Absence of Literature and Art in Afghanistan
By Hasht-E-Subh Daily On Mar 28, 2023
ハシュテ・スブ・デイリー 2023年3月28日
(WAJ: 本サイトでは、ソマイア・ラミシュさんが立ち上げた亡命詩人の家・バームダードの活動を取り上げ、日本からも多数の賛同者がその呼びかけに応えた。しかし、アフガニスタンにおいて現状の変革をもとめる論者からみれば、まだまだ不十分なもののようである。ここで論じられている文学や芸術のあり方は、歴史的地域的にも普遍的な課題であろう。とくに革命や社会変革の課題が喫緊であるアジアやアフリカやラテンアメリカでは文学や芸術も変革へのかかわりを抜きに語ることはできない。かなり屈折した文章であるが、筆者が強調したいことはそのことであろう。なお、アフガンの抵抗の文学の一端は、本サイトでは「書籍/批評/提言」のコーナーや「亡命アフガン女性の詩について」などで知ることができる。)
政治家、軍人、実業家、市民運動家などの役割はよく議論され、その成功と失敗が綿密に検証される。彼らの過ち、沈黙、裏切りが批判され、一方、彼らのイニシアチブ、慎重さ、勇気が賞賛される。危機を招いた彼らの影響と、危機への彼らの対応も評価および批判される。しかし芸術家はどうだ。この危機の時代において、文学や芸術がかつてないほど必要とされているにもかかわらず、わが国の詩人、作家、芸術家はほとんど沈黙し、功績を残せていない。ペンをもって闘う側に立ち、命までも犠牲にした詩人もいたが、彼らがもっぱら執心したのは芸術と文学の不滅の作品を生み出すことではなく、政治的マニフェストや説教がましい物語を書くことであったがために、人気を得られず短命に終わった。また、大きな一歩を踏み出してしまったことから、成熟を待たず抹殺された者もいれば、あるいは知的な行き詰まりを感じて孤立を選んだ者もいた。
技術的に精進するのも重要だが、政治や社会から距離を置き、小さな文壇に引きこもり、自らを孤立させ、花や小鳥を詠んだりでは、時代を反映した作品を生み出すことなどできない。その結果、文学や詩は、社会からその功罪を評価も批判もされない。だからこの20年間に詩人や作家が何をしたのか、誰も問い返すことはない。芸術家や作家の世界で誰が破壊的な役割を果たし、誰が好影響を及ぼしたかという話は、小さな文学や詩の集まりでしか、あるいは詩人や作家の社会的責任を自覚している政治家の間でしか、聞くことができないだろう。怠惰、利己主義、無知、あるいは差別的な行動によって機会を逸していると名指しで批判され非難される政治家とは異なり、詩人や芸術家が近年どれだけの文化的、社会的責任を果たしたかを、また小説家が苦しみや後進性を明かし、闇のベールをはがして社会を照らすために何をしたかを問われることはない。
詩人や作家は単なるエンターテイナーで、大衆や政治家に媚び、仲間内で賛辞しあい、文学・詩歌で食べている連中であると見なし、身から染み出る熱い欲情のために心地よい韻を踏み物語を奏でるばかりで、より大きな芸術的・文学的意図など微塵もないと見なす人もいる。
ターリバーンの復活によって政治の持つ役割は大きく減らされ、文学と芸術が表に出る絶好の機会が生まれた。アフガニスタンの文学と芸術の沈黙と疎外は終わりを告げ、詩人、語り部、作家、芸術家が立ち上がり、私たちの国の闘いと回復力に今後命を吹き込むのか。社会変革の面で多くのことを成し遂げた他国を見るにつけ、私たちの文学や芸術の現状は残念なものに思える。文学や芸術の欠如は社会の後進性のせいだと言う人もいるが、まさにこの国は過去の後進性にも関わらず偉大な芸術家や詩人を輩出してきた。傑作とは危機の時代に生まれるものだ。この20数年、識字率は比較的向上し、教育、スポーツ、貿易・商業、メディア、交通サービスなどの分野では進歩が見られるようになった。しかし、文学や芸術は依然として不在だ。近い将来、この不在に終止符は打たれるのか。
【原文(英語)は下記をクリック】