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アトランティック誌 2022年8月8日(The Atlantic AUGUST 8, 2022)
https://www.theatlantic.com/international/archive/2022/08/us-withdrawal-afghanistan-strategy-shortcomings/670980/

 

筆者:デビッド・ペトレイアス

(訳注:筆者はアメリカ陸軍の軍人。2007年初から2012年末まで、イラク戦争増派の指令官、アメリカ中央軍の指令官、アフガニスタン駐留NATOアメリカ合同軍の指令官、中央情報局長官を務めた。階級は退役アメリカ陸軍大将。2013年、南カリフォルニア大学の名誉教授に就任し、現在その経営大学院(USC Marshall)で指揮・財政・世界展望の講座を持つ。その経歴からメディアにたびたび登場し、アフガニスタンからの撤退には反対の立場を表明した。2001年のアフガニスタンへの軍事侵攻、その後の軍事介入、民主国家建設プロジェクトにアメリカ側の軍事・政策実行責任者のひとりとして深くかかわった。その過程での自らを含む数々の失敗と施策の誤りを率直に認め、その結果が現状であり、必ずしもその結果は必然のものではなく、別の結末がありえたことを率直に語っている。『ウエッブ・アフガン』で連載した「アフガニスタン・ペーパーズを通してみるアメリカ人の本音」とともにアフガン戦争総括の貴重な証言のひとつである。)

(写真はWikipediaより)
欧米諸国のリーダーとしての地位を今後も維持するには、我々の肝いりの作戦のひとつがなぜこんなフラストレーションを生む結果となったのかを理解しなくてはならない。

カーブル空港の混乱した光景から1年、アフガニスタンからのアメリカの撤退の結果は、多くのアフガン人にとって心を痛める悲劇であり、国にとって破壊的である。自ら倒れてターリバーンの復活を招いたアフガン政府は、気が狂うほど不完全で、いらだたしい欠点に満ちており、さまざまな点で腐敗していた。しかし、そんな政府がアフガニスタンとその領域でイスラーム過激派と戦おうと努力するアメリカの盟友でもあり、私たちが大切にしている多くの自由をほめたたえて、長く苦しんでいるアフガニスタン国民にそうした自由を保証したがっていた。あとから取って代わるものよりは望ましいものであったのは確かだったが。

 

イスラーム過激派の温床へ逆戻り

ターリバーンの最近の決定、特に女性や少女の扱いは、政権が今後たどる道を明らかにした。つまり、かつてのごとくアフガニスタンは超保守的なイスラームの解釈に基づく統治へ一直線に突き進むだろうと思われる。その政権が欧米軍撤退の後に崩壊したアフガン経済を再生させることはできない。アル=カーイダの指導者アイマン・ザワヒリを殺害したカーブルでの空爆は、テロ対策に励む情報コミュニティの大きな成果だったが、ザワヒリのカーブルでの存在自体が、依然としてイスラーム過激派に聖域を提供するターリバーンの意思を示している。要するに、私たちが20年にわたって支援しようとした人びと、国民を4,000万近く抱えるこの国は、抑圧と窮乏の将来を宣告され、今後数年間はイスラーム過激派の温床となる可能性が高いということである。

また、アメリカが退場した事実とその方法は、敵対国に、米国が信頼できるパートナーではなく、むしろ衰退しつつある大国であるとの主張を可能ならしめた。抑止力がますます重要視される時代にあって、これは些細なことではない(ただし、ロシアの侵攻に伴うウクライナ支援への取り組みは、米国がそうしようとすれば、依然として効果的な指導力を発揮できる事実を示している)。また、私たちの兵士、外交官、開発労働者とともに危険と苦難を分かち合った何十万人ものアフガン人を置き去りにし、彼らとその家族の命が危険にさらされている事実も、些細な事柄ではない。

 

現状は必然の結果ではない

このような結果になる必要はなかった。私の言わんとするところは、撤退に代わる合理的な選択肢があったのに十分に検討されなかったとか、今日目にするよりも良い結果をもたらす選択肢が他にあっただろうなどの単純な論ではない。実際、別の打つ手はあったし、それで結果も変わったろう。

重ねて、こうなる必要はまったくなかったと言いたいのだ。わが国の軍人と文民、そして連合国のパートナーたちの、無私で勇気あるプロフェッショナルな奉仕を無駄にし、さらには数え切れないほどの偉大なアフガン人たちの奉仕をも無駄にして、私たちはアフガニスタンで期待を裏切った。事実、アフガニスタンでの20年間、私たちは重大な過ちを犯し、何度も何度も失敗を繰り返した。もし私たちが途中で修正し、失敗の数を十分に減らしていれば、アフガニスタンへの関与を続けるという選択肢は、ワシントンの歴代政権にとって、より魅力的なものとなり、撤退を完全に回避できたかもしれない。

アフガニスタンが、すぐに裕福で繁栄する自由な民主主義国家に変貌することは、どの道なかった。しかし、その将来性は現在よりも明るかったことは確かである。その上、2001年に突如介入したのは私たちだ。結果としてその道筋を支援し続ける責任があった。どんなに長くかかろうとも。

以下は、蒸し返して誰かに後ろ指をさす類いのものではない(もちろん、そのようなこともあるだろうが)。また、私自身が肩の荷を下ろすためのものでもない。ただ私は、少なくとも中年期においては、誰にも負けぬよう物事に取り組んだのだ。そこで今度は、私のアフガニスタンにおける経験から学びたい誰かに貢献したいと思う。

失地回復を期すロシア、どんどん主張を強める中国、攻撃的なイラン、危険な北朝鮮、さらに世界各地にイスラーム過激派がいる。ますます多くの同盟国やパートナーが、もめ事の解決、侵略やテロと戦う取り組み、そして我らが愛する民主的価値への援助を求めて、こちらを見る。そんなとき、私たちは、過去の努力から学ぶ場合のみ、必要なリーダーシップを振りかざすことができる。

アフガニスタンに侵攻したのは正しい選択だった。アル=カーイダが9・11テロを計画した聖域をなくすことは、わが国の安全保障にとって不可欠だった。ターリバーンを倒したことで、わが国を狙い同胞を殺害したテロリストに避難場所を提供する者を、われわれが容認しないと敵に示したのである。また、その後の努力は、ヒンドゥークシの陰でそれを実行することがいかに困難であったとしても、私たちが自由と民主主義の将来性を信じ、その価値が普遍的なものであることを証明した。

しかし、アフガニスタンでの善行を認め、それに伴う犠牲を認識する一方で、同地での作戦の欠点も受け入れ、うまく行かなかったのは何か、どれだけ長引き、どれだけコストがかさんだかを評価しなければならない。とにかく、西側世界のリーダーとしての地位を維持するためには、私たちの肝いりの作戦の1つがなぜこれほど果てしないフラストレーションを生む結果となったのかを理解しなくてはならない。

 

基本的な間違いはなんであったのか

私たちの基本的な間違いは、深い関与の欠如だった。要するに、政権が変わる中、あるいは単一の政権内でも、十分で一貫した包括的なアプローチを採用することがなかったのだ。

2001年末にアフガニスタンに介入した当初も、現地に実質的な軍事司令部を設置することに消極的であった。そして、翌年、現地に司令部を設置した後は、すぐにイラクに焦点を移した。アフガニスタンに再び注目と資源が注がれたときには、最初の侵攻から約8年が経っていた。その間、アフガニスタンでは比較的暴力が少ない時期が長く続き、ターリバーンと他の反乱分子がパキスタンで再集結し、やがてアフガニスタンに舞い戻った。この機を逸したことで、私たちはアフガン軍や関連施設のより大胆な改善にうまく踏み出せなかった。

2007年に統合参謀本部議長に就任したマイク・ミュレン提督がよく言っていたように、「イラクでは、しなければならないことをし、アフガニスタンでは、できることをする」のである。正直なところ、「できること」だけでは到底十分でなかった。実際、2005年9月にラムズフェルド国防長官の要請でアフガニスタン情勢の評価を行った際、イラク侵攻の15カ月以上前にターリバーン政権を倒していたにもかかわらず、アフガニスタンでの取り組みがすでにイラクよりはるかに遅れていることに驚かされた。

バラク・オバマが大統領に就任し、アフガニスタンの状況を徹底的に見直した後、ようやく初めて軍備の投入量が大まかな適正値にまで達したが、大統領は軍備の増強を発表する際にも、いつ縮小を開始するのかの概要を示した。とはいえ、2010年末までに、私たちはようやく正しい大義名分と包括的戦略を確立し、ターリバーンの勢いを止め、後退させるのに十分な戦力を展開し、私たちの軍事的取り組みを補完する文民の能力を高め、正しい組織構造を確立し、アフガン軍の訓練推進に大いに必要とされる各種調整を加えた。アフガニスタンの一部の地区を選び、アフガン人だけの支配へと移行させる体系的なプログラムを開発し、ターリバーン指導部との交渉を進める一方で、ターリバーンの一般隊員と現地で手打ちするための組織的な取り組みを開始し、民間人の犠牲、汚職、違法な麻薬の栽培など、様々な問題に取り組んだ。

残念ながら、この充実期は1年足らずで終わった。2011年6月、ホワイトハウスは、大統領がその年の夏から開始すると説明していた対アフガニスタン軍備縮小の詳細を発表した。新たな軍備では到底ターリバーンをはじめとする反乱軍や過激派に必殺の一撃を与えられなかった。それが明らかになるにつれ、私たちは、長く苛立たしい関与より、撤退したほうがましだと決断した。基本的に、私たちは逆戻りし、それがアフガニスタンにおける戦略パターンとなり定着した。つまり長期的な国家建設は脇に置き、出口の模索を繰り返したのである。ただし、国家建設もあきらめきってはおらず確かに一部継続した。(ここで、国家建設に関与すべきではなかったと主張する人々に問いたい。いったん私たちのように介入したら、援助を続けて重要な任務を引き継ぐ力と能力を築いてやらねばならない。その結果はじめてテロリストの聖域を排除し、安全な生活とインフラを保ち、あまたの制度を整えて国を運営することができる。それは国家建設以外の何をもって可能になるのか? 国家建設は避けて通れないだけでなく、必要不可欠なものだったのだ。)

 

イラクとアフガニスタンの違い

こうして、戦争に「勝つ」ことができないと認識したとき、それを「管理」してもよいと真剣に考えることさえなかった。実際、私を含む何人かの高官は、イラクでやったようなことはアフガニスタンではできないだろうと警告していた。つまり、暴力を抑えることはできるかもしれないが、2007年イラクでの米軍部隊増派のときのように国を「反転」させてまったく新しいスタートを切ることはできないだろう、と。アフガニスタンでは条件も文脈も違いすぎるし、難しすぎた。

確かに、この状況をうまく管理するには、世代を超えた持続的な関与が必要だった。フラストレーションがたまり続け、とても理想の姿にはなりえなかっただろう。しかし、ターリバーンとその反乱仲間たちに国と国民を委ねるよりは、はるかにましであったろうことは、今や明らかである。また、ドローンや精密弾薬などの技術が向上し、米軍を前線ではなく「助言、支援、有効化」の役割にとどめることで、血と財の支出という点でも持続可能だったはずである。

長年にわたる十分な関与の欠如は、数え切れないほどの大きな影響を及ぼした。歴代の米政権トップが、しばしば現地の状況とは関係なく、撤退したいと繰り返し述べたことは、ターリバーンとの交渉の立場を弱め、アフガンのパートナーや同盟国、領域諸国(特にパキスタン)との関係に痛烈な影響を及ぼした。公的に表明された軍備削減の願いがいかに理解しやすいものであったとしても、その悪影響は相当なものであり、悪質なものであった。

さらに、2020年にターリバーンと結んだ最終和平合意によって、米国は翌年の撤退を約束した。そのテーブルに選挙で選ばれたアフガン政府はおらず、私たちが交渉した。これは、米国がこれまでに当事者となった外交協定の中で最悪のものに位置づけるべきものだ。私たちがターリバーンの要求を黙って受け入れたのには訳があった。結果として得られた合意が私たちの望んでいたものだったから。可能な限り最も狭い意味においてではあっても。つまり、私たちは撤退の明確なタイムラインを出し、ターリバーンは私たちの軍隊を当面攻撃しないと約束した(その時点では、米兵が前線に出ることはほとんどなかったため、攻撃自体すでにかなり困難だったが)。

もちろん、敵は私たちが去りたがっていることを知っていた。私たちの指導者は皆繰り返しその意向を表明していたからだ。そして、それを知っていたターリバーンは、見返りとして価値ある何かを差し出す必要がほとんどないことに気づいていた。事実、ターリバーンも米国の撤退を望んでいた。にもかかわらず、うまく同意を取り付けようと、私たちはアフガン政府に5千人以上のターリバーン抑留者を解放させた。その多くはすぐにターリバーンの戦隊に戻り、私たちの軍隊が撤退した後でアフガン政府を打倒した大攻勢に一役買っている。また米国が戦闘の最盛期に撤退するというタイムラインも大きな誤りであった。

 

撤退したがる焦りを見透かされた

アフガニスタンに関わっていたあいだ中ずっと、最後の数年間は特にそうだったが、アフガニスタンの政治・軍事の指導者や現場の兵士たちの精神に、私たちが表明した撤退の意向が有害な影響を与えることを、私たちは何度も見過ごした。結局のところ、どうせすぐに撤退するのであれば、私たちが推進する解決策に、彼らは心底協力し投資すべきだろうか? 私たちは美辞麗句と裏腹な行動が及ぼす影響を過小評価した。そのため、それまでおおむね勇敢に戦い、米軍の約26倍の戦場損害を被ってきたアフガン軍を信じた。だが、国中でターリバーンが同時に攻め込んで来ると、甘い予測に反して、アフガン軍は崩壊してしまった。誰も助けに来ないことが明らかになったからだ。

結局は、アメリカの戦略的忍耐力の欠如が招いた結果である。その証拠がかの地での私たちの最後の瞬間にさらけ出された。撤退する代わりに、米軍を駐留させ続けるアプローチを採用できたかもしれない。自慢のドローン部隊を駆使できたし、連合軍を派遣している国の中には大胆にも駐留を続けたい国があった。アフガン軍の訓練や維持に必要な請負業者たちもしっかりそろっていた。要するに、当時最初から最後まで、特に最後のほうは、アメリカの関与が足りなかったのだ。

また、様々な資源の使用に関しても明らかに至らぬ点があった。適切な期間、十分に能力を投入できなかっただけでなく、持っているものすらも、不適切に配分してしまい、アフガン人パートナーが実際に必要としているものを理解し、提供できないことがしばしばあった。

先に述べたように、アフガニスタンでは、9年をかけて軍事、文民、財政の各方面で必要な資源をおおかた投入し終わった。ところが、そのうちの軍事部門は投入完了後わずか8カ月ほどで縮小が開始された。それ以上の問題もあった。持てる資源をそのまま効果的に活用できないことが時々あった。それは問題を見るや金を投げつけ、あまりにたくさんのことを、あまりに早くしようとしたからだ。確かに私はその当事者だった。その原因はある程度は以下のように説明できる。つまり、私たちは常に撤退への道をたどっていることを認識しており、必要な資金やその他の資源があるうちに迅速に行動する必要があったのだ。

しかし、こうしたことが腐敗や、持続不可能な戦時経済の発展を招いたことは間違いない(腐敗の根絶は非常に難しいのだが、私たちは腐敗を特定し、撲滅しようと努めはした)。また、撤退が迫るせいで、私たちは西洋の素材や手法を使ってプロジェクトの完成を急ぐようになった。アフガニスタンには独自のやり方があり、そちらを選べば完成までに時間はかかるが、長期的にはより有効だったのだろうが。

また、アフガニスタン軍が本当に必要とするもの、あるいは持つべきものを常に提供したわけではない。そうではなく、アフガニスタン軍が必要とすると私たちが考えるものを押しつけた。裏には米国議会からの圧力があった。買い与えるのは極力アメリカ製のもの。私たちのヘリコプターなど、アフガニスタン軍が維持するには複雑すぎる米国のシステムを買ってやった。もしアフガニスタン軍がより複雑でない(通常は米国製でない)装備を獲得できるよう手助けしていれば、アフガン軍をより持続可能な戦闘力へと成長させることができたかもしれない。それでも戦力はほぼ同等で、私たち抜きでも、独立してうまく機能しただろう。だが、特にアフガニスタンの治安部隊は別格で、私たちは米国に強く依存させた。治安維持には航空機器が欠かせず、米国が提供する航空機器は、欧米の請負業者からの多大な援助がなければアフガン軍が維持できないほど技術的に複雑だった。ところが、請負業者は私たちの軍が撤退すると出国を余儀なくされた。

皮肉なことだが、米軍や連合軍抜きでもやっていけただろうアフガン軍といえども、請負業者なしでは無力だった。1万5000人をはるかに超える請負業者の助けで、空軍の航空機隊をはじめとする米軍提供のシステムを運用できたのだ。(「アフガン国軍をもっと反乱軍のように鍛えるべきだった」と言う人は、国軍は必然的に反乱鎮圧軍として機能しており、各地の人口集中地区と都市インフラを守らなければならなかったことを忘れてはならない。かたや反乱軍は、好きな時に好きな場所を攻撃できるので有能に映るだけだ。)

 

アフガンに適した軍備や対策の提供を怠った

アフガニスタンの国防体制では、空軍とコマンド予備隊が重要な役割を担っていた。アフガニスタンは国土が広く、山岳地帯が多い。道路インフラが限られるため、航空能力が不可欠で、援軍の輸送、医療搬送、緊急補給、地上戦部隊への近接航空支援にあたった。とはいえ、特に米国のヘリコプターを押し付ける必要はなかった。その代わりに、彼らが経験済みで、維持管理も作戦準備もはるかに容易なソ連やロシアの整備済みシステムの購入・維持を支援すべきだった。実際、私がアフガニスタン司令官だったとき、このような支援を継続するよう勧告した。

アフガン軍では予備役が重要だが、彼らを攻撃地域に輸送するには航空関連の機材が欠かせない。そのことを考えれば、アフガン軍の崩壊は完全な驚きではなかったはずだ。実際、空からの援護や増軍がないことを知れば、アフガン軍は心理的に崩壊するとの危惧を、私は遅くとも撤退の1カ月前に公言していた。(カーブルの政府指導者が現実的な防衛計画を立案・実施せず、ウクライナのゼレンスキー大統領と閣僚が提供したようなエネルギー、模範、指示、インスピレーションを提供できなかったことも崩壊の大きな要因だった。)したがって、アフガニスタンの軍備増強のために我々が押し付けた高性能の米軍ヘリコプターをアフガン人が維持して、大きな軍事的役割を負わせられなかったことが、まさにその軍備の崩壊に寄与しているのである。

戦略的決断力の欠如、深い関与および上手な資源配分の失敗、この2つの問題をさらに深刻なものにしたのが、私たちが取り扱う地元や領域の事情に対してしばしば露呈した理解不足だった。はっきりと存在を把握できてもうまく対処できないことが多々発生した。

最高レベルでの失敗もある。まず、私たちはアフガニスタンの中央政府に本来あるべからざる多大な権力を与えて統治構造の鞍上にかつぎあげ、諸原則を定めさせた。また、介入初期にはターリバーンに対し融和的な要素を示して切り込む機会があったにも関わらず、それを逸してしまった。カーブルとアフガニスタンの各州や各地区との間に適切なバランスを見出すことは、アフガニスタンの歴史を通じて難しい試みだ。しかるに、特に初期の頃はその事情を十分に理解していなかったというのが私の感想である。

また、私たちは様々なレベルのアフガニスタンの指導者の周辺で活動したものの、彼らに力を与えることをせず、逆にその有能さを過小評価した。軍事活動も文民活動も、彼らに完全には任せきらなかったが、それは彼らを信頼しておらず、彼らには支援する価値がないと考えていたからだ。また、軍事作戦で誤りを犯さないよう相当な努力をしたにもかかわらず、どうしても民間人に犠牲者を出すような行動をとり、誤りを犯した結果、アフガニスタンのパートナーとの関係は緊張した。実際、そうした結果を避けることを年々重視してきたにもかかわらず、戦場におけるよりも多くの敵を生み出してしまう悲劇的な作戦もあり、そうした事件はアフガニスタンの指導者に過度のプレッシャーを与えた。

 

決定的な困難を生んだパキスタンの非協力

さらに、非常に重要な点がある。それはパキスタン問題だ。私たちは何度もパキスタンにテロリストの聖域を排除せよと説得・強制を試みたが失敗した。その顔ぶれは、ターリバーン、ハッカーニ・ネットワーク、ウズベキスタン・イスラーム運動などの過激派・反乱軍ネットワークで、どれもアフガニスタンで作戦や攻撃を行ったあとパキスタンに逃げ込んだ。パキスタン国内で私たちは勝手に単独行動をとれないため、パキスタンの協力なしにこれらの聖域を破壊したり、無力化させたりすることはできなかった。

実際、アフガニスタンでは無数の課題に挑戦したが、振り返るとパキスタンの聖域が最も重要かつ厄介な問題だった。私たちはアフガニスタンとイラクの両国で戦争を戦い、多くの違いを体験したが、このパキスタンこそアフガニスタンに固有で、私たち・同盟国・アフガニスタンのパートナーの三者どれもが最も骨を折って取り扱った問題だった。この違いは、他のどの違いにもまして、イラクで達成したことでも、アフガニスタンでは達成できないという事実を最終的に決定づけたようだ。イラクで米軍が増派した2007年とその直後の数年間はその意味で特殊だった。

ここでも、アフガニスタンを去りたい、去るつもりだという私たちの公の発言が、私たちの努力を台無しにしたようだ。パキスタン側は、状況が許すかどうかにかかわらず、いつかは米国がアフガニスタンから撤退することを察知しており、パキスタン指導者は、アフガニスタンのすべてではないにしても、少なくともその一部を支配することになるであろうグループを敵に回したくはなかったのであろう。ここで再び、戦略的忍耐力の欠如という問題に立ち戻ることになる。

アフガニスタンで最終的に成果を上げることができなかった理由は、他にもたくさんある。特に最終的な撤退に先立つ数年間、さまざまな局面でアフガニスタンの状況を過度に楽観的に評価した。ところが、その後かかる暴力沙汰である。私たちの指導者も一般市民も、自らの目標達成能力に対して抱いていた自信を喪失した。もちろん、アフガン政府自体にも多くの失敗があった。政府形成にかかわる信じられないほどもどかしいエピソードや、政府トップリーダーの肉親による重大な不正、カーブルとワシントンの支持を低下させる自ら招いた政治危機もあった。もちろんアフガニスタン全土もあきれかえった。最後は、どうやら腐敗が蔓延し、時が経つにつれて指導者の約束に幻滅するアフガン人が続出した。これらの問題は、私たちがこれらの欠点を是正するためにもっと努力できたのか、はたまた努力すべきだったのか・・・あるいはこれらの欠点は何をやっても不可避で、全取り組みを害する特殊事情だったのか、という長引く疑問を投げかけている。

しかし、結局のところ、私が述べた3つの問題―①戦略的決意の欠如、②必要な資源を投入せず持っている資源を適切に配分しなかったこと、③活動している国や領域を十分に理解し適切に対処しなかったこと―が、より良い状況の実現を妨げたのだ。

 

撤退で懸案は解消したのか?

私たちは、アメリカの最も長い戦争で起こったことから学ぶ必要がある。このような野心的な試みを再び行うことに躊躇するだろうことは理解できるが、これらの教訓が価値あるものとなる状況は数多く存在する。さまざまな形態の非正規戦争が世界から消えたわけではないし、ウラジーミル・プーチンのような独裁者たちの野心も消えていない。彼らは、国境を楽々と越えて紛争に介入し、西側との連携を目指す国々へ侵略することを証明したのである。西側との連携は多くのアフガン人がまさに望んでいたことだ。それ以上に、過去20年間の明確な教訓の1つは、ザワヒリを裁いた作戦や、アフガニスタンにおけるイスラーム国の攻撃を考えると、イスラーム過激派は統治されていない、あるいは不十分な統治空間を利用しようとすることであり、我々はできるだけ効率的かつ経済的にではあるが、彼らに圧力をかけ続けなければならないことである。

アフガニスタンの場合、悲しいことに、今後起こりそうなことは非常に悲惨であり、同国の状況は今後もアメリカにとって重要な懸念材料となるだろう。実際、イスラーム過激派が再び聖域を確立することがないよう、少なくとも軍事、外交、開発、情報、財政、人道上の資源と注意を払い続ける必要がある。しかし、アフガニスタンの国民が飢餓に苦しむことがなく、アフガニスタンからの難民が、過去10年間にシリア難民が経験したような領域のパートナーやヨーロッパの同盟国の問題の一種にならないようにすることも必要である。それ以上に、特に戦場での通訳として男女を問わぬ軍服のアメリカ兵とともに奉仕する見返りとして、家族を連れてアメリカに移住する権利を獲得したアフガン人たちがいる。

終わりの見えない戦争を終わらせ、海外よりも国内での国家建設に力を入れたいという共和民主両党の各大統領の願いは、特にそうした戦争に参加し、その犠牲と費用を直接知っている私のような者にとっては、十分すぎるほど理解できる。

問題は、アフガニスタンからの撤退が、そこでの終わりのない戦争を終わらせたか、あるいは私たちのそれへの関与を終わらせたかどうかさえ明らかでないことである。そして、何らかの形で再び巻き込まれないとも言い切れない。イラク、パキスタン、アフガニスタンなどで外交団を率いた私の特別な同僚、ライアン・クロッカー大使がよく言っていたように、「映画館を出ても、映画は続いている」のである。

(小見出しはWAJ編集部)

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