How Did the Illiterate Mullah from Kandahar Suddenly Become “Amir Al-Momineen”?
(原題)カンダハルの文盲のムッラーが、なぜ突然「アミール・アル=ムウミニーン」になれたのか?(訳注:アミール・アル=ムウミニーン:イスラーム世界で用いられる称号。君主の意味も持つ。「ムスレム(イスラム教徒)の指導者または指揮者」という意味のアラビア語)。「オマル」は「ウマル」とも表記されます。)
By: Yosufi
By Hasht-E Subh Last updated May 16, 2023
ヨスフ
ハシュテ・スブ・デイリー 2023年5月16日
(WAJ: ターリバーンの創設者とその決起をめぐるストーリーは最近の著書では本サイトでも紹介した『破綻の戦略』(髙橋博史著、白水社)の第4章「ムッラー・ウマルと七人のサムライ伝説」にも興味深い記述があるが、本原稿では、アフガン人の視点からなぜアフガン人がそのような伝説を信じ込み、あるいは信じ込まされたのかを詳細かつ説得的に分析しているところに価値がある。必読の記事である)
ターリバーンの創始者であるムッラー・ムハンマド・オマル(Mullah Muhammad Omar)は、この集団を創設する前は、カンダハルのある僻地で子供たちを教えていた無学で無知なムッラー(訳注:聖職者)であった。しかも、カリスマ的な個性を持つわけでもなく、知識や雄弁な表現の恩恵を受けたわけでもなく、生涯で大きな勝利を収めたわけでもない。
一時期、対ソ戦に参加し、負傷して片目を失ったと言われている彼を、筋金入りのオマル信者は、傷つき出血した眼球を頭骨から引き抜いて捨てたほど勇敢だったと言う。赤軍と戦ったストーリーは、彼の支持者たちの創作だろう。本題は、そんな人物が、どうして突然アフガニスタンの権力の中心「アミール・アル=ムウミニーン」になりえたのか、を明らかにすることである。
ターリバーン集団内にいるムッラー・オマルの仲間たちは、彼が指導者になったのは神のおかげだとしている。最近、ターリバーンが開催したムッラー・オマルの命日の集会では、ターリバーンの高官たちがスピーチの中でムッラー・オマルの博識ぶりを語った。ターリバーンの国防大臣ムッラー・ヤクーブ・ムジャヒド(Mullah Yaqub Mujahid)(訳注: オマルの息子。1990年生まれ)は、自分の父親について話すうちに、彼は神に選ばれて指導者になったのだと言った。また、1000人以上のムッラーがムッラー・オマルに忠誠を誓ったとき、カンダハルのにわとりがその出来事を歓迎する歌を歌ったと話す者もいた。ターリバーンの中にはこのような話がたくさんある。部外者の私たちはメディアを通じてそのごく一部にしかアクセスできない。
このような物語は、ムッラー・オマルの死後にできたものではなく、彼の生前も、彼の信奉者の間で同様の話が共有されていた。アフガニスタンの北部で早く(訳注:1997年)に殺されたターリバーン司令官の一人であるムッラー・エサヌラ・エサン(Mullah Ehsanullah Ehsan)は、ターリバーンの指導者を「アミール・アル=ムウミニーン」と呼んだ最初の人物と言われており、その後この称号が一般的になった。
アフガニスタンに来たパキスタンのムッラーの代表団との会話で、ムッラー・エサヌラは、ターリバーンの出現には、一部の宗教的弟子たちが夢見たインスピレーションがあったと、次のように主張した。
「シェイク・ムハンマド・イブラヒム・ムジャディディ(Sheikh Muhammad Ibrahim Mujjadidi)はカーブルの有名なモスクの所有者でしたが、共産主義支配の初期に逮捕され殺されました。その跡継ぎのひとりが、こんな夢を見ました。イスラームがラッバーニ、マスード、ヘクマティヤールにやってきて、守り保護してくれと頼みました。でも3人は皆、詫びながらそれを断ったのです。その後、同じように美しい顔をしたイスラームが、ある宗教学校の生徒のところへ行き、支援を求めました。その学生は自分の首を差し出して、イスラームのために犠牲になる覚悟があると言いました。イスラームは彼の犠牲を必要とすると言いました。この良い知らせが、テフリーク・エ・ターリバーン(訳注:ターリバーン運動)の結成につながったのです。」(原注:『ムッラーの夢から信者の首長国へ』Mawlawi Hafizullah Haqqani, p. 102).
90年代のターリバーン集団の発足と拡大の詳細、そして2021年8月の復帰の物語は、しばしば曖昧さと複雑さを伴っている。この集団の研究に多くの書籍が費やされているにもかかわらず、まだ知られていない現実がある。多くの物語やハディース(訳注:イスラームの預言者ムハンマドの言行録。神の言葉であるコラーンと対になるイスラム教の聖典。ここではオマルの言行録)が存在し、そのひとつが、ムッラー・オマルが指導者となりアミール・アル=ムウミニーンとなった事件である。
アルジャジーラ・カタールTVの記者であるアフマド・ファルディンは、ターリバーン集団とその創設者について「ハジャー・アル=アルゼ」という本を書き、ターリバーンの勝利の後に出版した。この本の著者はターリバーンの支持者であるため、著書全体を通して、ターリバーンの公式シナリオに反する言葉は上げていない。しかし、ムッラー・オマルがアミール・アル=ムウミニーンになったという話に光を当てるために、上記書籍からこんな物語を引用しよう。
1996年3月末、ターリバーンがカンダハルとその周辺地域を占領した後、テフリーク・エ・ターリバーン(ターリバーン運動)は1200人のムッラーをカンダハルに招待した。アフガニスタンの将来を決めるために、長いヒゲとターバンをつけた男たちが各地からカンダハルに集まってきた。このムッラーの運営する大会議(訳注:アフガニスタンの伝統的な合議システム。部族長やムッラー、軍長などが集いジルガと呼ばれる)では、いくつかの疑問に答えなければならなかった。つまり、次のような問いだった。
「カーブルで権力を握っているブルハヌディン・ラッバーニ(Burhanuddin Rabbani)の政府に対してジハードを宣言することは合法か? 誰がこのファトワー(訳注:イスラム教においてイスラム法学に基づいて発令される勧告、布告、見解、裁断のこと)を発するべきか? 女性の教育や仕事について、イスラームの立場からどのように判断するのか?」
ジルガは延々と議論に明け暮れたが、1,200人のムッラーが納得する結論に達することはできなかった。
ところが、ムッラー・オマルは、ジルガのムッラーたちをどのように説得するか、どんな道具を使えばひとつの公約のもとに統一できるかを考えていた。彼は気づいた。ジルガの会場から数キロ離れたところに、黄金の箱に入った法衣風のマントがあり、それを使えば目的を達成できるのではないか、と。
その「ムバラク・ケルカ」(マント)の守護者と交渉した結果、ムッラー・オマルは巡礼地に入り、マントを手にすることに成功した。マントの存在を知っているシャー・ワリ(Shah Wali)は、ニューヨーク・タイムズ紙にこう語っている。「ムッラー・オマルは巡礼地に入り、マントを見つめていました。彼は震えていました。祈ろうとしたとき、彼はキブラ(訳注:ムスレムが祈るときの方向、つまりメッカにあるカアバ神殿の方向)を間違えました。わたしがオマルの顔をメッカの方に向けたのです。」
参考記事(日系カナダ人の大西哲光NYT記者による)
https://www.nytimes.com/2001/12/19/international/asia/a-tale-of-the-mullah-and-muhammads-amazing-cloak.html
ムッラー・オマルはマントを手に取り、「サダイ・シャリアット」ラジオ放送を通じて人々に神の預言者のマントを見に来るよう呼びかけた。人々は様々な都市からそのマントを見に来た。この衣はイスラムの預言者のもので、ブハラ(訳注:現在のウズベキスタンにある都市で、当時はブハラ・ハン国の首都)の首長からアフマド・シャー・ドゥッラーニー(Ahmad Shah Durrani)(訳注:ドゥッラーニー朝の初代シャー。在位は1747年~1772年)に贈られたと信じられていた。以後250年以上もの間、この衣が箱から出されたのは3回だけだ。一度目はアマヌラ・ハーン(Amanullah Khan)(訳注:1919年に英国に対し第3次アフガン戦争を仕掛け、独立を承認させた国王)が部族に戦争の準備をさせようとしたとき、二度目は1939年にカンダハールでコレラが発生したとき、そして三度目は1996年にムッラー・オマルの手にかかったときである。
1996年4月4日の朝、建物(訳注:NYTの記事によると、カンダハル市中心部にある古いモスク)の屋上にムッラー・オマルが現れた。ジルガに参加するムッラーたち全員が彼を見つめた。彼は神の預言者の衣に身を包みながら演説をし、さらにその衣を持ち上げ、皆に見せびらかした。あちこちから悲鳴が上がり、出席者たちは泣き出した。居合わせた者の中には、ターバンや帽子を掲げて、自分の服を神の預言者の服で祝福してもらおうとするものまで出現した。この集会に参加した人々は、ムッラー・オマルの尊称を声高に唱えた。「アミール・アル=ムウミニーン! アミール・アル=ムウミニーン!」と。その日から、ムッラー・オマルは「アミール・アル=ムウミニーン」と呼ばれるようになった。それまでは、ムッラー・オマルの親族のうち幾人かだけが「アミール・アル=ムウミニーン」と呼んでいた。しかし、この集会で大勢の人が神の使いの衣を着た彼を「アミール・アル=ムウミニーン」と唱えたことで、正式にアミール・アル=ムウミニーンとなったのだ。
ムッラー・オマルの突然の出現は、多くの要因によるものである。確かに、ムッラー・オマルの台頭には外国や諜報機関の要因も効果的な役割を果たした。だが、それ以外の要因も見逃すことはできない。つまり彼がターリバーンの指導者であった20年間、こうした伝説の助けを借りて頭を悩ますこともなく組織を管理できたのだ。2001年以降、ムッラー・オマルは秘密の生活期に入り、外部の出来事から切り離され、状況をあまりコントロールできなかったと言われている。しかし、彼が人生の最後の瞬間までターリバーンの精神的指導者として知られていたのは確かで、誰も彼の命令に背くことができなかったのである。
約30年前にターリバーンを表舞台に登場させた戦略家たちは、アフガニスタン社会を明確に理解していた。彼らは、この国の住民が、無知無学で、文化的貧困、批判的思考の欠如、宗教の名の下に広がる迷信に縛られ、容易に形而上学的伝説の餌食になり、まがい物の舞台セットを本物だと信じることに気づいていた。彼らは、アフガン国民が宗教的なスローガンやオカルト的なおとぎ話によって操られることを知っていたのだ。
歴史的記述によれば、部族の長たちがアフマド・シャー・ドゥッラーニーを王に任命したとき、その儀式は完全に霊的、宗教的な雰囲気の中で取り行われたという。タリーカ(訳注:イスラム教の流れのひとつであるスーフィー=神秘主義教団)の中でも当時有名だった信者の一人であったサバーシャ・カブリ(Sabershah Kabuli)という人物が、アフマド・シャーの手に麦の茎を取り付け、そのような雰囲気の中でドゥッラーニーは王となった。ムッラーたちがターリバーンへの忠誠を誓った1996年の春の日々に、ターリバーンの脚本家たちは、アフマド・シャー・アブダリ(訳注:ドゥッラーニーの元の名前。王朝を創設し初代シャーに即位するにあたりアブダーリー部族連合の名前を「真珠の時代」を意味する「ドゥッラーニー」に変えた)の物語を剽窃し、おそらくそれに従ったと思われる。
参考サイト:スーフィーとタリーカ
https://www.global.asafas.kyoto-u.ac.jp/tonaga/su11.html
ターリバーンが勝利を収めた今、彼らは集団のメンバー外の人々を強制して、宗教と世界についての彼らのシナリオを受け入れさせる必要がある。彼らは、物語をつむぎ、形而上学的なシナリオの創作が、大衆を服従させるための近道のひとつであると信じている。ターリバーンがムッラー・オマルの精神的地位を強調することは、ターリバーンが自分たちのシナリオを強固にするためにムッラー・オマルをまだ必要としていることを示している。アフガニスタンの普通の人々は、善悪の区別がつかず、様々なシナリオに対して批判的にアプローチできない。したがって、このようなシナリオが大衆にアピールするためにつくられ、人々の思考を容易に支配できてしまう。
ムッラー・オマルはミステリアスでよそよそしく、人目を嫌う人物で、集会に姿を見せることはほとんどなかった。写真や動画の撮影は禁じられていると考えたので、彼の姿を捉えた写真は生涯で1枚しか残されていない。このような謎めいた人物であったため、信者の間で噂や伝説が広まり、聖なる人物となったのだ。ターリバーンの現最高指導者であるムッラー・ハイバトゥラー・アクンザダ(Mullah Hibatullah Akhundzada)もまた、メディアによって自分のイメージが広まることを恐れ、ムッラー・オマルに倣うことでその人格に神聖さと多重性のオーラをまとわせようとしている。
ムッラー・ハイバトゥラーがメディアに登場しないのは、安全上の懸念もある。近づきがたいリーダーの利点は、子分たちに向けてその威信と偉大さがいや増すことだとターリバーンは考えている。特に、その率いる組織が、個人主導型で、すべての資格と権力が一人の手に集中している場合はなおさらだ。そのような組織は、分解しないために、強力なリーダーを必要としている。
社会の改革や改善に関心を持ち、国を発展と進化の軌道に乗せる低コストな近道を模索する専門家は多い。彼らが過激主義や暴力への正しい対処法として、時に提案するのは、スーフィズム(訳注:イスラム教の神秘主義哲学)的な思考や発想への着眼だ。
それは一見受け入れられそうだが、ターリバーンのケースを検証するとそうでもない。ターリバーン勢力の大部分がスーフィー朝(訳注:14世紀にアフガニスタンを含む中央アジアを支配した王朝)やタリーカのカリフ(訳注:預言者ムハンマド亡き後のイスラーム共同体、イスラーム国家の指導者、最高権威者の称号)たちに傾倒しており、彼らの暴力や過激主義がそれによって減少することはあった。だが、この集団は暴力という点ではもともと他者を凌駕しているのだ。おそらく、暴力の拡散においてターリバーンと競合した唯一の集団は、イスラム国ホラーサーン(ISS-K)である。この点から、スーフィーの思想といえどもアフガニスタンの蜃気楼の中では有益な結果を生まないと主張しうる。この後進的な土地は、どんな思想にも影響されやすく、すぐに破壊と汚染へとつながってしまう。
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How Did the Illiterate Mullah from Kandahar Suddenly Become “Amir Al-Momineen”?