Hekmatyar’s Sermons Banned by Fundamentalists
By Hasht-E-Subh Daily On Feb 6, 2023
ハシュテ・スブ・デイリー 2023年2月6日
(WAJ: ヘクマティヤールといえば、1992年以降のムジャヒディーンの内戦でカーブル市内におびただしい数のミサイルと打ち込み、市街を破壊したロケットマンとして有名。反対派への仮借のない武力攻撃をつづけ、第1次ターリバーン政権登場の要因ともなった。昨年12月にはカーブルの自派のオフィスが自動車爆弾攻撃を受けかろうじて本人は逃げおおせたが、一時期融和していたターリバーンとの関係も再び険しいものとなっている。この記事で「盲目的なイデオロギー的偏見」の危険性が指摘されていることに注目すべきである。)
グルブッディン・ヘクマティヤール(Gulbuddin Hekmatyar/1949~)は、過去50年間、一貫して支配体制に反対することで自らを定義し、論争の的となってきた政治家である。彼は、王政からダーウード・カーン共和国(訳注:1973年~1978年)、人民民主党の共産主義政権(訳注:1978年~1992年)、ムジャヒディーンのイスラム国(訳注:1992年~1996年)、カルザイとガニーのイスラム共和国(訳注:2002年~2021年)、ターリバーンのイスラム首長国(訳注:1996年、2021年~)まで、あらゆる政権に、その違いはあっても反対してきた。政治家としてのキャリアはイスラム青年運動(訳注:1969年、王政に反対しカーブル大学の若い教授や学生を中心に組織された革命組織。機械工学部の学生だったヘクマティヤールはその政治部長となったが、1975年に消滅しパキスタンに逃れた)から始まり、常に支配体制と対立する側にいることを選択してきた。
ヘクマティヤール氏は、アフガニスタンの複雑で矛盾した政治の一例であり、わが国の支配体制に対する彼の反対は、平和的であると同時に暴力的でもあった。彼は和平を結びカーブルに入るまで、何年もムジャヒディーンのイスラム国と戦った。同様に、和平を結びカーブルに入るまで、(訳注:2021年以前の)旧共和国とも何年も戦ってきた。しかし、彼は誰とも、平和においても戦争においても、完全に統一を約束することはなかった。過激な思想を共有するジャミアテ・イスラミ(Jamiat–e–Islami/訳注:ブルハヌッディン・ラッバーニ教授が創設したイスラム主義グループでアフマド・シャー・マスードなどが所属していた)とは合意に達することができず、また、民族的なつながりはあってもターリバーンとは決して協力しなかった。唯一の同盟は、元共産国防相のシャフナワーズ・タナイ(訳注:モハンマド・ナジブラー大統領下の国防相。1990年3月、ヘクマティヤールと結んでクーデタを試みたが失敗、パキスタンに逃亡)である。
ヘクマティヤールや彼のような人々には、自らの過ちを反省し、その結果を理解し、是正するための手段を講じることができる成熟度が欠けている。それどころか、過去50年間の政治活動が現在の状況を招いたにもかかわらず、彼らは未熟なままでいることを選び、決して自分の過ちを認めない。責任をとることを拒否し、他人のせいにする習慣が、過ちを認めず、修正する手段を持たないという文化を定着させている。
政治勢力が成熟し理性的であれば、過去50年間の政治的激動から、より良い未来を創造するために学ぶべき多くの教訓があったはずである。ヘクマティヤールや彼のような人々が学ばなかった教訓のひとつは、民主主義は、たとえそれが脆弱で始まったばかりだとしても、憲法によって境界が定められているため、相違や矛盾があっても平和的に活動できる舞台であるということである。民主主義が独裁に取って代わられると、それは他の選択の余地なきことだが、支配体制以外のすべての人が抑圧されることになる。今、ターリバーンが毒のあるプロパガンダと原理主義的な集団を使って若い民主主義を打倒したため、社会の自由主義的、世俗的な勢力が排除されただけでなく、原理主義者(パンジピリ、スーフィー、サラフィー、タヒリ)さえ活動できなくなり、ヘクマティヤールも自由に説教できなくなったのである。知恵が単なる言葉であり、合理性が空疎なスローガンに過ぎず、盲目的なイデオロギー的偏見がいたるところに存在するとき、結果として独裁政権のもとで憎悪と抑圧の連鎖が続くことになるのである。