編集室から

==========<金子 明>==========(2022年5月16日)

(Fawzia Koofi氏 近影)
アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第5弾。ファウジアがカーブルで過ごした「最も幸せな子ども時代」の3年間(1986年~1989年)とはアフガニスタンにとってどんな時期だったのか。今回はまず巻末の年表を確認する。

1986年:「米国がムジャヒディーンにスティンガーミサイルの供給を開始。ソ連の攻撃ヘリを撃墜するために使われる。ソ連が後押しする政権のトップはバブラク・カルメルからモハマド・ナジブラーに交代。」
1987年:「アフガニスタン、ソ連、米国、パキスタンが平和協定に調印し、ソ連軍が撤退を開始。」
1989年:「ソ連軍の撤退が完了。しかしムジャヒディーンがナジブラーを倒そうと攻勢に出て、内戦は継続。」

こうした流れを経て1990年代が始まった。今回紹介する第5章「再び村の少女」で、ファウジアは16歳となっている。休みを利用して母親とバダクシャン州の州都ファイザバードに来ていたとき、ラジオが事件を伝えた、「国外逃亡を図ったナジブラー大統領を警察が逮捕した」と。翌日、ファイザバードを囲む山々で銃撃音がこだました。撃ち合っていたのは政府軍とムジャヒディーン。火器で勝るムジャヒディーンは、その残虐さも手伝い政府軍を圧倒した。そしてわずか2日後に新政府を打ち立てた。

山から降りて役場を占拠したムジャヒディーンの姿はファウジアを驚かせた。「長年、山岳地帯のキャンプで、わずかな食料を分け合い、毎日戦いに明け暮れていた彼らは、兵士らしい素敵な制服姿ではなく、ジーンズにスニーカーという身なりだった。」

娘を持つ親たちはレイプを怖れて子どもを学校にやらなくなり、ファウジアも自衛のためブルカをまとった。翌日カーブル空港が閉鎖され、彼女はファイザバードの叔母の家に足留めされた。ラジオが「学校は開いている、女子も登校せよ」という新政府の檄を放送し、ファウジアはファイザバードの学校に通うことになった。

1か月が過ぎた頃、一人のムジャヒディーン戦士が叔母の家の戸口に現れた。ナディールという名の異母兄で、ファウジアの母親にとっては、彼がロシア兵と戦うと告げてクーフ村を出て以来15年ぶりの再会だった。ナディールはクーフ村への軍事物資の補給を監督する指揮官になっていた。彼の地位は家族の安全を守るのには十分だったが、たまたまファウジアを見初めた「ファイザバードにいる兵士が彼女を強制的に妻にすることは拒めない」ため、町から逃げ出すことを提案した。

避難場所はヤフタル地区の村にあるナディールの家だ。彼はその日のうちに2頭の白馬を調達し、2人でファイザバードを後にした。初日の夜、泊めてもらった村でファウジアはカルチャーショックを受ける。「村の女性と話すうち、彼女たちの手の汚れに気づいた。長くきつい畑仕事で泥にまみれ、ろくに風呂にも入っていない。僻地の貧農が着る粗末な服。驚いてはいけないと思いつつも、時間を遡ったような感覚を拭い去れなかった。」

こんな体験をしながら、馬の背に幾日も揺られてたどり着いた村で新生活が始まった。テレビもラジオも学校もなく、夕食後7時には床につく。茹でた肉とナーンだけの素朴な食事はやがて喉を通らなくなり、体重が減り始めた。ふと耳にしたカーブルに残る兄ムキムの殺害の噂は彼女の心をひどくかき乱した。

ファウジアが村で約1年を過ごしたころ、カーブルの情勢が安定してきた。そこでファイザバードを越えて一気にカーブルにいる兄のもとに戻ることになった。ファイザバードから空路クンドゥスへ。そこで母親と合流し、カーブルまでは約300キロのバスの旅だった。その道は険しく、今でも有名な陸の難所である。夕方になってやっとカーブル近郊までたどり着いた。

待っていたのは大渋滞。AK47をかついだ兵士がバスに乗り込み運転手に告げた、「新政府の首相にコヒスタニ司令官が選ばれた。その車列を通すため道路をすべて閉鎖している」と。ソ連時代でもこれほど大がかりな道路封鎖はなかった、要人の警護にそこまで気を遣うのか、とファウジアはムジャヒディーンの政治力をいぶかった。

兄は首都警察の長官に出世していた。ソ連が開発した高級団地群の一画に暮らしており、母子はそこへ身を寄せた。歓迎した家族の中にムキムの姿はなかった。そして、ファウジアは彼が何者かによって殺されたと知った。「わたしたちは皆泣き崩れた、どうして?と。どうして、こうも善良で強靱な若者が、こうも卑怯な手口でわたしたちから奪われたのか?わたしたち家族の最も明るく輝く星が、またひとつ逝ってしまった。」

最後に、この間の年表を確認しておく。
1991年:「米国とソ連が、それぞれムジャヒディーンとナジブラーへの軍事援助の停止を同意。」
1992年:「抵抗勢力がカーブルに迫り、ナジブラーが失墜。民兵たちは互いに覇を競う。」
1993年:「ムジャヒディーンの各派による新政府内で、タジク人のブルハヌッディン・ラッバーニが大統領就任を宣言。」

こんな時流の中で、「村の少女」から再び首都カーブルに戻ってきたファウジアは、最愛の兄の死を悼む間もなく、内戦のまっただ中にその身を置くことになる。

 

==========<野口壽一>==========(2022年5月16日)

5月10日バイデン政権はウクライナがらみで「武器貸与法」を成立させた。ちょうどそのとき『誰が第二次世界大戦をおこしたのか』(渡辺惣樹)の「武器貸与法」の章を読んでいたときだったので驚いた。1941年にアメリカがイギリスに当時の金で310億ドル、ソ連に110億ドル分の武器貸与を行った、と書いてあった。アメリカのこの決断によって、ナチスドイツに追い込まれていたイギリスとソ連は息を吹き返し、反転攻勢に転じたのだった。特に、レニングラードまで攻め込まれて息絶え絶えになっていたソ連にとっては「壁紙まで煮て食べた」というエピソードまである900日にも及ぶ都市包囲をはねのける起死回生の決定打となった。
渡辺本によると武器貸与法とは「アメリカ防衛に役立つと考えられる場合には外国政府に、旧式新式を問わずあらゆる武器を、ほぼ無制限で供給できる権限を大統領に与えるもの」。今回のバイデンのものと同じである。この支援を要請していたチャーチルの言葉が絶妙だ。「我々は絶対にくじけないし、闘いに負けない。ただし、そのための道具(武器)が必要だ。それを提供してくれれば、自分たちで仕上げの仕事はする。」まるでゼレンスキーの言葉だ。チャーチルの強気は、ルーズベルトがイギリスをドイツにけしかけたことを知っていたからだ、と渡辺は書いている。これもまた、ゼレンスキーの強気の理由と同一だ。
アメリカ(とイギリス)はウクライナへの武器支援に全力をあげている。東欧に残存する旧ソ連の武器を根こそぎウクライナに送り、提供した東欧にはアメリカの新品を買わせる寸法だ。イギリスはそのためにソ連製武器の買い集めに奔走している。NATO諸国は新規輸入のための軍事費の増額を決めている。
『ウエッブ・アフガン』では、ソ連がアフガンに侵攻したのはアメリカ(ブレジンスキー)の罠にソ連がはめられたからだと知っていたので、ウクライナにプーチンが侵攻した時「罠にかかったプーチン」と論じた。
今回は、アメリカとウクライナは2014年のクリミア併合の失敗を繰り返さないために十分な準備をしたうえで、バイデンは「アメリカは参戦しない」と誘いをかけたのだった。
ルーズベルトに強気で接したチャーチルの役目をゼレンスキーは立派に果たしている。アメリカの軍需産業はとてつもない好景気に沸いている。
歴史は繰り返すというけれど、これほどわかりやすく繰り返されるとは信じがたい。初回の「武器貸与法」がナチス・ドイツの息の根を止めたように、二度目の「武器貸与法」がプーチンの暴挙を止めるよう祈りたい。

==========<金子 明>==========(2022年4月25日)

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第4弾。今回紹介する第4章「逃走」では、父親アブドル・ラーマンが殺害されたあとの家族の逃避行がまず描かれる。

アブドルの死後幾日もたたないうちに、ムジャヒディーンは彼の遺族を捜索し始めた。最初は昼間に。ファウジアたちが急いで山に逃げ、岩陰から見守る中、彼らは屋敷にあったラジオ、家具、壺や鍋などを略奪し山へと戻った。

二度目の襲来は二三週間後の真夜中だった。屋敷を出て叔父の家の屋上で寝ていた一家は、ライフルの銃床で叩き起こされた。夜襲をしかけたムジャヒディーンは「怒鳴り叫んでいた。アブドル・ラーマンの息子たちはどこだと。」ファウジアの兄ムキムは当時6歳。見つかれば殺されるところを、隣家の屋上に飛び移り、女のスカートに潜り込んで逃げおおせた。

その代わりに共に16歳だった姉と義姉が捕まった。屋根から引きずり下ろされ、屋敷へと連行された。ファウジアたちが屋上から見守る中、「二人はピストルの吊り紐で打たれ、ライフルの銃床で殴られた。彼らはしつこく、武器の隠し場所を言えと脅した。」だが、姉は銃剣で胸をつかれ出血しても、口を割らなかった。

この蛮行に抗ったのは屋敷の庭にいた番犬のみ。鎖を引きちぎって男たちに噛みつこうとしたが、あっさり撃ち殺された。彼らは二人の少女を夜明けまで殴り続け、やがて祈りのため山へと戻った。

二日後、彼らがまた現れ、まだ10代だったファウジアの異母兄を脅して武器のありかを吐かせようとした。とうとう村人は立ち上がり、ムジャヒディーンにメッセージを送った。次に来たら抵抗する、女たちを守るために、シャベルも斧も使える物はなんでも使うと。返事が来た。「目的は村ではない。アブドル・ラーマンの家族の死だ。」

翌朝早く、ムジャヒディーンは村に刺客を放った。母とファウジアは牛糞の山に潜って、目前に来た敵をかわした。彼らの姿が消えた隙に、一家5人(母・二人の兄・姉・ファウジア)が集まり、逃走が始まった。

谷底を川に沿って逃げるのを、刺客が負う。足の遅い3歳児のファウジアを指して姉が叫んだ。「その子を川に投げないとみんな捕まって死ぬ。さあ、投げて。」母親はファウジアを持ち上げたところで思いとどまった。そして彼女を背負って走り出した。

今にも捕まって母親の背中から引き剥がされる・・・4歳に満たないファウジアが恐怖にさいなまれていたとき、一行は「突然、一人のロシア人と出くわした。」

軍服を着た金髪の兵士だった。敵はきびすを返して逃げていった。5人は谷に住む教師の家に二週間かくまわれた。やがて州都ファイザバードで警察署長を勤める兄のもとにクーフ村の惨状が伝わった。彼は谷までヘリコプターを飛ばし、一家を救い出した。

こうして生きのびた村の少女はファイザバードで暮らし始めた。7歳になると学校に入学。テレビで見たサッチャーやインディラ・ガンディーに憧れるようになった。11歳の時、兄の昇格によって一家は首都カーブルへ。黄色いタクシー、トロリーバス「ミリー」を操る女性運転手の青い制服、洋品店に飾られた最新のファッション、何百ものレストランから漂うバーベキューのかおりに驚いた。通ったハイスクールの同級生の家にはプールがあった。

ファウジアは「自由で明るく楽しい」3年間を首都カーブルで過ごした。生死をかけた修羅場をくぐり抜けた村の少女にとって、さぞや輝かしい思春期だったことだろう。そして、彼女は次のように第4章を締めくくる:
「しかし、より広い世界が再び、そんな私の小さな世界と衝突することになる。」

 

==========<野口壽一>==========(2022年4月25日)

▼ アフガニスタン、コロナ、ウクライナ、次々とおきる理不尽な事態で気持ちが晴れず社会全体がうつ状態になっている気がする。ゴールデンウィークが近づくが、子供たちや若者はどんな気持ちで休日を迎えるのだろうか。
▼ 後期高齢者一歩手前の団塊世代のひとりとして、ウクライナで命を惜しまず戦う国民の姿に、自由と独立を求めて戦っていたベトナム人民の姿を思い起こす。
▼ ウクライナ戦争について語る〝識者〟の中に、「ロシアが悪いのは大前提だが」といいつつウクライナ側の〝非〟をあげつらう人びとがいる。問題はそんなところにあるのではない。「ロシアが悪い大前提」、つまり、「他国の主権侵害」「力による国境の変更」「核兵器使用の恫喝」を許さない決意と闘いが、今、求められているのだ。それをやっているのがロシア=プーチンだ。
▼ 米英だってロシアよりはるかに多く侵略戦争をやってきた、ウクライナをけしかけて戦争させたのはアメリカのネオコンだ、とかの主張をする人もいる。まったくその通りだが、米英NATOなどは民間への誤爆や戦争犯罪については、たとえそれがトカゲのしっぽ切りであったとしても調査したり罰したり、賠償したりする。金子編集委員が連載したアフガニスタン・ペーパーズのような活動がアメリカにはあるし、それよりなにより、ベトナム戦争ではペンタゴン・ペーパーズを自分たちで公開に持ち込んだりして大統領を退陣に追い込んだりしている。〝民主主義陣営〟には戦争犯罪という概念も報道の自由もあるが、プーチン・ロシアにはその両方とも、カケラもないし、アメリカの仕掛けた罠に引っかかって先に手を出す脳なしだ。
▼  日本国憲法は、「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」と述べている。ロシアの行為は、この前提を否定するものだ。しかもそのような国際社会を保証するものとして自分たちがつくり存在させている国際連合を、常任理事国として否定しているのである。
▼ 憲法前文の最終行では「日本国民は、国家の名誉にかけて、全力をあげて崇高な理想と目的を達成することを誓う」と決意を述べている。憲法9条があろうとなかろうと、この最終行の決意を実行しなければ、日本国憲法の存在価値はない。
▼ 国際社会が「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努め」ないのであれば、日本国憲法の前文は無効となろう。ウクライナ戦争は、日本という国の存立の基本をも問う戦争なのだ。
▼ それは、帝国主義と植民地主義が歴史的に押し付けた社会的・経済的矛盾からの脱却過程で苦しむアフガニスタンのような国々に対して、いわゆる〝先進諸国(=先進帝国主義国)〟が償わなければならない罪悪を、日本も背負っているという自覚と一体のものなのだと思う。
▼ うつ状態から脱するためには、うつの症状を解剖しうつの原因を突き詰め、自己治癒力を発揮して治癒するしかない、と覚悟した。

 

==========<金子 明>==========(2022年4月12日)

今回は、アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)を紹介する第3弾。前回紹介した第2章「ただの少女」のラストにアフガン現代史の重大事件「四月革命」の解説がある:

「1978年4月28日、共産主義のアフガニスタン人民民主党(PDPA)がアフガニスタン政府から政治権力を奪い取った。ペルシャ歴では1年の第2の月をダリ語で“サウル”と呼び、その月に蜂起が起こったことからサウル革命(訳注:原文はthe Saur Revolution、日本語では四月革命)と呼ぶ。革命後に任命された政府はソビエト寄りの傀儡で、このときからソビエトのアフガニスタン支配が事実上始まったとされる。権力につくや、PDPAはソビエト共産主義の政治課題を実行に移した。国家無神論への道に邁進し、無謀な農地改革を実行して、事実上全国民を憤慨させた。国旗も、イスラームの伝統色である緑を捨て、ソビエト連邦の赤旗のコピーまがいとし、この保守的なイスラーム国の国民を怒らせ侮辱した。またPDPAは何千人もの伝統的エリート層、宗教的支配者層、そして知識人たちを拷問し、殺害した。」

このページを受けて、第3章「恐るべき喪失」が始まる。バダクシャン州の風景の息をのむような美しさと、そこで起きる悲惨な出来事のギャップがすさまじい。少女ファウジアが3歳半、四月革命が起きた1978年の話である。

ファウジアの父アブドル・ラーマンは革命後も国会議員を続けた。すると新政府は彼に「失敗すれば死罪」という重大任務を与えた。それは、バダクシャン州に新たに勃興した反政府勢力ムジャヒディーンの懐柔であった。地元に戻ったアブドルは州の各地から数百人の仲間を集め、先頭に立って馬上山岳ルートを行く。目指すはパミール山地にある反乱軍の陣地だ。

「肥えて茂った谷が、やがて岩肌へと姿を変える。それは光に照らされ、青から緑、さらにオレンジがかった黄土色に輝く。そして雪に覆われた頂がそびえる高原にたどりつく。」

その美しい高原で待っていたのはライフルを持った3人のムジャヒディーンだった。さらにどこかに援軍も隠れていたようだ。ライフルを撃って丸腰の一行を蹴散らし、落馬したアブドルを捕虜にした。2日後、彼は処刑されうち捨てられた。さらに、亡骸を回収に来る者も撃ち殺す、とムジャヒディーンは脅した。だが、アブドルの姉一家が勇気を振り絞って山に登り、探し出して連れ帰った。そして翌朝、葬儀。

「ひげをたくわえた老人の灰色の頭、白いターバン、緑の上着。みなが庭に座り、赤ん坊のように泣いた。父は屋敷の裏手、小高い一画に埋葬された。メッカと、彼がそれほどまでに愛したクーフの谷にその顔を向けて。」

幼くして親を亡くす子はいる。だが、その頭の一部が銃撃で吹っ飛んでいるのを見るのは、どうだ。戦争が長引く中、すべてのアフガンの子どもたちは平和を知らない。そんな子どもの1人だったファウジアが、このあとどんな人生を送ることになるのか。彼女が生き延びて、この本を書き残してくれたことに感謝しつつ、読み進めて行きたい。

 

==========<野口壽一>==========(2022年4月12日)

ウクライナでの虐殺事件の報道に接して、これまで戦争被害者への賠償金がどうなっていたのか気になった。ウクライナがロシアから賠償金を取るには、なにがなんでも勝たねばならないのだが。

村ごと焼き払う虐殺、絨毯爆撃、ナパーム弾、枯葉剤散布による国土破壊、多数の奇形児等々、誰かの言葉を借りれば「戦争犯罪のデパート」のようなベトナム戦争であれば、さぞかし多額の賠償金をアメリカに要求できるだろう、と思ったら、アメリカは一銭も払っていないという。ベトナム側が請求しなかったんだそうだ。

そういえば、中国も日本へ賠償を請求しなかったけど、北京空港はじめ多数のインフラ整備や製鉄事業など産業支援など多額の無償援助をしている。いろんなケースがあることが分かった。
そのアメリカだが、昨年夏、カーブル空港からの撤退の際にISを攻撃したつもりでまったく無関係な民間人十人をドローン攻撃で殺害した事件があった。アメリカはこれを誤爆として認め賠償金の支払いを申し出たというが、金額は明らかになっていない。
一方イギリスは、そのアフガニスタンで2006~2014年に死亡した民間人289人について、計68万8000ポンド(約1億円)を支払ったそうだ。1人当たりの平均は2380ポンド(約36万円)。保証額の最低額は1万5800円で6頭のロバの群れを誤って射撃して死なせた補償金より少なかったという。人間の命の安さに驚く。ハイジャック事件の際に「ひとの命は地球より重い」と発言して超法規措置を発動した日本の政治家(福田首相)もいたっけ。

コソボ紛争中の1999年にアメリカ軍機が駐ユーゴスラビア中国大使館を誤爆したことがあった。このとき、中国人3人が死亡し死傷者総数は29名という大事件だった。アメリカは誤爆を認め謝罪したが中国政府は強い抗議を行っただけだったという。金銭的な賠償がなされたかどうかはわからない。
戦争被害・戦争犯罪への過去の賠償がどうなされたのか、命の値段はいくらだったのか、がぜん興味がわいた。

 

==========<金子 明>==========(2022年4月4日)

今回は、アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri)を再び紹介する。その第2章「ただの少女」では、ラーマン家の暮らしぶりが幼い少女ファウジアの目を通して描かれている。その中身はアフガニスタンの女性たちが当時いかに虐待されていたかのカタログである。

こと男女差別に関しては、革命も敗戦も‘人道国家’による占領も有効な対抗策とはなり得ず、50年や100年くらいで改まらないのはわれわれ日本人も知っての通り。ましていまや復古主義のターリバーンの治世下である。現代アフガン女性たちの怨嗟の一端を知る上でも重要と思い、以下に列記する:

・生まれたのが女児なら父親がわざわざでばって赤ん坊の顔を拝みに来ることはない。少なくともこれまでのラーマン家では。
・女は人生の半分以上を台所ですごし、そこで眠り、料理し、子育てする。
・男は家では、毎晩別の妻と寝る。
・シャリア法では「全ての妻を平等に扱うべし」と定められている。が、男は生身だ。かかる掟の存在が何を意味するかは推して知るべし。
・認められる妻は4人まで。だがもっと欲しい。抜け道はある。古いのを「カリファ」にする。あのカリフと同じ語源かな。カリファは経済的には保護されるがセックスレスとなり、家族内にとどまる。ファウジアの母ビビが第二夫人にしてヘッドワイフだったのは、第一夫人がカリファ化したのもその理由だろう。
・ただただ絨毯織りの技術をほかの妻たちに伝授させるため、蒙古系の妻をめとるのもアリ。
・夫は怒ると妻を追いかけ回し、とっつかまえて殴ってよい。意識がなくなるまでも。また勢い余って髪の毛をガバッと引きむしってもよい。
・耐えられなくなって実家に逃げ帰る妻もいるが、たいがいその父親が夫のもとに送り返す。
・妻殴りは規範的行動で結婚生活の一部。娘は母が殴られるのを見て育ち、祖母も殴られたことを知り、自分がやがて殴られるのを予見する。
・いやなら夫と離婚できるが、その申請は妻の兄弟がなさねばならない。離婚すれば我が子とはもう会えない。
・妻が実家の兄弟に虐待を訴えることがある。しかし、それを知った夫は、またさらに殴る。ただその妻の家事能力が高ければ(利用価値があれば)すこし優しくして様子を見る。
・男児の誕生日は祝うが、女児の誕生日を祝うことはない。
・女児は学校に行かない。女児はやがて結婚して出て行き、投資した教育費が家計に還元されないから。
・ファウジアの17歳の兄は12歳の少女をめとった。セックスのあと姑のビビはまだあどけない嫁を入浴させ、傷ついた体をいやしてやった。

壮絶な虐待の一覧表である。著者はそれに「これが彼女たちの人生で、女の運命だった」とコメントする。そして第2章を締めくくる:
「母が12歳の義姉にできたことは、おそらくただ次の三つ。慰めようと努めること、まず軽い雑用をやらせること、さらに諸先輩と同じく次のように考えること。つまり、この娘もやがて成長し、疑問も不平も持たず、これを自分の運命として受け入れるだろうと諦めること。それが文化による謀略で、すべての女性を縛り付けていた。そして、誰もそれに異を唱えなかった。」(下線、原著者)

今回「世界の声」で紹介したジェハンギル氏の記事では、まさにいま「異を唱え」ている女性たちについて触れている。たとえ自らの生活に忙殺され具体的には何もできなくても、おぼえておくことはできる。ニュースがどんなにあふれても、決して「キエフ」を「キーフ」と呼び直しただけで満足し、忘れ去ってはならない。

 

==========<野口壽一>==========(2022年4月4日)

<視点025>の「ソ連もアメリカの罠にかけられていた」の節で、罠を仕掛けたズビグニュー・ブレジンスキーのフランスの雑誌とのインタビューを紹介しました。しかしその情報は孫引きでした。いま、そのオリジナルを見つけたので紹介しておきます。アメリカがアフガニスタンや中東で育てたイスラム主義過激派のテロに苦しむフランスやヨーロッパに対してブレジンスキーの自信満々な冷酷さと無責任ぶりがひときわ目立っています。
1998年1月15日号のヴォルテールネットワーク(Voltaire Network: https://www.voltairenet.org/article165889.html)です。このメディアはフランスの知識人Thierry Meyssanの主導で作成された、国際関係の分析に特化した非同盟の報道ネットワークとの自己紹介がありました。

Le Nouvel Observateur:CIAの元局長Robert Gatesは、彼の回想録で、アメリカのシークレットサービスは、ソビエトの介入の6か月前にアフガニスタンのムジャヒディンを支援し始めたと書いています。当時、あなたはカーター大統領の治安問題に関する顧問でした。それで、あなたはこの場合重要な役割を果たしましたか?
Zbigniew Brzezinski:はい。公式には、ムジャヒディンへのCIAの援助は、1980年、つまり、1979年12月24日にソビエト軍がアフガニスタンに侵攻した後に始まったことになっています。しかし、秘密にされていますが現実はまったく異なります。カーブル親ソ政権への反対者へ秘密支援行う指令にカーター大統領が最初に署名したのは、1979年7月3日でした。そしてその日、この援助はソビエトによる軍事介入につながるだろう、と大統領にメモを渡しました。
Le Nouvel Observateur:そのようなリスクがあるにもかかわらず、あなたはその秘密作戦に賛成したのですか。あなたはソビエトが戦争に参加することを望み、それを挑発したのですか?
Zbigniew Brzezinski:私たちはロシア人に介入を強要したのではありません。彼らが介入する可能性を意図的に高めたのです。
Le Nouvel Observateur:アフガニスタンでの米国による秘密の干渉と戦うために軍事介入したとのソ連の主張は正当化したとき、誰も彼らを信じなかったのですが、真実だったわけですね。あなたは今、その行為を後悔しますか?
Zbigniew Brzezinski:なぜ後悔する必要があるのですか? この秘密工作は素晴らしいアイデアでした。それはロシア人をアフガニスタンの罠に誘い込む効果がありました、あなたは私に後悔させたいのですか? ソビエトが正式に国境を越えた日、私はカーター大統領に、この事実の本質について次のように書きました。「われわれは今、ソ連をベトナム戦争に引き込んだのです。実際、モスクワはほぼ10年間、政権にとって耐え難い戦争、士気阻喪、そして最終的にはソビエト帝国の崩壊につながる紛争と戦わなければなりませんでした。
Le Nouvel Observateur:イスラム原理主義を支持し、将来のテロリストに武器とアドバイスを与えたことを後悔していませんか?
Zbigniew Brzezinski:世界史の観点から最も重要なことは何ですか? ターリバーンまたはソビエト帝国の崩壊? 若干のイスラム主義者を刺激したこと? 中央ヨーロッパの解放と冷戦の終結?
Le Nouvel Observateur:若干の? そんなことはないです。繰り返しますが、今日のイスラム原理主義は世界的な脅威になっています。
Zbigniew Brzezinski:ナンセンス。西側はイスラム主義に関してグローバルな政策をとるべきだと言われていますが、それはばかげた考えです。愚かです。グローバルなイスラム主義などありません。イスラム教を合理的に見てごらんなさい。これは、世界で最初の15億人の信者を持つにいたった宗教ですよ。しかし、それは、原理主義のサウジアラビア、穏健なモロッコ、軍国主義のパキスタン、親西エジプト、または世俗化された中央アジアという風に、何か共通したものがありますか? キリスト教の国々が団結して対抗すべきものはなにもありません。
(by ZbigniewBrzeziński, VincentJauver)

 

==========<野口壽一>==========(2022年3月28日)

英エセックス大学の経営学教授 Peter Bloomさんがロシアのウクライナ侵攻で軍需企業が大儲けしているとこんなことを言っています。(https://courrier.jp/news/archives/282803/#paywall_anchor_282803)
「(この戦争で)軍需産業がおよそ5000億ドルの武器を両陣営に供給し、かなりの利益を得ようとしているのだ。
この戦争における防衛支出は既に膨大なものとなっている。EUは4億5000万ユーロの武器を購入し、ウクライナに輸送した。アメリカは90トン以上の軍需品と、昨年だけでも6億5000万ドルの援助をしたことに加え、さらに3億5000万ドルの軍事支援を約束した。
まとめると、現時点(原記事掲載時の3月9日)で、アメリカとNATOは1万7000発の対戦車兵器と、2000発の防空ミサイル「スティンガー」を供給している。イギリス、オーストラリア、トルコ、カナダを含め、世界的な国家連合もまた、ウクライナのレジスタンスに積極的に武器を供給している。これが世界最大級の防衛関連企業に、多大に貢献しているのだ。
レイセオン社はスティンガー・ミサイルを製造し、さらにロッキード・マーティン社と共同でジャベリン対戦車ミサイルを製造した。これらはアメリカやエストニアのような国に供給されている。
S&P500指数が1%下がっているにもかかわらず、レイセオン社とロッキード社のシェアは約16%上昇し、ウクライナ侵攻以来、それぞれ3%上昇しているのだ。
また、イギリスとヨーロッパで最大の防衛関連企業、BAEシステム社は26%上昇した。売上高世界トップ5の防衛関連企業のうちでは、主に航空路線への影響が原因で、ボーイング社のシェアだけが下落している。」そして「戦争で儲かる国がある」として、
「西側諸国のトップ兵器企業は戦争に先駆け、利益が増大しそうであることを投資家たちに報告していた。アメリカの巨大防衛関連企業、レイセオン社の最高経営責任者であるグレゴリー・J.・ハイエスは、1月25日、以下のように業績発表を行っている。
「先週UAEで起きたドローン攻撃に注目する必要がある……そしてもちろん、東ヨーロッパの緊張、南シナ海の緊張、こういったことはすべて、現地における軍事費のいくらかを圧迫している。そこから利益を獲得できるであろうことを、我々は最大限に期待している」
その当時でさえ、世界的な防衛産業は、2022年に7%成長することが予想されていた。アメリカの防衛コンサルタント会社、エアロ・ダイナミック・アドヴァイザリー社の最高経営責任者であるリチャード・アブラフィアが言うように、投資家にとって最大のリスクは「すべてがロシアの砂上の楼閣であると明らかになり、脅威が消滅することである」。
そのようなことが起こらなかったため、防衛企業はいくつかの方法で利益をあげている。交戦中の国に直接武器を売りつけるだけではなく、ウクライナに武器を供与している他の国に武器を供給しているのだ。軍事費の増強を宣言しているドイツやデンマークといった国からの追加要請もあるだろう。
この産業の“世界のリーダー”はアメリカであり、2016年から2020年にかけて37%の兵器を売っている。次がロシアで20%、フランスが8%、ドイツ6%、中国5%と続く。
だが武器輸出トップ5のこれらの国以上に、この戦争で利益を得る可能性がある国がいくつかある。トルコはロシアの警告に逆らい、ハイテク・ドローンなどの武器をウクライナに供給することを宣言した。ハイテク・ドローンはトルコの防衛産業に大きく寄与しており、世界市場の1%ほどを供給している。
世界中のセールスの約3%を占めるイスラエルでは、現地の新聞が「ロシアの侵攻の最初の勝者は、イスラエルの防衛産業である」と称えた。
ロシアに関して言えば、2014年に遡る西側諸国の制裁への対応として、自前の軍需産業を打ち立てている。ロシア政府は巨大な輸入代替計画を作成し、国外の兵器と軍事知識への依存度を縮小し、さらには国外への武器輸出を増大させようとしているのだ。
世界第2位の武器輸出国として、ロシアは世界中の顧客をターゲットにしている。同国の武器輸出は2016年から2020年の間に22%まで下落した。だがその主な原因は、インドへの輸出が53%減少したことだ。時を同じくして、中国、アルジェリア、エジプトといった国への輸出は劇的に強化されている。
アメリカ合衆国議会予算報告書によると、「ロシアの兵器は高価ではないだろうし、西側諸国の兵器システムと比べると操作やメンテナンスが簡単だ」という。ロシアの最大の兵器企業はミサイル製造のアルマズ-アンテイ社(売上高66億ドル)、ユナイテッド・エアクラフト社(46億ドル)、ユナイテッド・シップビルディング社(45億ドル)などだ。」
そして結論として、「人殺し」に依存した経済基盤を放置してはならない、と次のように締めくくります。
「プーチンの帝国主義に直面して、成し遂げられることには限界がある。ロシアから長年の脅威に直面しているウクライナが、武装解除するという可能性はほとんど見出せない。
しかし、状況を沈静化する努力はいくつかなされてきた。たとえばNATOは、飛行禁止区域を設けるようにというウクライナ大統領ウォロディミル・ゼレンスキーの要求を、公然と拒絶した。
だがこうした努力が、兵器レベルを向上させようとする双方の巨大な経済的特権によって蝕まれている。
西側諸国とロシアが共有しているのは、大規模な軍産複合体だ。どちらの陣営も巨大兵器関連企業に依存し、その影響を受ける可能性がある。あるいは実際すでに、影響下にある。こうした影響力の強さはドローンや、洗練されたAI制御の自動兵器システムにいたるまで、新たなハイテク攻撃能力によって推進されるのだ。
最終的なゴールが事態の沈静化と持続可能な平和なら、「軍隊による攻撃」に依存した経済基盤を真剣に批判していく必要性があるだろう。
ロシアの兵器産業が原材料の入手をしづらくし、軍備に再投資するために外国へ商品を売ることがより難しい状況にすることで、アメリカは直接的な制裁を加えるとした。ジョー・バイデン大統領によるこの声明を、私は歓迎している。
そうは言っても、これは西側諸国の防衛関連企業に商機をもたらすだけかもしれない。それによって、アメリカとヨーロッパの企業に一時的な真空地帯が残され、今後の競争がかなり優位になる。その結果、世界的な兵器開発競争が拡大し、新たな戦争に備えた大きなビジネス上の特権が創出されることもありうる。
この戦争の余波として、私たちは軍需産業の権力と影響力を制限する方法を探求するべきだ。それには、特定の武器の販売を制限する国際的な同意や、防衛産業を縮小しようとする国への国際的な支援、軍備費を増強させようとロビー活動をしている軍需企業に制裁を加えることなどが含まれる。より根本的には、さらなる軍事力の展開に対抗する運動が含まれるだろう。
もちろん、簡単な答えなどない。一夜のうちに達成できることでもない。しかし儲かる経済産業としての「兵器の製造と販売」をできるだけ多く廃止しなければ、永続的な平和が訪れることはない──私たちはこの事実を、国際社会の一員として認識することが必要だ。」

まったくその通り。

 

==========<金子 明>==========(2022年3月21日)

すっかり忘れていたが、昨日(3月20日)は地下鉄サリン事件が起きてから、27年目の日だったという。もう四半世紀以上が経ったのかと感慨深いが、このサイトに関わっているいま、自分なりにあの日を回想してみようと思う:

当時私はテレビ朝日に派遣され夕方のニュース番組(蓮舫・宜嗣のステーションEYE)の製作にあたっていた。驚天動地だった神戸の大地震(1月17日)から2か月が経過し、報道局内の雰囲気も少し落ち着いていた。個人的には、番組立ち上げから2年勤めたその職場を3月いっぱいで離れ、ちょこっと自主映画を製作する予定だったので(のんきだねえ)のんびりしていた月曜の朝だった。

市川の自宅に電話がかかって起こされた。「すぐに出てこい。地下鉄は止まっているのでお茶の水でハイヤーに乗れ」という。私を待っていたハイヤーのドライバーは道々「ラジオによると、霞ヶ関の駅では爆弾騒ぎらしいですよ」などと言っていた。

六本木でカメラクルー&丸川アナと合流し、地下鉄中野坂上駅に向かった。駅の周辺には警察官が大量にいた。胸に星が複数ついている年配の制服姿に「何が起きている?」と聞いたが、どうもよくわかっていない模様。地下に降りて駅構内を撮影したあと、他社のクルーも加わって駅事務所に突入し、駅長を囲んだ。なんだかんだと10分ほど話を聞いたのだが、「駅員が車両の床にこぼれた液体を拭き取った」そのモップが、駅長の背後に立てかけてあった。

続いて、被害者の多くが搬送された新宿にある医大の附属病院へ。治療を待つ男性が語った内容:「ドア横の席に座っていた男女がまず倒れた。おいおい、こんなところで心中かよ、と驚いたが、すぐに自分も気持ちが悪くなった。見ると、床には麦茶のような液体が入ったビニール袋が転がっていた。1個は破れ、もう1個は無傷だった。」

ひるころ局に戻って美術パートに麦茶とビニール袋による証拠物件の再現を指示し、編集を開始した。6時のオンエアなので、4時には試写。プロデューサーは内容については満足したが、試写終わりにこうコメントした、「カネゴンがそばに来ると目がチカチカする。」

ふうむ、残留したアセトニトリルによる副作用か・・・実はさっきから口の中にツバがたまるのよねえ。トレーナーとジーパンの上下だったので、繊維中になにやらよからぬものを含み込んでしまったのかしらん。そう言えば、病院でインタビューしているときに気づいたが、何人かの患者さんの体からは揮発性っぽい刺激臭が出ていたなあ。

やがて毒ガスのサリンが撒かれたとわかり、退社時に私は着ていたもの全てを脱ぐよう命じられた。しょうがないので、局にあった雨合羽を全裸の上に着て、電車に乗って帰宅した。翌日が春分の日だったので、それほど寒くなかったのはありがたかった。

そんな1日だったのだが、その前年の暮れにふと耳にしたうわさ話は、思い返すと心に刺さる。いわく、「ロシアにあるオウム運営のラジオ局がこのところ『終末が近い』と騒ぎ立てている。麻原は不治の病で余命幾ばくらしい。アリゾナのカルト教団よろしく集団自殺をやらかすのではないか。」これを聞いたとき、「勝手に死ねば・・・」と思うことなど微塵もなかったと言えば嘘になる。年が明けて大震災、その2か月後にこのサリン事件が起きた。やらかしたのは集団自殺ならぬ、殺人ガスによる都市型無差別テロだった。

 

==========<金子 明>==========(2022年3月14日)

2010年、アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏は自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri)を発表した。共著者のナディーン・グーリ氏についてはキンドル本上には紹介がないのでウェブで調べると、BBCとアルジャジーラで特派員を勤めたやり手のジャーナリストらしい。そのためか、英語の文章は簡潔で読みやすく、巻末の年表もありがたい。それによるとクーフィ氏が生まれた1975年はダウドのクーデターから2年後。78年にはそのダウドが殺され、翌79年暮れにソ連が侵攻してくる。なるほど彼女は戦争時代の申し子なのだ。

そして、バダクシャン州で生まれた。さすがに地図の付録はないので再びウェブに頼る。すると、あの中国までひょろっと触手状に伸びた州ではないか。ちょっとした親近感。さらに細かい出生地は、バダクシャンのダルワズ・クーフ地区というから、その右手に伸びる回廊部分ではなく、最上部にある一画だ。つまりアフガニスタンで最北に位置し、当時のソ連邦タジキスタンとの国境地帯である。「州都のファイザバードから今(2010年)でも車で3日かかる僻地の山岳地帯」と彼女が表現するのもうなずける。

物語はビビ・ジャン(美しい鹿)という名の女が8番目にあたる最後の子を放牧に訪れた山中で産み落とすところから始まる。夫はクーフ村で代々長老を務める一家の家長で、州を代表する国会議員アブドル・ラーマン。ビビ・ジャン自身もかつてクーフ村と対立した村の有力な家族の出身で、完全な政略結婚(第2婦人)だった。「結婚は家族、伝統、文化、恭順のため。それらすべてが個人の幸福よりも勝る。愛はめんどうを起こすだけ」というのが、この地域の山村の伝統だという。

持ち前の美貌と心配り、そして優れた能力で代議士一家の家事を取り仕切る立場(ヘッド・ワイフ)となったビビとはいえ、前年、夫が14歳の少女を7番目の妻として迎え入れたのには消沈した。その新妻はやがて男児(アブドルの第18子)を出産する。それを妊娠6か月のビビが介助した。「現代でも女は息子を授けてと祈る。息子を産むことだけで女には地位が認められ、夫を満足させられるから」と著者は解説している。

しかし、旅先の山で30時間におよぶ難産の末に生まれたアブドルの第19子は女児だった。気を落とし弱り切った母親は意識が朦朧とし、「青白く斑点だらけで小さくてふにゃふにゃの」赤ん坊を抱くこともなく、ただちに病に伏した。すると取り巻きは「村の文化では無でしかなく価値もない」女児などは外にほっぽり出し、数週間にも及ぶ放牧の旅を取り仕切るヘッドワイフの看病に専念した。

ひとびとが翌日になって女児の存在を思い出し室内に入れたとき、母親はようやく回復の兆しを見せていた。生まれた直後の丸1日、高温の外気で焼かれたにもかかわらず、10代まで残る顔のやけど跡だけを残して生き延びた我が子をビビは改めて見直した。すると彼女から最初の冷たさが消え去った。その子をぐっと抱きしめた母親は、以来激動のなか「お気に入りの娘」との絆を深めていく。

(「お気に入りの娘」第1章「昔の物語」より抜粋)

※ アフガニスタン全土の行政区地図は基礎データのページをご参照ください。

 

==========<野口壽一>==========(2022年3月14日)

● プーチン・ロシアのウクライナ侵攻は、アメリカのアフガニスタン侵攻、とくにイラク侵攻にそっくりです。アメリカは第2次世界大戦後、数々の侵略や他国への武力介入を山ほどやってき。だが、だからと言ってプーチンはロシアの侵攻を合理化することはできない。アメリカの産軍コンプレックスはアフガン→ウクライナ→新疆・ウイグル・台湾と緊張を作り出す長期プランを着々と遂行している。しかし、アメリカは国内に深刻な対立を抱え、また、経済力や世界における信用力においても長期衰退過程にあり、主敵である中国叩きもそうは思うように進むとは思えない。世界はますます危うさの度をましている。

● 最近のロシア国内からのニュースに接しているとまるで戦前の日本もこうだったのかと錯覚する。
・戦争を「特別軍事行動」と言い換える言葉の詐術の数々。
・自分らに都合の悪い情報はニセ情報。
・TV、ラジオ、新聞などでのプーチン崇拝。
・独自情報を流すメディアは解散。
・敵対者は暗殺。
・都合の悪い発言は個人のものであっても逮捕有罪化して弾圧。
・戦争支持、軍人激励の官製デモや行動への強制参加。
・経済制裁による生活苦には「勝つまで耐えろ」
・世界が反対しても唯我独尊。
親の世代からの伝聞や映像・書物でしか知らない日本の戦中が思いやられる。ただ、唯一違うのは、ロシア人民が戦っている、ということ。逮捕され、拘禁され、殴打され、職を失い、家族分断にさいなまれ、経済社会的に圧迫されても、街頭に出て、SNSで、さまざまな形態で「戦争反対」を叫び続ける人びとが全国にいる、ということ。
プーチンや世界が口をそろえて悪口をいうレーニンは、第一次世界大戦を終わらせるために自国の敗戦を主張してロシア革命を成功させ戦争を終わらせ平和宣言を発した。ロシアは「革命的祖国敗北主義」の伝統を持つ国。きっと、自分たちの力で自分たちの国を正しい道に引き戻すに違いないと信じたい。

 

==========<金子 明>==========(2022年2月28日)

このサイトの編集に関わるようになってキンドルで読む本が増えた。するとアマゾンさんは「しめた」とばかり、おすすめ情報をよこしてくる。半月ほど前に、カーター・マルカジアン著「アフガニスタンにおけるアメリカの戦争:ある歴史」(The American War in Afghanistan: A History/ Carter Malkasian/ Oxford University Press/ 2021)をすすめてきた。著者が、これまで読んできたアフガン本のようにジャーナリストではなく米軍関係者(将軍の政治アドバイザー)というのが気になり、立ち読みを始めた。サンプルで読めた第1章は序文だったが、さっそくそこに常々感じていた疑問をしっかり疑問ととらえ、うまく解説した一節にでくわした。

その疑問とは、米軍ともあろうものがターリバーンごときになぜ負けるのか?このサイトの常連ファテー・サミ氏によれば、米国らが仕組んだ陰謀とのことだが、それだけでかつての敗残者がかくも電光石火にリバイバルできるのか。サミ氏が当事者たるアフガン人であるため当たり前すぎて説明に及んでいない「何か」が、背景にあるのではないか。著者のマルカジアンはその点を以下のように記している:

ターリバーンが例示したのは、精神を奮わせる何か、闘いで自らを強力にする何か、アフガン人であることの意味に密接につながる何かが、存在することだ。簡単に言えば、彼らはイスラームのため、占領への抵抗のため、アフガン人たるアイデンティティーとして守り抜かれてきた価値のために戦った。外から来た占領国と手を結ぶ政府が、似かよった精神を奮い立たせることはなかった。政府は支持者を得られず、せいぜい頑張っても、数でターリバーンに勝るだけだった。政府がイスラームだと主張しても胡散臭かった。アフガニスタンでのアメリカの存在自体が、アフガン人であることの意味を踏みにじった。男女を突き動かし、自らの尊厳、宗教、そして故郷を守らせた。若者を戦いに挑ませた。ターリバーンを力づけた。アフガン軍とアフガン警察の意気を砕いた。ひとたび衝突するや、ターリバーンは怯まず殺し殺され、その気概は軍や警察を凌駕した。少なくとも大多数の軍や警察を。この本が総論として伝えたいのは、ターリバーンとアフガン人であることの意味の結びつきが、アフガニスタンでのアメリカの敗北には欠かせなかったということだ。

見落とせないターリバーンと「アフガン人であることの意味」との結びつき。それがアメリカ敗北の十分条件ではないが必要条件だった、と著者の論は続く。その視点に気づかされた瞬間、やるね!とワンクリックで全編を購入した。お代の約3千円は高いか安いか・・・いつかこの場でつぶやくネタにするので判断はそのときに。

さて、打ち負かしてから20年も駐留したと言うとことは、日本に当てはめると1965年まで駐留か・・・沖縄には1972年までいたし、出先機関の米軍基地は日本各地にいまも存在する。「日本人であることの意味」など考えなくても平和に暮らせるわが国は幸か不幸か。ただここへ来てコロナだ、ウクライナだ、とちまたは騒々しい。気を引き締めて2022年の春を迎えたいものだ。

 

==========<野口壽一>==========(2022年2月28日)

・ウクライナの首都の表記は日本語ではキエフ、英語ではKievと思っていたが、ロシア軍のウクライナ侵攻の前後から四六時中BBCとCNNを見るようになり、Kyivと表記されているのを知った。調べると、ウクライナ語ではクィイヴと発音されるらしい。「ウクライナの地名のカタカナ表記に関する有識者会議報告」(http://www.eb.kobegakuin.ac.jp/~keizai/v02/data/pdf/201912okabe.pdf)
・映画「戦艦ポチョムキン」で有名なオデッサはオデーサ、ハリコフはハルキウ、ドネツクはドネツィク、ルガンスクはルハンシクだそうだ。キエフをクィイヴと表記するのは現状ではまだなじまなので、キエフ、キーウ、キイフの3例表記を可とする、と提案されている。次の投稿で知りました。→ https://news.yahoo.co.jp/byline/obiekt/20220224-00283698
・今回、原稿を書くにあたって久しぶりに津田元一郎さんの『日本的発想の限界』(1981年、弘文堂)を読み返しました。<視点>「ウクライナとアフガニスタンの意外な関連-社会変革の意欲と外国との連携」で引用させていただきました。イラン・アフガンに在住して教育事業に携わりながら対象国の変革に関わる津田さんの愛情を感じると同時に、その地に生きる人びとの欲求でなく外部の搾取者の視点から意図的にニュースをつくり配信する外信(国際報道機関)の視点は実はユダヤ系エスタブッシュの視点にほかならず、それに拝跪する日本の言論機関の浅はかさを痛烈に批判していました。今度のウクライナ問題でもそのことを感じました。われわれの努力はミクロとも言えないほど小さいものですが、SNSの時代になって、ミクロの視点、ミクロの努力でも世界とリアル、ダイレクトにつながり、予想以上の大きな力になりうることも知りました。外信を利用しつつ洗脳されない視点を磨いていきたいと思います。

 

==========<金子 明>==========(2022年2月15日)

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第11弾(最終回)。

今回のテーマは「ザルメイ・ハリルザドの発言」

紹介してきた「アフガニスタン・ペーパーズ」たが、最終回はザルメイ・ハリルザドの発言を中心に取り上げる。大使や特使として米国のアフガン政策を長く牛耳ってきた人物で、当サイトで発表中のファテー・サミ氏の一連の記事によると、2人の大統領(カルザイ&ガニー)と並んで評判が悪い。そんなハリルザドが政策の中枢でどんな言葉を発し、後の「学んだ教訓」インタビューでは何を語ったか。アフガニスタンとアメリカの20年を考える上で貴重な史料である。

—2003年11月ハリルザドはアフガニスタン大使に就任したが、年明けの1月ワシントンポスト紙に署名入りコラムの体裁で檄文※を寄せた。その最後に:
「これほどの掛け金をもらっているので、成功という結果が出るまでは投げ出すわけにいかない。」

※ このコラム(2004年1月6日)は米国務省のアーカイブで確認できるので、以下に要約する:
https://2001-2009.state.gov/p/sca/rls/rm/27702.htm

「アフガニスタンの一里塚」 駐アフガニスタン大使 ザルメイ・ハリルザド 著
アフガン人は米国らが提供した機会をものにして国政選挙への道を歩み出した。それは民主主義への2つの道で、まずはターリバーンやアルカーイダらの極端主義者による妨害の排除。その結果、ロヤジルガの候補者に全体の2割に及ぶ102人もの女性たちが名乗りを上げた。次いで言論による問題解決。新聞、ラジオ、モスク、学校、インターネットなどで、国家の仕組みや宗教、人権、民族、地方自治の問題が討論された。アフガニスタン5千年の歴史で初の快挙だ。
 アフガン人の問題克服への思いが失敗の怖れを上回った。彼らは軍閥や極端主義者の妨害をものともせず健全な憲法を欲した。女性や少数者が指導的立場に躍り出た。ロヤジルガによって認められた7人の指導者のうち3人は女性だ。全民族の言葉が公用語と定められた。できあがったのはイスラム諸国の中で最も開明的な憲法の一つで、大統領制と強力な議会そして独立した司法府を定め、信仰の自由、男女平等などが盛り込まれている。
 アフガニスタンには今後も課題が多い。それは憲法遵守、極端主義者の残党討伐、軍属の武装解除、麻薬産業の撲滅などだ。だが整然として透明なやりかたで憲法を選んだことで最初のハードルはクリアされた。
 アメリカはアフガニスタンの成功に投資した。ブッシュ大統領は2004年度20億ドルの援助を行い、国軍と警察力と経済インフラ、学校、医療機関を整える。誇りを持ってその民主化をサポートしよう。
 われわれのアフガニスタンでの仕事は終わっていない。この国が自力で歩き出すまでにはさらに数年がかかり、国際社会の協力も欠かせない。(このあと最後のパンチラインとして前述の1文が登場する)

—このひどく楽観的なコラムにカーブルの米大使館員たちも驚いたようだが、そのうちの1人はこう証言している(2004年4月に採取された外務省口述歴史インタビュー):
「大使館のカフェで出くわした広報戦略の担当者に聞くと、あのコラムを書くのに20人ものチームが組まれたんだってさ。戦争について光り輝く記事の下書きを作るためだけに、政府はなんでそんな大勢に給料を払うのかねえ。」

ところがこの高価にして強気のコラムとは裏腹に下野中のハリルザドは2016年12月、「学んだ教訓」インタビューに答えて次のように語っている:
「もし米国が2001年12月の時点でターリバーンと話し合う気があったなら、アメリカの最も長いこの戦争は逆に最も短い戦争の一つとして歴史に刻まれただろう。多分われわれは機敏でも賢明でもなかったので、早い内にターリバーンに手を差し伸ばすことができなかった。彼らを受け入れ和解すべきだとは考えず、敗走した彼らは正義により裁かれる必要があると考えた。」

大使在任中ハリルザドは1日幾度もカルザイと話し合い、ほぼ毎晩夕食を共にした。その後も数時間話を続け、大使館に戻るのはしばしば夜中過ぎだったという。仲良しというか、ズブズブの関係だったというか。続いて同じ「学んだ教訓」インタビューから彼の証言をピックアップしよう。

—2003年から2005年の大使在任中に、アフガン国軍の規模をどうするか?米国vsアフガニスタンの論争があったが、そのいきさつについて:
「アフガン政府の要求は最初20万人だったが渋られ、せめて10万人から12万人を雇う資金を出して欲しいとワシントンに頼みこんだ。だが、ラムズフェルドはもっと数を減らせと命じ、訓練を施すことを“人質”に、結局兵員数は上限5万ということで同意した。」

—同時期、ブッシュ政権下米国がケシ駆除のため農薬の空中散布を画策したのに対し:
「空中散布などアフガン人に化学戦争を仕掛けるようなものだ、とカルザイは考えていた。」

アフガン側からの猛反発やベトナムでの枯れ葉剤使用のトラウマ、また麻薬撲滅作戦の効果自体に疑義が生じ、この試みは頓挫した。

2005年6月、ブッシュはイラク問題の収束をハリルザドに託し、彼をイラク大使へと配置換えした。カルザイはその決定を翻そうと個人的にホワイトハウスと掛け合ったが、願いはかなわなかった。その時分、ハリルザドはまだ米政府に信頼されていたと見える。

—さて、ハリルザドはイラク入りした当時を思い出して:
「イラクに行ったら、カルザイがすごく人気だった。ホワイトハウスの役人は冗談まじりにこう言ってきたよ、『イラクでもカルザイタイプの人物を探し出したらどうですか?』とね。」

有頂天だったハリルザドに対し、カーブルに着任した米大使(ロナルド・ニューマン)にとってはカルザイと食事を共にするなどもってのほか。それどころか腐敗対策に乗り出し、カンダハル州議会議長でカルザイの異母弟アハマド・カルザイの更迭を要求した。かの地で麻薬取引を仕切っているという嫌疑だった。この騒動はカルザイと米国の関係が悪化する大きな要因となったのだが、もともとアハマドに資金を与え顔役に育て上げたのはCIAだったわけで、もうどっちもどっち、ええ加減にせんかい、と言いたくなる泥仕合だ。ちなみにアハマドはしぶとく議長をやり続け陰の知事とも噂されたが、2011年自らの警備員によって暗殺された

イラク大使、国連大使を歴任したハリルザドは2009年以降しばらく野に下っていたが、トランプ大統領が呼び戻す形で、2018年9月、いわゆる「アフガニスタン和解の特別使節」として国事に返り咲いた。その後の活躍というか、迷走ぶりは、ファテー・サミ氏の一連の記事に詳しいところである。泥船でも船は船とばかりバイデン政権も対アフガン政策の最終局面を彼にまかせた形だった。そして昨年10月15日、ターリバーンの復帰からちょうど2か月後にその職を解かれた。翌週、彼はカーネギー国際平和基金によるライブインタビューに登場した。「この事態になったのは、あなたに何か間違いがあったためで、やり直したいことはあるか?」と尋ねられてこう答えている:
「それについてはこれから省みる。」

 

==========<野口壽一>==========(2022年1月25日)

「衣食足りて礼節を知る」という。歌舞音曲や文学・絵画・旅や遊興も、衣食足りてこそ大衆化するのだろう。芸術や科学も宗教組織や貴族の資金援助があってこそ発展した歴史がある。
2001年以降のアフガニスタンでは、国内で余剰資金はなくても国家予算の半分もの資金が外国から流入した。戦争余禄みたいなもので、それが戦争ビジネスや汚職・腐敗の原資になったけれど、一部は、社会インフラや教育などへの投資にあてられて90年代までの停滞とは異なる都市部の発展につながったのも事実だ。そのような社会改革の成果として『カーブルの孤児院』をつくった映画監督が生まれたり、エンターテイナーやスポーツ選手が生まれたりした。それらを社会的に普及するメディアとして、TOLOテレビなどのテレビ局、FMラジオ局、多くの新聞社・出版社が生まれた。また、インターネットの普及により、YouTuberも誕生し、SNSも盛んになった。
40年間の戦争の期間に、悲惨さだけでなく未来を背負う確実な才能が育っている。『ウエッブ・アフガン』は、それらのすべてを紹介したいと思うが力量が圧倒的にたりない。しかし今号では、歌手Ariana Sayeedを紹介することができた。彼女の歌声はYoutubeで「Ariana Sayeed」と検索すれば多くのコンテンツがヒットする。そのほかにも、ネット上での検索で、アフガニスタンのエンターテイナーやアートに触れることができる。ぜひお試しあれ。

 

==========<金子 明>==========(2022年2月1日)

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第10弾。

今回のテーマは「部族と軍閥」

紹介してきた「アフガニスタン・ペーパーズ」だが、キンドルで読むと検索がたやすく、テーマ別に並べかえて読み直すときとても重宝する。これまで、やっぱ本は紙だよね、と思っていたが、電子本もありがたいなあ、と宗旨が揺らぐほどだ。さて359ページにも及ぶこの証言集だが、その中に、小説か映画の主人公になれそう、と私が勝手に思う人物が2人いる。1人は第6回で紹介したギャンブラー兼銀行王、シャーカーン・ファヌード。そしてもう1人が今回登場するマイケル・メトリンコである。

メトリンコは米国人。イランに派遣され1979年には例のテヘラン大使館事件で人質の1人となった伝説の外務担当官だ。2002年、米国がカーブルに大使館を再開するにあたり、政務部長として登用された。ダリー語で現地の人々と直接話せるというアメリカ人としては希有な外交官であった。そのメトリンコがターリバーンをどうとらえたのか、今回はそこから紐解き始めよう。

2003年、外務口述歴史企画によるインタビュー
「我々がターリバーンと呼ぶ活動の多くは実は部族的なもので、ライバルとの競争、昔からのいがみ合いだ。そのことを私に、何度も何度も何度も説明してくれたのは、ほら知ってるだろ、あの白い長いあごひげでやってきて、ひとたび座るや1時間も2時間もしゃべり続ける長老たちだった。現状について彼らが笑いながら説明してくれたこともあった。でも必ず言った言葉は、『君たち米兵はこれを理解しないねえ。』つまり、彼らの考えではターリバーンの行為は、ターリバーンたちそれぞれの家族内でもう100年以上続いている内輪のいがみ合いにすぎなかったのだ。」

この後メトリンコはCIAの現地活動を「ド素人、効果ゼロ」とこき下ろして痛快なのだが、ここでは長老の言う「家族」つまりアフガンの「部族」はターリバーンに対してどう動いたのか、証言をひとつ紹介しよう。

2017年、アフガン国防省の政府高官
「地域の部族長に尋ねた、『500人という大部隊の治安兵たちがなぜ20人か30人のターリバーンを倒せないのか』と。地元の長老たちはこう答えた、『治安部隊はターリバーンと戦って人々を守るためにここにいるのではない。金を稼ぐためにいるんだ』と。治安兵はアメリカが支給した武器や燃料を横流ししていたんだ。そこでこう問い直した、『わかった、政府はあなたたちを守らない。でもあなたたちはこの地区に3万人もいる。ターリバーンが嫌いなら戦うべきではないのか』と。彼らの答えはこうだった、『こんな腐敗した政府には来てもらいたくないし、ターリバーンも望まない。だからどっちが勝つのか見ながら待っているのだ。』」

なるほど、国民に支持されない政府では戦争の先行きは怪しかろう。ではアフガンの大統領府を支えたのは誰だったのか?こんな証言がある。

第2次ブッシュ政権(2005~2009)下の国家安全保障顧問
「カルザイは決して民主主義を買わなかったし、民主的な機関にも頼らなかった。彼が頼ったのはお得意さんの軍閥たち。私の印象では軍閥が舞い戻ったのは彼が欲したからだ。」

かつてソ連に占領されていたとき反乱分子としてアメリカの援助で軍事力を増大させ、麻薬取引や賄賂でしこたま金を稼ぐ軍閥たち。独自の紙幣を印刷したり、武装解除にまったく応じないなど大統領府も頭が痛かったようだ。かつてカンダハルに暮らし、後に米軍の市民アドバイザーを勤めたジャーナリスト、サラ・チェイスは2015年、学んだ教訓インタビューに答えてこう述べている:
「敵の敵は味方であるという考えに従って我々は軍閥に頼った。我々はターリバーンが軍閥を蹴り飛ばすことにわくわくしている国民たちがいることを知らなかった。」

メトリンコに講釈をたれた長老たちが言うように、これはただの家族間の権力闘争なのか?それが軍事力と財力を持つ軍閥同士の内輪もめとなると、国家の一大事だ。差別を受け、生活に困り果て、命を落とす国民もさぞ多いだろう。アフガニスタンの状況は予断を許さず、人々の暮らしはいま緊張の極みにある。

 

==========<野口壽一>==========(2022年2月1日)

先週の号で紹介したが、アフガニスタン女性の闘いの歴史は多彩で揺るぎがない。その歴史の積み重ねが現在の不屈の闘いにつながっているのだろう。先週23日からオスロで開かれたターリバーンと欧米各国との対面協議でもそのことが如実に示された。アフガニスタンからやってきた二人の女性代表のオスロでの活動を、現地カーブルでは女性たちが街頭に出てデモンストレーションし、支えている。パンジシールでの闘いを先頭になって支えているのも女性たちだ。
女性が変われば男も変わる。1917年のロシア革命は食料が尽きて女性が街頭に出、パンをよこせと叫んだことが発端だった。翌年の1918年、日本で全国規模で発生した米騒動も米価高騰で家計を圧迫された女たちの決起が発端だ。日本では革命は起こらず逆に騒動鎮圧とロシア革命をつぶすためのシベリア出兵につながった。
オスロでターリバーンと対決した女性たちは、全国民が寒さと飢餓に苦しむアフガニスタンにもどりターリバーンと対決し続ける。国際援助は彼女たちに直接手渡されるべきだ。国連や各国政府がそのための手立てを講じるよう要求し、実行を見守らなけばならない。

 

==========<金子 明>==========(2022年1月25日)

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第9弾。

今回のテーマは「ラムズフェルド雪片」
アメリカが同時多発テロで攻撃を受け、その仕返しとばかりアフガニスタンに侵攻したとき、国防長官はラムズフェルド(在任期間2001〜2006年)だった。彼は下っ端に出す指示や様々なコメントを短いメモに残した。薄い白い紙がいつのまにか机上に降り注ぐので「ラムズフェルド雪片」と呼ばれた。その積雪量は5万9千ページにも上り、雪片どころかブリザードだと、「アフガニスタン・ペーパーズ」の著者ウィットロックは形容している。当然おおかたは機密文書であった。それらがすべて保存されているのもさすがだが、ジョージワシントン大学に基盤を持つ非営利研究機関が裁判の結果勝利し、その全貌を明かにしたとは恐れ入る。大寒にはいった今回は「アフガニスタン・ペーパーズ」で引用されているラムズフェルド雪片をいくつか紹介しよう。

—2002年3月28日テレビのインタビュー番組で「米兵の生命を守るために、あの会見室で事実を曲げて伝えなくてはならないことはありましたか?」と聞かれ「そんなことは一度もなかった。我々は事実を曲げることよりも信頼性の方がはるかに重要だと考えている。我々は今後も軍服を着た男女の生命を守るために、我々の国の勝利を見届けるために、やるべきことをする。そこに嘘は含まれない。」と答えたが、その数時間前に2人のスタッフに伝えた極秘雪片:
「いま心配なのはアフガン情勢が漂流中であることだ。」

—同年4月17日午前10時15分、ブッシュはバージニア州立軍事学校で演説をした、「春が来ればまたぞろ殺し屋どもは息を吹き返しアフガニスタンの恒久平和への道に水を差すだろう。最初はうまくいっても、そのあとでもがき苦しみ、みな最後は失敗する。それはアフガニスタンでの軍事闘争の歴史が物語っている。だが我々はそんな失敗を繰り返さない。」その1時間前にペンタゴンのトップ4人(統合参謀本部の議長・副議長を含む)のデスクに降り積もった極秘雪片:
「米軍はずっとアフガニスタンに足留めだろう。安定をもたらす何かが起きぬ限りは。その何かをしっかり見極めてやっと撤退できる。助けてくれ!」

—同年6月25日、国内世論を恐れて米国の対テロ戦争に協力しかねるパキスタンのムシャラフ大統領に関して、ペンタゴンの政策主任への雪片:
「パキたちを今いる場所で対テロ戦争に参加して本気で戦わせたいなら、つまりパキスタン国内で戦わせたいなら、我々が金をしこたま手に入れればいいと思わないかい? そうすればムシャラフに与えて、彼を今の場所から、我々が望む場所へと配置転換できるだろう。」(この意見は通り、軍事・対テロの名目でその後6年間にわたり100億ドルが援助された。)

—同年10月21日、ブッシュに「今週フランク将軍とマクニール将軍にお会いしますか?」と尋ねたことについて:
「大統領は言った『マクニール将軍とは誰か?』そこで『アフガニスタンを統括している将軍です』と答えた。するとこう言った『そうか、彼と会う必要はない』と。」

—2003年(侵攻開始から約2年後)、諜報部長へのメモ:
「アフガニスタンで誰が悪い奴らかについては視界ゼロだ。人物評価に関する諜報量が圧倒的に不足している。」

—2004年10月、フランスの国防大臣(女性)がケシ産業によってカルザイ大統領の政治力が弱められると心配していることに関して:
「彼女は直ちに行動すべきだと考えている。さもないと麻薬資金がアフガン国会を牛耳り、国会がカルザイに反目し、政府を汚染してしまうと。」

—同年11月、ブッシュ政権の目的なき麻薬対策を批判して:
「アフガニスタンにおける麻薬対策は、てんでんバラバラに見える。どこにも責任者がいない。」

—同年12月、カルザイ大統領の就任式典出席をブッシュに報告して:
「決して忘れられない1日でした。カルザイ大統領は言いました、『やっと命が活動し始めた。米国がアフガニスタンに来る前、我々は静物画のようだった。あなたたちが来て、全てが生き返った。あなたたちの助けでここまでやってこられた』と。」

—2005年2月、ライス国務長官に極秘リポート「アフガン警察恐怖物語」を提出しアフガン警察の現状(無学・無装備・無準備)をこき下ろした際に併せて送った雪片:
「ぜひ一読ください。これがアフガニスタン国家警察の現状です。大問題です。私の印象では、この2ページは人知の及ぶ限り柔和に物議を招かぬよう書かれています。」

—2006年10月16日、ラムズフェルドの演説執筆者たちが書いた「アフガニスタン:5年後」という米アフガン政策よいしょ原稿(アメリカさんのおかげで、19000人を超える女性養鶏家が誕生したとか、道路交通の速度が3倍アップしたとかというデータ集)を絶賛して:
「この書類は秀逸だ。どう使おうか?新聞記事にすべきか? 署名入りか? 折り込みでもいいか? 記者会見もするか? いや、もっと衝撃的にやれないか? 大勢とびつくと思うぞ。」

この文書「Afghanistan: Five Years Later」をいまググっても何も出てこない。記事にはならなかったのか。欣喜雀躍したのはラムズフェルドだけだったのか。
翌月の中間選挙で共和党が敗れたのを機に彼は国防長官を辞任した。アフガニスタンとイラク、同時に2つの戦争を遂行した国家の英雄と呼ぶべきだろうか。残された雪片に触れると、いかに堅固な要塞に守られていたとはいえ、難しい時代を切り抜けた長官の心労がうかがい知れる。昨年6月29日没。その47日後にターリバーンがカーブルを制圧した。

 

==========<野口壽一>==========(2022年1月25日)

「視点」で紹介した『RAWA 声なき者の声―アフガニスタン女性革命協会』はネットで購入可能だが、 amazon.co.jp では品切れになっている。紀伊国屋書店のサイト https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784906456536 では注文は受け付けているが出版社より取り寄せとなっている。古本が出る場合もある。根気よく探してでも購入する価値がある。パンフレットを入手できなくても、RAWA本体のサイト http://www.rawa.org/ は日本語ページもあるのでそちらをご覧になることをお勧めする。思いもかけない情報が満載である。また日本を拠点として活動する「RAWAと連帯する会」(http://rawajp.org/)のホームページにも豊富な情報が掲載されている。同会はカンパ、あるいは会費の受付を行っている。(http://rawajp.org/?page_id=1195)独自に現地アフガニスタンのRAWAに直接送金するルートを確保した、とのことなので、同会に寄付すれば、ターリバーンに抜き取られることなく支援対象者に確実に届く。アフガニスタンの情勢、特に女性たちの闘いに注目しつづけること、できればいくらかでも支援金を送ることを実践し、周囲にも知らせてください。

 

==========<金子 明>==========(2022年1月10日)

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第8弾。

今回のテーマは「軍隊と警察」。ターリバーンとの戦争状態が続くなか、米国は早急にアフガニスタンの軍隊と警察を整備・強化する必要に迫られた。

軍隊に関しては2003年にブートキャンプをカーブル近郊に開設し、米国流の軍事訓練で効果を上げようとするのだが・・・

—訓練にあたった米歩兵将校/ブートキャンプに来た800名の新兵の中で射撃試験に合格したのは80名だけにもかかわらず全員が卒業できたことについて
「みんな訓練ごっこをしているだけだった。」

—2005年にアフガニスタンに赴任した銃器教官/スイカを棒に突き刺し地面に立て標的にした射撃訓練を行って
「そしてこう言った『よし、アフガン兵さんよ。あのスイカを撃ってみな。』するとただ当てずっぽうに撃ちまくる。で、スイカにはかすり傷すらつかない。」

—アフガン部隊に配属されたカンザス州兵
「銃撃が始まると、アフガン兵は飛び出して敵の銃火を目指して走り出す。そこには敵が構えており、来るのを待っているのだから狂っている。ずっと撃ち続け叫びながら敵を目指して山の斜面を駆け上がる。体は小さいが勇敢な男たちだ。しかし、そんな戦法は我々のやりたいビジネスではない。」

—軍用車両教習官を勤めたウィスコンシン州兵
「フルスロットルかフルブレーキ、とにかくそのどちらか。何かにぶつけても自分の責任だとは思わない。こう考えているんだ、『教官が新しいのを調達するだろう、これは壊れたんだから』とね。」

—戦略計画を担当する米少佐/アフガン兵に「米軍撤退後も軍隊に残るか?」と質問すると
「大多数が、私が話を聞いたほぼ全員が、『いいえ』と答えた。元に戻ってケシかマリファナか何かを育てるんだろう、そこに金があるんだから。これを聞いて私は堂々巡りに放り込まれた。」

警察組織の状況はさらに大変。

—アフガン警察と共働した米国家警備隊委員
「腐敗はひどい。もし家に強盗が入ったとしよう。警察に電話をする…すると警察が現れる。そしてその警察が2度目の強盗になる。」

2012年9月には、ザブール州内の戦地でターリバーンの動向を探っていた米兵がアフガン警察の裏切りにあって銃撃され、4名が死亡、2名が負傷する事件が起きた。

—負傷した米特殊技能兵の一人
「我々は奴らならやりかねないと思っていた。奴らの姿を見るたびに考えていた、『おまえたちいつか俺を殺すだろ』と。」

—元米国務省高官
「軍隊をあれほど短期間であれほど上手に構築できると考えるなど正気ではない。また18か月という期間では、米国内で持続可能な地方警察の一支部を立ち上げることすらできないだろう。同じ期間内に、アフガニスタンでそれを何百も作り上げるなんて、どうすれば期待できるんだ?」

なんだか愚直でくそ勇敢な軍人と、かなりあくどそうな警察官。ターリバーンが舞い戻った今それぞれどんな新年を迎えたのか。今年もアフガニスタンから目が離せない。

 

 

==========<野口壽一>==========(2022年1月10日)

オミクロン株コロナの急拡大が始まったと大騒ぎ。でも驚いてはいけない。なんせこれは終わりの始まり。極めて強い感染力なんて言って脅かしてるけど、そのほとんどは無症状で死亡者もほとんどいない。ウイルスは弱毒化して少しでも多くにとりついたものが生き残る。これ、感染症の真理。
100年前、PCRもワクチンもなく、ウイルスのなんたるかもよくわかっていなかったスペイン風邪も3年で終息。Covid-19はこれまでのウイルスとは違うというけれど、違うのは、病気診断ではなくウイルス検査にPCR法を大々的かつ全世界的に採用し、極端なワクチン偏重策をとったこと。重ねてこれまた偏執狂的な隔離やロックダウン策をとったこと。そんな認識や対策への「科学的」な考察や研究なしに重大な政策を繰り出し、結果として為政者には好都合な国民強制監視体制が出来上がりました。まさにコロナ対策に名をかりたジョージ・オーウェル的世界の実現。そしてこれはコロナが終わっても、たぶん日本では、マスクや手指消毒やワクチン、ソシアルディスタンスなどが、デフォルト社会体制として残るのでしょう。
なぜ今回のコロナパンデミックが起こったのか。それは人災ではなかったのか。コロナウイルスそのものの実態解明、検査法から対処法、病理・薬学・疫学研究の妥当性などなど、政府・行政・既得権益者を排除した研究の必要性を痛感します

 

 

==========<金子 明>==========(12月26日)

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第7弾。

今回は2003年春のイラク戦争とその後の混乱が米国のアフガン政策にもたらした影響について。

去る12月9日、米国防総省は過激派組織イスラム国掃討のためにイラクに駐留していた米軍がついにその戦闘任務を終了したと発表した。2003年春のイラク戦争とその後の混乱をやっとのことでひとまず終わらせたことになるが、この戦争が米国のアフガニスタン政策にもたらした影響は何か?今回も「アフガニスタン・ペーパーズ」を紐解き、関係者の証言を確認しよう:

ハーミド・カルザイ大統領(2003年5月1日、イラク戦争が終った日、カーブルでの記者発表にラムズフェルド米国防長官とともに出席して)
「君らみんなイラクにいってしまったと思ったよ。まだいたのか。よし。つまり世界はアフガニスタンに関心があるんだな。」

2003年夏に参謀としてアフガニスタンに着任した米軍大佐
「われわれが忘れられたというのではないが、明らかに人々の目は多くがイラクへと向けられた。」

イラク戦争当時ホワイトハウスとペンタゴンで働いていた職員
「物量的にも、政治的にも、すべてはイラクへと傾いて見えた。自分の役割すべてが二軍的なもの、最悪は“兵力節約部隊”の任務だという現実を受け入れるのはつらい。君の仕事は勝つことではなく、負けないことだと言われる。情緒的にも心理的にも、これはつらい。」

2003年8月アフガニスタンに着任した米陸軍大将
「陸軍が送ってよこした人の中に将来大将にまで出世しそうな人はいなかった。穏やかにいうと、陸軍は協力的ではなかった。彼らの頭は明らかにイラク漬けで、われわれに提供するものは本当に最低限の援助、それだけだった。よりによってパイプラインのどん詰まりにいるような人を送ってよこすんだ。」

イラク戦争当時アフガニスタンに送られた参謀たちの自虐ネタ
「ここは米国退職者協会の世界的最前線支部だからな。」

ブッシュとオバマの両政権で戦争指導者としてホワイトハウスに勤めた陸軍中将
「ターリバーンが弱体化し統制を失っていたときにうまくやれば、状況は変わっていたかもしれない。しかしわれわれはイラクへ行った。上手により迅速に金を使えば、結果は変わっていただろう。」

2003年10月、ビン=ラーディンからのビデオメッセージ
「アメリカ人たちはティグリスとユーフラテスの泥沼にはまった。」

2003年10月、ラムズフェルド雪片(メモ書き)
「われわれは地球的規模の対テロ戦争に勝つのか、負けるのか?有志連合はアフガニスタンでもイラクでも、何らかの方法で勝てるだろう。だが長くて大変なゴチャゴチャが続くぞ。」

アフガン兵を訓練した米軍曹
「2003年にイラクへ配属されるはずだったが、出発直前に変更命令が出てアフガニスタンに飛び、国軍の訓練を始めた。田舎に行って『さて何をしようか?』って。あの痛みは半端なかったな。」

野戦砲士官として駐留したテネシー州兵
「出発前に国内で講義を受けた。講師がパワーポイントを開いてこう始めた、『では諸君、イラクに行くとだな。』そこで俺は『別の戦争に行くのですが、』と言った。すると講師はこう答えた、『ああ。イラクとアフガニスタンね。同じだよ、』とね。」

ロナルド・ニューマン在アフガニスタン米国大使(任期2005年~2007年)
「アフガン政府への追加援助として6億ドルを要求したがブッシュ政権が用意したのは4300万ドルだった。『イラクで使うので君には渡せないよ、』とは誰も言わなかったが、実質起こったことはその通りだった。」

ラムズフェルドの後を継いだゲーツ国防長官(任期2006年~2011年)
「当時の優先項目は3つあった。イラク、イラク、そしてイラクだ。」
平和を求める戦争を仕掛けられ、その挙げ句に殺されたフセインさんはお気の毒だったとしか言いようがないが、イラク戦争がアフガニスタンにも暗い影を落としたことは上の証言からも明かだ。最後に長くアフガニスタン問題に関わったジェームズ・ドビンズ外交官のインタビューを引用する:
「わかるだろ。まずルールその一。一度に一つの国に侵攻せよ。クリントン時代を見ると、まずソマリアから撤退してハイチへ。ハイチを終わらせてバルカンへ。ボスニアを安定させてからコソボへと向かったんだ。一か国ずつでも時間と注意はハイレベルで注ぐ。それを一度に2か国も展開すれば機能不全に陥るのは必然だ。」

2003年夏に「すべてがアンダーコントロール」と大見得を切ったブッシュに対し、この言葉は重い。

 

==========<野口壽一>==========(12月26日)

バイデン大統領が主唱して「民主主義サミット」が開かれた。あわせて人権擁護のための共同行動として「北京冬季オリパラ・外交ボイコット」も呼びかけられた。だが世界の反応はいまいち迫力が感じられない。しかも、民主主義そのものの定義に関して中国から「民主主義にもいろいろあらーな」的な反論をされて腰砕け。〝な~んでだろ〟と考えてみると、結構あたりまえなんじゃないか。

そもそもいろんな団体がいろんな観点から(といってもほとんどは欧米の価値観なのだが)「民主主義ランキング」なるものが発表されている。英エコノミスト調査の民主主義度ではアメリカは24位で「欠陥がある民主主義」。ほとんどの国が欠陥民主主義以下か非民主主義国。大統領選挙で負けた候補が選挙結果無視のクーデターまがいの行動に走ったり、人種差別や移民の人権迫害などが日常化しているアメリカにはいわれたくないと内心思っている国が多いんじゃないか。

人権擁護の点でも国連決議を無視して違法な武力行使で領土を増やしたりパレスチナ人への武力や暴力を使った迫害を70年以上もつづけているイスラエルを物心両面で支えているアメリカが新疆ウイグル人のために人権擁護を叫んでも、二枚舌三枚舌の下心がミエミエ

「民主主義」にかんしても「民主主義は最悪」というチャーチルの有名な言葉は実は「民主主義は現状では最善」との逆説にすぎず、マルクスやレーニンの系譜をひく革命思想においてもマルクスのコミューン三原則を引くまでもなく民主主義は理想化されている。資本主義のブルジョワ独裁を隠すイチジクの葉にすぎない民主主義の対抗概念として「プロレタリア民主独裁」という言葉が生まれたり、党運営においても「民主集中制」など言う言葉さえ生まれてきたのである。北朝鮮の国名は「朝鮮民主主義人民共和国」である。アフガニスタンのPDPAも「アフガニスタン人民民主党」であった。

そもそも民主主義という概念は国民を支配するためのシステムを合理化するための思想にすぎず理想の政治形態ではない。そもそも政治や国家などないほうが人間にとってはいいのだがそのような社会は古代国家成立後いまだに存在していないし矛盾と欠陥に満ちた民主主義に変わるシステムを人間は「発明」していない。そもそも人が人を強権で支配するシステムの不要な社会こそが理想とされるべきなのだろうが、いまだ空想の領域。

だから、「民主主義」だとか「社会主義」だとか「〇〇主義」だと「〇〇教」だとかの抽象概念を振り回すのでなく、起きている事象(殺人だとか戦争だとか干ばつだとか飢餓だとか貧困だとか疫病だとか拉致だとか、その他もろもろの不幸そのもの)を直接阻止したり解消したりする努力をこそすべきだろう。そうすれば下心を隠す必要もなく、二枚舌三枚舌にだまされることも少なくなるじゃないだろうか。

 

==========<金子 明>==========(12月09日)

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第6弾。
今回はアフガニスタン・ペーパーズ第5章「さいなむ汚職」後半より抜粋について。

2010年夏のある日 、シャーカーン・ファヌードという名の国際的ポーカープレーヤーがカーブルにある米国大使館ビルを内密に訪れた。当時彼の肩書きはカーブル銀行会長、6年前43歳にして銀行業の砂漠地帯と言われたアフガニスタンで、決まった得意先もないままカーブル銀行を立ち上げ、瞬く間に国内最大の市中銀行に育て上げた稀代のギャンブラーだ。

成功の理由は 卓越したマーケティング戦略にあった。彼は預金者に利子ではなくクジをばらまいた。預金額100ドルごとに一度のクジ引き権を与え、賞品は洗濯機から自動車、新築マンションまでと預金者の射幸心を煽った。月に一度開かれる抽選会は国中で評判となり、アフガニスタン全土に支店が広がった。

ファヌードは銀行王となり 、ドバイで不動産投資に着手、アフガンのエアラインも買収し、ベガス、ロンドン、マカオなど世界のカジノの顔となった。「私のしていることは上品ではないし、本来やるべきことでもない。だがこれがアフガニスタンだ、」と以前ワシントンポスト紙の記者に自慢していた。

しかし2010年の7月彼が米国大使館に現れたとき 、その手にはカーブル銀行が崩壊寸前のカードの館だと暴露する秘密書類があった。ファヌードを含む数人の銀行株主がクジ狂いの顧客の預金を吸い出し数億ドルも自らに不正投資したことの証拠書類だ。金の多くは消え去り銀行は沈没の危機に瀕していた。組織内の権力闘争に敗北した彼は仕返しに全ての銀行業務を停止させようと米国外交官に申し出たのだ。

アフガンの財政を揺るがし、民衆蜂起を誘発しかねない金融スキャンダル だった。加えてカーブル銀行は政府の給与支払い銀行で25万もの兵士、警官、公務員が預金をしていた。その多くは座して預金を失う運命だった。また、カルザイ大統領の兄マームードは銀行の第3株主だったし、タジク人軍閥のモハメド・ファヒム・カーン将軍も大株主でカルザイを支えて副大統領を務めていた。

ファヌードは自分と共謀して銀行の資産を盗んだのはこの2人 だと非難した。その上、銀行がカルザイ大統領に選挙資金として2千万ドルを与えたとも訴えた。米国財務省のある高官は学んだ教訓インタビューで匿名を条件にこう語っている、「この腐敗を1点から10点までで採点するなら、堂々の20点だ。カーブル銀行の経営陣と国政を担っていた連中の関係は多岐にわたり、スパイ小説をまるごと一冊書けるほどの要素がぎっしりだ。」

以来数週間でファヌードを含む主な経営陣は辞職 し、支払い能力を疑問視する報道に驚いた数万の預金者が引き出しを求めて各地の支店に殺到した。カルザイ大統領は記者会見して、中央銀行が運営に乗り出して預金を保証すると発表し、収拾に努めた。ただし舞台裏は大変で、ドイツの銀行に頼みこんでフランクフルトから急遽3億ドルを空輸してもらい当座の危機を乗り越えた。

この事態は当然オバマ政権も無視できず 、カルザイにスキャンダルの徹底究明を促した。この出来事がアフガニスタンにおける一連の反汚職キャンペーン、ひいては戦争自体の分岐点だったと見る米国政府関係者は多い。ある匿名の政府高官は学んだ教訓インタビューでこう語った、「やりたいことは100万もあった。だが実行するには効率的なパートナーとしてカルザイ政権に頼らざるをえなかった。こんなスキャンダルが続けば、他の試みもみな同じ轍を踏むんじゃないか?みんな怒って嫌気がさした。これはいただけないと。」

とは言え米国も非難できる立場ではない 。兆しはあったのだ。前年9月の時点で米国大使館は国務省に電文を打っている、「ファヌードが所有する航空会社の便で大量の現金がドバイへ持ち出されている」と。その頃には諜報機関もカーブル銀行内で不正が行なわれているのを察知していたと学んだ教訓インタビューで語った匿名の米国政府高官もいる。「銀行からターリバーンや他の反乱分子に資金が流れているのをわが国の諜報部員がつきとめ、アフガンのいくつかの諜報組織に伝達した。だがそこから警察に話が進まなかった。彼らにそこまでの権限はないからね。」

ファヌードが大使館に現れる5か月も前 に、ポスト紙はカーブル銀行の危険な状況を記事にして、その中でファヌードもインタビューに答えている。アフガニスタン中央銀行のフィトラート総裁はそれを読んでショックを受け、米国財務省にカーブル銀行の調査を依頼した。カルザイがその着手の許可を出し渋るなど、一悶着の挙げ句、夏には調査が始まった。財務省の調査員はカーブルに着任し、3年もアフガニスタン中央銀行のもとで働いている米職員に面会し話し合った。テーマはもちろんカーブル銀行だ。2人ともまさか失墜直前だとは思いもしていない。その調査員は学んだ教訓インタビューでこう述べている、「一時間も話し合ったよ。こう聞いたんだ『財政的に健全な銀行かい?』と。彼は『はい』と答えた。で、文字通りその30日後にカードの館は全壊したんだ。私の職歴を通して最大のミスの一つだ。つぶれた10億ドルの銀行に対して、わが国が派遣したアドバイザーが財政的に健全だと太鼓判をおしたんだぞ。」

その後は中央銀行が業務を引き継いだが、 打ち合わせの席は皿や椅子を投げつけ合うなど混乱を極めた。翌2011年4月にやっと焦げ付き総額は10億ドルと発表された。フィトラート総裁は預金を食い物にしたカーブル銀行の株主の資産を凍結することを発表したが、政治的にも有力な株主たちは猛反発し、逆に総裁が米国に亡命した。当時を彼はこう回顧している、「アフガニスタンはマフィアが操る政治家グループの人質だった。彼らは国民の生活を改善するために集められた貴重な国際援助を盗み取ったのだ。」

悪党たちが処罰されたのは大統領がガニーに代わった2014年 だった。裁判が開かれ、ファヌードと共に銀行の代表だった重役には15年の刑が言い渡された。しかし、拘禁条件は軽く、なんと毎日刑務所を出て大規模な不動産取引の現場に出かけることが許されているという。他にも9人が罰金刑か1年以内で出所するなど大スキャンダルのわりに犯人の処分は甘い。ただ一人何の後ろ盾もないポーカープレーヤーのみが言い渡された通り15年の刑に服していた。しかし4年後、ファヌードは刑務所内で死を迎えた。享年55。アフガニスタンの混乱を象徴する男だった。

 

==========<野口壽一>==========(12月09日)

ターリバーンが復権して3カ月がすぎました。「視点」で批判しましたが、さすがにムッラー・ナカタほど全面肯定、全面賛美する人は少ないとはいえ、「ターリバーンって本当に悪いの?」とか「ムジャヒディーンや軍閥だって同じようなことをしたでしょ?」とか、マスコミでもいろいろ取りざたされています。

一言でいいます。悪いんです。

軍閥やムジャヒディーンや私が支援したPDPAだって、ソ連だってアメリカだって悪いところはたくさんあります。いまだに反省していなければそれらもみーんな〝悪〟です。
ターリバーンが悪いのは、過去の〝悪〟を反省をせず今でも政策として掲げ、受容を拒否する人に暴力・武力で強制し、従わなければ有無を言わさず終極的には殺してさらす(さらして殺す)から〝極悪の悪〟なんです。PDPAやソ連やアメリカは、その時のアフガンのあり様から一歩も二歩も〝未来の善〟を現実に持ってきて強制したから失敗したのです。善を掲げて武力で強制した行為は間違いであり〝悪〟です。しかしそれらはいまは反省されています(少なくとも表面的には)。
ターリバーンもアメリカと有志連合にその座を追われた第一期の失敗を反省しているようなそぶりを見せています。しかしそれは素振りだけ。本質は全然変わっていないし、むしろ悪賢くなっただけです。

今号に掲載したファテー・サミ氏の「米国アフガン占領20年の失敗―その原因<5> 」や「トピックス」で外電も明らかにしているようにさまざまな非道が現に今なされており、多数の命が理不尽に奪われているのです。とくに小生が強調したいのが、秦の始皇帝がやった焚書坑儒の現代版が繰り返されていることです。ぜひ、ファテー・サミ氏の告発をお読みください。

また、この同じヘラートでの暴挙を、長倉洋海さんが自身のブログ「アフガン情勢に関するメッセージ」で現地からの情報を引用しながら告発しています。また、もっとも現地でターリバーンと果敢に闘う女性たちを支援する「RAWAと連帯する会」が提供する情報も必見です。

 

 

==========<金子 明>==========(11月29日)

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第5弾。
今回はばらまきについて。

民主国家をこしらえるという旗印のもと米国がアフガニスタンでいかにすさまじい“ばらまき”をしたか。「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)から証言をいくつか紹介する。

—米国国際開発庁の元役人(オバマ政権下での援助額の急激な上昇について)
「あの急上昇のころは、人も金も大量にアフガニスタンに送られた。たったひとつの漏斗に水をいっぱい注いだようなものさ。あまり急いで注ぐと漏斗からあふれた水が地面にこぼれるだろ。われわれのせいで地面はまさに洪水だった。」

—米国国際開発庁の別の役人
「費やした9割は無駄だったと思う。われわれには客観性が欠けていた。金を与えられて、使えと言われ、その通りにした。理由も無く。」

—現地の援助請負業者
「おおまか米国の郡くらいの大きさの一地域に毎日おおまか300万ドルをばらまくよう役人たちに言われた。アメリカの議員が視察に来たので聞いてみた。『おたくの国では立法者が責任をもってこれほどの金を使えるか』と。かれは断じてないと答えた。そこでこう言ってやった、『いいですか、だんな。そんな大金をわれわれに使い切れと迫っているのがあなたたちだ。だから使っている、窓もない土くれでできた小屋に住まう社会のためにね。』」

—ダグラス・ルート中将(オバマ政権下の戦争政策指揮官)
「ダムや高速道路をつくるのに気前よく金を払ったのは、ただ払えるのを見せたいがためだった。世界最貧国の一つで教育水準も最低レベルにあるアフガン人ができあがった巨大施設を維持できないことも十分に知っていた。まあ、たまの無駄遣いもいいだろう。われわれは富める国だ。穴ぼこに金を捨てても銀行はへっちゃらだ。だが、それはやるべきことか?もっと理性的でいることが大事じゃないのか?あるとき米軍がひどい僻地の州警察本部ビルを建設した。正面とロビーはガラス貼りだった。だが完成セレモニーでリボンを切った警察署長はドアさえ開けられなかった。アメリカ人が現地に相談せずに設計したのは明白だ。署長はそんな取っ手を見たことがなかったんだ。この出来事は私にとってアフガニスタンでの全体験の縮図である。」

—特殊部隊のアドバイザー
「われわれは誰も通わない学校の隣に新たに学校を建てていた。何の意味もないよね。地元民は学校など本当は欲しくないとはっきり言っていた。子供たちには外で羊の群れを世話して欲しいんだと。」

—米国職員
「まず安定した地域でプロジェクトを成功させ、他を羨ましがらせないのか? これまで私がつきあった国民の中でもアフガン人は最も嫉妬深い部類に属する。でもわれわれはその国民性を利用もてこ入れもしなかった。その逆で、子供が危険すぎて家を出られないような地域にまず学校を建てたんだ。」

—カンダハル州知事(2008年から2015年在任)
「アメリカ人が推し進めようとした手洗いキャンペーンは国民への侮辱だった。ここでは祈りのため人々は一日五回も手洗いしているのだから。そんなものより、仕事と技術を身につけさせるプロジェクトが必要だ。」

—カナダ軍へのアドバイザーを務めた海軍大学院教授
「カンダハル州で仕事を提供しようと月90から100ドルで村人を雇い農業水路を整備させた。すると月60から80ドルの給料しかもらえない教員たちが仕事を辞めて水路掘りにいそしんだ。」

—米軍将校
「アフガニスタンの東部で50も学校を建て公教育を改善しようとした熱心な陸軍旅団があった。しかしターリバーンを助けることになってしまった。教員が足りなくて、校舎は見捨てられ、爆弾製造工場に落ちぶれたのさ。」

政治家の人気とりには手っ取り早い“ばらまき”であるが、ここまで来るとほとんど破壊工作のレベルである。アフガニスタンで20年にわたってこうした事態が繰り広げられていたのなら、いま国家を受け継いだターリバーンも苦労は絶えまい。外国の金や助けに頼らない国の自立、それがまず大事だろう。

 

 

==========<野口壽一>==========(11月29日)

今年はペルーがスペインから独立して200周年だそうです。それを記念する『ペルー映画祭』が始まったので初日に2作連続で観ました。「ペルーの叫び」と「クッキング・アップ・ドリームス」です。
「ペルーの叫び」は、36年ぶりにWカップ出場を果たしたペルーサッカーの努力と奮闘を、ペルーという国のありようと重ねて描いたドキュメント。ありきたりのスポ魂物語ではなく、ペルーという国の成り立ち、貧富の差、人種民族の差別、植民地の悲劇、現実を深く掘り下げて、ペルー人とはなにか、ペルーという国はいかにあるべきかを追求した超一級の作品でした。さらに上映後の日系ペルー人仲村渠夏江氏のトークも考えさせる内容で、深く胸にささりました。自身と両親のペールでの生活と歴史を重ねて「貧困・格差・人種、ぐちゃぐちゃでなにも進歩がないペルー」「自己肯定感の低い国民」をシビアに明らかにしつつ「ペルー人としての恥」を感じてきた。それは自分だけでなくほとんどのペルー人が感じていることで、だからこそ映画の原題「アイデンティティ」にこめられた自己探索にふれ、ペルー人はペルー人としての一体感をもとめている、との話に、なぜペルー人がペルー人として唯一熱狂できるのがサッカーだけだったのか、と、日本タイトルが「ペルーの叫び」と変えられている理由に得心しました。日本人が忘れて久しい問題意識、アフガン人がいままさに闘い求めている課題がそこにありました。素晴らしい映画でした。
2本目の「クッキング・アップ・ドリームス」は本国のペルー料理の紹介とそれを世界に広げようとする人びとの努力を描いた映画。興味と食欲がそそられます。こちらのトークはボクシングインストラクターでマチュピチュ観光大使の青年・片山慈英士氏。世界一周旅行中にマチュピチュのふもとの村で7カ月間足止めを食らい、その間に閉鎖されていたマチュピチュに唯一の観光客として訪問できた幸運を、ペルーとの友好運動として恩返しするに至った体験と現在の活動を紹介。こちらも興味深いものでした。
ペルーは日系人大統領が誕生したり、日本大使公邸占拠事件があったりと移民の昔からゆかりの深い国。
11月27日から12月10日まで、新宿K’s cinemaで毎日3本上映。この機会をお見逃しなく。情報はここをクリック

 

 

==========<金子 明>==========(11月15日)

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第4弾。
今回は麻薬対策について。

2006年春、米国とアフガニスタンは共同して麻薬撲滅作戦を開始した。米国が資金を提供し、アフガン兵がケシ畑をトラクターと棒切れで破壊し始めたのだ。その成果はどうだったか。

—ジョン・ウォルタース麻薬問題担当長官(記者会見で)
「わが国がもたらした成果はものすごい。状況は毎日良くなっている。ヘルマンド州(訳注:南部に位置し麻薬栽培が国内でもっとも盛んな地域)が対アヘン戦争の中心地で、州内の農民も宗教指導者も役人も皆がこの撲滅作戦を支持している。」

—麻薬撲滅作戦でアフガン兵の顧問を務めたケンタッキー州兵中佐
「大成功だったと言われているが、ただの純粋な牛糞だね。作戦のどこにも何の値打ちもないよ。」

—米軍事顧問としてアフガン人部隊と行動を共にした少佐
「撲滅作戦は(有力者の畑には手をつけないなど)違法な作戦だった。国民の金を巻き上げる悪党どもに安全を提供しているのなら、われわれは国民に間違ったメッセージを伝えていることになる。いまにも反乱が起きるのではないかと心配で、作戦の終わる頃には髪が白くなったよ。本当さ。」

—駐留米軍副司令官の副官
「麻薬商人はケシの乾燥樹脂などどこからでも入手できるので、契約した農家の畑がつぶされてもただこう言うだけさ、『去年の冬に2千ドル渡したんだから、お前は俺に18キロ分の借りがある。なのに乾燥樹脂を渡せないというなら、お前か女房か子供たちを殺すぞ。ただ、もう一つ手がある。この銃を取って俺がアメリカ人と戦うのを手伝え』と。われわれのせいで全住民が敵に回った。ヘルマンド州は爆発したのさ。」

—ロナルド・ニューマン駐アフガニスタン大使(本国への電文で)
「撲滅作戦の結果、より多くのターリバーンがヘルマンド州で戦おうと集まってきた。おそらく自らの財政基盤を維持するためと、ケシの収穫を『守る』ことで地元民たちの支持を得るために。」

—ケンタッキー州兵
「麻薬撲滅作戦でわれわれを引き継いだ英軍は、わずか1週間で戦死者、戦傷者ともに数がはねあがった。麻薬王が加勢し、ターリバーンが加勢し、ほんとうに大変になった。」

—アフガニスタンの麻薬対策状況を視察した米下院議員(本国への機密電文で)
「ケシ畑は本当にどこにでもある。何百もの大きなケシ畑がヘリコプターから確認でき、生育の各段階にあった。満開の畑も多かった。」

—米国務省の南アジア対策を監督した上級外交官
「軍隊には同情します。防弾ジャケットを着てケシをみかけたら、わたしも『ああきれいな花だな』と言うだけだろう。花を刈るために戦地に来たのではない。なのに、花を刈ると農民が敵になりどこかから撃ってくる。」

—米麻薬取締局幹部
「対テロリストの場合なら政府に楯突く首領を殺せばいい。だが、アフガニスタンの麻薬ネットワークと戦うときは、首領を殺せない。そいつが政府のシステム内で囲われているから。」

—麻薬撲滅作戦の調整役を務めた米軍中佐
「こう尋ねる村人は結構いた、『中佐、あんたの国の人たちが欲しがり使っているものを、なんで撲滅するんだい?』とね。そこを彼らは理解できなかった。」

<金子>
アフガニスタンで育ったケシからとれた麻薬はそのほとんどが西側諸国で消費されているという。売る方も悪いが、買う方も悪いと言える。また30年という長期の戦争で耕地は荒れ、地雷もたくさん埋められている。ケシを育てて生き延びようとする農民を、簡単には非難できまい。

紹介している「アフガニスタン・ペーパーズ」の証言は、その多くが米国のアフガニスタン復興担当特別監察官による当事者へのインタビュー からなる。「学んだ教訓/Lessons Learned」というありがたい名称のプロジェクトだ。その中身を法廷闘争の末に著者が入手して公開した。先のロナルド・ニューマン大使は、後にそのインタビューに答えてこう語っている。

短期間で結果を出せという死に物狂いの圧力があった。国会が目に見える成果を欲しがったんだ。、農村全体を発展させようとする努力によってのみ麻薬対策が成功し機能することをワシントンは理解しなかった。

この教訓から学ぶものは大きい。

 

==========<野口壽一>==========(11月15日)

ガニー政権下で国家和解高等評議会議長を務めていたアブドラ・アブドラ氏。報道によれば元大統領のカルザイ氏とともにカーブルに残ってターリバーンとの交渉に当たっている、とのこと彼のツイッターをみると、11月8日にカーブルに駐在しているパキスタン大使と会って「アフガンの現状および今後の永続的な平和と安定を促進する方法を検討した」という。結構な邸宅にお住いのようで翌日は、同じ応接間で国連アフガニスタン支援ミッションの副代表とお会いになっているようだ。カルザイ氏も同様にカーブルに残り、アブドラ氏と連動して行動している。
1996年の第1次ターリバーンカーブル開城の時にはナジブラー元大統領と弟らを惨殺し死体を凌辱のうえ広場につるすという残虐行為を行い(パシュトゥーンの伝統的懲罰法)、世界のヒンシュクをかったので、今回はその旧政権の二人を丁重に扱っているようだ。ターリバーンは格段に成長している。われわれ『ウエッブ・アフガン』のみたてによれば、そもそもガニー政権とターリバーンは一体=メダルの裏表で裏はアメリカが仕切っている(かなり下手を打ってるけど)。
ターリバーンの宿題は、広範な国民を包摂し支持される政権となること。明治維新では徳川政権の責任は東北列藩同盟にとらせて徳川時代の遺産をごっそり薩長がいただいた。ターリバーンも、ガニーには金をわたして逃がし(薩長も徳川慶喜を殺さなかった)、西側が築いた20年のインフラと人材を頂戴しようと考えているようだ。
果たして、ターリバーンはアブドラ氏らを使って日本のようにうまいことやれるだろうか。アフガニスタンの民衆レベルでは、ターリバーンよりもカルザイ・ガニ政権の評判は悪いんだけど、大丈夫?

 

 

==========<金子 明>==========

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers: A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第3弾。先週日本でも総選挙があったので、今回のテーマは選挙。みんな投票したかい?誰も言わんが、投票するにはハガキも身分証明書もいらない、ただ住所と氏名を告げればOK! そんな当然の権利に関する情報が国民に知らされていない。効率優先国家日本の問題はそこなんだよね。では、行こう:

—ラムズフェルド国防長官(記者会見で)
「アフガニスタンでは選挙などうまく行かないと皆が言った。『500年やったことがない。ターリバーンが立て直している。戻ってきてみんな殺すぞ。そしてわれわれは泥沼にはまる』とね。だが見て驚け。アフガニスタンで選挙だぞ。すごいだろ。

—東部ガズニ州に6か月駐留した大佐(1990年代バルカン戦争のベテラン)
「ボスニアとコソボでは、まず地域の選挙から始めて州選挙、国政選挙へと段階的に進めた。しかしアフガニスタンでやったことは全く逆だった。国民にまず大統領を選挙させた。そしてここらの人々はほとんどが投票の意味さえ知らなかった。そう、指に紫のインクを塗っていたよ。田舎の環境ではとても難しい試みだったと思うね。そう言えば、パトロールに出た部隊が尋ねられたことがあったな、『ロシア人が戻って来て何やってんだ?』とね。ここらの人々は米軍がいることすら知らなかったんだ。駐留して2、3年はたっていたのに。

—ゲイツ国防長官
「カルザイが軍閥と取引して選挙で詐欺を働いたのには訳がある。前回の選挙のようにわれわれが彼を支持しなかったので、彼はわれわれが自分から離れてしまったと気づいた んだ。そこでわれわれに基本的には『くたばってしまえ』と言ったんだ。」

—ノルウェーの外交官
(NATO国防相会議での発言前、隣席のゲイツにこっそりと)
「今から大臣たちにアフガンの選挙で露骨な干渉があったと伝える。ただそれが米国とホルブルック (訳注:オバマ政権下のアフガニスタン・パキスタン問題担当特使)の仕業だとは言わないよ 。」

—カルザイ大統領(2010年4月の演説)
「詐欺まみれの選挙となったのは私を陥れようとする外国人のせいだ。部外者が私への圧力を止めないなら、ターリバーンに加わることも辞さない 。」

 

アフガニスタンの女性国会議員ファウジア・クーフィ氏(バダクシャン州選出)による自伝「お気に入りの娘」も面白い。彼女は投票所で誰々に入れろと指図している担当官を非難したり、反対派が捨てた自分宛の300票を見つけ出すなど、すったもんだの挙げ句当選した。アフガニスタンの国政選挙では各州で少なくとも2名の女性議員が選ばれるという割り当て制が採用されており、1800票でも当選だった。しかし彼女は8000票を集め、割り当てがなくても当選だったと自慢している。割り当て制について、女性の進出のためには良いことだと認めつつ、彼女は心配している。「そのせいで私たち女性議員が真剣に受け止めてもらえないかも。平等な場で人々の票を獲得したい」と

話は変わるが、戦前の英国映画はハリウッド製の米国映画には、人気実力ともはるかに及ばなかった。そこで国内の映画産業を守ろうとした政府は割り当て制を導入した。つまりある本数の映画を国内で作った会社だけが米国映画を輸入できると決めたのだ。その結果「クイッキー」と呼ばれる駄作群があたま数あわせのために乱造され、かえって英国映画の質を落としたという。

日本でも女性の政界進出を促すため割り当て制の導入が必要だ、他の先進国並みに、との声がある。政界のみならずすべての分野で女性の進出には大賛成だが、付け焼き刃的な対策はいかがなものかと考えさせられる逸話である。

(2021年11月8日)

 

==========<野口壽一>==========

精力的にアフガン情報を発信している長倉洋海さんのブログページで興味深い記事を拝見しました。
ターリバーンの州知事の1人が、フランス人ジャーナリストに「アフガニスタンはどこかわかりますか」と問われ、机の上にあった地球儀を手に取ったが、どこかわからない。「ココですよ」と指さされ、「あっ、このグリーンのところがそうだね」と答える動画です。【動画はここ】
この州知事は若い。40歳くらいかもしれません。ソ連軍の侵攻から40年以上たっているわけですから難民暮らしで満足な学校教育を受けたことがないのかもしれません。神学校(マドラサ)と言ってもモスクの片隅で床にあぐらをかいて体を揺らしながら熱心にコーランを暗唱している映像を見ます。コーランのみの授業しか受けたことがなく成人したのは自動小銃を抱えた戦場だったのかもしれません。悪評高いターリバーンですが、曲がりなりにも米欧軍を追い出し自分たちの世界を取り戻しつつあります。世の中はネット社会。いまは世界のどんな田舎でもネットで世界とつながっています。貪欲に外の世界の情報を吸収して自分たちの生活に生かしてほしいと願います。

(2021年11月9日)

 

==========<金子 明>==========

前回紹介した本「アフガニスタン・ペーパーズ」には面白い証言が満載なので引き続きいくつか。今回は米国がアフガニスタンで樹立を図った政権がいかに国の実情にそぐわなかったかを証言によって探ってみる。

EUの役人
「あとから見れば、中央集権を目指したのが最悪の判断だった。」

ドイツの高官
「ターリバーンが落ちたあと、われわれはすぐに大統領が必要だと考えたが、それは間違いだった。」

米国高官
「アメリカ型の大統領制など海外で決して通用しないのは知っての通りだ。なぜわれわれは中央集権政府を築き上げたのか、そんなものが一度もなかった場所で。」

米国の上級外交官
「強力な中央政府を築き上げるのに必要な時間枠は百年だ。われわれにそんな時間はなかった。」

米国務省主任報道官
「われわれは何をしているのかわからなかった。アフガニスタンが国としてうまく機能したのは、ある大物が出てきて種族と軍閥のごった煮をうまく料理したときだけ。しかも、お互いあんまり喧嘩するなよというレベルだ。それがわが国の州か何かのようになると思ったのがそもそもの間違い。おかげで2、3年で終わるはずがわれわれは15年も苦しんでいる。」

—ウルーズガン州駐留の大隊司令官
「まず、なぜ政府がいるのかを多くの人に証明しなければならなかった。みんな僻地の人だからね。いろんな場所があるだろうが、ともかくここでは中央政府が食わせてくれるわけじゃない。中央集権政府を持つメリットなど理解しないし見向きもしない。『羊と山羊と野菜をこの狭い土地で何百年も育ててきた。中央政府なんか持ったこともない。なぜいまさらそんなものがいるのかい?』とね。」

NATOカーブル本部に特派された米陸軍中佐
「彼らは家族や種族に対してとても長い忠誠の歴史を持っている。チャグチャラン(訳注:ヘラートの西380キロ、アフガン中部の町)の通りで座っている男にとっては、ハーミド・カルザイ大統領が何者かも、カーブルで政府を代表していることもまったく興味外だ。モンティ・パイソンの映画を思い出したよ。ほら王が泥まみれの農民のそばを馬で行くだろ。農民に向かってこう言った、『我は王だ。』すると農民は振り返って『王って何だ?』と返すやつ。」

ちなみにモンティ・パイソンの映画とは1975年公開の「モンティ・パイソンと聖杯」で、正しくはこんな会話が交わされる:
王「我はアーサー、ブリトンの王だ。あれは誰の城か?」
女「何の王だって?」
王「ブリトンだ。」
女「ブリトンって何よ?」
ところで、このアーサーは馬に乗っているのではない。後につく従者がココナッツをたたいて蹄の音を響かせ、ただパカランパカランとトロット走りをしているだけ。何とも辛辣なたとえではある。

どうやらこのタイプの政府を樹立したことそのものが間違いだったようで、それを認めるのは勝手だが、残された国民はたまったものじゃない。

(2021年11月1日)

 

==========<野口壽一>==========

衆院総選挙、驚きました。
大阪選挙区では自民全滅。公明党との合意のもと議席をゆずった4選挙区以外の15選挙区はすべて維新の勝ちです。いうならば維公全勝。ターリバーンのカーブル無血開城の時以上の驚きです。

マスメディアの評価は、まあ、可もなく不可もなし、というところでしょうか。
<毎日新聞>「勝者なしという民意」
<朝日新聞>「政権与党の〝勝ちすぎ〟を嫌ったものではあっても、政権交代を求めるものではなかった」
<日経新聞>「争点なき政治の危機」
<讀賣新聞>「与野党のどちらにも、〝追い風〟は吹かなかった」
<産経新聞>「安定勢力で成果を挙げよ 対中抑止に本腰を入れる時」

野党がだらしないというか、経済にしろコロナにしろ、安全保障にせよ、与野党の主張に大差なし(共産党を除く)の現状では、有権者としても燃えようがない。「候補者の人柄や主張をよく検討して必ず投票に行こう」とマスコミは言うが、現状の小選挙区制のもとではそんな選択はできない。日本の政治はとっくに政党政治に切り替わっているのだ。
そんななか、大阪小選挙区の結果には驚愕する。19小選挙区のうち維新が15、のこり4区は公明だ。しかも維新と公明はお互いに対立候補をださない協定を結んでいる。つまり、維公100%勝利である。自民全敗。小選挙区制の特徴をかくも見事に具現化した選挙結果を初めてみた。大方の批評では、コロナで顔と名前を売った吉村知事の功績と分析しているが、ひとたびポピュリズムの風が吹けば一夜にして天地がひっくり返るほどの変化に見舞われかねない脆弱な議会制度のもとにわが国はあるのだな、と実感した。
政治の劣化は言われて久しいが、官僚機構も大企業もそれに負けず劣らず劣化している。今の政治システムのままだと、ある日突然大激変ということがありうるのではないか。

(2021年11月1日)

 

==========<金子 明>==========

ターリバーンが旧政権を追い出して2か月になる。この間に当サイトにもいろいろな記事を上げてきたが、その中に「アフガニスタン・ペーパーズ(Afghanistan Papers)」を引用した記述があり、興味を持った。そこで、いい世の中になったなあと思いつつキンドルをクリックし即座に入手した。ワシントンポスト紙の記者が米政府を相手に裁判を起こし、勝訴。いくつかの極秘文書を公開させ、それをもとに書いた記事を書籍化したという。なるほど、米国では不都合な書類でも溶解したりはせず、また経口歴史というインタビューによる歴史記録が調査学問としてあるのかと感心した。いいとこどりではあろうが、うまく章立てされており解説文も楽しめた。紹介がてら少し引用すると:

国軍の兵士について/ブートキャンプの教官だった米軍少佐
「基礎訓練で脱落する者はいない。50回引き金が引ければ全部はずれでも  問題なし。弾の飛ぶ方向が正しければ良しとされた。」
アフガン警察について/警察を指導した米国家警備隊少佐
「問題があっても警察には行かないで村の長老に訴える。長老はそいつが気に入れば好きなようにしろと言い、気に入らなければ羊か山羊を持ってこないと撃ち殺すぞと脅す。」
カルザイ大統領について/国際麻薬法執行局アフガニスタン支部長
「麻薬対策をカルザイに強制するのは米大統領にミシシッピ川以西の米経済を全て停止せよと要請するのと同じ。それほどインパクトのある要請だ。」
ケシ栽培について/麻薬撲滅作戦の指南役を務めた米国家警備隊大佐
「ヘルマンド州の人たちは収入の9割をケシの売り上げに頼っている。それを取り上げるのがこの作戦だ。そう、もちろん彼らは武器を手にして撃ってくる。生計を奪ったのだから。食わせる家族がいるのに。」
汚職について/米国務省アドバイザー
「汚職はアフガンの問題でわれわれがそれを解決すると大方は思っている。しかし汚職には材料がいる。金だ。その金を持っていたのがわれわれだった。」
職について/在カーブル米大使館の高級外交官
「もちろん悲しくてうかつな話だが、われわれが成し遂げたことはただひとつ、汚職の大量生産だったのかも知れない。この失敗がわれわれの努力の終着点だ。」
腐敗選挙について/カーブルで勤務したドイツ人官吏
「人々はお互いに言ったものさ。だれだれが米大使館に行ってこの金額をもらったと。聞いたものは『よし、俺も行こう』と続いた。つまり彼らの民主主義とは最初から金にまみれた体験だった。」
「ターリバーンが橋を壊した。アメリカ人の役人は付け替えたい。1週間もしないうちに町の建設会社に新たな橋の建設を発注した。その社長の弟は地元ターリバーンのメンバーで、2人の事業は大盛況。知らぬはアメリカ人ばかりだった。」

米国が「やーめた」と放り出したあとアフガニスタンでこれから何が起こるのか。それを考える上で、この20年間に米国が果たした役割、その功罪について知っておくことは大切だろう。アフガニスタンに興味を持つものにとって必読の一冊である。

(2021年10月18日)

 

==========<野口壽一>==========

ターリバーンがカーブルに入城して2か月。編集部にはさまざまな情報が届くようになった。原理主義のターリバーンといえども、20年前そのままを実行するわけにいかないのだろう。

カーブル市内を巡回するターリバーンの一般兵は相変わらずに見えるが、スマホ手に自撮りをしている映像が流れてきたりする。そもそも大統領府にはいって大統領執務室からの映像も、20年前なら略奪されるか破壊されそうな絵画の前に陣取ってポーズを取ったりしている。拉致犯と称して殺害し市中にさらしたりつるし首のリンチをしたりしているのは相変わらずだ。しかも今回も、与しやすいと見たのか、女性隔離だけは多少の手直しをして厳格に実施している。しかし、女性の反撃はすさまじい。銃で脅しても効き目はなさそうだ。学校に行く権利ももちろんだが、生きていくための最低限の要求、仕事や食糧の確保に必死だからだ。

アフガニスタンの冬は厳しい。冬は戦闘も中止だった。今回は行政能力のない、しかも外国からの援助も途絶えたターリバーン統治のアフガニスタンだ。家があっても食料が乏しいのに、家のない国内避難民だけでも数十万人いるという。餓死、凍死の危険が迫っている。

そんななかでISによる爆破テロが増えてきている。内輪もめ、内部対立も厳しくなっているのだろう。悲惨なニュースを収集して危機感をあおるだけではだめだと思って、できるだけ未来のある情報を探っている。これまでは海外に避難しているアフガン人からの情報が多かったが、今回は、アメリカ初の女性解放運動『One Billion Rising』の活動を紹介することができた。趣旨、活動内容、規模のどれを取ってみても心強い運動だ。日本であまり知られていないのが意外だったが、世界では有名な運動だ。こんなところにも内向き日本の弊害がでているようだ。今後、この運動には注目していこうと思う。

(2021年10月18日)

 

==========<金子 明>==========

1994年春、館山行きの各駅停車でたまたま隣席だった老婦人と話をした。彼女は内房にあるとある宗教施設で開かれる「集まり」に行く途中だと言う。東京の東部にある町のタバコ屋の看板娘だったとのことで、確かに端正な顔立ちだった。

話しているうちに「ご主人はお元気ですか?」と聞くと、面白い返事がかえってきた。「ある日、消えたのです」と。彼女の夫は戦中モンゴルでラマ僧をしていた。日本のスパイである。市場などをうろつき人々の噂話を収集し軍部に報告していたらしい。帰国後彼女と結婚して家庭を築き、何不自由なく暮らしていたが、終戦から45年を過ぎて忽然と姿を消した。「モンゴルのうちに戻ったのでしょう」と語る彼女に夫を取り戻したいという思いはまったく見えず、かの地でもうひとつの家族と幸せな最後を迎えて欲しいと願っているようだった。いまとなっては彼の諜報活動の成果を評価する術はない。また莫大な量の情報が電話とインターネットを介して伝達される現代において、市場で交わされる人々の会話がどれほど諜報的意味を持つかは知らない。

ただそんな昔話を思い出したのは、アフガニスタンでは特に地方では未だにこうした原初的な情報がものを言うかもしれないと感じたからである。

このサイトはアフガニスタンに関するさまざまな情報をインタラクティブに提供しあう場である。
・米国が20年前に侵攻し滅ぼしたのがターリバーン政権で、いま米軍がきえターリバーンが再び政権につくのなら、この20年はいったい何だったのか?
それは誰もがいだく疑問だろう。米軍の撤退でいきなり火がついた報道合戦からは異なった視点で、この疑問へのこたえをさぐっていきたい。そのために、手元にとどいた質問をファテー・サミ氏らこのサイトの情報源にぶつけていく。
・6月に直接対談したガニーとバイデンだが、今になってその中身が漏れ聞こえてくることがあるか?
・各所でおきていた反ターリバーンの民衆蜂起は制圧されてしまったのか?
・パキスタンがターリバーンへの支援を真っ向から否定するのはなぜか、またパキスタン軍はどこまで関与しているのか?
・インドは現状をどう見て、今後どんな行動に出るのか?
・中国はターリバーン政権を認めそうだが、国内の対イスラム政策への影響は?
など。こうした質問へのこたえの中にアフガニスタンの現状を読み解き、将来の平和につながる手がかりが見えてくることを期待している。

(2021年9月2日)

 

==========<野口壽一>==========

9月1日のグランドオープンに向けた編集作業はアフガニスタン現地同様、激動の日々だった。
トピックスの編集のため海外メディアの報道をフォローするだけで日が暮れる。アフガニスタン問題を根底から理解するための書籍や日本の政府機関、研究機関の研究や提言のなかから、今必要なものをピックアップするだけで何日も過ぎてしまう。その間に見るのはアメリカ軍のもたもたした撤収模様。IS-Kの自爆攻撃。カーブル空港での混乱や自衛隊機の空輸作戦の失敗など、記録に残したくもない悲劇が繰り広げられる。(下の絵を描いたサラ・ラフマニさんはアフガン出身。カリフォルニア在住。詳しくはここをご覧ください。)
悲劇の舞台となったカーブル空港。僕らが何度も離着陸したことのある、あのカーブル空港。周囲を山に囲まれた狭い空港の滑走路に直進して着陸するにはその山をすれすれに飛ばなければならない。そうすると、アメリカがムジャヒディンに供与したスティンガーミサイルの格好の餌食となってしまう。だから、着陸も離陸も、空港上空でらせんを描きながら下降上昇し、加えて熱戦追尾式ミサイルであるスティンガーの追尾をくらますため、フレアを撒きらせん状に下降上昇する。ぐるぐる渦巻くフレアの炎と白い煙が空中芸術のように青空に映えた。
離陸する米軍輸送機にしがみついて振り落とされる人影の映像。カーブルに残るリスクより振り落とされて死ぬリスクの方が小さいと考える究極の行動判断。フレアを撒きながららせんを描いて上昇する航空機に乗って自分は帰ってきた。あのときのカーブル空港も戦場だったんだな。

もうひとつ。「アフガンの声」でFateh Sami氏が強調する、アフガン市民の戦う意欲。ガニー政権の指示でターリバーンに投降する国軍とは異なり、腐りきったシステムの下でも市民的権利と自由を築きつつあった人びとがいる。日本ではほとんど報道されないが、アフガニスタン国内にも国外にもたくさんのアフガン人が戦いに立ち上がろうとしている。その端緒を、8月28日の世界35カ国一斉行動に見た。今回はアムステルダムとロンドンしか紹介できなかったが、ネット上には難民として国外に出ざるを得なかった人びとが現地の心ある人びとと一緒に行動に立ち上がっている。確かに、ターリバーンの8月15日のカーブル占拠は、こんどこそアフガン人の手で中世の闇を終わらせるその始まりの日に違いない、と確信した。しかも、このふたつの都市の行動の先頭に立っているのは女性たちだ。日本アフガン合作記録映画『よみがえれカレーズ』の撮影に同行した時、監督の土本典昭さんが「その国の社会がどんなものか見るには女性や子供や老人や障がい者などをどうあつかっているか観察するのが一番だ」と繰り返されていたのを思い出す。今号のトップで紹介した詩「ガニーを逮捕せよ」の作者もヘラートの女性活動家だ。
アフガニスタンの女性たちは確実に新しい社会の扉をひらく強力な導き手だ。

(2021年9月1日)

 

=======<金子 明>=======

バーミヤンがあるくらいだから、大むかしは仏教がさかんだったんだろう。
立派な絨毯が有名みたいだけど、高いしうちには必要ないね。殺された中村哲さんは残念だったな。そういや、タリバーンのオマル師はどうなったの?アフガニスタンと聞いて思いつくのはそれくらいだった。しかし、このサイトを立ち上げた野口さんと最近であい、この国では数十年も内戦状態が続いていることを思い出した。なかは多民族でまとまりを欠いてぐちゃぐちゃ。そとはまわりや遠方のいろんな国からちょっかいをだされて大変。悲惨だなあ。日本は平和でよかったね、と通りすぎるのがおおかたの日本人だろう。
しかし、「最後の焼け跡派」を自称する自分にとって、戦争にはみすごせぬ魅力がある。ひいじいさんは、高砂の底のほうで機械をいじっていたため今も旅順港に沈んでいる。とうちゃんは、開拓義勇軍として張学良の兵舎を守っていたというが、戦後6年間もシベリアでおつとめ。帰宅時、見たこともない弟(わたしのおじ)がたまげて逃げ、「のきに乞食がおるがあ」と家人に訴えた。かあちゃんの小学校の先生は、生徒の胸に輝く万年筆をみつけて取り上げたが、爆発して片腕になった。その万年筆は米機が落とした仕掛け爆弾だった。
このたび、米軍が撤退するのにあわせて、戦闘も激しくなっている。たんに遠い国のはなしではない。アフガニスタンは隣国の隣国である。これまでの経験とひまな午前中と週末が、その和平にほんのちょっとでも貢献できればこれ以上のしあわせはない。

金子明 略歴 1958年愛媛県生まれ 元テレビの派遣ディレクター 担当した番組は「朝まで生テレビ」「知ってるつもり」「ステーションEYE」「どうぶつ奇想天外!」「見える歴史」「おはなしのくに」など 現在は放課後児童クラブの補助員

 

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=======<野口壽一>=======

思えばいつの間にかアフガニスタンとの付き合いは41年を超えた。
1979年12月、ソ連軍がアフガニスタンに進駐。世界中が大騒ぎとなった。西側諸国はこぞって制裁をかけ翌年のモスクワオリンピックもボイコットしアフガニスタンへの正式取材もされなくなった。
そんななか、駐日アフガン大使と知り合い日本から最初の正式取材記者としてジャーナリストビザを獲得。1980年8月、タイ、インドを経由して42日間現地を取材した。帰国後、アフガニスタンでなにが起きているのか、スライドプロジェクターをかついで日本中で報告しまくった。翌年、写真記録『新生アフガニスタンへの旅』を上梓。さまざまな人びとと知り合いになり<アフガニスタンを知る会>をつくり、数年後<アフガニスタン友好協会>に発展させ友好連帯活動に走りまわった。その間、内戦が激しくなって中止するまで数年にわたって延べ100人以上を友好訪問団としてアフガニスタンへ派遣したり、鉛筆5万本やノート、古着など支援物資をコンテナ便で何度か送った。87年にはアフガニスタン政府からの要請をうけ新社会建設を支援するため貿易を主とする株式会社キャラバンを設立。88年から89年にかけては土本典昭監督の『よみがえれカレーズ』の制作に原案者としてかかわり、88年4月から同年10月までの半年間は、奈良で開かれた「なら・シルクロード博覧会」にアフガニスタンを代表してアフガン文物を出展販売した。1991年ソ連崩壊、92年アフガニスタン共和国崩壊により、アフガニスタンとの連絡が絶たれた。以後、北部同盟政権下で内戦はより激しくなり、タリバンが登場するにおよびますますアフガニスタン本国との関係は疎遠となり、亡命して各国に散った友人たちと連絡を取り合うだけの関係となった。2001年、9.11事件が起き、アフガニスタンは再び世界政治のホットスポットとなった。アメリカと有志連合がアフガニスタンに侵攻しタリバン政府を倒し、EUと日本など西側諸国が援助してアフガニスタンの平和と発展を支えることとなった。日本は経済や技術での支援を担当し東京会議が開かれた。2003年2月にはカルザイ大統領以下新政権のトップが東京に勢ぞろいした。このとき、新政権の支持を要請され、カルザイ大統領(写真中央。その左はアブドゥラー氏)との面会が設定され帝国ホテルで待つこと5時間、天皇や首相らとの会見で時間が取れなくなった大統領に代わりNo.2のアブドゥラー氏と面談することとなった。(写真下。アブドゥラー氏と名刺交換)駐日大使館も日米の支援で新規開設され豪華な館となった。アブドゥラー氏はマスード氏の盟友でありアメリカ主導の政権とはいえタリバン政権よりはましだと思ったが、自分がしゃしゃりでる幕はないと判断し、新政権とは距離をおくこととした。アフガニスタンにおける革命、新社会の建設はいかにすれば可能なのか、研究活動に活動の軸足を移した。折から元駐日アフガニスタン大使でアフガニスタン共和国最後の副大統領としてマスード氏ら北部同盟への平和的な権力移行を実現したあと国外に亡命していたアブドゥル・ハミド・ムータット氏と文通・面談しながら研究を継続した。その間、ムータット氏は回想録の形で自らの経験を総括する文章を英文化し野口に託された。それを翻訳し2018年に日本語版を回想録『わが政府 かく崩壊せり』として出版した。
20年、ソ連の駐留のちょうど倍の年数、アメリカはアフガニスタンで戦争をつづけ、ついに勝利することなく完全撤退することとなった。日本はコロナとオリパラに目を奪われ、マスコミ的にはアフガニスタンは他人ごとの扱いだが、今年の秋以降、アフガニスタンでは戦争がおわらないどころか、三度目の国際政治の焦点となることは必定である。次に来る焦点化はこれまでと決定的に違うものになるかもしれない。それは、アフガニスタンで敗北したアメリカが、この問題を新疆ウイグル問題とからめて対中戦略に組み込む可能性があるからだ。アフガニスタンでの戦争を長引かせ西と東(台湾、南シナ海)に火種を仕込み中国を締め上げようとする。香港で強行的に50年契約を破棄した中国はその挑発に乗りかねない。そんななかで日本政府はどうする? いやおうなく政府の動向に支配される国民、自分たちはどう考える? どうする?
目を見開いて国際情勢を見つめなければ流される。

(2021年7月22日 14:39:09)

野口壽一 略歴 1948年鹿児島県生まれ 1980年夏アフガニスタンを単独取材し翌年<写真記録>『新生アフガニスタンへの旅』を上梓。2018年元アフガニスタン共和国副大統領の回想録『わが政府 かく崩壊せり』を翻訳出版。元株式会社キャラバン代表取締役、インターネットによるベンチャー支援組織「246コミュニティ」創設世話人、現在フェニックス・ラボラトリー合同会社代表。