【WAJ解説】昨年8月、ターリバーンがカーブルを占拠して以来、アフガニスタンの海外資産は凍結され、人道的支援を除き西側からの支援は途絶えている。これまでアフガニスタンの政府収入のおよそ半分は海外からの援助だった。さらには合法非合法のケシ栽培(アヘン生産)に頼ってきた国家財政は海外資産の凍結という兵糧攻めにあい、国民全体が瀕死の苦難に直面している。しかし、税収のままならないアフガニスタンでは国家財政の海外頼みは王政時代からの伝統でもあった。冷戦時代には東西諸国の「支援合戦」が展開された時代もあった。4月革命(1978年のクーデター)後はソ連と社会主義諸国が援助した。しかしある意味、世界発展から取り残され苦しい国家運営を余儀なくされている地域を先進諸国が支援するのは当たり前であり、必然の世界共同体の義務でもある。とはいえ援助にどっぷりつかった国民経済は、国民の意識および為政者の意識に強く影響する。アフガニスタンの独立紙である『ハシュテ・スブ(Hasht-e Subh)』(「午前8時」の意味)は、現在アフガニスタンが抱えている困難のひとつが、為政者の意識に深くしみ込んだ乞食根性である、と極めて厳しい認識を表明している。「アフガン人は乞食ではない」という言葉は、アフガニスタンに駐留するソ連軍を撤退させるために苦闘していたPDPA(アフガニスタン人民民主党)のナジブラー議長が国会演説で述べた言葉である。PDPA政権はジュネーブ条約の締結後ほぼ無傷でソ連軍を撤退させ(1989年)、その後2年半近くも独力でムジャヒディーン・パキスタン・アメリカ連合の軍事攻撃を跳ね返し続けてきた。孤立無援となり矢尽き刀折れたPDPA政権が倒された後、援助やアフガニスタンの国家資産の奪い合いでムジャヒディーンが軍閥化野盗化し、ターリバーン登場の誘因となった歴史は、いまや誰もが知るところだ。しかし、アフガニスタンの国民意識にしみ込んだ援助頼みの姿勢は変わっていない。この点を鋭く突いた『ハシュテ・スブ』の下記主張は画期的なものといえる。援助を受ける側も与える側も熟読玩味すべきだろう。なお、本原稿の原題は「アフガニスタン:補助金経済と国家の脆弱性」であり、掲載日は2022年7月6日である。
少なくとも過去150年間、アフガニスタンの政府が失敗しつづけた理由のひとつは、国内資源で政府経費をまかなえなかったことであった。
政府や支配者は、偉そうな発言とは裏腹に、常にいわゆる「異教徒」に物乞いをしてきた。つまり外国人の寄付や援助に頼って生き延びてきたのだ。この物乞いプロセスは、わが国の文化の一部となっている。アフガニスタンの政治家は、外国人と顔を合わせるとすぐに、恥も外聞もなく真っ先に「助けてくれ、援助してくれ」と言う。この点では、イスラム過激派も高学歴の知識人も変わりはない。
独立と誇りをもって生きようとする国は、傭兵になったり物乞いしたりするのでなく、まず経済的に自立する努力をする。もちろん、その方法は、原料を売ったり、鉱山を競売にかけたりすることではなく、重工業用品、非重工業用品を問わず、工業製品を生産することである。産業革命は、18世紀半ばに西欧で始まり、日本、韓国、そして20世紀末には中国にまで到達し未曾有の飛躍をもたらした世界史上の重要なターニングポイントのひとつで、多くの国々の経済的自立の道を開いた。このやり方によって、各国は開発され、慈善の受け手から与える側に変わった。
アフガニスタンは、世界が工業化に向かっていたまさにその時から、アフマド・シャー・アブダリ(注1)、そしてバラクザイ兄弟(注2)の子孫たちの内紛にはまり、今日まで経済的に自立することができずにいる。その間、政府は、市場に注入される外国からの援助によって、不振にあえぐ経済を存続させてきた。その外国勢力とは、時にイギリス、帝政ロシア、ソビエト連邦、そしてアメリカ合衆国とその同盟国である。外国からの援助に依存してきたのは、政府と、中央政府に戦争をしかけた反対派の政治団体の両方だ。そこで、外国は段階に応じてこの援助を断ち切り、政府の崩壊や反対派の失敗を招いた。「イギリスとの聖戦」「ロシアとの聖戦」、そして「アメリカとの聖戦」と呼ばれるものがそれぞれ、援助経済の歴史の一章をなしている。援助が政治的展開の最も重要な要因で、政府と反対派の優劣を決し、国民を他人の戦争の傭兵へと駆り立てた。
左右のイデオロギー集団は、この嘆かわしい状況をまったく理解しないまま政治の舞台に立ったが、みな権力と政府を掌握したとき、国庫は空っぽで、外国からの援助がなければ兵士を養うこともできないことを悟ったのである。今日、ターリバーン集団は同じ道を歩み、没落・崩壊の危険を取り除くために、外国からの援助の再開を日夜、繰り返し懇願している。しかし、安定は援助や金の無心によって簡単に達成・維持できるものではない。外国からの援助で永続する安定を得た国はひとつもない。持続的な安定は、経済的・財政的自立の結果であり、それには専門家による政府、科学的データに基づき国の発展プロセスを設計し管理する政府が必要であり、イデオロギー的信念に基づく政府の影でそのようなことは決してできない。科学と専門知識を通じて経済は組織化されうる。そして組織された経済を通じてのみ政府は崩壊を免れ、国は安定、発展、繁栄に導かれるのである。
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<注1>:アフマド・シャー・アブダリ:1747年、イラン人の支配から初めてアフガン人(パシュトゥーン人)が独立したときのパシュトゥーン族の部族がアブダリ。パシュトゥーン人の伝統的な部族集会(ロヤ・ジルガ)でその族長を指導者として選びドゥッラーニー王朝ができた。(ドゥッラーニーとは「真珠の時代」という意味。
<注2>:バラクザイ兄弟:18世紀末になるとドゥッラーニー朝は内紛から衰退が始まり、1826年にはバーラクザーイー家のドートス=ムハンマドが王権を握り、ムハンマドザーイー朝(バーラクザーイー朝とも言う)に交替した。
(参照:http://www.y-history.net/appendix/wh1301-063_0.html)
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