状を変革するために奮闘し命を捧げた人物はほかにもたくさん存在するが氏のピックアップの基準は、アフガニスタンの常民(平和な暮らしを望み慎み深く伝統を守りながら生きる庶民)を外国勢力(ソ連やアメリカなど西洋諸国、あるいは半分同胞でもあるパキスタン)から守り、平和を取り戻す戦略の担い手、にある。

髙橋氏が一番目にあげたアフガンのロビンフッド=マジッド・カルカニーは、1980年6月、PDPA(アフガニスタン人民民主党)政権下でソ連侵攻に反対する活動中にとらえられ処刑された。1番目の戦略は早々と破綻した。第2のマスードの場合は、ソ連軍との戦いでは敵を撤退にまで追い込んだが、ムジャヒディーン内部の戦争を収拾できずかつ、パキスタンの干渉とターリバーンの登場をはねのけられず2001年、9.11米同時多発テロ事件の2日前、アラブ人テロリストに暗殺され戦略と夢はついえる。最後のムッラー・ウマルは、サウジアラビア人ウサマ・ビン・ラーディンに騙された、と死の前(2013年4月)に遺言のような謎の言葉を残してこの世を去ったという。著者は、三つの戦略とも、外国勢力の排除、戦争の終結、平和の実現ができなかったところに戦略の破綻を見ている。そしてそれらの戦略が破綻した原因がどこにあったのかを追究する。

最終章である「第七章 潰えた戦略と中村医師の夢」で著者の自問への回答が語られる。そこまでの論述は、「第三章 ムジャヒディーン」「第四章 ムッラー・ウマルと七人のサムライ伝説」「第五章 ターリバーン考」「第六章 9・11事件の序幕」、そして著者の結論第七章へと続く。その論述は、著者の行動を追うようにドキュメント風につづられ、飽きることなくページをめくることとなる。読者の皆さんには、ぜひ、最終章まで手に取って熟読されることをお勧めする。

本書の叙述で、私が特にひきつけられたのは次の箇所である。

● 9・11事件の直前マスードが自爆攻撃された時の生死不明から2日間の情報収集に奔走する髙橋氏の面目躍如たる行動。高橋氏旧知のキルギス日本人誘拐事件の犯人ジュマボーイ・ナマンガニーが登場し、中央アジアからモスクワまで攻め上り赤の広場の赤旗を引きずり降ろしてイスラームの緑の旗をかかげる、というビンラーディンの途方もない大風呂敷計画が明かされる個所。私も、マスードが襲われ負傷したという情報をローマで亡命生活を送るザヒール国王と日本の国会議員を会わせる段取りをしていた友人から電話で聞いたときの驚きを思い出した。翌日、安否不明から死亡か?へと情報が変わり衝撃を受けた翌日、ニューヨークの世界貿易ビルへ旅客機がつぎつぎと突入する驚愕の映像。3千人以上の人びとの死。ブッシュ大統領の「十字軍戦争」演説。世界が世界貿易ビルと同様にガラガラと音を立てて崩れていくかのような幻覚を覚えた。私の身辺も急にあわただしくなり取材申し込みが殺到した。しかし、ビンラーディンの動静をマスコミに聞かれても提供できる情報などはない。「知っていてもあなたには教えない。アメリカに教えて懸賞金をもらうよ」と冗談を飛ばした。欧米では、冗談でなく、「ビンラーデン探索洞窟ツアー」なるものが企画されたという。

● ムジャヒディーンが内戦に明け暮れ外国からの支援金の私利私欲の争奪に走る実態の叙述。そんな時期にイスラームの老師に和平への見通しを聞きに行き「(戦争は)終わらない、ずーっとつづくであろう」と謎のご託宣をもらう経緯。

● 若輩かつ最弱小グループのリーダーで、イスラーム修行僧としても田舎のマドラサ(神学校)で学んだ程度の下位のムラーにすぎなかったオマルが「信徒の長」にまで祭り上げられる成り行き。七人で決起するしょっぱなにケシの密輸ができなくなって困っていた商人に資金援助をしてもらいその後もケシ密輸ができるようにしてやって見返りを得たこと、内戦に行き詰っていた野戦指揮官やパキスタンが武器供与や実戦でターリバーンを支援する話。

● パシュトゥーン族の部族慣習法であるパシュトゥーンワーリー(パシュトゥーン精神などの意味)の中の「ノムース」という言葉を取り上げて、パシュトゥーンがいかに、なぜ、「名誉」を重んじ、「男たること」の誇りと守護に頑迷なほどにこだわるのかの実体験にもとづく考察。これらについては、アフガニスタンの社会変革にとってパシュトゥーンワーリーの理解と扱いが極めて重要であることを40年前に私も『新生アフガニスタンへの旅』で論じたことを思い出し、もう一度読み返した。パシュトゥーンワーリーのあり様が当時とまったく変わらないことを再発見した。

そのほか、本書には、アフガニスタンのみならず、パキスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、キリギスタンなどで実際に生活をしたものでなければ気づかない、書けないであろう事実が山盛りである。現地事情に不慣れな読者には地名や人名、宗教や地域事情などで分かりにくいところがあるかもしれないが、記述は著者の視線と体の動きにそってなされるから、ツンドクになる可能性は低い、と保証する。

最後に、私見を2点述べさせていただきたい。

● 「ターリバーンの世直し運動」(204ページ)という表現
著者の表現への誤解を承知で敢えていうならば、ターリバーンは「世直し運動」をしているのでなく、「世戻し運動」をしているのだと思う。欧米軍が撤退しターリバーンが昨年カーブルに再登場したが、私に言わせれば、これで初めてアフガニスタンではパキスタンを含む半封建的部族社会の変革への道が始まる、と思っている。40年前、正確には半世紀前の1973年に青年将校たちが始めた、ザヒール王政を打倒してダウドを担ぎ上げたクーデターから始まるアフガニスタン変革の課題(周辺諸国にくらべて著しく遅れたインフラや教育や社会的低開発状態、伝統的な半封建部族社会の因習の改革)に外国勢力を排して取り組むことが初めて可能になるのである。ソ連とPDPA政権下の10年、欧米支配の20年は決して無駄ではない。アフガン人は都市と農村の格差はあったとしても改革の味を味わったのであり、とくに女性は圧倒的な男性優位社会に対してノーを突きつけ始めている。女性の参加なしに社会発展はありえないことをターリバーンは思い知るだろう。その時初めて世直しが進むのだと思う。

● 本書の締めくくりとして中村医師の偉業が取り上げられている点。(第七章)
髙橋氏は、中村さんは殺害されてしまったが、彼の「隠された和平への戦略」こそが真の勝利する戦略である、と述べておられるように読める(必ずしも断定はされていないが)。
私も中村さんの事業の偉大さに感動するとともにそれに参加し犠牲になりあるいは日本にあって支援する人びとの尽力に頭を垂れるものである。しかし、じつは、中村さんのように、人びとの生活に直結する人道的な目標の実現に身を捧げ邁進し苦難の除去や開発や改革に貢献している人びとはアフガニスタンだけでなく、世界中にたくさん存在している事実も知っている。そもそもアフガニスタンで殺し合いをしながら、外国の支援をえながらでも主導権を取ろうとして争っている人びとでさえ、立場は違えどもその最終的な目標は人びとの平安であり豊かな生活の実現なのではないだろうか。その実現を妨げているものは何か、私は人間が作り出したもろもろの、頭の中にある観念とそれの現実への反映、つまり諸慣習や宗教や国家制度のマイナス面、限界、桎梏としがらみとそれらの対立・抗争だと思う。それら対立抗争の解消や人権擁護、生活改善・開発、社会改革の推進は本来政治の課題であって当事者にできないそれらを外国の人道ボランティアが無償で担わざるをえない現実こそがいびつであって問題なのではないかと考える。私は80年代の初めからアフガニスタンに関わり、九州大学医学部で学生運動を闘った同世代の中村さんのペシャワルでの活動を中村さんと一緒にキャンパス生活を過ごした中村氏との共通の同窓生に聞き、中村氏の活動を横目に見ながら、中村さんらの仕事は本来、政治と革命の課題であるべきだとの認識に基づいてPDPA政権の革命事業を全力で応援した。その私の戦略も残念ながら「破綻の戦略」に終わった。しかし今『ウエッブ・アフガン』の活動を続けているのは、80年代以降現在までの活動の過程でさまざまなアフガン人からいただいた「恩義」にむくい「贖罪」と「責任」を果たすための「義務」だと認識している。(視点001「なぜ今またアフガニスタンなのか」、視点017「アフガニスタンにはまる理由」参照)

ともあれ、アフガニスタンは他の地域に比べて極めて複雑で厳しい条件を強いられている。これまで命をかけて挑まれてきたほとんどの戦略が破綻した。破綻していないのは、現に今闘われている闘いだけである。アフガニスタンの変革はとんでもなく長い時間がかかるのかもしれないが、押し付けられた自由、平等、人権、繁栄ではなく、自分たちが主体となって社会変革し獲得する闘いはやまないだろう。それは、アフガニスタンと様相を異にするとはいえ、われわれ日本人の日本での課題でもあると思う。

『破綻の戦略 私のアフガニスタン現代史』(髙橋博史著)は白水社発行、定価1900円。

【野口壽一】

 

 

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~018

 アフガン女性の闘いの意義 

「人類史の視点から」

(2022年01月25日)

 

<視点 -1:元始、女性は太陽であった>

女権獲得と反戦平和運動に生涯をささげた平塚らいてう(1886年~1971年)の言葉。1911年、雑誌『青鞜』創刊の辞の書き出しだ。

「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。/今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。」(『平塚らいてう評論集』岩波文庫、1987年)

フランスの哲学者・フェミニスト活動家のシモーヌ・ド・ボーヴォワール(1908年~1986年)が『第二の性』を発刊したのは1949年、人類史上初の国政への女性参政権行使は1893年ニュージーランドで、日本では1946年4月10日戦後初めての衆議院議員総選挙である。1,380万人の女性が初めて投票し、39名の女性国会議員が誕生した。人類が、政治において男女平等の権利を実行に移し始めてからまだ百数十年しかたっていない。

ちなみに、人類史上初めて自然権としての人の平等と自由を宣言したのはフランス革命(1789年)での「フランス人権宣言」であった。
さらに、日本の革命的哲学者であり男女平等論者であった医師・安藤昌益(1703年~1762年)が『自然真営道』で万民平等のみならず「男女」と書いて「ひと」と読ませ、無階級社会を展望したのは、フランス革命よりも早かった。

ところで、平塚らいてうがいう「元始」とはいつころのことだろうか。
数十万年のホモ・サピエンス史にてらせば、実は、それほど遠い昔ではなく、ごく最近のことなのである。

中国西安を遺跡見学旅行したときのこと。中国・西安の遺跡と言えば誰でも始皇帝の兵馬俑坑を思い浮かべるのではないだろうか。しかし西安には始皇帝からさかのぼる数千年前の新石器時代の遺跡・半坡(はんぱ)遺跡があり、この遺跡は、兵馬俑坑に負けず劣らぬ価値がある。

半坡遺跡は、時期的には日本の縄文後期、たとえば青森県の三内丸山遺跡と同じころの遺跡。三内丸山遺跡は今から約5900年前~4200年前の縄文時代の集落跡で半坡遺跡と時期的内容的に近い。しかし中国西安ではそれからたった数千年の間に青銅器時代を経て鉄器時代に進み、秦のような大帝国が築かれた。秦帝国が成立した紀元前259年ころ日本は弥生時代で青銅器や鉄器が入ってきてはいたが、国家統一などまだ先の先、やっと狩猟採集から農耕時代へと移り変わる段階だった。

人類はメソポタミアの三日月地帯で農業が始まった1万2000年前あたりから急速な変化を遂げた。それまで人類は世界中どこでも石器時代で狩猟採集生活をつづけていた。狩猟採集の村落共同体時代から秦のような大帝国の時代までの発展は新人類がアフリカで誕生してからの数十万年に引き比べれば、まさに「あっという間」といえるのではないか。

農業生産が始まってからの驚異的社会発展スピードよりも私の眼を引いたのは、半坡遺跡博物館エントランスに設置されたジオラマの「母系氏族」と刻まれた自然石碑文の上に飾られた言葉だった。


(民知其母 不知其父 荘子・盜跖)
One knows his mother, not knowing his father
母が誰かは知っている。しかし父が誰かは知らない。

母系社会(母権社会、母系相続)、父系社会(父権社会、父系相続)についてはさまざまの学説があり、東洋と西洋とで、大雑把に言えば東洋では母系社会への理解が深く、西洋では父系社会を強調するきらいがある。しかし、中国でもBC11世紀からBC7世紀ころの殷や周の時代に血縁氏族社会が形成されるころには母系氏族社会から父系相続の父権社会へ移行していった。それはなぜかといえば、農業生産によって富と権力の蓄積が可能となり、財産を実子相続しようとすれば、誰が自分の子供であるかを認知・保証する必要があるからである。「母が誰かは知っている。しかし父が誰かは知らない」状態では父は「誰が実子であるか」を知り、確信することができない。確実に認知するためには妻を隔離し他の男と接触させないようにすることがもっとも確実である。中国宮廷での宦官制はその極致だろう。

日本で女性が太陽の地位から月の地位に転落(平塚らいてうの価値観)したのは、ぐっと時代が下がり、明治時代以降であると私は思う。
日本では、中国や朝鮮から、父系社会を確立させた勢力が渡来し天皇支配を確立したあとの平安時代の支配階級内でさえ、色濃く母系社会の特徴をとどめていたことは、源氏物語などの文献によってもあきらかである。武士階級が実権をにぎって富と権力の父系相続が全国にゆきわたっても、庶民(百姓)階級では明治時代になって西洋から家族制度が導入されるまで母系社会の色は衰えず、維持されてきた。アカデミズムの世界では父母双系社会として定義され研究・議論されているようであるが、ここでの議論は「元始」がそれほど遠い過去ではないことを確認して、ここまでとしておこう。

 

<視点 -2:アフガニスタンにおける女性解放の闘い>

さて、本題のアフガニスタン(とくに多数民族であるパシュトゥーン族)における女性の地位と女権獲得の闘いをみてみよう。

世界の他の地域でも同じであるが、女性の地位を規定する要因としては、男女の性の差異による区別(差別)とそれに基づく社会的・経済的・政治的・宗教的・文化的区別(差別)があり、複雑である。

アフガニスタンにおける女性の地位を規定する規範は、如上のような世界共通(人類共通)の区別(差別)の上に、社会的規範に限定しても、支配的な宗教であるイスラームによる縛りと、支配部族であるパシュトゥーン族の掟(パシュトゥーン・ワリ(参照:http://www.caravan.net/int/shinaf/txt_1/2ch03.html 3 封建的部族社会とは))の複合した複雑な環境下に置かれている。

イスラームに男女平等を否定する教義的規定があるわけではないだろう。しかし、旧約聖書に始まる人間創造のフィクションでは、神がアダム(男)をつくり次にアダムの寂しさをいやすためにアダムの肋骨の一部からイブをつくったことになっている。このことから女性がユダヤ・キリスト・イスラーム社会では第二の性として扱われたと論じられがちだが、実は、この一神教ができた時期は、人類が狩猟採集社会から脱して富と権力を実子相続する農耕社会になり男が女から権力を奪う父権社会を合理化する必要性がでてきた段階の後であり、その間の男の側の都合を寓話化しただけのことである。

アフガニスタンではイスラームが伝播してくる以前から存在していたパシュトゥーンの掟と一神教イスラームによる女性差別思想(女性の価値はキリスト教よりも1/4に切り下げられた)が合体され、世界の他の地域よりより強固な桎梏となってしまった。

世界で、男女同権思想に基づく、女権拡張主義、女性尊重主義、フェミニズムなど「女権復権」の闘いは、フランス革命の人権宣言から始まると言えるのだが、アフガニスタンでは隣国ロシアの1917年十月革命に大きな影響を受けて始まった。

1919年にイギリスからの独立を果たし近代化を目指したアフガニスタンのアマーヌッラー国王は、革命ロシアを世界に先がけて承認しソ連を範に取り、女性解放につながる法律を導入した。自らもベールをかぶらぬ妃を同伴して訪欧したり、国民全体の識字教育とくに女子教育にも力をいれた。新しい税制や因習の廃止や新しい生活規範の導入など国の近代化を目指した。しかし1928年、カーブルの男性に洋服の着用を義務付ける命令を公布したことが結果的に致命傷となり、同年、バッチャ・サカオの乱が起きる。イギリスはこれを好機とみてタジク人の反乱指導者に資金と武器を供給してアマーヌッラー国王を失脚させた。

アフガニスタンでの女性解放の闘いはさまざまな潮流によって再生と断絶とが幾度も繰り替えされている。アマーヌッラー時代の次の時期の代表的な女性解放の活動は、ソ連の影響を受けた左翼系の運動である。

私がカーブルで直接会いインタビューしたアナヒタ・ラテブザド氏(1931年~2014年)の活動を見てみよう。(※1)(↓ 執務室で野口のインタビューに答えるアナヒタ・ラテブザド教育相(当時))
彼女は公然とベールを脱いだ最初のアフガン女性のひとりだ。1963年にカブール大学医学部を卒業し、1964年にアフガニスタン女性民主組織(DOAW)を設立、1965年3月8日にカーブルでアフガニスタン初の国際女性デーのデモンストレーションを組織した。同年にアフガニスタンで初の国会議会選挙が実施されたとき4人当選した女性議員のひとりであった。ラテブザドは1968年にアフガニスタン人民民主党(PDPA)の中央委員(パルチャム派)となり運動を指導した。四月革命 (1978年)により 情報文化省大臣となり、同時に全アフガニスタン女性連合を率いたが、パルチャム派とハルク派の内部紛争によりユーゴスラビア大使として国外へパージされた。ソ連軍侵攻によるパルチャム派の奪権とカルマル政権の樹立により帰国し政権に復帰、80年より政権側から、女性解放運動、戦争寡婦対策や女性政策に携わったが、内戦の激化により92年に政権そのものが崩壊してしまった。

(※1)彼女とのインタビューおよび識字教育については下記参照
http://www.caravan.net/int/shinaf/txt_1/ch07.html
http://www.caravan.net/int/shinaf/txt_1/ch08.html
http://www.caravan.net/int/shinaf/txt_1/ch09.html

 

~RAWA
アマーヌッラー政権やPDPA政権の体制側からの女性解放政策に対して、特筆すべき活動としてRAWA(アフガニスタン女性革命協会)の民衆の側からの闘いがある。RAWAは、ソ連が軍事介入する前の1977年に設立された、最も古いアフガン女性の人道および政治組織で、アフガニスタンとパキスタンで、女性の権利獲得、地位向上をもとめ、伝統社会における女性差別や家父長制と闘ってきた。設立から現在までの45年間、アフガニスタンでの政治の混乱を乗り越えて戦い続けてきた唯一の女性解放組織である。(http://rawajp.org/

パンフレット『声なき者の声』(写真はその表紙、2004年、アフガニスタン国際戦犯民衆法廷実行委員会 編・訳)によれば、RAWAの目的と政治的立場はつぎのようにまとめられている。
「RAWAの目的は、人道活動と政治活動にいっそう多くのアフガン女性を関与させて、女性の人権を獲得し、民主的で世俗的な政府樹立のための闘いに取り組むことである。RAWA設立以来、アフガニスタンでは不幸な状態が続き、声も出せないような政治的雰囲気があるが、RAWAはいち早く様々な社会政治領域での幅広い活動に従事してきた。教育、保健、収入、および原理主義者に反対し、民主主義を求める政治的主張である。」
「RAWAは、常に政治的立場と人道活動を有してきたので、国連その他の政府に関連する機関からの援助はわずかしか受け取っていない。民主主義と反原理主義という明確な立場のため、支援をしてくれたのは、世界中の多数の個人と、自由を愛する独立した女性組織である。彼らからの寄付がもっとも援助を受けるべき人々に正当かつ誠実に届けられている。」

 

RAWA創立者ミーナの壮絶な闘い

RAWAのホームページはRAWA創立者ミーナについて次のように紹介している。
「ミーナ(1957年〜1987年) はカブールに生まれました。カブールなどのアフガニスタンの都市ですごした学生時代から、社会活動と大衆運動にふかく加わりました。女性の組織化と啓蒙を すすめる社会活動に専念するために大学を中退し、表現の自由と政治活動の自由をめざして、1977年にRAWAの基礎を設立しました。搾取され、言論の自 由を奪われたアフガニスタン女性の権利獲得を目的としました。
彼女は1979年、ソ連軍とその傀儡政権への抵抗運動を始め、世論を動員するために数々のデモ行進や集会を学校やカブール大学において行いました。さら に、アフガニスタン女性に対する主な活動としては、1981年に『女性のメッセージ』という2カ国語の雑誌を創刊しました。この雑誌を通して、RAWA はアフガニスタン女性の主張を大胆かつ効果的に発表したり、原理主義者グループの犯罪的な本質をたえず暴露してきました。ミーナはまた、難民の子どもたちのために学校(ワタンスクー ル)を設立し、パキスタンに住むアフガニスタン難民女性のための病院と、アフガニスタン女性を経済的に支援できるように裁縫学校を設立しました。
1981年暮れには、フランス政府の招きによってフランス社会党大会でアフガニスタン解放運動について報告しました。その会議にいたボリス・ポナマリィ エフを代表とするソ連代表団は、ミーナが勝利のサインを振り始め、会議参加者が歓声をあげたとき、恥ずかしそうにホールを出ていきました。
彼女はフランスの他にもヨーロッパ諸国を訪れ、各国の要人と会談しています。しかし、彼女が反原理主義、反傀儡政権の活発な社会活動や、効果的な抵抗運動を行ったために、ソ連と原理主義勢力は激しく怒りました。
1987年2月4日、ミーナはパキスタンのクエッタでKHAD(KGBアフガニスタン支部)のエージェントと、原理主義者の共犯者の手によって殺されました。」http://rawajp.org/?p=77

アマーヌッラー国王の近代化政策、PDPA政権下での社会主義的な政策に伴う女性解放という上からの試みと対照的に、RAWAは、少女らへの教育や衛生医療活動、授産事業など、下から積み上げるような女性解放の活動に取り組んだ。(http://www.rawa.org/s.html

単に、人道的な女性の権利獲得、拡張の活動でなく、RAWAは、社会全体の民主化、ひいては政治の民主化なくして女性の解放、権利獲得はできないとの立場にたって戦ったがゆえに、PDPAのみならずそれと闘うムジャヒディーン勢力、ましてはいうまでもなくターリバーンとも厳しい対立に直面した。それゆえ、創設者のミーナだけでなく、活動家全員が伝統的な男尊主義者、家父長制との衝突がたえなかったのである。

2001年にアメリカとNATO軍がいわゆる北部同盟をつかってターリバーン政権を葬り去ったあとの占領政策のもと、国際的な支援のもとさまざまな復興プロジェクトが進められた。この20年の間に、国連や各国が支援をおこない、各国のNGOやNPOもアフガニスタンの再生と女性解放の活動を展開した。アフガニスタン政府や軍の汚職や腐敗があったとしても、都市部を中心に、アフガニスタンの近代化はそれなりに進んだ。

例えば、国連統計などによれば、1人あたりの国民所得は2000年代初頭から2倍以上に増え、平均寿命は9年延び、学校教育年数は6年から10年になり、生徒数は80万人だったのが800万人を超え、300万人以上の少女らが就学した。女性の雇用事情も大きく変わった。かつては農事やとくにケシの栽培やアヘンの収穫といった仕事をするしかなかった女性たちが、公務員の5分の1以上、国会議員の4分の1を占めるまでになった。さらに220人の女性判事が誕生した(彼女らはいま、命の危険にさらされている)。

このような変化は統計的な表面的な変化であるが、政治的な上からの施策によらなければ実行できない改革であり、それに命を吹き込むのは下からの改革運動である。

ターリバーンの再登場によって、行政機関や教育機関、各種社会組織、報道機関などからの女性の排除が強行され、女性のひとり外出が禁止されている。しかしアフガニスタンの地域経済は、女性事業主、といっても農産物の担ぎ屋や小商店などによる活動を屋台骨とする非公式部門がほぼ8割を占めている。子どもが学校に通えるのも、親が基礎的医療サービスを受けられるのも、彼女らが最低限の収入を得ているおかげだ。こうした零細事業が打撃を受ければ貧困率はさらに跳ね上がる。働き、学び、尊厳をもって生活する権利を女性から奪うことは、アフガン経済をどん底に突き落とすことにつながる。

行政や経済を運営するためには専門職が必要だ。ガニー政権下でそれらの仕事をしていた、女性を含む専門家や国連や外国政府やNGO、NPOなどで働いていたアフガン人およびその家族たちが十万人以上国外へ去り、いままだその機会をさぐっている人びとが多数存在している。職能をもった専門家なしに国家運営ができるはずがない。

女性解放の課題以前に、アフガニスタンは、現在、経済危機、飢餓、飢饉、寒波、地震など、これまでになかった危機に見舞われている。

 

<視点 -3:アフガニスタンは「しんがり戦」>

アフガニスタンの近代化、とくに女性解放の視点からこの100年を概観したが、アフガニスタンの女性解放の闘いは、人類史的にみれば、「しんがり戦」といえるのではないか。

つまり、近代化を世界に先駆けて実現できたヨーロッパやアメリカ、アジアの一部を除いて、近代化に取り残されたアフガニスタンなどのアジアや中東、アフリカなどの地域は、後進地として人類史上最後の闘いを闘っているのではないだろうか。
先進地域が前に進むだけでは、取り残された後進地域との格差が広がり、両端の矛盾と軋みが強まり地球全体の不安定さが増す。だから、後進地域の底上げを実現し、全体の矛盾をやわらげる必要がある。

さらに付け加えると、先進地域といわれる地域でも国内の経済的社会的格差の広がり、ジェンダー問題、マジョリティーとマイノリティーとの矛盾対立など深刻な問題が生じてきている。アフガニスタン女性の苦闘も、それを支援する活動もじつは世界的にひとつながりの人類史的課題であるといえるのではないだろうか。

【野口壽一】

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~017

 アフガニスタンにはまる理由 

「恩義」と「贖罪」と「責任」

(2022年01月10日)

 

「野口さんはなぜそんなにアフガンに一生懸命なんですか」とよく聞かれます。

わたしだけじゃないんですね。たくさんの人がアフガニスタンにはまります。井上靖さんは
「アフガニスタンを一度訪ねた人は、二度三度と、この遊牧民の国を訪ねたくなる。不思議な魅力のある国である。風景も、風俗も、人情も、一度それに接すると、なかなかその魅力から抜け出すことはできない。アフガニスタンに憑かれてしまうのである。私も亦アフガニスタンに憑かれた一人である。」(「AFGHANISTAN 日本語版」序文(1974年、著者:ナンシー・ハッチ・デュプリ、発行:社団法人 日本・アフガニスタン協会))
と書いています。高校時代に井上靖さんの「蒼き狼」や「楼蘭」などを読んでシルクロードと作家の道にあこがれていました。だからはまってしまう素地はもともとあったんですね。そんな個人的な要因を語り始めると鹿児島の片田舎から世界を夢見ていた団塊世代のひとりの回顧録になってしまいそうなので、今回はパスします。

 

アフガンにどっぷりつかった30歳代

アフガニスタンにはまり、取材本を出版したことがきっかけになり、60年安保闘争を社会党の国民運動委員長として指導した田中稔男氏(のち「アフガニスタンを知る会」「日本アフガン友好協会」会長)の音頭で日本共産党を除く4党(自社公民)の国会議員をはじめ労働運動活動家や知識人など多くの人びとが集まり、「アフガニスタンを知る会」ができ、自分自身が10年間に10回もアフガニスタンに通うことになりました。

80年代中盤にはアメリカがムジャヒディーンにスティンガーミサイルを供給しカーブル空港が戦場になり戦争の拡大と緊張をひしひしと感じました。「知る会」が「日本アフガン友好協会」に発展し、さらには通算100人以上の人びとを毎年何派かに分けて友好訪問団として派遣したり、ノートや鉛筆5万本や大型コンテナで古着を送ったり、86年にはカーブルで開かれた「世界新情報秩序創設のための国際会議」に日本代表として出席したり、ソ連軍撤退のときにはそれに合わせて日本アフガン共同制作のドキュメンタリー映画『よみがえれ カレーズ』(土本典昭、熊谷博子、アブドゥル・ラティーフ監督)を制作・全国上映したり、88年に奈良で半年の会期で開かれた「ならシルクロード博覧会」にアフガニスタンを代表して参加したりしたのは、1980年からアフガニスタン民主政権が崩壊する92年までまるまる10年超の活動でした。アフガン政府から、日本との輸出入のインバランスをなんとかしてくれと依頼されて87年にはドン・キホーテよろしく貿易会社までつくり、日本の商社やメーカーや行政との交渉のため走り回りました。

この十年超の間は、ソ連が軍事侵攻していた時代で、アフガニスタンに渡航する人びとは、わたしたちが派遣する人びとを除けばごく少数の、報道やビジネスに携わる人たちだけでした。日本をはじめとする西側世界は今の北朝鮮にたいするとおなじような経済制裁と渡航制限をしていた時代でした。逆にその前の70年代は日本から1年間に3000人もが訪れるほどの観光地でした。怒れる若者として社会に登場した世界中のベビーブーマーたち、なかでもヒッピー連中が押し寄せてハッシシを吸っていた隠れた穴場として有名な土地柄だったんです。インド音楽に傾倒しシタールを弾き老荘思想を研究して西洋に紹介したビートルズ時代のジョージ・ハリスンも60年代にアフガニスタンを訪れたと言われています。

でもそういう説明じゃ、一生懸命さはわかるけど、理由にはなっていない、と納得してもらえないかもしれません。理由はたくさんあるんです。でもそれらの説明はおいおいするとして、今回一言で述べると、その十年間にアフガニスタンの政府や一般の人びとやそれらへの支援を寄せてもらった多くの日本の方がたから受けた「恩義」への「返礼」および「意地」、ちょっとばかり格好つけさせてもらえば「贖罪」感や「責任」感ではないかと思います。「責任」感は「使命」感でもあります。

「恩義」は書ききれないほどありますが今回はその「恩義」の一部と「贖罪」や「責任」について書いてみたいと思います。自分が選択した行動を合理化する弁明に聞こえるかもしれませんが、「ソクラテスの弁明」の万分の一くらいは普遍性があるのでは、とさらに自己弁明(笑)。

 

わがままを貫いてアフガンへ

人生は思うようにならないことが多いもので、裏切られて落ち込むことが多々ありました。アフガニスタンに関わり始めてからの十年間は、大げさに言えば、わたしにとって三十歳までに築いた人生観と信念が足元から崩れゆく十年間でした。(ここでも、先輩や友人から「気がつくのがおせえよ」と言われそうですが・・・)

1980年夏に日本人として第1号のアフガン政府発行の正式なジャーナリストビザをもらって40日間アフガン取材をしたときには、アフガニスタンだから行ったのではなく、たまたまその時アフガニスタンが世界政治のホットスポットになっていたから行ったのです。
そのころは東京の小川町で小さな左翼出版グループで活動していました。少部数ながら新聞や雑誌を発行していました。社会市民運動や労働運動、政治経済思想、文芸のほかにも国際情報のページもありました。それらの執筆・編集・経営の責任ある立場で仕事をしていました。79年末、ソ連軍がアフガニスタンに進駐を開始した時、日本のみならず世界中が大騒ぎになりました。80年夏のモスクワオリンピックを西側諸国は総ボイコットで対抗しました。そのような国際政治状況の進展を前にして、当のアフガン内部で何が起こっているか、さっぱりわからなかったのです。

当時は、マスコミ以外にはソ連や東ドイツの新聞などからの情報しか手に入らず、2次情報、3次情報しかありません。わたし達のグループは「革命的ジャーナリズムの創造!」などと粋がっていました。右から左まで既成左翼も新左翼もソ連とアフガニスタンを総たたきする状況に対抗して「アフガニスタン革命を守るかどうかはプロレタリア国際主義の試金石」と論陣を張っていました。が、なんのことはない、実態は、危険も冒さず安全な東京にいて〝他者の情報の受け売り〟しかできていなかったんです。忸怩たる思いとはそんな気持ちを言うんでしょうね。

そんな時たまたま、東京に留学していたアフガン出身の留学生と知り合い、「アフガンで何が起きているのか本当のことが知りたいんだ」と話したら、「じゃ、アフガン大使を紹介するから会ってみたら?」と明治神宮前駅のすぐ横にあったビルの一角に歯科医院やファッション会社などと同居する小さな大使館に連れていかれました。これが運命の出会いでした。その時の大使が、のちにPDPA政権(最後の党名は祖国党)の副大統領となって1992年にムジャヒディーンへの合憲的な政権引渡しを実現したアブドゥル・ハミド・ムータット氏だったのです。

その駐日大使に現地取材したいと申し出たら即「ビザを出してやる」と約束をもらいました。そこから現実にアフガニスタンに出発するまでのてんやわんやもまた長くなるので別の機会に譲ります。当時、アフガニスタンに単身飛び込むというのは、いまでいえば「北朝鮮国内がどうなっているのか取材に行く」というのに近いと言えばその「無謀さ」が少しはわかってもらえるかもしれません。組織からは「危険だ、事件が起きたら国際問題になる。責任が取れるのか」と反対されました。が、わがままを押し通しました。組織はしかたなく「アフガンに行ってもいいけどホテルから出るな」としぶしぶ黙認。家族の賛成を勝ち取り、友人の中には資金的に応援してくれる人もいて、ソ連軍侵攻の8か月後の夏に東京を出発して40日間、アフガニスタンを取材できました。アフガン政府は全面的に取材を許可してくれました。(どうしても行きたかったバーミヤンは「政治的天候不順で飛行機を飛ばせない。ちょっと待て(笑)」の連続でついに滞在中にはいけませんでしたが)

その取材の模様は『新生アフガニスタンへの旅』に掲載しました。アフガニスタンと日本の、わたしのわがままを応援してくださった方がたなしには到底できない仕事でした。

 

●ソ連崩壊、アフガン政府崩壊、足元が崩れる・・・

アフガニスタン現地に行く前と行った後の認識の落差は想像以上に大きいものでした。さらに、それからの10年間の事態の推移もまた。

戦乱の地に赴くような緊張感で出発したのでしたが、ついてみるとカーブルは拍子抜けするような平穏さ。そのころはまだムジャヒディーンの武装闘争はそれほど激しくなく、政権内部の急進主義の抑制に成功し、文字通り「新生アフガニスタン」に向けて社会建設の槌音が響く躍動感が感じられました。

しかしそれからの十年間、アメリカとアラブ・イスラーム主義極端派などの軍事支援をうけたパキスタンとムジャヒディーンによる「宣戦布告なき戦争」によってアフガン政府は徐々に活動範囲が狭められ追い詰められ最終的には崩壊しました。この間の事情は、アブドゥル・ハミド・ムータット氏の『わが政府 かく崩壊せり』に内部的視点から詳細に語られています。この敗北の過程は、わたしにとって慨嘆すべき悔しくかつ悲しい事態ではありましたが、革命運動に勝敗はつきものであって、敗北から学ぶことによって理論は研ぎ澄まされ、発展する、と思うこともできます。しかし、アフガニスタン革命の敗北は、単にアフガニスタンでの敗北にとどまらず、ソ連崩壊、ソ連圏つまり社会主義世界体制の崩壊と一体のものであり、自分の足元を支える思想信条を崩壊させるものでした。

 

今では理解不能かもしれませんが

ソ連や中国なんて遅れた強権支配の国でしょ?と思っている人にとって、思想信条の崩壊なんて、なにをいまさら、と思われるかもしれません。確かにそういう側面があることは否定しません。しかし、わたしの場合、周囲の反対を押し切って、言葉もわからず政情も不安で知り合いもいない、どうなるかわからないアフガニスタンに単身飛び込むという無謀な行為に出るだけの理由と決意がありました。それは、真実を知りたいという欲望でしたし、それだけでなく、多少は、誰もやっていない紛争の中心地を取材したいという功名心があったことも事実です。しかし、当時、そんな取材をしたところで、記事や写真が売れるわけでもありません。日本の言論出版界が、そんな立場のフリージャーナリストが生きていけるような甘いものでないのは百も承知でした。いま、そのときの行動の理由と決意を振り返ると、「思想信条信念を試してみたかった」の一言に尽きます。

わたしが大学入学のため東京に出てきてぶつかったのはいきなりの大学闘争でした。学寮の建設、その運営自治権に関わる問題の中心になっていた学寮が1年生のときから生活の場でした。地方から出てきて物価の高い東京で学生生活をおくれるのはひと月100円の家賃で入れる寮が不可欠、寮がなければ大学生活はおくれない、というのがそのときの全寮生の偽らざる家計事情でした。寮費の値上げや寮の運営権を寮生から取り上げるなどの管理強化には必然的に反対、となります。わたしの入学した1967年は、大学闘争だけでなく、ベトナム戦争の激化にともない、二次におよぶ羽田闘争などの反戦運動や沖縄返還運動とも共鳴し日本全国が騒然とした時期でした。

今では理解不能かもしれませんが、そのころ、激烈な学生の街頭闘争や東京、京都、大阪など主要都市の選挙でつぎつぎと革新首長が勝利するニュースに接していた海外の日本人は、本当に、明日にも日本で革命がおこるのではないかと恐れたと言います。
そんな雰囲気のなか、既成政党だけでなく新左翼セクトや全共闘という新しい闘争組織やベ平連という市民運動もうまれ、反政府運動は百花繚乱の様相を呈していました。

寮闘争、全学闘争、全学ストライキ、と進むうちに運動のリーダーのひとりになっていたわたしは、69年4月28日の沖縄奪還闘争で逮捕起訴され、8年間の裁判を闘うことになりました。その間、大学では自分の大学で崩壊した自治会の再建運動に関わり、学外では他大学の闘争を支援したり、ベトナム反戦運動、留学生支援運動などに取り組みました。大学は卒業しましたが、卒業の3日前に無期限停学処分をくらい、処分撤回闘争や長期の裁判闘争まで抱え、普通の就職などできるわけがありません。社共などの組織や労働組合などのバックアップもないノンセクトですから、先ほど述べたミニコミ出版社で専従をして最低限の生活費を確保しながら活動と社会主義革命の研究をしました。当時の最大の関心はベトナム反戦運動でした。ベトナムの社会主義革命をホーチミンの論文をよりどころに研究しました。そこで得た立場は、ハンガリー事件やチェコ事件を内包するソ連も中国も腐った官僚国家に成り下がってはいるが建前は社会主義政権、内部からの改革を行い生命力を復活させるべき対象とではあるが、その現実の力を世界の革命運動のために活用すべきであるという、トロツキーや毛沢東の立場に近いものでした。

 

●反帝国主義、反スターリン主義の潮流

わたしが学生運動に没頭したころは、アメリカやソ連・中国を批判・糾弾する傾向が主流でした。日本共産党は「自主独立」の旗をかかげてコミンテルンやコミンフォルムを〝卒業〟していましたし、新左翼は反米ソ反中(いわゆる反帝や反スタ)をかかげて日本独自路線を進んでいました。親ソ連や親中国の立場をとる流れも一部にはありました。アルバニア派というものまでありました。そのような流れの中でわたしはベトナム労働党の活動に注目しホーチミンの著作を勉強しました。つまり、中ソを団結させ、3大進歩勢力すなわち社会主義諸国、資本主義国の進歩勢力、発展途上国の民族解放民主革命勢力の3潮流が手を結べば帝国主義勢力を凌駕することができる、という立場でした。この立場は、日本のどのようなグループ、社共の現実派から赤軍派などの極左派までを概観しても、なぜか日本では少数派の主張でした。ベトナム人民の闘いは支持してもその闘いのベースになっている思想にまで思いがとどかなったのでしょうか。

しかし、ベトナムは75年に鮮やかな勝利をおさめました。そして社会主義への道を進み始めます。わたしの研究は進み、発展途上諸国の解放闘争が成功するためには先の3大勢力(社会主義国、先進資本主義国の民主勢力、発展途上国の解放勢力)の支援が不可欠との結論にたっていました。特に解放後の社会改革まで含めて考えると、モンゴルをモデルとした理論が現実的な魅力的な理論として映りました。それをまとめた書籍が『資本主義を飛び越えて―モンゴルの歩み』(B.シレンデブ著、1977年、シルクロード社刊)でした。

マルクス・レーニン主義の公式では、人類史における社会発展は、原始共産制→奴隷制→封建制→資本制→過渡社会(社会主義)→共産制の段階を経ることになっています。しかし現実はそのように進んだ例はなく、1917年のロシア革命もマルクスが予想したような労働者(プロレタリアート)主導の社会主義革命ではなく実質はボルシェビキという思想集団が武力で指導する「労農同盟」による農奴解放革命でした。しかも内在的な運動法則によるよりも第1次世界大戦という外的要因が決定的要素として働きました。(戦争を内乱へ、というレーニンの政権奪取戦略)
現実が教科書通りには進まなくても歴史は紆余曲折を経ながらも進むものだ、とその時は思っていました。

 

●思惑がことごとく外れていくアフガニスタン

8年間の裁判闘争の結果、懲役1年執行猶予1年を宣告されました。1980年1月、執行猶予があけて自由な海外渡航ができるようになっていたわたしは都職労友好訪問団の一員として憧れのベトナム(ホーチミンほか)に人生初めての海外旅行を体験しました。アフガニスタン取材に飛び立つ直前、ひとりでも海外旅行できる自信をえました。その半年後、準備万端、自信満々でアフガニスタンへ出発したのでした。

アフガニスタン革命がたとえクーデターから始まったとしても、それに先行する大衆運動は確実にあったのだし、社会変革をもとめる人民大衆がいることは間違いない。それらを支援するには口先だけの声援でなく、社会基盤をつくりなおす経済的社会的技術的支援が不可欠で、それなくして半封建半遊牧部族社会であるアフガニスタンが、資本主義を飛び越えて社会主義へ進むことは不可能。ソ連は「腐った鯛」であっても鯛は鯛だ。改革の道に踏み出した以上、ソ連ほか既存の社会主義国の物質的な支援を活用しアフガニスタンの変革を進めるほかない。ベトナムのように。と、その時には思っていました。

しかし、アフガニスタンとかかわっていくうちに、国外からの武装反革命の動きだけでなく、国内からの反動が根強いことを知るようになりました。

アフガニスタンでの社会改革が順調にいかない理由はいろいろありました。すでにソ連など社会主義陣営が抱えていた経済社会問題もそうでしたが、わたしの認識で欠け落ちていた最大の想定外は、「宗教」と「部族の因習」でした。最初の取材のときにその問題には気づいていたし、イスラームについても、パシュトゥーン・ワリについても調べもして、最初のルポルタージュ本でも軽視できない重要要因として指摘しておきました。が、土地改革が進み、農業生産が軌道に乗り、社会の制度改革が進めば、人びとの支持を勝ち得ることができるはずだと思っていました。しかし、現実はそんな生易しいものではなかったのです。

アミン→カルマルとトップを入れ替え、政府の民族構成に少数民族を加え、ローヤ・ジルガを開いて基盤を広げようとしても、ムジャヒディーンの攻撃をはね返すことができません。ソ連とPDPAはカルマルからナジブラーにトップを入れ替え、ムジャヒディーンとの和解を含む全国民の和解を呼びかける「国民和解政策」に命運をかけました。そのころソ連は、アフガニスタンに導入する兵士はアフガニスタンにいる民族と同じ民族(タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン)の兵士とし、異民族支配の批判を回避しようとしていました。

そのようなソ連やアフガン政府の政策を日本で説明する勉強会を開いたことがあったのですが、そこで、ある先輩が指摘しました。「お前、バカだな。ムジャヒディーンたちが反対してるのは異民族だからだけじゃないぞ。彼らが戦ってるのは十字軍戦争なんだ。千年以上闘ってる戦争だからそう簡単に終わるわけがない。ソ連は無宗教と彼らは思ってない。ソ連はキリスト教国だと思ってる。」その時はそんな前近代的な理由で現代に生きる人びとが命をかけて戦争をし続けるとは思えませんでした。日本にいては実感できない視点でした。

自由・平等・博愛とか、三権分立とか、就業就労の自由とか、男女平等、人権とか、資本主義でも社会主義でも共通して尊重し実現せねばならない普遍的価値がまったく評価されない社会が存在すること、そしてそのような社会における変革=革命に関わってしまったこと、日本で人びとに賛同と支援を呼びかけ応援してもらってきたこと、それに加えて自分自身の無知無力を実感してしまったこと。自分のそれまでの存在理由が足元からことごとく崩れ去ってしまったように感じました。

 

●不可解さゆえの限りない魅力

アフガンでパートナーであったPDPA政権が崩壊し、おまけにソ連も崩壊した90年代、アフガニスタンのために作った会社を維持しながら、それまでの思想信条信念の再構築に取り掛かりました。いつか必ずアフガニスタンの再建のときが来るだろうからそれまでを生き延びよう、と心に決めました。ま、女性には申し訳ない表現ですが、「雌伏」の時期を生きよう、と。そして、なぜ自分たちは失敗したのか、アフガン人の友人たちと意見交換しながら考えました。

ソ連の力を借りて、失敗したとしても十年以上現地で闘い続けた人びと、そして変革に向けた努力の中で社会的恩恵を受け、また育った人びとは確実に存在している、その社会的蓄積がよみがえる日が必ず来るに違いない、つまり、「意地」を張ろうと考えたわけです。もちろん、自分が働きかけて応えてくれた人びとへの「贖罪」と「責任」の意識もあります。
(この時の一端は「編集部から」に書きました。)

アフガニスタンは魅力にあふれた郷(くに)であるとともに、複雑怪奇な郷(くに)です。何千年もの豊かで興味深い文明の歴史をもった郷(くに)です。しかしそこには、過去だけでなく、現にいま、何千万人もの人びとが暮らしており(いままた生存の危機にさらされてはいますが)、外部世界の助けを借りてでも自分たちの生活を成り立たせ、改善しようとして奮闘している人びとがいます。そのような人びとがいるかぎり、この地域から目を離さず、可能な限りのかかわりを続けていこうと思っています。

【野口壽一】

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 

 

~016

  「知」は力、知のない力は「知」には勝てない 

映画『カーブルの孤児院』を観て想う

(2021年12月26日)

 

ソ連崩壊(1991年12月25日)からちょうど30周年の今月(12月10日~12月31日)、各地で並行して「中央アジア今昔映画祭」が開かれています。

ソ連から独立した5カ国(カザフスタン、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン)+アフガニスタンの作品9本が上映されます。見逃すわけにはいかず、13日に東京ユーロスペース上映のカーブルの孤児院を観ました。監督はソ連崩壊の年1991年生まれの若いアフガン人女性シャフルバヌ・サダト(2019年製作/90分/デンマーク・フランス・ルクセンブルク・アフガニスタン合作・原題:The Orphanage)。

孤児院を題材にした映画では、思い出深い作品が2本あります。その1はソ連で1931年に公開されたニコライ・エック監督の人生案内(1931年制作、ソ連)。集団ですりや盗みを働き、人を殺めたりすることもあった悪ガキたちを更生させる、ソ連社会主義の燃えあがる理想を映像化した教育映画です。

単純な更生指導や教育だけでなく、鉄道敷設などの集団労働によって自分たちの新しい世界、新しい人生を切り開いていく、希望に満ちあふれたソ連社会そのものを象徴する映画でもありました。

ソ連革命政権の文部省ご推薦の映画ですが、ソ連には『戦艦ポチョムキン』『ストライキ』『』など優れた革命映画、プロパガンダ映画の伝統があり、それが革命後間もない時期の高揚したヒューマニズムと溶け合って、人びとに新しい社会主義革命という夢を与えました。筆者も若いころ観て感動した覚えがあります。

同じころ観た、『人生案内』と同じような不良少年たちを描いた映画としてはルイス・ブニュエル監督(1950年、メキシコ)の『忘れられた人々』があり、こちらの方が好きです。

ブニュエルの映画は犯罪の抑止や啓蒙が目的の教育映画としてメキシコシティの要請で作られたのですが、社会の底辺で見捨てられた救いようのない少年たちをリアルに描き、発注者から受け取りを渋られたといういわくつきの作品。社会的非行現象は政権が欲するようにそう簡単に解決されるはずがない現実をブニュエルは暴き出します。しかしここでは映画論が主題ではないので、アフガン映画に戻ります。

カーブルの孤児院』も全2作とおなじく、社会からのはみだし少年の非行ぶり(映画館前でのダフ屋行為)の描写から始まります。

 

時代背景は1989年から1992年(ソ連軍撤退完了からPDPA政権崩壊まで)のカーブル。公式サイトの映画紹介コピーによれば、1989年、長年にわたって軍事介入していたソ連軍の撤退が迫る中、街の映画館は相変わらず賑わっています。インド映画が大好きなクドラット少年は学校にも行かずダフ屋をしていたところを捕まり、孤児院に入れられます。そこには不良もいるが、理解ある教師がいて、親友もでき、モスクワにも行ける。だが、国には新たな混乱が訪れようとしています・・・

その孤児院での日常が、ナレーションなしで淡々と、会話と映像を積み重ねるドキュメンタリータッチの手法で描かれます。下手すると退屈な作品になりがちですが、少年(一部少女)たちと職員(中年婦人から若い女性教員)たちも登場し、少年たちの性のめざめの描写もあり、リアルです。一方、主人公の夢のなかの妄想場面では、一転してインド映画的歌と踊りのミュージカル場面が登場したり、冒頭の映画館のシーンでは、ブルース・リーのカンフー映画もどきのシーンで迫力を堪能させたり、エンタメ要素で観客を楽しませます。

孤児院の教育では、チェスのコンピュータゲームが出てきたり、モスクワに招待されてキャンプを楽しんだりの明るい場面があったり、当時の厳しい政治軍事情勢や孤児同士のいじめや孤独による精神異常者病棟や孤児の自

殺という深刻な状況もでてきます。

しかし、圧倒的に驚かされるのは、この映画が、2019年、つまり一昨年に、20代の女性監督によって制作されたという事実です。PDPAとソ連軍支配下のカーブルの孤児院の状況を、ノスタルジックでもなく、かつ『人生案内』ほど抹香臭くなく、また『忘れられた人々』ほどやるせなくもなく、楽しませてくれたのには感心しました。

とくに、最後の場面、PDPA政権が倒され、ムジャヒディーンが孤児院に集団でやってくる場面で、日ごろは対立することもあった舎監の先生が、孤児たちの眼前で銃で撃たれて殺されるや、主人公は、まさしくブルースリーに変身、素手でムジャヒディーンの一団を蹴散らかすシーンでエンドマークが画面いっぱいに広がります。

今年(2021年)の夏、カーブルに登場し女性らのデモを銃やこん棒で理不尽に鎮圧するターリバーンを、素手の女性たちが髭面むくつけき暴漢どもに立ち向かう姿と、完璧に重なります。監督の先見の明と、公開時期の一致にこの映画の輝きを見た感じがしました。

 

監督のシャフルバヌ・サダトソ連が崩壊した1991年にテヘラン(イラン)で生まれています。『カーブルの孤児院』を製作した時には若干27歳か28歳です。パリに拠点を置く映画製作者協会アトリエ・ヴァランのカーブル・ワークショップでドキュメンタリー映画製作を学び、最初の長編映画『オオカミと羊』を完成させます。この作品はアフガニスタン中部ハザラ地方の彼女が育った村によく似た村の物語で2016年のカンヌ映画祭の監督週間で最優秀賞を受賞しています。

カーブルの孤児院』を観て、多くの驚きと感動を覚えました。
なんといってもそのひとつは欧米軍の支援のもと、新しいアフガニスタンを生み出す苦汁のしたたりを受けて若い才能が花開いた、という喜ばしい事実です。しかも女性監督。さらに付け加えると、もっとも差別抑圧されているハザラ族のなかからそのような才能と作品が生まれてきたのは驚きに値します。

オオカミと羊
その2は、作品の舞台がソ連の置き土産である非行や孤児、精神を病んだ人びとの救護施設の活動を肯定的に描き出す作品であることです。この孤児院は、ソ連軍が進駐を始めた時に革命評議会議長となったカルマル氏の夫人マハブバ・カルマル氏が1980年代の初期に院長をしていた孤児院のはずです。いわば、ニコライ・エック監督が描いた孤児院のカーブル版。そして作品のクライマックスは孤児院に自動小銃を引っ提げて一団となってやってくる髭もじゃで山賊のような格好のムジャヒディーンらを素手で打ち負かすシーン。

私は機会を見つけては強調していますが、ソ連軍の進駐下で進められた近代化の努力も、米欧軍の支配下で進められた近代化の試みも、上からの強制的なものであったがために、国全体のものとして実現はされていないが、そこで希求され実現されようとした価値はアフガン民衆に受け止められ脈々と受け継がれているのです。その現実を、『カーブルの孤児院』が見事に映像化している点に共感を覚えると同時に驚いたのでした。

ターリバーンが相手にしなければならないのは、これまでの、武器を掲げて威圧・圧迫してくる異民族・異教徒ではなく、同じムスリムでありかつ同国人の、しなやかで若わかしく屈することを知らない知性です。知は力であって知のない力は結局は知には勝てません

ターリバーンはこれから、このことを思い知ることでしょう。

監督のシャフルバヌ・サダト(Shahrbanoo Sadat)は12月初旬まだアフガニスタンにいて脱出の機会を狙っているそうです。監督については英語版Wikipediaに詳しい情報があります。
世界はこの才能を守らなければならない。
(https://en.wikipedia.org/wiki/Shahrbanoo_Sadat)

(12月26日、東京渋谷のユーロスペースでの上映会で監督のシャフルバヌさんがフランスへの脱出に成功したとの報告がなされました。監督は『オオカミと羊』『カーブルの孤児院』を第1、第2作として5部作構想をもっているそうです。次の作品が切望されます。)

【野口壽一】

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~015

  アフガンのつぎ、西はウクライナ、東は台湾 

アメリカの2番手たたきの標的となった中国

(2021年12月13日)

 

過去100年、「パックス・アメリカーナ」を脅かす2番手をアメリカは常に叩きつぶしてきました。その事実を、前回、「アメリカは本当に負けたのか?」で論じました。

アメリカは第1次世界大戦前にGDPで大英帝国に追いつき、第2次世界大戦で「パックス・ブリタニカ」にかわる「パックス・アメリカーナ」を築き、盟主の地位を不動のものとしました。そして同時に台頭しアメリカと世界を2分するに至ったソ連を90年代につぶします。冷戦といわれたその時代に対社会主義圏への盾・不沈空母として育てた日本が2番手として頭角を現すや叩き始めます。無策の日本は「失われた10年」「失われた20年」「失われた30年」とずるずると後退。情けない状態に陥ったことは日本国民の共通認識になっています。

1900年~2016年までの各国GDPシェアの推移グラフ
(出典:https://livedoor.blogimg.jp/cpa_capitalist-index/imgs/f/d/fd6a8407.png)

 

アメリカは2番手を必ずつぶそうとします。そしてこの100年間、ことごとく成功してきました。
そしていま、急速に2番手にのし上がってきた中国つぶしにかかっています。

トランプ政権下の2018年、中国つぶし方針は顕在化され、泥沼のアフガニスタンからターリバーンと手打ちしてでも手じまおうと急ぎました。この過程はこれまでの『ウエッブ・アフガン』で詳述してきたとおりです。

果たしてアメリカの2番手つぶしは今度も成功するのでしょうか。

 

<ソ連つぶしの手口>

翻って、ソ連をつぶした方法を思い返すと、ココムをつかって経済的に締め付け、NATOをも動員し軍拡競争でゆすぶり、アフガニスタンへの侵攻というソ連の失敗を奇貨としてムジャヒディーンを育て代理戦争を戦わせ、ついにはソ連および社会主義体制そのものの崩壊まで実現してしまいました。

ソ連とソ連を軸とする社会主義圏は当時の反ソ連資本主義圏(米国、ヨーロッパ、日本など)と経済的な交流は細々としたものでした。むしろ、相互に壁を築いて経済交流を阻害し、米国側はココムによる締め付けをつづけました。
(WAJ:ココム:(Co-ordinating Committee Control for Export to Communist Area のはじめの二語の略) 対共産圏輸出統制(調整)委員会。社会主義諸国に対する資本主義諸国からの、戦略物資・技術の輸出を統制するために一九四九年に設けられた協定機関。アイルランドを除く北大西洋条約機構(NATO)加盟国と日本・オーストラリアの計一七か国が加入。本部パリ。ソ連崩壊により、一九九四年解体。)(コトバンクより)

アメリカは、ベトナム戦争の敗北で躓きはしましたが、そこまでの作戦は実に手際よく、一直線でGDPを成長させてきました。

ところが、計算違いは、米ソ対立を利用し、米日欧にすりより国際市場に浸透し、うま味を得、するすると上昇し、GDPで日本を抜き、アメリカの70%近くにまで迫ってきた中国です。すると、自力でその地位を築いたと勘違いしたのか、中国は、一帯一路政策や中国製造2025だとか南シナ海だけでなく太平洋をアメリカと分割支配しようなどと言い出してきました。アメリカとしてはそのままにしておくわけにいかない、と覚悟したようです。

ソ連つぶしに成功したのは、軍拡競争と封じ込めによって経済・技術の発展を阻害し低生産性を余儀なくさせ、最後はアフガニスタンで泥沼に追い込み、自滅させたのです。

中国の場合は、対ソ連戦略の一環として世界市場に組み込んだがために、アメリカのみならず西側世界が金融・貿易・グローバルサプライチェーンと広範な基幹部分で複雑に入り込んだ切り離しがたい相互関係を結ぶにいたりました。壁の向こうに存在したソ連(ソ連圏)とは決定的な違いがあります。

 

<それでも中国叩きにばく進>

2016年、トランプ大統領の登場を合図に、中国叩きが本格始動しました。
2018年10月4日、ペンス米副大統領(当時)がシンクタンク、ハドソン研究所で40分にわたって行った演説は、まさに中国に対する宣戦布告でした。少し長いですが、2018年10月26日の日経新聞から抜粋引用し振り返ってみましょう。

 

==<ペンス演説要旨>=======

■中国に深く失望

ソ連の崩壊後、我々(訳注:アメリカ(ペンス))は中国の自由化が避けられないと想定した。楽観主義をもって中国に米国経済への自由なアクセスを与えることに合意し、世界貿易機関(WTO)に加盟させた。経済の自由化が中国を我々と世界とのより大きなパートナーシップに導くことを期待していたのだ。しかし中国は経済的な攻撃をかけることを選び、自らの軍事力を強化した。(米国の)歴代政権は中国の行動をほとんど無視してきた。その結果、中国に有利になってきた。そうした日々はもう終わった。(WAJ:お仕着せがましい話をしていますが、中国の安い労働力を中国共産党と共謀してこき使い、莫大な利益をあげたことを意図的に隠しています。)

■貿易赤字容認せず

過去17年間で中国の国内総生産(GDP)は9倍に成長し、世界第2の大きな経済となった。この成功の大部分は、米国の中国への投資によってもたらされた。昨年の対中貿易赤字は3750億ドル(約42兆円)で、米国の貿易赤字の半分近くを占める。トランプ大統領の指示により2500億ドルの中国製品に追加関税を実施している。これらの行動は(中国経済に)大きな影響を与えた。中国最大の証券取引所の株価は今年の最初の9カ月で25%下落したが、これは主に我々の政権が中国の貿易慣行に強く立ち向かったためだ。(WAJ:中国に渡した金はいつでも印刷できるドル。しかも債権の形でも買わせてる。つまり、アメリカがもうけさせてもらってるだけの話)

■中国は「知財で略奪」

現在、共産党は「中国製造(メード・イン・チャイナ)2025」計画を通じて、ロボット工学、バイオテクノロジー、人工知能など世界の最先端産業の9割を支配することを目指している。中国政府は21世紀の経済の圧倒的なシェアを占めるために、官僚や企業に対し米国の経済的指導力の礎である知的財産をあらゆる手段を用いて取得するよう指示してきた。中国政府は現在、多くの米国企業に中国で事業を行うための対価として企業秘密を提出することを要求している。中国の安全保障機関は米国の技術の大規模な窃盗の黒幕だ。中国共産党は盗んだ技術を使って民間技術を軍事技術に大規模転用している。

■覇権奪取「失敗する」

中国は米国の陸、海、空、宇宙における軍事的優位を脅かす能力の獲得を第一目標としている。中国は米国を西太平洋から追い出し、米国が同盟国の救援に訪れるのを阻止しようとしている。しかし、彼らは失敗するだろう。中国の船舶が、日本の施政下にある尖閣諸島周辺を定期的に巡回している。南シナ海で「航行の自由作戦」を実施していた米海軍のイージス駆逐艦は45ヤード以内まで中国海軍の艦艇に異常接近され、衝突回避の操縦を強いられる事態となった。ただ、米海軍は国益が要求するところであればどこでも作戦行動を続ける。我々は威圧されたり撤退したりすることはない。インド太平洋全域で米国の利益を主張し続ける。「自由で開かれたインド太平洋」というビジョンを前進させるために、インドからサモアに至るまで、地域全体で価値観を共有する国々との間に強固な絆を築いていく。(WAJ:俺のいるところは俺の縄張りだ、でてくるな、と言ってるだけ。)

■市民に「迫害の波」

ここ数年、中国は自国民に対して統制と抑圧に向けた急激な転換をした。中国は他に類を見ない監視国家を築いている。中国のキリスト教徒、仏教徒、イスラム教徒に対する新たな迫害の波が押し寄せている。新疆ウイグル自治区では政府の収容所に100万人ものイスラム教徒のウイグル族を投獄し思想改造を行っている。(WAJ:中国からアメリカ国内の差別や抑圧を指弾されるようになるでしょう。)

■「債務のワナ」に軍事的思惑

中国は(一帯一路を掲げ)「借金漬け外交」を利用してその影響を拡大している。中国は、アジアやアフリカなどのインフラ建設に数千億ドルもの資金を提供している。しかし、これらの融資条件は不透明だ。スリランカは商業的価値があるかどうか疑問の余地のある港を中国の国有企業が建設するために巨額の負債を負った。支払いの余裕がなくなると、中国政府はスリランカにその新しい港を引き渡すよう圧力をかけた。それは中国海軍の将来的な軍事基地になるかもしれない。中国共産党は昨年から中南米3カ国に台湾との関係を断ち切り、中国を承認するよう説得している。これらの行動は台湾海峡の安定を脅かす。民主主義を奉じる台湾は、全中国人にとってより良い道を示すと米国は常に信じている。(WAJ:中国の新植民地主義もいずれは破綻する運命です。)

■ロシアよりひどい政治工作

米情報機関は「中国は政治的影響力を高めるために、貿易関税など(米国論を)分裂させる問題を利用している」と述べている。中国政府は、米国人の対中政策認識を変えるために、秘密工作員や偽装組織を動員し、プロパガンダ放送を流している。米情報機関の高官が私に語ったところによると、中国が米国内でやっていることはロシア人も真っ青だ。これまでに(米国の追加関税措置を受けて)中国が課した(対抗)関税は、中間選挙で重要な役割を果たす産業と州を特に対象としていた。ある推計によると、中国が標的とした米国の郡の8割以上が16年にはトランプ大統領と私に(多く)投票した。現在、中国はこれらの有権者を我々に反対させようとしている。米国の政治・政策に対する中国政府の悪意ある影響力と干渉については、米国中に新しいコンセンサスが生まれている。多くの企業は知的財産権の放棄や中国の抑圧の助長につながるような中国市場への参入を再考している。しかし、もっと多くの人が続かねばならない。例えばグーグルは、共産党による検閲を強化し中国の顧客のプライバシーを侵害するアプリの開発を直ちに終了すべきだ。(WAJ:人類が国家を必要としている間は避けられない対立。大事にならぬよう理性的にルールを定めてやってちょ~だい。)

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ペンス演説が実質的な「対中宣戦布告」と呼ばれる内容であることは間違いありません。

トランプ政権のもとで開始された中国つぶし政策は、より巧妙かつ確信的に、バイデン政権に引き継がれ、進められています。
アフガニスタン撤退政策も、ターリバーンの復権に道を開いたトランプ政権下で進められた政策の延長にすぎませんでした。アメリカにとって、アフガニスタンに関わっている余裕はなくなったというわけです。難しいアフガニスタンの国家建設に中ロを引きずり込み、より大きなユーラシア包囲網の布陣を構築し、中ロを抑え込もうとする、地球規模の作戦に、一国主義のトランプのやり方でなく「同盟国」を巻き込んで再出発したわけです。アメリカ経済の生命線・軍事ケインズ政策を継続していくためには世界規模での軍事的緊張は不可欠です。

 

<西はウクライナ、東は台湾>

軍事的には、西のNATO、東からは米日豪印クワッド、豪英米オークスで圧力をかけ、政治的には新疆ウイグル、香港、台湾、膨帥問題を格好の材料として民主主義と人権を掲げて中国を攻めつづけます。

やり方はかつてソ連およびソ連圏をゆすぶったのと同じ手法です。経済的に締め上げ、人権と民主主義で国内支配を不安定化し、譲歩させるか、弱体化させるか、消滅させるか、です。問題はソ連と中国とでは相互の関係がまるで違うことです。

冬季オリンピックに向けた外交ボイコット、民主主義サミットを通じた世界への踏み絵強要。アメリカに伍する力をつけたと勘違いして背伸びしてきた中国は、アメリカの本気をみて、必死の防衛に走っているように見えます。アメリカの挑発をうまくかわし、ひっかからないよう希望します。

ひとつ間違うと取り返しのつかない軍事衝突を引き起こしかねない危険極まりない綱引きがわれわれの身辺で繰り広げられています。

現在の中国と世界経済の関係は、かつてのソ連とはまったく異なり、デカップリングなどできません。「輸出黒字は勝、輸入赤字は負け」などと、旧態依然たる国民経済視点の単細胞的思考のまま、軍事的・政治的圧力と封じ込めで2番手をたたけるとアメリカが思っているとすれば、世界は大変なことになりかねません。

ところが最近の動きをみていると、トランプ政権時代の危険な認識と政策は除去されるどころか強化され、日本は逃げ隠れできなくなりそうです。安閑としてはいられません。

【野口壽一】

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 

 

~014

 アメリカは本当に負けたのか? 

<アフガニスタン戦争の本質>

(2021年11月29日)

 

アメリカの撤退ぶりがあまりにも鮮やかだったので、アメリカはターリバーンに惨敗したかのように世界中で報じられてきた。そんな論調の中、元アフガニスタン人民民主党幹部のひとりアサッドゥラー・ケシュトマンド(Assadullah Keshtmand)氏が「アメリカは軍事的には負けていない」としてユニークな論をたてている。(その論文はここをクリック)

われわれがさんざん聞かされたのは、2001年9月11日の米国同時多発テロ事件発生1か月後の10月7日、アメリカと有志連合国軍は北部同盟と連携した猛烈な空爆を開始し、ターリバーンを蹴散らし、クモの子を散らすように敗走させ、空爆のわずか1か月後には北部同盟軍がカーブルを占拠した。一方、ターリバーンやアルカーイダらは住民に紛れて隠れ、あるいはパキスタン領に逃れ、徐々に力を回復し、20年かけてアメリカNATO軍とアフガン国軍を圧倒して敗走させ全土を奪還した、というストーリーである。

本サイトでは、ターリバーンがカーブル入城する前から一貫して、「ガニー政権とターリバーンはコインの裏表」「ターリバーンを政権に引き入れたのはアメリカ」「ターリバーンの背後にはパキスタン」「ターリバーンは実はパキスタン」と主張してきた。

マスメディアでは論じられないこのような主張を、眉に唾つけて読んでおられた読者もいらっしゃるかもしれない。しかし、アメリカは本当にターリバーンとの戦争に負けたのか、冷静に振り返ってみる価値があるのではないだろうか

 

<アフガン戦争の実相>

ケシュトマンド氏は言う。
「アフガニスタンにおける20年間の米NATO軍の存在を注意深く評価すれば、2001年のターリバーンの転覆を除いて、ターリバーンと米NATO軍との間に実際の戦争はなかったと結論づけることができる。つまり、米国がターリバーンに軍事的に敗北した事実はない。」

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は「アフガニスタン紛争(2001年-)」の項目をたてて、2001年の開戦から1年ごとに詳細な戦闘状況を記録している。

Wikipediaは、2001年から2014年までの軍事・治安状況を次のようにまとめている。、
「(ターリバーンは)地方でのゲリラ的な襲撃や待ち伏せ、都市部での標的に対する自爆攻撃、連合軍に対する裏切り者の殺害など、非対称戦争を繰り広げた。ターリバーンはアフガニスタン南部と東部の農村地域で影響力を取り戻した。ISAF(注:NATO軍を主力とする国際治安支援部隊)は、村を「クリア&ホールド」するための対反乱作戦に兵力を増強して対応した。2007年から2009年にかけて、暴力行為は拡大した。2009年には兵力が急増し、2011年まで増加し続け、ISAFと米国の指揮下で約14万人の外国軍がアフガニスタンで活動した。2012年にNATO首脳は軍の撤退戦略を開始し、その後、米国は主要な戦闘活動を2014年12月に終了し、国内に残存兵力を残すことを発表した。2014年12月28日、NATOはアフガニスタンにおけるISAFの戦闘活動を正式に終了し、安全保障上の全責任をアフガニスタン政府に正式に移管した。」

アメリカおよび欧州軍は、2001年後半以降アフガニスタンで大規模で実質的な戦闘行動は行っていない。行っていたのはターリバーンや国際テロ組織の残党狩りや治安活動・取り締まりであり、カルザイを大統領につける選挙準備など国内政治体制の確立に取り組めるまでになった。2003年には戦闘をイラクに移し、イラクでも大々的な正規軍同士の戦闘をわずか1か月で制した。しかし、開戦理由であった大量破壊兵器は見つからず、アフガニスタン以上の泥沼にはまりこむ結果となった。

アフガニスタンおよびイラクの事実からわかることは、ベトナム戦争で見られた「ゲリラ戦」とは様相を異にする「非対称戦争」と呼ばれるあたらしい戦争形態が登場したことである。「非対称戦争」とは、国家権力および資金力・ハイテクを所有する圧倒的な強者と量的質的力量においてあらゆる面で劣る貧者がただひたすら「住民の支持」と「時間=持久戦」のみを頼りにローテクと自分らの命を武器に敵を意図的に泥沼に引きずり込み弱らせて溺れ死にさせる戦法にほかならない。正面切っての正規軍同士の対戦などありえない。

ターリバーン側の戦法では、即席爆発装置IEDと呼ばれる10ドルほどで作れる格安の「武器」が威力を発揮した。道路わきなどに仕掛けられる爆破装置だ。移動する外国兵にたいして地雷以上に恐怖とストレスを与える極めて効果的な武器となった。10ドル爆弾とも呼ばれたその小さな武器で何千万円もするような装甲車両を爆破し乗員を死傷させることができた。その他の仕掛け爆弾も貧者ならではの工夫で各種開発された。さらには、夜間に乗じた待ち伏せ攻撃も効果的であったし、なにより相手に恐怖を与えたのは自爆攻撃であった。自爆ベルトを身に隠し自分の肉体もろとも敵や民間人を爆殺する文字通りのテロ攻撃は防ぎようがない
これに対して、アメリカNATO軍は、ドローンを使った爆撃や重武装した兵士によるテロリストあぶりだし掃討作戦などを繰り出した。しかしそれらは、住民を大量に巻き込んだり、誤爆による民間人の被害を増大させ、テロリスト壊滅の効果よりも「住民の外国軍への憎悪」を掻き立て、ターリバーン側への贈り物にしかならなかった

ターリバーンは影響力を回復する過程では自分たちに反対したり外国軍や国軍に協力する村の有力者を暗殺したり、夜の間に住民へのクチコミ宣伝をおこなったりと2008年ころには農村部での支配が10%に及ぶと言われるほどになっていた。
2009年にオバマ政権が始動し、2011年から米軍はじめ外国軍の撤退が始まった。2012年夏の時点では、ターリバーンは農村部での困りごと処理などで農民の生活に浸透し全土80%を掌握していると言われるようになった。

アフガニスタンやイラクでの「非対称戦争」の実態については、2012年に出版された『勝てないアメリカ』(大治朋子、岩波書店)が克明にレポートしている。まさに、ケシュトマンド氏が言うように「実際、ターリバーンが米国に正面から対峙し攻撃しえたことなどない。米軍駐留期間中、ターリバーンは主に米・NATO軍の主要基地から離れた場所での妨害活動と爆破を主に行ってきたにすぎない。

戦場でのこのような状況をうけて、アフガン戦争の出口作戦が開始された。
・2013年 国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン治安軍への治安権限の委譲が完了
・2014年12月、国際治安支援部隊(ISAF)及び「不朽の自由作戦」が終了
・2015年 アフガニスタン政府とターリバーンとの間で非公式協議が行われ、ターリバーンの政治事務所をカタールのドーハに開設することで合意
・オバマ政権の後を継いだトランプ政権は一時的な増派を実施しながらも撤退作戦を遂行した。その集大成が、ドーハ合意
・2020年 2月29日ドーハ合意。 アフガン政府、捕虜釈放。ターリバーンの敵対行動が続く中でトランプ大統領は撤退を急いだ。アメリカ合衆国は駐留軍を2021年1月までに2500人にすると発表し、一方的に1年間で約1万人の兵力を削減

ドーハ合意は、アフガン政府(ガニー大統領)を見限ったアメリカが、ターリバーンを政権につけ、安全に名誉ある撤退を実現するための〝高等作戦〟のはずであった。しかし、ドーハでのターリバーンとの交渉においてアフガン政府はつまはじきにされていた。しかし、ターリバーンと気脈を通じていた米国代表ハリルザド(ドーハ交渉責任者)、カルザイ・ガニー現前大統領からなるパシュトゥーン3人組の陰謀を見抜いていたアフガン政府側の兵士や職員らはアメリカの「高等作戦」に協力する義理も義務も熱意も感ずるはずがなかった。アメリカが負けた(計算違いをした)とすればそれは、アフガン国軍と警察を前面に立てて戦う戦争(代理戦争)に負けた、ということだ。

以上がアフガン戦争の実相であった。

この間のアメリカ軍のアフガニスタンでの情けない実践は本サイトで金子編集委員が紹介している『アフガニスタン・ペーパーズ』におけるアメリカ人をはじめとする米欧人ほかの回想 で詳しく暴露されている。

 

<もう一度、アメリカは本当に負けたのか?>

ケシュトマンド氏が言うように、アメリカ軍がターリバーンに戦場で負けなかったのはその通りであったかもしれない。しかし、勝てたわけでもないし、アメリカが政策的に失敗したのは間違いないと思われる(私はそうは思わないが)。この点についてケシュトマンド氏の見解はどうか。彼は言う。

「米国がアフガニスタンで失敗したことは間違いない事実だ。しかし、この失敗は、最近、世界が感じた失敗とは別の種類のものだ。米国はアフガニスタンで道徳的失敗に苦しんできた。この道徳的失敗は、ただ私たち国民を残忍に殺害したことだけではなく、テロリズムと戦うためにアフガニスタンに来たというアメリカの目的を具現化せず放り出し、米国の対アフガン政策の整合性に関して国際世論を納得させられていない現実にある。」

「国際世論を納得させられていない現実」は確かに存在し、アメリカにとっては深刻に自省すべき事項だろう。しかし果たしてアメリカは本当に、ケシュトマンド氏が言うような「道徳的失敗」を自覚しているだろうか。私には、アメリカがそのようなナイーブな国であるとは思えない

大量破壊兵器があるとの理由で世界を巻き込んで攻め込み、莫大な血税を浪費し、イラク人や自国兵士を死なせ、フセイン大統領の首までとったのに、大量破壊兵器などなかった。その戦争の遂行責任者も国務大臣も大統領も戦争理由が間違いであったことを認めても賠償もしないし「道徳的失敗」を感じているようにもみうけられない。

アフガニスタン戦争に対するマスメディアや有識者一般の見解は、「人命と財貨の壮大なムダ」というものだ。

例えば、米ブラウン大研究チームによる次のようなデータが流布している。
・「9・11」後の20年間の一連の対テロ戦争の費用は8兆ドル(約880兆円)超。
・戦争による死者は90万人前後
・戦争費用は、国防総省や国務省が国外での作戦にかけた費用のほか、2050年までにかかる退役軍人の療養費などもふくむ。
・費用の内訳は、
▽アフガニスタンやパキスタンでの費用が2・3兆ドル(約250兆円)
▽イラクやシリアでの費用が2・1兆ドル(約230兆円)
▽退役軍人への療養費2・2兆ドル(約240兆円)など。
・死者は
米兵が7052人
敵対した兵士が30万人前後
市民が36万~38万人
ジャーナリストらは680人。
(上記数字には「米政府による9・11後の戦争コストは含まれていない」)(2021年9月02日 <朝日新聞デジタル>より)

確かに、人命や財貨の損失はおびただしいし、痛ましい。しかしそう思うのは、われわれ一般庶民の率直な人としてあるべき人間的感情にすぎない

アメリカという国には、民主党と共和党という対立軸だけでなく、さまざまな人種や利害や既得権益集団が存在している。それらは平衡点をもとめてつねにダイナミックにぶつかり合い、相争っている。その多様性 が民主主義と言えばいえるのかもしれないが。

対テロ戦争はアメリカにとって国を挙げて取り組むべき国家存亡にかかわる大事業であった。そしてその点において、アメリカは大勝利を挙げているのである。

なぜそう思うのか。次のグラフを見てほしい。

グラフ1 米GDPの伸び (https://www.nissay.co.jp/enjoy/keizai/135.html)

2001年の9.11以後だけでなく、ソ連軍のアフガン侵攻への反対勢力への武力支援をつづけた1980年代からわずかな一時的へこみはあっても一貫してアメリカのGDPは増え続けている。アメリカに比肩しうる成長を見せているのは中国だけである。(この点については後で述べる)

GDPだけでひとつの事象を断定的に語ることの危険性は重々承知の上で、あえて次の点を強調したい。

国家にとって戦争は政治(外交)の延長であり、政治の目的は国家の繁栄であり、GDPは繁栄を表すもっとも重要な指標のひとつである。その指標においてアメリカは勝利し続けているのである。

アメリカの強みを列挙すると、つぎの5つに集約できる。
(1)軍事力(武器の質量のみならず地球的に展開しているネットワークとその運営力、集金力)
(2)金融力(必要に応じて増刷できる世界経済の基軸通貨ドル)
(3)産業技術力(エネルギー、モノづくり、GAFAMなどソフト力、兵器武器販売力)
(4)文化文明力(映画、音楽、カルチャー全般、イデオロギーによる世界支配システム)
(5)政治力(敵対的な対立をも抱え込む民主主義システム)

血も涙もない政治家にとって国民(兵士)の命は金銭で代替しうるものであり貨幣価値で勘定すべきものにすぎない。上にあげた(1)と(3)をバックにした既得権益集団の最大の実体は軍産複合体である。彼らにとって、ブラウン大研究チームが算出した8兆ドル(実際はこれ以上)は単なる売上金にすぎない。その売上金がまわりまわってアメリカのGDPを押し上げるのである。証券業界や銀行業界にとっても持続する経済拡大は大歓迎である。軍事的ケインズ主義と称する学派もあるほどだ。

アメリカは第2次大戦以降つねに戦争をしつづけてきた世界で唯一の国である。それを支えつつ発展してきたのがアメリカの軍産複合体である。持続的な戦争経済をとおして航空宇宙やインターネットなどの通信事業を含む軍産複合事業はアメリカ最大の経済クラスターに成長した。
湾岸戦争以来アメリカの戦争をけん引してきた第41代および43代のブッシュ親子大統領がやったことは、アフガニスタンでムジャヒディンを育て、イラン・イラク戦争でイラクを応援、フセインを育て、湾岸戦争、アフガン占領、イラク戦争と突き進んできたブッシュ大統領の家系は、第2次世界大戦中から軍産複合体を生業としてきた。日本の都市を焼き尽くした焼夷弾製造でも大もうけしている。(Wikipedia)

アメリカはこの40年間、ことGDPの成長という観点からはなんら失敗をしていない のである。それどころか連戦連勝である。

しかも、戦争そのものが、下記の要素からなるニュービジネスとなった。
兵器武器、戦争遂行システムの製造販売
戦争遂行に関わるロジスティック全般
実際の戦闘にかかる費用(売上げ)
戦争行為および軍務全般の下請け化、外注化
このことをWikipediaは次のように要約している。
「『対テロ戦争』における実際の軍事行動は、敵対勢力への積極的な海外派兵によって行なわれ、兵器の使用に伴って大きな軍需物資の需要が生み出されている。特にアフガニスタンとイラクでは、主戦闘以外のあらゆる侵攻作戦上の業務を米国の民間会社へと委託する方式(民間軍事会社)を生み出すことで、従来のように遠く離れた母国から武器などの物の販売によって利益を得るのではなく、戦争や紛争が起きている現場での労働力の提供による利益を追求するといった、戦争そのものが新たな産業として確立しつつある。」

 

 

<ソ連は戦争をビジネス化できず、滅んだ>

では、冷戦時代、アメリカと対等に競争していたソ連の場合はどうだっただろうか。つぎのグラフをみてほしい。

1900年~2016年までの各国GDPシェアの推移である。

・グラフ2(https://livedoor.blogimg.jp/cpa_capitalist-index/imgs/f/d/fd6a8407.png)

ソ連はアフガン侵攻を始めた80年代じわじわと世界経済に占めるGDP比率を落とし続け、ついに1991年に崩壊、ゼロ近くにまで落ちる。硬直化と非合理を生み、生産性を落とし社会を沈滞化させた官僚的社会主義経済は、ゴルバチョフの改革にも失敗し、アフガニスタンでの失敗がとどめを刺した。アメリカのようなダイナミックな資本主義、グローバルな軍需経済の育成に失敗したのである。

 

 

 

<アメリカの対中対策>

最後に、グラフ1でみるように、アメリカを追い越す勢いで伸びている(購買力平価比較ではすでに追い越しているという分析もある)中国の場合はどうか。

本サイトでは、アフガンで敗北したように見せかけているアメリカはアフガニスタンの泥沼に中国を引きずり込み、東アジア南アジアで叩こうとしている、と分析してきた。

グラフ2で見るように、第2次大戦以降、アメリカは自国を追いかけてくる2番手を蹴落としつづけてきた。つまり、第2次大戦中に大英帝国を追い落とし、戦後は世界体制にまで成長したソ連を失墜させ、冷戦後にはアメリカの庇護と育成(対ソ不沈空母として)のもとに背後に迫ってきた日本の頭を叩き潰したのである。いま、ソ連の当て馬として優遇してきた中国が経済的に伸びてきて「一帯一路」などと世界戦略を口にするまでになってきている。

アメリカはこの事態をしっかりとみてきた。アフガニスタンでもたもたしていては危ない、とオバマ大統領の時代から対中国シフトを準備してきたのである。中国は、先にあげたアメリカの強みの5要素の観点からみると、まだまだ足元にも及ばないひよっこだ。アメリカあっての経済発展が多少軌道に乗った、という段階にすぎない

機先を制したアメリカの攻撃に身を縮めて対処しようと必死になっているのがここ数年の習近平氏である、と筆者はみている。皆さまの見立ては、いかがでしょうか?

【野口壽一】

(WAJ注:アサッドゥラー・ケシュトマンド氏は1949年カーブル生まれ。フランスで農業を学んだ元アフガニスタン人民民主党中央委員会メンバー。アフガニスタン人民民主党中央委員会の国際関係部の元副局長。ハンガリー、イラン、エチオピアの元アフガニスタン大使。現在、在ロンドン。本サイト『ウエッブ・アフガン』で先に掲載した「いまこそ連邦制を真剣に!」(https://bit.ly/3r7EihH)の論者スルタン・アリ・ケシュトマンド氏は実の兄)

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~013

 アフガン問題の理解はパキスタンとセットで 

講演記録 (2021年11月11日)

11月11日に開かれた日本ビジネスインテリジェンス協会(BIS)の30周年記念・第175回情報研究会で、「アフガニスタンの現状」のテーマで発表させていただきました。当協会は各界を代表する有力な方がたが歯に衣着せず日本の言論界や政治経済会で話題になっているテーマをインテリジェンスの観点から報告・議論しあう刺激的な活動を30年つづけてこられユニークな教会です。わが『アフガン・ウエッブ』の活動を評価していただき、野口が報告をさせていただきました。内容は10月25日号に掲載した「アフガニスタンーーこれからが本当の国づくり」をベースに加筆修正をおこないました。以下はその講演内容です。掲載にあたって、日本ビジネスインテリジェンス協会様にはこの場を借りてお礼申し上げます。

皆さんこんにちは。
アフガニスタン情報サイト『ウエッブ・アフガン』を運営している野口と申します。まず最初に30周年記念という貴重な機会に発表の機会を与えていただいたことに感謝申し上げます。

さて、本日、お伝えしたいのは、アフガニスタン問題を見ていく場合に、最も大事なのは、アフガニスタン国境内だけを見ていては本質がわからない、ということです。

アフガニスタン問題とは、じつは、パシュトゥーン問題であり、周辺諸国とくにパキスタンとの関係を熟知することが必須です。とはいえ、まず最初に、アフガン内部の状況からみていきましょう。

現在、アフガニスタンで勝利したターリバンの目的はイスラーム防衛の「聖戦」とはいえ、本音を言えば実生活上の「幸せ」や「実益」の追求であったはずです。

なぜそんなわかりきったことを言うかともうしますと、カーブルを無血開城してすぐの10月20日、自爆犯の遺族を占拠したばかりのパレスに招き、会見した暫定政府のハッカーニー内相代行は、「殉教した」ターリバーン戦闘員を「イスラームと国家の英雄」だとたたえる一方で、遺族には報奨金や土地を与えると約束しました。(カブールAFP時事)

ターリバーンやISなどイスラーム原理主義の人たちは日本のカミカゼ特攻隊に尊敬の念をもっているといいます。しかし、超過激主義で名高いハッカーニー内相代行が遺族をまえに報奨金や土地を与える、と言ったのは、殉死したら天国に行ける、と教え込んで死なせた建前だけでは不十分で、遺族の本音に応える必要がある、ということなのでしょう。

ところで、今回ターリバーンが勝利したのは「ジハード」、つまり「聖戦」でした。
打倒の対象だった異教徒の軍隊はいまやアフガニスタンには一兵たりともいません。

ジハードに勝利してやっと国づくり、つまり国民の「幸福」の建設に取り組める条件が生み出されました。
ターリバーンがそのための権力を維持していくためには国民の支持と協力が不可欠です。
イスラームの法律であるシャリーア法は厳格をよそおっていますが、実態はきわめて曖昧なしろものです。その時々のイスラーム政権によって自分たちの政策や統治に都合のよいように、いかようにも解釈されます。
イスラーム国にもいろいろあります。アラブ人の国サウジアラビアは王族ファミリーの利権保証をイスラームの名のもとにやっていますし、アラブ首長国連邦なども似たり寄ったりで、厳しい女性隔離政策をとっています。最近では女性らの要求によって緩和の方向ですが。

パシュトゥーン人と人種的に近いイラン・イスラーム共和国では女性隔離も地方によっていろいろで、選挙制度もありますし大統領も選挙で選びます。

イスラーム国パキスタンも選挙をやっています。トルコや中央アジアのイスラーム国のように、イスラームの世俗化を果たした国もあります。
そのような変化を最も鋭く見抜いているのは女性たちです。ターリバーンがカーブルに入った翌日、カーブルの壁に女性たちの抗議の声、決意が書かれました。

「くたばれターリバーン! 今や女性は政治的に目覚めた。20年前には疑問をもっていなかったブルカの下での暮らしはもはや望んでいない」。(アフガン女性使節団によるRAWAのインタビュー8月21日)

このように20年間の営為はムダではありません

腐敗と汚職にまみれた政府だったとはいえ、欧米による軍事支配の20年で、アフガニスタンは大きく変化しました。1人あたりの国民所得は2000年代初頭から2倍以上に増え、平均寿命は9年延び、学校教育年数は6年から10年になりました。生徒数は80万人だったのが800万人を超え、300万人以上の少女らが就学しました。
女性の雇用事情も大きく変わりました。かつては農事やとくにケシの栽培やアヘンの収穫といった仕事をするしかなかった女性たちが、公務員の5分の1以上、国会議員の4分の1を占めるまでになりました。さらに220人の女性判事が誕生していました(彼女らはいま、命の危険にさらされています)。

アフガニスタンの地域経済は、女性事業主、といっても農産物の担ぎ屋や小商店などによる活動を屋台骨とする非公式部門がほぼ8割を占めています。子どもが学校に通えるのも、親が基礎的医療サービスを受けられるのも、彼女らが最低限の収入を得ているおかげです。こうした零細事業が打撃を受ければ貧困率は跳ね上がるでしょう。働き、学び、尊厳をもって生活する権利を女性から奪うことは、アフガン経済をどん底に突き落とすことにつながります

行政や経済を運営するためには専門職が必要です。ガニー政権下でそれらの仕事をしていた、女性を含む専門家や国連や外国政府やNGO、NPOなどで働いていたアフガン人およびその家族たちが十万人以上国外へ去り、いままだその機会をさぐっている人びとが多数存在しています。職能をもった専門家なしに国家運営はままならないはずです。

そもそもの難題は未解決で山積みです

先に、自爆犯の遺族に報奨金と土地を与える、とのハッカーニー内相代行の発言を紹介しましたが、アフガニスタンでは土地だけもらっても農業はできません

アフガニスタンの国づくりにおいて土地改革、農業改革は必須です。

半世紀ほどまえにさかのぼりますが、周辺諸国、とくに北方のソ連中央アジアの民族的にも近しい諸国の経済社会発展に刺激されて、1970年代、国の改変に若い軍人たちが決起しました。

1973年にクーデターを起こし、王政を廃止して共和制に移行し、78年からは人民民主党による「四月革命」に期待が集まりました。

ちなみに、そのころのアフガニスタンが平和でのどかな素晴らしい国であったかのような旅行者の言説がありますが、それはウソです。旅行者の理想化された願望によるイリュージョンにすぎません

実態は、貧困が支配し女性は隔離・抑圧され医療、衛生や教育などの基本的な社会インフラは整わず厳しい自然のもとで飢餓に悩まされ世界の発展から取り残された半封建的部族社会こそが、アフガニスタンの実像でした。外国、特にソ連に軍事留学し、留学先の同じ中央アジア諸民族が社会主義改革によって発展しているのをみた青年将校たちがクーデタに走った根拠はここにありました。

そのような社会矛盾を解決するため、働く農民に土地を分配する土地改革が革命の第1課題でした。ところが、アフガニスタンでは土地だけあっても農業はできないのです。「水」が必須です。また、運よく土地と水の割り当てにあずかれたとしても、それまで富農の指揮下で働いていた小作人には、種や農機具や肥料や農業技術がありません。お手上げです。しかも、「四月革命」の初期に、土地改革を強制的かつ急速に行ったために、村ごと難民として逃げる一種の逃散がおこり、さらにソ連軍を導入したことにより外部からのゲリラ活動に「聖戦(ジハード)」の口実を与え、武装反革命に悩まされることになったのです。根本的に「幸せ」問題を解決するはずの政策遂行を誤り、国内国外からの制裁と袋叩きにあい、打ちのめされたのが当時の人民民主党(PDPA)でした。

いま、ターリバーンは異教徒である外国軍支配への「ジハード」に勝利したにすぎません。ジハード以前の諸問題=社会改革の課題はまったくの手つかずのまま眼前に山のように積み重なっています。

中世的因習への復帰によって問題を解決することはできません

ターリバーンのほとんどはパシュトゥーン人です。支配イデオロギーもイスラーム法とパシュトーンの慣習法(パシュトゥーン・ワリ)や因習・伝統文化のアマルガムです。かれらは、総数4000万人ほどいると言われていますが、パキスタンとアフガニスタンのあいだで、デュランド・ラインと呼ばれる境界線で真っ二つに分断されています。
多民族国家であるアフガニスタンでは多数と思われているパシュトゥーン人ですが、じつは、過半数にとどきません。アフガニスタンには多数派民族は存在せずいずれもが過半数に満たない少数民族グループの集まりです。そのうえ相対的多数派のパシュトゥーン人は数百の部族や氏族に分かれ、それぞれが独立性をもっており必ずしも単一のまとまりをもっているわけではありません

さらに、アフガニスタン・パキスタン間の合意なき境界線であるデュランド・ラインで真っ二つに分割されたパシュトゥーンはほぼ自由に二つの国を行き来し、パキスタン側のパシュトゥーンはパキスタン政府からの支援金や交付金などを得ており、パキスタン国民としての特権を享受しています。

そのような二重性をパシュトゥーン住民だけでなくパキスタン政府、特に軍部は徹底利用してターリバーンへの影響力を行使しています。ちなみにパキスタン軍の20%はパシュトゥーン人で、ターリバーンを世界に認めさせようと奔走しているイムラン・カーン・パキスタン首相もパシュトゥーン人です。アフガン人であれば子供でも知っているように、ターリバーンの後ろにはパキスタンがおり、ターリバーンそのものがパキスタンなのです。パシュトゥーン人は、アフガニスタンとパキスタンという2つの国を手玉に取ってアフガニスタンとパキスタンを支配しつつあります。

ターリバーンは自爆ベルトや銃器の扱いには習熟しているかもしれませんが、それらは生産活動には役立ちません。それぞれの民族国家の伝統にもとづく近代化=進化は人類史の発展法則であり、何度も行きつ戻りつがあったとしても、自己を貫徹する社会発展法則です。いかに強固なイスラームであれ、その法則から自由であることはできません。イスラーム自身が近代化しない限り人民大衆から見捨てられる運命にあります。

ターリバーンの運命は近代化とイスラームとのはざまで苦しむパキスタンとともにある、逆に言えば、パキスタンの運命はその写し絵であるターリバーンとともにある、と言うことができるのではないでしょうか。

最後に、昨日の毎日新聞が報じた記事を紹介しておきます。それは、「パキスタン一時停戦」という大見出しのもとに「政府と武装勢力 タリバンが仲介」というものです。
「えっつ、パキスタンは戦争していたの? と思われるかもしれませんが、実はパキスタンはこれまでいつも国内で戦争をしてきているのです。毎日新聞の記事の内容は、パキスタンのターリバーンがアフガニスタンのターリバーンの仲介で、パキスタン政府との一カ月の停戦に応じた、というものです。

時間がないので詳細の説明は割愛せざるをえませんが、アフガニスタン問題を考える場合には、パキスタンとセットで考える必要があります。今日はそのことをお伝えして私の話を終わります。

ご清聴ありがとうございました。

【野口壽一】
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~012

 ターリバーン擁護論を読む 

オーマイゴッド、インシャラー

(2021年11月9日)

 

『タリバン復権の真実』(中田考著、ベスト新書)という本が出版されたのを知ったので取り寄せて読んだ。

289ページ新書版。半分以上は過去翻訳の再収録。書下ろし部分は中田考氏のターリバーンとの交流・対話を中心に2012年同志社大学神学館で開催された公開講演会「「アフガニスタンにおける和解と平和構築」およびそれと並行して取り組まれたアフガニスタンの和平交渉のための同志社イニシアティブの活動が白眉として置かれ、前後にアフガニスタンの歴史やターリバーンとはなにかが解説され、全体としてターリバーンの復権を喜びことほぐ内容である。

9.11同時テロや2020年2月の米タリバン・ドーハ合意の重要な日付が間違っていたりして、急ごしらえで執筆・編集された様子がうかがえるが、中田氏の主張は明快で単なる啓蒙書とは一味違い、アフガンの現実に深入りしてターリバーンを擁護する論争的な姿勢が貫かれている。(ちなみに、誤植は出版物にはつきもので小生もしょっちゅうしているので、著者や版元を責めているわけではありません)。

ターリバーンの主張を擁護し大所高所から歴史を俯瞰する宗教書のような書籍をわざわざ取り上げて論評するのは気が重いが、帯につけられた3人の評論家先生の推薦の言葉を見て、気が変わった。腰巻惹句曰く、

内田樹氏「現場にいた人しか書けない生々しいリアリティーと、千年単位で歴史を望見する智者の涼しい叡智」
橋爪大三郎氏「西側メディアに惑わされるな! 中田先生だけが伝える真実!!」
高橋和夫氏「タリバンについて1冊だけ読むなら、この本だ!」

大変なお褒めである。アフガニスタンと付き合うようになってイスラームのみならずユダヤ・キリスト教の勉強もしなければならないと思いいたり、たくさんの啓蒙書・解説書を読んだ。なかでも、中田考氏は、自身がモスレムとなりその理解と実践に基づき、ただしいイスラームを日本に伝えようとする言行一致の姿勢に好感をもっていた。『私はなぜイスラーム教徒になったのか』(太田出版)も読んだし、ずいぶん前に買って教材にしていた入門書『イスラーム世界がよくわかるQ&A100』(亜紀書房)を引っ張り出して参照していたら中田氏も著者のひとりだった。アラブのイスラーム過激派への氏のかかわりにちょっと危なっかしいな、と思いつつも気にしていた論者のひとりだった。

で、本書を一読、感想を言うと「ちょっと待ってよ~先生」という感じ。反対派とくに対立宗派かつ少数民族のシーア派の大量虐殺も、反対する部族長を暗殺して住民を黙らせたり、凄惨な見せしめや残虐な体罰への批判もなく、女性の隔離や教育の制限も神の教えに従う当然の行いであり、外国からの支援も最小でほとんど神学校でまなんだ清き全き神の使徒たる僧兵による闘いの成果、と描き出している。ターリバーン批判者が口をそろえる女性差別や教育制限なども、コーランやシャリーア(イスラーム法)を知らない連中の誤解にすぎない、と一蹴。

まったく、この1冊のなかだけのターリバーンであれば、「なんでこんな愛国心と正義心に満ちた清廉潔白なターリバーンを批判するの?」となることだろう。「高橋先生、ほんとにこれでいいの?」、「橋爪先生、ここまでターリバーンを賛美できるのはほんとに中田先生だけでしょうね」「内田先生、国民の苦難を武力暴力で抑える涼しい顔ってこんなんですか?」と言いたくなってくる。

おちゃらけはやめて真面目に議論する。
第1次ターリバーン政権がアフガン国民に支持されたのは、1992年アフガニスタン人民民主党政権が崩壊してからのムジャヒディーン各派の内紛・内戦のひどさ、各地各民族軍閥の腐敗のひどさに国民が飽き飽きしていたからだ。その国民感情にターリバーンが応えようとしたからだ。内戦に明け暮れ、住民にロケット弾を雨あられと撃ち込みあうムジャヒディーンには命を奪われ続けたからだ。さらに、援助金に群がり奪い合うムジャヒディーンに愛想をつかしたアメリカとパキスタンがターリバーンの後押しをしたからだ。ここいらの事情はいまさらいうまでもなく本サイトの「研究/提言」コーナーで紹介した書籍類で詳述されている。(高橋先生、読んでね)。腐りきったムジャヒディーン(後の北部同盟)を追っ払ってターリバーンが結成後わずか2年でカーブルにせまり北部まで支配するようになったのはパキスタンの軍事支援(および直接の関与)とアメリカやイギリス、アラブからの武器軍備品や資金のおかげだった。

ところが、政権につけてみたら、神の教えと称して極端なイスラーム解釈にもとづく内政、アル=カーイダやISなどのアラブ過激派の保護。支持したアメリカやパキスタンもびっくりするような行為に走った。挙句の果てに客人が起こした9.11同時テロ。怒ったアメリカは翌月の10月7日からおびただしい空爆と北部同盟を使った地上戦でわずか1か月でターリバーン政権を崩壊させ、次なるイラクとの戦争に突進した。(ムジャヒディーンもアル=カーイダもターリバーンもアメリカは自分で育てて自分で苦しんでいる。もっとも、米国の軍産複合体にとっては混乱と戦争が儲け仕事なのでしてやったりなのだろうが)。

ここからターリバーンの復活までも情報はあふれているので、このプロセスについてはこれくらいにして、中田氏の著作にもどろう。

本書で興味深かったのは、翻訳文の再掲でターリバーンの基本文書と称される「タリバン(イスラーム首長国)の思想の基礎」である。ターリバーンの綱領的な文書だ。ただ10年前の文書なので、現在もターリバーンが採用している有効な文書なのかどうかについては著者も保証はしていない。学び始めの神学生から熟練したウラマーに成長しているというタ―リバーンだから時代の要請を踏まえたもっと目配りのきいた文書になっているのかもしれない。しかし、きわめて基本的な思想を述べたものなので現在でも有効なのだろうと思われる。

この文書で重要と思ったのは、ヨーロッパの植民地主義と西洋文化および政治思想哲学に対する批判である。イスラーム独特の法理論はわきに置くと、小生にも賛同できる要素は多い。産業革命を他に先んじて実現した国家・地域として、銃と鉄の船で世界を支配し、文化思想哲学の力(イデオロギー)で人々の心をつかみ帝国主義支配を築いた欧米中心史観についてもいまさらここで述べるまでもない。ただ、その支配に対する闘いをキリスト教十字軍に対する戦争として純化して描き出す点には同意できない。(同意できないと言っても彼らには意味ないのだけれど)。いまでは、イスラームの言葉を使わなくても帝国主義の時代を批判し乗り越えることはできる。帝国主義的近代を乗り越えていくのに、前近代の思想をもってくる必要はない。神様を持ち出してくると、なお一層収拾がつかなくなる。

ターリバーンの綱領のなかの表現で、時代遅れで人びとの支持を得られなくなるだろうなと思われる規定・要求はさまざまあるが、1点だけ挙げておこう。それは、焦点になっている女性のとらえ方に対する規定である。

基本文書「思想の基礎」は述べる。

「アフガン人の女性の性状は他のイスラームの国々の女性とは多くの点で異なっている。例えばアフガン人女性はアッラーの恩寵によっていまだに健全な信仰の天性を保持しており、彼女らの考えは西洋物質主義に汚染されておらず、移住とジハードに耐え、その日暮らしで辛抱しており、露出や裸体よりも貞操と慎み深さを選好している。」

なるほど、外国軍との聖戦を闘っているあいだは、「欲しがりません勝つまでは」で頑張れるかもしれない。しかし、本当は平和とよりよい生活の方がいいんだけどな。

そして、わが中田先生は、本書の結論としてこう述べられる。

「これから我々がなすべきことは、これまでの過ちを繰り返し、自分たちの価値観でアフガン人を一方的に裁く記事を書き続けることでは決してない。」
「大切な伝統と聖なる宗教を侮辱する外国の占領軍を追い出してアフガニスタンの真の独立を達成するために命を捧げる戦士になる夢を語る男の子愛する父母が選んでくれた結婚相手と、親族・隣人たちから祝福されて幸せな家庭を築く結婚を夢見る女の子の声をも報ずることであろう」

もう外国軍との聖戦は終わり、といっても異教徒ならざる外国パキスタンがまだ背後にいるんですけど。そして、戦争のない平和で豊かな生活、といってもまだまだ生存そのものが危険にさらされている現状からの脱却が求められているのに、なんたる時代錯誤の結語をかかげて、先生たちは、涼しい顔をされているんでしょう。

オーマイゴッド、インシュアッラー!

【野口壽一】

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~011

 アフガン戦争でアメリカは何を学んだか 

そして日本は何を学ぶべきか

(2021年11月1日)

 

「編集部から」で金子編集委員がつぶやいている「アフガニスタン・ペーパーズ」。延々と勝ち目のない戦争にはまり込んでしまったと自覚しながら、データを改ざんし、情報を操作し、戦果を強調していた米国政府。「アフガニスタン・ペーパーズ」は、ベトナム戦争時にリークされた機密文書「ペンタゴン・ペーパーズ」になぞらえて「アフガニスタン・ペーパーズ」と呼ばれている。(https://courrier.jp/news/archives/188063/)

そこで暴露されているのは、アフガン人が早くから指摘をし、マスコミも知らなかったわけではないけれど、あったことをなかったように、なかったことをあったように捏造する、ありきたりの手法の数々である。「日本は何を学ぶべきか」と大上段に振りかぶったけれど、そんなに上等なものでなく、戦前にも戦後にも(決して自公だけでなく、またアメリカや日本だけでなく)古今東西、為政者が陥ってきた宿痾と言うしかないものである。

しかし、民主主義国家であれば、政府決定に反対、批判、あるいは推奨、提案する行為が認められ、実行される。アメリカ議会では上院の共和党議員22名がターリバーンやパキスタンを批判し制裁すべしとする法案を提出する動きが始まっている。(https://bit.ly/3CuNobg)(https://bit.ly/3pS1LTl)

アメリカ議会の一部は、アフガニスタン問題の隠された主要問題はパキスタン問題であり、それを知りながらパキスタンとターリバーンを利用してきた(また利用されてきた2面政策)アメリカの責任は大きいとする、われわれ『ウエッブ・アフガン』の主張に近づいてきている。

1921年に設立され、外交問題・世界情勢を分析・研究するアメリカ合衆国の非営利会員制組織で米国政府の対外政策決定に対して強い影響力を持つシンクタンクであり外交誌『フォーリン・アフェアーズ』の刊行などで知られる〝Council on Foreign Relations (CFR)〟も実に興味深い分析を行っている。

● アメリカの著名シンクタンクCFRの分析

CFRのインド、パキスタン、南アジア担当のシニアフェロー=マンジャリ・チャタジー・ミラー(https://www.cfr.org/expert/manjari-chatterjee-miller)名で8月25日付で発表された「ターリバーンに対するパキスタンの支援:知っておくべきこと」と題するインタビュー記事は興味深い。(原文は英語。全文をお読みになりたい方はこちらで読めます。
(https://www.cfr.org/article/pakistans-support-taliban-what-know)

同インタビューで氏は、「パキスタンの政府と軍隊はターリバーンの勝利を支持しているが、ターリバーンへの支援をつづけることは(パキスタンにとって)危険である」と言い切っている。

物事を表面的に見ていると、とんでもないしっぺ返しを食らうことになる。今回のアフガニスタンでの出来事は同国周辺および中東の局地的な事件であるにとどまらず、日本周辺=東アジアでの「グレート・ゲーム」と連動している、という観点はわれわれ『ウエッブ・アフガン』の主張なのだが、今回は、パキスタンに焦点を絞って、CFRの分析を聞いてみよう。

● 質問1:「なぜパキスタン当局はターリバーンによるアフガニスタンの乗っ取りを応援したのか?」

この質問への彼女の答えはこうだ。
「パキスタンの政府と軍隊は一枚岩ではない。むしろ利益面で競合している。しかし、両者ともターリバーンの勝利を喜んでいたのは事実だ。パキスタンのイムラン・カーン首相は、ターリバーンが〝奴隷制の連鎖を断ち切った〟と宣言した。
カーン首相の公式表明には、3つの長年にわたる重層的な理由がある。
第一に、パキスタンはターリバーンに(イスラームの)イデオロギー的装いを与えた。パキスタンは1947年にイスラム教徒の国として創設された。パキスタン国民は異なる言語や民族からなる多くのコミュニティに分かれており、これを接着剤としてまとめるのがイスラームの役割だった。しかし、(言語や民族の)違いは戦争を生んだ。1971年、激しい内戦のすえ、ベンガル語を話すコミュニティが支配的だった東部パキスタン領の大部分との統合は崩壊し、バングラデシュが分離独立した。その敗北のショックから、パキスタン政府は、パシュトゥーン人またはパシュトゥー語話者が多いバロチスタンとカイバル・パクトゥンクワの西部領土に執着するようになった。パキスタンは、イスラーム・ナショナリズムがパシュトゥーン・ナショナリズムを抑えることを期待して、特に厳格なイスラーム思想を植え付けるために、これらの地域にマドラサを設立した。イスラーム・ナショナリズムも支持しているターリバーン指導者たちはそのマドラサで訓練された。」

アフガニスタンとパキスタンを分けている境界線デュランド・ラインについては本「視点」の10月04日付「アフガン問題の本質-パキスタンに注目を」と9月27日付「アフガニスタンとパキスタンは普通の国ではありません」でも詳説した。そこに掲載した地図や説明をご覧ください。われわれと氏の認識はおなじである。
そのことを確認し、ひきつづき氏の話を聞こう。

「第二に、パキスタン当局はアフガニスタンとの国境を心配している。彼らの懸念をターリバーン政府が和らげてくれると信じているしかし、1947年のパキスタン独立以来、アフガニスタン政府は、パシュトゥーン人が支配する領土をアフガニスタンから分離するデュランド・ラインを拒否している。パシュトゥーン人の過半数が住むアフガニスタンは、これらの領土を「パシュトゥニスタン」または伝統的なパシュトゥーン人の故郷の一部であると主張している。パキスタン政府は、ターリバーン・イデオロギーがパシュトゥーン人のアイデンティティよりもイスラーム思想を強調していると信じている。
第三に、パキスタンはアフガニスタンに親パキスタン政府を設立しようとしている。パキスタンは、インドが民族的および言語的差異を利用してパキスタンを揺さぶり、崩壊させようとしていると非難している。インドとアシュラフ・ガニー前大統領の政府との良好な関係は、パキスタンの懸念を和らげる何らの対処もしなかった。それに対して、ターリバーンは、反インド・ジハードグループへ聖域を提供するなど、パキスタンがインドに対抗するのを助けてきた。」

つまり、インドを割って作ったパキスタンという国家の成り立ちの不安定さにおびえるパキスタンの軍部と政府は、イスラーム教徒としてのターリバーンの側面に共通性をみて期待をかけているのである。パシュトゥーン・ナショナリズムが大きくなるとパキスタンへの遠心力が働きかねない。パキスタンとの共存理由はただひとつ、イスラームにしかない。パキスタンはイスラームに寄りかかるほかに救いはないが、そのイスラーム自体いくつもの系統や分派・思想潮流に分かれ、非妥協的で和解しがたい思想的宗教的政治的対立の原因にもなっている。そこにパキスタンの弱点=苦悩がある。(本サイト「研究/提言」『苦悩するパキスタン』参照)

● 質問2:9/11以降、パキスタンとタリバンの関係はどのように変化したか?

「パキスタンは、ターリバーンを財政的に支援し、さらには後方支援の主役であり続けている。パキスタンの軍統合情報局(ISI)は、ターリバーンの設立当初から、資金、訓練、兵器面で支援してきた。ISIはまた、ターリバーンと緊密に協力している過激派グループでパキスタンを拠点とするハッカーニネットワークとの強い関係を維持している。(ハッカーニ・ネットワークのリーダーであるシラジュッディン・ハッカーニは、2015年からタリバンの副代表格)。ターリバーンはパキスタンに不動産を所有しており、国内の個人から多額の寄付を受けている。
同時に、米国からの圧力の下で、パキスタンは何年にもわたって、グループの最高指導者の1人として戻ってきたターリバーンの創設者であるムッラー・アブドゥル・ガニー・バハダルを含むタリバン司令官らを拘束し、拷問したとされている。さらに、現在のパキスタン陸軍参謀総長であるカマル・ジャビド・バジュワ将軍は、パキスタンを不安定化させるターリバーンの可能性に非常に警戒していると伝えられている。
今後、ターリバーンに対するパキスタンの影響力は低下する可能性がある。一方、ターリバーンは、中国、イラン、ロシアとの関係を築こうとしている。パキスタンの緊密な同盟国である中国がターリバーン主導政府の承認に踏み切るとすれば、ターリバーンとパキスタンの両方が凶暴な宗教的ナショナリズムを支持しないという条件つきだ。というのは、中国政府は新疆ウイグル自治区に独立要求を掲げたイスラーム勢力の影響が中国に波及する可能性を恐れているからだ。」

シラジュッディン・ハッカーニは9月7日に発表されたターリバーン暫定内閣で内相代行に就任している。パキスタンはアメリカの圧力で「テロリスト」を逮捕したり、カタールの首都ドーハでの「和平交渉」開始に当たっては、囚人として逮捕した彼らを今度はターリバーン側交渉担当としてアメリカの命令で釈放してドーハに送り込んでいる。(「アフガンの声」米国アフガン占領20年の失敗―その原因<4>参照)。その代表格ムッラー・アブドゥル・ガニー・バハダルは2010年2月にパキスタン当局によって逮捕され拘留されていたが、アメリカの要請で2018年10月に釈放されドーハへ派遣され、ターリバーン外交事務所の責任者としてアメリカとの交渉にあたり和平合意を実現した。暫定政権では副首相に就任したが閣内の内紛で殺害されたとの噂が流れた。カンダハルに逃れたという情報もあった。9月15日テレビ局のインタビューに登場し内紛や負傷説が誤報であるとして本人が否定した。(9月16日CNN)

● 質問3:ターリバーンのアフガニスタン乗っ取りはパキスタンにどのような影響を与えるだろうか?

「パキスタンはターリバーン支援にあたって危険なゲームをしている。パシュトゥーンナショナリズムを取り込んでアフガニスタンに親パキスタン政府を樹立しインドに対抗するという目標は、ターリバーンやパキスタン内で戦っている宗教的ファンダメンタリストたちのどちらの思考性癖に鑑みても説得力がない。
パキスタンはデュランド・ラインにピリピリしている。国境を強化し境界を定めるために過去数年間に数百万ドルを費やしてきた。それでも、ターリバーンは、他のアフガニスタン政府と同様に、デュランド・ラインそのものも、さらには両国を境界線で物理的に区別しようとするパキスタンの試みも受け入れていない。ターリバーンがパシュトゥニスタン(パシュトゥーン人の国)というアフガン側のスローガンを放棄したり非難したりしたこともない。
さらに複雑なことに、ターリバーンは、パキスタンのターリバーンと呼ばれるテリク・エ・ターリバーン(TTP)と緊密な関係を維持している。TTPは、ターリバーンに親和性をもっており、アフガニスタンとパキスタンの国境地帯で活動し、独立したパシュトゥニスタンを確保するまでパキスタンとの戦争を誓う小さなパシュトゥーン人過激派グループだが、何千人ものパキスタン民間人の死に責任がある。伝えられるところによると、パキスタンのバジュワ将軍は、アフガニスタンのターリバーンとTTPの間のつながりを認め、パキスタンの国会議員に、両ターリバーンは「同じコインの裏表」であると警告した。
さらに、アフガニスタンが再び内戦に陥った場合、パキスタンはさらに巨大な難民の流れに対処しなければならなくなる。昨年、推定140万人のアフガニスタン難民がこの国に流入した。
最後に、アフガニスタン(およびパキスタン)が新疆ウイグル自治区の不満ウイグル人を含むイスラーム分離主義者の聖地になった場合、パキスタンは中国との関係を危うくする可能性がある。」

われわれは以上の認識に賛同する。

● 質問4:米国とその同盟国は、アフガニスタンの状況についてパキスタンとどう協力できるだろうか。

「米国は南アジアおよびパキスタンとの二国間関係において複雑な状況に直面している
。米国政府は、テロ対策への協力の見返りとしてパキスタンへ長年投資してきた。しかしパキスタンの地域安全保障に与えた利益に比べると、限られた配当しか返ってこなかった。
現在、ワシントンには考慮すべき2つの追加要素がある。
ひとつ目は、インドとの戦略的パートナーシップの深化だ。過去数年間で、インドはより緊密な安全保障関係を求める米国の主張をより受け入れやすくなっている。米印関係におけるこれらの利益を考えると、米国はパキスタンとの関係において非常なる注意を払うべきだ。パキスタンによる国境を越えたテロ支援をワシントンが抑制していないという懸念は、ニューデリーとの関係を危険にさらすだろう。
ふたつ目の要素は、この地域に対する中国の関心の高まりだ。中国政府がこの地域で宗教テロを引き起こす可能性は低いが、ターリバーンと協力し、アフガニスタンを一帯一路イニシアチブ(BRI)に組み込むことを目指すだろう。米国の戦略は、中国の投資を相殺するよう努めるべきだ。中国はパキスタンに影響力を持っている。米国にとってありうる選択は、宗教的ナショナリズムとアフガニスタンから溢れ出る過激派に対する中国の恐れを利用して、米中パキスタン協力づくり戦略を開始し、ターリバーンに圧力をかけることである。」

これからのアメリカの外交戦略は、「インドとの連携を図りながら、中国のイスラーム過激派への恐怖心を利用して米・中・パキスタン協力」態勢の構築であるべきだという。この分析に従うならば、アメリカが強調している「新疆ウイグル地区での人権問題」は中国をこの協力体制へ引き込むための尻叩きと理解することができる。極めて巧妙な戦略戦術だと思われるが、もしそうなるとすれば、歓迎すべきことかもしれない。
あな恐ろしきはアメリカの戦略、というべきか。アメリカはアジアの西と南と東とで中国と「グレート・ゲーム」を演じている。アメリカの表向きの対中批判に乗っかって中国批判に明け暮れていては、駒でしかない日本はアメリカに裏をかかれてしまうかもしれない。

【野口壽一】

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~010

 「アフガニスタンーーこれからが本当の国づくり」

(2021年10月25日)

九州を拠点に全国に情報展開している雑誌『I・B』に表題のタイトルで寄稿しました。発行元の株式会社データ・マックス(文末に注)はペシャワール会と同じ福岡市に本社を置き、中村哲医師の事業については早くから取り上げ支援してきたそうです。

戦争の目的は「幸せ」の追求

現地での事業をハンセン氏病の治療から始めた中村哲医師がたどり着いた究極事業は灌漑でした。最初は医療活動で現地に関わった中村さんでしたが、途切れることなく現れる患者を目の当たりにして、患者一人ひとりを救っていてもらちがあかない。病気・不健康の原因は「汚れた水」にあり根を絶たなければ「いたちごっこ」で終わると気づいたたすえの帰結でした。水は農業をささえ食料を生み出す命の源でもありました。

Web Afghan in JAPANでは、アフガニスタンおよびそれを取り巻く国際環境の政治・軍事・経済事情、そこで生活する人びとの身近で切実な課題を取り扱っています。いきおい、大所高所からの分析や客観的な観察・批評、あるいはその対極にある一般民衆の憤りや運動のレポートが多くなりがちですが、それらの基底には一人ひとりの人間や家族や地域に、生き延びるための生活の苦労や幸せを求める想いがあります。

中村さんをはじめ、NGOやNPOの人びとが、農業支援や教育支援、地雷除去や医療支援などに取り組むのはそうした人びとの「幸せ」を直接実現する活動です。それに対して政治や軍事に関わっている人びと、特に指導者たちは、「目前の不幸の根を政治的に根絶し人びとの幸せを実現するため」に戦っていると考えており、一般の人びとと目的は同じはずです。

なぜこんなわかりきったことを言うかというと、10月20日に自爆犯の遺族と会見した暫定政府のハッカーニー内相代行が18日、自爆テロを起こして「殉教した」ターリバーン戦闘員を「イスラームと国家の英雄」だと称賛(カブールAFP時事)し、遺族に報奨金と土地を与えると約束したという記事を目にしたからです。日本でもカミカゼ攻撃機で自爆しに出発する学徒兵の「愛する人や家族を守るため」自分の命を犠牲にすると決意をしたためた遺書が「きけわだつみの声」としてまとめられています。国や正義に殉じる気持ちの底にあるのは大所高所の抽象的な概念や観念(ジハードで死ねば天国に行ける)だけではなく、生きて飲み食いする愛する家族の幸せという具体的な目的へ「命を捧げる」精神です。

ターリバーンやISなどイスラーム原理主義過激派は日本のカミカゼ攻撃に尊敬の念を示すといいます。彼らは、外国勢力=異教徒の支配が自分たちの存在そのものである伝統的宗教的な生き方(ターリバーンにあってはパシュトゥーン・ワリ)を破壊する許しがたい「悪の根源」とみて、それを根絶するジハード(聖戦)を闘ってきたわけです。

アッラー(神)の名に殉じても、心情の底にあるのは神や国家(日本の場合は天皇)ではなく、生身の人間の生き方=「生活」のはずです。

超過激主義で名高いハッカーニー内相代行が遺族をまえに報奨金や土地を与える、といったのは、宗教民族文化国家を超えた統治組織の政策実行者として(自爆を肯定するわけではありませんが)普遍的で当然な発言です。

ターリバーンが勝利したのは「ジハード」

アフガニスタンにはいま、異教徒の外国軍はいません。ターリバーンが勝利したのは「ジハード」であり、「生活」「幸福」にむけた闘いは道半ばのはずです。90年代の10年間も異教徒である外国軍はいなかったのですが、その10年間はアフガン国内勢力の内戦と未熟なターリバーンに付け込んだアラブ過激派の存在により、国造りどころではありませんでした。(この期間もパキスタンの存在はありましたが、それはまた別の問題。10月4日の視点「アフガン問題の本質-パキスタンに注目を!」参照)

1980年以降、政治闘争が武力闘争となり内戦となり、その結果、個々の社会成員が不幸を背負わされてきたのがこの40年でした。決着がつかなければ社会そのものの破滅、共倒れになりかねないほどの危機が進行していました。つまり、アフガニスタンは甚だしい本末転倒に陥っていたわけです。

今回はじめて、欧米軍事力不存在(ただしアラブ・イスラーム原理主義過激派は存在する)のアフガニスタンが誕生しました。ジハードの大義を果たし政権をとったターリバーンは自爆犯(ジハードに殉じた英雄)の遺族だけでなく国民全員の生活を支える、つまり、食わせなければなりません。本来、外国勢力を追い出すジハードに人びとを動員したのも、自分たちの生活を自分たちで築こうとするのが目的だったはずです。

国土の大半を武力支配するに至ったターリバーンには国民のさまざまな要求が突き付けられます。それらをひとつひとつ解決し、社会機能を維持しなければなりません。

ターリバーンは2020年2月のドーハ合意で欧米軍撤退後は、アフガン国内既存勢力と広範な包摂的政府をつくると約束しました。しかし、その合意から外されていた国家と政府の長であるガニー大統領はすたこらさっさと大金をもって逃げ出しました。ターリバーンから見れば共同してアフガニスタンを運営すると米国に約束した最大の相手が消滅してしまったのですから、単独で政権をつくる言い訳をする必要もないほどの絶好の条件が転がり込んできたわけです。

暫定政権を樹立し執政権を主張した以上、ターリバーンは国家運営の全責任をおわなければなりません。農村運営はなんとかなるかもしれませんが、都市機能や国家全体の運営となるとそうは問屋が卸しません。

権力維持には国民の協力が不可欠

ターリバーンが権力を維持していくためには国民の支持と協力が不可欠です。イデオロギーでは腹は膨れません。人は病気にもなります。知恵もつけなければならないし、気晴らしもしないと生きていけません。国政を担当することになれば、このような国民の要求をターリバーンは満たさなければなりません。

イスラームのシャリーア法は曖昧であり、その時々のイスラーム政権によって自分たちの政策や統治に有利なように、いかようにも解釈されます。イスラーム国にもいろいろあります。アラブ人の国サウジアラビアやUAE(アラブ首長国連邦)など厳しい女性隔離政策をとっているイスラーム国があります(そこでも女性らの要求によって緩和の方向)。パシュトゥーン人に人種的に近いイラン・イスラーム共和国では女性隔離も地方によっていろいろで、選挙制度もあり大統領も選挙で選びます。パキスタンもそうです。トルコや中央アジアのイスラーム国のように、イスラームの世俗化をはたした国もあります。ターリバーンは西側諸国に認められ、真剣に相手にしてもらうことを望んでいます。

カーブル入城直後の記者会見などを見ていると、一見ずる賢く立ち回ろうとする姿勢も見て取れます。世界に向けて寛容さを印象づけようとしている気配もあります。しばらくすれば、状況によっては選挙を行うと言い出すかもしれません。しかし、彼らのイスラーム原理主義の信条とパシュトゥーン優遇の本質は変わらないでしょう。もし変わったら、もうターリバーンではないわけですから。

そのことを最も鋭く見抜いているのは女性たちです。ターリバーンがカーブルに入った翌日、カーブルの壁に次のような抗議の声、女性たちの決意が書かれました。

「くたばれターリバーン! 今や女性は政治的に目覚めた。20年前には疑問をもっていなかったブルカの下での暮らしはもはや望んでいない。安全にいられるための賢いやり方を探しながら我々は戦い続ける」。(アフガン女性使節団によるRAWAのインタビュー8月21日)

アフガニスタンの目覚めた女性たちはデモを行い、スマホで写真や動画を撮影し、自分と家族の生活を守るために、自分たちの主張を世界中に発信しています。

20年間の営為はムダではない

腐敗と汚職にまみれた政府だったとはいえ、また建前とはいえ、掲げられた自由と民主主義の旗印と世界からの援助金(そのほとんどは途中で消えたと言われていますが)による20年で、アフガニスタンは大きく発展しました。1人あたりの国民所得は2000年代初頭から2倍以上に増え、平均寿命は9年延び、学校教育年数は6年から10年になりました。生徒数は80万人だったのが800万人を超え、300万人以上の少女らが就学しました。

女性の雇用事情も大きく変わりました。かつては農事やとくにケシの栽培やアヘンの収穫といった仕事をするしかなかった女性たちが、公務員の5分の1以上、国会議員の4分の1を占めるまでになりました。さらに220人の女性判事が誕生していました(彼女らはいま、命の危険にさらされています(本Web「トピックス」2021年9月29日<BBC>参照))。

アフガニスタンの地域経済は、女性事業主による活動を屋台骨とする非公式部門がほぼ8割を占めています。子どもが学校に通えるのも、親が基礎的医療サービスを受けられるのも、彼女らが最低限の収入を得ているおかげです。こうした零細事業が打撃を受ければ貧困率は跳ね上がるでしょう。働き、学び、尊厳をもって生活する権利を女性から奪うことは、アフガン経済をどん底に突き落とすことにつながります。

女性の職員や労働者の排除だけではありません。行政や経済を運営するためにはテクノクラートが必要です。ガニー政権下でそれらの仕事をしていた専門家や国連や外国政府やNGO、NPOなどで働いていたアフガン人およびその家族たちが十万人以上国外へ去り、いままだその機会をうかがう人びとが多数散在しています。職能をもったそのような人びとなしに国家運営はままならないはずです。

パキスタンや周辺諸国への避難民だけでなく、国内難民もこの数カ月で数十万人規模で増加し、地方の山岳地帯ではすでに相当数の餓死者がでたと報告されています。ターリバーンの「変節」を糾弾するISなど過激原理主義者のテロ活動も活発化しています。これまでテロ活動で治安を脅かしてきたターリバーンに古い同志たちの取り締まりが可能なのでしょうか。

これまでの20年間に達成されてきた成果や成長の芽を踏みつぶすことによって未来に進めるとは思えません。難題百出となるでしょう。アフガニスタンはこれから、ターリバーンであれ、反ターリバーンであれ、本当の国づくりの試練に直面し続けることになるのでしょう。

そもそもの難題は未解決で山積み

先に、自爆犯の遺族に報奨金と土地を与える、とのハッカーニー内相代行の発言を紹介しましたが、アフガニスタンでは土地だけもらっても生活には何も役立たないのです。

農業が経済の中心であるアフガニスタンでは農業が命。周辺諸国、とくに北方のソ連中央アジアの民族的に近しい諸国の経済社会発展に刺激されて、70年代、国の改変に若い軍人たちが決起しました。王政を廃止して共和制に移行し、78年からは人民民主党による「四月革命」に期待が集まりました。ちなみに、それ以前のアフガニスタンが平和でのどかな素晴らしい国であったかのような西側インテリ旅行者の言説がありますが、それはウソです。旅行者の理想化された願望によるイリュージョンにすぎません。実態は、貧困が支配し女性は隔離・抑圧され医療、衛生や教育などの基本的な社会インフラは整わず厳しい自然のもとで飢饉と飢餓に悩まされ世界の発展から取り残された半封建的部族社会が、アフガニスタンの実像でした。外国、特にダウド時代にソ連に軍事留学し、留学先の同じ中央アジア諸民族が社会主義改革によって発展しているのをみた青年将校たちがクーデタに走った根拠はここにありました。

そのような社会矛盾を解決するため、働く農民に土地を分配する土地改革が革命の第1課題でした。ところが、アフガニスタンでは地主だけでなく「水主」の存在があり、土地だけあっても農業はできないのです。また、運よく土地と水の割り当てにあずかれたとしても、それまで富農の指揮下で働いていた小作人には、種や農機具や肥料や農業技術がありません。お手上げです。しかもそのような土地改革を強制的かつ急速に行ったために、村ごとパキスタンに難民として逃げる一種の逃散がおこり、ソ連軍を導入したことにより外部からのゲリラ活動に「正義(ジハード)」の口実を与え、武装反革命に悩まされることになったのです。根本的に「幸せ」問題を解決するはずの政策遂行を誤り、国内国外からの制裁と袋叩きにあい、打ちのめされたのが当時の人民民主党(PDPA)でした。

人民民主党が取り組んだ改革目標は、イギリスとの闘争のすえアフガニスタン国を現在の形で獲得し近代化に取り組んだアブドゥル・ラフマーン王、さらにその事業をひきつぎ1919年に独立を成し遂げたアマヌラー・ハーンの近代化路線の延長だったとも言えます。アマヌラー・ハーンは世界から取り残されそうになっていたアフガニスタンの教育や社会改革に取り組みました。しかしその近代化路線が強引で急速でハザーラなどへの抑圧のゆえにイギリスに支援された国内の反発を招き国王自身亡命せざるを得なくなるところまで追い込まれました。まるでPDPA政権の崩壊の再現です。同じく、ターリバーン政権を打倒して2001年から遂行されたアメリカ主導の近代化改革の失敗も、ガニー大統領の大金を持っての逃亡というおまけまでついて、アマヌラー王の亡命やPDPA政権によるチャレンジの失敗(ナジブラの逃亡)と「ウリ3つ」です。

ターリバーンは異教徒である外国軍支配への「ジハード」に勝利したにすぎません。ジハード以前の諸問題=社会改革の課題はまったくの手つかずのまま眼前に山のように積み重なっています。ターリバーンにはそのような社会改革を行う気はなく、伝統への回帰=アフガニスタンで繰り返されてきた近代化路線への反動(アマヌラー王に対するバチャ・イ・サカオの乱、PDPAに対するムジャヒディーンの乱、アメリカ侵攻に対するターリバーンの乱)のひとつにすぎません。

中世的因習への復帰はありえない

ターリバーンのほとんどはパシュトゥーン人で構成されており、支配イデオロギーもイスラーム法とパシュトーンの慣習法(パシュトゥーン・ワリ)や因習・伝統文化のアマルガムです。

多民族国家であるアフガニスタンではパシュトゥーン人は決して多数派ではありません。アフガニスタンには多数派民族は存在せずいずれもが過半数に満たない少数民族グループの集まりです。そのうえ相対的多数派のパシュトゥーン人は数百の部族や氏族に分かれ、それぞれが独立性をもっており必ずしも単一のまとまりをもっているわけではありません。さらに、数千万人のパシュトゥーン人口はデュランド・ラインで真っ二つに分割され、パキスタン側はパキスタン政府からの支援金や交付金などを得ており、パキスタン国民としての特権を享受しています。そのような二重性をパキスタン政府、特に軍部は徹底利用してターリバーンへの影響力を行使しています。ちなみにパキスタン軍の20%はパシュトゥーン人で、ターリバーンを世界に認めさせようと奔走しているイムラン・カーン・パキスタン首相もパシュトゥーン人です。アフガン人であれば子供でも知っているように、ターリバーンの後ろにはパキスタンがおり、ターリバーンそのものがパキスタンなのです。パシュトゥーン人は、アフガニスタンとパキスタンという2つの国を手玉に取ってアフガニスタンを支配しつつあります。

90年代は外国軍のいない10年だったと先に言いましたが、実際はその間にもパキスタンという国家と軍が陰に陽に存在していたのです。しかも今後、イスラームを国の礎とするパキスタンが、自らが指導して生み出したターリバーンを使ってアフガニスタンを支配するとなれば、かつての異教徒の国ソ連やアメリカによる占領という様相とは異なりますが別の種類の外国支配がアフガニスタンに出現することになります。

ターリバーンは自爆ベルトや銃器の扱いには習熟しているかもしれませんが、それらは生産活動には役立ちません。単純な模倣にすぎない西洋化ではなく、それぞれの民族国家の伝統にもとづく近代化=進化は人類史の発展法則であり、何度も行きつ戻りつがあっても、自己を貫徹する法則です。いかに強固なイスラームであれ、その法則から自由であることはできません。イスラーム自身が近代化しない限り人民大衆から見捨てられる運命にあります。ターリバーンの運命は同じく近代化とイスラームとのはざまで苦しむパキスタンとともにある、逆に言えば、パキスタンの運命はその写し絵であるターリバーンとともにある、と言うことができるのではないでしょうか。

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株式会社データ・マックス(福岡市博多区中洲中島町2-3 福岡フジランドビル8F)が発行する「地域企業の繁栄をサポートする経営情報誌インフォメーション・バンク「アイ・ビー(I・B)」。同社のウエブサイトでも3回に分けて連載されました。(第1回)(第2回)(第3回)
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【野口壽一】

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~009

 「微笑みの来た道」は「イスラームも来た道」

東京藝大美術館「みろく」展を観て想う
(2021年10月18日 13:00)

もう閉会してしまいましたが、東京藝大美術館で開かれていた「みろく―終わりの彼方 弥勒の世界―」展を観てきました。

2016年にバーミヤン摩崖仏が納められた石窟天井壁画の「天翔る太陽神」復元展が同じ藝大美術館で開かれ、また翌年2017年には法隆寺壁画再現などにかけた藝大のスーパークローン展示会も観ました。それらのすばらしさはすでに体感していたので、今回はちょっと油断してしまいました。拝観したのが最終日になってしまいました。ご覧になった方は多いと思いますが、もっと早く観覧してニュースメールで案内すべきであった、と反省。

今回の展示は、ユーラシア世界の歴史時間と広大な地上空間で演じられてきた人間の美術宝物創造を藝大が開発したスーパークローン技術によって4次元的によみがえらせようとする野心的なものでした。

展示の中心はバーミヤンでした。ちょうど20年前の2001年3月にバーミヤンの東西2体の摩崖仏破壊をターリバーンが世界に向けて宣言し爆破したのはほとんどの方が覚えていらっしゃることでしょう。偶像崇拝を否定するイスラーム教の教義にもとづくとして当時のタ―リバーン最高指導者オマル師が前月に破壊命令を発出したのでした。

バーミヤンの大仏が日本で有名なのは、なんといっても629年から645年にかけてインドへ求法の旅に出た玄奘三蔵が著した『大唐西域記』を通してでしょう。
バーミヤンを歴史の中に正確に刻んだのは玄奘三蔵が最初だそうです。632年(630年という説もある)、玄奘三蔵はバルフから南下して、ヒンドゥークシュの険しい山谷を超えバーミヤンへやってきました。このヒンドゥークシュ越えは「氷河や砂漠よりはるかに危険」「山は高く谷は深く、尾根や岩石は危なっかしく、風と雪がやむことなく、真夏でも凍っており、雪が積もり谷を覆い、谷川の道はきわめて渡りにく」く、「父母から受けた大切な体を危険な旅路にさらす」難儀のすえ、ようやくバーミヤンの入り口にたどり着いたそうです。そのとき玄奘の目に飛び込んできたのは、金色に輝き、宝飾をきらめかす荘厳な摩崖仏2体と巨大な涅槃仏とでかざられた仏の都でした。(前田耕作著『アフガニスタンの仏教遺跡バーミヤン』晶文社より抜粋)

バーミヤンでは128年にクシャーン朝を建てたカニシュカ王の保護のもと仏教が栄えました。現在はパキスタン領内のガンダーラとともに西のグレコローマン文明と東のインド文明が混交融合して新しい文明であるヘレニズム文明が生まれた土地です。

「ヒンドゥクシュの山々が連なるアフガニスタン、ここは東と西の文明が交差する十字路だ。古来、このあたり一帯では、ペルシャのゾロアスター教が広く信仰されてきた。紀元前4世紀、アレクサンドロス大王の大遠征によって、ギリシャ文明がもたらされ、さらに紀元2世紀頃、クシャーン朝カニシュカ王の時代に、インドからガンダーラ地方を経て、仏教がアフガニスタンに伝わる。カニシュカ王は仏教を厚く保護したことで知られているが、この時代、仏教とゾロアスター教では太陽神となったミスラが運命的な出会いを果たすのだ。」(井上隆史『図録 みろく』収録解説)

そのバーミヤンの大仏は、ターリバーンが2001年に爆破し完全に破壊するまえイスラーム勢力がバーミヤンを占領した後9世紀ころから部分的な破壊(大仏の顔のそぎ落としなど)が始まったという(前田説)。風化による損壊もありました。

人為であれ自然であれ形あるものは崩れる。今回はバーミヤンの岩壁に穿たれた800もの洞のなかでも比較的大きなE窟の天井壁画「青の弥勒」の復元(スーパークローン)が展示された。金よりも高価と言われるアフガニスタン特産のラピスラズリを砕いて顔料とした青をふんだんに配した衣(ころも)をまとったふくよかな弥勒は、技術と情熱によって永遠の命をもってよみがえりました。人類とクローン技術が存在する限り、釈迦入滅56億7千万年後に衆生を救済するために現れる弥勒菩薩もお姿が風化されることもなく安堵されるのではないでしょうか。

井上説が述べるように、バーミヤンはギリシャ、メソポタニア、ペルシャ、インドの古代宗教が旅をして出会い共生融合した交差点でもありました。

「みろく―― 終わりの彼方 弥勒の世界――」展のテーマは、ギリシャ文明と出会うことによって弥勒菩薩の概念がガンダーラやハッダやバーミヤンで彫像として具現化され、新疆ウイグルを貫くシルクロードをへて日本へと伝わってきた道筋をその地その地の弥勒像を展示ないしスーパークローン技法で再現し、提示するスケール壮大で野心的な展覧でした。

このコンセプトは、NHKの『シルクロード・美の回廊 II「“微笑み”がきた道」』(出演:ヤマザキマリ 、前田耕作。2019年5月11日放送)のコンセプトとも共通するものでした。

アルカイック・スマイルと言われる仏像の深遠で含蓄深い微笑みの微妙な変化をたどるこの番組のコンセプトが今回の実物仏像やクローンで展示されたわけです。

グレコローマン的、ゾロアスター的、ヒドスターン的微笑みが、新疆ウイグル/中国を経て日本の弥勒菩薩の表情に定着していく様は興味が尽きません。とくに広隆寺の半跏思惟像の完成された微笑みは、学校教育の場で日本人のほとんどは一度は見せられたはずです。衆生の救済を深く思惟する慈愛に満ちたほのかな微笑みはガンダーラ仏の雄々しい表情とは対蹠的できわめて日本的で宗教的境地の高いものといえます。

私はこの展覧会とNHKの放映でアルカイック・スマイルの変遷を見ながら、いささか複雑な感懐に陥りました。それは、実体験した、「微笑みの来た道」は「イスラムの来た道でもある」という感想です。

仏像の破壊はバーミヤンだけではありません。私が目撃して強い衝撃を受けたのは、新疆ウイグルの旅で、キジル千仏洞とベゼクリク千仏洞を訪れたときでした。アフガン・イラク・シリアとイスラーム過激派の動きが激しくなり、新疆ウイグル地区もそのうち行けなくなるかもしれないと危惧し、6年前、ツアーに参加しました。ウイグル族は中央アジアのチュルク系民族でアフガニスタン北部の民族とも近しいつながりを持っています。現地ではほとんどアフガニスタンといっても大げさでないほどの近親性を感じました。この点についてはまた別の機会に論じたいと思います。

今回は、キジル千仏洞で得た感慨について記します。
キジル千仏洞とは新疆ウイグル地区最大の石窟群です。壁のように視界をふさぐ赤茶けた巨大な山塊の岩石壁に無数の石窟が彫られています。岸壁に穿たれたひとつひとつの洞は仏僧がそこにこもって修行する洞窟です。洞の天井や左右の壁いっぱいに小さな仏がそれこそひとつの洞に千体ほどあるのではないかと思われるほど描かれた祠です。そのような洞が千も穿たれているわけです。祈るだけでなく、インドからもたらされた仏典の翻訳も行われました。玄奘三蔵が持ち帰った仏典の翻訳もなされましたし、3世紀中ごろから取り組まれていました。玄奘以前に翻訳事業に取り組んでいた鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)が有名で銅像が創建されていました。

鳩摩羅什の銅像越しに岩山の山肌いっぱいに穿たれたバーミヤンの光景に似た千仏洞を眺めると、宗教的情熱のすごさに圧倒されます。

岩山に穿たれた洞の全部の天井や壁には、本来、大小さまざまな仏像がびっしりと描かれていたのですが、それらの破損の原因を聞いて、考えさせられてしまいました。
もちろん、風化による損傷はありました。近年、欧米からの探検隊が保存のよいものは壁ごとはぎ取って持ち帰りました(ドイツのものは第2次世界大戦の爆撃で全損という悲劇もあります)。プロレタリア文化大革命のときには、宗教否定の思想から(日本の廃仏毀釈のように)壁画をドロで塗りつぶしたりしました。それ以前に9世紀ころから進出してきたイスラーム勢力も手当たり次第に壊したのですが、とにかうたくさんあるので、壊しきれません。最後は、祈りに欠かせない仏像の顔、それも眼だけをくりぬいて作業終わりとしているものが見られました。削る方も天井を上向いたり背丈よりも上に描いてある仏像に手を伸ばしたりと、かなり疲れたんじゃないでしょうか。

規模はぐっと小さくなりますが、もうひとつ訪れたベゼクリク千仏洞(トルファン火焔山周辺)はキジル千仏洞から数百km東にありました。ここでも壁に描かれた仏像の目や口が削り取られています。イスラム教東漸の痕跡と言えます。そこからさらに500Km以上東にある敦煌の莫高窟にも洞があります(敦煌は未踏)。敦煌の壁画はイスラームによる破壊はそれほどでもないと聞いています。敦煌の仏像(弥勒菩薩)や仏画は中央アジアからの影響を受けて両足を交差させており、仏教が来た跡をイスラームが追いかけてきた歴史の積み重ねが見られるようでとても興味深いものがあります。

ベゼクリク千仏洞を見学していた時、小学校高学年らしき一団が見学に来ていました。仏教、イスラム教、欧米探検隊、プロ文革と受難を経てきた仏たち。地層の重なりのごとく受難の痕跡をとどめた遺跡を現代中国愛国教育を受ける子供たちにどう教えるのか、ウイグル族でムスレムの中国人ガイドに聞いてみました。答えは、「そのまま教えます。歴史ですから」との答え。実に淡々としています。

「歴史ですから」という答えは、エジプトを旅した時に付き添ってくれたエジプト人ガイド(敬虔なモスレム)からも聞きました。原始宗教をはぐくんだエジプト文明は思いっきり偶像崇拝そのものです。「モスレムとしてどう思う」と聞くとやはり「歴史ですから」と答え、「商売になります」と笑っていました。この「歴史ですから」という答えは、大連で日露戦争の戦跡を見事に整備し乃木将軍の二人の息子の戦死場所を祀ってくれている中国人にも聞いてみました。「水師営会見場跡」博物館など日露戦争の戦跡だけでなく、満州国史跡の保存など、びっくりするほど丁寧に保存していたからです。ここでもなぜ、と聞いてみたらやはり同じく「歴史ですから」との答え。

アフガニスタンに話を戻します。
今度のターリバーンは、20年前に爆破したバーミヤンを警備しているそうです。また、博物館なども略奪が起きないよう警備をしているそうです。ターリバーンが「歴史ですから」と言う日が来るのでしょうか。

「新疆ウイグルの旅」は「ユーラシア」コーナーにあります。【ここをクリック】

【野口壽一】

 

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~008

 アフガン問題の本質-パキスタンに注目を!
(2021年10月04日 13:00)

Web Afghan in JAPANでは、アフガニスタンと世界の「平和と進歩と人権」を守る視点からのアプローチをベースに編集をしてきました。女性の教育や人権の尊重はもっとも尊厳な課題のひとつです。その意味でこの間のアフガニスタン国内や世界での女性の権利擁護の声を集中的に集めてきました。
この立場は、アフガニスタンで生まれ育ちあるいはゆかりを持つ個人・個々人の立場に徹底してたつ、ミクロの観点です。それはアフガニスタン内部の古きもの抑圧するもの外部からの強圧に対する闘いや抵抗です。あるいは普遍的には、アフガニスタンという国家の枠を越えた、21世紀の国際的な支配システムとの戦いにまで至るかもしれません。

と同時に、アフガニスタン問題の本質に迫り、その解決の方向をさぐるため、アフガニスタン人の取り組みについて提言や論説の収録を進めています。現在はPDPA政権下のふたりの副大統領やアフガン人ジャーナリストに健筆をふるってもらっています。こちらではミクロの視点だけでなく、鳥瞰図的大所高所的マクロな視点からもアフガン問題を解明しています。

当ウェブの特徴のひとつは、アフガン問題を、現代の世界地図が示すアフガニスタンという国境線で区切られた領域だけの問題ではなく、アフガン問題は突き詰めればパシュトゥーン問題に他ならない、との視点で論を展開しています。「アフガンの声」、「世界の声」で紹介するアフガン人のデモや集会での主要スローガンは女性の人権を守れという声と、パキスタンを制裁せよ、という要求であふれています。日本の報道では、前者は大きく扱われますが、後者の扱いは小さいか主張されることはまれ。せいぜい、ターリバーンに対するパキスタンの支援に触れるくらいです。

しかし、国際的にみればターリバーンを創ったのも育てたのも内戦を指導したのも武器を与えたのもパキスタンであることは隠すことのできない事実として扱われています。

これまでアメリカ(およびサウジアラビア、西側諸国)は、アフガンに侵攻したソ連と戦わせるためにムジャヒディーン(イスラム過激派)にパキスタンを通じて武器および経済援助を行ってきたため、ムジャヒディーンやターリバーンを支援するパキスタンの扱いに苦慮してきました。

しかしアフガニスタンから完全撤退する際の撤退劇があまりにもみじめであったため、アメリカ国内でもバイデン政権に対する責任追及が始まっています。撤退作戦の不始末だけでなく、パキスタンとの関係にまで追及はおよび、パキスタンを制裁すべし、との声が共和党には出てきています。先週は上院の22名の議員が、タリバン及びタリバンを支持する国、したがってパンジシール渓谷でのターリバーンの攻撃に加わったとしてパキスタンにも及ぶ国ぐにへの制裁を要求する法案を提出しました。

パキスタンのイムラン・カーン首相はパシュトゥーン族の出身です。彼は国連演説でもターリバーンを支持する演説をし、アフガンターリバーンとの仲を隠さなくなってきています。しかし、その一方で、アメリカに屈従してきたこれまでの言い訳のつもりか、アメリカを「恩知らず」と批判するなど苦しい発言をはじめています。

ターリバーンのアフガン全土掌握はパキスタンの完全勝利に見えますが、それはいままでとは異次元のさらに苦しい矛盾のるつぼにパキスタンがはまり込むことになるのかもしれません。

大局的に見た場合、つぎのような困難がパキスタンを襲います。

下記の、パキスタンを中心にした地図を念頭に置いて考えます。

・印パ関係
パキスタンはインドと3度戦争し、3度目は東パキスタンを失い(バングラデシュの独立)、さらには恒常的にカシミール問題をかかえ常にインドとの戦争の危険におびえています。パキスタンはインドとアフガニスタンに挟まれ縦に細い国土のため、インドから攻め込まれると防衛が困難です。そのため、軍は背後のアフガニスタンを後方陣地として確保するため親パキスタンにしておく政治的軍事的な影響行使を行ってきました(縦深戦略)。ターリバーンをつかってパシュトゥーン主体の親パキスタン政権を作ることには成功したが、パシュトゥーン族(ターリバーン)や他民族の全アフガン勢力はいまのパキスタンとの国境とされているデュラント・ラインを国境として認めていません。対インド関係だけでなくこれがパキスタンの頭痛の種のひとつです。

・いまだ不確定なパキスタンの国是
パキスタンの民族構成は2017年のThe World Fact Book(WFB)によればパンジャブ系(48%)、パシュトゥーン系(15%)、シンド系(14%)、バローチ系他(23%)。宗教は97%がイスラム教となっています。1947年の英領インドからの分離独立時の国是はイスラム教ですが、国の成り立ちはまったく人工的なもので、国名にそれがあらわされています。P(パンジャーブ州)、A(アフガン)、K(カシミール)、S(シンド州)、TAN(バローチスタン)。この5つの州からパキスタンは構成されます。国名決定段階からB(バングラデシュ)が入っていなかったのは運命的ではありませんか。さらに国の行政から独立した連邦直轄部族地域(アフガン族=パシュトゥーン居住区)があり、イスラム教にもいろんな宗派がありまとまりを欠いています。パキスタンの政治は選挙と軍のクーデタが繰り返されており、疑似民主主義国家、破綻国家と呼ばれ、イスラム過激派の温床となってきました。ターリバーンが勝利したため、いま、パキスタン内のイスラム過激派が勢いづいています。

・パキスタン首相、ISIのジレンマ
現在の首相イムラン・カーン氏がパシュトゥーン人であることに象徴されるように、パシュトゥーン人はパキスタンの政界や軍、官僚上層部にも進出しています。総人口比では15%と言われていますが、軍部やISIではそれ以上、20%を超えるのではないかと言われています。ISI(軍統合情報局)がアメリカの武器と資金でムジャヒディーンを育ててきたように、内部対立が激しく非パシュトーンが多いムジャヒディーンを見限ってパシュトゥーン人主体のターリバーンを育成してきました。パキスタン政界でのパンジャブ人、シンド人などのなかには影響力を増大させているパシュトーンへの対抗意識も生まれてきています。パキスタンの政官軍内のジレンマが増大します。

・パキスタン内のパシュトゥーンと非パシュトゥーンの葛藤
パシュトゥーンも一枚岩ではありません。アフガニスタン内部のパシュトゥーン人の対立は、Sami氏の論説で詳しく論じられていますが、パキスタン内のパシュトゥーン人のなかでも、部族や氏族の対立があり、また、パキスタンの政官財軍に進出しているパシュトゥーンとアフガニスタンにいるパシュトゥーンとの一体化を望む勢力とがありいずれか一方に収れんできない葛藤を抱えています。つまり、パシュトゥーン人やバローチ人が一体となり独立を望めばパキスタンの領土は現在の半分以下となり消滅の危機に直面します。パキスタン領内のパシュトゥーン人やバローチ人は、独立に近い自治権は欲しても国を割ってまで、という選択を迫られるとパキスタン国民としての権利を失うのでひるんでしまいます。これは現代の国民国家システムでは解決不能に近い難題と言えます。

・イスラム主義者内の暗闘
ターリバーン運動ひとつとっても、アフガニスタンのターリバーン運動はパキスタン政府やISIは支持し援助していますが、パキスタンのターリバーン(TTP)は弾圧しつぶそうとしています。サウジアラビアと共同でムジャヒディーンを育成してきた歴史から、サウジアラビアの過激派やアルカイーダ、それらから派生したISなどさまざまな過激集団がアフガニスタンだけでなくパキスタンには存在しています。それらのイスラム諸過激派があるときは連携し、ある時は対立して争っています。そのような争いからパキスタンの政と軍は自由ではありえません

・パシュトゥーン内部の確執
アフガニスタン内部のパシュトゥーン人の対立、パキスタン内部のパシュトゥーン人の対立があります。社会の進歩や民主主義の浸透などに対する受容度に差があり、旧来のパシュトゥーンの伝統も影響を受け、パシュトゥーン内部の軋轢の原因ともなっています。米軍主導のアフガニスタン政府内でもカルザイとガニー両大統領派の争いはパシュトゥーンの2大氏族(ギルザイ族、ドゥラーニー族)の対立が反映していたとSami氏は論じています。

・タリバン内部の争い
いま本サイトで連載されている「米国アフガン占領20年の失敗―その原因」(Fateh Sami)で詳述されているように、カンダハールを中心とするアフガン民族主義派とパクティア州をルーツとし「カリフ」制を主張する過激イスラム主義集団でテロ強硬派のハッカーニ派の両派が競っています。対立が激化するのはこれからでしょう

・パキスタンとアフガニスタンのアキレス腱
いうまでもなく、デュラント・ラインです。これは両国にとって譲ることのできない境界線です。しかし、民族自決権を優先する思考では決して解決することのできない矛盾です。国境線を承認したうえで両国が国民国家をつくり(連邦制などの考えを駆使し)共存する姿勢に立たない限り永遠に解決できない課題です。

・ターリバーン政権の国際承認、国内経済建設
パキスタンはどうしてもターリバーン政権の国際承認をとりつけ、国際支援を導き入れたいとおもっています。そうでなければ、以前のように、サウジアラビアやUAEなどと少数でアフガニスタンの経済を背負うしかありません。ただし、20年前とは柔軟性を示しているターリバーンは前回時よりは承認国は増えそうです。しかしそうなればそうなったで、各国の思惑がアフガニスタンの地で交差し、課題と障害はより大きなものとなるでしょう。

以上、ざっと大局的観点からの今後のアフガン問題(パキスタン問題)を見ていく場合の視点を整理してみました。

以上の諸問題に加え、直接アフガニスタンに関わるプレーヤーとして、英米NATO以外に、周辺国であるイラン、サウジアラビア、ロシア、トルコ、中国、アフガン北部民族と同族のタジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンなどが絡んできます

美しく表現してユーラシア中心部での壮大なる叙事詩となることを望みますが、悲しいかな実際は血なまぐさいニュー・グレート・ゲームとなる公算が大きそうです。われわれとしては、そうならないことを祈りつつ、か細き声であっても声をあげ、見守っていきたいと思います。

【野口壽一】

 

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~007

 アフガニスタンとパキスタンは普通の国ではありません
(2021年9月27日 13:00)

今もさえる頭脳と視点

あの「忍者外交」で世界を驚かせたヘンリー・キッシンジャー氏は、失礼ながらまだご存命のようでした。98歳! ご長命であるだけでなく頭脳の鋭さ、視点の的確さに驚きました。

『courrier JAPON』(9月5日付け)に同氏の発言「アメリカはなぜアフガニスタンでの戦争に失敗したのか」が掲載されています。全文転載して読んでほしいのですが、3000字を超える長文で、著作権の問題もありますから、ほんの2点だけ引用させていただきます。(全文はここをご覧ください→https://bit.ly/3CP47WA)

何に驚いたかというと、マスコミでアフガン問題を論じる論者のほとんどが、アフガニスタン国軍は闘う意欲もなくターリバーンに各都市を明け渡した、となんの疑いもなく書いています。ところがキッシンジャー氏は、その俗論を「『アフガンの人々は自分たちのために戦おうとはしない』という現代のアメリカの議論は、歴史に裏付けられていない。彼らは一族のため、部族の自治のために、激しく戦ってきたのだ」と一笑に付していることです。国軍に士気がなかったのでなく実は、アフガン政府側のトップが、ターリバーンとおなじ一族・部族でターリバーンへの権力移譲を図って国軍を投降させたのです。このことは、本サイトでファテー・サミ氏が「アフガンの声」コーナーで徹底的に暴露しています。いま、パンジシール渓谷で抵抗をつづけているのはパシュトゥーン人ではなくタジク人が主体なのです。

さらに、ほとんどの論者がアフガン問題を地図上のアフガン国境内だけを見て論じているのにたいして、その視点を一言で退けます。いわく、「(米・アフガン共同の)軍事作戦は当初大きな効果を上げた。実質的にタリバンはパキスタンの聖域に逃れ、そこからパキスタン当局の一部の支援を得てアフガンで反政府活動を行ったのだ」と。ベトナム戦争で北ベトナムが南の基地になっていたのと同じ です。本サイトが紹介する<アフガン人の声><世界の声>が、パキスタンの侵略行為を糾弾し、国連や世界に対してパキスタンへの制裁を要求している現実をキッシンジャー氏はアフガン戦争の本質として的確にとらえています。

アフガンとはパシュトゥーンという意味

「アフガニスタン」という国名は「アフガン人の国」という意味です。アフガン人とはパシュトゥーン人のことです。「アフガニスタン」とはつまり「パシュトゥーン人の国」という意味です。アフガニスタンは多民族国家で、パシュトゥーン人以外にバルーチ人、タジク人、ウズベク-トルクメン人、ハザラ人などがいます。

アフガニスタン王国は1747年にパシュトゥーン人によって建国され、以来、2次のアフガン英戦争をへて1880年のアブドゥル・ラフマーン王の即位後、西洋をモデルとした近代化がはじまりました。(明治維新とおなじころアフガンでも近代化が始まった、とアフガン人が言うのはこの事実に基づいています)以後、1978年のクーデターと人民民主党による四月革命によって最終的に打倒されるまでほぼパシュトゥーン人の王が続きました。(1929年のタジク人バッチャイ・サカオの乱を除く)この間、1893年に英領インド帝国外相モンティマー・デュアランドとアフガニスタン国王アブドゥルラフマーン・ハーンとの間でデュランド・ライン条約(英領インド帝国の勢力境界線)が調印されました。この境界線はアフガニスタンをロシアとイギリスがいわゆるグレート・ゲームの緩衝地帯とするものでしたが、現実に存在するパシュトゥーン人とバルーチ人の生活圏を分断することとなり、現代のアフガニスタン・パキスタン紛争の原因となっています。
次の図はデュランド・ラインおよびパシュトゥーン人とバルーチ人の居住地域を表す地図です。(wikipediaより)

(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6e/Major_ethnic_groups_of_Pakistan_in_1980.jpg)

緑がパシュトゥーン人、ピンクがバルーチ人、茶色がパンジャブ人(パキスタンの多数民族)の居住地域を示します。パシュトゥーン人の居住地域が真っ二つに割かれ、バルーチ人地域がアフガニスタン、パキスタン、イランの3カ国に分割されていることがわかります。
パキスタン側のパシュトゥーン人は自らの居住地域における自治権を主張し、連邦直轄部族地域(旧FATA:2018年にKP週に併合)や北西辺境州(NWFP)としてパキスタン国民でありながらあたかも別の国であるかのような特権を享受しています。そしてこれら特別自治区がソ連にバックアップされたアフガニスタン人民民主党政権やアメリカや有志連合がつくったカルザイ・ガニー政権への戦争の基地となったのです。アメリカやサウジアラビア、パキスタンなどがPDPA政権に対して「宣戦布告なき戦争」をしかけるためパキスタン内のパシュトゥーン居住地域でムジャヒディーンを育成し、武器を与え、実際に戦争を指揮した、その行為がムジャヒディーンやアル・カーイダなどのテロリストを育て、パキスタンによるターリバーン創生につながり、今日までアフガン戦争を継続させたのです。アフガニスタンでの戦争が40年以上続いている、というのはこういう意味です。

パシュトゥーン人のふたつの顔

アフガニスタンでは国勢調査が行われていない(行える状況にない)ので、正確な数字は不明ですが、各種機関の推計に基づけば、おおよそ下記のように概算できます。
・アフガニスタンの総人口:3000万人
・うちパシュトゥーン人1300万人(43%)
・それ以外の人口:1700万人(57%)
・パキスタン領内在住パシュトゥーン人:2100万人
・パキスタン総人口:1億8000万人
本サイトで、ケシュトマンド氏やサミ氏が「アフガニスタンではパシュトゥーン人は多数ではない」と主張する根拠はここにあります。パキスタン領内の人口を加味すればパシュトゥーン人は圧倒的多数となりますが、アフガニスタン領内だけでみれば多く見積もっても43%でしかないのです。なのに、「アフガニスタンの国王」はいつもパシュトゥーン人で、ほんの一瞬(いわゆる北部同盟)が政権を取ったときにタジク人が大統領になったことがあるだけで、PDPAのときもカルザイ・ガニーのときもほぼすべてパシュトゥーン人がトップで、その他の少数民族は差別されたり抑圧されたり、時代によっては奴隷として売られたりしてきた歴史があります。
さらに重要なことは、パキスタンではせいぜい人口比12%でしかないパシュトゥーン人が軍人全体では20%近くを占め、ムジャヒディーンやターリバーンを育成・武装させ指揮してきたパキスタン軍統合情報局(ISI)幹部にしめる比率はもっと高いと言われているのです。当然議会や官僚上層部にも進出しています。2018年から首相をつとめ、ターリバーンを強力に支援し国家承認にも積極的なイムラン・カーン首相もパシュトゥーン人です。パシュトゥーン人は自らの民族的利益増大のためにデュランド・ラインを悪用してアフガニスタンとパキスタンというふたつの国を使い分けて利用していると言えます。 パシュトゥーン人の名誉のために言うと、パキスタンにはパシュトゥーンのリベラル組織もあります。パシュトゥーンタハフズ運動(PTM)がターリバーンを支援してアフガニスタンの不安をあおるイムラン・カーン首相に反対する運動を行ってきたのなどはその一例です。(https://bit.ly/3AOHiScほか)
(かつてパシュトゥーンには辺境のガンジーと言われた非暴力反英闘争の指導者ガッファル-カーンという偉人がいますが、その紹介はまた別の機会に)

過去と未来のせめぎあい

パシュトゥーン人はアフガニスタンを南北にわかつヒンズークシ山脈の南側で紀元前から遊牧や農牧で生活をしてきた歴史ある民族です。イスラム教の受容も古くパシュトゥーン人がもともともっていた民族の伝統習慣とイスラム教を融合させた独特の統治スタイルをもっています。パシュトゥーンワリという習慣法やジルガという合議システムをもち西洋的三権分立の民主主義とはことなる統治方法で長い間生きてきた民族です。 パシュトゥーンワリは復讐や男尊女卑それに残酷な刑罰などを肯定する遅れた「掟」のように喧伝されていますが、なんのことはありません、日本だって明治維新のころまでは大して変わりません。仇討、幕末のテロ合戦、ハラキリなど。維新後7年たっても政敵の首をはねてさらし首にする(大久保利光が江藤新平を)なんてことが平気で行われていました。みせしめです。ターリバーンの公開処刑やむち打ちなども本質的にはおなじことです。
ただし、アフガニスタンは世界とつながっています。19世紀の終わりころから西洋風近代化の波は何度も押し寄せてははねかえされしつつ変革の記憶は社会に刻まれています。最近では1980年代の人民民主党政権下、また、腐敗にまみれた政権だったとはいえカルザイ・ガニー政権の20年間、合計少なくとも30年間、都市部では自由化と民主主義の時代が存在しました。その時代に育ったアフガン人も少なくはないのです。そのうえいまはネット社会。アフガニスタンの山奥にもスマホでホットな情報がとどきます。
これまではソ連やアメリカ・ISAFという外国勢力=異教徒の支配に対抗する戦争(ジハード)の大義名分との戦いがあり社会の近代化がまともに取り組まれる環境ではありませんでした。しかしターリバーン支配となったこれからは、異教徒という邪魔者はいなくなり、自分たちの闘いとして、アフガン人が手にしようと苦しんできた国民的統一と近代化とあらゆる差別(性別、民族、貧富、都市と農村の格差)の克服と、なにより生存への闘いが、始まる のです。当然にも、テロ容認の危険な国家ともいわれてきたパキスタンの民主化も視野にはいらざるをえないでしょう。
アフガン国内や国外での闘いの現在は、未来を手にするための過去とのせめぎあいなのではないのでしょうか。

(野口壽一記)

 

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~006

 アフガン人はどうしてあんなにアメリカを批判するんだろう?
(2021年9月20日 0:00pm)

 

このサイトを韓国で見ている若い友人(日本人)とチャットしました。彼とは共通のアフガン人の友人がいます。

「パキスタンがあんな形でアフガニスタンを間接侵略 しているなんて知らなかった。アフガン人がパキスタンを批判するのはわかるけど、どうしてアメリカをあんなに批判するんでしょうか。いくらアフガン政権や軍部が汚職まみれで腐敗してたといってもアメリカを批判するのはわからない

「アフガン人同士を戦わせて自分らはドローンで爆撃。アメリカ兵の犠牲も多かったけど圧倒的な犠牲者はアフガン人。しかも誤爆で民間人の犠牲者はケタ違い。そこにタリバンがつけこんだんじゃないかな」

「でもアメリカを非難するのはお門違いじゃありませんか。経済支援だってしてたんだし、ある程度民主化は支持されてたはずだし。アメリカはもっとうまくやれなかったんだろうか

「自己の力を過信しすぎたんじゃないかな? ムジャヒディーンやパキスタンを利用してソ連をやっつけた。味をしめた。戦争は最大のビジネス。ついでにイラクまで攻め入って中東支配を盤石のものにしようと調子に乗ったんじゃないか 。一極超大国時代だ、と。」

「ソ連は体力が尽きて撤退した。ついでに国まで亡びたけどアメリカはシェールガスが採れるようになって中東の石油に依存しなくてもよくなった。撤退はソ連のようになる前に、ってことですかね

「オサマ・ビン=ラーディンを殺したときに国際世論に反テロ戦争勝利をアピールしてすぐ撤退していたらこれほど傷つくことはなかったんじゃないかな」

日本でうまくいった占領政策の成功体験を引きずっていたんですかね 。アフガニスタンやイスラム原理主義を甘く見た? ちなみに韓国では、ベトナム、アフガン、次は韓国だ、と右派が恐怖を煽ってます。左派の望む通り米軍が撤退するとああなるんだと。大統領選挙前なので色々騒がしいです」

「アメリカは世界舞台で赤っ恥をかいたわけだけど、日本や韓国に危機感をあおる狙いがあるね。対中国包囲網を作りたいんで。したたかなアメリカは転んでもただじゃ起きない

「示し合わせたように北朝鮮がミサイルをぶっぱなして、緊張激化ですよ。できすぎのようで怖い」

「日本だって総裁選で〝領土を守る〟なんて勇ましい声が大きくなってる。先月はイギリスの航空母艦クイーン・エリザベスやオランダの艦艇も参加して沖縄沖で米日英オランダ合同演習をしたね。とたんにきな臭くなってきた。アメリカのアフガン撤退と東アジア・東南アジア情勢は無縁じゃない」

「インド太平洋構想クワッドとかもありますよ。日米印豪四カ国で中国を締め上げようというわけでしょう。昔日本がABCD包囲網を打ち破るんだ、大東亜共栄圏だ、とかいって無謀な戦争をやったんだけど、こんな露骨な中国包囲網の挑発に中国が乗らなきゃいいんですけどねぇ

「中国は一帯一路をぶち上げて包囲網を切り裂こうとしてる。アフガンが親中になればもともと親中のイラン・パキスタンをつないで広大なユーラシアの〝中原〟に打って出ていける。太平洋にも出られれば米との世界分割も夢じゃない。チャイニーズ・ドリームだ」

「なんだか三国志やグレートゲーム現代版みたいな話になってきましたね。でも、現実味があるだけになおさら怖い」

「核兵器時代だからな。中国、北朝鮮、インド、パキスタン、それに米・英と核保有国がそろってる。油断はできないよ」

「日本の核武装も議論されてるんでしょ? 韓国じゃ北が持ったから切実です。核戦争になったらアメリカが守ってくれるはずない、と」

「日本でも核武装を唱える人がいるけど、核保有国同士の戦争になったら世界は終わり。1、2発ですむ話じゃないからね。中国は、毛沢東が、アメリカは張り子の虎、核戦争になっても人口も国土も広い中国は生き延びる地域がある。そこからまた国を再建すればいい 、と言った国だぜ。そんな国と日本が核戦争したらどうなる? 日本全滅、中国半滅。話にならない。だから核戦争にならないよう、核保有国らと膝を交えて議論して解決するしかないのさ」

「話がずれて随分大きくなってしまったけど、話を元に戻すと問題はアフガンの平和と発展 ですよね。発展の前に女性の人権、特に教育を受ける権利の実現や目先の生活問題の解決がまず先ですよね」

冬を前にして飢餓の心配もある」

「困難を抱えた後進地域を先進国が援助する必要、いや義務があるんじゃないですか」

「その通り。そのためにもターリバーンに国際常識 を受け入れさせなけりゃなぁ」

「できますかね」

「歴史を中世に引き戻すことなどできないから、アフガン人がその気になれば、時間がかかっても必ずできると思う。辛抱強く見守って、応援していく必要、いや、君が言うように義務なんじゃないか」

「ネット時代になって世界中がリアルタイムでつながりました。遠く離れててもこんな議論が簡単にできるし、世界中で戦っているアフガニスタンの人たちの活動にも参加できる。素晴らしいことだと思いますよ」

「そうだね、お互い、注意してクズ情報に惑わされず頑張りましょう」

(野口壽一記)

 

 

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~005

 9.11、20周年、ターリバーンは、ネズミ小僧かゴエモンか、はたまたロビンフッドか
(2021年9月11日 10:30pm)

 

ニュースレターを出し始めてあるメールをいただきました。

「タリバンはナチスのような悪ですか。そんな悪を育てたのはアフガン人自身じゃないんですか。タリバンを利用して儲けていたのはガニー政権やその政権に巣くう連中、それら全体を利用していた外部世界じゃないんですか」

まったくその通りです。だからヘラートの女性が書いた詩「ガニーを逮捕せよ!」を全文、転載し紹介しました。憎しみがほとばしり出ていました。ヘラートの都市部住民だった彼女ですらそのような感情をガニー政権にいだいています。

しかし、農村の貧困と因習に縛り付けられ、乾燥した枯れて貧弱な土地にしがみつき、つねに飢餓の恐怖にさいなまれながら生きている農民にとってターリバーンは、私に言わせれば、悪銭をしこままため込んで豪奢に暮らす豪商から金品を回収して貧民に分け与える鼠小僧か、石川五右衛門のような義賊か、はたまた悪代官を懲らしめるロビンフッド のように、思えたに違いありません。しかもソ連をやっつけた後に利権争いの戦乱でかえって国をズタズタにしたムジャヒディーンをかたずけてくれたのです。ターリバーンのみじめで汚い身なりや在りようもそんな農民にとっては自分自身の写し絵と映ったのではないでしょうか。

アメリカがやってきて、西洋風民主主義を押し付け、法による統治などと叫び田舎に持ち込み、隣とのいざこざひとつ片づけるのに、読めもしない文字で書類を書かされたり、国民の意思表示だとわけのわからない箱に紙くずを入れさせられたり、不便な生活を強いられるより、昔ながらの常識で、悪い奴を一喝してもらって即座にもめごとが片付く方がどんなにいいか。しかも、国の軍隊だとかのたまわりきれいな軍服で着飾って、幻の兵隊の給料を懐に入れる上官をやっつけてくれるんだからこんな痛快なことはない。
しかも、アメリカやNATOやニッポンの金持ちに支援されたアフガン政府の歳入のなんと半分はそれらの国からの支援金。また外国軍を取り巻いて戦場ビジネスで儲ける外国人や、その金に群がってブイブイ言わしているアフガン人。しかもソ連やムジャヒディーンらにひどい目にあわされているときは外国に逃げていて、カルザイが出てきたら一緒に舞い戻ってきて大儲け。戦争が続けば続くほど儲けが増える、と思っていたのにパトロンさんたちが持たなくなって逃げかえることになった。ざまあみろ、と言いたい。しかも、都会の連中は西洋かぶれていい目をみてる。妬みや怨嗟のまとじゃいと、思うひとが相当数いるんです。たとえそれが、中世の暗黒や無知蒙昧の、半封建部族社会の民といわれようと。女に教育は無用だ、結婚は家と家のものだ嫁も婿も父親が決める、といった社会でも。

でもね、江戸時代や明治維新のころの日本だってそんなものだったんですよ。というより、団塊世代の小生だって、そんな時代の名残のころ。小中高と同じ学校で、小生といつも学年1、2位を争っていた(ホントかな?)成績優秀で生意気な女の子、高校生になったら女子だけのクラス。親には「オナゴは(イナゴじゃありません、鹿児島弁で〝オンナ〟の意)大学なんかいかんでよか(行く必要ない)」援助してもらえず涙。しかし偉いのは、大人になっても勉学の意思をすてず、50過ぎて東大入試を正面突破、4年じゃもったいないと7年間も学生生活を満喫し卒論も仕上げて無事卒業、マスコミの寵児になりました。性、年齢、職業(自営業)、乳がん手術といくつもの障害を乗り越えましたから、当然です。

小生が〝Web Afghan in JAPAN〟を始めようと思ったのは、もうアメリカはもたないな、次はタリバンの世になる、75年のサイゴンのような事態の後、アフガンでは本当の民主化の闘いが始まるに違いない、と思ったからです。それを応援しなくっちゃ、と。9.11が過ぎて、アメリカがアフガンに乗り出してカルザイが出てきて、日本に来た時、この人たちは日本に集金に来てるんだな、と直感しました。(このあたり、カルザイ氏やアブドゥラ氏らとの面会が設定された時のエピソードは「編集室から」に書きました。)そのあとも、アフガン大使館に呼ばれたことがありますが、アメリカ大使館のすぐ近くに日本の金で作られた豪邸には行きたくないと固辞しつづけました。

このサイトを立ち上げたのは、アフガン問題は実は日本問題だという認識があるからです。これまで、アフガン問題の大きな視点からの問題点、デュラントライン問題、パシュトゥーン問題、いや実はパキスタン問題と論じてきましたが、私の認識の根本には、民主主義、人権、民衆の権利、の視点があります。

アフガニスタンに最初に行ったのは、ソ連がPDPAに軍事支援を始めた1980年でした。当時の日本では社会主義を支持する人や組織でさえ、ほんの一部を除いて、国中がソ連やアフガンを締め付け叩きのめそうとしていました。日本共産党などその最先頭で口汚くののしっていました。私も〝カルマルの手先〟とやられました(笑)。そのころ私は、アフガニスタンのように資本主義以前の遅れた国が社会主義に進むためには、腐った鯛でもソ連社会主義世界体制の支援を受けなければ無理であるし、軍事的経済的社会的な全面的な支援があれば可能である、と信じていました。(そんな人間がいたと信じられる人は少ないでしょうね(笑))(そのうち詳しく語らせてください)。

しかし、(中略)、80年代に10年間アフガニスタンと付き合う過程で、進んだ(と思われる)社会システムを外から持ち込んで定着させることは無理だと悟りました。幸せは輸出も輸入もできないのです。しかも、アフガニスタンはイスラム教の国でした。無宗教の国で「科学」と「真理」は人間にかならず理解される、と素直に信じていたころです。若さですかね。そのころは養老先生の『バカの壁』はまだ出版されてませんでしたから。

権利、人権、人間らしい生活、それらすべて、幸せの原点は、そこにいる人びとが自ら闘いとるものであることを知りました。民主主義からもっとも遠いと思われているアフガニスタンで民主主義の本質を教えられた気がしました。

それまで、「民主主義は闘いとるものである」「主張し闘わなければ権利は実現しない」、と教科書の知識で理解していました。日本の民主主義は憲法も含めGHQによって与えられた民主主義で、ニセモノなのだ、と。

頭でっかちでしたね。だから、いま、カーブルでターリバーンの銃剣のまえでもひるまず立ち向かう女性の姿に本当の民主主義を見るのです。ソ連軍が支援した80年代のカーブルではブルカを被らない女性がたくさんいましたし、教育現場はほとんど女性教師でした。男は戦場。男抜き花嫁だけの結婚式に立ち会ったこともあります。
PDPAの10年間もアメリカ主導の20年も無駄ではありません。ターリバーンが引きずりだした闇の部分もありましたが、民主主義の素晴らしさを知る人びとも増えたのです。戦争ばかりだった40年間とはいえ、ターリバーンが復権してからの女性たちの闘いぶりは光といえるのではないでしょうか。これからのアフガン人は、自分たちの権利は自分たちで闘いとらなければ、誰も与えてくれません。

日本人はそのような闘いをしたことがあるでしょうか。
これからのアフガン人に学ぶべき点は多いと思います。

(野口壽一記)

 

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~004

 パキスタン軍、ドローンを使ってパンジシールを爆撃 
(2021年9月6日 10:30pm)

昨夜(9月5日)、タリバンに対抗して戦っているパンジシール勢力(NRF:国民抵抗戦線)に対してパキスタン軍のドローンによる爆撃が行われたそうです。複数の現地情報によればアフガンの有名なジャーナリストのファヒム・ダスティさん(写真)が犠牲になりました。

彼は捕虜にしたパキスタン系タリバン兵士からの聞き取りをしていたそうです。
そのほかにも犠牲者がでているもよう。
爆撃のなまなましい動画がフェイスブックで拡散されています。
https://www.facebook.com/Khalilzad-buidaqi-104028041616192/
マスメディがほとんど報道しませんが、アフガン問題はアフガン国境内の問題でなく、パシュトゥーン問題、もっと正確に言うとパキスタンがパシュトゥーンと組んだアフガン支配の事件にほかなりません。

パンジシール渓谷の国民抵抗戦線(マスード派)への5日の爆撃はパキスタン軍のドローンによるものでほぼ間違い無さそうです。パンジシールに逃れたサレー第一副大統領は国連に調査要請を発したと報じられています。インド系のメディアが盛んにパキスタンによる爆撃の事実を報じています。
https://bit.ly/38MbH7a
パキスタンによる、ターリバーンを使った代理戦争だけでなく、あからさまな侵略行為は今後国際的にも問題になりそうです。もしこのまま表ざたにされないとすれば、パキスタン軍によるパンジシール爆撃は米・NATO撤退シナリオに組み込まれた陰謀の可能性もあります。

真実を広めてください。(野口壽一記)

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~003

 カーブル陥落3週間 (2021年9月1日 10:00am)

● カーブルが陥落して3週間目を迎えた。アメリカやNATOなどの軍隊が撤退してから2日目。

● アフガニスタンは再び中世の暗闇にもどるのか、それとも20年前のアナクロニズムは賢くなって帰ってきたのか、それとも・・・

●世界中が固唾をのんで見守っている。

●なぜこうなったのか? 2001年、タリバンを打ち倒してからの20年はなんだったのか? 壮大な虚無? 2011年には事件の元凶とされた親玉は殺害されたはずなのに。

●アフガニスタンの罪なき人々にとっては血みどろの虐劇。世界の警察官をやめたはずのアメリカにとっては壮大な悲喜劇。かき回された中東/中央アジアの人びとにとっては大迷惑

●アフガニスタンを人工的に創られたアフガニスタンの囲いのなかだけで考えている人びとには見えない、極東/東南/南アジアとの連関と緊張の伝播

●アフガン国内の事態は周辺諸国の諸矛盾の反映。ターリバーンを構成するパシュトゥーン人はアフガンとパキスタンにまたがって存在し、パキスタン軍部にはパキスタン国民の15%以上を占めるパシュトゥーン人が高い位置を占め、ターリバーンを創り、後押ししている。彼らの存在の脊髄であるイスラム教はアラブの過激なイスラム主義と連携/連動しつつ軋轢相克軋む関係。アフガニスタン問題の大きな要因は宗教的に不安定な人工国家パキスタンの未成熟の反映。(本Web「アフガンの声」欄参照)(本Web「研究/提言」欄参照)

●アフガニスタンとパキスタンを隔てる係争国境・デュランドラインの存在。インドとの戦争にそなえアフガニスタンを後方基地とするパキスタン軍の軍事戦略(Strategic Depth=従深戦略)にもとづく同ラインの悪用。(本Web「研究/提言」欄参照)

●アフガニスタンの内部は、大英帝国との独立戦争に勝利し西洋化をめざしたアマーヌッラー・ハーン以来、近代化とイスラム主義/イスラム文化との間の動揺の100年。ターリバーンはその歴史の中の何度目かの揺り戻し

●人権外交をかかげるアメリカは〝人権の擁護〟でなく自国利益の擁護に〝人権〟の大義名分を利用しているだけ。新疆ウイグル地区の〝人権〟もアメリカ利益擁護戦略のテコのひとつ。アフガニスタンの人権はアフガン人自身が獲得し守るしかない。今度の件でアフガニスタン人自身が一番自覚している。それが8月28日の全国35カ国でのアメリカ・タリバン一斉抗議運動によって示されている(本Web「アフガンの声」「世界の声」欄参照)

アフガン事件は、台湾・尖閣問題(つまりは対中問題)と直結している。日本も台湾も自主自立の精神でこれに対処しなければならない。アフガニスタン事件は、日本人への自覚を迫っている。それは、軍事力の強化によって果たせるものではない

● アフガン問題を日本問題と読み替えて本Web(Web Afghan in JAPAN)をご覧いただけると幸いです。

(野口壽一記)

 

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~002

 カーブル緊急報道 (2021年8月16日 10:00am)

アメリカ軍の完全撤退を受けて、早晩、ガニー政権は倒れ、ターリバーンが再度アフガニスタンを支配し内戦は継続、アフガニスタン情勢が再び三度国際政治の最前線に躍り出る、との判断で2カ月前、このサイトの立ち上げを開始した。米バイデン大統領は撤兵をくりあげて8月末との期日を発表した。それまでにグランドオープンすべくWeb制作作業を進めてきた。だが、われわれの作業スピードをはるかに超えてガニー政権の逃亡とターリバーンのカーブル入場が実現した(8月15日夕)。
この間の事情は当サイト「アフガンの声」でFateh Sami氏が喝破しているように、アメリカ・パキスタンが演出・仕組んだものであり、コインの裏表に過ぎないガニー政権(ガニー/カルザイ/ハリルザド三人組)とターリバーンのパシュトゥーン人プレーヤーが演じる陰謀劇である。それは20年前への逆戻りのように見えるが、人権と民主主義の観点からは中世への逆戻りである。
しかし、一見、中世の闇が現代を覆うように見えるこの事件は、アフガニスタン周辺だけでなく、イスラエル・パレスチナまでのシリア・イラクをふくむ中東全体をさらに不安定にする要素となる。そして今回注目しなければならないのは、ターリバーンは上海協力機構の一員として中国・ロシアとも連携して動くことである。しかしこの関係は呉越同舟であり、今までのアフガニスタン・パキスタン問題にロシア・中国がふかくインボルブされ、これに従来の戦火を交えている印パ、印中対立が直結することになる。アメリカの狙いは、アフガンで転んでもただでは起きず新疆ウイグル問題を持ち出し中国を西と東と南からゆすぶろうとするところにある。アフガニスタン問題が日本から遠い問題でなく、直結するとわれわれが判断するゆえんである。
アフガニスタンでの宣戦布告なき40年戦争はこれで終わるのでなく深層地震のようにもっと地下深くから地球全体を揺るがす大地震に発展しかねない。
アフガニスタンをめぐる情勢を油断することなく見つめ続けなければならない。

(野口壽一記)

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~001

 なぜ今またアフガニスタンなのか? 

(2021年7月4日)

名探偵シャーロック・ホームズの相棒「ワトソン君」も従軍したアフガン英戦争。南下を企むロシアと、それを阻止してインド利権を死守せんとするイギリスとが激突する「グレートゲーム」の戦場として世界的に有名です。中央アジアの十字路、中心、ハートとも呼ばれるアフガニスタンは古代から周辺諸国諸民族の抗争の場でした。超大国の世界支配の野望がせめぎあうホットポイントにされつづけてきたのです。グレートゲームは現代にも引き継がれました。

1980年代のソ連の進駐、90年代のパキスタンやアラブの息のかかったイスラム原理主義勢力の侵入、2000年に入ってからのアメリカと欧州軍の侵攻。パキスタン、イラン、トルコ、ウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタンなどとアフガニスタン国内の民族的つながりが引き起こす内部対立と混乱。アフガニスタンは最近の半世紀の間も内戦が絶えず、国民生活は改善、進歩どころか戦乱と流血、硝煙と血の匂いに呪われた日々がつづいてきました。

アメリカは、2021年9月までにアフガニスタンから軍隊を完全に撤退させると表明しました。本来なら喜ぶべき事態なのですが、アフガニスタンの内部事情をみると、むしろ混乱がさらに増すのではないかとの懸念が深まります。地政、経済、資源をめぐる周辺諸国の「グレートゲーム」の暗闘が国内諸勢力に影を落としています。

そのような状況にあってアフガニスタンの人びとは、アフガニスタンという難しい地域で国家的な統一を取り戻し平和と発展を目指すにはどうすればよいか、真剣な議論を展開しています。私たちはアフガン人の前後左右上下硬軟色とりどりの声に耳を傾けたいと思います。

ひるがえってアジアの東端を見ると、英露がアフガニスタンでグレートゲームを展開していたころ、ユーラシア大陸最果てのさらに離れ小島にあって、日本は露英米仏独のグレートゲームに巻き込まれました。しかし、幸か不幸かアフガニスタンのような民族的複雑さを背負わず、超ハードな中央集権国家の道を歩み、グレートゲームの被害者になるのでなく、あろうことか、ワン・オブ・ザ・プレーヤーズとなってゲームに参戦し、結果、悲惨な敗北を喫してしまいました。アフガニスタンの人びとはアジアの西と東で同時代に生起した対照的な歴史をよく知っており、自国と日本を比べます。「アジアで自力で独立を勝ち得たのは日本とわが国だけだ。なのになぜ、現在のような違いが生じてしまったのだ」と。

明治維新後、西洋に拝跪した日本が歩んだ道は中央集権的軍事独裁封建帝国主義路線でした。第2次世界大戦後、その道は「 軍事独裁+外資 」の方程式に姿を変え韓国や台湾、東南アジア諸国に引き継がれ、一定の成果をあげました。現在は最後のランナーのひとりとして中国がその方程式をもちいて頂点に立ち繁栄を謳歌してい(るように見え)ます。しかし、内部的に異なる多くの民族をかかえ周辺諸国との強い血縁的宗教的つながりを持つ複雑で多様なアフガニスタンにとってその道を選択するのは困難、むしろ不可能に違いありません。

一見、日本はアフガニスタンとは対極にあるように見えますが、今後を考察すると、各種格差が拡大し多様な矛盾と意見が錯綜する複雑な社会へ変貌しつつあります。米中というスーパーパワーのつばぜり合いの狭間で、かつてのようなファッショ的超中央集権的軍事国家をめざしていけるのかどうか、国家と社会の在り方が問われています。遅れているように見えるアフガニスタンですが、実は、アフガニスタンで〝平和と進歩を求める人びと 〟は分断を克服して多様性を認め合う統一した「邦(くに)」と社会の在り方を求めて現代世界の最前線で戦っているのだ、ともいえるのではないでしょうか。

私たちは、このような理由から、アフガニスタンをめぐるファクトとディベート に注目します。

さらに、日本人のわれわれにとっては、もっと切実で逃れられない直接的な危機があります。それはアフガニスタンからの撤退を決めた米国大統領バイデン政権の世界戦略です。米国政府はアフガニスタンを手放して単純にタリバンにその地位を譲る、と考えてはなりません。目下、中国とロシアを主敵とするアメリカ政府はアフガニスタンを内戦化し長引かせロシアと中国を泥沼におびき寄せ、はまり込ませようと考えています。もしそうなればアフガニスタンの戦乱は収まらず、世界はますます不安定化し、日本に住むわれわれにも多大な困難が背負わされます。危機の由来と現状を知り、日本人としてなにができるのか考えたい、これが、本サイトを急遽立ち上げたもうひとつの理由です。

このサイトをご覧になった方のご意見やご協力(特にペルシャ語に堪能な方)を切に望みます。よろしければメールマガジン(無料:随時発行)をお申し込みください。アフガニスタンの最新情報や分析、シルクロード諸国の文化などについての情報をお届けいたします。

(野口壽一記)