Causes of the failure of the US occupation of Afghanistan in 20 years <1>
出身部族テロ集団への権力移転を狙う2人の同級生=アシュラフ・ガニーとザルメイ・ハリルザドの役割
The role of two classmates- Ashraf Ghani & Zalmay Khalilzad in manipulating the transfer of power to their tribal terror factions.
ファテー・サミ (Fateh Sami)
2021年9月21日 (21 September 2021)
米国がつくった政府の結末
米国がアフガニスタンに樹立した政府が崩壊した背景には外的および内的要因があった。
内的要因は、自らの利益を追求する外国諜報機関によって指図された腐敗して無能な統治者そのものだ。
米国とその同盟国がアフガニスタンに存在したのは、たびたび表明されたように、建設と国造りのためなどではなく、彼らの地政学的および地域経済的戦略のためだった。テロリストとその避難所を根絶するという大宣伝はアフガニスタンへの侵略と占領の主な動機を覆い隠すためのものだった。それが外的要因だ。
アフガニスタン問題の米特別使節ザルメイ・ハリルザド(Zalmay Khalilzad)は失敗して米国政府に恥をかかせたが、それはハミド・カルザイ(Hamid Karzai)大統領とアシュラフ・ガニー(Ashraf Ghani)大統領という2人の無能な大統領を引き立て支持したからだ。
アシュラフ・ガニー前大統領は、9.11事件のあとカーブルに戻り、新任のハミド・カルザイ大統領の上級顧問に任命された。そしてほとんどのアナリストからは裏の大統領と呼ばれた。なぜならいわゆるアフガン復興のために外国から送られる支援金のすべてを調整する役割についていたからだ。2002年からアフガニスタンの財務相を務めたが横領がひどく2004年にカルザイに解任されてカーブル大学学長に就任した。2009年、ガニーは大統領選に立候補したが第4位で得票率は4%にすぎなかった。
カルザイ大統領がアフガニスタン憲法の規定により3期目に出馬できなかったため、ガニーは2014年再び大統領選に出馬し、当選した。そして、2019年には不正選挙のすえ再選された。
ガニー大統領在職中の内部亀裂
彼の在職期間の特徴と言えば内部のごたごただ。2014年と2019年の選挙で最大の宿敵アブドゥラ・アブドゥラ(Abdullah Abdullah)と対立して特にきわ立った。2014年の選挙はインチキだらけで、国連が急遽再集計を手配するほどだった。しかし、それも失敗して、当時の米ジョン・ケリー国務長官が権力分有という、分裂含みの緊迫した調停でやっとこさケリをつけた。
2019年の選挙では、選挙管理委員会はモハムマド・アシュラフ・ガニーを勝者と宣言したが、アブドゥラ・アブドゥラは結果を受け入れず、自分自身を勝者と宣言した。その後、両者はそれぞれ就任式を行った。アブドゥラは、選挙がガニー支持でしくまれていたと非難し、さもなければ決戦投票が行われ自分が勝ったはずだと主張した。2人の政敵の論争は長引き、終ったのは5か月後、米国とハミド・カルザイの調停で双方が合意にサインしたときだった。
国の権力構造が数人のエリートたちの掌中にあるなか、大統領時代のガニーは、教育を受けた新世代のアフガンの若者を上級職に任命することに成功した。しかし広がる政府の腐敗と戦い、経済を改革し、アフガニスタンを中央アジアと南アジアをつなぐ貿易ハブに変えるという彼の大きな公約は決して実現されなかった。かえって彼は、3人のチーム(訳注:ガニー、カルザイ前大統領、ハリルザド米特使)でアフガンの全人口を人質に取って汚職に深く関わっていた。
ギルザイ族とドゥラーニー族、パシュトゥーン人同士の争い
アシュラフ・ガニー政権の後半数年間は、同じパシュトゥーン人の中でギルザイ族とドゥラーニー族の間で紛争がより赤裸々なものとなった。オブザーバーによれば、カルザイとアシュラフ・ガニーの間の紛争は、権力をめぐる激しい部族闘争であり、ガニーがカルザイの支援を受けて大統領に就任したこととは別の争いだった。カルザイは後にガニーを追放しようとした。それはカルザイによる暫定政府を樹立する計画で、国内にいるパシュトゥーン人のなかでも強力な2つの部族同士の紛争から生じたと、一部のアナリストは信じている。ドゥラーニー族とギルザイ族がその2つで、長い間競争しており、権力を求める両者のせめぎ合いはアフガニスタンの政治史の一部となっている。
パキスタンの首相であるイムラン・カーン(Emran Khan)を含めISIの高官のほとんどもパシュトゥーン人ギルザイ族であるため、強力なスポンサーを見つけようと国内のギルザイ族はパキスタンに近づいた。一方ドゥラーニー族の政治家はカタールに接近した。政治取引の輪の中でカタールは今日持っている国の富をうまく利用し、この領域が政治的な均衡を保つよう具体的役割を果たしてきているからだ。
ガニーとカルザイ間の部族的対立
2つの部族は昨日までガニーとカルザイ間の抗争に執着していたが、それが今日では、新たな2人の対立へと変わった。かたや自分をカリフと呼ぶギルザイ族のシラジュッディン・ハッカーニ(Sirajuddin Haqqani)で、対するはドゥラーニー族のムラー・ハイバトゥラー(Mullah Haibatullah)である。もしハイバトゥラーが生きていて、ついにニュースカメラの前に現れたら、この角突き合わせる競争はさらに激しく続いて行く。そして、もし彼が生きていないことが証明されれば、同じドゥラーニー族でカンダハール出身のムラー・バラダール(Mullah Baradar)が首長になるはずだった。ところが、バラダールも姿を消した。噂によると、殺害されたか、パキスタンでISIによって投獄されているという。
そのためターリバーンの2つの武装勢力の間で、宮殿内の権力の分配をめぐって激しい紛争があった。首都であるカーブルは、ハッカーニの手中にある。ハッカーニネットワークを政治的に牛耳るのはみなテロリストで、刑務所から釈放されパキスタンの支援を受けている者たちだ。
これまでのテロ作戦のほとんどはハッカーニの集団が行った。米国に対する戦争を命じて遂行したのもターリバーン内にいる同じハッカーニの集団だ。ハッカーニはテロリストとして国連からいまも最重要指名手配されている。
しかしパルヴェーズ・ムシャラフ(Pervez Musharraf)元パキスタン大統領はハッカーニのことをわれらが英雄だと言い続けていた。ちなみにヘズベ・イスラミ党の指導者グルブディン・ヘクマティヤール(Gulbuddin Hekmatyar)はかつて首都カーブルに毎日数百発のロケット弾を無差別に撃ち込み7万5000人から10万人もの市民を死傷させたが、彼もまた、パキスタンのISI長官から「グルブディンはわれわれよりも完璧なパキスタン人だ」と称賛された。
シラジュディン・ハッカーニはよく知られたテロリストの1人であり、ハイバトゥラーのもと新たにできた政府で閣僚を務めている。米国が連中の悪とテロ行為の歴史を知らないと誰が信じるだろうか? 米国は彼らがカーブルで犯した犯罪を知りながら目をつむっている。
話を戻すと、ターリバーン内で誰が指導者になるかは、ドゥラーニー族とギルザイ族間の民族的および部族的対立にも深く影響されていると言え、この緊張により、ターリバーンは増大する内部の課題と相違に直面する可能性がある。ムラー・ハイバトゥラーが生きているか死んでいるか決定的な証拠がないため、なおさらである。いくつかの報告によると、彼はパキスタンのクエッタで2019年に射殺されたと言う。「ロケットランチャー」の異名を持つグルブディン・ヘクマティヤールとひどく対立していたからだ。
絶対的権力を追い求める伝統的な闘争は以前にも増して顕在化してきた。こんな状況のもと、国内で徐々に絶対的権力をたより突き進むと思われるのは大きなテロリスト集団だ。米軍のあわただしい撤退によって不安が醸し出され、そのショックが冷めやらぬなか、アフガニスタンの国民、特にパンジシールの人びとが安全上の脅威にさらされているにもかかわらず。彼ら(シラジュディン・ハッカーニが率いる テロ集団)は、カーブル宮殿を占領している支配集団であり、「カリフ制」の立場に固執し、ドゥラーニー族の時代からギルザイ族に権力を完全に移そうとしている。だからこそ、このところシラジュディン・ハッカーニの支持者たちは彼を「カリフ」と呼んでおり、彼がターリバーンの指導者になる道を整えている。
所属する民族と部族の関係でハッカーニの集団と手を組む派閥は多い。例えば、グルブディン・ヘクマティヤール(彼はナジブラ大統領に対するクーデターに失敗しパキスタンに逃げたPDPAメンバーであるシャフナワーズ・タナイShahnawaz TanaiのISIへの降伏を手助けをした)。元アフガニスタンの政党ミラト(排外主義政党)。さらに同じムジャヒディン党の中で、パシュトゥーン人の部族に属してターリバーンの過激派を支持する者たちもいる。
アシュラフ・ガニー・アフマドザイの早すぎる逃亡とアフガニスタンで過去2週間におきた一連の出来事は、彼が自ら属するパクティア州のギルザイ族に権力を移譲したことを示している。彼が最後まで辞任しなかった理由もそこにある。彼は自らが属する部族の指導者と共謀して歴史に残る動きに出た。国民を裏切り政府を欺き、同族への権力移転の道を開いた。たしかに、大統領官邸に残った人びと(大統領警備隊のメンバー)は「恐怖にかられ、着替えて武器を置き逃げるのが精一杯だった」と語った。しかし、アシュラフ・ガニーは、動かぬ証拠が示すように、2年前からこのような不測の事態に備えて逃げ道を準備していたのだ。
以下に、その悪行の数々を挙げておこう。
• 縁故主義に基づく国民への背信と裏切り: アフガニスタンの現代史は裏切り、嘘、不道徳に満ちており、過去と同様にこの国の発展を何年にもわたって妨げるだろう。アシュラフ・ガニーは、偏狭なビジョンのもと、自分の部族のためには何かをしたかも知れぬが、彼の部族は多民族社会の人口のごくわずかな割合しか占めていないことを念頭に置く必要がある。将来、国家の裏切り者アシュラフ・ガニーの幻想を打ち砕く、予期せぬ多くの事態が起こる可能性がある。
ファールス通信社(訳注: Fars news agency:イランを代表する報道機関)によると、アシュラフ・ガニーが、流血を防ぐという口実ながら、アフガニスタンが最も困難な状況のときに国外への逃亡を試みたことは、彼が権力の座について以来もっとも評判をおとしめた行為だと言う。そしてアフガン国民のさまざまな階層や一部の政府当局者も反逆罪のかどで彼を裁判にかけるよう要求していると伝えている。
• 汚職: アフガニスタン政府の根深い腐敗を根絶し、国を再建すると主張して権力を握ったガニーだが、その政府も腐敗の犠牲者に成り下がった。そして彼がカーブル空港から逃げたとき、持ち主も行き先も不明のドルの札束がぎっしり詰まった荷物を持っていたことは苦い皮肉だ。さかのぼると、大統領任期の最晩年に近づいたとき、ワシントンとターリバーンの間で交渉が始まり、初めて取り残されたガニーは自らの政府が受け身のままやがて崩壊させられることを見て取った。その交渉においてターリバーンの再登場と合衆国の撤退への道が開かれたのだ。また5,000人のタリバーン兵捕虜の釈放も論議され、実現すればアフガン人のあいだで和平交渉実現への道を押し固めるはずだったが、結局実を結ばなかった。
• テロリストを繁殖させるアフガニスタンの刑務所: ターリバーンは刑務所で快適に収容され、うまい食事、運動施設、ジムなど必要なすべての施設が提供された。軽犯罪者もターリバーンと一緒に収容されたため、ターリバーンの過激派イスラムイデオロギーに触れ改宗する者もいた。
・国軍の作戦行動制限: 国軍へはターリバーンを標的にする許可がおりなかった。降伏に瀕しても彼らには空からも陸からも援軍がなく、兵站も絶たれた。その結果、彼らは捕らえられ、収容され、さもなくば銃殺された。
• プロの戦闘部隊を解任または退役させた: 経験豊富な専門の士官が解雇、または若い年齢での引退を余儀なくされた。
• 縁故主義: 主要な戦闘および軍事部門の先頭に立っていたのは、ターリバーンと言語的および民族的に同族の司令官で、主にローガル州の出身またはガニーの所属するアフマドザイ族出身者が割り当てられた。
• 大統領選挙中のハッカーニ系ターリバーンとのガニーの秘密取引: その結果、ガニーは偽造選挙で勝利することができた。その見返りに軍隊の上層部がターリバーン集団の装備を助けるのは、軍事作戦中に何度も見られた。
こうした経歴と行動から、ターリバーンもまたガニーを「穢れし者」とみなし、彼に味方することを拒んだ。そのため、大統領宮殿での最後の数ヶ月間はすでに力をなくしており、テレビに出ては重大演説をぶって印象を変えようとした。だが、大きな効果はなく、彼のイメージは変わらなかった。
73歳にも近づこうという半アフガン人半アメリカ人の大統領は、これまでさんざん「狂気」、「強迫観念」、「夢想家」、「羊毛収集家」、「非現実的」、「おしゃべり」、「民族中心」、「縁故主義者」とこきおろされてきた。彼がおよそ4カ月前にアメリカのテレビチャンネルPBS(訳注:Public Broadcasting Service/米国の公営テレビ)に出たときの動画が脱走後にソーシャルメディアに投稿された。彼はそのインタビューで自分はあきらめてはいない、と主張していた。さらに、かつての国王アマヌラー・ハーン(Amanullah Khan)の国外逃亡を非難した。アマヌラー・ハーンがいたからこそ保護国という立場を放棄して独立を宣言し、大英帝国の影響を受けずに独自の外交政策をとることができたのに。
アシュラフ・ガニーはそのインタビューで次のように述べた。「私は軍の司令官だ。わが国民を見放さないし、わが軍隊も見放さない。国のために死ぬ準備はできている。」なんという腰抜けのエゴイスト野郎であろうか。
「彼は無駄に細部にこだわるタイプの経営者だった」とアメリカ人ジョージ・パッカー(訳注:ニューヨーカー誌やアトランティック誌で活躍するジャーナリスト)はNPR(訳注:National Public Radio/米国の公共ラジオ放送)で語った。「その上ひどい気分屋だ。必要な権力内部の人たちをみんな避けていた。彼はある意味自分の頭の中の国家を治めていた。自信だけは人一倍で偉そうなので孤立し、国を導くなど不可能だった。頭の中の国すらついてこなかった。そして最後はひとりになった。」
ターリバーンに地区と州を献上する際のアシュラフ・ガニーの秘密の取り決め
ガニーは、国民を奮起させターリバーンを押し戻す準備をしているふりをしていたが、実は数週間にわたって国軍を撤退させ、ターリバーンに抵抗なく各地域を占領させた。その間、彼は進捗について公の声明を発表せず、記者会見にも出席しなかった。
8月14日土曜日、突如彼は短いビデオメッセージを発しアフガン治安部隊を称賛した。 それは、軍と治安部隊が抵抗しないため州がひとつずつ乗っ取られていたさなか、ターリバーンがカーブルを占拠する前日だった。その時点で国軍側の首都攻防戦で勝つ意欲はまだ高かった。そして、翌日彼はフェースブックに動画をあげた。誰もがガニーの辞任発表を期待した。だが、そこでガニーが語ったのはこうだった。現在の進捗について、長老や政治指導者、国内のさまざまな分野の代表者、そして開発に関する国際パートナーと広範な協議を政府内で行ったと。中身はただそれだけだった。
メディアがその逃亡を報道した翌日まで彼の次の発言は出されなかった。その間にカーブルはターリバーンに包囲された。ガニーがカーブルを離れるのに呼応して、ターリバーン軍は衝突することなく首都に入り、国全体を支配した。
カーブルニュースによると、アシュラフ・ガニーは逃げる前に、大統領警備隊の職員にスピーチをするために国防省に行くから安全を図れと指示をした。身内の警備員もだましたのだ。少数の兵員だけを宮殿に残したガニーは急遽脱出するためにヘリコプターを要求した。そして国を逃げ出すために空港に飛んだ。周到に計画され準備された行動だった。その際。車3台分のドル札を運び出したとも噂されている。
前米国大統領ドナルド・トランプは、逃亡中のアフガニスタン大統領アシュラフ・ガニー・アフマザイがアフガニスタンから2億ドルを引き出したと述べている。
ガニーはアフガニスタンからドルを引き出したことを否定しているが、アフガニスタン銀行の持つ証拠によれば、いつもの嘘をついている。彼はカーブルから脱出したがカーブルの状況を悪化させなかったと恥知らずにも主張した。しかし2週間の間に非常に多くの人びとが死んでしまった。
国の内外のアフガン人政治指導者およびオブザーバーは、ガニーの秘密の脱出を恥ずかしくて屈辱的なものと呼び、ガニーは何百万人もの国民の命をまとめて賭けに投じたと言った。アフガニスタンのジャミアテ・イスラミ党のリーダーであるサラフッディン・ラバニ(Salahuddin Rabbani/訳注:元アフガニスタン大統領ブルハヌディン・ラバニの息子)は、「ガニーの屈辱的な逃亡は、アフガニスタンから逃亡した米国の振る舞いと非常によく似ている」と述べた。「夜逃げして国を裏切る行為は、1週間前にアフガニスタンで最も重要で最大の元米軍基地であるバグラムで見たものと同じだ。君たち(米軍)があの時ガニーを一緒に連れて行けばすごく安上がりだったのに」と彼は付け加えた。
次にザルメイ・ハリルザドの役割を見ておこう。彼の存在は、アフガニスタンにとってまさに災害で、またアメリカにとっては恥ずべき失敗だ。それは彼の経歴をよく見ればわかる。こんな男がワシントン屈指のアフガニスタン通とは聞いてあきれる。
ファールス通信社の国際班によると、米国のアフガニスタン特別代表であるザルメイ・ハリルザドは、トランプ政権とターリバーンとが合意を交わしたとき(訳注:2020年2月)の重要人物のひとりである。これによって米国のアフガニスタンからの撤退とターリバーンのアフガニスタン支配への復帰が決まった。しかし、このように卓越した役割を果たしアフガニスタンに平和をもたらすことができるのは自分ひとりだけであるといういつもの主張もどこへやら、米国の無責任な撤退によりターリバーンが権力を掌握して以来、アフガニスタンがカオスに陥ったのを見て、最近のハリルザドは沈黙を守っている。
アフガニスタンの最近の進捗状況において、この謎多きアメリカ政府外交官が果たした役割については多くの論争があり疑問に満ちている。1年以上の緊迫した外交実務を経て、数カ国の首都を幾度となく訪れ、豪華なホテルでサミットに出席し、一流のシンクタンクを相手に講義する。彼は、ターリバーンがアフガン政府と妥協案について交渉する準備ができていることを聴衆に保証した。 2021年5月、彼は下院外交委員会で、ターリバーンがアフガン政府軍を迅速に追い落してカーブルを占領するという予測は不当に悲観的であると否定した。
一般に知られていないが、ハリルザドが逃亡中のアフガニスタン大統領アシュラフ・ガニーの同級生だという報告がある。2人は学生交換プログラムに一緒に参加し初めて西洋を間近に体験したしたのだという。
1979年末にソビエトがアフガニスタンに侵攻したとき以来、ハリルザドはワシントン政権と重要な関係を築いた。当時はアフガンムジャヒディンの時代で、米国はソ連の進出を阻止するためにムジャヒディンを支援する政策を遂行していた。ハリルザドはスティンガーミサイルを供給するようロビー活動して成功を収め、ソビエト連邦に対するムジャヒディンの勝利に重要な役割を果たした。その後、ターリバーンは、ベナジール・ブット(Benazir Bhutto)首相の時代の1994年にパキスタンで主に戦争孤児を集めて設立された。
ハリルザドは、ブッシュ・シニアのもとでウォルフォウィッツ国防副長官のために働き、最初の湾岸戦争でも活動を続けた。クリントン政権の時代には、ワシントンD.C.のランド研究所(訳注:軍事関連の研究で有名な米国のシンクタンク)で働き、ジョージW.ブッシュの就任が決まると公務に戻り、国防総省の政権移行チームを指導する重責を果たした。
9.11の米同時テロ事件の後、ジョージW.ブッシュは、いわゆる「テロ対策」戦争の本格的な擁護者になり、イラク、アフガニスタン、イランなどの国ぐにで軍事力に基づく政権交代を提唱した新保守運動(ネオコン)の一翼を担った。
9.11後の流れのなかで、ハリルザドはアフガニスタン・イラク両国への米国使節を務め、憲法制定の監督から大統領制の確立まで、アフガニスタンにおける米国主導の政府に影響を与えた。
トランプ政権は、ターリバーンとの交渉を監督する特別使節として、2018年にハリルザドを指名した。彼は当初、その計画の適任者であるとみなされた。米国が絶え間なく攻撃したために、さまざまなグループが出現してしまったアフガニスタンとイラクで歴代の政府を形作った彼の手腕なら、米国をアフガン戦争の泥沼から救い出させると思われたからだ。
<つづく>