ファウジア・クーフィ自伝「お気に入りの娘」英語版ペーパーバック 解読 

The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri 

 

アフガニスタン北部の、男の子が待望される田舎の州で実力者である父親の7人いる妻のなか、2番目に生まれた子は間引きされかねない女の子だった。母親が隠して産湯をのませのがファウジアだった。過酷な運命を乗り越え、国会議員となり女性として最初の国会副議長となった。アメリカ軍の撤退作戦下のガニー大統領の下でターリバーンとの交渉団のひとりとなり活躍するまでになったが、共和国政権の突然の幕切れで亡命を余儀なくされた。だがいまも、女性の権利を求めて果敢にたたかい続けている。

以下に掲げる文章は、本サイト編集委員の金子明が、『ウエッブ・アフガン』の取材や翻訳の傍ら英文原書を紐解き、2022年3月14日から10月25日まで20回にわたって解読紹介しつぶやき続けた全文である。

日本語版は『わたしが明日殺されたら』のタイトルで徳間書店から刊行されている。これの書評も金子が書いている。ここをクリック

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

<つぶやき第1弾> (2022年3月14日)

望まれなかった少女

2010年、アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏は自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri)を発表した。共著者のナディーン・グーリ氏についてはキンドル本上には紹介がないのでウェブで調べると、BBCとアルジャジーラで特派員を勤めたやり手のジャーナリストらしい。そのためか、英語の文章は簡潔で読みやすく、巻末の年表もありがたい。それによるとクーフィ氏が生まれた1975年はダウドのクーデターから2年後。78年にはそのダウドが殺され、翌79年暮れにソ連が侵攻してくる。なるほど彼女は戦争時代の申し子なのだ。
そして、バダフシャーン州で生まれた。さすがに地図の付録はないので再びウェブに頼る。すると、あの中国までひょろっと触手状に伸びた州ではないか。ちょっとした親近感。さらに細かい出生地は、バダフシャーンのダルワズ・クーフ地区というから、その右手に伸びる回廊部分ではなく、最上部にある一画だ。つまりアフガニスタンで最北に位置し、当時のソ連邦タジキスタンとの国境地帯である。「州都のファイザバードから今(2010年)でも車で三日かかる僻地の山岳地帯」と彼女が表現するのもうなずける。
物語はビビ・ジャン(美しい鹿)という名の女が8番目にあたる最後の子を放牧に訪れた山中で産み落とすところから始まる。夫はクーフ村で代々長老を務める一家の家長で、州を代表する国会議員アブドル・ラーマン。ビビ・ジャン自身もかつてクーフ村と対立した村の有力な家族の出身で、完全な政略結婚(第二婦人)だった。「結婚は家族、伝統、文化、恭順のため。それらすべてが個人の幸福よりも勝る。愛はめんどうを起こすだけ」というのが、この地域の山村の伝統だという。
持ち前の美貌と心配り、そして優れた能力で代議士一家の家事を取り仕切る立場(ヘッドワイフ)となったビビとはいえ、前年、夫が14歳の少女を7番目の妻として迎え入れたのには消沈した。その新妻はやがて男児(アブドルの第18子)を出産する。それを妊娠6か月のビビが介助した。「現代でも女は息子を授けてと祈る。息子を産むことだけで女には地位が認められ、夫を満足させられるから」と著者は解説している。
しかし、旅先の山で30時間におよぶ難産の末に生まれたアブドルの第19子は女児だった。気を落とし弱り切った母親は意識が朦朧とし、「青白く斑点だらけで小さくてふにゃふにゃの」赤ん坊を抱くこともなく、ただちに病に伏した。すると取り巻きは「村の文化では無でしかなく価値もない」女児などは外にほっぽり出し、数週間にも及ぶ放牧の旅を取り仕切るヘッドワイフの看病に専念した。
ひとびとが翌日になって女児の存在を思い出し室内に入れたとき、母親はようやく回復の兆しを見せていた。生まれた直後の丸一日、高温の外気で焼かれたにもかかわらず、十代まで残る顔のやけど跡だけを残して生き延びた我が子をビビは改めて見直した。すると彼女から最初の冷たさが消え去った。その子をぐっと抱きしめた母親は、以来激動のなか「お気に入りの娘」との絆を深めていく。
(「お気に入りの娘」第1章「昔の物語」より抜粋・翻訳)

※ アフガニスタン全土の行政区地図は基礎データのページをご参照ください。

 

<つぶやき第2弾> (2022年4月4日)

虐げられる女性たち

今回は、アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri)を再び紹介する。その第2弾

「ただの少女」では、ラーマン家の暮らしぶりが幼い少女ファウジアの目を通して描かれている。その中身はアフガニスタンの女性たちが当時いかに虐待されていたかのカタログである。
こと男女差別に関しては、革命も敗戦も‘人道国家’による占領も有効な対抗策とはなり得ず、50年や100年くらいで改まらないのはわれわれ日本人も知っての通り。ましていまや復古主義のターリバーンの治世下である。現代アフガン女性たちの怨嗟の一端を知る上でも重要と思い、以下に列記する:
・生まれたのが女児なら父親がわざわざでばって赤ん坊の顔を拝みに来ることはない。少なくともこれまでのラーマン家では。
・女は人生の半分以上を台所ですごし、そこで眠り、料理し、子育てする。
・男は家では、毎晩別の妻と寝る。
・シャリア法では「全ての妻を平等に扱うべし」と定められている。が、男は生身だ。かかる掟の存在が何を意味するかは推して知るべし。
・認められる妻は4人まで。だがもっと欲しい。抜け道はある。古いのを「カリファ」にする。あのカリフと同じ語源かな。カリファは経済的には保護されるがセックスレスとなり、家族内にとどまる。ファウジアの母ビビが第二夫人にしてヘッドワイフだったのは、第一夫人がカリファ化したのもその理由だろう。
・ただただ絨毯織りの技術をほかの妻たちに伝授させるため、蒙古系の妻をめとるのもアリ。
・夫は怒ると妻を追いかけ回し、とっつかまえて殴ってよい。意識がなくなるまでも。また勢い余って髪の毛をガバッと引きむしってもよい。
・耐えられなくなって実家に逃げ帰る妻もいるが、たいがいその父親が夫のもとに送り返す。
・妻殴りは規範的行動で結婚生活の一部。娘は母が殴られるのを見て育ち、祖母も殴られたことを知り、自分がやがて殴られるのを予見する。
・いやなら夫と離婚できるが、その申請は妻の兄弟がなさねばならない。離婚すれば我が子とはもう会えない。
・妻が実家の兄弟に虐待を訴えることがある。しかし、それを知った夫は、またさらに殴る。ただその妻の家事能力が高ければ(利用価値があれば)すこし優しくして様子を見る。
・男児の誕生日は祝うが、女児の誕生日を祝うことはない。
・女児は学校に行かない。女児はやがて結婚して出て行き、投資した教育費が家計に還元されないから。
・ファウジアの17歳の兄は12歳の少女をめとった。セックスのあと姑のビビはまだあどけない嫁を入浴させ、傷ついた体をいやしてやった。
壮絶な虐待の一覧表である。著者はそれに「これが彼女たちの人生で、女の運命だった」とコメントする。そして第2章を締めくくる:
「母が12歳の義姉にできたことは、おそらくただ次の三つ。慰めようと努めること、まず軽い雑用をやらせること、さらに諸先輩と同じく次のように考えること。つまり、この娘もやがて成長し、疑問も不平も持たず、これを自分の運命として受け入れるだろうと諦めること。それが文化による謀略で、すべての女性を縛り付けていた。そして、誰もそれに異を唱えなかった。」(下線、原著者)
今回「世界の声」で紹介したジェハンギル氏の記事では、まさにいま「異を唱え」ている女性たちについて触れている。たとえ自らの生活に忙殺され具体的には何もできなくても、おぼえておくことはできる。ニュースがどんなにあふれても、決して「キエフ」を「キーフ」と呼び直しただけで満足し、忘れ去ってはならない。

 

<つぶやき第3弾> (2022年4月12日)

父親の処刑

今回は、アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)を紹介する第3弾。前回紹介した第2章「ただの少女」のラストにアフガン現代史の重大事件「四月革命」の解説がある:

「1978年4月28日、共産主義のアフガニスタン人民民主党(PDPA)がアフガニスタン政府から政治権力を奪い取った。ペルシャ歴では一年の第二の月をダリ語で“サウル”と呼び、その月に蜂起が起こったことからサウル革命(訳注:原文はthe Saur Revolution、日本語では四月革命)と呼ぶ。革命後に任命された政府はソビエト寄りの傀儡で、このときからソビエトのアフガニスタン支配が事実上始まったとされる。権力につくや、PDPAはソビエト共産主義の政治課題を実行に移した。国家無神論への道に邁進し、無謀な農地改革を実行して、事実上全国民を憤慨させた。国旗も、イスラームの伝統色である緑を捨て、ソビエト連邦の赤旗のコピーまがいとし、この保守的なイスラーム国の国民を怒らせ侮辱した。またPDPAは何千人もの伝統的エリート層、宗教的支配者層、そして知識人たちを拷問し、殺害した。」
このページを受けて、第3章「恐るべき喪失」が始まる。バダフシャーン州の風景の息をのむような美しさと、そこで起きる悲惨な出来事のギャップがすさまじい。少女ファウジアが3歳半、四月革命が起きた1978年の話である。
ファウジアの父アブドル・ラーマンは革命後も国会議員を続けた。すると新政府は彼に「失敗すれば死罪」という重大任務を与えた。それは、バダフシャーン州に新たに勃興した反政府勢力ムジャヒディーンの懐柔であった。地元に戻ったアブドルは州の各地から数百人の仲間を集め、先頭に立って馬上山岳ルートを行く。目指すはパミール山地にある反乱軍の陣地だ。
「肥えて茂った谷が、やがて岩肌へと姿を変える。それは光に照らされ、青から緑、さらにオレンジがかった黄土色に輝く。そして雪に覆われた頂がそびえる高原にたどりつく。」
その美しい高原で待っていたのはライフルを持った三人のムジャヒディーンだった。さらにどこかに援軍も隠れていたようだ。ライフルを撃って丸腰の一行を蹴散らし、落馬したアブドルを捕虜にした。二日後、彼は処刑されうち捨てられた。さらに、亡骸を回収に来る者も撃ち殺す、とムジャヒディーンは脅した。だが、アブドルの姉一家が勇気を振り絞って山に登り、探し出して連れ帰った。そして翌朝、葬儀。
「ひげをたくわえた老人の灰色の頭、白いターバン、緑の上着。みなが庭に座り、赤ん坊のように泣いた。父は屋敷の裏手、小高い一画に埋葬された。メッカと、彼がそれほどまでに愛したクーフの谷にその顔を向けて。」
幼くして親を亡くす子はいる。だが、その頭の一部が銃撃で吹っ飛んでいるのを見るのは、どうだ。戦争が長引く中、すべてのアフガンの子どもたちは平和を知らない。そんな子どもの一人だったファウジアが、このあとどんな人生を送ることになるのか。彼女が生き延びて、この本を書き残してくれたことに感謝しつつ、読み進めて行きたい。

 

<つぶやき第4弾> (2022年4月25日)

故郷からの逃走

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第4弾。今回紹介する第4章「逃走」では、父親アブドル・ラーマンが殺害されたあとの家族の逃避行がまず描かれる。

アブドルの死後幾日もたたないうちに、ムジャヒディーンは彼の遺族を捜索し始めた。最初は昼間に。ファウジアたちが急いで山に逃げ、岩陰から見守る中、彼らは屋敷にあったラジオ、家具、壺や鍋などを略奪し山へと戻った。二度目の襲来は二、三週間後の真夜中だった。屋敷を出て叔父の家の屋上で寝ていた一家は、ライフルの銃床で叩き起こされた。夜襲をしかけたムジャヒディーンは「怒鳴り叫んでいた。アブドル・ラーマンの息子たちはどこだと。」ファウジアの兄ムキムは当時6歳。見つかれば殺されるところを、隣家の屋上に飛び移り、女のスカートに潜り込んで逃げおおせた。
その代わりに共に16歳だった姉と義姉が捕まった。屋根から引きずり下ろされ、屋敷へと連行された。ファウジアたちが屋上から見守る中、「二人はピストルの吊り紐で打たれ、ライフルの銃床で殴られた。彼らはしつこく、武器の隠し場所を言えと脅した。」だが、姉は銃剣で胸をつかれ出血しても、口を割らなかった。
この蛮行に抗ったのは屋敷の庭にいた番犬のみ。鎖を引きちぎって男たちに噛みつこうとしたが、あっさり撃ち殺された。彼らは二人の少女を夜明けまで殴り続け、やがて祈りのため山へと戻った。
二日後、彼らがまた現れ、まだ十代だったファウジアの異母兄を脅して武器のありかを吐かせようとした。とうとう村人は立ち上がり、ムジャヒディーンにメッセージを送った。次に来たら抵抗する、女たちを守るために、シャベルも斧も使える物はなんでも使うと。返事が来た。「目的は村ではない。アブドル・ラーマンの家族の死だ。」
翌朝早く、ムジャヒディーンは村に刺客を放った。母とファウジアは牛糞の山に潜って、目前に来た敵をかわした。彼らの姿が消えた隙に、一家5人(母・二人の兄・姉・ファウジア)が集まり、逃走が始まった。
谷底を川に沿って逃げるのを、刺客が負う。足の遅い4歳児のファウジアを指して姉が叫んだ。「その子を川に投げないとみんな捕まって死ぬ。さあ、投げて。」母親はファウジアを持ち上げたところで思いとどまった。そして彼女を背負って走り出した。
今にも捕まって母親の背中から引き剥がされる・・・ファウジアが恐怖にさいなまれていたとき、一行は「突然、一人のロシア人と出くわした。」
軍服を着た金髪の兵士だった。敵はきびすを返して逃げていった。5人は谷に住む教師の家に二週間かくまわれた。やがて州都ファイザバードで警察署長を勤める兄のもとにクーフ村の惨状が伝わった。彼は谷までヘリコプターを飛ばし、一家を救い出した。
こうして生きのびた村の少女はファイザバードで暮らし始めた。7歳になると学校に入学。テレビで見たサッチャーやインディラ・ガンディーに憧れるようになった。11歳の時、兄の昇格によって一家は首都カーブルへ。黄色いタクシー、トロリーバス「ミリー」を操る女性運転手の青い制服、洋品店に飾られた最新のファッション、何百ものレストランから漂うバーベキューのかおりに驚いた。通ったハイスクールの同級生の家にはプールがあった。
ファウジアは「自由で明るく楽しい」三年間を首都カーブルで過ごした。生死をかけた修羅場をくぐり抜けた村の少女にとって、さぞや輝かしい思春期だったことだろう。そして、彼女は次のように第4章を締めくくる:
「しかし、より広い世界が再び、そんな私の小さな世界と衝突することになる。」

 

<つぶやき第5弾> (2022年5月16日)

内戦勃発

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第5弾。

ファウジアがカーブルで過ごした「最も幸せな子ども時代」の3年間(1986年~1989年)とはアフガニスタンにとってどんな時期だったのか。今回はまず巻末の年表を確認する。
1986年:「米国がムジャヒディーンにスティンガーミサイルの供給を開始。ソ連の攻撃ヘリを撃墜するために使われる。ソ連が後押しする政権のトップはバブラク・カルメルからモハマド・ナジブラーに交代。」
1987年:「アフガニスタン、ソ連、米国、パキスタンが平和協定に調印し、ソ連軍が撤退を開始。」
1989年:「ソ連軍の撤退が完了。しかしムジャヒディーンがナジブラーを倒そうと攻勢に出て、内戦は継続。」
こうした流れを経て1990年代が始まった。今回紹介する第5章「再び村の少女」で、ファウジアは16歳となっている。休みを利用して母親とバダフシャーン州の州都ファイザバードに来ていたとき、ラジオが事件を伝えた、「国外逃亡を図ったナジブラー大統領を警察が逮捕した」と。翌日、ファイザバードを囲む山々で銃撃音がこだました。撃ち合っていたのは政府軍とムジャヒディーン。火器で勝るムジャヒディーンは、その残虐さも手伝い政府軍を圧倒した。そしてわずか二日後に新政府を打ち立てた。
山から降りて役場を占拠したムジャヒディーンの姿はファウジアを驚かせた。「長年、山岳地帯のキャンプで、わずかな食料を分け合い、毎日戦いに明け暮れていた彼らは、兵士らしい素敵な制服姿ではなく、ジーンズにスニーカーという身なりだった。」
娘を持つ親たちはレイプを怖れて子どもを学校にやらなくなり、ファウジアも自衛のためブルカをまとった。翌日カーブル空港が閉鎖され、彼女はファイザバードの叔母の家に足留めされた。ラジオが「学校は開いている、女子も登校せよ」という新政府の檄を放送し、ファウジアはファイザバードの学校に通うことになった。
一か月が過ぎた頃、一人のムジャヒディーン戦士が叔母の家の戸口に現れた。ナディールという名の異母兄で、ファウジアの母親にとっては、彼がロシア兵と戦うと告げてクーフ村を出て以来15年ぶりの再会だった。ナディールはクーフ村への軍事物資の補給を監督する指揮官になっていた。彼の地位は家族の安全を守るのには十分だったが、たまたまファウジアを見初めた「ファイザバードにいる兵士が彼女を強制的に妻にすることは拒めない」ため、町から逃げ出すことを提案した。
避難場所はヤフタル地区の村にあるナディールの家だ。彼はその日のうちに二頭の白馬を調達し、二人でファイザバードを後にした。初日の夜、泊めてもらった村でファウジアはカルチャーショックを受ける。「村の女性と話すうち、彼女たちの手の汚れに気づいた。長くきつい畑仕事で泥にまみれ、ろくに風呂にも入っていない。僻地の貧農が着る粗末な服。驚いてはいけないと思いつつも、時間を遡ったような感覚を拭い去れなかった。」
こんな体験をしながら、馬の背に幾日も揺られてたどり着いた村で新生活が始まった。テレビもラジオも学校もなく、夕食後7時には床につく。茹でた肉とナーンだけの素朴な食事はやがて喉を通らなくなり、体重が減り始めた。ふと耳にしたカーブルに残る兄ムキムの殺害の噂は彼女の心をひどくかき乱した。
ファウジアが村で約一年を過ごしたころ、カーブルの情勢が安定してきた。そこでファイザバードを越えて一気にカーブルにいる兄のもとに戻ることになった。ファイザバードから空路クンドゥスへ。そこで母親と合流し、カーブルまでは約300キロのバスの旅だった。その道は険しく、今でも有名な陸の難所である。夕方になってやっとカーブル近郊までたどり着いた。
待っていたのは大渋滞。AK47をかついだ兵士がバスに乗り込み運転手に告げた、「新政府の首相にコヒスタニ司令官が選ばれた。その車列を通すため道路をすべて閉鎖している」と。ソ連時代でもこれほど大がかりな道路封鎖はなかった、要人の警護にそこまで気を遣うのか、とファウジアはムジャヒディーンの政治力をいぶかった。
兄は首都警察の長官に出世していた。ソ連が開発した高級団地群の一画に暮らしており、母子はそこへ身を寄せた。歓迎した家族の中にムキムの姿はなかった。そして、ファウジアは彼が何者かによって殺されたと知った。「わたしたちは皆泣き崩れた、どうして?と。どうして、こうも善良で強靱な若者が、こうも卑怯な手口でわたしたちから奪われたのか?わたしたち家族の最も明るく輝く星が、またひとつ逝ってしまった。」
最後に、この間の年表を確認しておく。
1991年:「米国とソ連が、それぞれムジャヒディーンとナジブラーへの軍事援助の停止を同意。」
1992年:「抵抗勢力がカーブルに迫り、ナジブラーが失墜。民兵たちは互いに覇を競う。」
1993年:「ムジャヒディーンの各派による新政府内で、タジク人のブルハヌッディン・ラッバーニが大統領就任を宣言。」
こんな時流の中で、「村の少女」から再び首都カーブルに戻ってきたファウジアは、最愛の兄の死を悼む間もなく、内戦のまっただ中にその身を置くことになる。

 

<第6弾> (2022年5月30日)

引き裂かれた首都

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第6弾。

ファウジアのカーブルでの生活が再び始まった。家は以前と同じ、ソ連時代に建てられたマクロリアン(住処)と呼ばれる高級アパートの一画。第7章「内なる戦争」の冒頭では、当時の首都の混乱ぶりが紹介されている。
首都西部:ハザラ人の指導者マザリーが制圧
郊外のパグマン:サイヤフとその配下が制圧
郊外の別地域:ウズベク人の指導者ドスタムが制圧
城壁の南側:ヒズベ・イスラミの指導者ヘクマティアールが制圧
(このヒズベ・イスラミのナンバー2が新首相のコヒスタニだった)
「要は、政権を分かち合い、“北部同盟”の一員としてロシア人と戦った司令官たちがいま、権力を求めて互いに戦っていた。内戦が残虐さを増すにつれ、味方についたり裏切ったり、情勢は頻繁に変わった、まるで天気のように。」
特に政府内での処遇に不満なヘクマティアールは、高台から市内に毎日何十発もロケット弾を打ち込んだ。政府側だったグループが一夜のうちに反旗を翻し攻撃を仕掛ける。二、三日で何百人もの市民を殺した挙げ句、国営テレビで、あれは誤解だった、いまは政府を支持するとアナウンスする。「明日は何が起きるか、市民は全くわからない。多分、私たちの指導者たちも。」
そんなカーブルで、ファウジアは英語のレッスンに通い続けた。往きのタクシーがロケット弾に狙われるというのだから命がけだ。また、タクシーが拾えないと二時間も歩く。帰りも歩く。すると今度は、銃撃されたりレイプされたりの危険が生じる。夜アパートの前で待っていた母親はよく娘を叱った、「このコースがお前を大統領にしようが、どうでもいい。お前には大統領になって欲しいのではなく、生きていて欲しい。」
ファウジアが勉強好きなら、母親は信心深い。「キリングゾーン」と化した市街を歩いて、殺害された息子ムキムの墓に命がけで日参した。ある日の夕方、帰りが遅い母親を心配して、ファウジアは墓に向かった。「神経を研ぎ澄まして歩き続けた。この道の先、どこかに母がいると感じて。通りに死体が転がり始めた。撃たれたもの、爆破でこなごなになったもの。なきがらはまだ膨張が始まっておらず、新鮮だった。」
やっと拾ったタクシーには先客たちがいた。運転手が死体を拾い上げ、後部座席に乗せ、病院まで運んでいたのだ。「でこぼこを乗り越えるたび、乗客たちの手足が躍った。死んだもの、死にかけたものを見ると、家族のことを連想した。名も知らぬ犠牲者の顔が家族の顔に見えてくる、そんな自分の心と戦わねばならなかった。」
墓地に着くと、果たして母親はムキムの墓に覆い被さるようにして泣いていた。もと来た道をマクロリアンまで帰るのは時間的に危険だった。二人は墓地に留まり、すっかり暗くなってから夜闇に紛れて歩き出した。幸い近所に、かつて父親が所有していた家があった。そこに転がり込むと、管理を担っていた親類一家が迎え入れてくれた。こうして、どうにかその恐ろしい一夜を乗り切った。
母親が墓参りに便利だと主張し、母娘はその家で暮らすようになった。すると、ロケット弾が街を破壊するのを窓から眺めるのがファウジアのつらい日課となった。青い家は青い塵に、ピンクの家はピンクの塵に、瞬時に姿をかえ空に舞い散るというすさまじさだ。
中でも工芸学校の図書館の焼失は、彼女をひどく悲しませた。かつてロシア人が建てた施設で、「いまでも高校を出た若い多くの学生が集い、コンピュータ科学、建築、工学を学んでいた。あのマスードも学んだ学校だった。」
内戦は終わりが見えず、首都に住む知識人や技術者の多くはパキスタンに向かった。「彼らは不安な生活に備えて、衣服、書類、宝石を車に詰め込み、しっかりと戸締まりをし、戦いが静まった隙に、街から逃げ出した。車に乗るのは夫と妻か妻たち、そして子どもたち。大家族の一員である年寄りや遠い親戚たちは、命を賭けて残された家を守るのが定めだった。」
やがて冬が来ると、「世界がアフガニスタンへの関心を失い始めた」とファウジアは感じた。「西側はソ連の敗北と帰国に満足したようで、アフガニスタンについてそれ以上を知る必要などなかった。しかし、ムジャヒディーンが権力をめぐって戦い、やったりやり返したりを繰り返し、近隣国家と協定を結んでいたまさにそのときに、アフガニスタンのどこかで新たな勢力が育っていた。国の南部にあるマドラサと呼ばれるいくつかの宗教学校で育っていたある動き。それが後に、アフガニスタンのみならず、世界中を震撼させることになる。」
当時、ファウジアはやっと17歳。クーフ村、カーブル、ファイザバード、ヤフタル、カーブルと流転し、身をもって経験してきたアフガン内戦は、このあと新勢力「ターリバーン」の登場で新しい局面を迎える。

 

<つぶやき第7弾> (2022年6月15日)

和平合意

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第7弾。

第8章「彼女の喪失」の冒頭で、ファウジアは求婚される。会ったことも、話したこともない17歳の少女を妻として求めたのは、カーブルで「両替商のような小口の金融業」を営むハーミドという青年だった。彼はバダフシャーン州にある、ファウジアの生まれ故郷クーフ村からほど近い村の出身だった。
そのころ彼女の母は体を壊して入院中だったが、見舞いに来たハーミドを気に入り「この男なら私たちに十分よ」と第一印象を述べた。しかし、彼女は回復することなく、時を経ず死んでしまう。母を失ったショックでファウジアは寝込み、高校の卒業試験も受けずじまいとなった。
半年後やっと気を取り直し、卒業試験の追試に合格。18歳の誕生日を前に、大学受験の準備クラスに通い始めた。大学で医学を学び、将来は医者になるのが夢だった。そのクラスの帰り道、ハーミドがファウジアを出迎えるようになり、二人はようやく言葉を交わし始めた。
「当時、戦いは静まる兆しを見せていた。異なるムジャヒディーンの派閥が仲裁し合って、お互い合意を探り始めた。違う派閥が違う場所を制圧してカーブルは相変わらず分裂都市だったが、彼らはお互い交渉を始めた。新憲法の草案作りも開始した。内戦が終わりに近づき、ブルハヌッディン・ラッバーニが大統領に指名された。これは良い兆しだ、戦争は過去のものになったと、多くの人が考えた。」
翌年、ファウジアは19歳になり、英語の単位を取得した。そして年齢を問わず女性たちにボランティアで英語を教え始めた。「何かを理解したとき生徒の目が光を放つのを見ることは私にとって驚くべき経験だった。すごく楽しかった。」続いて大学入試に合格。晴れて医者への道を歩み始めた。
「やがて戦いはますます散発的になり、ラッバーニ政府は平穏な状態を築いた。1995年の夏、和平合意が仲裁された。ヘクマティアールはラッバーニ政府内で首相の地位を得る代わりに武器を置くことを約束した。この合意を裏で促したのは、南部におけるターリバーンの勢力拡大だった。」
ターリバーンをよく知るものは誰もいなかった。知っていたとしても、アフガニスタンとパキスタンの国境地帯にあるマドラサといういくつかの宗教学校で学ぶ生徒だということくらい。そしてよく耳にするのは、彼らが白い衣装を身にまとい、“救済の天使”と自称しているとの噂だった。
ここで著者は、アフガニスタンの人々がターリバーンに何を求めたのかを説明する。やや長いがそのまま引用すると:
「カーブルで戦いが熾烈を極めたころ、比較的静かな州に住む人々は、無視されうち捨てられたと感じた。彼らのとてつもない貧しさは、混乱の中で増大しこそすれ、消え去ることはなかった。彼らが必死で求めたのは、助けてくれるまともな政府だった。天使と自称するこの男たちがトラックの荷台に乗って村々に現れた。そしてコミュニティレベルで秩序と安全を立て直し始めた。まるで自己流の自警団のようだった。だが、略奪が怖くて店が開けられず、怖くて子どもを学校に通わせられない人々の住む場所を、この自警団が一つずつ安全にしていった。それだけで彼らは信頼を得るに値した。」
ムジャヒディーンの内戦は長すぎた。その和平合意は遅すぎた。彼らによるアフガニスタンの平穏は「蝶の命のように」はかなく、傷つきやすいものだった。そのつかの間の平穏な日々、二十歳直前のファウジアは、恋愛し、教える喜びを知り、医者を目指して大学生活を始めた。次章ではそんな彼女の人生にいよいよターリバーンが登場する。

 

<つぶやき第8弾> (2022年6月25日)

ターリバーン入城

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第8弾。

1996年9月26日「ある普通の木曜日」、ファウジアは大学の授業がなかったため、姉を誘って新しい靴を買いに出かけた。ところが靴屋の店主にこんなことを言われた:「お嬢さんたち、明日になったらそんな格好でここには来られないよ。明日はターリバーンがここに来る。だから君たちが買い物を楽しめるのもこれが最後。今のうちに楽しんでおきな。」
気分を害したファウジアは言い返す:「それはあなたの思い込みよ。お墓までどうぞご大切に。絶対そうはならないから。」幼少期からのトラウマでただ怖いだけだったムジャヒディーンも、大学生になった今は「対話をしないで、ただ戦うだけの男ども」とクールに批判できた。彼女はターリバーンも同類だろうと思い、すっかり「うんざり」していた。
その晩、BBCラジオのニュースに耳を疑った:「マスードの部隊がカーブルから撤退し、パンジシールの渓谷に戻った。」
ラジオにかじりついたファウジアの分析:「だからといって負けたとは限らない。一時退却はよくあること。朝食前には戻って来て反撃し、ラッバーニを支援するだろう。」カーブル市民もほぼ全員がそう信じた。
しかし上級警察長官の兄が突然帰宅し、妻に命令した:「時間が無い。私の身支度をしておけ。ほかの上級官僚と一緒にパンジシールに移り、マスードに合流する。」兄の命令で、一人の妻はファウジアと一緒にマクロリアン(高級アパート)に残った。もう一人の妻はパキスタン、ラホールにある夫の別宅を目指して直ちに出発した。
BBCの速報:「ラッバーニ大統領とその閣僚たちも空路パンジシールへ。そこから大統領の故郷バダフシャーン州へ向かう見込み。」
さらに続報:「国連施設内で家族と共にかくまわれていたナジブラー元大統領に、マスードがパンジシールの渓谷に連れて行こうと申し出たが、ムジャヒディーンもターリバーンも信頼せず、罠を怖れたナジブラーは拒絶した。」
夜の8時、ジェット機が上空を飛び交った。やがて兄がその晩二度目の帰宅。こう言った:「私はいますぐカーブルを発つ。」ファウジアは怒って:「今こそ残ってカーブルと政府を守るべきよ。それなのにあんな連中を前に逃げ出すなんて!」
十把ひとからげの信心深い学生たちを相手に政府が勝利をあきらめるなど、ファウジアにはとても信じられなかった。「ラッバーニ政府が特段好きなわけじゃない。でも少なくとも政府は政府。なのに、私の兄のような官僚が地位を投げ捨て逃げ出した。」
そして迎えた金曜日の朝6時。窓から外をうかがったファウジアが見たのは、「小さな白い祈りのための帽子をかぶった人々。」みなが突然そんな格好をし始めた。そこへ噂:「彼らは人々を叩き、モスクへと連れ出している。」このとき初めてターリバーンが共産主義者ではないとファウジアたちは確信した。
次に起きた事件:「ターリバーンが国連施設を急襲、ナジブラー元大統領を引きずりだし処刑した。その死体は弟の死体と一緒に市内のランダバウトにさらされた。」さらにカーブル博物館に乗り込み、収蔵品を破壊。バーミヤンでは石仏を爆破した。
それだけでなく、アフガン人の「心を破壊し始めた。」つまり、学校や大学の建物を焼き払った。本を焼き、文学を禁じた。ファウジアの通う医大は閉鎖された。女性が医者になるのは禁じられた。派手な結婚式は御法度となった。スカーフをまとっただけでブルカを着ていない女性はその場で鞭打たれた。おしゃべりしている男女を見つけると、女を転がして鉄製のケーブルでたたく。テレビは禁止。ラジオから流れるのはターリバーンのプロパガンダのみとなった。
恐怖の様々な形を体験し、克服してきたと自負するファウジアだったが、ターリバーンの恐怖はまた格別だった。「冷たく、陰湿で、氷のような怒りが染め上げた」恐怖。その怒りの主は、誰あろうファウジア本人だった。ターリバーン入城以来ファウジアが外出したのは母の墓参に出かけた一度きり。それ以降、およそ二か月も部屋に閉じこもった。
その間も、カーブルの北東方面、ショマーリの平原とパンジシールの渓谷はマスードの支配下だった。そのため、カーブルから多くの市民がそこを目指して逃げ出した。「持ち家が内戦を生き延びたことを祝福してから数週間もたたないうちに、その家々の門扉に鍵をさして、人々は振り返ることなく歩み去った。」
しばらくして兄が手紙をよこした:「いまパルワン州にある運転手の家にかくまわれている。妻と子どもをよこしてくれ。」パルワン州はカーブルのすぐ北。美しい川と谷があって、夏になると多くの市民がピクニックに訪れる風光明媚な避暑地だ。
車でまっすぐ走れば1時間でつくところを、略奪や戦闘、地雷などをさけて迂回しながら進む。12時間もかかる大移動。途中、ファウジアは求婚者ハーミドのことを思っていた。最後に彼と会った場所は大学だった。そのとき「彼と話したのはほんの少し。でも本当に彼を愛し始めていると感じた。」ただ、こんな状況では次にいつ会えるか、まったく見当がつかなかった。
当時の世界がアフガニスタンのことをどう見ていたか、著者は悔しさを隠さずこう記す:
「冷戦は終わった。強いソビエト帝国は崩壊しつつある。アフガン人の対ロシア戦はもはや西側に関連がない。国際ニュースで毎晩取り上げられることもない。われわれの内戦は終わり、ターリバーンがいま、われわれの政府だと世界は認識した。われわれは昨日の物語。一面に載るのは別の悲劇だ。でもわれわれの悲劇は終わっていない。なのに世界は続く数年間、われわれのことを忘れてしまった。われわれが漆黒の中で何かを求めていたそのときに。」
(第9章「ある普通の木曜日」から抜粋・翻訳)

 

<つぶやき第9弾> (2022年7月5日)

婚約成立

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第9弾。

カーブルを制圧したターリバーンは戦線を徐々に北へと押し上げ、北部同盟の懐に迫っていた。そのためパルワン州にたどり着いたのもつかの間、ファウジアたちは安全を求め、さらに300キロほど北の都市プリクムリへ避難することになった。ハイラックスに乗って村を出発したときの描写は生々しい:
「幹線道路に出て、車列に加わった。何千もの人々が侵攻するターリバーンから逃れようとしていた。どの車も衣類、台所用品、毛布さらに動物を満載。乗員たちの全財産だ。車の側面に人がぶら下がる。あらゆる場所にしがみついて。タクシーにしがみついた男が私たちのトラックに目をとめた。ケガをしている。たぶん兵士。見た目はウズベク人。顔は丸く、目はアーモンド型。ムジャヒディーン兵のようだ。片脚から流血し、今にもタクシーから振り落とされそう。幅寄せしてきた。銃を持っている。併走しながら銃を振りかざし、運転手に止まるよう命じた。しかし運転手は止めない。すると彼はタイヤをめがけ発砲した。タイヤは破裂しトラックは蛇行。危うくその男を跳ね飛ばす所だった。助手席の私は怖れた。追いつかれ引きずり出されるのではないかと。しかし、運転手は肝を据え、どうにか走り続けた。男は後続車に狙いを変え、必死に撃ち続けた。私には後ろを見て確かめる勇気がなかった。かわいそうな一家が皆殺しにされたかどうかを。」
一路北へ進み、やがて着いたサラン峠のトンネルはターリバーンの侵入を防ぐため閉鎖されていた。逃げてきた人々は足留めされて寒さに凍えるかUターンするしかない。しかしファウジアを乗せたトラックは、元警察長官の兄が準備していた通行証をかざして通過した。
プリクムリでは義姉が準備した隠れ家に案内された。狭い場所だったが既に60人も集まっていた。みな兄の部下で元警官、いまや行く場所のない男たちだった。「だからいまのアフガニスタンには、不法な武装集団がこんなに多い。体制が崩壊したとき、こうした男たちにはとるべき道がない。そこで、かつての上司や指導者に頼り、民兵を組織する。」
さすがに元上官の兄もこれほど多くの男たちとファウジアが一緒にいることは欲さなかった。そこで彼らに家族の元に帰るよう諭した。こうしてプリクムリで、ひとときの平和な暮らしが始まった。料理し、掃除し、庭でチャイを飲む日々。それはファウジアの母親や姉たちが耐え抜き、ファウジアが最も抗った「苦役に満ちた退屈な暮らし」だった。
ある日、ファウジアが庭で日光を顔に受けて楽しみ、山に降る雪を眺めていると、来客があった。3歳と4歳の子どもを連れたハーミドの姉とその夫、そしてハーミドの叔父だった。5人の姿を門前に見つけたファウジアは思わず「キャッ」と喜びの声を上げた。
彼らの話でわかったこと:「ハーミドは私たちの家に行ったが、カーテンが閉ざされ、誰もいなかった。周囲で聞きこみ、どこに行ったかを知った。そして好機到来かと思った。私がムジャヒディーンの支配地にいることは、武装した民兵や司令官に囲まれていることを意味する。みな私をレイプしかねない輩だ。なのにハーミドの見立てによれば、私の兄は二人の妻の安全を保つのに手一杯で、私の誇りにまでは気が回らない。そこで私たちの結婚に対して、兄はより寛容になるだろう。」こうして、一行が求婚の使いとしてやってきた。
子連れで戦時下の移動。さらに途中、雪崩にあって一晩凍えたと聞き、ファウジアはハーミドに対し若干怒りをおぼえた。「同時に、そこまで真剣に結婚しようと思う彼の気持ちに触れドキドキした。」
続けて、著者はアフガニスタンの求婚の風習に言及する:求婚をやんわり断る場合、はっきり「ノー」とは言わない。相手にとてもクリアできない要求を突きつける。しかも彼らは命をかけて求婚の旨を伝えに来ている。かねてから階級・財力の違いで二人の結婚に猛反対の兄も、簡単に拒絶するのは失礼だと考えた。
みなでディナーを楽しんだあと、ファウジアとハーミドの姉は別室へ。そして兄がハーミドの義兄と叔父に出した要求:「ファウジア名義の家の購入、しかるべき量の金と宝石の付与、そして現金2万ドル。」壁に耳を当てて話を聞いたファウジアはあきらめのため息をついた。「しかし驚いたことに、ハーミドの叔父は同意した。」
数日後、今度は兄がカーブルに出向き、ハーミド側の進捗状況を確認する手はずとなった。しかし戦闘が激化しており、サラン峠のトンネルの向こう側で兄は音信不通となった。生死が定まらない状況が続く。兄の第一夫人は夫をカーブルに行かせたファウジアを非難の目で見た。
40日たってようやく、兄は生きており、バダフシャーン州にいることがわかった。ターリバーンがあまりにも優勢なため、ムジャヒディーンは一時バダフシャーンに撤退し新陣地を築こうとしたのだ。やがて兄はファウジアのもとに戻って来た。
「そして春の緑の芽が雪を突き抜け充分にのびるころ」ハーミドの叔父がまたやって来た。「今度はハーミド本人を連れて。」再び、男だけの会議。ハーミドはファウジア名義の家を購入し、その書類と現金2万ドルを持参していた。
バダフシャーン州に土地を持ち、その一部を処分して資金を工面したハーミドは確かに貧乏ではない。しかし「カーブルに4軒の家、加えて(パキスタンの)ラホールにも別宅を持つ」兄は煮え切らない。常日頃こう言っていた:「ファウジアよ、こんな貧乏人とは結婚するな。男はいくらでもいる。お前は月給に頼る暮らしなどできない。リッチでパワフルな男と結婚しろ。」
ファウジアと隣室で息を潜めていた実の姉が、業を煮やして交渉の場に乱入。兄を部屋から引っ張り出して、こう言い放った:「かわいそうなこの人たちを試すのはもうやめて。約束のお金は持参したわ。今度はあなたが決める番よ。イエスかノーか、さあどっち?」
兄は無言で目を丸くして大きなため息を一つ。ついに不承不承ながら求婚を受け入れた。だが、こんな記念すべき日ですら当事者が直接会えないとは、目がくらむほど古風なアフガンのしきたりだ。婚約成立。家を出て、車へと向かうハーミド。窓のカーテンに隠れてフィアンセの後ろ姿を見つめるファウジア。ふと立ち止まって頭をかくハーミド。晴れて花嫁になる21歳のファウジアを、このあと大きな試練が待ち構えていた。
(第10章「北への撤退」から抜粋・翻訳)

 

<つぶやき第10弾> (2022年7月15日)

再びカーブルへ

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第10弾。

ターリバーンによる北部への攻撃は続いた。「ムジャヒディーン政府が完全に掌握していた地域内で、ターリバーンに鞍替えする村が出てきはじめた。政府側だった場所に突然、ターリバーンの白旗があがるのだ。」
北部同盟の司令官の中には、ターリバーンと取引する者が出てきた。かつての共産主義者の中にも同盟を結びたがる者がいた。だがターリバーンは非情だ。欲しいものを手に入れると、相手を裏切るか暗殺した。ターリバーンに仲間はなく「ターリバーンにあらざれば敵」だった。
そんな戦況の中、ファウジアの婚約成立も束の間、兄は国外への逃亡を決意した。第一夫人と子どもたちを連れカーブル経由でパキスタンへ。そこで第二夫人も従えて、最後はヨーロッパへ渡るという亡命計画だった。
しかし、行動に移す前にマスードとラッバーニの部下たちから指令が来た、「一端タハール州へ退き、対ターリバーンの軍備を確立せよ」と。その時点でターリバーンの手に落ちていないのは、アフガン最北端にあるファウジアの故郷バダフシャーンと、その西隣にあるタハールの二州のみだった。「そのため私たちは兄に従ってタハールへ着き、また例の一時的な暮らしが、また例の借家住まいで始まった。」
それから二、三週ほどたってマスードが自軍を整えるためタハールを離れパンジシールに向かうことになった。その機会を逃さず兄はマスードに直接、家族をパキスタンへと連れ出したいと訴えた。マスードは同意した。すぐさま兄は制服を脱ぎ捨て、女性たちは荷物をまとめ、「さわやかで暖かい春の日に」ファウジアたちは出発した。
380キロの道のりを戦時下タクシーに乗って南へ。「川に沿って走っていると、橋の手前で私たちは息をのんだ。ターリバーンが人々を通させまいと橋を砲撃したのだ。金属と木材の破片が飛び散り、不運にも橋の上にいた数台は空に舞い叩きつけられて粉々になった。」
タクシーを降り、そこから先は、ほぼ丸一日ずっと歩いた。「曲がりくねる山道をのぼり、ゴツゴツした岩山を越え、バラとクワの果樹園を抜け、川に沿って道を下った。」砲弾が頭上に音を立てて行き交う。道の左右どちらからも狙われる。ときおりあまりに多くのロケット弾がビュンビュンと空にうなる。そんなときは、直ちにわきの茂みに逃げ込む。
そんな状況で「途中何度かタクシーを拾えた」とは驚きだ。「本物のタクシーではない。素人が客を乗せて運び、料金を取っているのだ。命がけの仕事だが、彼らも金が必要だった。」こうして、いよいよカーブル郊外まであと一息のショマーリ平原へとたどり着いた。
しかし、タクシーを降りたところは、ちょうどマスードとターリバーンが戦っている最前戦だった。「普段は交通量の多い道だろうが、さすがにここを走るタクシーはいない。歩いている集団に合流した。皮肉さに笑ってしまった。この人々はターリバーンがカーブルを掌握したとき、街から逃げ出したのを私たちが見たその同じ人々だ。比較的静かで一時は聖域だった田舎の町が戦場となり、逆にカーブルがいまや比較的安全な選択肢なんだから。」
流れ弾も怖いが、野犬や毒蛇にも要注意の道中。赤ん坊を抱き続けた義姉は足もとが無謀にもハイヒールだったので、とうとう痛みに耐えきれなくなって泣き出した。そこでファウジアは自分の低いサンダルと交換することにした。「何かの理由で私はハイヒール歩行がいつも得意だった。戦闘中でも。私の持つたぐいまれなる才能のひとつだ。」
道端の木陰で靴をはき替え、二人は少し休んだ。リンゴをみつけてかじっていると、木が揺れだした。そして「ドッカーン!」ファウジアの頭上数メートルのところでロケット弾が炸裂した。木は葉もろとも一瞬で姿を消したが、ファウジアは無傷だった。「またしても私は、きわどく死を免れた。」
道に戻ると、そのロケット弾が殺した女性と子どもの死体がいくつかころがっていた。兄はその様子を見て、「歩き続けろ」と叫んだ。さらに二時間歩いて、急流と滝で有名なサヤド川沿いのかつての観光スポットについた。そこで見ず知らずの一家がファウジアたちを招き入れ、茶とパンとクワの実でもてなした。
その上、歩きやすいサンダルを一足わけてくれた。
壊れかけた橋を渡ってさらに30分歩くと、ようやくターリバーンが支配する地域に入った。また一台タクシーを拾った。後部座席にへたりこんだファウジアはすぐ眠ってしまった。目を覚ますと車は「愛するカーブル」の通りを走っていた。兄は運転手に「マクロリアンへ」と行く先を告げた。こうして「ばかげたハイヒールをはいて、ロケット弾と銃弾をかわした一日が終わった。」
(第11章「すべて真っ白」から抜粋・翻訳)

 

<つぶやき第11弾> (2022年7月25日)

踏みにじられた結婚生活 

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第11弾。(写真出典: https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/tv/directtalk/20220406/2058814/)

兄がムジャヒディーン政府の警察長官であったため、北部におけるターリバーン対ムジャヒディーンの戦闘に巻き込まれたファウジアは、兄とその家族と共にカーブルに戻ってきた。その頃のターリバーン支配の非道さは、次のように紹介されている。
●武器狩り:ターリバーンは家々をしらみつぶしに訪問し、武器を差し出すよう迫る。「彼らは誰もが武器を持っているはずだと信じて疑わず、武器がないという返答は認めなかった。」そのため武器を渡さない一家の主は軒並み逮捕された。すると残された家族はどうするか?どこかで武器を買ってターリバーンに差し出し、解放してもらう。
●勧善懲悪省:「もっとも勇敢な人々も、その名を聞いただけで震え上がる。」宗教に対する犯罪や「道徳的犯罪」を犯した者を裁く機関で、市内の一等地にある庭付きの瀟洒な建物に陣取っていた。ひげが短すぎる男、ブルカを着ていない女らを連行し、足の裏を金属製のケーブルで打ちたたく。「保守的な南部の田舎から来た不潔で無学文盲のムッラー」が大都市の教養ある女性たちを裁き、ひげ面の番兵たちは、その叫び声を聞きながらバラの香る庭を眺めて茶をすすった。
●公開処刑:姦通や窃盗の罪を犯した者がトラックに乗せられ五輪スタジアムの真ん中に運ばれる。歩いて場内一周し観客の喝采を受ける。ある者は両腕を切り落とされ、またある者は頭を撃たれるが、極めつけは投石刑。腰まで地面に埋められ死ぬまで投石される。「たった一切れのパンを盗んだのは飢えた子供のためだった。実はレイプだった。そんな事情を、裁く者、最初の石を投げる野蛮人たちが気にとめることはなかった。」
●ムハッラム:女性は外出するときはかならず「男性の血縁者」=ムハッラムと一緒でなくてはならない。これはファウジアがカーブルに戻ってから知った新たな差別だった。ターリバーンは見張りのため、多くの検問所を設けていた。男女が乗った車を止めると、二人の関係について根掘り葉掘り尋問する。これも勧善懲悪省の管轄だった。
●ハイラックス:勧善懲悪省のパトロールカー。屋根につけたスピーカーから「聖なるクルアーン」を大音量で流す。その音を聞くと女性はみな素早く身を隠す。女性を見ると捕まえて難癖をつけるからだ。ある日ファウジアは「路上で少女が鞭打たれているのを見た。するとその母と姉が身を投げ出して彼女をかばった。ターリバーンはかまわず三人を打ち続けた。本当に狂気の沙汰だ。」
そんなカーブルでファウジアとハーミドは結婚した。式には1500人もが押しかけた。うち500人は兄の関係者で、ファウジアは「ちょっと頭にきた。無銭飲食をしに来たのじゃないかと。」その中にターリバーン政府に協力するものもいたのか?兄はもっと早く国を離れるべきだった。しかし、結婚式を人生の一大イベントと考え、「ネットワークを構築する」機会と捉える政治一家にとって、親代わりである兄の欠席は許されなかった。
ターリバーンのおかげで「とても地味になった」結婚式だが、伝統に則り数日間続いた。最後はファウジアも兄も涙した。そして、「第4マクロリアン」という寝室が三つもある高級アパートで新婚生活が始まった。ただ、アフガン風というか、その時代らしいというか、二人きりではない。最近夫を亡くしたハーミドの姉とその二人の子供が同居した。
元教師の義姉はとてもエネルギッシュで、ファウジアと意気投合。すぐに素敵な関係が結ばれた。しかしターリバーンが支配するカーブルでの暮らしは先行きがあまりに暗い。いずれ故郷のバダフシャーンに移ろうと、結婚した直後からファウジアたちは話し合っていた。
結婚式からちょうど十日後の午後、玄関のドアがノックされた。現れたのは黒いターバンを巻いたひげ面の男たちだった。兄がカーブルに戻ったことを、ターリバーンの指導者オマル師が知り逮捕状を出した。彼らは行方をくらました兄を三日間、血眼になって探していたのだ。
男たちは「警察長官はどこにいる?」と逮捕状を見せ、部屋中をあら探しした。何も見つけられず帰ろうとした彼らと、職場から戻って来たハーミドが間一髪鉢合わせした。ハーミドは手錠をかけられ、諜報部へと連行された。
気丈なファウジアはすぐにタクシーを拾って追いかけようとしたが、例の「ムハッラム」によって一台目は乗車を拒否した。しかし二台目のドライバーが乗せてくれ、道々名前や住所などを教えてくれた。「検問所では私の妹だと名乗りなさい」と。たどりついた諜報部前で、ファウジアは感謝を込めてかなりの大金を払い下車した。「私が今たくさん払えば、次また別の女性を助けてくれるだろう。」
ゲートで「私は逮捕されましたが、女なのでターリバーンの方たちの車には乗れませんでした。そこで、ここに自分で来いと言われました。入れてください。」と嘘をつき侵入した。見ると敷地内に拘置所があり、その門前でハーミドは二人のターリバーンにはさまれ、放心状態で突っ立っていた。
やがて別の門に向かって歩き出した。ファウジアは駆け寄り、ハーミドの手を取った。拘置所の門が開く。中に何百もの囚人が見えた。手錠をかけられた者、縛り上げられた者、立ち尽くす者。皆が悪臭漂う中庭にたたずんでいた。ターリバーンがハーミドのもう片方の手を引き中に入れようとした。「新婚です、お許しを」と迫ったが、「うるさい女め」と蹴飛ばされ、ファウジアは泥水の中に倒れた。ハーミドは中に消えた。
(第10章「北への撤退」、第12章「とあるターリバーン結婚式」、第13章「始まりの前の終わり」より抜粋・翻訳)

 

<つぶやき第12弾> (2022年8月5日)

ターリバーンの人情

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第12弾。(写真出典:Fawzia氏のFacebookより)
夫から引き離され諜報部の敷地を出ると、ファウジアは急に兄のことが心配になった。タクシー代はもう残っていなかったので兄の家(高級アパート)まで歩いた。第一夫人がいた。彼女によると、兄はこの三日間居場所を転々とし、今日は西カーブルの親戚の家にいるとのことだった。「今ハーミドには何もできないが、兄の力にはなれる」と、内戦で最も破壊されたカードセ地区へ向かった。
たどりついた家には夫婦が暮らしていた。夫はカーブル大学の経済学教授。妻は教師だったが職を失い、今は秘密の学校を運営していた。居間に通されると、兄がマットレスの上に寝転んでいた。ファウジアを見た彼は危険が迫っていることを知った。二人は急ぎその家を離れ、徒歩で市外に向かった。人目の少ない郊外で、4時間あてもなく歩き続けた後、タクシーを拾った。
行く先はファウジアの新居がある第4マクロリアン。 振り出しに戻る感じだが、とても広い団地群なのだろう。そこにハーミドの親戚の女性が子供と二人で住んでいるのを思い出したのだ。途中怖れていた検問にあったが、運良く窓を下ろせとは言われなかった。
正確な住所は知らなかったが、あちこち聞いてやっとつきとめ、ドアをノックした。中に入り、急ぎ状況を説明し、「兄を一晩だけ泊めてくれ」と頼み込んだ。彼女は承知したが、喜んでという訳ではなかった。「怖がる気持ちはわかる。女は血縁でない者を家に泊めただけで逮捕され、勧善懲悪省に連行される。」ましてや、客はお尋ね者の政府高官だ。だがファウジアにとって他に選ぶ道はなかった。
翌朝、鏡の前で歯を磨いていると名案が浮かんだ。ターリバーン政府の役人の妻に刺繍を教えている友だちを思い出したのだ。ファウジアが知る唯一のターリバーンとのコネであった。彼女の家に駆けつけ、事情を説明すると、驚き同情し、一緒に生徒の家まで行ってくれることになった。
一刻も早くそのターリバーンに会いたいファウジアが、道すがら思わず足を止めた。通りの写真店の前に「いかにも意気消沈した様子で背をかがめた女が青いブルカを着て立っていた。一瞬誰だかわからなかったが、それはガラスに映る自分だった。」驚くと同時に店内の様子が目に入った。ターリバーンによって写真は御法度となり、うち捨てられた店だった。
ボリウッドの俳優よろしく滝に打たれてポーズを決める男。浮かぶ風船の糸を握りしめ歯のない口をあける赤ん坊。レースのドレスを着て短いソックスをはき恥ずかしそうに微笑む少女。正装した夫の横で自慢げに立つ白いベールの花嫁。
「これはだれだ?今どこにいる?」 ターリバーンの時代になる前、もといた1800万の人口のうち3分の1が戦闘で死んだ。残りの3分の1は国外難民になった。今は最後の3分の1が残るばかり。「店の主人は転職したのか。地下に潜り写真屋を続けているのか。ひょっとして逮捕されているのか。」ハーミドの囚人仲間かも知れぬと思ったとき、ファウジアは我に返った。
友だちがそっと彼女の腕に触れ、二人はまた歩き始めた。ターリバーンの住まいは門付きの団地だった。幼い男の子が玄関先で遊び、ゆでたマトンの香りが漂っていた。夫妻は二人を歓待し、熱い緑茶をふるまった。ターリバーンに「役所が開き次第、行って調べてみる」と言われ、ファウジアは満足しないまでも、感謝の気持ちを抱いた。
「私は驚いた。ターリバーンも、どんなターリバーンも人間性を表せるんだと。この男は見ず知らずの私を助けようとしている。その必要もないのに。彼がターリバーン全般に関する私の考えを改めさせた。理念や政治観を私と共有しないからといって、必ずしも悪い人ではない。アフガン人の多くは、民族性と文化の共有、住む場所の親近感、または単に経済的必要からターリバーンと交わる。それは当時も今も同じだ。仕事のない村で、給料を払うと言われれば、貧しい男は何をするか? もちろん、カンダハルやヘルマンドなど南部の都市では、イスラーム文化が厳しく守られている。私は反対だが、理解し尊敬する強い気持ちは常に持っている。」
アフガニスタンでは民族によって文化も言語も異なる。「国内に30以上の言語があることはあまり知られていない。」ファウジアによると、そんな多様性こそがアフガニスタンの強みである。少なくとも、平和時においてはそうだ。しかし、「戦争時においては、そうした民族的多様性が我々の最大の弱点になる。そのために考えもせず、お互いを殺し合う。」
ターリバーンの役人は二人を丁寧に門まで見送り、別れ際に「役に立てるかどうか確信はない」と注意した。ファウジアは帰り道いろいろと心配した。考えないようにと思っても脳裏に浮かぶ。「ハーミドが手を縛られ、中庭に引きずり出され、頭を打ち抜かれる。さもなければ、汚い凍える獄房でやせ衰え、空腹と寒さのせいで、徐々に正気を失う。」
こんな思いにさいなまれながら、ファウジアはようやく家に着いた。すると、バスルームから見慣れた顔が現れた。
(第13章「始まりの前の終わり」、第14章「暗がりが満ちる」より抜粋・翻訳)

 

<つぶやき第13弾> (2022年8月15日)

パキスタン亡命計画

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第13弾。(写真出典:Fawzia氏のFacebookより)

捕まった夫をどうにか助け出したい。ファウジアはその思いに突き動かされ、早朝ターリバーンの家を訪れ、夫の釈放を頼み込んだ。まっすぐ新婚の家に戻ったファウジアを待っていたのは、夫のハーミドその人だった。バスルームから出てきた彼は「やせこけた頬を水で輝かせ、頭からはしずくがこぼれていた。」
わずか一晩の拘留で「痩せ細り、よろめいて歩く」ようになったハーミドをファウジアは抱きしめ、お互いが涙した。短時間でもターリバーンの捕虜となることが、如何に心と体をさいなむか。自分に置き換え想像しただけで、気絶しそうな恐怖と絶望だ。やわな日本の官憲による扱いとは訳が違うのだろう。屈強な青年が一晩でガリガリになるとは!
ファウジアは、ここで夫の帰還に安心しへたりこんだりはしない。すごいな。私ならその日はもう動けない・・・「事前通告もなく夫を釈放した。ならば、次の標的は兄だ。間違いなく捜査の手を刷新するだろう。隠れ家を変えねば、早く。」思いついたのがかつて彼女の英語教室に通っていた女性だった。未亡人で数ブロック先に二人の娘と暮らしていた。
「政治的な人物ではなく、狂乱のカーブルで生き延びようとする普通の人だった。」再びブルカを着て、その家に走る。ほとんど家具が残っていない部屋に通された。「かなり前に、金目の物は売って米、油、燃料に変えたのだろう。」事情を話した。彼女が怒り出すのではと心配した。例によって、男を泊めるだけで御法度なのに、元警察長官をかくまってくれと頼むとは。
「なんて愚かな質問なの!」と未亡人は一喝した。「もちろんここに連れてきて。」
ハーミドの親類のアパートにとって返し、兄を連れ出した。わずかの着替えと食料を持たせ、彼を未亡人の家に届けた。かくまってくれた母と二人の娘たちはとても優しく、兄も「少しはリラックスできたと思う。」
彼はそこに十日滞在した。その間、兄の捜索騒ぎもやや落ち着きを見せた。そこで彼はハーミドとファウジアが暮らすアパートに移った。毎日のようにターリバーンに踏み込まれ、質問攻めにされ、神経をすり減らした兄の第一夫人も同じく転がり込んだ。新婚のファウジア夫妻、お尋ね者の兄とその家族、そして元から同居していたハーミドの姉一家。三家族が一つ屋根の下で暮らし始めた。
「最初は幸せな新婚生活を台無しにするこの事態に腹を立てた。でもやがて義務感が勝った。兄のためだ。これまで、どれほどかわいがってくれたことか。自分勝手に怒ったことに罪悪感すらおぼえた。今こそお返しに兄とその家族を世話するときだ。」
当初からの狙いだったパキスタンへの亡命。兄はついに意を決した。計画は単純だった。タクシーで国境検問所のあるトールハムまで行く。1997年当時、国境を越えるのにビザは不要だった。賑わう国境地帯の人混みにまぎれてうまく脱出できるだろう。その先、有名なカイバル峠を越えればペシャワール。そこから500キロで、第二夫人の待つ別宅があるラホールだ。
ここで著者は亡命ルート上にあるパシュトゥーンワリという地域についてかなり詳しく言及する:
●パシュトゥーン人が住む地域をこう呼ぶ。アフガニスタン南部とパキスタン北部にまたがる一帯。
●パシュトゥーン人は何世紀も国境など気にせず行き交っていた。彼らにとって国境はただの地図上の線にすぎない。
●デュアランドラインと呼ばれる一応の国境はあるが、アフガニスタンもパキスタンも正式には承認していない。
●国境地帯に暮らすパシュトゥーン人はその歓待の素晴らしさで有名。「もしあなたが彼らの客なら、彼らはあなたのために死も辞さない。もし彼らを怒らせたら、後悔もせずあなたを殺す。」
●アメリカとNATOはアル=カーイダと戦い、この弛緩した国境地帯が何千ものアル=カーイダ戦闘員の隠れ家になっていると訴えている。それに対しパキスタンは否定するばかりで、はびこる原理主義に対しほとんど何のアクションも起こさない。
●パシュトゥーン人の尊厳の掟は強く、ビン=ラーディンらの大物を探してアメリカがいくら空爆しても、村人たちは口を割らない。「爆弾は村々を破壊し尽くす。だが、『名誉ある客人』は決して裏切られない。」
ファウジアは「私には到底理解できないが、地元の人たちは決して変わらず、変わることができない」とコメントし、解説の最後をこう締めくくる:「その地に足を踏み入れれば、500年の時を遡ることになる。これまでの一連の政府や外国勢はこれを理解できなかった。理解できないと必ず敗北する。」500年か。わが国なら室町から戦国時代?確かにあの頃の戦士がカラシニコフやRPGをかついだら、そりゃあ強いな。
いよいよ亡命決行の日。兄は朝早く迎えに来るようタクシーを予約していた。彼は髭をたくわえ、ターリバーンも認識できぬほど風貌が変わっていた。ファウジアはテキパキと準備を進めた。「弁当はナーンと、兄の滋養のための固ゆで卵。兄の妻はスーツケースにもろもろを詰め込んでいた。」すると、玄関のドアがノックされた。
ファウジアはドライバーが来たと思い、反射的にドアを開けた。すると玄関先に立っていたのは二人の男で、頭には黒いターバン。銃を手に部屋の中に押しいって来た。全員が凍りついた。できるのはお互い視線を交わすことだけ。「来てしまった。捕まった。」
間髪を入れず一人が兄を蹴り倒し、もう一人がハーミドの首根っこを押さえて、逮捕した。どちらもまだ二十代の若者だった。兄とハーミドは部屋からひきずり出された。廊下で兄が叫んだ、「ファウジア、俺たちを追うな。家で待て!」四人は階下で待つピックアップトラックの中に消えた。
(第14章「暗がりが満ちる」より抜粋・翻訳)

 

<つぶやき第14弾> (2022年8月25日)

頼りなさげな元将軍

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第14弾。(写真出典:Fawzia氏のFacebook)

再びターリバーンによって夫を強奪されたファウジアだが、今回はすぐにその後を追わなかった。共に逮捕された兄に別れ際「追うな」と言われたからでもあったが、別の理由もあった。彼女は「力をなくし、二日間床についた。恐怖と欲求不満で体が麻痺した。ハーミドがまた連れ去られた。しかも今度あとに残したのは一人だけではない。私たちのまだ生まれぬ子供もだ。」
その三日前に妊娠を告げられたばかりだった。夫婦は喜んだ。しかし、戦時中だ。「こんな地獄に無力の乳児を産み落とすのは身勝手か?たぶんそうだ。」新たな命の誕生を知って希望より不安が勝る。そんな社会であっていいはずがない。平和が普通のわが国と平和のない国アフガニスタンの乖離には絶句する。
ありがたいことに、どんな世界へも子供たちはたくましく生まれてくる。「そう、怖れはした。でもこうも考えた。新たに生まれた子供に集中するのはとても貴重で前向きな何かだろうと。」ただ、アフガニスタンの出産時死亡率は高い。生まれ出ると同時に死にかけたファウジア自身がそれを一番よく知っている。加えてターリバーン治世だ。著者は当時の女性たちが置かれた医療状況をこう解説する:
• すべての女医が禁止された。たくさんの女医が活躍していたのに。(ファウジアも女医を目指していた。)
• 男性の医者が女性を診察するのも禁止された。風邪を引いた女性にアスピリンを処方することすらできない。
• ターリバーン治世に、何百もの女性がいわれなく死んだ。インフル、病原菌、敗血症、骨折、妊娠によって。
「国を運営する残忍な男たちは女の命をハエと同等に扱っていた。神の申し子と自称するあの男たちは、神のもっとも偉大な創造物の一つ、女性への尊厳をまったく欠いていた。」あの日のファウジアには、そんな恨み節をたれる余裕もなかっただろう。逮捕から三か月ほど経ったある日、兄がつてを使って獄中から手紙をよこしたのだ。この男に頼み込めと。
寝込んでいる場合ではない。目的を持ったファウジアは強い。しかも母親だ。すぐに兄のコネを訪ねた。共産主義時代、国防省で上役だった元将軍で、今はターリバーンのもと軍事アドバイザーを務めていた。その家を探し当て中に招かれた。ファウジアは居間の汚さ、暗さ、匂い(隅にいた子供を含む大家族が発していた)に辟易とした。
だが一番ショックを受けたのは、対応した妻の素朴さ、無教養丸出しの言葉と立ち居振る舞いだった。ファウジアは自問した、「家がこんなに汚くて、女性や子供が無知の罠にはめられて、どんな国ができるんだ?こうも無知で無教養な人たちが権力を持つアフガニスタンに希望はあるのか?」そしてもっと身近な問題に気づき身震いした。「これがターリバーンの上級アドバイザーの居間ならば、その刑務所の状況はいかばかりか。」
ターリバーンと付き合う上で忍耐は欠かせない。かなり待たされた挙げ句、元将軍が現れた。見た目は貧相だったが(お察しの通りファウジアの要求レベルはかなり高い)、兄をよくおぼえている、解放を保証しようと請け負い、彼は奥へ電話をかけに行った。だが戻って来たその顔は曇っていた。「出すのには少し時間がいる」と。季節は秋。帰り道、目前に迫る冬の冷たさが身にこたえた。
翌朝は雪が積もっていた。トイレに駆け込むと(つわり)、窓の外に階下の屋根屋根が輝く新しい毛布のように見えた。急いで身支度をすませ、ターリバーンの家へと向かった。転ばないよう注意して。着くと家の様子が変わっていた。掃除してある。子供の青っ洟も拭き取られている。男も様子が変わっていた。黒ずんだ歯を見せて微笑みながら、こう持ちかけて来た。
「私の子供たちに英語を教えてくれ。」
「もちろん。私の家に来ればいいわ。遊べる場所もあるし、その方がうまく教えられるわ。」
掃除したとはいえ、その家に一瞬たりとも「まったく必要な以上には留まりたくない」のが本心だった。このあたりの受け答えは、さすが政治家の娘、後の国会議員としての片鱗を見せたと言うべきだろうか。「この薄汚れた壁の向こうにある何かを、たとえ小さな何かでも、こんな子供たちに教えられれば、ゆくゆくわが国にも希望がある」とファウジアの志は高い。
さて、その夜更け。アパートの玄関ドアが激しくこぶしでたたかれた。ファウジアは用心深く、ちょっと開けた。毛むくじゃらの手がドアを強く押し返し、額にあたりそうになった。のけぞるファウジア。太い眉の下の暗い二つの目と、黒いターバンが彼女をにらみつけた。だが怖くなかった。「実際、ターリブの顔など見る暇もなかった。その隣に二人がいたから。ハーミドと兄だった。」
(第14章「暗がりが満ちる」より抜粋・翻訳)

 

<つぶやき第15弾> (2022年9月5日)

パキスタン滞在

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第15弾。(写真出典:Fawzia氏のFacebook)

新婚の夫ハーミドとファウジアをずっと支え続けて来た兄。二人が三か月もの拘留を経て帰宅した。「あの汚い子供まみれの元共産主義者将軍転じターリバーンは言葉通りのいい男だった。」約束した英語私塾をどうするかは平和慣れした読者ののんきな心配だろう。翌朝、急ぎパキスタンへと出発した。今度は兄夫妻と赤ん坊、ファウジア夫妻、計5人の逃避行だ。
一家の友人である別の元将軍が手助けを申し出た。「純粋な親切心から」助手席に座ってくれたのだ。彼はパシュトゥーン人だった。検問所を通るたびに、聞き慣れたパシュトゥー語の響きと元将軍の威厳が、ターリバーンの警戒心を払い去った。
「おじさん、行っていいよ。」
このやりとりを聞くたびにファウジアはほっとため息をもらした。そしてトールハムで国境を通過。長い拘留でさらに体調を崩したハーミドも、嘔吐用の椀をブルカの下で抱え続けたファウジアも、全員が歓喜の声をあげた。「ターリバーンの恐ろしい抑圧から脱した。みなが重荷を解かれたのだ。」
午後4時、ペシャワールに到着し、その先は夜行バスでラホールへ向かった。兄の家に着くと、彼の第一夫人とその両親が暖かく出迎えてくれた。その晩、豪勢なケバブ料理を「コカコーラで飲みくだした。」ターリバーンという毒がトッピングされていない「神聖な味」だったとは、いかにもファウジアらしい。
古都ラホールは500万もの人口を誇る大都市だ。ファウジアはその静けさに打たれた。「それを静かだと表現するのは少し変。でも私たちが来た道と比べると、そう思えた。」到着してから一週間後、ニュースが飛び込んできた。「アフガン大統領のラッバーニがペシャワールにいる」と。
当時ターリバーン政権を認めていたのはサウジアラビアとパキスタンのみ。国連総会のアフガニスタン代表はラッバーニが任命した大使だった。かつてその内務省に勤めた兄は大統領にコンタクトをとった。そして招待された。ハーミドも一緒に。二人は「ラッバーニが語る政権奪回のプランを聞きたくて、意気揚々と出かけた。」
ファウジアのラッバーニ観:
●出身はバダフシャーン州で同郷。
●ファウジアの父の友人であり、ときにはライバル。一家全員が深く尊敬。
●1950~60年代、共産主義の台頭に反対したキーパーソンのひとり。
●ソ連による占領時は、パキスタンから軍事的、政治的レジスタンスを組織した。
●共産主義者の敗北を受け、ナジブラー大統領の後継として選出された。
●最近(本書執筆時)、カルザイ大統領からターリバーンとの和平交渉を推し進める任務を授かった。
●だが2011年9月、ターバンに爆弾を仕込んだ自爆テロ犯によって殺された。
ラッバーニの陣地は多くの人であふれていたらしい。二人はとても興奮した様子で戻って来た。大統領と話し合って、彼がターリバーンを倒し再び返り咲くと確信したと言う。それを聞いてファウジアも同様に感じた。「楽観主義に支配された」ファウジアとハーミドはカーブルに戻ることにした。
世の中に「女たらし」という言葉がある。うまい政治家は「人たらし」だという。いかに主義主張が異なろうとも、連中を目の前にして話し合うと何か引きつけられる。言葉の力、オーラ、権力の甘い香り・・・多分こちら側の弱さなのだろう。とにかくラッバーニが有能なアジテーターなのは確かだ。
戻る理由は楽観主義だけでなかった。ハーミドの姉とその子供たちをカーブルに残してきた。「彼女を支えなくては。」兄は反対したが、既婚の妹の決断を翻すことはできない。二人のラホール滞在はわずか一週間だった。季節は冬の盛り。帰路ハイバル峠の山々は雪に覆われていた。ファウジアは夢想した、「切り立つ岩々はターリバーン、覆う新雪はアフガニスタンの生まれ変わる姿であれかし」と。
無事カーブルに戻り、ラマダンの始まりを迎えた。かの有名なラマダンだが、ファウジアはそれをこう解説する:
●その間、全ての注意深いムスリムの例にならい、私たちも断食する。
●断食する時間は、日の出から日没まで。
●日の出前にサハールと呼ばれる食事をとり、日中の活動の支えとする。
●サハールを食べ終えると、朝の祈りまで少し眠る。
その朝、眠りについた二人だが、すぐノックの音に目を覚ました。二人とも「お隣さんがなにか用事かな」くらいに思い、ハーミドが玄関へ向かった。しばらく話し合う声。そしてハーミドが戻ってくる足音。見ると、彼の顔は灰のように暗く、今にも病に伏しそうだった。上着をとってくれとファウジアに頼んだ。玄関に現れたのはターリバーンだった。
(第14章「暗がりが満ちる」より抜粋・翻訳)

 

<つぶやき第16弾> (2022年9月15日)

三度目逮捕の代償

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第16弾。(写真出典:Fawzia氏のFacebook)

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第16弾。(写真出典:Fawzia氏のFacebook)
ラマダンの朝5時、ターリバーンによって夫ハーミドは連れ去られた。三度目の逮捕となった今回、収監先はどこか? 情報はその日のうちに夫の遠い親戚がもたらしてくれた、「第三諜報部」であると。それは諜報部の中で最も危険なセクションで、政敵を黙らせ根絶やしにすることを生業としていた。
ファウジアはそこへ毎日通い、毎日薄ら笑いの守衛に追い払われた。そして7日目、やっとハーミドと面会できた。まっすぐに立てないほどに弱り切った彼は、「夜は雪のふる外に立たされ、昼は尋問され殴られる」と惨状を吐露した。彼らが知りたいのは「なぜ、ラッバーニと会ったのか? 会合の目的は何か? ラッバーニとはどんな関係か?」だと言う。
それを聞いたファウジアはこう結論する、「ラッバーニ大統領はパキスタンのISI(軍統合情報局)が差し向けた諜報部員によって警護されていた。その諜報部員の多くがターリバーンに通じていると長く疑われてきた。その立派な証拠が今そろった。」皮肉にも、兄と夫の愛国心をくすぐったあの会合に敵のスパイが潜んでいたのだ。
そうすると、お尋ね者の兄がパキスタンへ出国したことにターリバーンはもう気づいていることになる。そして一週間の拷問でハーミドには義兄以外の政治的背景がないことも十分にわかっただろう。ここはゴチャゴチャ言わずにハーミドを解放するのが、一本気なターリバーンらしいやり方だと思うのだが・・・
ファウジアが刑務所を出ようとすると、「ターリブの上役」がやって来てこう言った、「お前の夫の解放にいくら払うか? 2500ドルか? 5000ドルか?」ファウジアの手元にそんな大金はなかった。パキスタンの兄なら工面できたろうが、銀行システムが崩壊しており送金は不可能だった。その誘いを蹴った代償は大きかった。長引く拘留によって、ハーミドが結核を発症してしまったのだ。
刑務所の上役が大金をせしめることに失敗すると、次は下っ端たる守衛の出番となった。ファウジアの指のマニキュアを認めるや「ムスリムでない」と非難し何度も投石した挙げ句、ある日こう持ちかけてきた、「行って男の親戚を連れてこい。財産証明を見せられる男だ。お前の夫がカーブルに留まる保証としてその財産を使うなら、解放してやろう。」
そんな便利な男が身近にいるか。ファウジアとハーミドの姉は考えた末に、店のオーナーを勤める従兄弟を思い出した。その店に駆けつけたがあいにく金曜日で休みだった。そこで、親類に頼る策は消えた。急いで刑務所に戻り、件の守衛に隣人を頼る旨を説明した。彼は黙って中に消えた。「何時間も待たされたように感じたが、たぶん数分」経つと、戻って来た。他に二人の姿も。一人はもっと若い守衛で、もう一人はハーミドその人だった
「ハーミドをお前と一緒に行かせよう。この男も。その隣人だか友人だかの手紙を持ってきたら解放する。」その上、ハイラックスと運転手までつけてくれた。
頼りないほど若い守衛はヴァルダク州の出たっだ。マクロリアンに着くと、義姉が近所にアパートを所有している人を思い出し、頼みに行った。その間、残された三人は階上の部屋で待機した。
若い守衛はパシュトゥー語をしゃべるが、ファウジアたちの使うダリ語で懸命に話しかけてきた。「心配しないで、お姉さん。私も新婚です。まだ20日。だからあなたの痛みがわかります。保証がなくても今夜はハーミドをここに残し、明日また来て手紙をもらいます。」先輩守衛の怒りを買うこともお構いなしで、こう提案した。ファウジアとハーミドは驚き、感謝した。
しばらくすると、外の廊下に男たちの声が聞こえてきた。ドアを開けると6人の隣人がいた。「ハーミドが解放されて何とうれしいことか。心配するな。みんなで共同して保証する。」そのうちの二人が財産を持っており、保証の手紙をしたためた。ファウジアは部屋を出る若い守衛に小さなレースの刺繍ハンカチをプレゼントした。
やがて隣人たちも去った。やっと家族だけになった。ファウジアと義姉は冗談を言ってハーミドを笑わせようとした。思わず声を出して笑ったハーミド。しかし、その笑い声のあとに結核の咳が続き、いつまでも止まなかった。
(第14章「暗がりが満ちる」より抜粋・翻訳)

 

<つぶやき第17弾> (2022年9月25日)

北へ

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第17弾。

ハーミドは三か月続いた三度目の拘留を解かれ帰宅した。1998年の春。ファウジアは妊娠7か月だった。ハーミドは結核を患っており、再び逮捕されれば、確実に獄死する。二人はカーブルを脱出し、故郷のバダフシャーン州に向かうことにした。ターリバーンの検問をかいくぐるため複雑な陸路で。
早朝タクシーに乗り込み、まず東へ向かう。カーブル川にそって下り、目指すはスロービの町。1950年代にダムができ、以来ここから首都に電気を供給している。谷沿いの道は内戦中、幾度も爆撃され、クレーターだらけ。車は数珠つなぎになってゆっくりと進む。道をはずれると、そこは地雷源。対戦車地雷を踏めばひとたまりもない。
スロービからは北へ。かつての激戦地タガブを通る。そこで「大勢の人々が戦闘でつぶれた泥の家に、しがみくように住み続けている」のを見てファウジアは驚いた。さすがに要衝だけあって、ターリバーンはタガブに基幹検問所を設けていた。そこには「ビデオの樹」があった。それはいったい何か?
検問所では通行人のすべての荷物をぶちまけ、あら探しをする。餌食となったのはファウジアの前の車に乗っていた夫婦だった。妻の持ち物の中からビデオカセットが見つかった。トロフィーのように掲げて勝ち誇るターリバーン。怒って奪い返そうとする若い妻。一歩引き下がり何もしない夫。銃を持つターリバーンが女の胸を押し、乳房をまさぐる。性的暴行!さらに肩で顎に一撃し、女を倒した。
やっと四つん這いになり起き上がろうとしたとき、男は黒いカセットを彼女の目の前の地面に叩きつけ、足で踏み割った。声も出ない女。男が残骸を拾い上げると指の間に芯がこぼれ出た。構わずそれを後ろの木に放り投げた。よく見ると、その木には「何十本ものビデオカセットの内臓がなびき、昼の日差しの中、黒く輝いていた。」この勝利に満足したのか、次のファウジア夫妻への追求は甘かった。
タクシーはこの検問所まで。ハーミドが馬とガイドをやとった。そこから鞍上山道を行く。ハーミドとガイドは徒歩。7時間後一行は北部同盟の支配下にある小さな町にたどり着いた。ガイドは振り向き、あっさりと「ここですよ」と告げたが、二人は心が躍った。その町で再び車を手配した。
ほんの数時間でジャブルサラジに着いた。「まるで別世界だった。市場は盛況で買い物客にあふれ、女たちはターリバーンにとがめられることなく、男たちと話している。レストランにも客が多かった。」その晩はホテルに泊まり、翌朝プリクムリ行きの小さなバスに乗った。
席に着くと、ジャブルサラジの名物「アシャワパニール」というチーズが急に食べたくなった。妊婦の食欲。ハーミドはわざわざバスを降りて、行商人から買い、ぎりぎりのタイミングで戻って来た。しかし、彼は大きなミスを犯した。干しぶどうを忘れてしまった。絶品チーズと干しぶどうのマリアージュを逃し、すこしがっかりするファウジア。もう出発だ。買いには戻れない。するとバスの窓を激しくたたく音。
「すわ、ターリバーンか」とおびえるファウジアが見たのは、黒いターバンではなく、年配のチーズ売りのやさしい目だった。「シスターどうぞ」と彼は小さなビニール袋を差し出した。「あの男、干しぶどうを忘れたんでね。」さすがのファウジアも、これにはちょっと涙腺が緩んだという。
バスはサラン峠を越えて北へ。「山の頂は白い冬の上着を脱ごうとし、ずっと麓の斜面では、草と花々が春の光の中で輝いていた。」ターリバーンがいかに冷たく残忍でも、「いつかあの雪のように消え去る」ことをファウジアは願った。
プリクムリはかつてファウジアが避難し、ハーミドが求婚に訪れた町。あのとき訪ねて来たハーミドの姉の家に一晩泊まった。この義姉ともよく気があったが、「二万ドルの妻はどんな美人かな」と詮索に来るご近所さんたちには辟易した。翌日またバスに乗り、タハールの州都タールカーンへ。そこから州境を越えてキシャムに行くにはジープを使った。雪解け水による洪水のせいだ。
目的地のファイザバードまでは車で4時間。だが、その車に「教養にあふれ良い血筋を誇るシティ・ウーマン」は難色を示した。見つかった唯一の車が、山羊をのせるトラックだったのだ。「その日は米袋が積まれていたが、とにかく山羊くさい。」ごねるファウジアに、ハーミドは最後通告を出した、「これに乗るか、キシャムに留まるか。」
あれほど、ブルカを嫌ったファウジアが、荷台で体をスッポリと覆った。「暖かさをキープし埃を寄せ付けない」ためでもあったが、一番は「誰か知っている人に見られないため」だった。景色がきれいそうな場所では少し顔を出したが、一瞥するとすぐにひっこめた。そんなファウジアが、たまらず顔を上げる瞬間が最後にやってきた。
きつい山道。上り坂で突然のエンスト。おまけに頻繁なブレーキングの結果、制動がバカになった。みるみる下って後ろ向きに川へと向かう。ファウジアは嫌っていた米袋にエアバッグよろしくしがみつく。お腹に腕をまわしカバーするハーミド。川に落ちる寸前でどうにか停止した。ドライバーは力なくクラクションを鳴らし、みなが「アハマドゥラー」(アッラーを讃えよ)と叫んだ。
もうトラックは走れない。ブレーキが焼けた。その晩は荷台で寝た。山羊臭さも気にならない。夜が明けたら歩いて出発だ。「もうブルカを着ることもない。そう選択するなら。」ターリバーンから逃げ切った喜びをかみしめながら、生まれ故郷の山々と空の下、ファウジアは眠りについた。「明日はファイザバードだ。」
(第15章「始めた地へ戻る」より抜粋・翻訳)

 

<つぶやき第18弾> (2022年10月5日)

ファイザバードでの暮らし

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第18弾。(写真は、2022年5月国際ジャーナリストセンター(ICFJ)の年間賞を受賞したTOLOnewsのテレビレポーターをしていたアニサ・シャヒード(Anisa Shaheed)さん。彼女も国外避難を余儀なくされている。Fawzia Koofi氏のFacebookより)

アフガニスタンの北東の端にあるバダフシャーン州。結婚し、妊娠し、ターリバーンに追われた22歳のファウジアは、6年ぶりに、その都ファイザバードへと戻ってきた。「高地の空気はきれいで、古いバザールには泥づくりの店々が並び、街の中央を澄んだターコイズ色の川が流れる。」忘れてしまっていたその美しさがファウジアを出迎えた。
離れたきりだったたくさんの親戚とも再会し、ファウジアはやっと落ち着きを取り戻した。ハーミドは小さな家を借りて金融業の看板を出し、大学で講義も始めた。やがて長女が生まれると、三部屋ある大きな家を借り、ファウジアは英語塾を開業した。一月もしないうちに、300人もの生徒が集まった。「幼い少女から、男性の医者、学生や教師たちまで」が彼女に学んだ。
夫の結核以外は、順風満帆を思わせる暮らしだったが、長女がちょうど6か月になったとき、またも「あの慣れ親しんだ吐き気」に見舞われた。二人目の妊娠である。さすがにこたえた。長女を母乳で育てつつ、朝8時から夕5時まで教壇に立つ。さらに追い打ちをかけるように、ターリバーン接近の報が届いた。
二人が通過したあの国境の町キシャムが彼らの手に堕ちた。敵はファイザバードから24キロの地点まで迫ってきた。教室の外に出ると、聞き慣れた重砲火の音が山にこだました。ラッバーニを助けムジャヒディーンに志願する男たちはトラックに乗り込んだ。「私のどこかに、ハーミドも彼らに加わって欲しいと思う気持ちがあった。」しかし、彼には「行かないで」と言った。「彼は教師であって兵士ではない。銃の使い方さえ知らない。その上、病気のため体も弱すぎた。」
トラックに乗った男たちは、その多くが戻らなかった。だが命を賭けた抵抗は功を奏し、ターリバーンをファイザバードから遠ざけた。そんな混乱の中で次女が生まれた。そしてハーミドの結核は悪化した。大学での講義を週たった二日に減らし、残りの五日間は長女の面倒を見た。
次女の出産から二週間後に、ファウジアに面白い仕事の話が舞い込んできた。小さな孤児院でのパート職の依頼だった。「もう少し休みたかったが、ハーミドの病気治療のために、お金が必要だった。」長女を夫に預け、乳飲み子をスカーフで体にくくり付けて孤児院に勤め始めた。
そこで三か月近く働くと、さらに面白い仕事を依頼された。「子供のための財団」が行う調査に参加しないかと言うのだ。それは、60人からなる医師・看護婦・援助スタッフが州内12の遠隔地を巡り、地域の医療・栄養上のニーズを探ろうというプロジェクトだった。かつてファウジアが医学の道を選んだのも、こうした福祉の分野で働くためだった。「生まれたばかりの赤ん坊を連れて、死の淵にいる夫を家に残す。この二重の悪条件にもかかわらず、決して断れない依頼だった。」
ハーミドは快諾し、妻と次女を祝福して送り出した。ファウジアによると、「この旅が私の人生を変えた。」調査地域は並みの僻地ではなかった。その特徴は:
●シーア派第二の分派イスマーイール派が多く暮らす。
●中国との国境地帯ワハーン回廊も含む。
そのすさまじい貧困ぶりは:
●1月に出発したが、寝ている赤ん坊を暖め凍死を防ぐため人々は動物の新鮮な糞を使う。
●子供は雪の中でも裸足で、ほとんどが栄養失調。
●長老の家でも便所は穴を掘っただけの汲み取り式。(西洋人の医者たちは苦労したが、ファウジアは懐かしかった。)
●村人の家は一部屋で、全家族がそこに住む。一角に動物、別の一角には便所。但し便所はただの地面で、赤ん坊は積み上がった排泄物の周囲を這い回る。
●家から少し離れた所に穴を掘ればいいのだが、掘るのは男の役割。そんな役割を果たす男は情けない。よって掘らない。
●ある村では、女性は朝4時に起き、雪の中、動物に餌をやる。終わると帰宅して家族のために裸火でパンを焼く。男性も朝6時から日が暮れるまで畑で働く。
こうした惨状が「私の中にある何かを呼び覚ました」とファウジアは言う。続いて、とあるイスマーイール派の村での出来事。村の長老は、ただの通訳である彼女にこう挨拶した。「ミス・クーフィ、よくぞいらした。あなたのお姿は、あなたのお父上とそっくりです。」その家に泊まった翌朝、別れ際に長老は、彼女の赤ん坊にと羊を一頭くれた。他のスタッフが「私たちの羊はどこ?」とからかうと、長老はこう答えた、「この羊は彼女のお父上の故に、お贈りしたのです。」
6週間の調査旅行の期間中、父親の知り合いに多く出会い、父親の偉大さを改めて知らされた。それがファウジアの中に、政治家を目指す心を呼び起こした。「私は、政治家になりたいんだと気づいた。いや、『なりたい』は正しい表現ではない。ならなければならない。私の存在意義そのものだと気づいた。」
ファイザバードに戻ると、孤児院業務が待っていた。彼女にとって力一杯取り組める仕事だった。そして数か月後、ユニセフがファイザバードに事務所を構えることになった。ファウジアは求人に応募して、「児童保護士」としての仕事を獲得した。国連での仕事であるため、パキスタンのイスラマバードへも度々出張した。
娘たちと夫を連れての出張も幾度か許された。イスラマバードの有名病院で診てもらうと、新薬による治療を勧められた。月々500ドル。ファウジアの給料では半年続けるのが精一杯だった。時は2001年初め。ハーミドはまだ35歳。ファウジアは彼の生きる望みに賭けていた。
その年の春、あのマスードがラッバーニ政府を代表してヨーロッパへ向かった。ターリバーンの脅威を訴え、アル=カーイダが西側を標的とした大規模テロをすぐにでも起こすとEUに警告した。またブッシュ米大統領にも「我々を助けなければ、これらテロリストがごく近い将来、米国とヨーロッパに必ず損害を与える」という私信を送った。しかし、米国も、ヨーロッパ諸国も、それに対して素早い反応は見せなかった。逆に9月9日、マスードが暗殺された。
(第16章「娘のための娘」より抜粋・翻訳)

 

<つぶやき第19弾> (2022年10月15日)

立候補

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第19弾。)
二日後、ファウジアが勤めるユニセフ事務所に、ラジオを持った同僚が駆け込んできた。マスードが生前警告し、西側指導者が軽視した大規模テロは果たしてニューヨークで勃発した。その後はメールの嵐。下された指令は、外国人スタッフの即時帰国と、アフガン人スタッフの事務所内禁足だった。他州出身だった上司は家族のもとに急いで帰った。
そのため、国内でただ一人の女性国連職員だったファウジアは、ただ一人の女性責任者となり、二つの事業に取り組んだ:
●戦争やターリバーンによって登校を妨げられた数千の少年少女を学校に引き戻す「学校に戻ろう」キャンペーン。具体的には、各所にテント学校を開設し、教科書や文房具を提供した。
●ポリオの予防接種。州全域で実施するため、準備をおしすすめた。
やがて10月7日、「不朽の自由作戦」が開始された。米英のクルーズミサイルがターリバーンとアル=カーイダを攻撃し、同時に「悲しくも鍵となる将軍を亡くした」北部同盟が陸路カーブルを目指した。西側の目標は、ターリバーンの「素早くきれいな」掃討と、ビン=ラーディンおよびその副官アル=ザワヒリの「逮捕または死」だった。
ターリバーン軍への凶行もよく耳にした。「ターリバーンを何百人も焼き殺した」とか「ターリバーンが跋扈した村々では住民が勇気を出して彼らに石を投げつけ、出て行くように要求した」とか。ハーミドの逮捕騒動で一部のターリバーンの優しさに触れたファウジアは「そんな個人が殺されることを悲しく感じた。」しかし、「アフガン史上の暗黒期が終わりつつあることに興奮した。」
ファウジアによると「ターリバーンは生粋のアフガン人ではない。彼らはいつも外国にコントロールされ指揮されている。」そのいい例がショマーリ平原にあると言う。今も「燃える平原」と呼ばれるほど、苛烈な殲滅戦がかつてターリバーン勃興時にこの平原で繰り広げられた。「一回の戦闘で数千人が殺され、木も作物もすべてが焼き払われた。」これでは戦後の復興は望めない。「このやり方はアフガンではなくアラブだ。ターリバーンはこんな戦術を思いつくほど、賢くはない」とファウジアは言い切る。
だが、今度の敵は手強い。ターリバーンは敗走を続け、最後の戦地はトラボラへと移った。ビン=ラーディンが隠れていると言われた場所だ。数週間後、突然戦いが終わり、ターリバーンは姿を消した。
変わったこと:
●一夜にして、数百の難民が帰国し始めた。
●外国で財をなしたアフガン人投資家が、国内で新規事業に乗り出し、ホテル、銀行、ゴルフ場、スキーリゾートなどを開いた。
●政治的には、「ローヤジルガ」(部族会議)が開かれ民主憲法の制定が決まった。
●ハーミド・カルザイが暫定大統領に。
変わらないこと:
●多くの人々は赤貧状態のまま。
●どの都市も設備が破壊され電力供給がおぼつかない。
●きれいな水にありつける人々はごくわずか。
●帰って来ると、家は壊されるか、よそ者に取られている。
●失業が蔓延。
●深刻な食糧不足。
こうした事態を「混沌としているが、初めて経験する前向きな混沌だ」とファウジアは喜ぶ。
ターリバーンが消え、ラッバーニの役割も終わり、ファイザバードはもう政治の中心でなくなった。やがてユニセフがカーブルに事務所を開いた。中央思考のファウジアは、ここを先途と上京し「女性および児童保護士」に昇進した。
一方、ハーミドの病状はますます悪化した。パキスタンやイランの病院にも出向いて治療を続けたが、改善されなかった。2003年夏、懸命の闘病もむなしく他界した。獄中で感染した結核による早すぎる死。彼もターリバーンの犠牲者の一人であった。
その後「二年間、まるで心をなくしたロボットのように国連の仕事をこなした。」再婚の話にもまったく興味のないファウジアにとって、「別の意味の夫となったのが政治だった。」政治が自分の血の中にあり、政治が自分の運命だと信じた。
2004年にアフガニスタン初の民主選挙が行われ、地滑り的勝利でカルザイ大統領が誕生した。翌2005年には、国会議員の選挙が組まれている。クーフィ一族もこの機に「我らが政治的歴史を再確認し、来たるべき新世代の一翼を担うべし」と決定した。さて、誰を立てるか?
立候補を希望したのはファウジアと、父がかつて離婚した妻の息子。半兄弟との公認・跡目争いである。相手はムジャヒディーンの栄えある元戦士で、すでにバダフシャーン州内で地区のまとめ役になっていた。
一見不利かと思われたが、数週間も議論した末に、ファウジアが一族を代表して立候補することが決まった。一同の気が変わる前に「私がクーフィ一族の唯一の政治代表であるとの文書」を書くよう、ファウジアは居並ぶ兄たちに要求した。
当選に向けて、ファウジアの強み:
●父の偉大さはまだ州民に忘れられていない。
●4年間ハーミドとファイザバードで暮らしたときに、ボランティアを通して築いた女性グループとの絆。
●400人もの生徒に英語を教えた。
●国内難民のキャンプをいくつも訪問し、衛生計画や学校設立に尽力して顔が知られた。
●友人には、市民社会のリーダーや、教師、医師、人権活動家らがおり、バラエティ豊か。
●29歳と若いが、ソ連占領、内戦、ターリバーンをくぐり抜け、経験豊富。
ファイザバードに選挙事務所を立ち上げ、ボランティアを集めた。選挙期間に突入。女性たちからの暖かい励ましや、モスク前での演説を聴いて涙する老人、「この売女め!」という嫌がらせの電話、「もし落ちて期待に応えられなかったらどうしよう?」突然襲ってくる不安とパニック。規則で決められた投票開始の24時間前まで、懸命の選挙活動が続けられた。
ファウジアはその感触をこう述べる、「私が会った人たちは、どんなに貧乏でも、文盲でも、間違いなくこの投票の機会を活かして、変化を望んでいる。投票行為が安全で、その機会が与えられているのに、投票したくない人などこの世にいるだろうか?」
(第17章「暗闇が明ける」、第18章「新しい目的」より抜粋・翻訳)

 

<つぶやき第20弾> (2022年10月25日)

壁を乗り越えて

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第20弾。似顔絵イラストはクーフィ氏本人のTwitterアカウントから
今回にて「ファウジア・クーフィ自伝」つぶやきは完了。ご愛読ありがとうございました。金子編集委員は次なるつぶやきを企画中です。乞うご期待。

いよいよ投票日。30年以上行われなかった国政選挙だ。投票所は朝6時に開いた。ファウジアの姉たちはブルカをまとい(匿名で)女性有権者を車に乗せ、投票所へとピストン輸送した。「だれに投票しようが構わない。投票カードを持った女性が一人でも多くそれを使うチャンスを活かせるなら。」
投票カード?そう、投票カードが要るのだ。読み返すと選挙期間中にこんなエピソードがあった。ある男が電話をしてきてファウジアに言った、「妻は投票カードを持っていない。俺が許さなかったからね。するとあんたに投票しろとうるさい。だから電話した。あんたは誰で、どんな考えなのかね?」電話口で政見(女性の地位の向上!)を説くと、最後は「あんたに投票する」と約束した。
「次の選挙では妻にも投票を認めて欲しいものだ」とファウジアが述懐してその段は終わる。ファウジアの優れた話術や誠実さを伝える逸話なのだろうが、そもそも投票カードをもらうには、家長の許可が必要だったのか・・・ローマは一日にしてならず、何気に感慨深い。翻ると、手ぶらで安全な投票所に行き自由に選挙できるニッポンのなんと恵まれていることか。
閑話休題。この日、輸送チームの次に登場したのはチェック班。姉の一人がタクシーに乗った。なるべく多くの投票所を駆け巡り、不正が行われていないか確認するのだ。たちまち最初の投票所で異状が見えた。姉が電話の向こうでわめく、「何か変。係員たちがある候補者に肩入れしている。中立じゃない。人々に誰に投票すべきか指図している!」
さらに別地区からの報告がとどめを刺す、「地元の警察署長の兄弟の一人が候補者で、その地区の全警官が彼に投票するよう命令されている。」ファウジアのキャンペーンスタッフは行動を開始した。BBC、地元のラジオ局、考えられる全員に電話でたれ込んだ。「不正を止めるには、それしかなかった。」
一日が終わると、各地からファイザバードに投票箱が送られてきた。その晩は鍵をかけ、翌日から開票が始まる。「投票箱が細工されてはならぬ」と、二人の若いキャンペーンスタッフが毛布もないのに開票所の前で寝ずの番をした。集計には二週間を要した。最初の一週間が過ぎようとした頃、またも異状が発覚。「選挙委員会の何者かが私の名が記された投票用紙を排除していた。」ファウジアのサポーターが現場を目撃した。
彼は怒鳴った、「おい、立候補に命を賭けた女だぞ。なぜ彼女への投票を数えない?われわれ若い世代は彼女に導かれたいんだ。」言い争いは激しくなり、警官が呼ばれた。幸い警察署長は訴えを認めた。警察監視の下で再集計。するとたった数箱で300票もの漏れが見つかった。不正は疑いもない。
すったもんだの挙げ句、ファウジアは8千票を獲得して当選した。さあ政治家人生の始まりだ。プライバシーは過去のものとなった。家の戸口には、陳情者の列。二人の娘を以前のように寝かしつけることもできない。やがて日に500人もやってくる事態に。スタッフを雇い、予約制にして乗り切った。
追い打ちをかけるように敵対者たちが事実無根の噂を広めた:
●ドバイのボーイフレンドが大金持ちの実業家で選挙資金を提供した。
●立候補のため夫と離婚した。死別など嘘。
●別れた夫は山岳部の村落で元気に暮らしている。
当選した女性議員は、みな不幸にもこうした風評被害にあった。それが死につながることもあるからたちが悪い。「アフガニスタンでは女性の風評や名誉は、その命を左右した。敵はそれを知っていた。」
2005年10月、33年もの抗争を経て民主議会が開かれた。議場への道は自爆テロを警戒して封鎖された。それでも大勢が道ばたで旗を振り、アッタン(attan/アフガン風盆踊りかな)を踊った。下院の定員250のうち女性議員はファウジアを含め68人。任期は5年だ。議場に入ると、元大統領や、閣僚、州知事、ムジャヒディーンの首魁までいる。
アフガン議会はやかましく、暴力的だ。「ひげの引っ張り合い」の伝統すら持つ。ここで怒りを露わに怒鳴り返しても何も達成できない。ファウジアは「互いを尊敬する雰囲気を醸し出そうと頑張った。プロとして機能し、みなと協力しようと心に決めた。」とはいえ、黙っていては公約の「男女平等」などおぼつかない。そこで大胆にも副議長に立候補した。
ファウジアの立候補は「大方の議員たちにとって、お笑いぐさに思えた。」しかし、対抗馬たちが戦争や犯罪で暴利をむさぼった大物たちだとわかると、ファウジアの勝ちたい気持ちは高揚した。さっそく敵は自宅や市内の高級レストランやホテルでパーティーを開き、議員たちを懐柔する。
そんな金のないファウジアは、投票の前夜、ようやく姉の助けを借りて「安いしなびたレストランでつつましいパーティーを催し、20人ほどの議員を集めた。」これは寒い。いや物理的に寒かった。隙間風で息も白い。レストランの責任者がブクハリ(bukhari)と呼ばれる木炭ストーブを出してくれた。
だが、今度は煙で顔が見えなくなった。しかも一酸化炭素が充満。散々であった。家に帰ると姉につぶやいた、「終わったね。」その後、明け方まで演説の原稿を書いたり破ったり。とうとう「アドリブ」に決めた。
翌日、副議長選出の日。立候補したのは11人。そのうち無名は一人であとは大物揃い。朝10時、ある候補者から使いが来た。「立候補を辞退したらしかるべき金をやる」と言う。あきれた。やがて議場が開き、演説のときが来た。最初は震えんばかりに緊張したが、8千の得票を思い出し落ち着いた。そしてこうアドリブした:
●アフガン女性の力を示すため立候補した。
●国家の利益を個人の利益に優先させるのが私の使命。
●傷ついたアフガニスタンを救うのは新しい声と新しいエネルギーだ。
●30歳だが経験は豊富。
●アフガニスタンとその文化を心から愛している。
●だから、その変革に関わりたい。良い方向への変革に。
いつものように早口でまくしたてていると、拍手がだんだん大きくなっているのに気づいた。議員たちの心を鷲づかみにしたのだ。結果、大差で副議長に選出された。たちまちファウジアはマスコミに注目され、「国民的ぽっと出ヒロイン」としてその名が知れ渡った。
続く2010年10月の選挙。このときも敵対候補の不正や贈賄がひどく、暗殺の脅しまであったが、ファウジアは5年前より得票を増やし再選された。また彼女の姉のマリヤムも当選した。無学だったがファウジアの活躍に刺激され夜学に通い、コンピューターと文学を学んだ苦労人だ。そしてクーフ村で母が武器の隠し場所を明かさなかったあの晩、ムジャヒディーンに殴られた姉がこのマリヤムである。
2005年の選挙期間中にファウジアは一度クーフ村を訪れている。4歳の時以来、初めて戻った生まれ故郷はファウジアの目にどう映ったか。引用して「お気に入りの娘」紹介のラストとする:
「最後に台所に入る勇気を振り絞った。かつて母が君臨した場所。私たちが毎晩マットレスを広げて寝た場所。はるか遠くの国や王様や女王様の話を、私やほかの子供たちに母が語った場所。宴会や御馳走が準備された場所。壁の高いところに窓があり、雨が降り、雪が降り、陽が昇り、陽が落ちるのを眺めた。窓から見えるあの景色がこの世のすべてだと、昔々の私は思っていた。」
(第18章「新しい目的」、第19章「変化への動き」、第20章「戦争で引き裂かれた国のための夢」より抜粋・翻訳)

【完】

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