ハシュテ・スブ・デイリー 2022年12月10日(土) 社説

(WAJ:恐怖と不安をあおり物を売りつけたりサービスを受けさせたりするビジネスは厳しく処罰される。さらに今は旧統一教会の〝洗脳〟も処罰の対象とされつつある。しかしそれらは、「国民国家」という幻想共同体を形成・維持するうえで必須のものであるとハシュテ・スブ・デイリー社説は述べる。さもありなん、3年におよぶコロナパンデミックはその最たるものといえる。病気と闘うのでなくウイルスと闘い、恐怖で国民を縛り暴力支配してきた中国の政策も破綻を迎えている。それほど世界各国の為政者にとって難しくはあっても統治材料としては美味しい事件であったろう。しかし、大義も正義もなく暴力だけにたよる支配は民衆の側からの抵抗によって早晩破綻する運命にある。社説はそのことを力強く宣言している。)

外では国際的な競争の場で、また内では市民たちと関連し、国家はそれぞれの課題に突き進まんと様々な策を弄する。恐怖の注入もその一手だ。どの国家も生き残りを賭けて、軍事、諜報、司法、広報の各分野に大量の金を注ぎ込む。ほとんど全ての国家がその市民の心に何らかの形で恐怖を注入しようとするのだが、昨今の民主主義においては、いくばくか穏やかになされている。民主主義社会では、国家は国民のプライバシーを侵せないし、宗教上いかにつくろっても、その信仰を検閲できないのだ。

人々の心の獲得と全く相容れないターリバーンは、この恐怖の注入策を最大限に使う。人々の中に自爆犯を連続して送り込み、首をはね、死ぬまで人々を鞭打つ。これにより人々は彼らを恐れるようになり、また彼らを毛嫌いするようにもなってきた。彼らがその非人道的な策略に訴えている間、アフガニスタンイスラム共和国は、同じく権力を維持できず、領域内や世界中の強国による利益競争に巻き込まれた。だが最も重要なのは、共和国が内なる非効率と汚職のために瓦解したことだ。

ターリバーンは殺人を犯し人々の間に恐怖を広めるという野蛮な策略のおかげで勝利したと考え、そのため今日までそうした策略を続けている。しかしながら、ターリバーン1.0の崩壊に対する人々の喝采とターリバーン2.0が権力に返り咲いた時の人々の絶望は、全てがターリバーンの人気のなさを物語っている。彼らの上層部もこれについては幻想を抱かず、そのため恐怖を広めることしか彼らには統治策が残されていない。反体制派の投獄、公開絞首刑、鞭打ち、強制移住、大量殺人、そして拷問。これら全てが明らかにその戦略に基づいている。このままターリバーンを放置すれば、これがより強く広く行われると思われる。

「君主論」という本の中で、ニッコロ・マキャベリは書いている、「恐怖か愛かを選ぶ羽目になったら恐怖を選べ。人々は恐れることを止められないが、愛することは止められる。」これは実用的な一助言だ。ターリバーンは他のやり方では人々の心を獲得できないと知り、支配策として恐怖にしがみつく。

ターリバーンに自らの行動を変えよと励まし助言する人々もいるし、彼らの宗教的理想主義に異を唱える人々もいる。彼らに外交的圧力をかける者もいれば、彼らを変える一縷の望みを財政的な援助に託す者もいる。しかしこうした策はどれも、これまでうまく行っていない。ターリバーンは脅してもすかしても無駄。時間はかかるだろうが、人々が自らの手でこの蛮行を止めさせたときに初めて、未来は違ったものとなる。

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