By Hasht-E Subh Daily On Nov 30, 2022
ハシュテスブ・デイリー 社説

アフガニスタンの将来の政権に焦点を当てた最近の政治対話では、専門家が政治的世俗主義の必要性を強調している。1990年代に、ターリバーンやムジャヒディーンの支配を経験したことで、加えてイランやスーダンの政府という例があり、我々にはこの経験と対話を正しく評価する十分なチャンスが与えられたのだから、世俗主義はもっと前に議論されるべき問題だった。

 

長年にわたり、ムスリム同胞団(訳注:エジプト発のスンナ派イスラーム主義組織)、ヒズブ・ウト・タハリール(訳注:エルサレム発の政治組織でカリフ国家の樹立を目指す)、アルカイダ、ISIS、イラン政府、ターリバーンなどの原理主義グループは、世俗主義を曲解して、反宗教および無神論の同義語、宗教を蔑む言葉であると喧伝し、各国民に対して、世俗主義による政府を目指せば、君たちの聖域は侵され、君たちの価値観は踏みにじられると脅してきた。アフガニスタンでは、過激派グループが爆破工作というテロ手段に訴え、誰も彼らのプロパガンダに反対できなくなった。こうしてこの嘘が幅をきかせ、原理主義者の言い分として独り立ちできたのだが、それは卑劣な自爆テロに頼った成果だった。

世俗主義とは宗教に反対することではなく、宗教と政治を二つの領域に分け、それぞれの責任範囲を決めることを意味するに過ぎない。前者は自らを宗教の代表と考えるムッラー(イスラーム僧)とその集団の領域、後者は政府の領域で、こちらには誰でも参加できる。「神の副官でありカリフである」と主張したところで、誰も公的な競技場で、他より高い権利や特権を主張することはできない。それが単純な意味での世俗主義である。公的な競技場とは、全員が共有する場所を意味し、政府もその一部である。この競技場は、社会契約と全員の合意に基づいて初めて管理でき、ある個人、ある集団、ある宗教、ある階級、ある社会団体の手によって独占されると、血まみれの紛争が発生する。

世俗主義とは、公的領域がいかなる差別もなく市民の手のなかにあり、法律に従って統治されることを意味する。しかし、私的領域では、誰もが自分の信仰に従って行動するべきだ。またその法律も、市民たちが公に分け隔てなく創設へと参加した立法府によって作られ、誰も宗教への信仰を理由にこのプロセスへの参加から排除されない。

この世俗主義に基づけば、どのような共同体に属する信者たちも、自分たちの寺院、教会、学校、教育機関、報道組織を持つことができる。その点は他の市民と平等である。この考え方によれば、公的な競技場における市民の活動は、法律の枠内でのみ行われ、政府以外は強制力を行使する権利を有しない。世俗的な政府とは、宗教的な問題に対して中立的な政府を意味する。それは、いかなる宗教も強制したり禁止したりせず、信仰に関係なくすべての国民に対し平等に法律を適用する。

歴史的に見れば、世俗主義の出現は、宗教の名の下に行われる欺瞞、専制、権力追求、抑圧に抗する反応だった。権力と富への上昇手段として宗教を利用した個人や集団の手を縛るためのものだった。中世のヨーロッパでは、宗教が道具として利用され教会と政治権力が連合し、暗く血まみれの歴史の出現を経験した。またイスラム世界でも、ウマイヤ朝、アッバース朝、オスマンほかの帝国は、宗教を道具として利用し、繰り返し政治支配に乗り出した。こうした事態を防ぐ政治的世俗主義は、宗教にとっては有益で、宗教を悪用する輩にとっては有害である。

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