Japan’s Foreign Policy Towards Afghanistan
By: Ali Asghar Amiri
By Hasht-E Subh On May 19, 2023
アリ・アスガール・アミリ
ハシュテ・スブ 2023年5月19日
(WAJ: 本主張はアフガン国民の日本に対する一般的な評価を示している。中村哲医師の偉業はアフガン国民にとって尊敬の的であるだけでなく現ターリバーン政権でさえ評価の姿勢を示さざるをえない。岡田駐アフガン大使はターリバーン幹部と何度も会見を重ね(※1、※2)日本の立場を表明している。しかし、アフガン国民の相当多数が、国連や有力な諸国がターリバーンの人権を無視した行動に毅然とした措置をとらないことに不満を表明している(本サイトの一連の「アフガンの声」参照)。ターリバーンが国際的に約束した公約としては米国とのドーハ合意がある。これはアフガニスタンの旧共和国政府が参加していなかったとはいえ、米英NATO軍がアフガニスタンを撤退するに際してターリバーンが表明したアメリカもターリバーンも遵守する義務のある国際公約である。その重要な柱は、全アフガン人を包摂する政府の創設であり、人権の尊重であり、共和国・ターリバーン双方による恩赦などである。アフガニスタンの相当多数の人々がその実施をもとめている。中ロなど親ターリバーン諸国も含めた国際社会はそうしたアフガニスタンの人々、特に女性の切実な要求が実現されるよう努力する義務があるのではないだろうか。本主張はそのことを要求している。)
林芳正外務大臣が2023年4月18日の7カ国協議(訳注:G7長野県軽井沢外相会合(「アフガニスタン・中央アジア」セッション、c.f. 下記参考サイト))ターリバーンとの関わりについて発言したことは、日本がアフガニスタンでどのようなアプローチをとるべきかという問いを提起した。この問いに答えるためには、まず第二次世界大戦後の日本の外交政策の一般的なアプローチを理解し、次に2001年以降のアフガニスタンと日本の二国間関係を見直し、現在の日本の対アフガン政策のアプローチとその結果を理解することが必要である。
参考サイト
https://www.mofa.go.jp/mofaj/ms/g7hs_s/page1_001603.html
第二次世界大戦後の日本の外交政策
第二次世界大戦後、日本の外交政策は戦後憲法の影響を受けた。つまり憲法9条により日本はいかなる軍事活動にも参加できず、またその同じ条項によって、海外においても自衛権以外の軍事活動は許されない。そこで、日本は当初から人道的外交と開発協力の原則に基づいて対外政策を策定し、発展途上国への最大の援助国となった。
このような対外政策により、日本はアジア太平洋地域の経済発展への貢献度を向上させ、同地域における国家安全保障を強固にすることができた。ただし、日本の対外政策の最も重要な源泉である憲法は、ほとんどの場合、日本に制約を課してきた。そのため、日本の自由民主党は、今は亡き安倍晋三前首相の主導で憲法第9条の改正を模索してきた。日本の外交政策を決める外的要因は、条約、国際公約、米国や欧米諸国との同盟関係、国際情勢や地域情勢に依拠している。国際情勢や地域情勢を鑑みると、日本の平和志向の外交政策は最近変化し、地域や世界においてより大きく、より効果的な役割を求めている。
現在の日本の首相である岸田文雄は、安倍晋三の政策を踏襲し、この地域でより積極的な役割を果たすことを欲している。彼はこの地域に共通の軸を作るために韓国との紛争を解決した上で、中国の支配と北朝鮮の脅威に対処しようとしている。さらに、ウクライナ問題でも引き続き欧米諸国と結束し、足並みを揃えている。総じて、日本の対外政策は、人道的外交という不変の原則のもと、国際情勢と絡み合っている。
2001年以降のアフガニスタン・イスラム共和国政府に対する日本の協力について
日本とアフガニスタンの歴史的背後関係は1931年まで遡るが(訳注:1931年7月に日本アフガニスタン修好条約が公布された)、本稿では2001年のボン会議以降の両国の関係のみを取り上げる。
9.11事件後、日本はいち早く国際反テロ連合に参加し、米国のアフガニスタンでのテロとの戦いにおいて連合軍に後方支援施設を提供し、同時に他の分野でも積極的かつ効果的な役割を果たした。2001年のターリバーン政権崩壊を受けて、日本は2002年にアフガニスタンへの国際援助を呼び込むための東京会議を開催し、アフガニスタンへの国際援助の主導権を握った。この20年間、日本はアフガニスタンと非常に友好的な関係を築き、アフガニスタンへの第2位の援助国とみなされ、2012年にはアフガニスタンへの国際援助誘致会議(訳注:アフガニスタンに関する東京会合、c.f. 下記参考サイト)が再び開催された。
参考サイト:(2002年、2003年)
2002年1月、アフガニスタン復興支援国際会議(東京)概要
https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2002/gaikou/html/honpen/chap01_02_04.html
同上、概要と評価
https://www.gender.go.jp/kaigi/kento/afgan/siryo/pdf/af01-1.pdf
2003年2月2、アフガニスタン「平和の定着」東京会議(議長総括)
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/afghanistan/ht_gsokatu.html
参考サイト:東京会議(2002年)
https://www.gender.go.jp/public/kyodosankaku/2012/201209/201209_03.html
東京会合(2012年)
https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shiryo/hakusyo/12_hakusho_pdf/pdfs/12_k05.pdf
2002年にカーブルと東京で両国の大使館が再開された。日本の積極的なプレゼンスは、アフガニスタンにおける米国主導の多国籍軍の駐留を伴っていたため、米国の政策に従ったものと考える人も多かった。過去20年間、日本はアフガニスタンに90億ドル以上の援助を約束し、そのうち70億ドル以上が実際に使われた。日本のアフガニスタン援助は、国際社会の中でも最も効果的な援助であった。アフガニスタンの経済的自立の原則を重視し、アフガン国民に力を与えることが自立につながると考えたのだ。国際協力機構(JICA)の元理事長である緒方貞子(訳注:理事長在任は2003年~2012年)は、いつもこの言葉を使っていた。”魚を与えるのではなく、魚の育て方を教えるべきである”。
2009年、民主党政権になった日本は、多国籍軍への後方支援を日本国憲法に反すると考え、廃止した。その代わり、アフガニスタンに50億ドルの経済援助を約束した。また、2010年にカーブル銀行が破綻するまでは、日本は様々な分野で大きな関心をもって援助を続け、日本の会社員や技術者がアフガニスタンに実際滞在していた。しかし、カーブル銀行の破綻やアフガン政府における汚職の蔓延を受け、日本の意欲は低下し、JICA本部での会議では、汚職に対抗しようとしないアフガン政府を公然と批判した。
にもかかわらず、日本のプロジェクトはアフガニスタンで継続され、特に農業分野では、中村哲の開発モデルがにわかに日本政府に注目されるようになった。政治的・経済的利益の観点から、日本はアフガニスタンでこれと言った見返りを得ておらず、将来的に日本が儲かるような特定の資源を狙って援助したわけではない。したがって、アフガニスタンと日本との関係は、アフガニスタンの国際的な役割や地位との関連で検討されるべきであると言える。
ターリバーン政権下のアフガニスタンにおける日本のプレゼンス
共和国政府の崩壊後、日本はカーブルの大使館を閉鎖した国の一つで、大使館員やJICAをカーブルから撤退させた。大使館やJICAの職員、アフガン人の学生数名を日本に移送するために、日本の軍用機をカーブル空港に派遣した。しかし、2021年8月26日にカーブル空港で爆破テロが発生した後、日本の航空機はアフガン人を一人も乗せることなくカーブル空港を離れた。カーブルの日本大使館はカタールに移管され、アフガニスタンからの日本人の移送手続きもカタール政府が完遂した。
日本は政権崩壊後に初めてカタールのターリバーン事務所と交渉し、大使館員の避難について話し合った。その後、交渉の中心課題は援助の送付や国民への分配方法へと移り、ターリバーンの課す各種制限の撤廃なども話し合われたが、その後2022年10月にカーブルの日本大使館が再開された。日本はターリバーンと公式会談を続けながら、一度も日本とアフガニスタンの相互関係については踏み込んでおらず、これらの会談のほとんどは、アフガン国民を引き続き支援し、この国の今日までの人道的危機に対処することばかりに目を向けてきた。この観点からターリバーン支配下のアフガニスタンと日本の関係を評価すると、日本の最大の関心事は、もっぱらアフガニスタンの人道危機を防ぐことだと分かる。
日本外務省は次々と声明を出しては現状に懸念を示し、日本がアフガニスタンに大使館を開く理由は同国の人道的危機に対処するためであると強調してきた。また、アフガン女性の権利に関する最近の国連安全保障理事会(UNSC)決議の起草にも日本は役割を果たした(訳注:本サイト、https://afghan.caravan.net/2023/05/14/lacks_of_un_resolution/ 参照)。日本での7カ国協議では、林外相がアフガニスタンの人権状況の悪化に深刻な懸念を表明し、女性に対する制限の急増など、最近のターリバーンの決定を強く非難した。また、日本がカーブルの大使館を通じてアフガニスタンに関与する理由は、国民の不利な状況や人道的危機に対処するためだと強調し、アフガニスタン国内における国際社会同士のヨコの協力の必要性を強調した。さらに林外相は、アフガン国民を支援し続けるためには、ターリバーンとの関係構築も辞さないとまで強調した。
アフガニスタンを欧米連合国と提携させる日本の国際的役割
前述のように、日本の対外政策は欧米諸国の政策と一致しており、日本のアフガニスタンでのプレゼンスは欧米諸国と調和していることは間違いない。欧米諸国もターリバーンと交流する道を開き、ターリバーンと何度も公式な話を交わすようになった今、日本のそうしたアプローチは国際的に注目されている。
この提携を強めるには、2つのアプローチがある。ひとつは欧米人の考え。ターリバーンはイスラム国ホーラーサン(ISS-K)の敵であり、ターリバーンを強化することがその成長を防ぐことになるというアプローチ。もうひとつは、ターリバーンは穏健派と極端派の2つの派閥から構成されている点に着目したアプローチだ。欧米諸国はターリバーンの穏健派とは交流するべきだと信じている。そうすればアフガン女性に対するターリバーンの立場が変わり、アフガニスタンが再びテロ集団の拠点となることを防げるから。とにかく、日本はその役割と国際的な立場を考慮しつつ、欧米諸国と同様アフガニスタンに出向いているのだ。
ターリバーン支配下のアフガニスタンに日本のプレゼンスが与えた結果
現在の日本とアフガニスタンの関係は、国対国の対等性を重んじるものではなく、むしろ日本から見て博愛と人道に根ざした関係である。アフガニスタンにおいて国際機関の活動停止が問題がとなった後、在カーブル日本大使は「国際機関、特に国連の不在はアフガニスタンの人道的危機を深めることになる」と警告した。ターリバーンは、日本がアフガニスタンに大使館を開き関与することで利益を得ている。つまり、広く人権侵害を行ったターリバーンは国民からは正当性を認められていない。そんな状況下でも、日本のような強国がアフガニスタンに大使館を開いた。これはとうてい正当化されないし、こんなことではターリバーンに考え直しを迫り、状況を変えることなどおぼつかない。
アフガニスタンにおける人権、包括的な政府の形成、少数民族の権利への配慮、民族や文化の多様性に対して、ターリバーンがその見解を覆すことはこれまで一度も無かった。日本は、しようと思えばアフガン国民への人道支援を低レベルで、あるいは第三国や国際機関に迂回させつつ継続することができる。ターリバーンがアフガン国民の総意に従わない今、日本などの存在はターリバーンにもっと世界に抗えと意図せずけしかけることになる。日本や他のいかなる国も理解する必要がある。アフガニスタンがすべてのアフガン人の共通の故郷であり、この集団が繁栄すれば、アフガン人の幸せなど消し飛んでしまうことを。
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