緊急インタビュー◇シリーズ<1>
タリバンはなぜ、かくも早く全土を掌握できたのか?
Why the Taliban so quickly captured Kabul?
ファテー・サミ (Fateh Sami)
2021年8月20日 (20 August 2021)
ウェッブ アフガン イン ジャパン(Web AFGHAN in JAPAN: WAJ)はアフガン人研究者、元カーブルタイムズ編集者、SBSラジオ放送局アシスタントで経験豊かなフリーランスジャーナリストであるファテー・サミ(Fateh Sami)氏にインタビューを行った。聞き手は野口壽一。2回に分けて掲載する。以下はその第1回。
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WAJ: ターリバーンはなぜかくも電撃的にカーブルを陥落させることができたのでしょうか?
SAMI: その質問に答えるまえにちょっと考えてください。アメリカは、9.11対米同時テロの後、ビン=ラーディン率いるアルカイダとの反テロの戦いを名目にアフガニスタンに侵攻したことをご存知でしょう。ターリバーンがアフガニスタンで権力を握っていた間、ターリバンを国家承認していたのはパキスタン、サウジアラビア、UAEなど数カ国にすぎません。9.11攻撃のあと、ビン=ラーディンはパキスタンに逃れ、殺害されるまでの10年以上、どこに隠れていましたか? 世界中の人が知っているように、パキスタンISI(軍統合情報局)の本部のすぐ近くです。このようにターリバーンはパキスタンでISI の代理組織として育てられ訓練されたのです。ターリバーンがカーブルを占拠したのではありません。やったのはパキスタンなのです。
WAJ: よく知っています。ビン=ラーディンは2011年5月2日にパキスタン・アボッタバードの軍事施設の近くにある邸宅でアメリカの秘密特殊組織によって殺されたことになっています。パキスタン当局はアメリカの秘密作戦を知らなかったと言っていますが、私には信じられません。
SAMI: パキスタンのアボッタバードにある複合施設を急襲した際に米軍の特殊部隊によってアルカイダ指導者のビン=ラーディンが殺されたことを、パキスタン当局はどうすれば否定できるでしょうか?それを今でも否認している彼らは紛れもなくウソつきです。
WAJ: 第2次世界大戦後アメリカとソ連が敵対関係にあったことを知っています。つまり、冷戦時代です。
SAMI: アフガニスタン人民民主党(PDPA)が軍事クーデターでダウド政権を倒して権力を掌握したこともご存じのはずです。で、このPDPA新政権は数々の社会経済改革、すなわち土地改革や識字運動などなどの改革を開始しました。しかしこの親ソ連共産主義政府は改革実行プロセスにおいて数多くの失態や愚行を重ねました。その結果、党活動家は国民を無謀に刺激する厄介な行動をとり、人びとを興奮させ、新たに出現した反乱軍と抵抗勢力の側に住民を押しやってしまったのです。そうやって内戦が全国的に激化しました。何百万人もの人びとが家を捨て、パキスタンやイランなどの近隣諸国へ難民になったり世界中に亡命したりしたのです。
WAJ: はい、それもよく知っています。加えて、PDPAは党内対立と改革に反対する国内外の武装抵抗勢力に対抗するためソ連の支援を仰ぎました。その要請に応えるためソ連は軍隊を派遣しました。その結果、アフガニスタン問題は世界規模の事件となりました。
SAMI: その通りです。アフガニスタン問題はアメリカとソ連の敵対関係をもう一段高い新しい次元に引き上げました。パキスタンへ逃れた大量のアフガン難民の存在や、アメリカやNATO諸国、さらに多くのイスラム諸国までが関与して、アフガニスタンの問題でお互いを打ち負かそうとしたことが、残念ながら今日まで問題を複雑化させ執拗に長引かせてしまいました。
WAJ:そうですね、ではそろそろ本題の、なぜターリバーンはかくも速やかにカーブルに入城できたのか、という問題に入りましょう。
SAMI: それはいい質問ですが、短く簡潔に答えるのは難しいのです。
ご存じのようにターリバーンの訓練センターはパキスタン領内にあります。ターリバーンの兵士はパキスタンの代理兵です。その他の国もターリバーンを支援しています。つまり、アメリカ、パキスタン、サウジアラビア、イギリスです。このことは私がほかの記事で何度も述べたことですが、パキスタンの元首相でターリバーンに暗殺されたべナジル・ブットも著書の中で承認している事実です。
WAJ: PDPA政権が崩壊した1992年の後、ムジャヒディーンらは凄惨な仲間撃ちをはじめ全土で内戦が激化しました。それで1994年、パキスタン(ISI)、サウジアラビア、アメリカ、イギリスはムジャヒディーン勢力とくにグルブディン・ヘクマチヤールに率いられたヘズベ・イスラミに見切りをつけ、同類のイスラム極端派であるパシュトゥーン族のターリバーンの創造と育成に舵を切ったのです。1996年にはターリバーンはアフガニスタンのほぼ全土を手中に収め、ターリバーンを援助するビン=ラーディンやその仲間をアフガニスタン国内に引き入れ9.11事件を起こしました。
SAMI: 2001年、アメリカが侵攻するとわずか2 か月でアメリカといわゆる〝北部同盟〟勢力はターリバーンを打ち負かし、軍事機構を壊滅させ、その首長国政府を行政組織もろとも瓦解させました。ところが、そのような〝同盟〟などなかったのです。それはアーマド・シャー・マスードこそがターリバーンに対する抵抗勢力そのものだったのですが、彼の存在を軽く見せるために元パキスタン大統領のムシャラフ将軍が考え出した言葉にすぎません。さて、打倒されてから3年間というものターリバーン民兵など存在していませんでした。
では、彼らはどのようにして復活したのでしょうか?ベナジル・ブットによれば、彼らは主にパキスタン、英国、米国、サウジアラビアなどのパトロンによってふたたび命を吹き込まれたのです。
WAJ: パキスタンの元大統領パルヴェーズ・ムシャラフはターリバーンを育成し親パキスタン政権をアフガニスタンに作りました。ところが9.11事件の後、アメリカ大統領ブッシュジュニアに強制されてターリバーン打倒の戦争に協力させられました。その時にテレビ画面で見た苦渋に満ちた彼の表情をいまもありありと思い出します。
SAMI: そうです。ターリバーン民兵は当初、ベナジルブット内閣の内務大臣であるナスララ・バブールによって創設されました。しかし、彼らを継続的に育成し発展させたのは、まごうことなく、ムシャラフ将軍とISIなのです。パキスタンのどの政権も、ソビエト連邦に対するアフガン・ムジャヒディン戦争以来、自国がテロリスト訓練センターとして使用されていたことを否定できません。ハミド・カルザイとアシュラフ・ガニーはどちらも、派手でインチキな不正選挙の結果、アメリカに助けられて政権を握ったアフガニスタン大統領であることを忘れないでください。彼らの権力基盤はムジャヒディン政府と比較して非常に弱かったのです。彼らの民族的出自はパシュトゥーンです。彼ら(カルザイとガニー)はザルメイ・ハリルザドの助けを借りて、自分の政権内の他の民族グループの基盤を切り崩して弱体化させるのにターリバーンを利用していたのです。
WAJ: そうすると、アメリカ、イギリス、NATO諸国はカルザイ・ガニー政権が安定化するのを望んだけれども、無能さと腐敗のゆえになんの成果もあげなかったので彼らが知らない間にターリバーンに乗り換えた、というわけですね。
SAMI: アフガン政府内で軍関係の重要な地位に任命されたほとんどの人間はパキスタンの代理人つまりターリバーンびいきです。彼らのほとんどは自らの民族的偏愛と出自のためターリバーンを支持しています。そして、経験豊富な武官は解雇されたか、若いうちに引退させられました。さらに、アフガニスタンとパキスタンの間で争われている境界線であるデュラントラインの両側の住民は、圧倒的にパシュトゥーン族です。ターリバーンだと称してパキスタン軍が境界線の向こう側からターリバーンと一緒にアフガニスタンに入っています。彼らはパキスタン人ですが、見た目と方言が非常に似ているため、それらを識別するのは困難なのです。
WAJ: ターリバーンとの交渉の場で、アメリカはターリバーンが政権に就くのを前提に、アメリカに敵対する人間にビザなどの外交文書を発給しないと約束させるなどの条項を認めさせていたそうですが、それは本当ですか? 正確には何年前からアメリカとターリバーンは秘密の交渉をかさね陰謀を練っていたのでしょうか? それは、いつからでしょう?
SAMI: その通り。交渉の場はドーハ会議でした。いわゆる和平交渉の米国特使ザルメイ・ハリルザドとパキスタン当局が出席し、多くの問題について計画を練り上げていました。つまりドーハでアフガニスタンの懸案事項がパキスタンに引き継がれたのです。決定は、ターリバーンを権力の座につける方法についてで、舞台裏ですでに合意されていました。これには、将来の政府構造の形態や、見た目だけは「広範な政府」を樹立するための選挙に至るまでの暫定政権の期間も含まれています。ドーハ会議は2年以上続きました。権力をどのように〝暫定政権〟に移すべきかという見通し、そしてアシュラフ・ガニーの交代など、すべてが事前に決められていたようです。
WAJ: ガニー政権が突然崩壊した大きな理由はなんですか?
SAMI: 予想外の急速な崩壊にはおおくの理由がありますが、おもな理由には下記の点があげられます。
▪政府側がターリバーンと協力する傾向にあった。
▪ターリバーンと闘う際にガニー政府は軍を支援しなかった。
▪特に降伏または待ち伏せされている状況において、兵站および必要な種類の装備、武器、弾薬、および食料が軍に提供されなかった。
▪アフガニスタンの懸案事項をパキスタンが引き継ぐという米・パキスタン間の合意。
▪ターリバーンを支持する第5列(政権内裏切り分子)の存在
▪アフガニスタン政府が他の民族に対抗するためターリバーンの強化を支持し、民族的偏愛によりターリバーンとの戦いを妨害した。
▪アフガニスタンの鉱物資源を略奪し麻薬密売とその事業収入を増やすために戦い続ける外国諜報機関の影響。
最も重要な軍事的および政治的決定は、アシュラフ・ガニーとその仲間によって行われました。その3人がアメリカとイギリスの指導にもとづいて軍の野戦指揮官に持ち場から避難するよう意図的に指示すれば、多くの地域が急速にターリバーンの手に落ちることになります。
最も重要なことは、ドーハ和平交渉のプロセスまたはターリバーンを権力の座につけるための陰謀が、アシュラフ・ガニーと彼のチーム(3人組政府と呼ばれている)が密かに国を逃れたため予期せず中断され、予測不可能な権力の空白が生まれたことです。権力を暫定政権に適切に引き渡すことができませんでした。権力の空白はガニーによって意図的に生み出されました(ガニーの逃亡が在カーブル米大使館との交渉で手配されたのか、それともアシュラフ・ガニー・アフマドザイ自身がアフガニスタンの元大統領ナジブラ博士と同じ運命に陥らないよう単独で決定したのかはまだ不明です。ナジブラ大統領はターリバーンに殺害され市中に吊り下げられました)。アシュラフ・ガニーは逃亡する前にカーブル・ワシントン間でアメリカ当局と長い会話をしたと報道されています。
▪ターリバーンが提出した様々な条件のなかのひとつに、いわゆる平和のための条件がありそれは、ガニー大統領が辞任し、その後も新政府には加わらない、というものでした。
▪ガニーはアメリカの指示のもとか、あるいは独断で、意図してプロセス全体を妨害するために権力の空白を作り出したのかもしれません。権力の空白がカーブル政権の急速な崩壊を助長しました。
▪ターリバーンに対して数々の大衆蜂起が起こりましたが、ガニーと彼の3人組政府はそれを支援せず、意図的に妨害していました。
カーブル政府の想定外の急激な崩壊の理由をご理解いただけたでしょうか。私は過去40年間にアフガニスタンで状況がさまざまな方法でどのように発展したかを完全に理解しています。アフガニスタンでは代理戦争が続いており、40年以上にわたってドキュメンタリー映画のように複数のプレーヤーが何らかの役割をもって関与してきました。しかし残念ながら、絶え間ないこの悲劇がいつ、どのように最終的に終わるのか、残念ながら、いまはまだまったく不明です。
WAJ: 私たちの質問に丁寧にお答えいただき心から感謝いたします。多くの事柄がクリアになり、アフガニスタンで起きている事態を理解するうえで大変助けになりました。さらに、これまで私たちWeb AFGHAN in JAPANに寄せていただいたあなたの記事の中で明確に表現されている鋭い分析に敬意を表します。と同時に、アシュラフ・ガニー政権の腐敗とターリバーンによる犯罪的な行為に対して一貫した批判を貫くあなたの勇気を称賛します。私たちは、アフガニスタンの人びとが自分自身で、かつ、世界の人びとと一緒にこの苦境を克服する決意を固めていると信じています。その決意がある限り、国際社会は平和と進歩を求めるアフガニスタンの人びとを見捨てることはないと信じています。私たちにできることには限りがありますが、あなた方の声を世界中にいる日本語理解者に伝えることはできます。ささやかな力ではありますが全力を尽くすことを誓います。最後にもう一度、ありがとうと言わせてください。
(次回第2回はより詳しく激動の背景をお聞きします。乞うご期待)