視点

~017

 アフガニスタンにはまる理由 

「恩義」と「贖罪」と「責任」

(2022年01月10日)

 

「野口さんはなぜそんなにアフガンに一生懸命なんですか」とよく聞かれます。

わたしだけじゃないんですね。たくさんの人がアフガニスタンにはまります。井上靖さんは
「アフガニスタンを一度訪ねた人は、二度三度と、この遊牧民の国を訪ねたくなる。不思議な魅力のある国である。風景も、風俗も、人情も、一度それに接すると、なかなかその魅力から抜け出すことはできない。アフガニスタンに憑かれてしまうのである。私も亦アフガニスタンに憑かれた一人である。」(「AFGHANISTAN 日本語版」序文(1974年、著者:ナンシー・ハッチ・デュプリ、発行:社団法人 日本・アフガニスタン協会))
と書いています。高校時代に井上靖さんの「蒼き狼」や「楼蘭」などを読んでシルクロードと作家の道にあこがれていました。だからはまってしまう素地はもともとあったんですね。そんな個人的な要因を語り始めると鹿児島の片田舎から世界を夢見ていた団塊世代のひとりの回顧録になってしまいそうなので、今回はパスします。

 

アフガンにどっぷりつかった30歳代

アフガニスタンにはまり、取材本を出版したことがきっかけになり、60年安保闘争を社会党の国民運動委員長として指導した田中稔男氏(のち「アフガニスタンを知る会」「日本アフガン友好協会」会長)の音頭で日本共産党を除く4党(自社公民)の国会議員をはじめ労働運動活動家や知識人など多くの人びとが集まり、「アフガニスタンを知る会」ができ、自分自身が10年間に10回もアフガニスタンに通うことになりました。

80年代中盤にはアメリカがムジャヒディーンにスティンガーミサイルを供給しカーブル空港が戦場になり戦争の拡大と緊張をひしひしと感じました。「知る会」が「日本アフガン友好協会」に発展し、さらには通算100人以上の人びとを毎年何派かに分けて友好訪問団として派遣したり、ノートや鉛筆5万本や大型コンテナで古着を送ったり、86年にはカーブルで開かれた「世界新情報秩序創設のための国際会議」に日本代表として出席したり、ソ連軍撤退のときにはそれに合わせて日本アフガン共同制作のドキュメンタリー映画『よみがえれ カレーズ』(土本典昭、熊谷博子、アブドゥル・ラティーフ監督)を制作・全国上映したり、88年に奈良で半年の会期で開かれた「ならシルクロード博覧会」にアフガニスタンを代表して参加したりしたのは、1980年からアフガニスタン民主政権が崩壊する92年までまるまる10年超の活動でした。アフガン政府から、日本との輸出入のインバランスをなんとかしてくれと依頼されて87年にはドン・キホーテよろしく貿易会社までつくり、日本の商社やメーカーや行政との交渉のため走り回りました。

この十年超の間は、ソ連が軍事侵攻していた時代で、アフガニスタンに渡航する人びとは、わたしたちが派遣する人びとを除けばごく少数の、報道やビジネスに携わる人たちだけでした。日本をはじめとする西側世界は今の北朝鮮にたいするとおなじような経済制裁と渡航制限をしていた時代でした。逆にその前の70年代は日本から1年間に3000人もが訪れるほどの観光地でした。怒れる若者として社会に登場した世界中のベビーブーマーたち、なかでもヒッピー連中が押し寄せてハッシシを吸っていた隠れた穴場として有名な土地柄だったんです。インド音楽に傾倒しシタールを弾き老荘思想を研究して西洋に紹介したビートルズ時代のジョージ・ハリスンも60年代にアフガニスタンを訪れたと言われています。

でもそういう説明じゃ、一生懸命さはわかるけど、理由にはなっていない、と納得してもらえないかもしれません。理由はたくさんあるんです。でもそれらの説明はおいおいするとして、今回一言で述べると、その十年間にアフガニスタンの政府や一般の人びとやそれらへの支援を寄せてもらった多くの日本の方がたから受けた「恩義」への「返礼」および「意地」、ちょっとばかり格好つけさせてもらえば「贖罪」感や「責任」感ではないかと思います。「責任」感は「使命」感でもあります。

「恩義」は書ききれないほどありますが今回はその「恩義」の一部と「贖罪」や「責任」について書いてみたいと思います。自分が選択した行動を合理化する弁明に聞こえるかもしれませんが、「ソクラテスの弁明」の万分の一くらいは普遍性があるのでは、とさらに自己弁明(笑)。

 

わがままを貫いてアフガンへ

人生は思うようにならないことが多いもので、裏切られて落ち込むことが多々ありました。アフガニスタンに関わり始めてからの十年間は、大げさに言えば、わたしにとって三十歳までに築いた人生観と信念が足元から崩れゆく十年間でした。(ここでも、先輩や友人から「気がつくのがおせえよ」と言われそうですが・・・)

1980年夏に日本人として第1号のアフガン政府発行の正式なジャーナリストビザをもらって40日間アフガン取材をしたときには、アフガニスタンだから行ったのではなく、たまたまその時アフガニスタンが世界政治のホットスポットになっていたから行ったのです。
そのころは東京の小川町で小さな左翼出版グループで活動していました。少部数ながら新聞や雑誌を発行していました。社会市民運動や労働運動、政治経済思想、文芸のほかにも国際情報のページもありました。それらの執筆・編集・経営の責任ある立場で仕事をしていました。79年末、ソ連軍がアフガニスタンに進駐を開始した時、日本のみならず世界中が大騒ぎになりました。80年夏のモスクワオリンピックを西側諸国は総ボイコットで対抗しました。そのような国際政治状況の進展を前にして、当のアフガン内部で何が起こっているか、さっぱりわからなかったのです。

当時は、マスコミ以外にはソ連や東ドイツの新聞などからの情報しか手に入らず、2次情報、3次情報しかありません。わたし達のグループは「革命的ジャーナリズムの創造!」などと粋がっていました。右から左まで既成左翼も新左翼もソ連とアフガニスタンを総たたきする状況に対抗して「アフガニスタン革命を守るかどうかはプロレタリア国際主義の試金石」と論陣を張っていました。が、なんのことはない、実態は、危険も冒さず安全な東京にいて〝他者の情報の受け売り〟しかできていなかったんです。忸怩たる思いとはそんな気持ちを言うんでしょうね。

そんな時たまたま、東京に留学していたアフガン出身の留学生と知り合い、「アフガンで何が起きているのか本当のことが知りたいんだ」と話したら、「じゃ、アフガン大使を紹介するから会ってみたら?」と明治神宮前駅のすぐ横にあったビルの一角に歯科医院やファッション会社などと同居する小さな大使館に連れていかれました。これが運命の出会いでした。その時の大使が、のちにPDPA政権(最後の党名は祖国党)の副大統領となって1992年にムジャヒディーンへの合憲的な政権引渡しを実現したアブドゥル・ハミド・ムータット氏だったのです。

その駐日大使に現地取材したいと申し出たら即「ビザを出してやる」と約束をもらいました。そこから現実にアフガニスタンに出発するまでのてんやわんやもまた長くなるので別の機会に譲ります。当時、アフガニスタンに単身飛び込むというのは、いまでいえば「北朝鮮国内がどうなっているのか取材に行く」というのに近いと言えばその「無謀さ」が少しはわかってもらえるかもしれません。組織からは「危険だ、事件が起きたら国際問題になる。責任が取れるのか」と反対されました。が、わがままを押し通しました。組織はしかたなく「アフガンに行ってもいいけどホテルから出るな」としぶしぶ黙認。家族の賛成を勝ち取り、友人の中には資金的に応援してくれる人もいて、ソ連軍侵攻の8か月後の夏に東京を出発して40日間、アフガニスタンを取材できました。アフガン政府は全面的に取材を許可してくれました。(どうしても行きたかったバーミヤンは「政治的天候不順で飛行機を飛ばせない。ちょっと待て(笑)」の連続でついに滞在中にはいけませんでしたが)

その取材の模様は『新生アフガニスタンへの旅』に掲載しました。アフガニスタンと日本の、わたしのわがままを応援してくださった方がたなしには到底できない仕事でした。

 

●ソ連崩壊、アフガン政府崩壊、足元が崩れる・・・

アフガニスタン現地に行く前と行った後の認識の落差は想像以上に大きいものでした。さらに、それからの10年間の事態の推移もまた。

戦乱の地に赴くような緊張感で出発したのでしたが、ついてみるとカーブルは拍子抜けするような平穏さ。そのころはまだムジャヒディーンの武装闘争はそれほど激しくなく、政権内部の急進主義の抑制に成功し、文字通り「新生アフガニスタン」に向けて社会建設の槌音が響く躍動感が感じられました。

しかしそれからの十年間、アメリカとアラブ・イスラーム主義極端派などの軍事支援をうけたパキスタンとムジャヒディーンによる「宣戦布告なき戦争」によってアフガン政府は徐々に活動範囲が狭められ追い詰められ最終的には崩壊しました。この間の事情は、アブドゥル・ハミド・ムータット氏の『わが政府 かく崩壊せり』に内部的視点から詳細に語られています。この敗北の過程は、わたしにとって慨嘆すべき悔しくかつ悲しい事態ではありましたが、革命運動に勝敗はつきものであって、敗北から学ぶことによって理論は研ぎ澄まされ、発展する、と思うこともできます。しかし、アフガニスタン革命の敗北は、単にアフガニスタンでの敗北にとどまらず、ソ連崩壊、ソ連圏つまり社会主義世界体制の崩壊と一体のものであり、自分の足元を支える思想信条を崩壊させるものでした。

 

今では理解不能かもしれませんが

ソ連や中国なんて遅れた強権支配の国でしょ?と思っている人にとって、思想信条の崩壊なんて、なにをいまさら、と思われるかもしれません。確かにそういう側面があることは否定しません。しかし、わたしの場合、周囲の反対を押し切って、言葉もわからず政情も不安で知り合いもいない、どうなるかわからないアフガニスタンに単身飛び込むという無謀な行為に出るだけの理由と決意がありました。それは、真実を知りたいという欲望でしたし、それだけでなく、多少は、誰もやっていない紛争の中心地を取材したいという功名心があったことも事実です。しかし、当時、そんな取材をしたところで、記事や写真が売れるわけでもありません。日本の言論出版界が、そんな立場のフリージャーナリストが生きていけるような甘いものでないのは百も承知でした。いま、そのときの行動の理由と決意を振り返ると、「思想信条信念を試してみたかった」の一言に尽きます。

わたしが大学入学のため東京に出てきてぶつかったのはいきなりの大学闘争でした。学寮の建設、その運営自治権に関わる問題の中心になっていた学寮が1年生のときから生活の場でした。地方から出てきて物価の高い東京で学生生活をおくれるのはひと月100円の家賃で入れる寮が不可欠、寮がなければ大学生活はおくれない、というのがそのときの全寮生の偽らざる家計事情でした。寮費の値上げや寮の運営権を寮生から取り上げるなどの管理強化には必然的に反対、となります。わたしの入学した1967年は、大学闘争だけでなく、ベトナム戦争の激化にともない、二次におよぶ羽田闘争などの反戦運動や沖縄返還運動とも共鳴し日本全国が騒然とした時期でした。

今では理解不能かもしれませんが、そのころ、激烈な学生の街頭闘争や東京、京都、大阪など主要都市の選挙でつぎつぎと革新首長が勝利するニュースに接していた海外の日本人は、本当に、明日にも日本で革命がおこるのではないかと恐れたと言います。
そんな雰囲気のなか、既成政党だけでなく新左翼セクトや全共闘という新しい闘争組織やベ平連という市民運動もうまれ、反政府運動は百花繚乱の様相を呈していました。

寮闘争、全学闘争、全学ストライキ、と進むうちに運動のリーダーのひとりになっていたわたしは、69年4月28日の沖縄奪還闘争で逮捕起訴され、8年間の裁判を闘うことになりました。その間、大学では自分の大学で崩壊した自治会の再建運動に関わり、学外では他大学の闘争を支援したり、ベトナム反戦運動、留学生支援運動などに取り組みました。大学は卒業しましたが、卒業の3日前に無期限停学処分をくらい、処分撤回闘争や長期の裁判闘争まで抱え、普通の就職などできるわけがありません。社共などの組織や労働組合などのバックアップもないノンセクトですから、先ほど述べたミニコミ出版社で専従をして最低限の生活費を確保しながら活動と社会主義革命の研究をしました。当時の最大の関心はベトナム反戦運動でした。ベトナムの社会主義革命をホーチミンの論文をよりどころに研究しました。そこで得た立場は、ハンガリー事件やチェコ事件を内包するソ連も中国も腐った官僚国家に成り下がってはいるが建前は社会主義政権、内部からの改革を行い生命力を復活させるべき対象とではあるが、その現実の力を世界の革命運動のために活用すべきであるという、トロツキーや毛沢東の立場に近いものでした。

 

●反帝国主義、反スターリン主義の潮流

わたしが学生運動に没頭したころは、アメリカやソ連・中国を批判・糾弾する傾向が主流でした。日本共産党は「自主独立」の旗をかかげてコミンテルンやコミンフォルムを〝卒業〟していましたし、新左翼は反米ソ反中(いわゆる反帝や反スタ)をかかげて日本独自路線を進んでいました。親ソ連や親中国の立場をとる流れも一部にはありました。アルバニア派というものまでありました。そのような流れの中でわたしはベトナム労働党の活動に注目しホーチミンの著作を勉強しました。つまり、中ソを団結させ、3大進歩勢力すなわち社会主義諸国、資本主義国の進歩勢力、発展途上国の民族解放民主革命勢力の3潮流が手を結べば帝国主義勢力を凌駕することができる、という立場でした。この立場は、日本のどのようなグループ、社共の現実派から赤軍派などの極左派までを概観しても、なぜか日本では少数派の主張でした。ベトナム人民の闘いは支持してもその闘いのベースになっている思想にまで思いがとどかなったのでしょうか。

しかし、ベトナムは75年に鮮やかな勝利をおさめました。そして社会主義への道を進み始めます。わたしの研究は進み、発展途上諸国の解放闘争が成功するためには先の3大勢力(社会主義国、先進資本主義国の民主勢力、発展途上国の解放勢力)の支援が不可欠との結論にたっていました。特に解放後の社会改革まで含めて考えると、モンゴルをモデルとした理論が現実的な魅力的な理論として映りました。それをまとめた書籍が『資本主義を飛び越えて―モンゴルの歩み』(B.シレンデブ著、1977年、シルクロード社刊)でした。

マルクス・レーニン主義の公式では、人類史における社会発展は、原始共産制→奴隷制→封建制→資本制→過渡社会(社会主義)→共産制の段階を経ることになっています。しかし現実はそのように進んだ例はなく、1917年のロシア革命もマルクスが予想したような労働者(プロレタリアート)主導の社会主義革命ではなく実質はボルシェビキという思想集団が武力で指導する「労農同盟」による農奴解放革命でした。しかも内在的な運動法則によるよりも第1次世界大戦という外的要因が決定的要素として働きました。(戦争を内乱へ、というレーニンの政権奪取戦略)
現実が教科書通りには進まなくても歴史は紆余曲折を経ながらも進むものだ、とその時は思っていました。

 

●思惑がことごとく外れていくアフガニスタン

8年間の裁判闘争の結果、懲役1年執行猶予1年を宣告されました。1980年1月、執行猶予があけて自由な海外渡航ができるようになっていたわたしは都職労友好訪問団の一員として憧れのベトナム(ホーチミンほか)に人生初めての海外旅行を体験しました。アフガニスタン取材に飛び立つ直前、ひとりでも海外旅行できる自信をえました。その半年後、準備万端、自信満々でアフガニスタンへ出発したのでした。

アフガニスタン革命がたとえクーデターから始まったとしても、それに先行する大衆運動は確実にあったのだし、社会変革をもとめる人民大衆がいることは間違いない。それらを支援するには口先だけの声援でなく、社会基盤をつくりなおす経済的社会的技術的支援が不可欠で、それなくして半封建半遊牧部族社会であるアフガニスタンが、資本主義を飛び越えて社会主義へ進むことは不可能。ソ連は「腐った鯛」であっても鯛は鯛だ。改革の道に踏み出した以上、ソ連ほか既存の社会主義国の物質的な支援を活用しアフガニスタンの変革を進めるほかない。ベトナムのように。と、その時には思っていました。

しかし、アフガニスタンとかかわっていくうちに、国外からの武装反革命の動きだけでなく、国内からの反動が根強いことを知るようになりました。

アフガニスタンでの社会改革が順調にいかない理由はいろいろありました。すでにソ連など社会主義陣営が抱えていた経済社会問題もそうでしたが、わたしの認識で欠け落ちていた最大の想定外は、「宗教」と「部族の因習」でした。最初の取材のときにその問題には気づいていたし、イスラームについても、パシュトゥーン・ワリについても調べもして、最初のルポルタージュ本でも軽視できない重要要因として指摘しておきました。が、土地改革が進み、農業生産が軌道に乗り、社会の制度改革が進めば、人びとの支持を勝ち得ることができるはずだと思っていました。しかし、現実はそんな生易しいものではなかったのです。

アミン→カルマルとトップを入れ替え、政府の民族構成に少数民族を加え、ローヤ・ジルガを開いて基盤を広げようとしても、ムジャヒディーンの攻撃をはね返すことができません。ソ連とPDPAはカルマルからナジブラーにトップを入れ替え、ムジャヒディーンとの和解を含む全国民の和解を呼びかける「国民和解政策」に命運をかけました。そのころソ連は、アフガニスタンに導入する兵士はアフガニスタンにいる民族と同じ民族(タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン)の兵士とし、異民族支配の批判を回避しようとしていました。

そのようなソ連やアフガン政府の政策を日本で説明する勉強会を開いたことがあったのですが、そこで、ある先輩が指摘しました。「お前、バカだな。ムジャヒディーンたちが反対してるのは異民族だからだけじゃないぞ。彼らが戦ってるのは十字軍戦争なんだ。千年以上闘ってる戦争だからそう簡単に終わるわけがない。ソ連は無宗教と彼らは思ってない。ソ連はキリスト教国だと思ってる。」その時はそんな前近代的な理由で現代に生きる人びとが命をかけて戦争をし続けるとは思えませんでした。日本にいては実感できない視点でした。

自由・平等・博愛とか、三権分立とか、就業就労の自由とか、男女平等、人権とか、資本主義でも社会主義でも共通して尊重し実現せねばならない普遍的価値がまったく評価されない社会が存在すること、そしてそのような社会における変革=革命に関わってしまったこと、日本で人びとに賛同と支援を呼びかけ応援してもらってきたこと、それに加えて自分自身の無知無力を実感してしまったこと。自分のそれまでの存在理由が足元からことごとく崩れ去ってしまったように感じました。

 

●不可解さゆえの限りない魅力

アフガンでパートナーであったPDPA政権が崩壊し、おまけにソ連も崩壊した90年代、アフガニスタンのために作った会社を維持しながら、それまでの思想信条信念の再構築に取り掛かりました。いつか必ずアフガニスタンの再建のときが来るだろうからそれまでを生き延びよう、と心に決めました。ま、女性には申し訳ない表現ですが、「雌伏」の時期を生きよう、と。そして、なぜ自分たちは失敗したのか、アフガン人の友人たちと意見交換しながら考えました。

ソ連の力を借りて、失敗したとしても十年以上現地で闘い続けた人びと、そして変革に向けた努力の中で社会的恩恵を受け、また育った人びとは確実に存在している、その社会的蓄積がよみがえる日が必ず来るに違いない、つまり、「意地」を張ろうと考えたわけです。もちろん、自分が働きかけて応えてくれた人びとへの「贖罪」と「責任」の意識もあります。
(この時の一端は「編集部から」に書きました。)

アフガニスタンは魅力にあふれた郷(くに)であるとともに、複雑怪奇な郷(くに)です。何千年もの豊かで興味深い文明の歴史をもった郷(くに)です。しかしそこには、過去だけでなく、現にいま、何千万人もの人びとが暮らしており(いままた生存の危機にさらされてはいますが)、外部世界の助けを借りてでも自分たちの生活を成り立たせ、改善しようとして奮闘している人びとがいます。そのような人びとがいるかぎり、この地域から目を離さず、可能な限りのかかわりを続けていこうと思っています。

【野口壽一】

 

 

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

~016

  「知」は力、知のない力は「知」には勝てない 

映画『カーブルの孤児院』を観て想う

(2021年12月26日)

 

ソ連崩壊(1991年12月25日)からちょうど30周年の今月(12月10日~12月31日)、各地で並行して「中央アジア今昔映画祭」が開かれています。

ソ連から独立した5カ国(カザフスタン、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン)+アフガニスタンの作品9本が上映されます。見逃すわけにはいかず、13日に東京ユーロスペース上映のカーブルの孤児院を観ました。監督はソ連崩壊の年1991年生まれの若いアフガン人女性シャフルバヌ・サダト(2019年製作/90分/デンマーク・フランス・ルクセンブルク・アフガニスタン合作・原題:The Orphanage)。

孤児院を題材にした映画では、思い出深い作品が2本あります。その1はソ連で1931年に公開されたニコライ・エック監督の人生案内(1931年制作、ソ連)。集団ですりや盗みを働き、人を殺めたりすることもあった悪ガキたちを更生させる、ソ連社会主義の燃えあがる理想を映像化した教育映画です。

単純な更生指導や教育だけでなく、鉄道敷設などの集団労働によって自分たちの新しい世界、新しい人生を切り開いていく、希望に満ちあふれたソ連社会そのものを象徴する映画でもありました。

ソ連革命政権の文部省ご推薦の映画ですが、ソ連には『戦艦ポチョムキン』『ストライキ』『』など優れた革命映画、プロパガンダ映画の伝統があり、それが革命後間もない時期の高揚したヒューマニズムと溶け合って、人びとに新しい社会主義革命という夢を与えました。筆者も若いころ観て感動した覚えがあります。

同じころ観た、『人生案内』と同じような不良少年たちを描いた映画としてはルイス・ブニュエル監督(1950年、メキシコ)の『忘れられた人々』があり、こちらの方が好きです。

ブニュエルの映画は犯罪の抑止や啓蒙が目的の教育映画としてメキシコシティの要請で作られたのですが、社会の底辺で見捨てられた救いようのない少年たちをリアルに描き、発注者から受け取りを渋られたといういわくつきの作品。社会的非行現象は政権が欲するようにそう簡単に解決されるはずがない現実をブニュエルは暴き出します。しかしここでは映画論が主題ではないので、アフガン映画に戻ります。

カーブルの孤児院』も全2作とおなじく、社会からのはみだし少年の非行ぶり(映画館前でのダフ屋行為)の描写から始まります。

時代背景は1989年から1992年(ソ連軍撤退完了からPDPA政権崩壊まで)のカーブル。公式サイトの映画紹介コピーによれば、1989年、長年にわたって軍事介入していたソ連軍の撤退が迫る中、街の映画館は相変わらず賑わっています。インド映画が大好きなクドラット少年は学校にも行かずダフ屋をしていたところを捕まり、孤児院に入れられます。そこには不良もいるが、理解ある教師がいて、親友もでき、モスクワにも行ける。だが、国には新たな混乱が訪れようとしています・・・

その孤児院での日常が、ナレーションなしで淡々と、会話と映像を積み重ねるドキュメンタリータッチの手法で描かれます。下手すると退屈な作品になりがちですが、少年(一部少女)たちと職員(中年婦人から若い女性教員)たちも登場し、少年たちの性のめざめの描写もあり、リアルです。一方、主人公の夢のなかの妄想場面では、一転してインド映画的歌と踊りのミュージカル場面が登場したり、冒頭の映画館のシーンでは、ブルース・リーのカンフー映画もどきのシーンで迫力を堪能させたり、エンタメ要素で観客を楽しませます。

孤児院の教育では、チェスのコンピュータゲームが出てきたり、モスクワに招待されてキャンプを楽しんだりの明るい場面があったり、当時の厳しい政治軍事情勢や孤児同士のいじめや孤独による精神異常者病棟や孤児の自殺という深刻な状況もでてきます。

しかし、圧倒的に驚かされるのは、この映画が、2019年、つまり一昨年に、20代の女性監督によって制作されたという事実です。PDPAとソ連軍支配下のカーブルの孤児院の状況を、ノスタルジックでもなく、かつ『人生案内』ほど抹香臭くなく、また『忘れられた人々』ほどやるせなくもなく、楽しませてくれたのには感心しました。

とくに、最後の場面、PDPA政権が倒され、ムジャヒディーンが孤児院に集団でやってくる場面で、日ごろは対立することもあった舎監の先生が、孤児たちの眼前で銃で撃たれて殺されるや、主人公は、まさしくブルースリーに変身、素手でムジャヒディーンの一団を蹴散らかすシーンでエンドマークが画面いっぱいに広がります。

今年(2021年)の夏、カーブルに登場し女性らのデモを銃やこん棒で理不尽に鎮圧するターリバーンを、素手の女性たちが髭面むくつけき暴漢どもに立ち向かう姿と、完璧に重なります。監督の先見の明と、公開時期の一致にこの映画の輝きを見た感じがしました。

 

監督のシャフルバヌ・サダトソ連が崩壊した1991年にテヘラン(イラン)で生まれています。『カーブルの孤児院』を製作した時には若干27歳か28歳です。パリに拠点を置く映画製作者協会アトリエ・ヴァランのカーブル・ワークショップでドキュメンタリー映画製作を学び、最初の長編映画『オオカミと羊』を完成させます。この作品はアフガニスタン中部ハザラ地方の彼女が育った村によく似た村の物語で2016年のカンヌ映画祭の監督週間で最優秀賞を受賞しています。

カーブルの孤児院』を観て、多くの驚きと感動を覚えました。
なんといってもそのひとつは欧米軍の支援のもと、新しいアフガニスタンを生み出す苦汁のしたたりを受けて若い才能が花開いた、という喜ばしい事実です。しかも女性監督。さらに付け加えると、もっとも差別抑圧されているハザラ族のなかからそのような才能と作品が生まれてきたのは驚きに値します。

オオカミと羊
その2は、作品の舞台がソ連の置き土産である非行や孤児、精神を病んだ人びとの救護施設の活動を肯定的に描き出す作品であることです。この孤児院は、ソ連軍が進駐を始めた時に革命評議会議長となったカルマル氏の夫人マハブバ・カルマル氏が1980年代の初期に院長をしていた孤児院のはずです。いわば、ニコライ・エック監督が描いた孤児院のカーブル版。そして作品のクライマックスは孤児院に自動小銃を引っ提げて一団となってやってくる髭もじゃで山賊のような格好のムジャヒディーンらを素手で打ち負かすシーン。

私は機会を見つけては強調していますが、ソ連軍の進駐下で進められた近代化の努力も、米欧軍の支配下で進められた近代化の試みも、上からの強制的なものであったがために、国全体のものとして実現はされていないが、そこで希求され実現されようとした価値はアフガン民衆に受け止められ脈々と受け継がれているのです。その現実を、『カーブルの孤児院』が見事に映像化している点に共感を覚えると同時に驚いたのでした。

ターリバーンが相手にしなければならないのは、これまでの、武器を掲げて威圧・圧迫してくる異民族・異教徒ではなく、同じムスリムでありかつ同国人の、しなやかで若わかしく屈することを知らない知性です。知は力であって知のない力は結局は知には勝てません

ターリバーンはこれから、このことを思い知ることでしょう。

監督のシャフルバヌ・サダト(Shahrbanoo Sadat)は12月初旬まだアフガニスタンにいて脱出の機会を狙っているそうです。監督については英語版Wikipediaに詳しい情報があります。
世界はこの才能を守らなければならない。
(https://en.wikipedia.org/wiki/Shahrbanoo_Sadat)

(12月26日、東京渋谷のユーロスペースでの上映会で監督のシャフルバヌさんがフランスへの脱出に成功したとの報告がなされました。監督は『オオカミと羊』『カーブルの孤児院』を第1、第2作として5部作構想をもっているそうです。次の作品が切望されます。)

【野口壽一】

 

 

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

~015

  アフガンのつぎ、西はウクライナ、東は台湾 

アメリカの2番手たたきの標的となった中国

(2021年12月13日)

 

過去100年、「パックス・アメリカーナ」を脅かす2番手をアメリカは常に叩きつぶしてきました。その事実を、前回、「アメリカは本当に負けたのか?」で論じました。

アメリカは第1次世界大戦前にGDPで大英帝国に追いつき、第2次世界大戦で「パックス・ブリタニカ」にかわる「パックス・アメリカーナ」を築き、盟主の地位を不動のものとしました。そして同時に台頭しアメリカと世界を2分するに至ったソ連を90年代につぶします。冷戦といわれたその時代に対社会主義圏への盾・不沈空母として育てた日本が2番手として頭角を現すや叩き始めます。無策の日本は「失われた10年」「失われた20年」「失われた30年」とずるずると後退。情けない状態に陥ったことは日本国民の共通認識になっています。

1900年~2016年までの各国GDPシェアの推移グラフ
(出典:https://livedoor.blogimg.jp/cpa_capitalist-index/imgs/f/d/fd6a8407.png)

 

アメリカは2番手を必ずつぶそうとします。そしてこの100年間、ことごとく成功してきました。
そしていま、急速に2番手にのし上がってきた中国つぶしにかかっています。

トランプ政権下の2018年、中国つぶし方針は顕在化され、泥沼のアフガニスタンからターリバーンと手打ちしてでも手じまおうと急ぎました。この過程はこれまでの『ウエッブ・アフガン』で詳述してきたとおりです。

果たしてアメリカの2番手つぶしは今度も成功するのでしょうか。

 

<ソ連つぶしの手口>

翻って、ソ連をつぶした方法を思い返すと、ココムをつかって経済的に締め付け、NATOをも動員し軍拡競争でゆすぶり、アフガニスタンへの侵攻というソ連の失敗を奇貨としてムジャヒディーンを育て代理戦争を戦わせ、ついにはソ連および社会主義体制そのものの崩壊まで実現してしまいました。

ソ連とソ連を軸とする社会主義圏は当時の反ソ連資本主義圏(米国、ヨーロッパ、日本など)と経済的な交流は細々としたものでした。むしろ、相互に壁を築いて経済交流を阻害し、米国側はココムによる締め付けをつづけました。
(WAJ:ココム:(Co-ordinating Committee Control for Export to Communist Area のはじめの二語の略) 対共産圏輸出統制(調整)委員会。社会主義諸国に対する資本主義諸国からの、戦略物資・技術の輸出を統制するために一九四九年に設けられた協定機関。アイルランドを除く北大西洋条約機構(NATO)加盟国と日本・オーストラリアの計一七か国が加入。本部パリ。ソ連崩壊により、一九九四年解体。)(コトバンクより)

アメリカは、ベトナム戦争の敗北で躓きはしましたが、そこまでの作戦は実に手際よく、一直線でGDPを成長させてきました。

ところが、計算違いは、米ソ対立を利用し、米日欧にすりより国際市場に浸透し、うま味を得、するすると上昇し、GDPで日本を抜き、アメリカの70%近くにまで迫ってきた中国です。すると、自力でその地位を築いたと勘違いしたのか、中国は、一帯一路政策や中国製造2025だとか南シナ海だけでなく太平洋をアメリカと分割支配しようなどと言い出してきました。アメリカとしてはそのままにしておくわけにいかない、と覚悟したようです。

ソ連つぶしに成功したのは、軍拡競争と封じ込めによって経済・技術の発展を阻害し低生産性を余儀なくさせ、最後はアフガニスタンで泥沼に追い込み、自滅させたのです。

中国の場合は、対ソ連戦略の一環として世界市場に組み込んだがために、アメリカのみならず西側世界が金融・貿易・グローバルサプライチェーンと広範な基幹部分で複雑に入り込んだ切り離しがたい相互関係を結ぶにいたりました。壁の向こうに存在したソ連(ソ連圏)とは決定的な違いがあります。

 

<それでも中国叩きにばく進>

2016年、トランプ大統領の登場を合図に、中国叩きが本格始動しました。
2018年10月4日、ペンス米副大統領(当時)がシンクタンク、ハドソン研究所で40分にわたって行った演説は、まさに中国に対する宣戦布告でした。少し長いですが、2018年10月26日の日経新聞から抜粋引用し振り返ってみましょう。

 

==<ペンス演説要旨>=======

■中国に深く失望

ソ連の崩壊後、我々(訳注:アメリカ(ペンス))は中国の自由化が避けられないと想定した。楽観主義をもって中国に米国経済への自由なアクセスを与えることに合意し、世界貿易機関(WTO)に加盟させた。経済の自由化が中国を我々と世界とのより大きなパートナーシップに導くことを期待していたのだ。しかし中国は経済的な攻撃をかけることを選び、自らの軍事力を強化した。(米国の)歴代政権は中国の行動をほとんど無視してきた。その結果、中国に有利になってきた。そうした日々はもう終わった。(WAJ:お仕着せがましい話をしていますが、中国の安い労働力を中国共産党と共謀してこき使い、莫大な利益をあげたことを意図的に隠しています。)

■貿易赤字容認せず

過去17年間で中国の国内総生産(GDP)は9倍に成長し、世界第2の大きな経済となった。この成功の大部分は、米国の中国への投資によってもたらされた。昨年の対中貿易赤字は3750億ドル(約42兆円)で、米国の貿易赤字の半分近くを占める。トランプ大統領の指示により2500億ドルの中国製品に追加関税を実施している。これらの行動は(中国経済に)大きな影響を与えた。中国最大の証券取引所の株価は今年の最初の9カ月で25%下落したが、これは主に我々の政権が中国の貿易慣行に強く立ち向かったためだ。(WAJ:中国に渡した金はいつでも印刷できるドル。しかも債権の形でも買わせてる。つまり、アメリカがもうけさせてもらってるだけの話)

■中国は「知財で略奪」

現在、共産党は「中国製造(メード・イン・チャイナ)2025」計画を通じて、ロボット工学、バイオテクノロジー、人工知能など世界の最先端産業の9割を支配することを目指している。中国政府は21世紀の経済の圧倒的なシェアを占めるために、官僚や企業に対し米国の経済的指導力の礎である知的財産をあらゆる手段を用いて取得するよう指示してきた。中国政府は現在、多くの米国企業に中国で事業を行うための対価として企業秘密を提出することを要求している。中国の安全保障機関は米国の技術の大規模な窃盗の黒幕だ。中国共産党は盗んだ技術を使って民間技術を軍事技術に大規模転用している。

■覇権奪取「失敗する」

中国は米国の陸、海、空、宇宙における軍事的優位を脅かす能力の獲得を第一目標としている。中国は米国を西太平洋から追い出し、米国が同盟国の救援に訪れるのを阻止しようとしている。しかし、彼らは失敗するだろう。中国の船舶が、日本の施政下にある尖閣諸島周辺を定期的に巡回している。南シナ海で「航行の自由作戦」を実施していた米海軍のイージス駆逐艦は45ヤード以内まで中国海軍の艦艇に異常接近され、衝突回避の操縦を強いられる事態となった。ただ、米海軍は国益が要求するところであればどこでも作戦行動を続ける。我々は威圧されたり撤退したりすることはない。インド太平洋全域で米国の利益を主張し続ける。「自由で開かれたインド太平洋」というビジョンを前進させるために、インドからサモアに至るまで、地域全体で価値観を共有する国々との間に強固な絆を築いていく。(WAJ:俺のいるところは俺の縄張りだ、でてくるな、と言ってるだけ。)

■市民に「迫害の波」

ここ数年、中国は自国民に対して統制と抑圧に向けた急激な転換をした。中国は他に類を見ない監視国家を築いている。中国のキリスト教徒、仏教徒、イスラム教徒に対する新たな迫害の波が押し寄せている。新疆ウイグル自治区では政府の収容所に100万人ものイスラム教徒のウイグル族を投獄し思想改造を行っている。(WAJ:中国からアメリカ国内の差別や抑圧を指弾されるようになるでしょう。)

■「債務のワナ」に軍事的思惑

中国は(一帯一路を掲げ)「借金漬け外交」を利用してその影響を拡大している。中国は、アジアやアフリカなどのインフラ建設に数千億ドルもの資金を提供している。しかし、これらの融資条件は不透明だ。スリランカは商業的価値があるかどうか疑問の余地のある港を中国の国有企業が建設するために巨額の負債を負った。支払いの余裕がなくなると、中国政府はスリランカにその新しい港を引き渡すよう圧力をかけた。それは中国海軍の将来的な軍事基地になるかもしれない。中国共産党は昨年から中南米3カ国に台湾との関係を断ち切り、中国を承認するよう説得している。これらの行動は台湾海峡の安定を脅かす。民主主義を奉じる台湾は、全中国人にとってより良い道を示すと米国は常に信じている。(WAJ:中国の新植民地主義もいずれは破綻する運命です。)

■ロシアよりひどい政治工作

米情報機関は「中国は政治的影響力を高めるために、貿易関税など(米国論を)分裂させる問題を利用している」と述べている。中国政府は、米国人の対中政策認識を変えるために、秘密工作員や偽装組織を動員し、プロパガンダ放送を流している。米情報機関の高官が私に語ったところによると、中国が米国内でやっていることはロシア人も真っ青だ。これまでに(米国の追加関税措置を受けて)中国が課した(対抗)関税は、中間選挙で重要な役割を果たす産業と州を特に対象としていた。ある推計によると、中国が標的とした米国の郡の8割以上が16年にはトランプ大統領と私に(多く)投票した。現在、中国はこれらの有権者を我々に反対させようとしている。米国の政治・政策に対する中国政府の悪意ある影響力と干渉については、米国中に新しいコンセンサスが生まれている。多くの企業は知的財産権の放棄や中国の抑圧の助長につながるような中国市場への参入を再考している。しかし、もっと多くの人が続かねばならない。例えばグーグルは、共産党による検閲を強化し中国の顧客のプライバシーを侵害するアプリの開発を直ちに終了すべきだ。(WAJ:人類が国家を必要としている間は避けられない対立。大事にならぬよう理性的にルールを定めてやってちょ~だい。)

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ペンス演説が実質的な「対中宣戦布告」と呼ばれる内容であることは間違いありません。

トランプ政権のもとで開始された中国つぶし政策は、より巧妙かつ確信的に、バイデン政権に引き継がれ、進められています。
アフガニスタン撤退政策も、ターリバーンの復権に道を開いたトランプ政権下で進められた政策の延長にすぎませんでした。アメリカにとって、アフガニスタンに関わっている余裕はなくなったというわけです。難しいアフガニスタンの国家建設に中ロを引きずり込み、より大きなユーラシア包囲網の布陣を構築し、中ロを抑え込もうとする、地球規模の作戦に、一国主義のトランプのやり方でなく「同盟国」を巻き込んで再出発したわけです。アメリカ経済の生命線・軍事ケインズ政策を継続していくためには世界規模での軍事的緊張は不可欠です。

 

<西はウクライナ、東は台湾>

軍事的には、西のNATO、東からは米日豪印クワッド、豪英米オークスで圧力をかけ、政治的には新疆ウイグル、香港、台湾、膨帥問題を格好の材料として民主主義と人権を掲げて中国を攻めつづけます。

やり方はかつてソ連およびソ連圏をゆすぶったのと同じ手法です。経済的に締め上げ、人権と民主主義で国内支配を不安定化し、譲歩させるか、弱体化させるか、消滅させるか、です。問題はソ連と中国とでは相互の関係がまるで違うことです。

冬季オリンピックに向けた外交ボイコット、民主主義サミットを通じた世界への踏み絵強要。アメリカに伍する力をつけたと勘違いして背伸びしてきた中国は、アメリカの本気をみて、必死の防衛に走っているように見えます。アメリカの挑発をうまくかわし、ひっかからないよう希望します。

ひとつ間違うと取り返しのつかない軍事衝突を引き起こしかねない危険極まりない綱引きがわれわれの身辺で繰り広げられています。

現在の中国と世界経済の関係は、かつてのソ連とはまったく異なり、デカップリングなどできません。「輸出黒字は勝、輸入赤字は負け」などと、旧態依然たる国民経済視点の単細胞的思考のまま、軍事的・政治的圧力と封じ込めで2番手をたたけるとアメリカが思っているとすれば、世界は大変なことになりかねません。

ところが最近の動きをみていると、トランプ政権時代の危険な認識と政策は除去されるどころか強化され、日本は逃げ隠れできなくなりそうです。安閑としてはいられません。

 

【野口壽一】

 

 

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~014

 アメリカは本当に負けたのか? 

<アフガニスタン戦争の本質>

(2021年11月29日)

 

アメリカの撤退ぶりがあまりにも鮮やかだったので、アメリカはターリバーンに惨敗したかのように世界中で報じられてきた。そんな論調の中、元アフガニスタン人民民主党幹部のひとりアサッドゥラー・ケシュトマンド(Assadullah Keshtmand)氏が「アメリカは軍事的には負けていない」としてユニークな論をたてている。(その論文はここをクリック)

われわれがさんざん聞かされたのは、2001年9月11日の米国同時多発テロ事件発生1か月後の10月7日、アメリカと有志連合国軍は北部同盟と連携した猛烈な空爆を開始し、ターリバーンを蹴散らし、クモの子を散らすように敗走させ、空爆のわずか1か月後には北部同盟軍がカーブルを占拠した。一方、ターリバーンやアルカーイダらは住民に紛れて隠れ、あるいはパキスタン領に逃れ、徐々に力を回復し、20年かけてアメリカNATO軍とアフガン国軍を圧倒して敗走させ全土を奪還した、というストーリーである。

本サイトでは、ターリバーンがカーブル入城する前から一貫して、「ガニー政権とターリバーンはコインの裏表」「ターリバーンを政権に引き入れたのはアメリカ」「ターリバーンの背後にはパキスタン」「ターリバーンは実はパキスタン」と主張してきた。

マスメディアでは論じられないこのような主張を、眉に唾つけて読んでおられた読者もいらっしゃるかもしれない。しかし、アメリカは本当にターリバーンとの戦争に負けたのか、冷静に振り返ってみる価値があるのではないだろうか

 

<アフガン戦争の実相>

ケシュトマンド氏は言う。
「アフガニスタンにおける20年間の米NATO軍の存在を注意深く評価すれば、2001年のターリバーンの転覆を除いて、ターリバーンと米NATO軍との間に実際の戦争はなかったと結論づけることができる。つまり、米国がターリバーンに軍事的に敗北した事実はない。」

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は「アフガニスタン紛争(2001年-)」の項目をたてて、2001年の開戦から1年ごとに詳細な戦闘状況を記録している。

Wikipediaは、2001年から2014年までの軍事・治安状況を次のようにまとめている。、
「(ターリバーンは)地方でのゲリラ的な襲撃や待ち伏せ、都市部での標的に対する自爆攻撃、連合軍に対する裏切り者の殺害など、非対称戦争を繰り広げた。ターリバーンはアフガニスタン南部と東部の農村地域で影響力を取り戻した。ISAF(注:NATO軍を主力とする国際治安支援部隊)は、村を「クリア&ホールド」するための対反乱作戦に兵力を増強して対応した。2007年から2009年にかけて、暴力行為は拡大した。2009年には兵力が急増し、2011年まで増加し続け、ISAFと米国の指揮下で約14万人の外国軍がアフガニスタンで活動した。2012年にNATO首脳は軍の撤退戦略を開始し、その後、米国は主要な戦闘活動を2014年12月に終了し、国内に残存兵力を残すことを発表した。2014年12月28日、NATOはアフガニスタンにおけるISAFの戦闘活動を正式に終了し、安全保障上の全責任をアフガニスタン政府に正式に移管した。」

アメリカおよび欧州軍は、2001年後半以降アフガニスタンで大規模で実質的な戦闘行動は行っていない。行っていたのはターリバーンや国際テロ組織の残党狩りや治安活動・取り締まりであり、カルザイを大統領につける選挙準備など国内政治体制の確立に取り組めるまでになった。2003年には戦闘をイラクに移し、イラクでも大々的な正規軍同士の戦闘をわずか1か月で制した。しかし、開戦理由であった大量破壊兵器は見つからず、アフガニスタン以上の泥沼にはまりこむ結果となった。

アフガニスタンおよびイラクの事実からわかることは、ベトナム戦争で見られた「ゲリラ戦」とは様相を異にする「非対称戦争」と呼ばれるあたらしい戦争形態が登場したことである。「非対称戦争」とは、国家権力および資金力・ハイテクを所有する圧倒的な強者と量的質的力量においてあらゆる面で劣る貧者がただひたすら「住民の支持」と「時間=持久戦」のみを頼りにローテクと自分らの命を武器に敵を意図的に泥沼に引きずり込み弱らせて溺れ死にさせる戦法にほかならない。正面切っての正規軍同士の対戦などありえない。

ターリバーン側の戦法では、即席爆発装置IEDと呼ばれる10ドルほどで作れる格安の「武器」が威力を発揮した。道路わきなどに仕掛けられる爆破装置だ。移動する外国兵にたいして地雷以上に恐怖とストレスを与える極めて効果的な武器となった。10ドル爆弾とも呼ばれたその小さな武器で何千万円もするような装甲車両を爆破し乗員を死傷させることができた。その他の仕掛け爆弾も貧者ならではの工夫で各種開発された。さらには、夜間に乗じた待ち伏せ攻撃も効果的であったし、なにより相手に恐怖を与えたのは自爆攻撃であった。自爆ベルトを身に隠し自分の肉体もろとも敵や民間人を爆殺する文字通りのテロ攻撃は防ぎようがない
これに対して、アメリカNATO軍は、ドローンを使った爆撃や重武装した兵士によるテロリストあぶりだし掃討作戦などを繰り出した。しかしそれらは、住民を大量に巻き込んだり、誤爆による民間人の被害を増大させ、テロリスト壊滅の効果よりも「住民の外国軍への憎悪」を掻き立て、ターリバーン側への贈り物にしかならなかった

ターリバーンは影響力を回復する過程では自分たちに反対したり外国軍や国軍に協力する村の有力者を暗殺したり、夜の間に住民へのクチコミ宣伝をおこなったりと2008年ころには農村部での支配が10%に及ぶと言われるほどになっていた。
2009年にオバマ政権が始動し、2011年から米軍はじめ外国軍の撤退が始まった。2012年夏の時点では、ターリバーンは農村部での困りごと処理などで農民の生活に浸透し全土80%を掌握していると言われるようになった。

アフガニスタンやイラクでの「非対称戦争」の実態については、2012年に出版された『勝てないアメリカ』(大治朋子、岩波書店)が克明にレポートしている。まさに、ケシュトマンド氏が言うように「実際、ターリバーンが米国に正面から対峙し攻撃しえたことなどない。米軍駐留期間中、ターリバーンは主に米・NATO軍の主要基地から離れた場所での妨害活動と爆破を主に行ってきたにすぎない。

戦場でのこのような状況をうけて、アフガン戦争の出口作戦が開始された。
・2013年 国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン治安軍への治安権限の委譲が完了
・2014年12月、国際治安支援部隊(ISAF)及び「不朽の自由作戦」が終了
・2015年 アフガニスタン政府とターリバーンとの間で非公式協議が行われ、ターリバーンの政治事務所をカタールのドーハに開設することで合意
・オバマ政権の後を継いだトランプ政権は一時的な増派を実施しながらも撤退作戦を遂行した。その集大成が、ドーハ合意
・2020年 2月29日ドーハ合意。 アフガン政府、捕虜釈放。ターリバーンの敵対行動が続く中でトランプ大統領は撤退を急いだ。アメリカ合衆国は駐留軍を2021年1月までに2500人にすると発表し、一方的に1年間で約1万人の兵力を削減

ドーハ合意は、アフガン政府(ガニー大統領)を見限ったアメリカが、ターリバーンを政権につけ、安全に名誉ある撤退を実現するための〝高等作戦〟のはずであった。しかし、ドーハでのターリバーンとの交渉においてアフガン政府はつまはじきにされていた。しかし、ターリバーンと気脈を通じていた米国代表ハリルザド(ドーハ交渉責任者)、カルザイ・ガニー現前大統領からなるパシュトゥーン3人組の陰謀を見抜いていたアフガン政府側の兵士や職員らはアメリカの「高等作戦」に協力する義理も義務も熱意も感ずるはずがなかった。アメリカが負けた(計算違いをした)とすればそれは、アフガン国軍と警察を前面に立てて戦う戦争(代理戦争)に負けた、ということだ。

以上がアフガン戦争の実相であった。

この間のアメリカ軍のアフガニスタンでの情けない実践は本サイトで金子編集委員が紹介している『アフガニスタン・ペーパーズ』におけるアメリカ人をはじめとする米欧人ほかの回想 で詳しく暴露されている。

 

<もう一度、アメリカは本当に負けたのか?>

ケシュトマンド氏が言うように、アメリカ軍がターリバーンに戦場で負けなかったのはその通りであったかもしれない。しかし、勝てたわけでもないし、アメリカが政策的に失敗したのは間違いないと思われる(私はそうは思わないが)。この点についてケシュトマンド氏の見解はどうか。彼は言う。

「米国がアフガニスタンで失敗したことは間違いない事実だ。しかし、この失敗は、最近、世界が感じた失敗とは別の種類のものだ。米国はアフガニスタンで道徳的失敗に苦しんできた。この道徳的失敗は、ただ私たち国民を残忍に殺害したことだけではなく、テロリズムと戦うためにアフガニスタンに来たというアメリカの目的を具現化せず放り出し、米国の対アフガン政策の整合性に関して国際世論を納得させられていない現実にある。」

「国際世論を納得させられていない現実」は確かに存在し、アメリカにとっては深刻に自省すべき事項だろう。しかし果たしてアメリカは本当に、ケシュトマンド氏が言うような「道徳的失敗」を自覚しているだろうか。私には、アメリカがそのようなナイーブな国であるとは思えない

大量破壊兵器があるとの理由で世界を巻き込んで攻め込み、莫大な血税を浪費し、イラク人や自国兵士を死なせ、フセイン大統領の首までとったのに、大量破壊兵器などなかった。その戦争の遂行責任者も国務大臣も大統領も戦争理由が間違いであったことを認めても賠償もしないし「道徳的失敗」を感じているようにもみうけられない。

アフガニスタン戦争に対するマスメディアや有識者一般の見解は、「人命と財貨の壮大なムダ」というものだ。

例えば、米ブラウン大研究チームによる次のようなデータが流布している。
・「9・11」後の20年間の一連の対テロ戦争の費用は8兆ドル(約880兆円)超。
・戦争による死者は90万人前後
・戦争費用は、国防総省や国務省が国外での作戦にかけた費用のほか、2050年までにかかる退役軍人の療養費などもふくむ。
・費用の内訳は、
▽アフガニスタンやパキスタンでの費用が2・3兆ドル(約250兆円)
▽イラクやシリアでの費用が2・1兆ドル(約230兆円)
▽退役軍人への療養費2・2兆ドル(約240兆円)など。
・死者は
米兵が7052人
敵対した兵士が30万人前後
市民が36万~38万人
ジャーナリストらは680人。
(上記数字には「米政府による9・11後の戦争コストは含まれていない」)(2021年9月02日 <朝日新聞デジタル>より)

確かに、人命や財貨の損失はおびただしいし、痛ましい。しかしそう思うのは、われわれ一般庶民の率直な人としてあるべき人間的感情にすぎない

アメリカという国には、民主党と共和党という対立軸だけでなく、さまざまな人種や利害や既得権益集団が存在している。それらは平衡点をもとめてつねにダイナミックにぶつかり合い、相争っている。その多様性 が民主主義と言えばいえるのかもしれないが。

対テロ戦争はアメリカにとって国を挙げて取り組むべき国家存亡にかかわる大事業であった。そしてその点において、アメリカは大勝利を挙げているのである。

なぜそう思うのか。次のグラフを見てほしい。

グラフ1 米GDPの伸び (https://www.nissay.co.jp/enjoy/keizai/135.html)

2001年の9.11以後だけでなく、ソ連軍のアフガン侵攻への反対勢力への武力支援をつづけた1980年代からわずかな一時的へこみはあっても一貫してアメリカのGDPは増え続けている。アメリカに比肩しうる成長を見せているのは中国だけである。(この点については後で述べる)

GDPだけでひとつの事象を断定的に語ることの危険性は重々承知の上で、あえて次の点を強調したい。

国家にとって戦争は政治(外交)の延長であり、政治の目的は国家の繁栄であり、GDPは繁栄を表すもっとも重要な指標のひとつである。その指標においてアメリカは勝利し続けているのである。

アメリカの強みを列挙すると、つぎの5つに集約できる。
(1)軍事力(武器の質量のみならず地球的に展開しているネットワークとその運営力、集金力)
(2)金融力(必要に応じて増刷できる世界経済の基軸通貨ドル)
(3)産業技術力(エネルギー、モノづくり、GAFAMなどソフト力、兵器武器販売力)
(4)文化文明力(映画、音楽、カルチャー全般、イデオロギーによる世界支配システム)
(5)政治力(敵対的な対立をも抱え込む民主主義システム)

血も涙もない政治家にとって国民(兵士)の命は金銭で代替しうるものであり貨幣価値で勘定すべきものにすぎない。上にあげた(1)と(3)をバックにした既得権益集団の最大の実体は軍産複合体である。彼らにとって、ブラウン大研究チームが算出した8兆ドル(実際はこれ以上)は単なる売上金にすぎない。その売上金がまわりまわってアメリカのGDPを押し上げるのである。証券業界や銀行業界にとっても持続する経済拡大は大歓迎である。軍事的ケインズ主義と称する学派もあるほどだ。

アメリカは第2次大戦以降つねに戦争をしつづけてきた世界で唯一の国である。それを支えつつ発展してきたのがアメリカの軍産複合体である。持続的な戦争経済をとおして航空宇宙やインターネットなどの通信事業を含む軍産複合事業はアメリカ最大の経済クラスターに成長した。
湾岸戦争以来アメリカの戦争をけん引してきた第41代および43代のブッシュ親子大統領がやったことは、アフガニスタンでムジャヒディンを育て、イラン・イラク戦争でイラクを応援、フセインを育て、湾岸戦争、アフガン占領、イラク戦争と突き進んできたブッシュ大統領の家系は、第2次世界大戦中から軍産複合体を生業としてきた。日本の都市を焼き尽くした焼夷弾製造でも大もうけしている。(Wikipedia)

アメリカはこの40年間、ことGDPの成長という観点からはなんら失敗をしていない のである。それどころか連戦連勝である。

しかも、戦争そのものが、下記の要素からなるニュービジネスとなった。
兵器武器、戦争遂行システムの製造販売
戦争遂行に関わるロジスティック全般
実際の戦闘にかかる費用(売上げ)
戦争行為および軍務全般の下請け化、外注化
このことをWikipediaは次のように要約している。
「『対テロ戦争』における実際の軍事行動は、敵対勢力への積極的な海外派兵によって行なわれ、兵器の使用に伴って大きな軍需物資の需要が生み出されている。特にアフガニスタンとイラクでは、主戦闘以外のあらゆる侵攻作戦上の業務を米国の民間会社へと委託する方式(民間軍事会社)を生み出すことで、従来のように遠く離れた母国から武器などの物の販売によって利益を得るのではなく、戦争や紛争が起きている現場での労働力の提供による利益を追求するといった、戦争そのものが新たな産業として確立しつつある。」

 

 

<ソ連は戦争をビジネス化できず、滅んだ>

では、冷戦時代、アメリカと対等に競争していたソ連の場合はどうだっただろうか。つぎのグラフをみてほしい。

1900年~2016年までの各国GDPシェアの推移である。

・グラフ2(https://livedoor.blogimg.jp/cpa_capitalist-index/imgs/f/d/fd6a8407.png)

ソ連はアフガン侵攻を始めた80年代じわじわと世界経済に占めるGDP比率を落とし続け、ついに1991年に崩壊、ゼロ近くにまで落ちる。硬直化と非合理を生み、生産性を落とし社会を沈滞化させた官僚的社会主義経済は、ゴルバチョフの改革にも失敗し、アフガニスタンでの失敗がとどめを刺した。アメリカのようなダイナミックな資本主義、グローバルな軍需経済の育成に失敗したのである。

 

 

 

<アメリカの対中対策>

最後に、グラフ1でみるように、アメリカを追い越す勢いで伸びている(購買力平価比較ではすでに追い越しているという分析もある)中国の場合はどうか。

本サイトでは、アフガンで敗北したように見せかけているアメリカはアフガニスタンの泥沼に中国を引きずり込み、東アジア南アジアで叩こうとしている、と分析してきた。

グラフ2で見るように、第2次大戦以降、アメリカは自国を追いかけてくる2番手を蹴落としつづけてきた。つまり、第2次大戦中に大英帝国を追い落とし、戦後は世界体制にまで成長したソ連を失墜させ、冷戦後にはアメリカの庇護と育成(対ソ不沈空母として)のもとに背後に迫ってきた日本の頭を叩き潰したのである。いま、ソ連の当て馬として優遇してきた中国が経済的に伸びてきて「一帯一路」などと世界戦略を口にするまでになってきている。

アメリカはこの事態をしっかりとみてきた。アフガニスタンでもたもたしていては危ない、とオバマ大統領の時代から対中国シフトを準備してきたのである。中国は、先にあげたアメリカの強みの5要素の観点からみると、まだまだ足元にも及ばないひよっこだ。アメリカあっての経済発展が多少軌道に乗った、という段階にすぎない

機先を制したアメリカの攻撃に身を縮めて対処しようと必死になっているのがここ数年の習近平氏である、と筆者はみている。皆さまの見立ては、いかがでしょうか?

【野口壽一】

(WAJ注:アサッドゥラー・ケシュトマンド氏は1949年カーブル生まれ。フランスで農業を学んだ元アフガニスタン人民民主党中央委員会メンバー。アフガニスタン人民民主党中央委員会の国際関係部の元副局長。ハンガリー、イラン、エチオピアの元アフガニスタン大使。現在、在ロンドン。本サイト『ウエッブ・アフガン』で先に掲載した「いまこそ連邦制を真剣に!」(https://bit.ly/3r7EihH)の論者スルタン・アリ・ケシュトマンド氏は実の兄)

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~013

 アフガン問題の理解はパキスタンとセットで 

講演記録 (2021年11月11日)

11月11日に開かれた日本ビジネスインテリジェンス協会(BIS)の30周年記念・第175回情報研究会で、「アフガニスタンの現状」のテーマで発表させていただきました。当協会は各界を代表する有力な方がたが歯に衣着せず日本の言論界や政治経済会で話題になっているテーマをインテリジェンスの観点から報告・議論しあう刺激的な活動を30年つづけてこられユニークな教会です。わが『アフガン・ウエッブ』の活動を評価していただき、野口が報告をさせていただきました。内容は10月25日号に掲載した「アフガニスタンーーこれからが本当の国づくり」をベースに加筆修正をおこないました。以下はその講演内容です。掲載にあたって、日本ビジネスインテリジェンス協会様にはこの場を借りてお礼申し上げます。

皆さんこんにちは。
アフガニスタン情報サイト『ウエッブ・アフガン』を運営している野口と申します。まず最初に30周年記念という貴重な機会に発表の機会を与えていただいたことに感謝申し上げます。

さて、本日、お伝えしたいのは、アフガニスタン問題を見ていく場合に、最も大事なのは、アフガニスタン国境内だけを見ていては本質がわからない、ということです。

アフガニスタン問題とは、じつは、パシュトゥーン問題であり、周辺諸国とくにパキスタンとの関係を熟知することが必須です。とはいえ、まず最初に、アフガン内部の状況からみていきましょう。

現在、アフガニスタンで勝利したターリバンの目的はイスラーム防衛の「聖戦」とはいえ、本音を言えば実生活上の「幸せ」や「実益」の追求であったはずです。

なぜそんなわかりきったことを言うかともうしますと、カーブルを無血開城してすぐの10月20日、自爆犯の遺族を占拠したばかりのパレスに招き、会見した暫定政府のハッカーニー内相代行は、「殉教した」ターリバーン戦闘員を「イスラームと国家の英雄」だとたたえる一方で、遺族には報奨金や土地を与えると約束しました。(カブールAFP時事)

ターリバーンやISなどイスラーム原理主義の人たちは日本のカミカゼ特攻隊に尊敬の念をもっているといいます。しかし、超過激主義で名高いハッカーニー内相代行が遺族をまえに報奨金や土地を与える、と言ったのは、殉死したら天国に行ける、と教え込んで死なせた建前だけでは不十分で、遺族の本音に応える必要がある、ということなのでしょう。

ところで、今回ターリバーンが勝利したのは「ジハード」、つまり「聖戦」でした。
打倒の対象だった異教徒の軍隊はいまやアフガニスタンには一兵たりともいません。

ジハードに勝利してやっと国づくり、つまり国民の「幸福」の建設に取り組める条件が生み出されました。
ターリバーンがそのための権力を維持していくためには国民の支持と協力が不可欠です。
イスラームの法律であるシャリーア法は厳格をよそおっていますが、実態はきわめて曖昧なしろものです。その時々のイスラーム政権によって自分たちの政策や統治に都合のよいように、いかようにも解釈されます。
イスラーム国にもいろいろあります。アラブ人の国サウジアラビアは王族ファミリーの利権保証をイスラームの名のもとにやっていますし、アラブ首長国連邦なども似たり寄ったりで、厳しい女性隔離政策をとっています。最近では女性らの要求によって緩和の方向ですが。

パシュトゥーン人と人種的に近いイラン・イスラーム共和国では女性隔離も地方によっていろいろで、選挙制度もありますし大統領も選挙で選びます。

イスラーム国パキスタンも選挙をやっています。トルコや中央アジアのイスラーム国のように、イスラームの世俗化を果たした国もあります。
そのような変化を最も鋭く見抜いているのは女性たちです。ターリバーンがカーブルに入った翌日、カーブルの壁に女性たちの抗議の声、決意が書かれました。

「くたばれターリバーン! 今や女性は政治的に目覚めた。20年前には疑問をもっていなかったブルカの下での暮らしはもはや望んでいない」。(アフガン女性使節団によるRAWAのインタビュー8月21日)

このように20年間の営為はムダではありません

腐敗と汚職にまみれた政府だったとはいえ、欧米による軍事支配の20年で、アフガニスタンは大きく変化しました。1人あたりの国民所得は2000年代初頭から2倍以上に増え、平均寿命は9年延び、学校教育年数は6年から10年になりました。生徒数は80万人だったのが800万人を超え、300万人以上の少女らが就学しました。
女性の雇用事情も大きく変わりました。かつては農事やとくにケシの栽培やアヘンの収穫といった仕事をするしかなかった女性たちが、公務員の5分の1以上、国会議員の4分の1を占めるまでになりました。さらに220人の女性判事が誕生していました(彼女らはいま、命の危険にさらされています)。

アフガニスタンの地域経済は、女性事業主、といっても農産物の担ぎ屋や小商店などによる活動を屋台骨とする非公式部門がほぼ8割を占めています。子どもが学校に通えるのも、親が基礎的医療サービスを受けられるのも、彼女らが最低限の収入を得ているおかげです。こうした零細事業が打撃を受ければ貧困率は跳ね上がるでしょう。働き、学び、尊厳をもって生活する権利を女性から奪うことは、アフガン経済をどん底に突き落とすことにつながります

行政や経済を運営するためには専門職が必要です。ガニー政権下でそれらの仕事をしていた、女性を含む専門家や国連や外国政府やNGO、NPOなどで働いていたアフガン人およびその家族たちが十万人以上国外へ去り、いままだその機会をさぐっている人びとが多数存在しています。職能をもった専門家なしに国家運営はままならないはずです。

そもそもの難題は未解決で山積みです

先に、自爆犯の遺族に報奨金と土地を与える、とのハッカーニー内相代行の発言を紹介しましたが、アフガニスタンでは土地だけもらっても農業はできません

アフガニスタンの国づくりにおいて土地改革、農業改革は必須です。

半世紀ほどまえにさかのぼりますが、周辺諸国、とくに北方のソ連中央アジアの民族的にも近しい諸国の経済社会発展に刺激されて、1970年代、国の改変に若い軍人たちが決起しました。

1973年にクーデターを起こし、王政を廃止して共和制に移行し、78年からは人民民主党による「四月革命」に期待が集まりました。

ちなみに、そのころのアフガニスタンが平和でのどかな素晴らしい国であったかのような旅行者の言説がありますが、それはウソです。旅行者の理想化された願望によるイリュージョンにすぎません

実態は、貧困が支配し女性は隔離・抑圧され医療、衛生や教育などの基本的な社会インフラは整わず厳しい自然のもとで飢餓に悩まされ世界の発展から取り残された半封建的部族社会こそが、アフガニスタンの実像でした。外国、特にソ連に軍事留学し、留学先の同じ中央アジア諸民族が社会主義改革によって発展しているのをみた青年将校たちがクーデタに走った根拠はここにありました。

そのような社会矛盾を解決するため、働く農民に土地を分配する土地改革が革命の第1課題でした。ところが、アフガニスタンでは土地だけあっても農業はできないのです。「水」が必須です。また、運よく土地と水の割り当てにあずかれたとしても、それまで富農の指揮下で働いていた小作人には、種や農機具や肥料や農業技術がありません。お手上げです。しかも、「四月革命」の初期に、土地改革を強制的かつ急速に行ったために、村ごと難民として逃げる一種の逃散がおこり、さらにソ連軍を導入したことにより外部からのゲリラ活動に「聖戦(ジハード)」の口実を与え、武装反革命に悩まされることになったのです。根本的に「幸せ」問題を解決するはずの政策遂行を誤り、国内国外からの制裁と袋叩きにあい、打ちのめされたのが当時の人民民主党(PDPA)でした。

いま、ターリバーンは異教徒である外国軍支配への「ジハード」に勝利したにすぎません。ジハード以前の諸問題=社会改革の課題はまったくの手つかずのまま眼前に山のように積み重なっています。

中世的因習への復帰によって問題を解決することはできません

ターリバーンのほとんどはパシュトゥーン人です。支配イデオロギーもイスラーム法とパシュトーンの慣習法(パシュトゥーン・ワリ)や因習・伝統文化のアマルガムです。かれらは、総数4000万人ほどいると言われていますが、パキスタンとアフガニスタンのあいだで、デュランド・ラインと呼ばれる境界線で真っ二つに分断されています。
多民族国家であるアフガニスタンでは多数と思われているパシュトゥーン人ですが、じつは、過半数にとどきません。アフガニスタンには多数派民族は存在せずいずれもが過半数に満たない少数民族グループの集まりです。そのうえ相対的多数派のパシュトゥーン人は数百の部族や氏族に分かれ、それぞれが独立性をもっており必ずしも単一のまとまりをもっているわけではありません

さらに、アフガニスタン・パキスタン間の合意なき境界線であるデュランド・ラインで真っ二つに分割されたパシュトゥーンはほぼ自由に二つの国を行き来し、パキスタン側のパシュトゥーンはパキスタン政府からの支援金や交付金などを得ており、パキスタン国民としての特権を享受しています。

そのような二重性をパシュトゥーン住民だけでなくパキスタン政府、特に軍部は徹底利用してターリバーンへの影響力を行使しています。ちなみにパキスタン軍の20%はパシュトゥーン人で、ターリバーンを世界に認めさせようと奔走しているイムラン・カーン・パキスタン首相もパシュトゥーン人です。アフガン人であれば子供でも知っているように、ターリバーンの後ろにはパキスタンがおり、ターリバーンそのものがパキスタンなのです。パシュトゥーン人は、アフガニスタンとパキスタンという2つの国を手玉に取ってアフガニスタンとパキスタンを支配しつつあります。

ターリバーンは自爆ベルトや銃器の扱いには習熟しているかもしれませんが、それらは生産活動には役立ちません。それぞれの民族国家の伝統にもとづく近代化=進化は人類史の発展法則であり、何度も行きつ戻りつがあったとしても、自己を貫徹する社会発展法則です。いかに強固なイスラームであれ、その法則から自由であることはできません。イスラーム自身が近代化しない限り人民大衆から見捨てられる運命にあります。

ターリバーンの運命は近代化とイスラームとのはざまで苦しむパキスタンとともにある、逆に言えば、パキスタンの運命はその写し絵であるターリバーンとともにある、と言うことができるのではないでしょうか。

最後に、昨日の毎日新聞が報じた記事を紹介しておきます。それは、「パキスタン一時停戦」という大見出しのもとに「政府と武装勢力 タリバンが仲介」というものです。
「えっつ、パキスタンは戦争していたの? と思われるかもしれませんが、実はパキスタンはこれまでいつも国内で戦争をしてきているのです。毎日新聞の記事の内容は、パキスタンのターリバーンがアフガニスタンのターリバーンの仲介で、パキスタン政府との一カ月の停戦に応じた、というものです。

時間がないので詳細の説明は割愛せざるをえませんが、アフガニスタン問題を考える場合には、パキスタンとセットで考える必要があります。今日はそのことをお伝えして私の話を終わります。

ご清聴ありがとうございました。

【野口壽一】
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~012

 ターリバーン擁護論を読む 

オーマイゴッド、インシャラー

(2021年11月9日)

 

『タリバン復権の真実』(中田考著、ベスト新書)という本が出版されたのを知ったので取り寄せて読んだ。

289ページ新書版。半分以上は過去翻訳の再収録。書下ろし部分は中田考氏のターリバーンとの交流・対話を中心に2012年同志社大学神学館で開催された公開講演会「「アフガニスタンにおける和解と平和構築」およびそれと並行して取り組まれたアフガニスタンの和平交渉のための同志社イニシアティブの活動が白眉として置かれ、前後にアフガニスタンの歴史やターリバーンとはなにかが解説され、全体としてターリバーンの復権を喜びことほぐ内容である。

9.11同時テロや2020年2月の米タリバン・ドーハ合意の重要な日付が間違っていたりして、急ごしらえで執筆・編集された様子がうかがえるが、中田氏の主張は明快で単なる啓蒙書とは一味違い、アフガンの現実に深入りしてターリバーンを擁護する論争的な姿勢が貫かれている。(ちなみに、誤植は出版物にはつきもので小生もしょっちゅうしているので、著者や版元を責めているわけではありません)。

ターリバーンの主張を擁護し大所高所から歴史を俯瞰する宗教書のような書籍をわざわざ取り上げて論評するのは気が重いが、帯につけられた3人の評論家先生の推薦の言葉を見て、気が変わった。腰巻惹句曰く、

内田樹氏「現場にいた人しか書けない生々しいリアリティーと、千年単位で歴史を望見する智者の涼しい叡智」
橋爪大三郎氏「西側メディアに惑わされるな! 中田先生だけが伝える真実!!」
高橋和夫氏「タリバンについて1冊だけ読むなら、この本だ!」

大変なお褒めである。アフガニスタンと付き合うようになってイスラームのみならずユダヤ・キリスト教の勉強もしなければならないと思いいたり、たくさんの啓蒙書・解説書を読んだ。なかでも、中田考氏は、自身がモスレムとなりその理解と実践に基づき、ただしいイスラームを日本に伝えようとする言行一致の姿勢に好感をもっていた。『私はなぜイスラーム教徒になったのか』(太田出版)も読んだし、ずいぶん前に買って教材にしていた入門書『イスラーム世界がよくわかるQ&A100』(亜紀書房)を引っ張り出して参照していたら中田氏も著者のひとりだった。アラブのイスラーム過激派への氏のかかわりにちょっと危なっかしいな、と思いつつも気にしていた論者のひとりだった。

で、本書を一読、感想を言うと「ちょっと待ってよ~先生」という感じ。反対派とくに対立宗派かつ少数民族のシーア派の大量虐殺も、反対する部族長を暗殺して住民を黙らせたり、凄惨な見せしめや残虐な体罰への批判もなく、女性の隔離や教育の制限も神の教えに従う当然の行いであり、外国からの支援も最小でほとんど神学校でまなんだ清き全き神の使徒たる僧兵による闘いの成果、と描き出している。ターリバーン批判者が口をそろえる女性差別や教育制限なども、コーランやシャリーア(イスラーム法)を知らない連中の誤解にすぎない、と一蹴。

まったく、この1冊のなかだけのターリバーンであれば、「なんでこんな愛国心と正義心に満ちた清廉潔白なターリバーンを批判するの?」となることだろう。「高橋先生、ほんとにこれでいいの?」、「橋爪先生、ここまでターリバーンを賛美できるのはほんとに中田先生だけでしょうね」「内田先生、国民の苦難を武力暴力で抑える涼しい顔ってこんなんですか?」と言いたくなってくる。

おちゃらけはやめて真面目に議論する。
第1次ターリバーン政権がアフガン国民に支持されたのは、1992年アフガニスタン人民民主党政権が崩壊してからのムジャヒディーン各派の内紛・内戦のひどさ、各地各民族軍閥の腐敗のひどさに国民が飽き飽きしていたからだ。その国民感情にターリバーンが応えようとしたからだ。内戦に明け暮れ、住民にロケット弾を雨あられと撃ち込みあうムジャヒディーンには命を奪われ続けたからだ。さらに、援助金に群がり奪い合うムジャヒディーンに愛想をつかしたアメリカとパキスタンがターリバーンの後押しをしたからだ。ここいらの事情はいまさらいうまでもなく本サイトの「研究/提言」コーナーで紹介した書籍類で詳述されている。(高橋先生、読んでね)。腐りきったムジャヒディーン(後の北部同盟)を追っ払ってターリバーンが結成後わずか2年でカーブルにせまり北部まで支配するようになったのはパキスタンの軍事支援(および直接の関与)とアメリカやイギリス、アラブからの武器軍備品や資金のおかげだった。

ところが、政権につけてみたら、神の教えと称して極端なイスラーム解釈にもとづく内政、アル=カーイダやISなどのアラブ過激派の保護。支持したアメリカやパキスタンもびっくりするような行為に走った。挙句の果てに客人が起こした9.11同時テロ。怒ったアメリカは翌月の10月7日からおびただしい空爆と北部同盟を使った地上戦でわずか1か月でターリバーン政権を崩壊させ、次なるイラクとの戦争に突進した。(ムジャヒディーンもアル=カーイダもターリバーンもアメリカは自分で育てて自分で苦しんでいる。もっとも、米国の軍産複合体にとっては混乱と戦争が儲け仕事なのでしてやったりなのだろうが)。

ここからターリバーンの復活までも情報はあふれているので、このプロセスについてはこれくらいにして、中田氏の著作にもどろう。

本書で興味深かったのは、翻訳文の再掲でターリバーンの基本文書と称される「タリバン(イスラーム首長国)の思想の基礎」である。ターリバーンの綱領的な文書だ。ただ10年前の文書なので、現在もターリバーンが採用している有効な文書なのかどうかについては著者も保証はしていない。学び始めの神学生から熟練したウラマーに成長しているというタ―リバーンだから時代の要請を踏まえたもっと目配りのきいた文書になっているのかもしれない。しかし、きわめて基本的な思想を述べたものなので現在でも有効なのだろうと思われる。

この文書で重要と思ったのは、ヨーロッパの植民地主義と西洋文化および政治思想哲学に対する批判である。イスラーム独特の法理論はわきに置くと、小生にも賛同できる要素は多い。産業革命を他に先んじて実現した国家・地域として、銃と鉄の船で世界を支配し、文化思想哲学の力(イデオロギー)で人々の心をつかみ帝国主義支配を築いた欧米中心史観についてもいまさらここで述べるまでもない。ただ、その支配に対する闘いをキリスト教十字軍に対する戦争として純化して描き出す点には同意できない。(同意できないと言っても彼らには意味ないのだけれど)。いまでは、イスラームの言葉を使わなくても帝国主義の時代を批判し乗り越えることはできる。帝国主義的近代を乗り越えていくのに、前近代の思想をもってくる必要はない。神様を持ち出してくると、なお一層収拾がつかなくなる。

ターリバーンの綱領のなかの表現で、時代遅れで人びとの支持を得られなくなるだろうなと思われる規定・要求はさまざまあるが、1点だけ挙げておこう。それは、焦点になっている女性のとらえ方に対する規定である。

基本文書「思想の基礎」は述べる。

「アフガン人の女性の性状は他のイスラームの国々の女性とは多くの点で異なっている。例えばアフガン人女性はアッラーの恩寵によっていまだに健全な信仰の天性を保持しており、彼女らの考えは西洋物質主義に汚染されておらず、移住とジハードに耐え、その日暮らしで辛抱しており、露出や裸体よりも貞操と慎み深さを選好している。」

なるほど、外国軍との聖戦を闘っているあいだは、「欲しがりません勝つまでは」で頑張れるかもしれない。しかし、本当は平和とよりよい生活の方がいいんだけどな。

そして、わが中田先生は、本書の結論としてこう述べられる。

「これから我々がなすべきことは、これまでの過ちを繰り返し、自分たちの価値観でアフガン人を一方的に裁く記事を書き続けることでは決してない。」
「大切な伝統と聖なる宗教を侮辱する外国の占領軍を追い出してアフガニスタンの真の独立を達成するために命を捧げる戦士になる夢を語る男の子愛する父母が選んでくれた結婚相手と、親族・隣人たちから祝福されて幸せな家庭を築く結婚を夢見る女の子の声をも報ずることであろう」

もう外国軍との聖戦は終わり、といっても異教徒ならざる外国パキスタンがまだ背後にいるんですけど。そして、戦争のない平和で豊かな生活、といってもまだまだ生存そのものが危険にさらされている現状からの脱却が求められているのに、なんたる時代錯誤の結語をかかげて、先生たちは、涼しい顔をされているんでしょう。

オーマイゴッド、インシュアッラー!

【野口壽一】

 

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~011

 アフガン戦争でアメリカは何を学んだか 

そして日本は何を学ぶべきか

(2021年11月1日)

 

「編集部から」で金子編集委員がつぶやいている「アフガニスタン・ペーパーズ」。延々と勝ち目のない戦争にはまり込んでしまったと自覚しながら、データを改ざんし、情報を操作し、戦果を強調していた米国政府。「アフガニスタン・ペーパーズ」は、ベトナム戦争時にリークされた機密文書「ペンタゴン・ペーパーズ」になぞらえて「アフガニスタン・ペーパーズ」と呼ばれている。(https://courrier.jp/news/archives/188063/)

そこで暴露されているのは、アフガン人が早くから指摘をし、マスコミも知らなかったわけではないけれど、あったことをなかったように、なかったことをあったように捏造する、ありきたりの手法の数々である。「日本は何を学ぶべきか」と大上段に振りかぶったけれど、そんなに上等なものでなく、戦前にも戦後にも(決して自公だけでなく、またアメリカや日本だけでなく)古今東西、為政者が陥ってきた宿痾と言うしかないものである。

しかし、民主主義国家であれば、政府決定に反対、批判、あるいは推奨、提案する行為が認められ、実行される。アメリカ議会では上院の共和党議員22名がターリバーンやパキスタンを批判し制裁すべしとする法案を提出する動きが始まっている。(https://bit.ly/3CuNobg)(https://bit.ly/3pS1LTl)

アメリカ議会の一部は、アフガニスタン問題の隠された主要問題はパキスタン問題であり、それを知りながらパキスタンとターリバーンを利用してきた(また利用されてきた2面政策)アメリカの責任は大きいとする、われわれ『ウエッブ・アフガン』の主張に近づいてきている。

1921年に設立され、外交問題・世界情勢を分析・研究するアメリカ合衆国の非営利会員制組織で米国政府の対外政策決定に対して強い影響力を持つシンクタンクであり外交誌『フォーリン・アフェアーズ』の刊行などで知られる〝Council on Foreign Relations (CFR)〟も実に興味深い分析を行っている。

● アメリカの著名シンクタンクCFRの分析

CFRのインド、パキスタン、南アジア担当のシニアフェロー=マンジャリ・チャタジー・ミラー(https://www.cfr.org/expert/manjari-chatterjee-miller)名で8月25日付で発表された「ターリバーンに対するパキスタンの支援:知っておくべきこと」と題するインタビュー記事は興味深い。(原文は英語。全文をお読みになりたい方はこちらで読めます。
(https://www.cfr.org/article/pakistans-support-taliban-what-know)

同インタビューで氏は、「パキスタンの政府と軍隊はターリバーンの勝利を支持しているが、ターリバーンへの支援をつづけることは(パキスタンにとって)危険である」と言い切っている。

物事を表面的に見ていると、とんでもないしっぺ返しを食らうことになる。今回のアフガニスタンでの出来事は同国周辺および中東の局地的な事件であるにとどまらず、日本周辺=東アジアでの「グレート・ゲーム」と連動している、という観点はわれわれ『ウエッブ・アフガン』の主張なのだが、今回は、パキスタンに焦点を絞って、CFRの分析を聞いてみよう。

● 質問1:「なぜパキスタン当局はターリバーンによるアフガニスタンの乗っ取りを応援したのか?」

この質問への彼女の答えはこうだ。
「パキスタンの政府と軍隊は一枚岩ではない。むしろ利益面で競合している。しかし、両者ともターリバーンの勝利を喜んでいたのは事実だ。パキスタンのイムラン・カーン首相は、ターリバーンが〝奴隷制の連鎖を断ち切った〟と宣言した。
カーン首相の公式表明には、3つの長年にわたる重層的な理由がある。
第一に、パキスタンはターリバーンに(イスラームの)イデオロギー的装いを与えた。パキスタンは1947年にイスラム教徒の国として創設された。パキスタン国民は異なる言語や民族からなる多くのコミュニティに分かれており、これを接着剤としてまとめるのがイスラームの役割だった。しかし、(言語や民族の)違いは戦争を生んだ。1971年、激しい内戦のすえ、ベンガル語を話すコミュニティが支配的だった東部パキスタン領の大部分との統合は崩壊し、バングラデシュが分離独立した。その敗北のショックから、パキスタン政府は、パシュトゥーン人またはパシュトゥー語話者が多いバロチスタンとカイバル・パクトゥンクワの西部領土に執着するようになった。パキスタンは、イスラーム・ナショナリズムがパシュトゥーン・ナショナリズムを抑えることを期待して、特に厳格なイスラーム思想を植え付けるために、これらの地域にマドラサを設立した。イスラーム・ナショナリズムも支持しているターリバーン指導者たちはそのマドラサで訓練された。」

アフガニスタンとパキスタンを分けている境界線デュランド・ラインについては本「視点」の10月04日付「アフガン問題の本質-パキスタンに注目を」と9月27日付「アフガニスタンとパキスタンは普通の国ではありません」でも詳説した。そこに掲載した地図や説明をご覧ください。われわれと氏の認識はおなじである。
そのことを確認し、ひきつづき氏の話を聞こう。

「第二に、パキスタン当局はアフガニスタンとの国境を心配している。彼らの懸念をターリバーン政府が和らげてくれると信じているしかし、1947年のパキスタン独立以来、アフガニスタン政府は、パシュトゥーン人が支配する領土をアフガニスタンから分離するデュランド・ラインを拒否している。パシュトゥーン人の過半数が住むアフガニスタンは、これらの領土を「パシュトゥニスタン」または伝統的なパシュトゥーン人の故郷の一部であると主張している。パキスタン政府は、ターリバーン・イデオロギーがパシュトゥーン人のアイデンティティよりもイスラーム思想を強調していると信じている。
第三に、パキスタンはアフガニスタンに親パキスタン政府を設立しようとしている。パキスタンは、インドが民族的および言語的差異を利用してパキスタンを揺さぶり、崩壊させようとしていると非難している。インドとアシュラフ・ガニー前大統領の政府との良好な関係は、パキスタンの懸念を和らげる何らの対処もしなかった。それに対して、ターリバーンは、反インド・ジハードグループへ聖域を提供するなど、パキスタンがインドに対抗するのを助けてきた。」

つまり、インドを割って作ったパキスタンという国家の成り立ちの不安定さにおびえるパキスタンの軍部と政府は、イスラーム教徒としてのターリバーンの側面に共通性をみて期待をかけているのである。パシュトゥーン・ナショナリズムが大きくなるとパキスタンへの遠心力が働きかねない。パキスタンとの共存理由はただひとつ、イスラームにしかない。パキスタンはイスラームに寄りかかるほかに救いはないが、そのイスラーム自体いくつもの系統や分派・思想潮流に分かれ、非妥協的で和解しがたい思想的宗教的政治的対立の原因にもなっている。そこにパキスタンの弱点=苦悩がある。(本サイト「研究/提言」『苦悩するパキスタン』参照)

● 質問2:9/11以降、パキスタンとタリバンの関係はどのように変化したか?

「パキスタンは、ターリバーンを財政的に支援し、さらには後方支援の主役であり続けている。パキスタンの軍統合情報局(ISI)は、ターリバーンの設立当初から、資金、訓練、兵器面で支援してきた。ISIはまた、ターリバーンと緊密に協力している過激派グループでパキスタンを拠点とするハッカーニネットワークとの強い関係を維持している。(ハッカーニ・ネットワークのリーダーであるシラジュッディン・ハッカーニは、2015年からタリバンの副代表格)。ターリバーンはパキスタンに不動産を所有しており、国内の個人から多額の寄付を受けている。
同時に、米国からの圧力の下で、パキスタンは何年にもわたって、グループの最高指導者の1人として戻ってきたターリバーンの創設者であるムッラー・アブドゥル・ガニー・バハダルを含むタリバン司令官らを拘束し、拷問したとされている。さらに、現在のパキスタン陸軍参謀総長であるカマル・ジャビド・バジュワ将軍は、パキスタンを不安定化させるターリバーンの可能性に非常に警戒していると伝えられている。
今後、ターリバーンに対するパキスタンの影響力は低下する可能性がある。一方、ターリバーンは、中国、イラン、ロシアとの関係を築こうとしている。パキスタンの緊密な同盟国である中国がターリバーン主導政府の承認に踏み切るとすれば、ターリバーンとパキスタンの両方が凶暴な宗教的ナショナリズムを支持しないという条件つきだ。というのは、中国政府は新疆ウイグル自治区に独立要求を掲げたイスラーム勢力の影響が中国に波及する可能性を恐れているからだ。」

シラジュッディン・ハッカーニは9月7日に発表されたターリバーン暫定内閣で内相代行に就任している。パキスタンはアメリカの圧力で「テロリスト」を逮捕したり、カタールの首都ドーハでの「和平交渉」開始に当たっては、囚人として逮捕した彼らを今度はターリバーン側交渉担当としてアメリカの命令で釈放してドーハに送り込んでいる。(「アフガンの声」米国アフガン占領20年の失敗―その原因<4>参照)。その代表格ムッラー・アブドゥル・ガニー・バハダルは2010年2月にパキスタン当局によって逮捕され拘留されていたが、アメリカの要請で2018年10月に釈放されドーハへ派遣され、ターリバーン外交事務所の責任者としてアメリカとの交渉にあたり和平合意を実現した。暫定政権では副首相に就任したが閣内の内紛で殺害されたとの噂が流れた。カンダハルに逃れたという情報もあった。9月15日テレビ局のインタビューに登場し内紛や負傷説が誤報であるとして本人が否定した。(9月16日CNN)

● 質問3:ターリバーンのアフガニスタン乗っ取りはパキスタンにどのような影響を与えるだろうか?

「パキスタンはターリバーン支援にあたって危険なゲームをしている。パシュトゥーンナショナリズムを取り込んでアフガニスタンに親パキスタン政府を樹立しインドに対抗するという目標は、ターリバーンやパキスタン内で戦っている宗教的ファンダメンタリストたちのどちらの思考性癖に鑑みても説得力がない。
パキスタンはデュランド・ラインにピリピリしている。国境を強化し境界を定めるために過去数年間に数百万ドルを費やしてきた。それでも、ターリバーンは、他のアフガニスタン政府と同様に、デュランド・ラインそのものも、さらには両国を境界線で物理的に区別しようとするパキスタンの試みも受け入れていない。ターリバーンがパシュトゥニスタン(パシュトゥーン人の国)というアフガン側のスローガンを放棄したり非難したりしたこともない。
さらに複雑なことに、ターリバーンは、パキスタンのターリバーンと呼ばれるテリク・エ・ターリバーン(TTP)と緊密な関係を維持している。TTPは、ターリバーンに親和性をもっており、アフガニスタンとパキスタンの国境地帯で活動し、独立したパシュトゥニスタンを確保するまでパキスタンとの戦争を誓う小さなパシュトゥーン人過激派グループだが、何千人ものパキスタン民間人の死に責任がある。伝えられるところによると、パキスタンのバジュワ将軍は、アフガニスタンのターリバーンとTTPの間のつながりを認め、パキスタンの国会議員に、両ターリバーンは「同じコインの裏表」であると警告した。
さらに、アフガニスタンが再び内戦に陥った場合、パキスタンはさらに巨大な難民の流れに対処しなければならなくなる。昨年、推定140万人のアフガニスタン難民がこの国に流入した。
最後に、アフガニスタン(およびパキスタン)が新疆ウイグル自治区の不満ウイグル人を含むイスラーム分離主義者の聖地になった場合、パキスタンは中国との関係を危うくする可能性がある。」

われわれは以上の認識に賛同する。

● 質問4:米国とその同盟国は、アフガニスタンの状況についてパキスタンとどう協力できるだろうか。

「米国は南アジアおよびパキスタンとの二国間関係において複雑な状況に直面している
。米国政府は、テロ対策への協力の見返りとしてパキスタンへ長年投資してきた。しかしパキスタンの地域安全保障に与えた利益に比べると、限られた配当しか返ってこなかった。
現在、ワシントンには考慮すべき2つの追加要素がある。
ひとつ目は、インドとの戦略的パートナーシップの深化だ。過去数年間で、インドはより緊密な安全保障関係を求める米国の主張をより受け入れやすくなっている。米印関係におけるこれらの利益を考えると、米国はパキスタンとの関係において非常なる注意を払うべきだ。パキスタンによる国境を越えたテロ支援をワシントンが抑制していないという懸念は、ニューデリーとの関係を危険にさらすだろう。
ふたつ目の要素は、この地域に対する中国の関心の高まりだ。中国政府がこの地域で宗教テロを引き起こす可能性は低いが、ターリバーンと協力し、アフガニスタンを一帯一路イニシアチブ(BRI)に組み込むことを目指すだろう。米国の戦略は、中国の投資を相殺するよう努めるべきだ。中国はパキスタンに影響力を持っている。米国にとってありうる選択は、宗教的ナショナリズムとアフガニスタンから溢れ出る過激派に対する中国の恐れを利用して、米中パキスタン協力づくり戦略を開始し、ターリバーンに圧力をかけることである。」

これからのアメリカの外交戦略は、「インドとの連携を図りながら、中国のイスラーム過激派への恐怖心を利用して米・中・パキスタン協力」態勢の構築であるべきだという。この分析に従うならば、アメリカが強調している「新疆ウイグル地区での人権問題」は中国をこの協力体制へ引き込むための尻叩きと理解することができる。極めて巧妙な戦略戦術だと思われるが、もしそうなるとすれば、歓迎すべきことかもしれない。
あな恐ろしきはアメリカの戦略、というべきか。アメリカはアジアの西と南と東とで中国と「グレート・ゲーム」を演じている。アメリカの表向きの対中批判に乗っかって中国批判に明け暮れていては、駒でしかない日本はアメリカに裏をかかれてしまうかもしれない。

【野口壽一】

 

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~010

 「アフガニスタンーーこれからが本当の国づくり」

(2021年10月25日)

九州を拠点に全国に情報展開している雑誌『I・B』に表題のタイトルで寄稿しました。発行元の株式会社データ・マックス(文末に注)はペシャワール会と同じ福岡市に本社を置き、中村哲医師の事業については早くから取り上げ支援してきたそうです。

戦争の目的は「幸せ」の追求

現地での事業をハンセン氏病の治療から始めた中村哲医師がたどり着いた究極事業は灌漑でした。最初は医療活動で現地に関わった中村さんでしたが、途切れることなく現れる患者を目の当たりにして、患者一人ひとりを救っていてもらちがあかない。病気・不健康の原因は「汚れた水」にあり根を絶たなければ「いたちごっこ」で終わると気づいたたすえの帰結でした。水は農業をささえ食料を生み出す命の源でもありました。

Web Afghan in JAPANでは、アフガニスタンおよびそれを取り巻く国際環境の政治・軍事・経済事情、そこで生活する人びとの身近で切実な課題を取り扱っています。いきおい、大所高所からの分析や客観的な観察・批評、あるいはその対極にある一般民衆の憤りや運動のレポートが多くなりがちですが、それらの基底には一人ひとりの人間や家族や地域に、生き延びるための生活の苦労や幸せを求める想いがあります。

中村さんをはじめ、NGOやNPOの人びとが、農業支援や教育支援、地雷除去や医療支援などに取り組むのはそうした人びとの「幸せ」を直接実現する活動です。それに対して政治や軍事に関わっている人びと、特に指導者たちは、「目前の不幸の根を政治的に根絶し人びとの幸せを実現するため」に戦っていると考えており、一般の人びとと目的は同じはずです。

なぜこんなわかりきったことを言うかというと、10月20日に自爆犯の遺族と会見した暫定政府のハッカーニー内相代行が18日、自爆テロを起こして「殉教した」ターリバーン戦闘員を「イスラームと国家の英雄」だと称賛(カブールAFP時事)し、遺族に報奨金と土地を与えると約束したという記事を目にしたからです。日本でもカミカゼ攻撃機で自爆しに出発する学徒兵の「愛する人や家族を守るため」自分の命を犠牲にすると決意をしたためた遺書が「きけわだつみの声」としてまとめられています。国や正義に殉じる気持ちの底にあるのは大所高所の抽象的な概念や観念(ジハードで死ねば天国に行ける)だけではなく、生きて飲み食いする愛する家族の幸せという具体的な目的へ「命を捧げる」精神です。

ターリバーンやISなどイスラーム原理主義過激派は日本のカミカゼ攻撃に尊敬の念を示すといいます。彼らは、外国勢力=異教徒の支配が自分たちの存在そのものである伝統的宗教的な生き方(ターリバーンにあってはパシュトゥーン・ワリ)を破壊する許しがたい「悪の根源」とみて、それを根絶するジハード(聖戦)を闘ってきたわけです。

アッラー(神)の名に殉じても、心情の底にあるのは神や国家(日本の場合は天皇)ではなく、生身の人間の生き方=「生活」のはずです。

超過激主義で名高いハッカーニー内相代行が遺族をまえに報奨金や土地を与える、といったのは、宗教民族文化国家を超えた統治組織の政策実行者として(自爆を肯定するわけではありませんが)普遍的で当然な発言です。

ターリバーンが勝利したのは「ジハード」

アフガニスタンにはいま、異教徒の外国軍はいません。ターリバーンが勝利したのは「ジハード」であり、「生活」「幸福」にむけた闘いは道半ばのはずです。90年代の10年間も異教徒である外国軍はいなかったのですが、その10年間はアフガン国内勢力の内戦と未熟なターリバーンに付け込んだアラブ過激派の存在により、国造りどころではありませんでした。(この期間もパキスタンの存在はありましたが、それはまた別の問題。10月4日の視点「アフガン問題の本質-パキスタンに注目を!」参照)

1980年以降、政治闘争が武力闘争となり内戦となり、その結果、個々の社会成員が不幸を背負わされてきたのがこの40年でした。決着がつかなければ社会そのものの破滅、共倒れになりかねないほどの危機が進行していました。つまり、アフガニスタンは甚だしい本末転倒に陥っていたわけです。

今回はじめて、欧米軍事力不存在(ただしアラブ・イスラーム原理主義過激派は存在する)のアフガニスタンが誕生しました。ジハードの大義を果たし政権をとったターリバーンは自爆犯(ジハードに殉じた英雄)の遺族だけでなく国民全員の生活を支える、つまり、食わせなければなりません。本来、外国勢力を追い出すジハードに人びとを動員したのも、自分たちの生活を自分たちで築こうとするのが目的だったはずです。

国土の大半を武力支配するに至ったターリバーンには国民のさまざまな要求が突き付けられます。それらをひとつひとつ解決し、社会機能を維持しなければなりません。

ターリバーンは2020年2月のドーハ合意で欧米軍撤退後は、アフガン国内既存勢力と広範な包摂的政府をつくると約束しました。しかし、その合意から外されていた国家と政府の長であるガニー大統領はすたこらさっさと大金をもって逃げ出しました。ターリバーンから見れば共同してアフガニスタンを運営すると米国に約束した最大の相手が消滅してしまったのですから、単独で政権をつくる言い訳をする必要もないほどの絶好の条件が転がり込んできたわけです。

暫定政権を樹立し執政権を主張した以上、ターリバーンは国家運営の全責任をおわなければなりません。農村運営はなんとかなるかもしれませんが、都市機能や国家全体の運営となるとそうは問屋が卸しません。

権力維持には国民の協力が不可欠

ターリバーンが権力を維持していくためには国民の支持と協力が不可欠です。イデオロギーでは腹は膨れません。人は病気にもなります。知恵もつけなければならないし、気晴らしもしないと生きていけません。国政を担当することになれば、このような国民の要求をターリバーンは満たさなければなりません。

イスラームのシャリーア法は曖昧であり、その時々のイスラーム政権によって自分たちの政策や統治に有利なように、いかようにも解釈されます。イスラーム国にもいろいろあります。アラブ人の国サウジアラビアやUAE(アラブ首長国連邦)など厳しい女性隔離政策をとっているイスラーム国があります(そこでも女性らの要求によって緩和の方向)。パシュトゥーン人に人種的に近いイラン・イスラーム共和国では女性隔離も地方によっていろいろで、選挙制度もあり大統領も選挙で選びます。パキスタンもそうです。トルコや中央アジアのイスラーム国のように、イスラームの世俗化をはたした国もあります。ターリバーンは西側諸国に認められ、真剣に相手にしてもらうことを望んでいます。

カーブル入城直後の記者会見などを見ていると、一見ずる賢く立ち回ろうとする姿勢も見て取れます。世界に向けて寛容さを印象づけようとしている気配もあります。しばらくすれば、状況によっては選挙を行うと言い出すかもしれません。しかし、彼らのイスラーム原理主義の信条とパシュトゥーン優遇の本質は変わらないでしょう。もし変わったら、もうターリバーンではないわけですから。

そのことを最も鋭く見抜いているのは女性たちです。ターリバーンがカーブルに入った翌日、カーブルの壁に次のような抗議の声、女性たちの決意が書かれました。

「くたばれターリバーン! 今や女性は政治的に目覚めた。20年前には疑問をもっていなかったブルカの下での暮らしはもはや望んでいない。安全にいられるための賢いやり方を探しながら我々は戦い続ける」。(アフガン女性使節団によるRAWAのインタビュー8月21日)

アフガニスタンの目覚めた女性たちはデモを行い、スマホで写真や動画を撮影し、自分と家族の生活を守るために、自分たちの主張を世界中に発信しています。

20年間の営為はムダではない

腐敗と汚職にまみれた政府だったとはいえ、また建前とはいえ、掲げられた自由と民主主義の旗印と世界からの援助金(そのほとんどは途中で消えたと言われていますが)による20年で、アフガニスタンは大きく発展しました。1人あたりの国民所得は2000年代初頭から2倍以上に増え、平均寿命は9年延び、学校教育年数は6年から10年になりました。生徒数は80万人だったのが800万人を超え、300万人以上の少女らが就学しました。

女性の雇用事情も大きく変わりました。かつては農事やとくにケシの栽培やアヘンの収穫といった仕事をするしかなかった女性たちが、公務員の5分の1以上、国会議員の4分の1を占めるまでになりました。さらに220人の女性判事が誕生していました(彼女らはいま、命の危険にさらされています(本Web「トピックス」2021年9月29日<BBC>参照))。

アフガニスタンの地域経済は、女性事業主による活動を屋台骨とする非公式部門がほぼ8割を占めています。子どもが学校に通えるのも、親が基礎的医療サービスを受けられるのも、彼女らが最低限の収入を得ているおかげです。こうした零細事業が打撃を受ければ貧困率は跳ね上がるでしょう。働き、学び、尊厳をもって生活する権利を女性から奪うことは、アフガン経済をどん底に突き落とすことにつながります。

女性の職員や労働者の排除だけではありません。行政や経済を運営するためにはテクノクラートが必要です。ガニー政権下でそれらの仕事をしていた専門家や国連や外国政府やNGO、NPOなどで働いていたアフガン人およびその家族たちが十万人以上国外へ去り、いままだその機会をうかがう人びとが多数散在しています。職能をもったそのような人びとなしに国家運営はままならないはずです。

パキスタンや周辺諸国への避難民だけでなく、国内難民もこの数カ月で数十万人規模で増加し、地方の山岳地帯ではすでに相当数の餓死者がでたと報告されています。ターリバーンの「変節」を糾弾するISなど過激原理主義者のテロ活動も活発化しています。これまでテロ活動で治安を脅かしてきたターリバーンに古い同志たちの取り締まりが可能なのでしょうか。

これまでの20年間に達成されてきた成果や成長の芽を踏みつぶすことによって未来に進めるとは思えません。難題百出となるでしょう。アフガニスタンはこれから、ターリバーンであれ、反ターリバーンであれ、本当の国づくりの試練に直面し続けることになるのでしょう。

そもそもの難題は未解決で山積み

先に、自爆犯の遺族に報奨金と土地を与える、とのハッカーニー内相代行の発言を紹介しましたが、アフガニスタンでは土地だけもらっても生活には何も役立たないのです。

農業が経済の中心であるアフガニスタンでは農業が命。周辺諸国、とくに北方のソ連中央アジアの民族的に近しい諸国の経済社会発展に刺激されて、70年代、国の改変に若い軍人たちが決起しました。王政を廃止して共和制に移行し、78年からは人民民主党による「四月革命」に期待が集まりました。ちなみに、それ以前のアフガニスタンが平和でのどかな素晴らしい国であったかのような西側インテリ旅行者の言説がありますが、それはウソです。旅行者の理想化された願望によるイリュージョンにすぎません。実態は、貧困が支配し女性は隔離・抑圧され医療、衛生や教育などの基本的な社会インフラは整わず厳しい自然のもとで飢饉と飢餓に悩まされ世界の発展から取り残された半封建的部族社会が、アフガニスタンの実像でした。外国、特にダウド時代にソ連に軍事留学し、留学先の同じ中央アジア諸民族が社会主義改革によって発展しているのをみた青年将校たちがクーデタに走った根拠はここにありました。

そのような社会矛盾を解決するため、働く農民に土地を分配する土地改革が革命の第1課題でした。ところが、アフガニスタンでは地主だけでなく「水主」の存在があり、土地だけあっても農業はできないのです。また、運よく土地と水の割り当てにあずかれたとしても、それまで富農の指揮下で働いていた小作人には、種や農機具や肥料や農業技術がありません。お手上げです。しかもそのような土地改革を強制的かつ急速に行ったために、村ごとパキスタンに難民として逃げる一種の逃散がおこり、ソ連軍を導入したことにより外部からのゲリラ活動に「正義(ジハード)」の口実を与え、武装反革命に悩まされることになったのです。根本的に「幸せ」問題を解決するはずの政策遂行を誤り、国内国外からの制裁と袋叩きにあい、打ちのめされたのが当時の人民民主党(PDPA)でした。

人民民主党が取り組んだ改革目標は、イギリスとの闘争のすえアフガニスタン国を現在の形で獲得し近代化に取り組んだアブドゥル・ラフマーン王、さらにその事業をひきつぎ1919年に独立を成し遂げたアマヌラー・ハーンの近代化路線の延長だったとも言えます。アマヌラー・ハーンは世界から取り残されそうになっていたアフガニスタンの教育や社会改革に取り組みました。しかしその近代化路線が強引で急速でハザーラなどへの抑圧のゆえにイギリスに支援された国内の反発を招き国王自身亡命せざるを得なくなるところまで追い込まれました。まるでPDPA政権の崩壊の再現です。同じく、ターリバーン政権を打倒して2001年から遂行されたアメリカ主導の近代化改革の失敗も、ガニー大統領の大金を持っての逃亡というおまけまでついて、アマヌラー王の亡命やPDPA政権によるチャレンジの失敗(ナジブラの逃亡)と「ウリ3つ」です。

ターリバーンは異教徒である外国軍支配への「ジハード」に勝利したにすぎません。ジハード以前の諸問題=社会改革の課題はまったくの手つかずのまま眼前に山のように積み重なっています。ターリバーンにはそのような社会改革を行う気はなく、伝統への回帰=アフガニスタンで繰り返されてきた近代化路線への反動(アマヌラー王に対するバチャ・イ・サカオの乱、PDPAに対するムジャヒディーンの乱、アメリカ侵攻に対するターリバーンの乱)のひとつにすぎません。

中世的因習への復帰はありえない

ターリバーンのほとんどはパシュトゥーン人で構成されており、支配イデオロギーもイスラーム法とパシュトーンの慣習法(パシュトゥーン・ワリ)や因習・伝統文化のアマルガムです。

多民族国家であるアフガニスタンではパシュトゥーン人は決して多数派ではありません。アフガニスタンには多数派民族は存在せずいずれもが過半数に満たない少数民族グループの集まりです。そのうえ相対的多数派のパシュトゥーン人は数百の部族や氏族に分かれ、それぞれが独立性をもっており必ずしも単一のまとまりをもっているわけではありません。さらに、数千万人のパシュトゥーン人口はデュランド・ラインで真っ二つに分割され、パキスタン側はパキスタン政府からの支援金や交付金などを得ており、パキスタン国民としての特権を享受しています。そのような二重性をパキスタン政府、特に軍部は徹底利用してターリバーンへの影響力を行使しています。ちなみにパキスタン軍の20%はパシュトゥーン人で、ターリバーンを世界に認めさせようと奔走しているイムラン・カーン・パキスタン首相もパシュトゥーン人です。アフガン人であれば子供でも知っているように、ターリバーンの後ろにはパキスタンがおり、ターリバーンそのものがパキスタンなのです。パシュトゥーン人は、アフガニスタンとパキスタンという2つの国を手玉に取ってアフガニスタンを支配しつつあります。

90年代は外国軍のいない10年だったと先に言いましたが、実際はその間にもパキスタンという国家と軍が陰に陽に存在していたのです。しかも今後、イスラームを国の礎とするパキスタンが、自らが指導して生み出したターリバーンを使ってアフガニスタンを支配するとなれば、かつての異教徒の国ソ連やアメリカによる占領という様相とは異なりますが別の種類の外国支配がアフガニスタンに出現することになります。

ターリバーンは自爆ベルトや銃器の扱いには習熟しているかもしれませんが、それらは生産活動には役立ちません。単純な模倣にすぎない西洋化ではなく、それぞれの民族国家の伝統にもとづく近代化=進化は人類史の発展法則であり、何度も行きつ戻りつがあっても、自己を貫徹する法則です。いかに強固なイスラームであれ、その法則から自由であることはできません。イスラーム自身が近代化しない限り人民大衆から見捨てられる運命にあります。ターリバーンの運命は同じく近代化とイスラームとのはざまで苦しむパキスタンとともにある、逆に言えば、パキスタンの運命はその写し絵であるターリバーンとともにある、と言うことができるのではないでしょうか。

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株式会社データ・マックス(福岡市博多区中洲中島町2-3 福岡フジランドビル8F)が発行する「地域企業の繁栄をサポートする経営情報誌インフォメーション・バンク「アイ・ビー(I・B)」。同社のウエブサイトでも3回に分けて連載されました。(第1回)(第2回)(第3回)
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【野口壽一】

 

~009

 「微笑みの来た道」は「イスラームも来た道」

東京藝大美術館「みろく」展を観て想う
(2021年10月18日 13:00)

もう閉会してしまいましたが、東京藝大美術館で開かれていた「みろく―終わりの彼方 弥勒の世界―」展を観てきました。

2016年にバーミヤン摩崖仏が納められた石窟天井壁画の「天翔る太陽神」復元展が同じ藝大美術館で開かれ、また翌年2017年には法隆寺壁画再現などにかけた藝大のスーパークローン展示会も観ました。それらのすばらしさはすでに体感していたので、今回はちょっと油断してしまいました。拝観したのが最終日になってしまいました。ご覧になった方は多いと思いますが、もっと早く観覧してニュースメールで案内すべきであった、と反省。

今回の展示は、ユーラシア世界の歴史時間と広大な地上空間で演じられてきた人間の美術宝物創造を藝大が開発したスーパークローン技術によって4次元的によみがえらせようとする野心的なものでした。

展示の中心はバーミヤンでした。ちょうど20年前の2001年3月にバーミヤンの東西2体の摩崖仏破壊をターリバーンが世界に向けて宣言し爆破したのはほとんどの方が覚えていらっしゃることでしょう。偶像崇拝を否定するイスラーム教の教義にもとづくとして当時のタ―リバーン最高指導者オマル師が前月に破壊命令を発出したのでした。

バーミヤンの大仏が日本で有名なのは、なんといっても629年から645年にかけてインドへ求法の旅に出た玄奘三蔵が著した『大唐西域記』を通してでしょう。
バーミヤンを歴史の中に正確に刻んだのは玄奘三蔵が最初だそうです。632年(630年という説もある)、玄奘三蔵はバルフから南下して、ヒンドゥークシュの険しい山谷を超えバーミヤンへやってきました。このヒンドゥークシュ越えは「氷河や砂漠よりはるかに危険」「山は高く谷は深く、尾根や岩石は危なっかしく、風と雪がやむことなく、真夏でも凍っており、雪が積もり谷を覆い、谷川の道はきわめて渡りにく」く、「父母から受けた大切な体を危険な旅路にさらす」難儀のすえ、ようやくバーミヤンの入り口にたどり着いたそうです。そのとき玄奘の目に飛び込んできたのは、金色に輝き、宝飾をきらめかす荘厳な摩崖仏2体と巨大な涅槃仏とでかざられた仏の都でした。(前田耕作著『アフガニスタンの仏教遺跡バーミヤン』晶文社より抜粋)

バーミヤンでは128年にクシャーン朝を建てたカニシュカ王の保護のもと仏教が栄えました。現在はパキスタン領内のガンダーラとともに西のグレコローマン文明と東のインド文明が混交融合して新しい文明であるヘレニズム文明が生まれた土地です。

「ヒンドゥクシュの山々が連なるアフガニスタン、ここは東と西の文明が交差する十字路だ。古来、このあたり一帯では、ペルシャのゾロアスター教が広く信仰されてきた。紀元前4世紀、アレクサンドロス大王の大遠征によって、ギリシャ文明がもたらされ、さらに紀元2世紀頃、クシャーン朝カニシュカ王の時代に、インドからガンダーラ地方を経て、仏教がアフガニスタンに伝わる。カニシュカ王は仏教を厚く保護したことで知られているが、この時代、仏教とゾロアスター教では太陽神となったミスラが運命的な出会いを果たすのだ。」(井上隆史『図録 みろく』収録解説)

そのバーミヤンの大仏は、ターリバーンが2001年に爆破し完全に破壊するまえイスラーム勢力がバーミヤンを占領した後9世紀ころから部分的な破壊(大仏の顔のそぎ落としなど)が始まったという(前田説)。風化による損壊もありました。

人為であれ自然であれ形あるものは崩れる。今回はバーミヤンの岩壁に穿たれた800もの洞のなかでも比較的大きなE窟の天井壁画「青の弥勒」の復元(スーパークローン)が展示された。金よりも高価と言われるアフガニスタン特産のラピスラズリを砕いて顔料とした青をふんだんに配した衣(ころも)をまとったふくよかな弥勒は、技術と情熱によって永遠の命をもってよみがえりました。人類とクローン技術が存在する限り、釈迦入滅56億7千万年後に衆生を救済するために現れる弥勒菩薩もお姿が風化されることもなく安堵されるのではないでしょうか。

井上説が述べるように、バーミヤンはギリシャ、メソポタニア、ペルシャ、インドの古代宗教が旅をして出会い共生融合した交差点でもありました。

「みろく―― 終わりの彼方 弥勒の世界――」展のテーマは、ギリシャ文明と出会うことによって弥勒菩薩の概念がガンダーラやハッダやバーミヤンで彫像として具現化され、新疆ウイグルを貫くシルクロードをへて日本へと伝わってきた道筋をその地その地の弥勒像を展示ないしスーパークローン技法で再現し、提示するスケール壮大で野心的な展覧でした。

このコンセプトは、NHKの『シルクロード・美の回廊 II「“微笑み”がきた道」』(出演:ヤマザキマリ 、前田耕作。2019年5月11日放送)のコンセプトとも共通するものでした。

アルカイック・スマイルと言われる仏像の深遠で含蓄深い微笑みの微妙な変化をたどるこの番組のコンセプトが今回の実物仏像やクローンで展示されたわけです。

グレコローマン的、ゾロアスター的、ヒドスターン的微笑みが、新疆ウイグル/中国を経て日本の弥勒菩薩の表情に定着していく様は興味が尽きません。とくに広隆寺の半跏思惟像の完成された微笑みは、学校教育の場で日本人のほとんどは一度は見せられたはずです。衆生の救済を深く思惟する慈愛に満ちたほのかな微笑みはガンダーラ仏の雄々しい表情とは対蹠的できわめて日本的で宗教的境地の高いものといえます。

私はこの展覧会とNHKの放映でアルカイック・スマイルの変遷を見ながら、いささか複雑な感懐に陥りました。それは、実体験した、「微笑みの来た道」は「イスラムの来た道でもある」という感想です。

仏像の破壊はバーミヤンだけではありません。私が目撃して強い衝撃を受けたのは、新疆ウイグルの旅で、キジル千仏洞とベゼクリク千仏洞を訪れたときでした。アフガン・イラク・シリアとイスラーム過激派の動きが激しくなり、新疆ウイグル地区もそのうち行けなくなるかもしれないと危惧し、6年前、ツアーに参加しました。ウイグル族は中央アジアのチュルク系民族でアフガニスタン北部の民族とも近しいつながりを持っています。現地ではほとんどアフガニスタンといっても大げさでないほどの近親性を感じました。この点についてはまた別の機会に論じたいと思います。

今回は、キジル千仏洞で得た感慨について記します。
キジル千仏洞とは新疆ウイグル地区最大の石窟群です。壁のように視界をふさぐ赤茶けた巨大な山塊の岩石壁に無数の石窟が彫られています。岸壁に穿たれたひとつひとつの洞は仏僧がそこにこもって修行する洞窟です。洞の天井や左右の壁いっぱいに小さな仏がそれこそひとつの洞に千体ほどあるのではないかと思われるほど描かれた祠です。そのような洞が千も穿たれているわけです。祈るだけでなく、インドからもたらされた仏典の翻訳も行われました。玄奘三蔵が持ち帰った仏典の翻訳もなされましたし、3世紀中ごろから取り組まれていました。玄奘以前に翻訳事業に取り組んでいた鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)が有名で銅像が創建されていました。

鳩摩羅什の銅像越しに岩山の山肌いっぱいに穿たれたバーミヤンの光景に似た千仏洞を眺めると、宗教的情熱のすごさに圧倒されます。

岩山に穿たれた洞の全部の天井や壁には、本来、大小さまざまな仏像がびっしりと描かれていたのですが、それらの破損の原因を聞いて、考えさせられてしまいました。
もちろん、風化による損傷はありました。近年、欧米からの探検隊が保存のよいものは壁ごとはぎ取って持ち帰りました(ドイツのものは第2次世界大戦の爆撃で全損という悲劇もあります)。プロレタリア文化大革命のときには、宗教否定の思想から(日本の廃仏毀釈のように)壁画をドロで塗りつぶしたりしました。それ以前に9世紀ころから進出してきたイスラーム勢力も手当たり次第に壊したのですが、とにかうたくさんあるので、壊しきれません。最後は、祈りに欠かせない仏像の顔、それも眼だけをくりぬいて作業終わりとしているものが見られました。削る方も天井を上向いたり背丈よりも上に描いてある仏像に手を伸ばしたりと、かなり疲れたんじゃないでしょうか。

規模はぐっと小さくなりますが、もうひとつ訪れたベゼクリク千仏洞(トルファン火焔山周辺)はキジル千仏洞から数百km東にありました。ここでも壁に描かれた仏像の目や口が削り取られています。イスラム教東漸の痕跡と言えます。そこからさらに500Km以上東にある敦煌の莫高窟にも洞があります(敦煌は未踏)。敦煌の壁画はイスラームによる破壊はそれほどでもないと聞いています。敦煌の仏像(弥勒菩薩)や仏画は中央アジアからの影響を受けて両足を交差させており、仏教が来た跡をイスラームが追いかけてきた歴史の積み重ねが見られるようでとても興味深いものがあります。

ベゼクリク千仏洞を見学していた時、小学校高学年らしき一団が見学に来ていました。仏教、イスラム教、欧米探検隊、プロ文革と受難を経てきた仏たち。地層の重なりのごとく受難の痕跡をとどめた遺跡を現代中国愛国教育を受ける子供たちにどう教えるのか、ウイグル族でムスレムの中国人ガイドに聞いてみました。答えは、「そのまま教えます。歴史ですから」との答え。実に淡々としています。

「歴史ですから」という答えは、エジプトを旅した時に付き添ってくれたエジプト人ガイド(敬虔なモスレム)からも聞きました。原始宗教をはぐくんだエジプト文明は思いっきり偶像崇拝そのものです。「モスレムとしてどう思う」と聞くとやはり「歴史ですから」と答え、「商売になります」と笑っていました。この「歴史ですから」という答えは、大連で日露戦争の戦跡を見事に整備し乃木将軍の二人の息子の戦死場所を祀ってくれている中国人にも聞いてみました。「水師営会見場跡」博物館など日露戦争の戦跡だけでなく、満州国史跡の保存など、びっくりするほど丁寧に保存していたからです。ここでもなぜ、と聞いてみたらやはり同じく「歴史ですから」との答え。

アフガニスタンに話を戻します。
今度のターリバーンは、20年前に爆破したバーミヤンを警備しているそうです。また、博物館なども略奪が起きないよう警備をしているそうです。ターリバーンが「歴史ですから」と言う日が来るのでしょうか。

「新疆ウイグルの旅」は「ユーラシア」コーナーにあります。【ここをクリック】

【野口壽一】

 

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~008

 アフガン問題の本質-パキスタンに注目を!
(2021年10月04日 13:00)

Web Afghan in JAPANでは、アフガニスタンと世界の「平和と進歩と人権」を守る視点からのアプローチをベースに編集をしてきました。女性の教育や人権の尊重はもっとも尊厳な課題のひとつです。その意味でこの間のアフガニスタン国内や世界での女性の権利擁護の声を集中的に集めてきました。
この立場は、アフガニスタンで生まれ育ちあるいはゆかりを持つ個人・個々人の立場に徹底してたつ、ミクロの観点です。それはアフガニスタン内部の古きもの抑圧するもの外部からの強圧に対する闘いや抵抗です。あるいは普遍的には、アフガニスタンという国家の枠を越えた、21世紀の国際的な支配システムとの戦いにまで至るかもしれません。

と同時に、アフガニスタン問題の本質に迫り、その解決の方向をさぐるため、アフガニスタン人の取り組みについて提言や論説の収録を進めています。現在はPDPA政権下のふたりの副大統領やアフガン人ジャーナリストに健筆をふるってもらっています。こちらではミクロの視点だけでなく、鳥瞰図的大所高所的マクロな視点からもアフガン問題を解明しています。

当ウェブの特徴のひとつは、アフガン問題を、現代の世界地図が示すアフガニスタンという国境線で区切られた領域だけの問題ではなく、アフガン問題は突き詰めればパシュトゥーン問題に他ならない、との視点で論を展開しています。「アフガンの声」、「世界の声」で紹介するアフガン人のデモや集会での主要スローガンは女性の人権を守れという声と、パキスタンを制裁せよ、という要求であふれています。日本の報道では、前者は大きく扱われますが、後者の扱いは小さいか主張されることはまれ。せいぜい、ターリバーンに対するパキスタンの支援に触れるくらいです。

しかし、国際的にみればターリバーンを創ったのも育てたのも内戦を指導したのも武器を与えたのもパキスタンであることは隠すことのできない事実として扱われています。

これまでアメリカ(およびサウジアラビア、西側諸国)は、アフガンに侵攻したソ連と戦わせるためにムジャヒディーン(イスラム過激派)にパキスタンを通じて武器および経済援助を行ってきたため、ムジャヒディーンやターリバーンを支援するパキスタンの扱いに苦慮してきました。

しかしアフガニスタンから完全撤退する際の撤退劇があまりにもみじめであったため、アメリカ国内でもバイデン政権に対する責任追及が始まっています。撤退作戦の不始末だけでなく、パキスタンとの関係にまで追及はおよび、パキスタンを制裁すべし、との声が共和党には出てきています。先週は上院の22名の議員が、タリバン及びタリバンを支持する国、したがってパンジシール渓谷でのターリバーンの攻撃に加わったとしてパキスタンにも及ぶ国ぐにへの制裁を要求する法案を提出しました。

パキスタンのイムラン・カーン首相はパシュトゥーン族の出身です。彼は国連演説でもターリバーンを支持する演説をし、アフガンターリバーンとの仲を隠さなくなってきています。しかし、その一方で、アメリカに屈従してきたこれまでの言い訳のつもりか、アメリカを「恩知らず」と批判するなど苦しい発言をはじめています。

ターリバーンのアフガン全土掌握はパキスタンの完全勝利に見えますが、それはいままでとは異次元のさらに苦しい矛盾のるつぼにパキスタンがはまり込むことになるのかもしれません。

大局的に見た場合、つぎのような困難がパキスタンを襲います。

下記の、パキスタンを中心にした地図を念頭に置いて考えます。

・印パ関係
パキスタンはインドと3度戦争し、3度目は東パキスタンを失い(バングラデシュの独立)、さらには恒常的にカシミール問題をかかえ常にインドとの戦争の危険におびえています。パキスタンはインドとアフガニスタンに挟まれ縦に細い国土のため、インドから攻め込まれると防衛が困難です。そのため、軍は背後のアフガニスタンを後方陣地として確保するため親パキスタンにしておく政治的軍事的な影響行使を行ってきました(縦深戦略)。ターリバーンをつかってパシュトゥーン主体の親パキスタン政権を作ることには成功したが、パシュトゥーン族(ターリバーン)や他民族の全アフガン勢力はいまのパキスタンとの国境とされているデュラント・ラインを国境として認めていません。対インド関係だけでなくこれがパキスタンの頭痛の種のひとつです。

・いまだ不確定なパキスタンの国是
パキスタンの民族構成は2017年のThe World Fact Book(WFB)によればパンジャブ系(48%)、パシュトゥーン系(15%)、シンド系(14%)、バローチ系他(23%)。宗教は97%がイスラム教となっています。1947年の英領インドからの分離独立時の国是はイスラム教ですが、国の成り立ちはまったく人工的なもので、国名にそれがあらわされています。P(パンジャーブ州)、A(アフガン)、K(カシミール)、S(シンド州)、TAN(バローチスタン)。この5つの州からパキスタンは構成されます。国名決定段階からB(バングラデシュ)が入っていなかったのは運命的ではありませんか。さらに国の行政から独立した連邦直轄部族地域(アフガン族=パシュトゥーン居住区)があり、イスラム教にもいろんな宗派がありまとまりを欠いています。パキスタンの政治は選挙と軍のクーデタが繰り返されており、疑似民主主義国家、破綻国家と呼ばれ、イスラム過激派の温床となってきました。ターリバーンが勝利したため、いま、パキスタン内のイスラム過激派が勢いづいています。

・パキスタン首相、ISIのジレンマ
現在の首相イムラン・カーン氏がパシュトゥーン人であることに象徴されるように、パシュトゥーン人はパキスタンの政界や軍、官僚上層部にも進出しています。総人口比では15%と言われていますが、軍部やISIではそれ以上、20%を超えるのではないかと言われています。ISI(軍統合情報局)がアメリカの武器と資金でムジャヒディーンを育ててきたように、内部対立が激しく非パシュトーンが多いムジャヒディーンを見限ってパシュトゥーン人主体のターリバーンを育成してきました。パキスタン政界でのパンジャブ人、シンド人などのなかには影響力を増大させているパシュトーンへの対抗意識も生まれてきています。パキスタンの政官軍内のジレンマが増大します。

・パキスタン内のパシュトゥーンと非パシュトゥーンの葛藤
パシュトゥーンも一枚岩ではありません。アフガニスタン内部のパシュトゥーン人の対立は、Sami氏の論説で詳しく論じられていますが、パキスタン内のパシュトゥーン人のなかでも、部族や氏族の対立があり、また、パキスタンの政官財軍に進出しているパシュトゥーンとアフガニスタンにいるパシュトゥーンとの一体化を望む勢力とがありいずれか一方に収れんできない葛藤を抱えています。つまり、パシュトゥーン人やバローチ人が一体となり独立を望めばパキスタンの領土は現在の半分以下となり消滅の危機に直面します。パキスタン領内のパシュトゥーン人やバローチ人は、独立に近い自治権は欲しても国を割ってまで、という選択を迫られるとパキスタン国民としての権利を失うのでひるんでしまいます。これは現代の国民国家システムでは解決不能に近い難題と言えます。

・イスラム主義者内の暗闘
ターリバーン運動ひとつとっても、アフガニスタンのターリバーン運動はパキスタン政府やISIは支持し援助していますが、パキスタンのターリバーン(TTP)は弾圧しつぶそうとしています。サウジアラビアと共同でムジャヒディーンを育成してきた歴史から、サウジアラビアの過激派やアルカイーダ、それらから派生したISなどさまざまな過激集団がアフガニスタンだけでなくパキスタンには存在しています。それらのイスラム諸過激派があるときは連携し、ある時は対立して争っています。そのような争いからパキスタンの政と軍は自由ではありえません

・パシュトゥーン内部の確執
アフガニスタン内部のパシュトゥーン人の対立、パキスタン内部のパシュトゥーン人の対立があります。社会の進歩や民主主義の浸透などに対する受容度に差があり、旧来のパシュトゥーンの伝統も影響を受け、パシュトゥーン内部の軋轢の原因ともなっています。米軍主導のアフガニスタン政府内でもカルザイとガニー両大統領派の争いはパシュトゥーンの2大氏族(ギルザイ族、ドゥラーニー族)の対立が反映していたとSami氏は論じています。

・タリバン内部の争い
いま本サイトで連載されている「米国アフガン占領20年の失敗―その原因」(Fateh Sami)で詳述されているように、カンダハールを中心とするアフガン民族主義派とパクティア州をルーツとし「カリフ」制を主張する過激イスラム主義集団でテロ強硬派のハッカーニ派の両派が競っています。対立が激化するのはこれからでしょう

・パキスタンとアフガニスタンのアキレス腱
いうまでもなく、デュラント・ラインです。これは両国にとって譲ることのできない境界線です。しかし、民族自決権を優先する思考では決して解決することのできない矛盾です。国境線を承認したうえで両国が国民国家をつくり(連邦制などの考えを駆使し)共存する姿勢に立たない限り永遠に解決できない課題です。

・ターリバーン政権の国際承認、国内経済建設
パキスタンはどうしてもターリバーン政権の国際承認をとりつけ、国際支援を導き入れたいとおもっています。そうでなければ、以前のように、サウジアラビアやUAEなどと少数でアフガニスタンの経済を背負うしかありません。ただし、20年前とは柔軟性を示しているターリバーンは前回時よりは承認国は増えそうです。しかしそうなればそうなったで、各国の思惑がアフガニスタンの地で交差し、課題と障害はより大きなものとなるでしょう。

以上、ざっと大局的観点からの今後のアフガン問題(パキスタン問題)を見ていく場合の視点を整理してみました。

以上の諸問題に加え、直接アフガニスタンに関わるプレーヤーとして、英米NATO以外に、周辺国であるイラン、サウジアラビア、ロシア、トルコ、中国、アフガン北部民族と同族のタジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンなどが絡んできます

美しく表現してユーラシア中心部での壮大なる叙事詩となることを望みますが、悲しいかな実際は血なまぐさいニュー・グレート・ゲームとなる公算が大きそうです。われわれとしては、そうならないことを祈りつつ、か細き声であっても声をあげ、見守っていきたいと思います。

【野口壽一】

 

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~007

 アフガニスタンとパキスタンは普通の国ではありません
(2021年9月27日 13:00)

今もさえる頭脳と視点

あの「忍者外交」で世界を驚かせたヘンリー・キッシンジャー氏は、失礼ながらまだご存命のようでした。98歳! ご長命であるだけでなく頭脳の鋭さ、視点の的確さに驚きました。

『courrier JAPON』(9月5日付け)に同氏の発言「アメリカはなぜアフガニスタンでの戦争に失敗したのか」が掲載されています。全文転載して読んでほしいのですが、3000字を超える長文で、著作権の問題もありますから、ほんの2点だけ引用させていただきます。(全文はここをご覧ください→https://bit.ly/3CP47WA)

何に驚いたかというと、マスコミでアフガン問題を論じる論者のほとんどが、アフガニスタン国軍は闘う意欲もなくターリバーンに各都市を明け渡した、となんの疑いもなく書いています。ところがキッシンジャー氏は、その俗論を「『アフガンの人々は自分たちのために戦おうとはしない』という現代のアメリカの議論は、歴史に裏付けられていない。彼らは一族のため、部族の自治のために、激しく戦ってきたのだ」と一笑に付していることです。国軍に士気がなかったのでなく実は、アフガン政府側のトップが、ターリバーンとおなじ一族・部族でターリバーンへの権力移譲を図って国軍を投降させたのです。このことは、本サイトでファテー・サミ氏が「アフガンの声」コーナーで徹底的に暴露しています。いま、パンジシール渓谷で抵抗をつづけているのはパシュトゥーン人ではなくタジク人が主体なのです。

さらに、ほとんどの論者がアフガン問題を地図上のアフガン国境内だけを見て論じているのにたいして、その視点を一言で退けます。いわく、「(米・アフガン共同の)軍事作戦は当初大きな効果を上げた。実質的にタリバンはパキスタンの聖域に逃れ、そこからパキスタン当局の一部の支援を得てアフガンで反政府活動を行ったのだ」と。ベトナム戦争で北ベトナムが南の基地になっていたのと同じ です。本サイトが紹介する<アフガン人の声><世界の声>が、パキスタンの侵略行為を糾弾し、国連や世界に対してパキスタンへの制裁を要求している現実をキッシンジャー氏はアフガン戦争の本質として的確にとらえています。

アフガンとはパシュトゥーンという意味

「アフガニスタン」という国名は「アフガン人の国」という意味です。アフガン人とはパシュトゥーン人のことです。「アフガニスタン」とはつまり「パシュトゥーン人の国」という意味です。アフガニスタンは多民族国家で、パシュトゥーン人以外にバルーチ人、タジク人、ウズベク-トルクメン人、ハザラ人などがいます。

アフガニスタン王国は1747年にパシュトゥーン人によって建国され、以来、2次のアフガン英戦争をへて1880年のアブドゥル・ラフマーン王の即位後、西洋をモデルとした近代化がはじまりました。(明治維新とおなじころアフガンでも近代化が始まった、とアフガン人が言うのはこの事実に基づいています)以後、1978年のクーデターと人民民主党による四月革命によって最終的に打倒されるまでほぼパシュトゥーン人の王が続きました。(1929年のタジク人バッチャイ・サカオの乱を除く)この間、1893年に英領インド帝国外相モンティマー・デュアランドとアフガニスタン国王アブドゥルラフマーン・ハーンとの間でデュランド・ライン条約(英領インド帝国の勢力境界線)が調印されました。この境界線はアフガニスタンをロシアとイギリスがいわゆるグレート・ゲームの緩衝地帯とするものでしたが、現実に存在するパシュトゥーン人とバルーチ人の生活圏を分断することとなり、現代のアフガニスタン・パキスタン紛争の原因となっています。
次の図はデュランド・ラインおよびパシュトゥーン人とバルーチ人の居住地域を表す地図です。(wikipediaより)

(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6e/Major_ethnic_groups_of_Pakistan_in_1980.jpg)

緑がパシュトゥーン人、ピンクがバルーチ人、茶色がパンジャブ人(パキスタンの多数民族)の居住地域を示します。パシュトゥーン人の居住地域が真っ二つに割かれ、バルーチ人地域がアフガニスタン、パキスタン、イランの3カ国に分割されていることがわかります。
パキスタン側のパシュトゥーン人は自らの居住地域における自治権を主張し、連邦直轄部族地域(旧FATA:2018年にKP週に併合)や北西辺境州(NWFP)としてパキスタン国民でありながらあたかも別の国であるかのような特権を享受しています。そしてこれら特別自治区がソ連にバックアップされたアフガニスタン人民民主党政権やアメリカや有志連合がつくったカルザイ・ガニー政権への戦争の基地となったのです。アメリカやサウジアラビア、パキスタンなどがPDPA政権に対して「宣戦布告なき戦争」をしかけるためパキスタン内のパシュトゥーン居住地域でムジャヒディーンを育成し、武器を与え、実際に戦争を指揮した、その行為がムジャヒディーンやアル・カーイダなどのテロリストを育て、パキスタンによるターリバーン創生につながり、今日までアフガン戦争を継続させたのです。アフガニスタンでの戦争が40年以上続いている、というのはこういう意味です。

パシュトゥーン人のふたつの顔

アフガニスタンでは国勢調査が行われていない(行える状況にない)ので、正確な数字は不明ですが、各種機関の推計に基づけば、おおよそ下記のように概算できます。
・アフガニスタンの総人口:3000万人
・うちパシュトゥーン人1300万人(43%)
・それ以外の人口:1700万人(57%)
・パキスタン領内在住パシュトゥーン人:2100万人
・パキスタン総人口:1億8000万人
本サイトで、ケシュトマンド氏やサミ氏が「アフガニスタンではパシュトゥーン人は多数ではない」と主張する根拠はここにあります。パキスタン領内の人口を加味すればパシュトゥーン人は圧倒的多数となりますが、アフガニスタン領内だけでみれば多く見積もっても43%でしかないのです。なのに、「アフガニスタンの国王」はいつもパシュトゥーン人で、ほんの一瞬(いわゆる北部同盟)が政権を取ったときにタジク人が大統領になったことがあるだけで、PDPAのときもカルザイ・ガニーのときもほぼすべてパシュトゥーン人がトップで、その他の少数民族は差別されたり抑圧されたり、時代によっては奴隷として売られたりしてきた歴史があります。
さらに重要なことは、パキスタンではせいぜい人口比12%でしかないパシュトゥーン人が軍人全体では20%近くを占め、ムジャヒディーンやターリバーンを育成・武装させ指揮してきたパキスタン軍統合情報局(ISI)幹部にしめる比率はもっと高いと言われているのです。当然議会や官僚上層部にも進出しています。2018年から首相をつとめ、ターリバーンを強力に支援し国家承認にも積極的なイムラン・カーン首相もパシュトゥーン人です。パシュトゥーン人は自らの民族的利益増大のためにデュランド・ラインを悪用してアフガニスタンとパキスタンというふたつの国を使い分けて利用していると言えます。 パシュトゥーン人の名誉のために言うと、パキスタンにはパシュトゥーンのリベラル組織もあります。パシュトゥーンタハフズ運動(PTM)がターリバーンを支援してアフガニスタンの不安をあおるイムラン・カーン首相に反対する運動を行ってきたのなどはその一例です。(https://bit.ly/3AOHiScほか)
(かつてパシュトゥーンには辺境のガンジーと言われた非暴力反英闘争の指導者ガッファル-カーンという偉人がいますが、その紹介はまた別の機会に)

過去と未来のせめぎあい

パシュトゥーン人はアフガニスタンを南北にわかつヒンズークシ山脈の南側で紀元前から遊牧や農牧で生活をしてきた歴史ある民族です。イスラム教の受容も古くパシュトゥーン人がもともともっていた民族の伝統習慣とイスラム教を融合させた独特の統治スタイルをもっています。パシュトゥーンワリという習慣法やジルガという合議システムをもち西洋的三権分立の民主主義とはことなる統治方法で長い間生きてきた民族です。 パシュトゥーンワリは復讐や男尊女卑それに残酷な刑罰などを肯定する遅れた「掟」のように喧伝されていますが、なんのことはありません、日本だって明治維新のころまでは大して変わりません。仇討、幕末のテロ合戦、ハラキリなど。維新後7年たっても政敵の首をはねてさらし首にする(大久保利光が江藤新平を)なんてことが平気で行われていました。みせしめです。ターリバーンの公開処刑やむち打ちなども本質的にはおなじことです。
ただし、アフガニスタンは世界とつながっています。19世紀の終わりころから西洋風近代化の波は何度も押し寄せてははねかえされしつつ変革の記憶は社会に刻まれています。最近では1980年代の人民民主党政権下、また、腐敗にまみれた政権だったとはいえカルザイ・ガニー政権の20年間、合計少なくとも30年間、都市部では自由化と民主主義の時代が存在しました。その時代に育ったアフガン人も少なくはないのです。そのうえいまはネット社会。アフガニスタンの山奥にもスマホでホットな情報がとどきます。
これまではソ連やアメリカ・ISAFという外国勢力=異教徒の支配に対抗する戦争(ジハード)の大義名分との戦いがあり社会の近代化がまともに取り組まれる環境ではありませんでした。しかしターリバーン支配となったこれからは、異教徒という邪魔者はいなくなり、自分たちの闘いとして、アフガン人が手にしようと苦しんできた国民的統一と近代化とあらゆる差別(性別、民族、貧富、都市と農村の格差)の克服と、なにより生存への闘いが、始まる のです。当然にも、テロ容認の危険な国家ともいわれてきたパキスタンの民主化も視野にはいらざるをえないでしょう。
アフガン国内や国外での闘いの現在は、未来を手にするための過去とのせめぎあいなのではないのでしょうか。

(野口壽一記)

 

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~006

 アフガン人はどうしてあんなにアメリカを批判するんだろう?
(2021年9月20日 0:00pm)

 

このサイトを韓国で見ている若い友人(日本人)とチャットしました。彼とは共通のアフガン人の友人がいます。

「パキスタンがあんな形でアフガニスタンを間接侵略 しているなんて知らなかった。アフガン人がパキスタンを批判するのはわかるけど、どうしてアメリカをあんなに批判するんでしょうか。いくらアフガン政権や軍部が汚職まみれで腐敗してたといってもアメリカを批判するのはわからない

「アフガン人同士を戦わせて自分らはドローンで爆撃。アメリカ兵の犠牲も多かったけど圧倒的な犠牲者はアフガン人。しかも誤爆で民間人の犠牲者はケタ違い。そこにタリバンがつけこんだんじゃないかな」

「でもアメリカを非難するのはお門違いじゃありませんか。経済支援だってしてたんだし、ある程度民主化は支持されてたはずだし。アメリカはもっとうまくやれなかったんだろうか

「自己の力を過信しすぎたんじゃないかな? ムジャヒディーンやパキスタンを利用してソ連をやっつけた。味をしめた。戦争は最大のビジネス。ついでにイラクまで攻め入って中東支配を盤石のものにしようと調子に乗ったんじゃないか 。一極超大国時代だ、と。」

「ソ連は体力が尽きて撤退した。ついでに国まで亡びたけどアメリカはシェールガスが採れるようになって中東の石油に依存しなくてもよくなった。撤退はソ連のようになる前に、ってことですかね

「オサマ・ビン=ラーディンを殺したときに国際世論に反テロ戦争勝利をアピールしてすぐ撤退していたらこれほど傷つくことはなかったんじゃないかな」

日本でうまくいった占領政策の成功体験を引きずっていたんですかね 。アフガニスタンやイスラム原理主義を甘く見た? ちなみに韓国では、ベトナム、アフガン、次は韓国だ、と右派が恐怖を煽ってます。左派の望む通り米軍が撤退するとああなるんだと。大統領選挙前なので色々騒がしいです」

「アメリカは世界舞台で赤っ恥をかいたわけだけど、日本や韓国に危機感をあおる狙いがあるね。対中国包囲網を作りたいんで。したたかなアメリカは転んでもただじゃ起きない

「示し合わせたように北朝鮮がミサイルをぶっぱなして、緊張激化ですよ。できすぎのようで怖い」

「日本だって総裁選で〝領土を守る〟なんて勇ましい声が大きくなってる。先月はイギリスの航空母艦クイーン・エリザベスやオランダの艦艇も参加して沖縄沖で米日英オランダ合同演習をしたね。とたんにきな臭くなってきた。アメリカのアフガン撤退と東アジア・東南アジア情勢は無縁じゃない」

「インド太平洋構想クワッドとかもありますよ。日米印豪四カ国で中国を締め上げようというわけでしょう。昔日本がABCD包囲網を打ち破るんだ、大東亜共栄圏だ、とかいって無謀な戦争をやったんだけど、こんな露骨な中国包囲網の挑発に中国が乗らなきゃいいんですけどねぇ

「中国は一帯一路をぶち上げて包囲網を切り裂こうとしてる。アフガンが親中になればもともと親中のイラン・パキスタンをつないで広大なユーラシアの〝中原〟に打って出ていける。太平洋にも出られれば米との世界分割も夢じゃない。チャイニーズ・ドリームだ」

「なんだか三国志やグレートゲーム現代版みたいな話になってきましたね。でも、現実味があるだけになおさら怖い」

「核兵器時代だからな。中国、北朝鮮、インド、パキスタン、それに米・英と核保有国がそろってる。油断はできないよ」

「日本の核武装も議論されてるんでしょ? 韓国じゃ北が持ったから切実です。核戦争になったらアメリカが守ってくれるはずない、と」

「日本でも核武装を唱える人がいるけど、核保有国同士の戦争になったら世界は終わり。1、2発ですむ話じゃないからね。中国は、毛沢東が、アメリカは張り子の虎、核戦争になっても人口も国土も広い中国は生き延びる地域がある。そこからまた国を再建すればいい 、と言った国だぜ。そんな国と日本が核戦争したらどうなる? 日本全滅、中国半滅。話にならない。だから核戦争にならないよう、核保有国らと膝を交えて議論して解決するしかないのさ」

「話がずれて随分大きくなってしまったけど、話を元に戻すと問題はアフガンの平和と発展 ですよね。発展の前に女性の人権、特に教育を受ける権利の実現や目先の生活問題の解決がまず先ですよね」

冬を前にして飢餓の心配もある」

「困難を抱えた後進地域を先進国が援助する必要、いや義務があるんじゃないですか」

「その通り。そのためにもターリバーンに国際常識 を受け入れさせなけりゃなぁ」

「できますかね」

「歴史を中世に引き戻すことなどできないから、アフガン人がその気になれば、時間がかかっても必ずできると思う。辛抱強く見守って、応援していく必要、いや、君が言うように義務なんじゃないか」

「ネット時代になって世界中がリアルタイムでつながりました。遠く離れててもこんな議論が簡単にできるし、世界中で戦っているアフガニスタンの人たちの活動にも参加できる。素晴らしいことだと思いますよ」

「そうだね、お互い、注意してクズ情報に惑わされず頑張りましょう」

(野口壽一記)

 

 

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~005

 9.11、20周年、ターリバーンは、ネズミ小僧かゴエモンか、はたまたロビンフッドか
(2021年9月11日 10:30pm)

 

ニュースレターを出し始めてあるメールをいただきました。

「タリバンはナチスのような悪ですか。そんな悪を育てたのはアフガン人自身じゃないんですか。タリバンを利用して儲けていたのはガニー政権やその政権に巣くう連中、それら全体を利用していた外部世界じゃないんですか」

まったくその通りです。だからヘラートの女性が書いた詩「ガニーを逮捕せよ!」を全文、転載し紹介しました。憎しみがほとばしり出ていました。ヘラートの都市部住民だった彼女ですらそのような感情をガニー政権にいだいています。

しかし、農村の貧困と因習に縛り付けられ、乾燥した枯れて貧弱な土地にしがみつき、つねに飢餓の恐怖にさいなまれながら生きている農民にとってターリバーンは、私に言わせれば、悪銭をしこままため込んで豪奢に暮らす豪商から金品を回収して貧民に分け与える鼠小僧か、石川五右衛門のような義賊か、はたまた悪代官を懲らしめるロビンフッド のように、思えたに違いありません。しかもソ連をやっつけた後に利権争いの戦乱でかえって国をズタズタにしたムジャヒディーンをかたずけてくれたのです。ターリバーンのみじめで汚い身なりや在りようもそんな農民にとっては自分自身の写し絵と映ったのではないでしょうか。

アメリカがやってきて、西洋風民主主義を押し付け、法による統治などと叫び田舎に持ち込み、隣とのいざこざひとつ片づけるのに、読めもしない文字で書類を書かされたり、国民の意思表示だとわけのわからない箱に紙くずを入れさせられたり、不便な生活を強いられるより、昔ながらの常識で、悪い奴を一喝してもらって即座にもめごとが片付く方がどんなにいいか。しかも、国の軍隊だとかのたまわりきれいな軍服で着飾って、幻の兵隊の給料を懐に入れる上官をやっつけてくれるんだからこんな痛快なことはない。
しかも、アメリカやNATOやニッポンの金持ちに支援されたアフガン政府の歳入のなんと半分はそれらの国からの支援金。また外国軍を取り巻いて戦場ビジネスで儲ける外国人や、その金に群がってブイブイ言わしているアフガン人。しかもソ連やムジャヒディーンらにひどい目にあわされているときは外国に逃げていて、カルザイが出てきたら一緒に舞い戻ってきて大儲け。戦争が続けば続くほど儲けが増える、と思っていたのにパトロンさんたちが持たなくなって逃げかえることになった。ざまあみろ、と言いたい。しかも、都会の連中は西洋かぶれていい目をみてる。妬みや怨嗟のまとじゃいと、思うひとが相当数いるんです。たとえそれが、中世の暗黒や無知蒙昧の、半封建部族社会の民といわれようと。女に教育は無用だ、結婚は家と家のものだ嫁も婿も父親が決める、といった社会でも。

でもね、江戸時代や明治維新のころの日本だってそんなものだったんですよ。というより、団塊世代の小生だって、そんな時代の名残のころ。小中高と同じ学校で、小生といつも学年1、2位を争っていた(ホントかな?)成績優秀で生意気な女の子、高校生になったら女子だけのクラス。親には「オナゴは(イナゴじゃありません、鹿児島弁で〝オンナ〟の意)大学なんかいかんでよか(行く必要ない)」援助してもらえず涙。しかし偉いのは、大人になっても勉学の意思をすてず、50過ぎて東大入試を正面突破、4年じゃもったいないと7年間も学生生活を満喫し卒論も仕上げて無事卒業、マスコミの寵児になりました。性、年齢、職業(自営業)、乳がん手術といくつもの障害を乗り越えましたから、当然です。

小生が〝Web Afghan in JAPAN〟を始めようと思ったのは、もうアメリカはもたないな、次はタリバンの世になる、75年のサイゴンのような事態の後、アフガンでは本当の民主化の闘いが始まるに違いない、と思ったからです。それを応援しなくっちゃ、と。9.11が過ぎて、アメリカがアフガンに乗り出してカルザイが出てきて、日本に来た時、この人たちは日本に集金に来てるんだな、と直感しました。(このあたり、カルザイ氏やアブドゥラ氏らとの面会が設定された時のエピソードは「編集室から」に書きました。)そのあとも、アフガン大使館に呼ばれたことがありますが、アメリカ大使館のすぐ近くに日本の金で作られた豪邸には行きたくないと固辞しつづけました。

このサイトを立ち上げたのは、アフガン問題は実は日本問題だという認識があるからです。これまで、アフガン問題の大きな視点からの問題点、デュラントライン問題、パシュトゥーン問題、いや実はパキスタン問題と論じてきましたが、私の認識の根本には、民主主義、人権、民衆の権利、の視点があります。

アフガニスタンに最初に行ったのは、ソ連がPDPAに軍事支援を始めた1980年でした。当時の日本では社会主義を支持する人や組織でさえ、ほんの一部を除いて、国中がソ連やアフガンを締め付け叩きのめそうとしていました。日本共産党などその最先頭で口汚くののしっていました。私も〝カルマルの手先〟とやられました(笑)。そのころ私は、アフガニスタンのように資本主義以前の遅れた国が社会主義に進むためには、腐った鯛でもソ連社会主義世界体制の支援を受けなければ無理であるし、軍事的経済的社会的な全面的な支援があれば可能である、と信じていました。(そんな人間がいたと信じられる人は少ないでしょうね(笑))(そのうち詳しく語らせてください)。

しかし、(中略)、80年代に10年間アフガニスタンと付き合う過程で、進んだ(と思われる)社会システムを外から持ち込んで定着させることは無理だと悟りました。幸せは輸出も輸入もできないのです。しかも、アフガニスタンはイスラム教の国でした。無宗教の国で「科学」と「真理」は人間にかならず理解される、と素直に信じていたころです。若さですかね。そのころは養老先生の『バカの壁』はまだ出版されてませんでしたから。

権利、人権、人間らしい生活、それらすべて、幸せの原点は、そこにいる人びとが自ら闘いとるものであることを知りました。民主主義からもっとも遠いと思われているアフガニスタンで民主主義の本質を教えられた気がしました。

それまで、「民主主義は闘いとるものである」「主張し闘わなければ権利は実現しない」、と教科書の知識で理解していました。日本の民主主義は憲法も含めGHQによって与えられた民主主義で、ニセモノなのだ、と。

頭でっかちでしたね。だから、いま、カーブルでターリバーンの銃剣のまえでもひるまず立ち向かう女性の姿に本当の民主主義を見るのです。ソ連軍が支援した80年代のカーブルではブルカを被らない女性がたくさんいましたし、教育現場はほとんど女性教師でした。男は戦場。男抜き花嫁だけの結婚式に立ち会ったこともあります。
PDPAの10年間もアメリカ主導の20年も無駄ではありません。ターリバーンが引きずりだした闇の部分もありましたが、民主主義の素晴らしさを知る人びとも増えたのです。戦争ばかりだった40年間とはいえ、ターリバーンが復権してからの女性たちの闘いぶりは光といえるのではないでしょうか。これからのアフガン人は、自分たちの権利は自分たちで闘いとらなければ、誰も与えてくれません。

日本人はそのような闘いをしたことがあるでしょうか。
これからのアフガン人に学ぶべき点は多いと思います。

(野口壽一記)

 

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~004

 パキスタン軍、ドローンを使ってパンジシールを爆撃 
(2021年9月6日 10:30pm)

昨夜(9月5日)、タリバンに対抗して戦っているパンジシール勢力(NRF:国民抵抗戦線)に対してパキスタン軍のドローンによる爆撃が行われたそうです。複数の現地情報によればアフガンの有名なジャーナリストのファヒム・ダスティさん(写真)が犠牲になりました。

彼は捕虜にしたパキスタン系タリバン兵士からの聞き取りをしていたそうです。
そのほかにも犠牲者がでているもよう。
爆撃のなまなましい動画がフェイスブックで拡散されています。
https://www.facebook.com/Khalilzad-buidaqi-104028041616192/
マスメディがほとんど報道しませんが、アフガン問題はアフガン国境内の問題でなく、パシュトゥーン問題、もっと正確に言うとパキスタンがパシュトゥーンと組んだアフガン支配の事件にほかなりません。

パンジシール渓谷の国民抵抗戦線(マスード派)への5日の爆撃はパキスタン軍のドローンによるものでほぼ間違い無さそうです。パンジシールに逃れたサレー第一副大統領は国連に調査要請を発したと報じられています。インド系のメディアが盛んにパキスタンによる爆撃の事実を報じています。
https://bit.ly/38MbH7a
パキスタンによる、ターリバーンを使った代理戦争だけでなく、あからさまな侵略行為は今後国際的にも問題になりそうです。もしこのまま表ざたにされないとすれば、パキスタン軍によるパンジシール爆撃は米・NATO撤退シナリオに組み込まれた陰謀の可能性もあります。

真実を広めてください。(野口記)

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~003

 カーブル陥落3週間 (2021年9月1日 10:00am)

● カーブルが陥落して3週間目を迎えた。アメリカやNATOなどの軍隊が撤退してから2日目。

● アフガニスタンは再び中世の暗闇にもどるのか、それとも20年前のアナクロニズムは賢くなって帰ってきたのか、それとも・・・

●世界中が固唾をのんで見守っている。

●なぜこうなったのか? 2001年、タリバンを打ち倒してからの20年はなんだったのか? 壮大な虚無? 2011年には事件の元凶とされた親玉は殺害されたはずなのに。

●アフガニスタンの罪なき人々にとっては血みどろの虐劇。世界の警察官をやめたはずのアメリカにとっては壮大な悲喜劇。かき回された中東/中央アジアの人びとにとっては大迷惑

●アフガニスタンを人工的に創られたアフガニスタンの囲いのなかだけで考えている人びとには見えない、極東/東南/南アジアとの連関と緊張の伝播

●アフガン国内の事態は周辺諸国の諸矛盾の反映。ターリバーンを構成するパシュトゥーン人はアフガンとパキスタンにまたがって存在し、パキスタン軍部にはパキスタン国民の15%以上を占めるパシュトゥーン人が高い位置を占め、ターリバーンを創り、後押ししている。彼らの存在の脊髄であるイスラム教はアラブの過激なイスラム主義と連携/連動しつつ軋轢相克軋む関係。アフガニスタン問題の大きな要因は宗教的に不安定な人工国家パキスタンの未成熟の反映。(本Web「アフガンの声」欄参照)(本Web「研究/提言」欄参照)

●アフガニスタンとパキスタンを隔てる係争国境・デュランドラインの存在。インドとの戦争にそなえアフガニスタンを後方基地とするパキスタン軍の軍事戦略(Strategic Depth=従深戦略)にもとづく同ラインの悪用。(本Web「研究/提言」欄参照)

●アフガニスタンの内部は、大英帝国との独立戦争に勝利し西洋化をめざしたアマーヌッラー・ハーン以来、近代化とイスラム主義/イスラム文化との間の動揺の100年。ターリバーンはその歴史の中の何度目かの揺り戻し

●人権外交をかかげるアメリカは〝人権の擁護〟でなく自国利益の擁護に〝人権〟の大義名分を利用しているだけ。新疆ウイグル地区の〝人権〟もアメリカ利益擁護戦略のテコのひとつ。アフガニスタンの人権はアフガン人自身が獲得し守るしかない。今度の件でアフガニスタン人自身が一番自覚している。それが8月28日の全国35カ国でのアメリカ・タリバン一斉抗議運動によって示されている(本Web「アフガンの声」「世界の声」欄参照)

アフガン事件は、台湾・尖閣問題(つまりは対中問題)と直結している。日本も台湾も自主自立の精神でこれに対処しなければならない。アフガニスタン事件は、日本人への自覚を迫っている。それは、軍事力の強化によって果たせるものではない

● アフガン問題を日本問題と読み替えて本Web(Web Afghan in JAPAN)をご覧いただけると幸いです。

(野口記)

 

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~002

 カーブル緊急報道 (2021年8月16日 10:00am)

アメリカ軍の完全撤退を受けて、早晩、ガニー政権は倒れ、ターリバーンが再度アフガニスタンを支配し内戦は継続、アフガニスタン情勢が再び三度国際政治の最前線に躍り出る、との判断で2カ月前、このサイトの立ち上げを開始した。米バイデン大統領は撤兵をくりあげて8月末との期日を発表した。それまでにグランドオープンすべくWeb制作作業を進めてきた。だが、われわれの作業スピードをはるかに超えてガニー政権の逃亡とターリバーンのカーブル入場が実現した(8月15日夕)。
この間の事情は当サイト「アフガンの声」でFateh Sami氏が喝破しているように、アメリカ・パキスタンが演出・仕組んだものであり、コインの裏表に過ぎないガニー政権(ガニー/カルザイ/ハリルザド三人組)とターリバーンのパシュトゥーン人プレーヤーが演じる陰謀劇である。それは20年前への逆戻りのように見えるが、人権と民主主義の観点からは中世への逆戻りである。
しかし、一見、中世の闇が現代を覆うように見えるこの事件は、アフガニスタン周辺だけでなく、イスラエル・パレスチナまでのシリア・イラクをふくむ中東全体をさらに不安定にする要素となる。そして今回注目しなければならないのは、ターリバーンは上海協力機構の一員として中国・ロシアとも連携して動くことである。しかしこの関係は呉越同舟であり、今までのアフガニスタン・パキスタン問題にロシア・中国がふかくインボルブされ、これに従来の戦火を交えている印パ、印中対立が直結することになる。アメリカの狙いは、アフガンで転んでもただでは起きず新疆ウイグル問題を持ち出し中国を西と東と南からゆすぶろうとするところにある。アフガニスタン問題が日本から遠い問題でなく、直結するとわれわれが判断するゆえんである。
アフガニスタンでの宣戦布告なき40年戦争はこれで終わるのでなく深層地震のようにもっと地下深くから地球全体を揺るがす大地震に発展しかねない。
アフガニスタンをめぐる情勢を油断することなく見つめ続けなければならない。

(野口壽一記)

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~001

 なぜ今またアフガニスタンなのか? 

(2021年7月4日)

名探偵シャーロック・ホームズの相棒「ワトソン君」も従軍したアフガン英戦争。南下を企むロシアと、それを阻止してインド利権を死守せんとするイギリスとが激突する「グレートゲーム」の戦場として世界的に有名です。中央アジアの十字路、中心、ハートとも呼ばれるアフガニスタンは古代から周辺諸国諸民族の抗争の場でした。超大国の世界支配の野望がせめぎあうホットポイントにされつづけてきたのです。グレートゲームは現代にも引き継がれました。

1980年代のソ連の進駐、90年代のパキスタンやアラブの息のかかったイスラム原理主義勢力の侵入、2000年に入ってからのアメリカと欧州軍の侵攻。パキスタン、イラン、トルコ、ウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタンなどとアフガニスタン国内の民族的つながりが引き起こす内部対立と混乱。アフガニスタンは最近の半世紀の間も内戦が絶えず、国民生活は改善、進歩どころか戦乱と流血、硝煙と血の匂いに呪われた日々がつづいてきました。

アメリカは、2021年9月までにアフガニスタンから軍隊を完全に撤退させると表明しました。本来なら喜ぶべき事態なのですが、アフガニスタンの内部事情をみると、むしろ混乱がさらに増すのではないかとの懸念が深まります。地政、経済、資源をめぐる周辺諸国の「グレートゲーム」の暗闘が国内諸勢力に影を落としています。

そのような状況にあってアフガニスタンの人びとは、アフガニスタンという難しい地域で国家的な統一を取り戻し平和と発展を目指すにはどうすればよいか、真剣な議論を展開しています。私たちはアフガン人の前後左右上下硬軟色とりどりの声に耳を傾けたいと思います。

ひるがえってアジアの東端を見ると、英露がアフガニスタンでグレートゲームを展開していたころ、ユーラシア大陸最果てのさらに離れ小島にあって、日本は露英米仏独のグレートゲームに巻き込まれました。しかし、幸か不幸かアフガニスタンのような民族的複雑さを背負わず、超ハードな中央集権国家の道を歩み、グレートゲームの被害者になるのでなく、あろうことか、ワン・オブ・ザ・プレーヤーズとなってゲームに参戦し、結果、悲惨な敗北を喫してしまいました。アフガニスタンの人びとはアジアの西と東で同時代に生起した対照的な歴史をよく知っており、自国と日本を比べます。「アジアで自力で独立を勝ち得たのは日本とわが国だけだ。なのになぜ、現在のような違いが生じてしまったのだ」と。

明治維新後、西洋に拝跪した日本が歩んだ道は中央集権的軍事独裁封建帝国主義路線でした。第2次世界大戦後、その道は「 軍事独裁+外資 」の方程式に姿を変え韓国や台湾、東南アジア諸国に引き継がれ、一定の成果をあげました。現在は最後のランナーのひとりとして中国がその方程式をもちいて頂点に立ち繁栄を謳歌してい(るように見え)ます。しかし、内部的に異なる多くの民族をかかえ周辺諸国との強い血縁的宗教的つながりを持つ複雑で多様なアフガニスタンにとってその道を選択するのは困難、むしろ不可能に違いありません。

一見、日本はアフガニスタンとは対極にあるように見えますが、今後を考察すると、各種格差が拡大し多様な矛盾と意見が錯綜する複雑な社会へ変貌しつつあります。米中というスーパーパワーのつばぜり合いの狭間で、かつてのようなファッショ的超中央集権的軍事国家をめざしていけるのかどうか、国家と社会の在り方が問われています。遅れているように見えるアフガニスタンですが、実は、アフガニスタンで〝平和と進歩を求める人びと 〟は分断を克服して多様性を認め合う統一した「邦(くに)」と社会の在り方を求めて現代世界の最前線で戦っているのだ、ともいえるのではないでしょうか。

私たちは、このような理由から、アフガニスタンをめぐるファクトとディベート に注目します。

さらに、日本人のわれわれにとっては、もっと切実で逃れられない直接的な危機があります。それはアフガニスタンからの撤退を決めた米国大統領バイデン政権の世界戦略です。米国政府はアフガニスタンを手放して単純にタリバンにその地位を譲る、と考えてはなりません。目下、中国とロシアを主敵とするアメリカ政府はアフガニスタンを内戦化し長引かせロシアと中国を泥沼におびき寄せ、はまり込ませようと考えています。もしそうなればアフガニスタンの戦乱は収まらず、世界はますます不安定化し、日本に住むわれわれにも多大な困難が背負わされます。危機の由来と現状を知り、日本人としてなにができるのか考えたい、これが、本サイトを急遽立ち上げたもうひとつの理由です。

このサイトをご覧になった方のご意見やご協力(特にペルシャ語に堪能な方)を切に望みます。よろしければメールマガジン(無料:随時発行)をお申し込みください。アフガニスタンの最新情報や分析、シルクロード諸国の文化などについての情報をお届けいたします。

(野口壽一記)