WAJ)現代のアフガニスタンに興味があってアフマド・シャー・マスードを知らない人はいないだろう。9・11米同時多発テロの2日前アラブ人テロリストの自爆攻撃により命を落とした。世界を変えた米国での航空機ハイジャック自爆テロ事件の遂行にとって最大の邪魔者だったのである。そればかりでなくマスードは現代世界史を書き換える事件だったソ連のアフガニスタン侵攻に国内を拠点として正面から戦い抜いた闘士だった。パシュトゥーン(アフガン)の国アフガニスタンという国名の由来の通りアフガニスタンは18世紀のアフガン王朝成立以来一貫してパシュトゥーンの国だった(イギリスに支援されて反乱を起こしほんの一瞬支配を乱したタジク人=バッチャ・サカオの乱を除く)。マスードはその師ブルハーヌッディーン・ラッバーニーとともに1992年に初めてパシュトゥーン人以外(タジク人主導)の政権を作った中心人物だった。パシュトゥーン人主導で偶像崇拝を否定するイスラーム主義のターリバーンが復権した昨年8月カーブルで真っ先にしたことがマスードの肖像の破棄だった。一方、アメリカ主導でターリバーン政権を打倒した2001年以降、実像以上にあがめたてられたのも爆殺されたマスードだった。アフガニスタンの独立系メディア=ハシュテ・スブはそのような風潮を歴史の歪曲、利用主義として指摘し批判している。歴史の人となったアフマド・シャー・マスード(その子アフマド・マスードは父の遺志を引き継いでいま反ターリバーンの最前線で闘っている)を正しく理解し評価することがアフガニスタンの未来にとって必須であることをハシュテ・スブは訴えているのではないだろうか。このテーマの続きは「2022年9月15日付「編集室から」の野口のつぶやきをご覧ください。)

 

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ハッシュテ・スブ(Hasht-e Subuh) 2022年9月7日

9月9日は、アフマド・シャー・マスードが暗殺された日である。マスードはここ数十年のアフガニスタンの歴史の中で最も影響力のある人物の一人であり、そのために多くの信奉者と敵対者がいる。マスードの殉教から2日後の2001年9月11日、アメリカの世界貿易センターが灰燼に帰し、アフガニスタンにも変化の兆しをもたらした「9・11事件」はあまりにも有名である。1990年代のターリバーン第一次政権が崩壊すると、個人や団体がマスードについて、ひいてはジハードの展開や彼のレジスタンス活動について書いたり語ったりする機会が提供されるようになった。問題は、これらの著作や語りがどの程度、歴史に忠実で現実に結びついた有用なものであったのか、ということである。この問いに答えるために、以下の点は一読の価値がある。

– イスラーム史の最初の数世紀におけるイスラーム科学の研究者たちは、時間の経過とともに、預言者の生涯の物語がますます包括的かつ複雑になり、現実とはかけ離れたものになっていることを明言している。 時間の経過は、多くの事件や出来事を記憶から消し去り、その詳細を忘れさせてしまうのが普通である。なぜそうなってしまうのだろうか。さまざまな理由が考えられる。その大きな理由のひとつは、神話や贋作を語る人びとが一部に生まれることである。いま、そのような人びとの動機について掘り下げることはしないが、大なり小なり自分のビジネスを宣伝するなど個人的目的のためにハディース(訳注:イスラームの予言者ムハンマドの言行録)を捏造したり、嘘をついたりすることがある。

この話は、アフマド・シャー・マスードについても、何らかの形で起こっている。マスードの時代から離れれば離れるほど、彼を記憶する人が増えていくのがわかる。マスードの時代から離れれば離れるほど、マスードを偲ぶ人が増えていくのだ。マスードとつながることで、人びとの間で高い名声を得ることができる、あるいは物質的に成果を上げることができる、あるいは自分の考えを人びとに広めることができると考える人たちがいるのだろう。

– 20年という時間は歴史家にとって決して長いものではないが、この間に、アフマド・シャー・マスードの行動や性格に関する多くの事実が歪められてきた。例えば、マスードの残した音声、映像、文字資料から、彼は宗教的価値に強く固執し、場合によってはイスラームの伝統的な解釈を好む人物であることがわかる。この姿勢は晩年になってもあまり変わっていない。サンディガルが『ナポレオン・アフガン』という本の中で発表したマスードの個人的なメモから、死の1、2年前までアラビア語を習得し、預言者伝やイスラーム主義者の書いた知的な書物を研究することにずっと興味を持っていたことがわかる。しかし、この20年の間に、マスードは完全に親西欧で、西欧の価値観を好み、他のイスラーム教徒とは全く異なる人物であるかのように見せかける人びとも出てきた。

– アフマド・シャー・マスードについては、地元の著者によっていくつかの本が出版されている。サレハ・レジスターニ(訳注:ソ連の侵攻時にマスード軍に加わり、ターリバーン追放後は、2005年から2021年までパンジシール州選出の国会議員を勤めた)は、ジハードのオーラルヒストリーを編纂する上で目覚しい働きをした人物の一人である。あるとき、私は彼の『マスードとジハード』という本を、友好的な口調で批判し、それに対する私の見解を書いた。この批判に対する彼の反応は興味深かった。彼はこう言った。「自分の書いたものを公表する前に、私に相談すべきだったな。そうすれば君の批判が根拠のないものであることを証明してやったのに」と。面談の後、その場に同席していた友人の一人に私はこう言った。「レジスターニはまだ精神的にナザール評議会(監督評議会)の作戦の時代にいて、自分が司令官で、他の者は自分の兵士だと考えているのだ!」と。(訳注:シェーラ・ナザール:1984年ソ連軍とのレジスタンス闘争を行うためにアフマド・シャー・マスードが組織した監督評議会。北部・東部・中央部の12地域から約130人の指揮官が合流した。この評議会は単なる軍事同盟でなく政治同盟でもあり支配地域での社会改革をも目指すものであった。)

もちろん、レジスターニは、他の作家に比べて最もバランスのとれた敬虔な作家の一人であることは言うまでもない。マスードと彼の闘いについて書くことを、日々の欲求を満たすための手段と考え、マスードを非常に低い目的のために利用し、矛盾した、混乱した物語を提示する作家がいるのである。マスードとは全生涯にわたり一週間も一緒にいたことがなく、何年もマスードに近づく勇気がなかった人が、いま本を書き、その各ページでマスードとの個人的な思い出を語り、あらゆるテーマでマスードの思い出をポケットから取り出すというのは奇妙ではないだろうか? 常識を働かせれば正邪を簡単に識別できるのに。

– マスード支持者が採用すべきであった正しい方法、基本的な仕事は、ジハードとレジスタンス活動の歴史を収集する分野で、科学的かつ首尾一貫し体系的に活動できる単一の機関や組織群を設立し、マスードの名前を自分たちの利益のために利用するご都合主義者らを阻止すべきだったのである。

マスード財団(訳注:アフマド・シャー・マスードの実弟アフマド・ワリ・マスード氏が代表として設立された財団)は、そのような機関のひとつになりうる。この財団の設備があれば、専門家を集め、ジハードとレジスタンスのオーラルヒストリーを編纂する大きな仕事をすることができただろう。20年の間に、永遠に残るようなことができたかもしれないのだ。

– マスードの支持者の一人ファヒム・ダシュティは、『遠くて近いアメール・サヘブ』という本を書き、マスードとの思い出を綴っている。ダシュティは、この本の冒頭で、この本では愛憎を投げ捨てて問題を取り上げ説明する、と書いている。しかし、読み終わったとき、読者は、この回想録作家が無謬で現実を超越した完璧な人間としてマスードを描いていることに気づくのである。わが国はまことに極端な国である。(訳注:ファヒム・ダスティはアフガニスタンの有名なジャーナリスト。ターリバーン復権直後の9月5日、パンジシールで取材中、パキスタン軍のドローン攻撃により殺害される。事件の詳細はここを参照)

私たちは、問題をグレーで見ることができず、すべてを白黒で見てしまう。好きな人がいれば、その人を揺るぎない天使のように見なし、嫌いな人がいれば、その人を心の中で怪物的で邪悪な顔に作り上げようとする。問題は、人そのものとその人の見解ないし活動との区別がつかないことだ。実際、立派な人が、問題な振舞をすることがある。宗教の観点からは人間は誰でも間違いを犯すものであり、だからこの観点にたって、その人のパフォーマンスを批判し評価することができるのだ。

– アフマド・シャー・マスードは一人で闘ったのではなく、多くのムジャヒディーンや闘士たちと肩を並べて闘った。マスードの死後、状況は変化した。マスードの時代に重要だった人たちが疎外され、当時は無名だったり悪名高かったりした人たちが、何もないところから舞台に登場するようになった。このような状況を踏まえて、ジハードやレジスタンスの歴史について書き、語ろうとする人たちがいた。

カシム・ファヒム(訳注:北部同盟の司令官、第一次ターリバーン政権を倒し、国防相、副大臣などを歴任し2014年に逝去)の親族は、カルザイ政権の初期におけるファヒムに関する本を書き、彼を伝説的な権力者に仕立て上げ、マスードの存命中ずっとカシム・ファヒムが主な舞台監督であったかのように描こうとした。この本はあまりに粗雑で奇妙な誇張が多いので、印刷した同じ人が急遽出版本を廃棄してファイルを閉じなければならなかった。歴史は征服者によって書かれるのが常だが、責任ある作家や歴史家は、真実の提示を行動の基準にしなければならない。征服者の側に立って、その嘘を正当化したり理論化したりすることは適切ではない。

原文(英語)を読む
https://8am.af/eng/ahmad-shah-massoud-and-the-distorted-history/

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