Taliban is like a TUNAMI

元アフガニスタン共和国・副大統領アブドル・ハミド・ムータット(Abdul Hamid Mohtat)氏へのインタビュー

2021年8月19日
インタビューアー/ラジオ・リバティー:ドミトリー・バーカー
(オリジナルはウクライナ語:URL=https://bit.ly/3zf2Wh2

当サイトで何度も紹介しているアブドル・ハミド・ムータット氏は現在、ウクライナの首都キエフに在住。ウクライナではクリミヤ半島問題などでロシアと鋭く対立しており、アフガニスタンと共通の問題を抱えている、と認識されている。そのような問題意識から、ラジオ・スボボダのホームページは、ラジオ・リバティーのドミトリー・バーカー記者のインタビュー記事を掲載している。


写真は、国旗をかかげ身にまとい独立記念日を祝うアフガンの人びと

(アフガニスタン、ジャララバード、2021年8月19日)

 

<ラジオ・スボボダのリード>

8月19日、アフガン国民は1919年の対英独立戦争の勝利を祝う。独立以来1世紀以上、アフガニスタンは領土と権力をめぐる戦争に苦しんでいる。この間、アフガニスタンは君主制、共産主義政権、西欧のテクノクラート政権、イスラム原理主義者らによって統治されてきた。なぜ親欧米政府はターリバーンに抵抗できなかったのか? なぜアフガニスタンは果てしない戦争の連続に苦しんでいるのか? この国の状況はウクライナの状況とどのように似ているのか? ウクライナはどのようにして内部紛争や外部の脅威に耐えることができるのか? Radio Svoboda(訳注:ラジオ・スボボダ[全ウクライナ連合]=ウクライナの民族主義政党)は、これについてアフガニスタンの元副大統領 Abdul Hamid Mohtat氏にインタビューした。

 

ドミトリー・バーカー:20世紀から21世紀にかけて、アフガニスタンでは、暴力、クーデター、敵対行為などの結果、突然の政権交代が繰り返されてきました。あなたとあなたの同僚はどのようにして国家権力を獲得しましたか?

アブドゥル・ハミド・ムータット 私自身の人生はアフガニスタンの歴史と関係しています。1973年にザーヒル・シャー国王に対するクーデターがありました。このクーデターは私と私の友人とで実行し権力を握りました。国王から首相の座を奪われていたモハメッド・ダウド氏が大統領になりました。彼は就任すると民族主義的な政策を追求しました。このことで私たちはパキスタンとの間に問題を抱え始めました。1947年にイギリスがインドを分割するときアフガニスタンの一部をパキスタンに組み込んだのがその遠因です。パキスタンの諜報機関は、インドとアフガニスタンに対して行動を続けており、当時すでにムジャヒディンのグループ(5〜6千人)がパキスタンに集結していました。

※(訳注:ムータット氏はこのクーデターのリーダー。クーデター後通信大臣に任命されたがダウドの政策に反対して自宅軟禁された。)

1978年のクーデター(訳注:PDPAによる政権掌握。いわゆる四月革命)後、権力はアフガニスタン人民民主党に渡されました。英国、米国、その他の国ぐには、資金面、軍事面でパキスタンを支援しました。それは私たちにとって困難な事態でした。最終的に、1979年にソビエト連邦は軍隊をアフガニスタンに送りました。その後、米国はパキスタンを公然と支援してきました。

※(訳注:このクーデタでもムータット氏はリーダー。ハルク派とパルチャム派の連合に尽力。PDPAは権力奪取直後ムータット氏を日本大使として国外に出す。(カルマル、ナジブラも))

 

ドミトリー・バーカー:その後、長引く戦争があり、1989年にソビエト連邦がアフガニスタンから軍隊を撤退させました。あなたがたは敵と1対1で取り残されました。現在のアフガニスタンの状況と同様ではありませんか? なぜあなたがたの政府の抵抗は失敗に終わったのですか?

 

アブドゥル・ハミド・ムータット ソビエト軍の撤退後、私たちはほぼ3年半持ちこたえました。私たちはパキスタンによるいかなる試みも打ち負かしました。しかし、私たちは最終的には敗北しました、その間の唯一の助けの源はソビエト連邦でした。ソビエト連邦の変化の後、ボリス・エリツィンがロシアで権力を握ったとき、私たちは助けを求めましたが、エリツィンは私たちの代表団と会いもしませんでした。私たちは経済的にも軍事的にもどこからの支援もなしにとどまりました。彼らは助ける機会はあると私たちに言っていたのですが。結局、我が国の大統領モハメッド・ナジブラは国を去る決意をしましたが、いくつかの理由があって出国できずカーブルで国連の管理下に置かれました。
私たちはムジャヒディンへの権力引渡し式を開催しました。権力は平和的に委譲されました。(訳注:この間の事情は『わが政府 かく崩壊せり』に詳しく述べられている。)

今回、ガニー大統領はドバイに逃げました。誰にも何も言わずに。ターリバーンは単に大統領官邸を占領しただけです。アメリカ人はターリバーンに同意しました。20年前には彼らを爆撃し、今回は彼らを認めました。この方針はダブルスタンダードです。このようにしてターリバーンは権力を得ましたが、彼らは戦争、爆破、暗殺方法を知っているだけで、それ以上何も知らない、無教育の連中です。

アフガニスタンは彼らの支配下にありますが、彼らは何をすべきかわかっていません。彼らは数日間権力を握っているが、カーブルではすべての施設が閉鎖されており、パスポートを持たない人びとが国から逃げだそうと空港にひしめいています。この事態はアメリカの恥であり、西側諸国の恥です。彼らはいろいろ約束しましたが、問題をなにも解決しなかったのです。

 

ドミトリー・バーカー:その後、アフガニスタンでの政権交代は民主的に進められましたか?ムジャヒディンはどう失権し、アシュラフ・ガニー大統領の就任のときはいかがでしたか?

アブドゥル・ハミド・ムータット 私たちはパキスタンの支援を受けた人びとに取って代わられました。私たちは彼らに権力を譲りました。彼らは4年間権力を握っていました。彼らは彼ら同士で戦いました、彼らはアフガニスタンを落ち着かせることができませんでした。米国、英国、パキスタン、サウジアラビアは、ターリバーンをベースにしてそれらと置き換えようと決めしました。ターリバーンは、アメリカ、サウジアラビア、パキスタンの助けを借りて作成されました。彼らは戦うためにスーダンからアフガニスタンにオサマ・ビン=ラーディンを連れてきました。その結果、ムジャヒディンはターリバーンにとって代わられました。

9.11の後、米国はターリバーンが去るまで1か月間アフガニスタンを爆撃しつづけました。それからアメリカ人は彼らの友人たち、親欧米のテクノクラートらに権力を与えました、彼らの何人かは合衆国に住んでいて、何人かはレストランで働いていました。彼らに権力が与えられたのです。

ハミド・カルザイが権力を握ったとき、腐敗が国家の基礎となりました。 20年間、アフガニスタンは汚職世界一になりました。すべての選挙はわいろを伴っていました。ガニー大統領もわいろで権力を握りました。彼らを選んだのは国民ではなく、国民は国政に影響を与えることができませんでした。これがターリバーンが権力を握った理由です。 私たちは、米国のようなあるいはソビエト連邦のような巨大な国に頼って希望を実現するのでなく、国民に頼るべきだと信じています。

 

ドミトリー・バーカー:アフガニスタンから軍隊を撤退させるという米国当局の決定についてどう思いますか? それは国民に国の問題に対処する機会を与えますか?

アブドゥル・ハミド・ムータット それは非常に間違ったアプローチです。アフガニスタン政府の立場を考慮せずに、彼らはターリバーンとの交渉を開始しました。ターリバーンとは何者ですか? 彼らはグアンタナモにいた連中です。ターリバーンは今でも世界からテロ組織と見なされています。ターリバーンとの交渉はトランプの下で始まり、バイデンによって続けられました。過去1年半の間、米当局は自分たちが作ったアフガニスタン政府と話すことを躊躇してきました。これは非常に間違っています、それがターリバーンに権力をもたらしたのです。米国はまず自らが取り組んだ課題を解決し、しかる後にアフガニスタンを去らなければなりませんでした。今度の撤退は課題解決策ではありません。だから今、バイデンはアメリカ国内でさえ、味方を売り渡した、恥だと非難されています。ベトナムに次ぐアメリカの第2の恥であり、20年の戦争の後に民主主義を残さず、お金を使って何にも得られなかったのです。

ドミトリー・バーカー:しかし、米国は政府、軍隊、インフラを強化するためにアフガニスタンで数千億ドルを費やしてきました。それだけでは不十分でしたか? なぜアフガニスタン政府と軍隊は、そのような財政的支援があったのにターリバーンに抵抗することができなかったのですか?

アブドゥル・ハミド・ムータット 米国はたくさんのお金を使ったそうですが、アフガニスタンの人びとの生活がどのように改善されましたか? 見てください。彼らはダムや道路を建設しましたか? 1977年以降、ソビエト連邦は施設、研究所、発電所、そして現在も使用されている数十の施設を建設しました。アメリカ人が20年間にお金を使って築き上げてきたものを見せてください。彼らの助けは非政府組織を通り抜けました。実際には、それらはアメリカの会社でした。すべてのお金は彼らを通り抜けました、そのお金の90パーセントはアメリカで使われました、そして、アフガニスタンでわずか10パーセント。 学校を1,600校建設したとのことですが、実際にはそれほど多くはありません。せいぜい 500校ほどでしょう。

彼らがアフガニスタンで作った政府は腐っていたので、国民が信頼しない政府のために戦うことを軍は望んでいませんでした。少なくとも理念を持った政府であれば国民はもっと激しく戦ったことでしょう。

ドミトリー・バーカー:あまり古く歴史をさかのぼらずに、前世紀についてだけ話したとしても、なぜアフガニスタンはこれほど頻繁に戦争をしているのでしょうか?

アブドゥル・ハミド・ムータット それが最も重要な質問です。アフガニスタンは何世紀にもわたって地政学的状況の犠牲者でした。アフガニスタンは中央アジアにあります。アレキサンダー大王は西から、ジンギスカンは東から、イギリス軍は南から、ロシア人は北から攻撃してきました。私たちの歴史全体は自由のための闘争です。そのような場合、宗教運動は非常に強くなり、多くの人びとがその周りに集まります。ターリバーンは現在、宗教を危険にさらすという名目でアメリカと戦っています。

一方、ここでは部族制度が影響力を持っています。これらは主にパシュトゥーン族です。アフガニスタン大統領ガニーが所属する部族は、わずか50年前に遊牧民のライフスタイルから農業に変化しました。これは文明のレベルを示しています。ヨーロッパにとって、それは古代の歴史であり、われわれの世界で最大の部族コミュニティがパシュトゥーン族なのです。したがって、過去4世紀、進歩的な動きは部族によって反対されてきました。

ドミトリー・バーカー:ターリバーンはアフガニスタン生きのびられますか、彼らはいつまで権力を保持できますか?

アブドゥル・ハミド・ムータット ターリバーンへの反対はすでに始まっています。国民が受け入れないので、すぐに打破されると思います。アフガニスタンの今の人びとは20年前のままではありません。新世代です。

ターリバーンは軍事組織です。彼らには国を運営する能力がなく、白いイスラムの旗を持っていますが、アフガニスタンの路上で大きな問題を起こしており、人びとはこの白い旗の下で暮らしたいとは思っていません。

ターリバーンへの反対はすでに始まっています。ターリバーンは津波のようなものです。 国民が受け入れないので、アフガニスタン自体によってすぐに打破されると思います。アフガン人は20年前のままではなく、新世代のデジタル技術であるインターネットを使いこなしています。ターリバーンはどうやって彼らを征服することができますか?

ターリバーンは5〜6か月間は統治できるでしょうが、彼らには降伏して国の支配権を譲り渡すという途しかありえません。 アフガニスタンの国民とターリバーンの狭隘な原理主義の立場の間には強い矛盾が存在します。

ドミトリー・バーカー:ウクライナはヨーロッパの中心に位置し、何世紀にもわたってさまざまな側面から攻撃されてきました。また、しばしば困難な地政学的条件に陥り、現在はロシアの侵略に苦しんでいます。あなたの意見では、ウクライナとアフガニスタン周辺の状況の類似点はどこにありますか、違いは何ですか? ウクライナはどのようにしてアフガニスタンのような運命を回避することができますか? 権力、領土、体制をめぐって果てしない戦争がつづくのでしょうか?

アブドゥル・ハミド・ムータット 全国的な課題についてアドバイスするのは難しいです。地政学的な状況について言うと、それは国の外交政策に影響を及ぼします。ウクライナは地政学的な立場が良好です。ウクライナでは国民の利益を考慮しながら、隣人、ロシア、アメリカ、西洋との関係を調整しなければなりません。興味のある接点を見つける必要があります。最も危険なことは、外交関係を調整せずバランスを崩すことで、そうなると安定性を失う可能性があります。どちらか一方がウクライナの国内政策に影響を及ぼすことになります。また、危険なグループの影響を受けてはいけません。外部と内部の問題を解決するには、最適な関係を選択する必要があります。

アフガニスタンでは部族制度下の非識字住民が多いが、ウクライナでは90パーセントの国民が識字者です。また、土地の90%は有用であり、鉱物があり、港があり、西へのアクセスがあり、資源があります。それらは神からの贈り物です。

しかし、ウクライナとアフガニスタンで国家の基盤を破壊する最も危険な要因は汚職です。 腐敗がなければ、国民は忠実であり、知的な人々が権力を握り、責任を持って問題を解決します。腐敗があると、それはすべての人の扉を閉ざします。

DWによると、非政府組織とシンクタンクは、アシュラフ・ガニー政権の横行する汚職について繰り返し報告しています。(訳注:DW=Deutsch Walle(ドイチェ・ヴェレ)はドイツ連邦共和国国営の国際放送事業体である。ラジオ、テレビ、インターネットでサービス提供を行っている。)またワシントンポスト誌の特集企画「アフガニスタン・ペーパーズ」によると、アフガニスタン治安部隊を構成する軍と警察官の数は書類上の352,000人にたいして、前政府が実際に確認したのは254,000人だけでした。

司令官は有給の兵員リストに「幽霊兵士」を計上しただけでなく、実際の戦闘員の給料の一部を盗み取り、兵員が必要とするものを提供しなかったとワシントンポスト紙は報じました。

アフガニスタンでのアメリカの援助の使用の有効性を研究した組織はまた、自由支出方針にこだわったこと大規模な腐敗を許したとして米国を非難しました。 DWによると、アナリストは、アフガニスタンの汚職と戦うための米国の努力は「中途半端で効果がない」と述べています。

多額の軍事訓練費用(ワシントンはアフガン軍の訓練と装備に約830億ドル(700億ユーロ)を投入した)をかけたにもかかわらずアフガン軍が崩壊した理由を米国議会は組織の報告書にもとづいて検討し判定するだろうとDWは付け加えています。

ジョー・バイデン米大統領は、次のように述べています。「アフガン軍が自ら戦いたくない戦争で米国の兵士たちが戦うこと死ぬことはありえないし、あるべきではない。私たちは彼らに必要なものすべてを与えた。私たちは彼らに給料を支払い、ターリバーンにはなかった空軍による支援を提供した。私たちは彼らに彼ら自身の未来を決定するあらゆる機会を与えた。私たちが彼らに与えることができなかったのは、こんな未来のために戦う意志だった。」

米国と有志連合によって支えられ国際的に認められていたアフガニスタン政府は、ターリバーンが戦わずして最後の未征服拠点都市だった首都カーブルに入りアシュラフ・ガニー大統領が海外に逃亡した8月15日に、事実上消滅しました。

以前、米国のアナリストは2001年に英国とその同盟国の侵略によって追い落とされたターリバーンが権力に復帰するのは必然としても、アフガン政府にはまで数か月の猶予があるだろうとみていました。
その侵略の元来の目的はアメリカからもテロリスト国家からも認定されていた過激派ネットワークアルカイダを取り締まることでした。アルカイダは2001年9月11日に世界の注目を集めた米国同時テロを実行しましたが、それは当時政権についていたターリバーンによってアフガニスタン国内に亡命を許可されていた最中のできごとでした。

同時に、ターリバーンは米国国務省の外国テロ組織のリストには含まれていません。しかしこのリストには、ターリバーンと提携しているが同一組織ではないパキスタン・ターリバーン運動TTP(Tehrik-e-Taliban Pakistan)は含まれています。

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ドミトリー・バーカー(Dmitry Barkar)
1995年よりジャーナリスト。BBC-ウクライナの地域特派員。 2008年~:Era-FMラジオの議会特派員。 2010年~:Radio Svoboda(特派員、編集者、ホスト)。主なトピック:政治イベントと分析。

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・Radio Free Europe / Radio Liberty、略称はRFE / RL
アメリカ合衆国議会の出資によるラジオ放送と報道の機関である。本部はプラハ。
・Radio Svoboda はRFEのロシア向け放送

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