変革には強力で積極的な反対派の存在が必須
2022年9月24日
ファリド・ムータット
マフサ・アミニの事件について語るとき、2015年にアフガニスタンで起きたファルクンダ殺害事件を思い出す。それは同じようなしかしもっと酷い事件だった。ファルクンダはコーランを冒涜したとして、主にカーブルの若い世代からなる暴徒にリンチされ、拷問を受け、撲殺された。
イランとアフガニスタンは共通の文化、言語、宗教を分け合っている。しかし、アフガンの民衆はイランの民衆ほど進歩的ではない。それは国内に留まっている者はもちろん、国外へ亡命し、それぞれ別の地で暮らすアフガン人とて同様だ。ファルクンダ事件はマフサ事件よりはるかに残虐だった。しかしアフガニスタンでは目立った抗議行動は起こらなかった。一方、イラン人は立ち上がり、政権に対する不満を露わにした。アフガニスタンの中心問題のひとつは、染みついた宗教的頑迷だ。それは歴史上一貫してアフガン社会にまとわりつき、近代化の試みを阻害してきた。ちょっとした宗教的概念ですら、盲従されるならば、人間同士が保つべき礼節を吹き飛ばし、それにとって代わる。民族間の緊張の高まりと相まって、アフガニスタンは国家として健全な道を歩むことができない状態にある。
そう考えると、宗教的教義の束縛からの解放については、アフガン人よりもイラン人の方がまだ可能性がある。イランの聖職者はアフガニスタンの宗教指導者よりはるかに進歩的だ。宗教の名の下で非論理的で犯罪的な行為がなされた場合、イランで国民が立ち上がって抗議するのは称賛に値する。しかし、アフガニスタンで同じことが起こっても、宗教が常に勝ち、最終的な決定権を持つことになる。ファルクンダの事件後、私はアフガニスタンの若い世代にとてつもなく失望した。彼らは、国の内外を問わず一握りの声を除いては、完全に休眠状態で、犯罪に加担している。
そう言いながら、私には強い疑問がある。この類いの事件を受けて根本的な変化へと結びつけることは、かかるイランですら無理なのではないかと。それがアフガニスタンならば、なおさらだ。但し、強力で積極的な反対派が存在するなら話が変わる。彼らに、これと似たような事件を利用して、さまざまな勢力を味方につけ動かす力があるならば。タイミングよく活用しなければ、このような事件はいずれ忘却の彼方へ消えさる可能性が高い。今後数日間ないし数週間、これらの抗議活動がどのように展開し、大規模なものに発展していくか否かを見守る必要がある…。