元アフガニスタン首相/副大統領スルタン・アリ・ケシュトマンド
アフガニスタンの平和と国家システムに関する提言

スルタン・アリ・ケシュトマンド氏近影

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日本語翻訳者チーム リード>

ここに掲載する文章は、元アフガニスタン民主共和国(アフガニスタン共和国)*注1首相/副大統領のスルタン・アリ・ケシュトマンド氏*注2による、アフガニスタンの平和と将来の国家システムに関する最新の提言(2021年3月30日発表)である。Ariaye.com*注3に2021年4月10日付で掲載されたファテー・サミ氏*注4の編集およびコメント付きの英訳から翻訳した。*注5

● pdfで読む場合はここをクリック(A4で33p)

テキストにはもうひとつ、同じテーマでケシュトマンド名で発表されたものがある。リブレイション(https://liberationorg.co.uk/*注6に2021年4月23日付で掲載された英文のものである。*注7

両テキスには若干の差異が認められるが、執筆内容に本質的な差異はなく、発表媒体の違いによって先行原稿に加筆修正がほどこされたように思われる。

ここでは、先に発表されたAriaye.comの全体を翻訳し、細かい追加の差異はAriaye.com版に取り入れ、数行におよぶ3箇所の差異は、異文として添付することにした。その理由は、英訳したファテー・サミ氏のコメントが現在のアフガニスタンをめぐる情勢および議論を俯瞰し全体状況の中でケシュトマンド氏の見解がどこに位置するかを照らし出している、と評価できるからである。

<翻訳チーム: 野口壽一/金子明>

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原文(ペルシャ語)からの英訳および編集 ファテー・サミ
2021年4月10日

ファテー・サミ氏近影

ファテー・サミ氏による前書き:

長年にわたり、アフガニスタン国民は、独裁的で外国に従属した歴代政府の抑圧によって、多種多様な事件にまみれた生活を経験し、耐え忍んできました。1979年になると*注8、過去2世紀におよぶ専制体制が終焉を迎えますが、その結果アフガニスタンはそれぞれの同盟国を従えた超大国すなわち米国と旧ソ連の対立に直面せざるを得ませんでした。その時から今まで、戦争、平和、和解という言葉に私たち国民は慣れさせられてきましたが、そこにとても明るい未来などありません。さまざまな理由でいまだ平和も和解も達成できずにいるのです。

もちろんどの時期を見ても、平和を確保するためのかなりの努力が、多くの会談、会議、集会、および宣言の形で、親東側および親西側政府によってなされてきました。過去40年間*注9、政府および当局者たちはさまざまな方法で平和について語ってきたのです。和平交渉は真剣に、しばしば象徴的に、そして派手に提起されてきました。しかし、それらは蜃気楼のような一瞬の瞬きにすぎず、私たち国民にとって具体的な成果はありませんでした。戦争と平和の沙汰が外国の諜報機関、特に米国とパキスタンの手に委ねられてきたからです。

また、難民として長年海外に住んでいるアフガニスタンの政治家や専門家もいますが、過去の不愉快な経験にもかかわらず、当時のイデオロギー的認識や傾向に縛られ狭い思考回路から抜け出すことができていません。せっかく通信手段に恵まれ、インターネット環境もあるのに、彼らは、戦争を終わらせる目的で、建設的な見解、計画、提案を世に問おうとしません。しかし彼らこそが、アフガン問題に何らかの形で関与しているあらゆる人びとの利益のために、国際社会と世界の指導者に働きかけアフガン問題を解決する方法を提案することができるのです。平和が再び取りざたされている今、アフガニスタンに残った人びとは依然として毎日ハイテク戦争の業火に焼かれて死んでいます。これまで以上に生活の全分野を覆うこの悲劇の結末を前にアフガン人は心を震わせています。

この論説の著者であるアフガニスタンの元首相スルタン・アリ・ケシュトマンド(Sultan Ali Keshtmand)閣下は、アフガン現代史における著名な人物のひとりです。公的な職務をとおして彼は国の管理と支配に関する理論的、実践的経験を数多くしっかりと積みました。政府の最高レベルの地位に就くことができて得られた経験と洞察は貴重です。拙訳でお読みいただくのは、そんなケシュトマンド氏がインターネットサイトAriayeで近頃発表した見解です。アフガニスタンに連邦制度を導入するというのです。この見解は実に興味深く、アフガニスタンの平和にとって重大な障害のひとつを解決に導ける可能性があります。彼はこの構想を論理的に表現し、かたよらず自問自答しつつ論じました。連邦制度のもとで国民はなんらかの形で公正かつ民主的に意思決定プロセスに参加することができます。そしてこのプロセスがすべての人に永続的な平和と進歩とを保証するのです。4月中旬あるいはそれ以降イスタンブールで開かれる平和会議*注10に参加する国ぐににとって、アフガニスタンに恒久平和の土台を築くための重要課題(Key issue)として彼の見解を検討することが特に重要です。

ケシュトマンド氏のような経験豊かな人物の見解は今後すべての和平協定に組み入れる必要があります。そうでなければ、今回のイスタンブールでの平和会議の結果、ザルメイ・ハリルザド*注11が出しゃばり自分の出身部族の本性をむき出しにしてアフガニスタンの他のすべての住民を無視した第2ボン会議*注12直後のあの時代に、アフガニスタンは逆戻りでしょう。

アフガニスタンの連邦制度を支持する人びとはほかにもたくさんいます。たとえば、アブドゥル・ラティフ・ペドラム(Abdul Latif Pedram)博士*注13はアフガニスタンにおける主要な問題は政府構造の中央集権制に起因するとずっと指摘してきました。つまり、アフガニスタンの新憲法の草案では、どんな意思決定プロセスにおいても、末端の村から最大自治単位の州まですべての国民が組み込まれる連邦主義について検討する必要がある、そうして初めて正義、公正、平等が確保でき、アフガニスタンのすべての住民による貢献という土台の上に築かれる平和こそが真実の平和、つまりすべての近隣諸国、地域、そして世界全体の利益となる平和であることは明かだ、と博士は主張しています。

直近では2021年4月8日にダスタギール・レザエイ(Dastgir Rezaei)博士*注14がFacebookで次のように書いていますが、これも注目に値します。「繰りかえされた歴史上の証拠と数々の不正を前に、正義を求める多くのエリートたちは、アフガニスタン社会の特徴、構造、そして現実と中央集権化された政治システムが両立せず、あい反するものであることに気づいている。彼らはこの20年間、連邦制を支持して奮闘努力し、議論を重ねてきたのだ」と。

そのエリートたちこそ、前述のラティフ・ペドラム博士と彼の率いるアフガニスタン国民議会党(National Congress Party of Afghanistan)*注15です。彼らは、事あるごとに他のタイプの地方分権化システムと比較し、熟慮を重ねたうえで、アフガニスタンにとっては連邦民主主義システムこそが最も適切な選択肢だと結論しました。博士はその利点を強調し、社会がそれを積極的に受け入れるよう熱心に説得を続けました。そのため今日、連邦制度と連邦主義のテーマはもはやタブーでないばかりか、政治討論の議題として正式に受け入れられています。

さて、こうしたペドラム博士、彼の支持者、および国内の他の多くの正義を求める活動家たちによって、連邦システムを地方分権化システムの一選択肢として政治討論の場に引き出すことができました。するとその結果、彼らには論敵も増え、脅されることもしばしばではありましたが、ついに今日地方分権化システムは、広範な分野に及ぶ国家体制を確立するためのひとつのオプションであると誰からも認められています。それはすべての市民が平等と正義に基づいて政治に参加できる土台を築きます。とはいえ、権威主義と独占を好む集団はそれに反対を表明します。しかし粘り強い闘争を続けることによって、最終的に実現されるべき政治システムは分権化されたシステムなのです。

レザエイ博士がFacebookで言うように、地方分権化システムが一般市民の政策決定への参加を促進することは疑いありません。それはアフガニスタン全土において経済、健康、教育、文化、社会生活のすべての分野で、バランスの取れた成長と発展のための条件を整えます。

地方分権化されたシステムは人びとを動かし、彼らに責任感を植え付け、小さな村から大きな都市や州単位で、人びとが自らの運命を決めることを可能にします。

どんな形の市民参加も、土台たる国民の総意の上に成り立ちます。アフガニスタン国内での社会正義と市民参加を促進し、同時に、独裁体制、自己中心主義、中世のスルタンによる統治、弾圧政治に終止符を打つことができる唯一の体制は、地方分権化システムなのです。

しかし市民参加の危険性について、もう一人の論客ラルザド(Lalzad)博士*注16が、これまた自らのフェ​​イスブックで次のように忠告しています。「しかし、ボン会議の間違いだけは二度と繰り返してはならぬ」と。

「権力の分配」は(「民族」を基準としてではなく)「機関」を基準としてなされるべきだと博士は言うのです。つまり、権力の水平分配、すなわち、(これまで見られたように、ひとりの個人の指揮下におさまるのではなく)三権の機関がそれぞれ独立しバランスが保たれた状態で分立することが望まれると彼は主張します。

権力の垂直配分に関しては、さらにこう続けます。市町村長と州知事の(自治)選挙がまず執り行われ、すべての 「地方議会議員」も市民の中から「選出」され、選挙民に対して政策決定の「説明責任」を負うと。つまり社会の基本単位は、民族、部族、言語、宗教などではなく、「市民」(国内で平等な権利を持つ人)でなければならない(言い換えると、いかなる理由でも誰かが偏った特権を握ったり逆に差別されたりしてはいけない)と。

そして最後にこう警鐘を鳴らしました。しかるに、「権力の分配」が「民族参加」または「民族比率」などの名のもとにいまだ旧態依然として行われるとしたら、数十億ドルを費やして数十万人が死傷した「ボン会議」の結末と同じ「不良地盤」を国内に招来し、そこでまたあの「悪循環」が繰り返されるだろうと。

地方分権化は決して夢想家が描く机上の空論ではありません。私たちの社会を危機段階から救い出し安定化させるのに今すぐ必要なものは、地方分権化をベースにして保たれる社会秩序です。もしそれが実現されなければ、組織は力まかせの権力闘争に明け暮れ、個人は国外からやってきたうさんくさい連中の口車に翻弄され続けるでしょう。こうした危機状態が続くと国家はやがて至る所で崩壊し、外国人だけが甘い汁を吸うことになるのは火を見るより明らかです。多くの人々は、今や、中央集権から地方分権に変わるべきだと気づいています。その政治形態を何と呼ぶか​​は問題ではありません。市長や州知事が選出され、国旗、国歌、その他の政府のシンボルが統一され、地域生活の安全が国民の力で保たれるべきです。そうすれば、国民全員が権力という鏡に自分の姿をうつし、身を守ることができます。逆に中央集権化されたシステムの継続を主張することは、破壊、危機、そして後退の継続を意味するのです。

しかし、驚くべきことに、現時点では、右と左に傾斜している人びとの中には、地方分権化を真剣かつ科学的に考察することなく、それがアフガニスタン崩壊の原因ではないかと疑っているものたちがいます。むきになって毛嫌いする者もいれば、ただなんとなくというものもいます。闇雲にかつ早とちりで、それがアフガニスタン崩壊の原因だと信じて疑わないものさえいます。なんとばかげた考えでしょうか。 しかし幸いなことに、今日、いくつかの政治勢力やいく人かの個人が、中央集権化されたシステムはその性質上どうもアフガニスタンの現状にそぐわないと気づき始め、地方分権化の必要性を認めるようになりました。一部には連邦制度を選択せよと強調する人たちもいます。

連邦制度の長所と短所、その強さと弱さ、それをいかにしてアフガン社会に定着させるか、などはまた先の話として、まずは問題提起そのものがなされ、それが政治的なあるいは学術的な議論の的となる、それが何にも増して大切だと私は思います。そのためには、間違いなく国民会議党のペドラム博士の努力が何よりも大きく影響しています。博士以外にも幾人かの個人やいくつかの政治勢力が過去に連邦制度を口にしたことはありましたが、言い出しっぺのご本人もその信奉者たちも過去30年間にわたって全くぶれずにその考えを啓蒙し続けることはありませんでした。ところがペドラム博士ただ一人が彼の政治闘争の中で事あるごとに地方分権化を唱え続けてきたのです。

私がこの訳者前書きをお借りして伝えたいのは、ペドラム博士と国民会議党の立ち位置と果たした役割を過小評価するのは公正でないということです。アフガニスタンのための連邦制度は構造上どうあるべきでどう設計するのかの議論を続けるなど、彼らはこの国のタブーを次々と打破して来たのです。そしていま、その連邦制度こそが政治的議論の主要なトピックとなっているのです。

アフガニスタンの政治システムについての私の見解は、「中央集権化されたシステム」はこれまでもこれからもアフガニスタンでは失敗するシステムであり続けるだろう」ということです。理由は明らかです。つまりこの国の中央集権制度では政治的経済的発展、繁栄、そして安定がただの一度も実現されたことがないからです。したがって、今がまさに、必然的な選択肢として地方分権制度を採用する絶好のチャンスなのです。そのシステムの種類と名前はどうなるか、それは民主的なプロセスをとおしてアフガニスタンの国民がどのようなコンセンサスに到達するかにかかっています。トルコ会議もこの観点からチャンスとなる可能性がありますが、それは地方分権制度の支持者がアフガニスタンの政党と会議参加国を納得させることができるかどうかにかかっています。

<ファテー・サミ氏のコメントおわり>

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元アフガニスタン首相スルタン・アリ・ケシュトマンド
アフガニスタンの平和とあるべき国家システムに関する提言

いまこそ連邦制を真剣に!

私の文章は、特定の派閥、特にアフガニスタンで権力を求めてぶつかり合い、物理的戦争やプロパガンダ戦争で絡み合っている勢力やグループへの提案ではないことを事前に申し述べておきたいと思います。民主主義と社会正義のために戦うアフガン人大衆への以下の発言を、政治的、社会的、文化的集まりをとおして、彼らの耳に届けます。私はまた、アフガニスタンの貧しく抑圧された人々の根本的な利益を真に擁護している、一般の民主的な市民およびメディア機関、自由を求める進歩的な組織にむけて話します。私の目標は、いかにささいなことと思われようが、人々に道徳的および倫理的な支援を提供することです。私は自分の意見を他人に押し付けたいとは思いませんし、ここで述べる事柄は、私の考え全体の一部にすぎません。しかし、ここに書き表す内容は現在の状況と深く合致しているがために、読者への示唆に富んでいるはずです。(異文1)

誰もがよく知っているように、最近、アフガニスタンに関する和平交渉のニュースが広く報道されており、多くのメディアやニュースネットワーク上でそれらについて議論されています。 2021年3月18日、ロシア、米国、中国の三大国とパキスタンを含めた四カ国が、アフガニスタンおよびタリバンのさまざまなグループの代表からなる使節団と相まみえてモスクワ会議*注17が開催されました。同様に、「ハート・オブ・アジア・サミット」*注18は2021年3月29日から30日にかけて開催されました。次の会議は2021年4月中旬にトルコのイスタンブールで開始される予定です。しかし、それは一部のオブザーバーからは「第2回ボン会議」の二の舞になるだろうとささやかれています。

イスタンブールでは国連が「会議」の議長を務めるため、国連のネームバリューがその信頼性を担保しています。そのため、この会議後には、結果がどうであれ、さまざまな考えや意見が表明されるはずです。また、たくさんの推測と仮定の議論はもう始まっています。そして会議中ともなると、色々なグループから多くの議題、計画さらにはプログラムが提示され、議論されることでしょう。

 とはいえボン会議のような会合に終始すれば、長期的な成功などほとんどおぼつきません。ボン会議と同様に、今回も国連の信頼性が問題になることは必然です。なぜなら、ボン会議にアフガニスタン人を参加させなかったのは、まさにその国連だったからです。アフガニスタン人が招かれないので、何でも賛成派だろうが、何でも反対派だろうが、主要なアフガニスタンの政治団体の代表者の参加は全くなし。草の根だろうが、人気者だろうが、ゴリゴリの急進派だろうが、正義を求める武闘派だろうが、アフガニスタンの市民グループの代表者の参加も全くなし。その上参加した人たちは、アフガニスタン国内に平和を維持し制度化する計画など短期的にも長期的にも全く持ち合わせていませんでした。

その反省から、イスタンブール会議はこうあるべきだという私論をここで述べさせていただきます。

まず、意思決定においてはアフガニスタン国民のすべての階層の関与が求められます:

イスタンブールに集まって行われる今回の会議、また他のいかなる打ち合わせも、それが国民の将来の運命および国家の主権と平和を決定する趣旨のものならば、そこには男女からなる国民のすべての階層の代表者が参加するべきだというのが、私の理想です。

 そうは易々とは進まないでしょうから、こうした集会では少なくとも各階層代表者の基本的な考え、提案、要求が広く集められて討議され、その結論に明快かつオープンに反映される必要があります。そうして初めて国民の要求や提案が反映されるのですが、そのためには民主的で大衆的な団体や組織の存在が必須です。それはどんな団体や組織であるかを、以下にリストアップします。

  • 大衆的で、進歩的で、公正な政党、運動、政治組織、
  • 市民団体およびメディア機関
  • 人権および女性・子供・若者の権利を守る組織、
  • 女性および青年組織、
  • 障害者や生活困窮者の権利を保護するための団体、
  • 戦争生存者と戦死者家族の権利を保護するための団体、
  • 慈善団体および非政府援助組織の代表者、
  • 知識人、文化・芸術系の団体、
  • 教師、医師、弁護士、学生、職員およびその他の専門家層の組合、
  • 労働組合、農民組合、職能組合、

–  中小規模の職人、商人、金融業者らが作る団体、および国内産業への投資家たちの団体、
–  世界五大陸に分散しているアフガニスタン難民の有力な国外組織、
–  そして、何百万もの人びとが運営し、彼らの利益に結びついているあらゆる非政府組織、社会・経済・文化団体。これらの組織や団体が生み出され機能することが重要です。
–  次に、アフガニスタンには最重要な問題があります。それは、国内の部族・民族グループの特別代表が包括的かつ積極的に参加することです。パシュトゥーン人、タジク人、ハザラ人、ウズベク-トルクメン人の主要4民族*注19の参加は特に大切です。それぞれが送り込む人数の配分法も悩みどころですが、多くの多民族国家で広く受け入れられている基準に従えば、平等が確保できます(ひとつの例として、多くの国では政府職員と上院議員の数が人口比で割り当てられています)。
- さらに、アフガニスタンの危機的状況に直接かかわった大衆運動、社会蜂起、および自衛組織の代表。
– 最後に、そして特に大切なのは、「戦争と平和」と呼ばれるアフガニスタンの様々な危機に今まさに関与している各派閥が、それぞれの権限を携えて参加することです。

こう述べてくると、いかにも網羅的に聞こえるでしょうか? とにかく大会議です。理想も違えば、要求も異にする。それぞれが自らの民族や派閥を代表してやってくる。政治家も活動家もいる。各団体のトップも非政府組織の代表もいる。そんな一切合切がひしめく中でやっと、私たちは「コンセンサス」を引き出せるのです。多くの人々が待ち望んだ合意です。おまけに会議の中身は文書化されるので、今後の平和交渉に必ずや役立たせられます。

国際会議が終われば、次は国内での選挙です。選挙が永遠の平和の達成を可能にします。

そこで基本的な方針をどうするのかが重要となります。それは避けて通れない議論で、以下に記すとおりです。

まずは直接選挙による「国民投票」の実施。その上で、国の将来の政治システムをどうするかが決められます。参加者全員が直接投票の結果によって選出されたわけではない一昔前の政府のやり口および構造に国民が満足することはもはや不可能です。驚異的な技術の進歩をとげた今日のデジタル時代に国民投票を実施することは難しくありません。たとえばスイスでは、毎年国の重要問題が国民投票にかけられ、多数決で決められています。また、今や世界中の国々がサンプリング手法、統計調査、図表、科学的検証を行い、関連機関を立ち上げて運用や実務の実績を蓄積することで、飛躍的な進歩を遂げています。

アフガニスタンでも、(特定の環境的および本質的な調整、幹部の訓練、関連する能力の構築、および国民投票に対する国民の意識の向上を通じて:英訳者ファテー・サミ追加)上記のような技術および方法は実現可能です。

私たちがよって立つアフガニスタンという文脈では国民投票の実施など非現実的だと指摘されるかもしれません。にもかかわらず私は、国連などの国際社会の協力を得て、技術とコンピューターが大幅に強化された今の時代においては、今日にでもたとえ無理なら明日には、可能であると信じています。そのような協力が本当に提供されるならば。

連邦主義は、民主主義と社会正義を核とする政治システムを確立するための一つの選択肢です。言い換えれば、それによって永続的な平和を達成し守るための土台を築くことができます。

イスタンブールサミットにおいて、またそれ以降、ボン会議のように「共和制」や「首長制」を装ってアフガニスタンの将来の政治体制が制限された場合、国内の永続的な平和の見通しは暗いように思われます。私の予見では、一体化と連携のための適切な基盤を提供し、アフガニスタンの異なる民族グループの存在下で、すべての国民の団結を確保し、その結果統一された単一の国家として永続的な平和と正義を確立することができる政治システム、それは連邦制度です。村から都市まで様々な行政単位で国民の中から選出された本物の代表によって連邦制度は確立されます。このような考えが表明されたのは今回が初めてでないことは明かです。この問題については、多くの著述があり単なる言い争いも真っ当な討論も続けられて来ました。にもかかわらず、連邦主義を選択するかどうかという段になると、賛成派も反対派も数が多く賛否は拮抗しているのです。

アフガニスタンの連邦化に向けた思想が歴史上初めて固有のものとして表明され著作化されたのは、1973年でした。当時はムハンマド・ダーウード時代*注20でその中央集権的な統治システムにかわるものとして提案され、その後ずっと政治的社会的闘争の火種となってきました。1973年当時アフガニスタンはダーウード派、議会派、連邦派が三つ巴で共に一歩も引かない憲法闘争を繰り返していました。そこにおいて、アフガニスタン人民民主党(PDPA)*注21は、中央集権制大統領憲法草案に対抗して連邦政府選出による議会制民主憲法を起草しました。争いの結果、最終的には、大統領がすべての権力を掌握する高度に中央集権化された共和国制度が国のシステムとして採用されました。

実は60年代にすでに始まっていた考えですが(80年代になると特に)、アフガニスタン民主共和国政府はゆくゆくは国の政治システムの連邦化を課題にすべきだと認識していました。その背景に、ハザラジャート*注22の自治の問題がよく例として取り沙汰されました。(私はアフガニスタン首相として80年代の全プロセスにかかわっていました。アフガニスタン人民民主党PDPAとアフガニスタン共和国は非中央集権化された政治体制の構築にむけて下記のような政策をとっていました。)そもそもなぜ連邦制がハザラ民族と関連付けて論じられたのでしょうか? それには、以下の5つの理由がありました。

1- 実例として連邦化に適する土壌がハザラの地に準備されていたからです。具体的には
2- 連邦制採用の機運は、ハザラ人に対する差別と歴史的不公正を是正する必要性から生じました。それはハザラ人の長年の根本的な願望だったし、自治権の獲得のため彼らは大きな犠牲を払ってきたからです。
3- いくつかの新しい州(ヌーリスタン、ホスト、サレ・ポル)が創設されており、さらに5つの州の創設が計画されていました。さらに2回の話し合いを経て、ふたつの社会文化機関、すなわち「ハザラ国立評議会」と「ハザラ国立団結センター」が組織され、並行して他にもいくつかの類似した組織が誕生していました。
4-「部族関係省」に加えて「国民省」が創設されました。
5-当時、行政管轄上およびセキュリティ上の問題をより適切に処理するために、アフガニスタンの全土が8つのゾーンに区分けされました。それに続いて、「地方自治および行政に関する法律」が可決施行されました。その中身は、国民による直接選挙に基づいて、下から上までつまり村から町、都市、州に至るまで、安定した国民会議システムを構築するというものだったのです。

そんな機運が高まった1980年代でしたが、その10年間を顧みると、国民の多数決によって選出された議会に基づくシステムが試され好結果を招いたのはほんのひとときでした。もしも当時そのようなシステムがしっかり確立されていれば、そのシステムは今日まで引き継がれ、今アフガニスタンが抱える国家全体としての問題にも、部族間の神経質な小競り合いにもうまく対処できたはずです。そんなシステムは決して崩壊しないのです。時は移って1990年代はどうでしょうか? 1992年以来、「ムジャヒディーン」*注23が政権につきました。ところが、彼らは国家的問題どころか部族間のいざこざすらまともに取り扱えませんでした。ごくまれに取り扱えたときがあったとしても、それは一般市民や軍部が持つ前衛的で愛国的な活力を、自分たちに都合のいい愛国心に「我田引水」し貶めなかった場合だけというお粗末ぶりです。こうして70年代と90年代にアフガニスタンではさまざまな派閥間の内戦が繰り広げられましたが、政権がまともなら、おそらくここまで壊滅的なものとはならなかったでしょう。(異文2)

続いて、2001年のボン会議*注24を見てみましょう。ここでも同様の結末となりますが、もし会議の結果中央集権的な大統領制が廃止され、地方分権化し、地方議会でも国会でも選挙制度に基づくシステムが確立され、行政権と警察権の一部が地方選挙で選ばれた機関に移されていれば、おそらく戦争がこれほど広範に燃え上がることはなかったでしょう。いずれにせよ、過去の判断は歴史に任せ、今を考えましょう。私は現在の状況について私の考えを次のように表明します。(異文3)

まずはアフガニスタンの現状について。アフガニスタンはポリエスニックまたはマルチエスニックと呼ばれる多民族国家です。

明らかに、アフガニスタンは多民族または多人種とも言える国です。国内にいくつかの大きな部族が閥をなして存在し、それぞれはさらに細かく区分けできます。暮らしぶりも住んでいる地域もさまざまで、かつては国が異なりました。中でも主なものは、パシュトゥーン人、タジク人、ハザラ人、そしてウズベク人-トルクメン人、この4民族です。私はアフガニスタンで使われている「人種的および宗教的マイノリティ」という用語は好きではありません。あまたある民族グループを自分より重要でないと考え不平等に扱った挙げ句にそう呼ぶものたちの轍を踏まないためです。逆に、私がマイノリティとあえて言うのは、すべての人をさすときです。アフガニスタンに複数の民族が存在することは、人口構成の観点からみれば紛れなき事実です。比較すればある民族は多数で、ある民族は少数。ただそれだけのことです。アフガニスタンではどの人種も単独では過半数を占めていません。したがって、誰もが「人種的マイノリティ」に属しているのです。その結果、自分らが属する民族を「兄貴」という虚像で扮飾し、他のあまたの民族をマイナーで取るに足らないものとさげすんできたのが何年も続く実情なのです。

次に、そうしたアフガニスタンの現状に対し連邦主義が何をもたらすのか詳しく論考しましょう。端的に言うと、連邦主義は分断を越えて広範な人びとが連帯するための基盤を提供します。

 連邦制度を敵と見なし反対する者たちは誤解したあげく声高に叫んでいますが、連邦主義は分断や分裂とは無縁なのです。

それらとは真逆で、世界中で連邦制を試みた国々では、生活基盤が幅広く真の意味で整備され、その結果国民はお互いに結束し、平和を求め合い、連帯して協力を惜しまず、経済・社会の発展を享受できています。そして、国民全員が平等な権利を獲得し、市民として政治に参加する権限を持ったことで、出自にかかわらずあらゆる分野で活躍できているのです。

連邦制度は一度きりのものではなく、新たなチャンスを次々と生み出し、国民は自己の生命財産の防衛と社会全体の平和を両立して維持できます。なぜなら、連邦制度は言い換えると人々が連合して生み出す政治制度で、国民に対して社会的に平等な権利を約束する自治政府であるがため、各民族はいかなる出自であろうと、そこに自らの居場所を見つけ出すことができるからです。つまり誰もが個人的権利と利益を守り擁護しつつ、国全体の公共の利益をも保てるのです。このようにして初めて、人びとは最終的に自分たちの基本的な願望である永続的な平和のための礎を手にすることができるのです。

続いて大統領制を連邦議会政府に変更することが必要です。

ただし中央集権政府についてまわる忌まわしい出来事を決して起こさないため、来たるべき連邦政府の枠組みの中にはぜひ取り入れておくべき仕組みがあります。すなわち中央政府と各地方政府の双方が連邦政府として成り立つための新たな方策です。基本的なことですが、それは国内のさまざまな人種や部族の団結と協力によって、国民自らが運命を決定する権利を持つことです。連邦政府という大きな枠組みの中でこそ、すべての人種個別の自由と利益を守る基盤が提供されえます。そうなれば、新しいアフガニスタンは平和裡に発展することができます。すべての人種、民族、地域が意識的かつ自発的に連合することによって。

平和の実現と連立政府の形成を今日か明日かと議論しつつ、私たちは大きな試練に直面しています。事態を進展させるために必要なのは、国民が「自己決定権を行使する」ことができる政治体制を提案することです。この願望は、連邦政府の誕生によってこそ実現でき、その結果人々はアフガニスタン国民として生きる権利と市民として政治に参加する資格を公平に獲得できると私は信じています。

つまり、中央集権制の政府機構を実践的にも思考的にも終わらせる時が来ました。中央政府は少なくとも1世紀にわたって独裁制がいかに非効率であるかを、実践と実験を重ねつつ世に示してきました。いまや恒久平和にむけて国の将来を決めなければならない重要な議論の段階にさしかかっています。したがって、歴史的社会的な基本実験をすでに終えたリアリティある国家構造を探し求めなけければなりません。これまでの実験結果を詳しく検証すると、アフガニスタンのような多民族の国ぐにでは、公正で民主的な連邦政治システムの枠組みこそが、国民の権利を実現させることが可能であることがわかります。

連邦制度は、国の大小や発展段階の如何を問わず世界中の多くの国ぐにで実証されてきました。民主主義と社会正義に基づいて、その多寡を問わずすべての人種とカーストに属する人びとは、村から地域まで、町、都市、郡、州など各行政単位において、多数決で代表者を選出することで議会に参加できます。選挙を通じて、彼らは中央政府の形成に積極的かつ平等に参加することができます。このようにして、国民は、国内法、地域の条例、および国の各種政令に従って、自分の手で自分の運命を決定することができます。

連邦制は、恒久平和を生み出し守り続ける道筋を整えます。現在の混沌とし​​た無秩序なアフガン社会を克服するために、連邦制度を確立する必要性、その利点、そしてそれを確立する方法について多くの議論がなされています。私の意見では、アフガニスタンに連邦制度を確立するという提案は、アフガニスタンの遠い未来への単なる理想、憶測、願望ではありません。それは国の現在と生活にとって緊急に必要なことなのです。

国の将来を決める極めて重要な時を迎えた現在、連邦制度が必要とされています。戦争にも平和にも舵取りができるいま、国は運命のときを迎えています。そんな中、連邦制度の選択が非常に重要なのです。 2001年の失敗したボン会議の時のように、突然の拙速な決定に巻き込まれるべきではありません。これまで多くの試練が示しているのは、中央集権政府が機能不全であり、アフガニスタンの国民が直面している大きな困難を解決するための鍵たりえず、国の戦争と平和の問題を解決する方法でもないということです。

現在、わが国を取り巻く和平問題が真剣に提起されています。そこでこう言わねばなりません。アフガニスタン和平交渉によって世界に受け入れられる結果がもし得られるならば、それはまことに福音であると。永続的な平和が仮に達成されるとすれば、それは今しかありません。今こそ平和な未来を築くために、確固たる基盤を築く必要があります。その基盤は、アフガニスタンのすべての民族グループと派閥が意識的かつ自発的にシステムに参加するための礎石となります。そしてそのシステムこそが社会正義に基づく連邦主義で、その連邦主義がアフガニスタンの平和な未来への道を平坦なものにしてくれます。

最後にアフガニスタンの将来の憲法について話をします。起草するにあたってまず基本は三権分立(行政、立法、司法)だと決定しましょう。次に、その各府は必ず選挙で選ばれなくてはなりません。つまり行政権を持つ政府(首相が率いる)、立法府(議会)と司法府(法廷と裁判所)です。それぞれの選出方法と機構的な階層分け、それらの義務と権限は、憲法とその補助法によって明確に記載されなければなりません。

憲法によって自分の運命を直接コントロールできる国民の権利が認められて初めて、次の段階で大きくは戦争を終わらせ、身近には各個人間の不毛な干渉を終わらせることができます。こうして人権尊重の適切な条件が整えられたら次の段階です。つまり、選挙に基づく議会制民主主義をとる中央政府(大統領または首相、議会、司法)を設立する必要があります。さらに地方では人民議会の選出。村、町、都市、群、州単位で設立され、知事やそれぞれの自治体の長とともに連邦政府の枠組みを形成します。とにかく大切なのは、上は中央政府から下は地方自治体まで、すべての政府機関が国民によって選出されることです。

次に憲法において政治権力に課すべき制限とその責任範囲について。これらは憲法と補足法でしっかり規定しておきましょう。たとえば、アフガニスタン特有の人種や出自を重んじる観点から、中央政府でも地方自治体でも、その権力の行使にあたっては何ほどか民族を分割して考察する必要が出てくるでしょう。そんな場合は、スイス(連邦制度)の例を参考にしたり、あるいは連邦制度を採用している先輩国は何ダースもあるので、その生きた例を参照できます。もちろん議会に基づくシステムを備えた国などそこいら中にあるので、好みの国を訪問して見学すればよろしいでしょう。

最後に、つぎのことを表明しておきたいと思います。つまり、アフガニスタンで恒久平和を保証するためには新憲法を起草する必要があり、そのためには、アフガニスタンの将来の政治体制を決定するための幅広い議論が必須の前提である、と。

 さらに私はつぎのように信じています。自然条件によって断片化されたアフガニスタンが民主的な連邦制度を受け入れれば、さまざまな地域に点在するすべての人種および民族が意識的かつ自発的に団結し連帯する基盤を獲得しうる、アフガニスタンという名の下に、と。

連邦主義とは国民の結束であり民主主義と同義です。国中に認められている市民権を否定したり侵害したりするものではありません。連邦主義は、国のどの地域においても、人々の権利を犯すことはなく、それぞれが信じる宗教を尊重し、儀式や先住民的伝統および文化に満ちた暮らしを可能にします。それは、独裁と専制政治に対立する概念です。そればかりか、人権を基盤にした民族の権利と平等な市民権をあわせ持つ国家制度です。連邦制度における自治が採用されれば自動的に、システムの下部から上部まで、すべての政府機関における多数決選挙への道を整えます。しかるに一部の者は、連邦制とは宗派君主制に他ならないなどとまったく非合理的で根拠のない取るに足らない批判を繰り返しています。そうではなく、連邦制度こそが政府に対し二重の法的説明責任を課すことのできるシステムなのです。つまり、有権者である国民への説明責任と、その総意として人々が選出したさまざまな社会機構への説明責任です。

 連邦制度のもとでは、中央政府であるか地方自治体であるかにかかわらず、基本的に人々の代表が行政・経済・社会・文化機関へと組み入れられます。その機関はさまざまな人種や民族から構成されており、法的にも保証されています。

連邦制度のもとでは、人種と民族の平等が確保できます。国の多様性は、大小を問わず、そこに住む人々を抜きには語れません。連邦制度は各民族の間で国の公共財産を公平に分配します。その結果、平等と友愛に基づいて、さまざまな部族と人種の間に真の兄弟愛の雰囲気が生まれる可能性があるのです。

2021年3月30日

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<異文1>
わたしがここで呼びかけるのは、人権、女性・こども・若者の権利、特に戦争で引き裂かれたアフガニスタンの社会構造にとって欠くことができない障害者・失業者・戦死者の遺族や戦争による負傷者の権利を守ろうと奮闘している組織や財団に対してです。すべての労働者たち、知識階級、文化組織、芸術団体、労働組合、小作農組合、手工業組合、職人組合、地域の商人、アフガニスタン国内で投資することに興味を持っている小口の金融業者や投資家、それらが一同に集まって全員参加して国の戦争と平和、そしてとるべき政治システムについて積極的に肯定的に政治的な討論をなすことが特に重要です。

<異文2>
しかし80年代の終わりには、さらに90年代の最初の年にかけて、地域関係、地方選挙、そして民族問題は中央集権的方向へと傾きました。ここではっきり述べておきたいのですが、時の政府に私は関与していませんでした。なぜなら当時テロ攻撃に遭って負傷し療養中だったのです。とはいえ(そう思いたいのですが)多数決で選ばれた議会に基づく政治システムがそのころ存続していたなら、そして国家の課題をないがしろにせず民族問題に敏感に対応していたなら、ナジブラー政権は最後あれほど木っ端みじんに崩れ去りはしなかったでしょう。*注25

<異文3>
この20年続いている中央集権政府は欠陥だらけ:
ボン会議を経て、そして新たに合意された憲法に従って、超中央集権制というコンセプトのもと大統領による政府が樹立されました。その結果、国は極度の貧困状態に陥り、アフガニスタンの幅広い階層が苦しみました。公式の統計によると、国民の7割以上が貧困ライン以下に落ち込みました。とても少数(約5%)の富裕エリート層と大多数(約95%)の勤労貧困層との格差と不均衡は大きく増大しました。働くことのできる人口のうち6割が失業する前代未聞の状態でした。また、女性に対する社会的および家庭内での暴力はもはやアフガニスタンの風土病と言えるほどでした。

3百万人以上のこどもが学校に通えなくなり、半分以上の学校には、校舎も学習設備も小物類もなく、資格を持った教師もいませんでした。何百もの学校はただ書類上のみで存在しており実態は皆無、したがって国の予算に計上されてはいてもその金はどこかへ吸い上げられていました。そんな手品が軍隊でも警察でも広くまかり通っていました。

2021年4月19日に出たアフガニスタン統計センターによる最新データでは、国内の1万人につき有効な病床の数はたったの4つです。国際規定では(BBCのペルシャ語放送によると)200人につき1病床が最低許容範囲ですから、とんでもなく水準以下ということです。

特定の民族集団、特にハザラ・ウズベク-トルクメン・バルーチ*注26ほか、に対する差別は広く問題化しています。特にハザラ人に対する日常的な人種的・民族的嫌悪は、国際的な基準に照らせば重大犯罪になると知っているにもかかわらず、国中に広まっています。底なしの腐敗は、麻薬の消費・取引と結びつき、ケシの栽培量が年々増加していることもあって、アフガニスタンは世界で最も腐敗した国家のひとつです。そしてケシの栽培量たるや世界ランキング1位です。

戦火はいよいよ速度を増して国中に広がり、アフガニスタンの罪無き人々の命を何十万と奪ったのです。
<完>

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(日本語翻訳チームによる注釈)
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注1 「アフガニスタン民主共和国(アフガニスタン共和国)」:
1978年の四月革命によって成立した新国家。革命を主導したのは民族民主主義革命を掲げるアフガニスタン人民民主党(後述)内の、それまで対立していた党内分派であるパルチャム派とハルク派が統一することにより政権奪取が成功した。(『新生アフガニスタンへの旅』参照)。1987年には民族和解を目指すナジブラー大統領の下で新憲法が導入され民主共和国以前の国名であった「アフガニスタン共和国」と改称された。

注2 スルタン・アリ・ケシュトマンド(Sultan Ali Keshtmand)
“Liberation” *注6参照によれば、同氏について次のように紹介している。
「この記事の著者、スルタン・アリ・ケシュトマンドはアフガニスタン人民民主党が政権についた1980年代のほとんど丸10年間、首相として国に仕えたベテラン政治家。1992年に人民民主党政府が崩壊したあとは、家族とともにイギリスに暮らし、アフガニスタンの歴史と経済について著作を発表してきた。ペルシャ語(ダリ・ファルシ方言)で記されたその回想録は3巻本として出版されている。
彼はアフガニスタン国内に暮らし社会の構成員たるハザラ人やそのほかの民族に対し長く支援を続けてきた。また地方分権制を唱え、連邦制度型の公平な政府を提唱してきたことでも有名。そのため彼の洞察は現在の危険なアフガニスタン情勢を読み解くうえで非常に貴重。40年以上続く流血ののち宙吊りでどうにか均衡を保つ国の運命を考える上で。また米軍およびNATO軍は占領を始めてから約20年経つ2021年9月までに撤退を予定しているが、当初言われた目的を達することなく、つまり立つ跡に平和で安定した国を残すことに失敗したわけだ。
同氏は1935年生まれ。アフガニスタンのカーブル近郊に暮らすハザラ族のつつましい農家の出身。カーブル大学で経済学を学び、在学中に生涯にわたって関わる政治闘争の世界に足を踏み入れた。卒業後、国の鉱山産業省に入省。1965年、アフガニスタン人民民主党の創立会議に参加し、中央委員会の最初期のメンバー7名のひとりに選出された。1967年までにアフガニスタン人民民主党は主要な2派閥(パルチャム(旗)派とハルク(大衆)派)に分裂。ケシュトマンドはパルチャム派の代表的メンバーとなる。1978年のサウル(四月)革命に続いて、国務大臣に任命される。しかし、当時の政府は独裁的で危険なハルク派に率いられていたため、すぐにパルチャム派への暴力的な弾圧が始まり、同氏は投獄され厳しく拷問された。裁判では死刑を宣告されたが、のちに20年の禁錮に減刑される。1979年にパルチャム派の支援者が実権を握り、ソビエトの介入により釈放。1980年1月から翌年6月まで国務大臣と副首相を兼任。刑務所での虐待に起因する重大な健康問題にさいなまれながらも、同氏は首相に昇任。アフガニスタンの歴史上初めての貧民層出身でハザラ人社会から出た首相となる。政権についた第1期は、戦争で破綻した経済を復興させて賞賛を得たが、1988年5月で終わる。そのわずか9か月後、再び首相に任命されて第2期が始まったが、それはちょうどソビエトの最後の武装兵団が撤退した89年2月。
1990年なかば、国会は彼を第1副大統領に選出し、経済および社会問題の責任者とした。91年4月まで大統領府に仕える。翌92年春、アフガニスタン人民民主党政府は崩壊。その年、テロリストがケシュトマンドの暗殺を試みたが、彼は運良く生き延びる。しかし、その攻撃で受けた傷は健康に重くのしかかり、カーブル、モスクワ、ロンドンでの度重なる大手術を余儀なくされる。彼とその家族は1992年よりイギリスに移住。」

注3 「Ariaye.com」:
アフガニスタンの伝統的な名称である「アーリア」の名を冠するオンラインニュースサイト。そのAbout usには「政治的、社会的、文化的サイト。Ariayeはいかなる政治的流れとも提携しておらず、民主主義と自由を擁護する独立した政策を提唱しています。Ariayeは高い人間文化を擁護し、民族的、宗派的、またはイデオロギー的な偏狭さを拒否します。このサイトに表示されるコンテンツは、必ずしもアーリア人全体の見解ではありません」と書かれている。

注4 「ファテー・サミ」(Fateh Sami):
翻訳者、大学教師、SBSラジオ・ダリ番組スタッフ。元カーブルタイムズデイリー編集者、元カーブル大学上級講師。
https://www.facebook.com/fateh.sami.54
https://www.ariaye.com/english/english.html

注5 本記事オリジナルの掲載場所:
http://ariaye.com/english/images/sami19.pdf

注6 リブレイション(Liberation) https://liberationorg.co.uk/
本サイトのAbout usによれば、1954年に「植民地の自由のための運動」としてイギリスで設立。半世紀以上にわたって、他の反帝国主義勢力とともに植民地解放のキャンペーンを行ってきた。1970年に現在の名称「Liberation(解放)」に変更し、ひきつづき「新植民地主義、経済的搾取、人種差別、人権侵害」に反対する調査と行動を行ってきた。About usにはさらに、「国際的で相互に関連する組織として、Liberation(解放)は擁護活動に従事し、他の志を同じくする組織を支援し、連帯します。Liberation(解放)は、国連、英国議会、国際労働機関、労働組合との懸念事項を強調し、議論するためのスペースと枠組みを提供します。」とある。

注7  掲載場所:
https://liberationorg.co.uk/comment-analysis/afghanistan-in-search-of-peace/

注8 「1979年になると」:
実際には1978年の4月革命(4月27日)以降。

注9 「過去40年間」:
1978年以降、アフガニスタン四月革命に対して西側諸国が仕掛けた宣戦布告なき戦争以来、アフガニスタンでは40年以上、内戦およびパキスタン国境側からの戦争に悩まされ続けている。

注10 「4月中旬あるいはそれ以降イスタンブールで開かれる平和会議」:
4月20日のロイターは本会議について「アフガン和平会議、ラマダン明けの5月中旬以降に延期 トルコ発表」として次のように報じている。 「[アンカラ/カブール 20日 ロイター] – トルコのチャブシオール外相は20日、同国のイスタンブールで24日から開催予定だったアフガニスタン和平に向けた関係者会議をイスラム教のラマダン(断食月)明けの5月中旬以降に延期すると明らかにした。 米国が9月11日までにアフガン駐留米軍の撤退を表明したことを受けて、トルコ、カタール及び国連の主催で反政府武装勢力タリバンとアフガン政府の合意を早期に実現させるため、双方が参加する会議が予定されていた。 チャブシオール氏は、テレビ局ハバールテュルクに対して、準備に関する問題で延期が決まったと述べた。タリバンが参加に合意したかどうかには言及しなかった。 アフガン政府は、この件に関してコメントを控えている。タリバンのスポークスマンはロイターに対して、延期に関する情報は何も得ておらず、ラマダン明けの会議の日程に関して何も言えないと述べた。 タリバンは以前、アフガンから外国駐留軍が全て撤退するまでいかなる首脳会議にも参加しないとの意向を示していた。米国とタリバンは昨年、5月1日までの外国軍撤収で合意していたが、バイデン大統領は先週、撤収期限を延期した。」

注11 「ザルメイ・ハリルザド」(Zalmay Khalilzad):
アフガン系アメリカ人でアメリカの石油会社ユノカルのアフガンプロジェクト主任顧問。かつブッシュ政権下で駐アフガン大使をつとめたアメリカ政府のアフガン政策担当のひとり。

注12 「第2ボン会議」:
2001年にターリバーンが追放された後、アフガニスタンの将来に関する国際会議がいくつかの場所で繰り返し開催された。最初の会議は、2001年11月27日から12月5日まで、ボン近郊のケーニヒスヴィンターにあるペータースベルクで国連が招集して開催された「ボン会議」。カルザイ氏を大統領に選ぶことになる暫定政府の導入などをないようとする「ボン合意」を採択した。しかしそこにはターリバーンは参加しておらず、現代につながる混乱の元凶となった。アフガニスタンに関する重要な国際会議には下記のようなものがある。ここで言われる「第2ボン会議」とは2011年後にボンで開かれた会議のことである。

International Conference on Afghanistan Bonn 2001
International Conference on Afghanistan Berlin 2004
International Conference on Afghanistan London 2006
International Conference on the Rule of Law in Afghanistan Rome 2007
International Conference on Afghanistan Paris 2008
International Conference on Afghanistan Moscow 2009
International Conference on Afghanistan The Hague 2009
International Conference on Afghanistan London 2010
International Conference on Afghanistan Bonn 2011
International Conference on Afghanistan London 2014
International Conference on Afghanistan Geneva 2020

注13 アブドゥル・ラティフ・ペドラム(Abdul Latif Pedram)博士」
Wikipedia日本語版によれば、「タジク人。アフガニスタン労働者革命組織の一員。
1984年、指導部との対立により組織から脱退し、左翼組織「革命旅団」を創設したが、間もなく解散した。その後、アフガニスタン人民民主党に入党し、1980年代中盤~後半、党中央委員会の機関紙「パイヤム」の副編集長を務めた。1989年、アフマド・シャー・マスードの元に走ったが、彼と対立し、亡命する。1992年からタジキスタンに在住し、北部同盟と接触を維持した。その後、フランスに移住。ターリバーン体制崩壊後、アフガニスタンに帰国。2004年、大統領選に立候補。」英語版Wikipediaにより詳しい経歴あり。

注14 「ダスタギール・レザエイ(Dastgir Rezaei)博士」
Facebookページ: https://www.facebook.com/Dr.Dastagir.Rezai

注15 アフガニスタン国民議会党(National Congress Party of Afghanistan)」
所在地:Kabul, 4th District, Traffic Square, Left Side, 5th Lane, 5thHouse。
Wikipedia英語版によれば、「2004年に結成。武装グループとは関係のない唯一の主要な野党である。党首は、共産主義、イスラム主義、タリバン政権の反対者のラティフ・ペドラム。ペドラムは、ハミド・カルザイ政権の批判者。ペドラム党首は、2004年のアフガニスタン大統領選挙に立候補し、得票数第5位。ペドラム党首はアフガニスタンの世俗主義、連邦主義、地方分権化を強力に支持。汚職を非難し、イスラム原理主義に強く反対している。地方分権化されたアフガニスタンを提唱し、自治区に分割されるべきであると主張している。」

注16 「ラルザド(Lalzad)博士」
Abdul Lalzad:  https://www.facebook.com/alalzad

注 17 「モスクワ会議」
ここ数年、ロシアは、アフガニスタン問題の平和解決に向けてさまざまなレベルでかかわってきたが、今年に入って活動をさらに活発化させてきている。 3 月 18 日のロイターは連続して開かれた 4 カ国会議(この場にアフガン人も招かれた)を次のように報じている。
「[モスクワ18日 ロイター] アフガニスタンの和平に関する協議が 18 日、モスクワで開かれ、ロシアと米国、中国、パキスタンの4カ国はアフガン政府と反政府武装勢力ターリバーンに対して直ちに停戦するよう呼び掛けた。
会議後に『われわれ4カ国はこの転換点において双方が対話し40年以上に及ぶアフガン内戦に終止符を打つ和平案に合意することを求める』との声明を発表した。
声明は、紛争当事者に暴力を抑制するよう訴え、ターリバーンに春と夏に攻勢をかけないよう求めた。また和平合意が成立すれば、4カ国は政治・経済的支援を行うと約束した。
米国は今回、ロシアが主催する会議に初めて代表を送り、ハリルザド・アフガン和平担当特別代表が出席した。米主導の和平プロセスに関係国の支持を求める姿勢を鮮明にした。」

注 18 「ハート・オブ・アジア・サミット」
(https://www.hoa.gov.af/)
Heart of Asia-Istanbul Process(HoA-IP)は、2011年11月2日にトルコのイスタンブールで設立された。安全で安定したアフガニスタンがハート・オブ・アジア地域の繁栄に不可欠であるという事実を認識し、アフガニスタンを中心に据えることにより、誠実で結果重視の地域協力のためのプラットフォームを提供することを目的としている。
本プラットフォームは、アフガニスタンとその近隣諸国および地域のパートナーの共通の課題と利益に対処するために設立されたもの。 Heart of Asiaは、15の参加国、17の支援国、12の支援地域および国際機関で構成されている。
第9回ハート・オブ・アジア・サミット-イスタンブール・プロセス(https://bit.ly/3hi7j3C)
は2021年3月30日にタジキスタンのドゥシャンベで開催された。会議は、アフガニスタン大統領H.Eモハマドア・シュラフ・ガニーとタジク人カウンターパートH.Eエモマリラフ・モンによって提出された声明で開始された。同会議のテーマは、「平和と開発のためのコンセンサスの強化」。会議は2020年に開催される予定だったが、COVID-19パンデミックの影響で延期されていた。

注19 「主要4民族」
(https://bit.ly/3jx9iE5)
<JICAの解説>2004年1月に発布された憲法第4条によれば、「アフガニスタンの国家は、パシュトゥーン、タジク、ハザラ、ウズベク、トルコマン、バルーチ、パシャイー、ヌーリスタニー、アイマーク、アラブ、キルギズ、ギジルバーシュ、グージャル、ブラーフウイーと他の諸民族から構成される」とある。
(以下、同HPより引用)
しかし、歴史の項でも触れるように国家としてのアフガニスタンは、人口割合で40%程度を占めると言われる多数派パシュトゥーン民族による支配が続いてきました。その中でドッラーニー部族連合とギルザイ部族連合という2大部族集団が、18世紀以来政治的に優勢な地位を保持し、その中でドッラーニー部族連合が1973年のクーデターで失脚するザヒール=シャー国王に至るまで王位を継承してきた歴史でもあります。
パシュトゥーン民族はパキスタン側にも多く居住しており、同民族の中には英国によって押し付けられたデュランドラインによる民族の分割を乗り越え、パシュトゥーン民族による国家「パシュトゥーニスタン」建設を目指す動きがあります。そうした事情もありアフガニスタンおよびパキスタンの国境は両国において合意されたものとはなっていません。
なお、特にパキスタン側国境付近にある連邦直轄部族地域(FATA:Federally Administrated Tribal Area)では、住民であるパシュトゥーン民族の自治が大幅に認められており、パキスタン政府の管理も徹底できないことから、イスラーム過激派と呼ばれる反政府勢力の温床になっていると米国等からの批判を受けています。
その他の民族では、ハザラ民族が歴史的には相対的に低い社会的地位にありました。これは19世紀後半、国家統一を果たすためにシーア派であるハザラ民族居住地の中央高地(ハザラジャート)を制圧し、パシュトゥーン民族に土地を分配するなどハザラ民族を抑圧した、当時のラフマン国王の政策に遡ります。
タジク、ウズベクといった民族は隣国のタジキスタン、ウズベキスタンとの関係が強く、アフガニスタン北部の多住地域では民族指導者のもとに結束し、地方政治はもちろん中央政界にも大きな影響力を持っています。

注20 「ムハンマド・ダーウード時代」
サルダール・ムハンマド・ダーウード・ハーン(1909年7月18日 – 1978年4月28日)はアフガニスタンの政治家。旧王族のひとりで、アフガニスタン最後の国王となったザーヒル・シャーの従弟。1953年月から1963年まで首相。1973年7月、国王のザーヒル・シャーが病気療養のためアフガニスタンを離れていた隙にクーデタを成功させ王政を廃止し、共和制への移行と自身の大統領就任を宣言した。1977年2月のローヤ・ジルガ(国王の選出や憲法の制定など国の重要事項を決定する部族長や長老などからなる伝統的な合議機関)で正式に大統領に就任したが翌年4月のクーデタ(アフガン四月革命)時に殺害される。(Wikipedia)

注21 「アフガニスタン人民民主党(PDPA)」
英語名:People’s Democratic Party of Afghanistan。アフガニスタンに1965年から1990年頃まで存在した左翼政党である。1978年から1992年までアフガニスタンの革命政権の与党であった。ヌール・ムハンマド・タラキーにより創設された。内部はパルチャム派とハルク派に分かれていた。(Wikipedia)
PDPAが主導したアフガニスタン4月革命については『新生アフガニスタンへの旅』(1981年、野口壽一著、群出版)に詳しい。

注22 「ハザラジャート」
アフガニスタン中央部の山岳地帯。巨大石仏像のあるバーミヤンで有名。バーミヤン、ダーイクンディー、ゴール、ガズニー、ウルーズガン、マイダンヴァルダクなどの州を含む地域。

注23 「ムジャヒディーン」
アラビア語で「ジハードを遂行する者」を意味するムジャーヒド(アラビア語: مجاهد‎、mujāhidn‎)の複数形。一般的には、イスラム教の大義にのっとったジハードに参加する戦士たちのことを指す。最近はイスラム教による連携した民兵を指すことが多い。(Wikipedia)
特殊的には、アフガニスタンでダーウード時代に弾圧され国外(主にパキスタン)に逃れてダーウードに対する反政府活動、さらにはPDPAへの武力ゲリラ戦争を遂行する主体となったイスラーム主義者、グルブッディーン・ヘクマティヤール、ブルハーヌッディーン・ラッバーニー、アフマド・シャー・マスードらの運動、ないし、アラブ諸国からアフガン四月革命に反対しPDPAおよび進駐したソ連軍との戦争を遂行した運動、ゲリラ部隊、団体、参加者などを指す言葉。

注24 「2001年のボン会議」
米国と有志連合および北部同盟の攻撃によりターリバーンがカーブルから敗走しつつあった2001年11月、アフガニスタンの国民和解に向けた手続きを話し合うために国連がドイツのボンに収集した会議。しかしこの会議にはターリバーンはもちろん、アフガニスタンの相対的最大民族であるパシュトゥーン民族(部族)代表するグループも参加していなかったため、そこで合意された「ボン合意」も、以後に禍根を残すことになった。

注25 「ナジブラー政権は最後あれほど木っ端みじんに崩れ去りはしなかったでしょう。」
『わが政府 かく崩壊せり』(アブドゥル・ハミド・ムータット著、野口壽一訳)参照。
amazonnで購入できます: https://amzn.to/3qFwwcT
概要はここでも得られます。→ http://www.caravan.net/muhtat/

注26 「バルーチ」
バルーチ族のこと。デュラントラインで居住地域が分割され、同じく分割されたパシュトゥーン族とおなじく統一運動がある。
(以下英語版Wikipedia)より要約。
バルーチ語またはバローチ語(بلۏچ)は、パキスタン、イラン、アフガニスタンを含むイラン高原の南東端に位置するバルーチ人地域(バルーチスタン)に主に住むイラン系民族。インド、トルクメニスタン、アラビア半島などの近隣地域にも居住地域がある。言語は北西イラン語のバルーチ語を話す。バルーチの大多数はパキスタン国内に居住。バローチ民族の総人口(約1000万人)の約50%がパキスタンのバロチスタン州に、40%がシンド州に定住、少数ではあるがかなりの数がパキスタンのパンジャブに住んでいる。それらはパキスタンの総人口のほぼ3.6%を占め、イランとアフガニスタンの両方の人口の約2%を占めている。

0010

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<付録>
野口壽一とケシュトマンド氏

野口は、1980年8月30日土曜日午前10時、当時の革命評議会副議長、副首相、計画省大臣であるケシュトマンド氏に小一時間、インタビューを行った。写真右はそのときのケシュトマンド氏。インタビューの合間に撮影させてもらった。左は彼の執務室。王政時代からの建物で風格ある建物だった。

今回、ケシュトマンド氏の最新見解を翻訳する機会があり、41年前にお会いしてインタビューし、拙著に納めさせていただいた日々のことが懐かしく思い出された。それだけであれば、41年前の自分自身の亡霊の再来に過ぎないが、ケシュトマンド氏はその時から一貫して自分の全人生をかけてアフガニスタンの平和と国の在り方について発言をつづけておられる。今年9月に予定されているアフガニスタンからの米軍の完全撤退は、1989年2月のソ連軍撤退完了に比するほどの激動をアフガニスタンに与えるだろう。アフガニスタンの和平と国づくりをどう実現していくのか、歴史的な使命がアフガン人には課せられている。
アフガニスタンの革命に身を寄せたものとしては、あの「革命」はいったいなんだったのか、人々の切実な思いと夢、社会改革の大いなる錯誤と成功のかずかず、それらの詳細なる分析、ソ連の軍事支援は正しかったのか否か、革命勢力(PDPA)と旧支配階級・イスラム勢力とのせめぎあい、宣戦布告なき戦争の実相、敗北の真因、ソ連邦の崩壊と社会主義世界体制の崩壊のきっかけとなり世界を揺るがすことになったテロとの戦い、いまも世界政治のホットポイントでありつづけるアフガニスタン事件の全貌、・・・。ことし秋に向けて、ノスタルジアですますわけにいかない大いなる緊張の時が横たわっている。
アフガニスタンと世界の未来のために文字通り心血をささげてきたあらゆる立場の人々の真剣な声を聴くべき時がきている。

ともあれ、野口が特に深くかかわってきたPDPD側の代表的なひとりで、半世紀以上も活発に活動をつづけてきたケシュトマンド氏の人となりを伝える意味で、以下、『新生アフガニスタンへの旅』(野口壽一著、群出版、1981年刊)より該当部分を抜粋紹介する。


1980年夏、アフガニスタンを最初に取材したころの野口(前列左端)

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『新生アフガニスタンへの旅』(p12-p16)より
4 ケシトマンド副首相と会う

休日があけた翌朝、情報文化省から電話がはいった。この日の取材スケジュールの連絡である。ケシトマンド氏が会うから行け、というものであった。スルタン・アリ・ケシトマンド氏は、革命評議会副議長、副首相、それに計画省の大臣である。午前8時半の電話で、その日の午前10時の会見がセットされ、いきなり最高指導者のひとりと会えというので、少し慌てた。トップ・リーダーと仮に会見できるとしても、かなりあとだろうと思っていたからだ。とはいえ、これは願ってもないチャンスだ。情報文化省で地図を書いてもらい、ケシトマンド氏の執務室のある首相官邸に向かった。
首相官邸は、王制時代のものと思われる美しい建物だった。ケシトマンド氏は、彼の執務室にぼくを招じいれてくれた。2人だけの4、50分の会見だった。  ぼくはそこでぼくのアフガニスタン訪問の目的をしゃべった。ぼくらは、アフガン人民の4月革命と世界平和にむけた闘いに連帯したいと思っていること、アメリカ帝国主義と結びつく日本帝国主義は直接に、またマスコミなどを使って4月革命を押しつぶそうとしていること、ぼくらは日本の労働者階級のあいだで真実を伝えるため努力するつもりであること、日本ではこの問題で正しい観点に立っている人間はまだ少数だが、日本の世論は必ず変わるだろう、等々と。ぼくはたまたま、『読売新聞』が7月23日に、ケシトマンド氏が行なった演説を茶化して書いた記事のスクラップを持ってきていた。その記事は、アフガニスタンの政府首脳じしんが経済的マヒ状態の現状を認めた、アフガニスタンはいま、「納税ゼロ、経済破綻」に瀕しており、「国家として成立するための必要最低限の機能がおぼつかなくなっている」と断じていた。まあ、よくもこんな歪曲記事を平気で書けるものだと思うほどの代物だ。だいたい、困難を公然と人民のまえに提出するということは、その困難を克服しようとする人民がいるときしかできるはずがないじゃないか、そんな気持でぼくは、ケシトマンド氏にその切り抜きをみせて内容を説明した。

ケシトマンド氏は、演説をぶつ政治家というよりおだやかな実務家といった感じの人だった。モンゴル系の顔だちだけによけい親しみを覚えた。彼は、一語一語、かみしめるようにゆっくりと話して くれた。

「1978年の革命前、アフガニスタンは主として封建制のもとにあり、革命後、封建領主や大土地所有者などの除去をはじめ、封建制に従属するさまざまな要因を除去することが目的となった。これらを実現するにはさまざまなステップを踏んでいかねばならず、革命の第2段階(1979年12月以降のこと)には、人民の協働を組織し、社会全体を民主化する仕事に力が入れられた。とくに、小農民や貧農の間の協同組合(セルフ・コーポラティブ)がすすめられている。これはまだ社会主義的生産とはいえないが、社会主義を将来的にはめざすものである。いまはまだ、民主革命の段階だ。アフガニスタンの経済は、今日、その60%が民間部門に握られており、国家部門は40%にすぎない。アフガニスタンには鉄道がなく、その他の交通手段の確立も遅れており、政府は多くの仕事をせねばならない。これらの計画をまとめたものとして1978年につくられた5カ年計画がある。この計画は1年ごとの目標から構成されている。しかし、初年度(79年から80年はじめまでの)目標は、アメリカ帝国主義、パキスタン軍国主義、アラブ反動派、中国覇権主義などの後押しによる敵の妨害にあい、実現できなかった。われわれは目標を修正した新しい投資計画をもっている。それはことし、工業に50%を、農業に25%を、運輸手段に20%を、その他の社会事業に5%を支出する計画だ」

彼は、細かく数字をあげてアフガニスタンの社会的・経済的改造計画を話してくれた。ケシトマンド氏は、4月革命で人民民主党が最初に権力をとったときも計画相だった。しかし、権力奪取のわずか4カ月後の8月23日には、現国防相のモハマド・ラフィー氏らとともに逮捕され解放のときまで投獄されていた人である。彼は、計画省の事務当局が最初の5カ年計画書と、修正されたそれの英文パンフレットを持っているので2冊とも欲しければあげましょう、と約束してくれた。それらの会話のあと、会見のしめくくりとして、ぼくは彼に、日本の労働者階級とその運動についてどう思うか聞いた。彼は答えた。

「日本の労働者階級は人口的に大きいだけでなく、英雄的で強力な闘いの歴史を持っている。独占の利益に対抗する正義の闘いをしてきた。わたしは、日本の労働者が、われわれの革命を支持してくれていることを知って感謝している。われわれは、汗を流して働く同じ階級としての立場から、同じイデオロギー、共通の理想をもってともに団結し、闘っていきましょう。
日本の労働者階級は創造的な人民だ。かれらが日本の産業を支えている。かれらが団結して、この力を政治的に表現すれば、かれらの将来は明るい、しかし、帝国主義の掌中にあるテレビやラジオなどの放送、ブルジョワ・マスコミュニケーションはデマや歪曲や中傷の報道を行ない、人民を2つに分けている。情報権力は独占の手に握られている。このような攻撃をはねのけて日本の共産党と社会党、それにさまざまな民主的団体が一致団結すれば将来は明るいと思う。それが日本の労働者階級の最善の望みではありませんか」

ケシトマンド氏との会見では、堅苦しい話だけではなかった。途中で、紅茶と緑茶とコーヒーが運ばれてきたときなどは、日本で人びとはどんなお茶をのむのか、家庭ではどうか、などを聞かれるなど、雑談も交えた楽しいものであった。彼に聞いた話ではないが、アフガニスタンでは紅茶をほとんど作らない。にもかかわらず人びとは紅茶が好きで、1人で1日に何回も、そのつど砂糖をたっぷりいれてポット1杯平気で飲み干す。カブールの夏の気候は陽射しが強く(カブールは標高1797メートル)、ひどく乾燥している。アフガン人のお茶好きにはこのような気侯上の理由があるのかもしれない。ぼくが逗留していたホテルの従業員が、「全部輸入するしかない紅茶をガブガブ飲むからアフガニスタンは貧乏なんだ」と冗談を言うほどかれらはよく飲む。

ともあれ、ケシトマンド氏との会見を終えたぼくは、その足で、彼が教えてくれた人に会うため計画省に行き、目的のパンフレットを2冊手にした。ぼくにこの資料をくれたのは計画省次官のモハマド・タリン氏だった。時間があったので彼ともしばらくお喋りした。彼は2冊のパンフレツトの由来と特徴をいろいろ説明してくれたが、それが終わると、アフガニスタンをどう思うか、と質問してきた。ぼくは、アフガニスタンは陽射しがとても強いが乾燥しているから、タイやインドに比べて過しやすい、といったことから話しはじめようとしたら、向こうは、東南アジアの国名がでたのをとらえて、「わたしもタイやフィリピンに行ったことがあるが、向こうにだっていたるところ兵士がうじゃうじゃいるじゃないか。しかるに、云々」と帝国主義の側のアフガン批判に反論を始めた。そんな話ならいくらでもつき合えるが、彼に、「日本は4月革命前はいろいろと援助していたのに、革命後それをストップしたのはなぜだね」と聞かれたのには心底まいった。「それは、そのう、日本政府が帝国主義政府であって……、われわれの力がまだ弱いからでしょう……」と何とか答えるには答えたのだが、よく利くストレート・パンチを鼻面にもろに喰ったようた気がした。

『新生アフガニスタンへの旅』(全文)はここでも読めます。

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