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==========<金子 明>==========(2023年6月25日)

アブドル・サラム・ザイーフの自伝「ターリバーンと共にある私の人生」(My Life with the Taliban/Abdul Salam Zaeef/2010) を紹介する第13弾。今回はその第10章「資源と産業」から抜粋・翻訳する。

副防衛相という要職を自ら投げ出し、カーブルの自宅に隠遁して3か月が過ぎたころ、ターリバーンのナンバー2、モハマド・ラッバーニが訪ねて来た。しつこく復職を迫られたが、「不本意な職務を押しつけられ疲れた」と固く断った。すると数日後に、またやって来た。今度は「カンダハールに行き、アミール・アル=ムーミニーンに会いなさい」と言う。「同意しなければ、無理矢理にでも連れて行くぞ」と脅され、しぶしぶ翌日、アリアナ便でカンダハールに飛んだ。

空港から直に知事公館の裏手にあるムッラー・オマルの事務所へ。数人のボディーガードに守られたボスと対面した。「復職せねば投獄するぞ」と脅されたが、「お気に召すままに」と返答すると驚き、続いて「復職すればこの40万パキスタンルピーの証文をやろう」と迫る。それも拒絶すると、「カーブルに帰れ」と告げられ、話し合いは物別れに終わった。

※脚注「40万パキスタンルピー:当時としては極端な大金。3〜4の寝室がある家か、最高の車を2台は買えるほどの金額。」

カーブルに戻って2日後、ザイーフはラジオで布告を聞き、自らが「資源産業省の副大臣に任命された」ことを知った。ムッラー・オマルによる実力行使。どこまでも例の「サンジサールの誓い」は効力を持つらしい。ただし、本人も「すぐに新しいポジションに慣れ、省での仕事を楽しむようになった」とのこと。アッケラカンと言うか、ボスの部下を見る目の鋭さと言うか。

さて、今度は国の屋台骨たる経済の発展を司る仕事である。最大の問題は「州知事たちとカーブルにある省の軋轢」だった。当時「ターリバーンが90%の国土を押さえてはいたが、統治に関しては中央と地方が覇を競っていた。この状態は2001年にターリバーンが失墜するまで続いた。」

化学工場、水力発電所、天然ガス、石油、石炭、セメント、大理石、貴石、塩、その他重工業は北部州に集中し、様々なムジャヒディーン司令官が分け持っていた。しかも長引く内戦によって施設は損傷し、その機能は低下していた。そこでザイーフがまず手をつけたのが、情報収集。その結果の一部は:

●マザーリシャリフのクドゥバルク工場(水力発電と肥料生産)は80%減産。理由は修理をせずメンテ不足のためで、管理する司令官は自らが潤えばそれでいいとのスタンスだった。その結果、18MWあった発電量は6MWに。4000袋の肥料生産は700袋にまで落ち込んだ。

●サーレポルの油田は枯渇寸前。毎夜べつべつの司令官がやって来ては、ありったけの石油を無計画に汲み上げたため。その他、北部の油田地帯では数百の油井が勝手気ままに掘削され大きな損害を出した。「地震で損傷し朽ちるがまま」の油田もあった。特にサーレポルではドスタム配下の司令官たちが、高圧をかけて吸い上げた結果、水がシャフトに染みこんで、ザイーフが実地調査をした際も頻繁な微震動にひどく悩まされた。

解決策としてザイーフはまず「コミュニケーションの構築」を急いだ。放っておくとてんでんばらばらに行動する地方の司令官たち(実際の管理者)に、省の意向を伝達する方法の確立だ。各州に無線連絡機器を配り、省が計画した生産割り当てに達しているか否かを毎日報告させた。他にも様々な刷新を行い、やがて事態はかなり改善された:

●上記のクドゥバルク発電所は、間もなく以前のレベルに回復した。
●レンガ焼成工場、製氷工場、浄水場などが再建された。
●サーレポルでは既存の油井を技術者が調査し復旧させた。
●シバルガンからマザーリシャリフまで天然ガス網が延長された。
●セメントの生産量が増えた。
●北部全域で工場が再建され工業が盛んになった。
●外国の投資家がカンダハール州に新たな精油所を作る契約を結んだ。

ところがザイーフ入省の翌年、1999年になると国連がターリバーン政府(アフガニスタン・イスラーム首長国)に広範な経済制裁を科すようになる。国内におけるいわゆる「テロリスト」の存在を咎めての処分だった。その影響の一つが、「トルクメニスタン、アフガニスタン、パキスタンを通る天然ガスパイプライン構想」の頓挫だった。それはザイーフが逃がした大きな魚だった。

とは言え、めざましい成果だったことに間違いはない。「1999年単年で我が省は国庫に350万ドルを納めたが、以前なら個人のポケットに消えていった金だった」とザイーフは自慢している。その勢いで先の「外国資本による精油所新設」について、ザイーフはかなり詳しく解説しているので付き合っておこう。

まず登場する会社は、ユノカルとブリダス(アルゼンチンの石油企業)。後者は1997年3月に早くもカーブルに事務所を開き、後にカンダハールにも進出。ユノカルも負けじとカンダハールで事務所開設の準備を始めた。ザイーフは両社と個別に契約し、いいとこ取りしようと思ったが、ユノカルは強硬に独占契約を主張した。その姿勢をいぶかったザイーフは逆にブリダスと独占契約を結んだ。

※脚注「ユノカル:米国資本の石油天然ガス会社で、1890年から2005年(シェブロン社に吸収)まで存在した。米国政府と関連のある多くの人物がユノカルで働いていたが、その中にはハミド・カルザイやザルメイ・ハリルザドも含まれる。」

さて新精油所がカンダハール州に作られ始めてしばらく後、ギリシャの会社が100万ドルを投資して、周辺の地形を衛星解析した。するとカンダハールとヘルマンド両州にかなりの埋蔵量が見い出された。ユノカルは悔しがったか? ザイーフの答えは「怪しい。」ターリバーン政府の失策に乗じて最後は横取りできると思っていたに違いない、というのが彼の見立てだ。そうなると、後に国連制裁を採決させ興味を示した外国企業を撤退させたのも、何とも怪しい話ではある。

米国以外にもザイーフにとって目の上のたんこぶとなった国がある。まずはイラン。例の「パイプライン構想」に名の出たトルクメニスタン、アフガニスタン、パキスタンの3国すべてと国境を接している。「この国はアフガニスタンを不安定にさせ、投資家を怖がらせて追い出すためなら何でもする。」イランにとってパイプラインはアフガニスタンではなく自国を通るべきなのだ。やがてイランはイスラーム首長国に敵対する北部同盟に対し、資金、弾薬を提供し、兵站を支援するようになった。

次にパキスタン。イランと並びアフガニスタンの最大の貿易相手国なのだが、やることがえぐい。パキスタンから原材料を仕入れて加工貿易を営むアフガニスタンに対し、原材料の「輸出税」を高める。すると製品そのものをパキスタンから輸入した方が安くなり、結果、アフガン国内の産業が立ち行かなくなる。

逆に、パキスタン国内の製造業者には「特別免税」の恩恵を与え、製品をさらに安く輸出させる。その上、低品質の商品を輸出するのでアフガン国内の損失は大きい。例えば肥料。窒素分46%をうたっているが、ザイーフたちが検査するとたったの20%。アフガン農家は安い物にとびつき、病疫に悩まされ生産量を落とす。とかく経済は競争とは言え、何とも倫理観に欠けた隣国の姿勢である。

こうした厳しい環境の中、ザイーフはアフガン産業振興のため様々な激務をこなして行く。当時のターリバーン政権の懐具合は:
●国家予算は年8千万ドル。
●そのうち「ライオンの取り分」は軍事支出に。
●資源産業省の予算は年700億〜750億アフガニ。(約7百万ドル)
●「それはまるで熱い石の上に落ちた一滴の水。跡形も無く蒸発した。」

さあ、入省からやがて1年半。多くの実績を積んだザイーフは各省からスカウトの声がかかるようになった。するとアミール・アル=ムーミニーンは彼を「運輸行政の長官に任命した。」この国で運輸とは主にトラック輸送。各地に組合があって力を持ち、ターリバーンが派遣した役人の意見が通らない。

つまり組合の認める代理人が運搬業務を差配し、ドライバーを不公平に扱っていたのだ。友だちや身内にばかり効率のいい仕事を回し、あぶれた者が政府に訴えて、業界は混乱の極みだった。各地を視察したザイーフはカーブルに戻るや、「代理人を国選化する法律」を発布した。こうして運輸全般を行政の監督下に置くことに成功した。

もちろん実入りが減って苦情を言う代理人もいたが、「そんな奴らは、正義や公正に無頓着な盗人だとして切り捨てた。」ザイーフの面白いところは、「ここまでは第1段階、ゆくゆくは運輸行政自体を民営化しよう」と考えていたこと。しかし、彼がその結末を見ることは無かった。

時は2000年。運輸行政の大改革から3か月が経ったある日、彼は移動中の機内で聞いたラジオ放送に驚いた。それはアミール・アル=ムーミニーンによる布告だった。そのとき初めて、ザイーフは「新たなパキスタン大使」として任命されたことを知った。

(続く)

 

==========<野口壽一>==========(2023年6月25日)

世界経済フォーラム(WEF)が2023年6月21日に公表した「ジェンダーギャップ(男女格差)リポート」でアフガニスタンは対象146カ国中3年連続最下位だった。https://memorva.jp/ranking/world/wef_global_gender_gap_report.php

「アフガン女性の言論のためのプラットフォーム」である『ニムロク・メディア』は当然にもひどく悔しがってつぎのように書いている。

「この報告書によると、アフガニスタンは最下位。チャド、アルジェリア、イラン、パキスタンは145~142位にランクされており、アフガニスタンに次いで世界で最も不平等な国とみなされている。」
「アフガニスタンはすべての分野でスコアが低い。アフガニスタンは参加と経済的機会の点で世界で最も不平等な国であり、スコアは0.188である。教育成果指数では、スコア0.482で世界最下位、政治的エンパワーメント指数ではスコアがゼロで世界最悪の国となっている。」
「テロ組織タリバンがアフガニスタンの支配権を奪還して以来、アフガニスタン情勢は、世界経済フォーラムの4つの指標のみならず、あらゆる分野で悪化し、本格的な惨状を迎えている。」
「アフガニスタン国民はこれまで、抗議行動で世界各国に対し、アフガニスタンでの本格的な災害を防ぐ唯一の方法はテロ組織タリバンを打倒することだと繰り返し訴えてきた。」
https://nimrokhmedia.com/2023/06/22/afghanistan-the-most-unequal-country-in-world/

女性のみならず、アフガン国民の大多数の苦しみと嘆きと怒りがにじみ出た文章で、せつせつと胸をうつものがある。

ところで、日本は、というと、なんと125位。昨年は116位だったが、順位を9つ落としている。
ランキング形式は、ランキングを決める比較項目の設定や指数化の設定方法などでいかようにも変化させることができる代物で、信頼性については議論の余地があるが、WEP(世界経済フォーラム)のランキングはそれなりに客観的な比較方法で各国の実情の一端を知るうえで参考にできる調査データではある。
ちなみに1位から10位にランクされている国々は順に、アイスランド、ノルウェー、フィンランド、ニュージーランド、スウェーデン、ドイツ、ニカラグア、ナミビア、リトアニア、ベルギー。

ジェンダーランキングと南アジアの女性蔑視の風習ミソジニーとの関連については<視点>N0.042で「人類史上、最古・最悪・最長の汚辱 ミソジニー」として書いておいた。
https://afghan.caravan.net/#~042

 

==========<金子 明>==========(2023年6月15日)

アブドル・サラム・ザイーフの自伝「ターリバーンと共にある私の人生」(My Life with the Taliban/Abdul Salam Zaeef/2010) を紹介する第12弾。今回はその第9章「行政統治」から抜粋・翻訳する。どんな書物も紐解いているうち、ある所から急に読む速度が増す。この本も然り。さっそく、気軽につぶやきながら、前のめりで読み進めよう。

「今夜は家に帰り、荷物をまとめろ。明日われわれは出発する。」

ボスのムッラー・オマルにそう言われたザイーフは無用な質問(どこ? いつ戻る?)などせず、夜を待って帰宅。翌朝、基地に出向いた。待っていたのは4、5台のジープ。急いでカンダハールを出た。西に進み、ゲレシュクという村で昼食になった。茶を飲み終えると2機のヘリが空き地に着陸した。ムッラー・オマルは1機目に、ザイーフは2機目に乗った。この話、さらりと書かれているが、いかにオマルが行き先を(腹心にも)気づかれぬようにしていたかが垣間見えて興味深い。

北西へ飛び、ヘルマンドを越えてヘラートへ。兵舎のビルわきに見える広場へと急降下した。車列に乗り込み、バゲ・アザディに到着。そこには知事の迎賓館があり、中にはすでに大勢がいた。それはムッラー・オマルが招集した州政府高官の任命式だった。

※脚注「バゲ・アザディ:意味は、自由の庭。ザヒール・シャーの時代(1933年~1973年)に造られた庭園で、当初の呼び名はバゲ・シャーヒ(高貴な庭)。王はヘラート滞在中、ここで暮らした。王のいないときは、政府高官同士が顔を合わせる場所だった。共産政権が倒れムジャヒディーン時代になるとバゲ・アザディに改名された。ターリバーン時代にはバゲ・イスラーミ(イスラームの庭)と呼ばれたが、近頃(2010年以前)再びバゲ・アザディに。普段は警備されており、一般人は入場できない。」

その席でムッラー・オマルがヘラート州知事、州陸軍司令官、州警察長官らを任命し、ザイーフは銀行の監督を任された。これは中々重要な仕事だった。その理由はヘラートの持つ先進性にあった。ザイーフが上げるこの州の金融上の特色は:

●直前まで統治したイスマエル・カーンの影響。中央政府不在の間も、彼は「西部の王子」としてこの地に君臨し、領民の生活向上に尽力した。イランとの貿易に独自の関税を課し、その税収を元手にヘラート市街とその周辺地域を広く開発した。ザイーフの最初の仕事は、州内に残存する金品の確認作業だった。

●金融的先進性。州内の4銀行は、アフガン中央銀行の支配下にあるとは言え、独立して機能していた。他州の銀行と比べると格段に優れた組織で、多くの人々が銀行口座を持ち、事業を興したり投資を始める目的で、銀行から借り入れをした。

ザイーフが手始めにアフガン銀行ヘラート支店の手元資金を確認すると、400億アフガニ(約120万米ドル)、30万米ドル、プラス相当量のパキスタンルピーという状況だった。「さらに金庫内に旧通貨、金、銀、および若干のプラチナを発見した。」

銀行の職員は概ね信頼に足る一般人で、中には諜報部員もおり、多くは元共産党員だった。彼らはザイーフが「執務を開始した数日のうちに、諜報部員も含め挨拶に来て、自己紹介をした。」そんな中、ザイーフは面白い男が行内にいることを知った。

彼の名はモハマド・アンワール。ターリバーンに敗れイランに逃げたイスマエル・カーンの兄弟だった。「みな根拠も無く、彼がイスマエルと連絡を取り情報を流している。投獄しろと非難した。」州知事というよりも「王」であったイスマエル・カーンに「人々がこうも早く背を向けるのか」と驚きながら、ザイーフは当のモハマドを事務所に呼んだ。

「君はイスマエルの兄弟だが、われわれの兄弟でもある。心配せず仕事を続けなさい。」

さすがに博愛主義者のザイーフである。彼はこのあと2年間、ヘラートで暮らすことになるが「イスマエル・カーンがこしらえた都市インフラには大いに世話になった。」追い出された「王」のお陰で、ヘラートはアフガニスタンで特に進んだ都市だったのだ。

最初はターリバーンを恐れていた市民も徐々に慣れてきた。やがてザイーフたちを「友として迎え入れ」るようになった。ザイーフは彼らが「故郷のため懸命に働き、平和を好み、教育を尊重し、目上を敬い、法に従う人々だ」と感心しつつ仕事に邁進した。

1997年、息子が病気だとの知らせが届いた。ザイーフは知事の許可も得ず、急ぎカンダハールの家族の元に駆けつけた(無断使用した公用車はあとで政府に戻したらしい)。故郷ではまたぞろ父から受け継いだ遺伝子のためか、「イスラームの研究」に邁進したい病が嵩じた。

「政府の側に立って働くことは、腐敗と不正にまみれた人生を意味する。そこには、人間の惨めさしか見いだせない。」もともと学生、後に兵士だった彼に、2年間の宮仕えは相当こたえたと見える。そんなときにこそ、神は優しく手を差し伸べてくれるのだろう。

家にこもって1か月が経った頃、ムッラー・オマルが車をよこした。「彼の称号は、アミール・アル=ムーミニーンへと変わっていた。」オマルの事務所につくと、2人で話し合った。

「ひと月ばかり休みを取るのはいいことだ。しかし、もう仕事に戻るときだぞ。」

※脚注「アミール・アル=ムーミニーン:意味は信徒たちの王。1996年1月、ムッラー・オマルは1935年以降誰も目にしていなかったイスラーム予言者のマントを聖なる隠し場所から持ち出した。そしてカンダハールにやって来た1500人を超えるムッラーの前で、自らがアミール・アル=ムーミニーンであると宣言した。」(キャシー・ギャノン著「Iは異教徒(Infidel)のI」2006年刊より)

当時、ターリバーンはカーブルを掌握していた。アミール・アル=ムーミニーンはザイーフが国家防衛省の行政長官に就任することを欲した。もう政府のために働きたくないザイーフがそれに抗えなかったのは、3年前の「サンジサールの誓い」があったからだ。

ヒズベ・イスラミ司令官グルブッディン・ヘクマティヤールとアフマド・シャー・マスードが戦いを繰り広げ、破壊し尽くした首都カーブル。ザイーフは他の仲間同様、そこに初めて足を踏み入れた。見ると、「ターリバーンは既にシャリーア法の施行も始めていた。女性は官職を解かれ、男性はみな髭を伸ばし出した。市内の生活は通常に戻りつつあった。」(下線ママ)

幸い防衛省のビルは壊されていなかったが、金庫は空っぽで、役人は誰もいなかった。ほとんどの者が北部同盟と関係があったためカーブルから逃走し、そうでない者は省庁が再開したことを知らず出勤しなかった。そんなカオスの中、「役所間のいがみ合いの地雷原を手探りで進まねばならなかった。」

それでも努力の甲斐あって、やがてザイーフは副防衛大臣へと上りつめる。防衛上の全財務及び兵站を任される要職だ。防衛大臣がケガをしてパキスタンへ治療のため退いたときは、9か月に渡り「防衛大臣代行」まで務めた。

当時のターリバーン戦線:
●北部での戦いに協力するというマリク※1の誘いに乗って6千の兵を送り出したが、サラン峠付近でマスードとマリクの軍勢に挟撃された。兵たちはからくもバグラーンを抜けクンドゥスへ脱出(1997年)。

●その後のクンドゥス攻防戦では、片脚の司令官ムッラー・ダデュラー・アークンド※2がマスードをパミールの山中に押しとどめて勝利(1997年)。ダデュラーの口癖は「男として死ね。決して敵の捕虜となるな。」

●バーミヤン制圧(1998年)。

※1 脚注「マリク:ドスタム軍の第2指令官だったが、1996年7月に兄弟が殺されたことで、自分の身を案じるようになり、翌年ターリバーンに寝返って北部を与えると提案した。しかしその合意を反古にし、ターリバーン兵を襲い殺害した(アムネスティーインターナショナルの推定では死者数約2千)。彼が北部アフガニスタンにおける事実上の上級司令官だったのは1997年5月以降の数か月間のみ。同年11月なかばに国外に逃げ出したと言われている。」(この衝突はドスタムがトルコ亡命中に起きている。)

※2 脚注「ムッラー・ダデュラー・アークンド:1966年ウルーズガーン州生まれ。1980年代のジハードで活躍し、ターリバーン運動のリーダー、ムッラー・モハマド・オマルとは強い結びつきがある。1994年西部アフガニスタンにおける戦闘で片脚を失った。それでも戦い続け、2001年以前のアフガン中部および北部における戦闘で大きな役割を果たした。2006年、彼が『スパイ』と決めつけた男たちの首をはねたビデオが出回ったことで、『南部の肉屋』と呼ばれ(特に西側メディアから)注目された。2007年5月、国際治安支援部隊(ISAF)によって殺害。」

こうしてターリバーンは支配地域を広げていったのだが、ターリバーンの「戦術には常に交渉の重要性を強調する部分があった。」この姿勢は2001年の政権崩壊まで続いたと言う。その証拠としてザイーフが記すのは、自ら出席したマスードとの和解交渉である。それは、次のように進んだ:

●まず、マスードからアミール・アル=ムーミニーンに電話。

「われわれの違いについて交渉の席で論議したい。」

「では、ザイーフを送るのでもっと詳しく話し合おう。」

●マスードからの指定で交渉地点はバグラム近郊の「サラケ・ナウ」と呼ばれる場所に。月明かりの下、屋外での4時間に渡る話し合いだった。マスードからの提案は「軍事連合として連携しよう。」前もってムッラー・オマルは「彼に政治的、民事的部門で役割を与えてもいいが、軍事力を分け与えるのは危険だ」とザイーフに伝えていた。そのため交渉は平行線。ターリバーン側が狙った「捕虜の交換」まで議題が進むことはなかった。

●数か月後に第2回交渉が持たれた。マスードは出てこず、代理人が2名。ターリバーン側もザイーフ他3名。場所は双方の前線からほぼ等距離の中間地点だった。マスード側は「50人ずつのウレマ(イスラーム学者)が出席する会議を開こう」と提案した。その会議の狙い(しぶとく双方の軍事的提携)を見抜いているザイーフは「軍事力の分割はさらなる衝突と流血を招く」と突っぱねる。逆に捕虜交換の話を出すと、今度は向こうが拒絶する。こうして2度目の交渉も徒労に終わった。

カーブルに来て1年半。ザイーフはまたぞろ任務に飽きて来た。その頃、命じられていた仕事もかなり辛気くさい。「共産党時代にアフガン人を殺したのを讃えられて名誉勲章やその他の褒美をもらった人物の特定」とか「ショマーリ事件の調査」とか。

※脚注「ショマーリ事件:ターリバーンとカーブルの北方にいたマスードの闘争により、1997年9月までに、18万もの民間人が逃げ出していた。そこへショマーリ平原でターリバーンが井戸に毒を入れ、さらに灌漑水路を破壊するという事件が起きた。この破壊工作については、いまだに元及び現ターリバーンが熱く議論している。しかし、当時ショマーリ平原でとられた戦術を非難するターリバーン高官は極めて少ない。」

戦争が20年近くも続けば、国家防衛の仕事もきれい事では済まされまい。血塗られた部分を掘り起こすのは憂鬱な作業だろう。そんな仕事の連続にザイーフは嫌気が差しとうとうエイヤ!と辞職してしまう。但し今度はしっかり「後任に後処理を託してから、家路についた。」

(続く)

 

==========<野口壽一>==========(2023年6月15日)

アフガニスタンの独立系ジャーナル、ハシュテ・スブ・デイリーでアミン・カワ氏が6月12日付けで伝えるところによると、国連安全保障理事会が「ターリバーンは20のテロ組織との関係を維持している」との報告書を提出したという。

それによると、アル=カーイダ、パキスタンのターリバーンであるテフリク・タリバン・パキスタン(TTP)、さらにはISISも4000人から6000人の戦闘員を国内に擁しているという。国連はまた、ターリバーンが1990年代のようなパシュトゥーン族中心の権威主義的な支配体制に戻った、と指摘している。ターリバーン指導部の間には意見の相違が存在しているが、団結を維持するために最高指導者への忠誠を強めている。
報告書によれば、ターリバーンが当面表立った変化を見せることはないだろうと示唆している。さらに、権力はカンダハールに集中しており、カーブルメンバーの影響力は低下している、ともしている。

2022年7月3日にアル=カーイダのNo.2だったアイマン・アル・ザワヒリ容疑者がアメリカのドローン攻撃により殺害されたが、それはターリバーン内部の裏切りによるものだとの認識がターリバーン内部にもあり、そうであれば、その他の外国人テロリストグループも裏切られる恐れがあるとの懸念が存在する。同報告書はまた、アル=カーイダメンバー2000人がバドギス州、ヘルマンド州、ナンガルハル州、ヌーリスタン州、ザブール州などに住んでおり、訓練拠点を運営している。さらに、ネットワークのキャンプのひとつがあるクナール州とナンガルハル州には約20~25人のアラブ系外国人戦闘員が居住しており、彼らはアフガニスタン人の身分証明書を所持し、さまざまな都市でタリバンの顧問を務めているという。

そのほかにも、ウズベキスタン・イスラム運動(IMU)、東トルキスタン・イスラム運動(ETIM/TIP)、タジキスタン・ジャマート・アンサルラを含むほとんどの地域テロ組織がタリバンから武器やパスポートの供与を受けている。

最後に同報告書は、アフガニスタンにおけるテロ活動の激化とISIS作戦の複雑さの増大について取り上げている。米国、ロシア、タジキスタンを含むさまざまな国はこれまでに、アフガニスタンがテロリストたちの安全な避難場所になると警告を発してきた。最近、ロシア外務大臣は、アフガニスタン北部は「テロリストの巣」と化していると述べたそうだ。

ウクライナでの戦争の継続と激化の陰で、アフガニスタンにおける過激派グループの延命と再建が進んでいる。見逃せない危険な兆候だ。

 

==========<金子 明>==========(2023年6月5日)

アブドル・サラム・ザイーフの自伝「ターリバーンと共にある私の人生」(My Life with the Taliban/Abdul Salam Zaeef/2010) を紹介する第11弾。今回はその第8章「始まり」から抜粋・翻訳する。このあたりからターリバーンの今に繋がる習性が見え隠れし始めるので、注意深く読み進めよう。

1994年11月、カンダハール州。いよいよ、「古参の司令官」つまり悪辣な偽ムジャヒディーンたちへの攻撃と懐柔が始まった。岩波新書の「タリバン台頭」(青木健太著/2022年)で言うところの「世直し」の開始だ。ターリバーンの中枢にいたザイーフが見たその戦いはいかなるものだったか?

7章で語られた彼らの戦略を復習しておくと:
●独自の検問所を設置/まず敵の真似から始めた。
●勧善懲悪を標榜/のちに悪名高くなるターリバーンの独善だが、当初は輝く旗印だった。
●食料の現地調達/30年近くたった現在もこの遺伝子が残っているのは興味深い。

こうして始まった強敵たちとの戦いだがターリバーンは、とにかくつましい。「私は手持ちの2万アフガニを寄付した」というから軍資金は幹部らの持ち出しである。使える武器はごくわずか。車は1台もなく、高速移動手段はザイーフのバイク(作戦初日に故障しお釈迦)とムッラー・サッターのロシア製バイクの2台のみ。後者はマフラーを欠き、そのけたたましさから「イスラームの戦車」と仲間内で評判だった。

※脚注「2万アフガニ:当時約300キロの小麦粉が買える金額で、カンダハール市街のやや高級なレストランで10~15人の健康な胃袋を満たせるほどの資金。」(当時アフガニの対外価値は大暴落していたが、生活実感としては5万円ほど)

しかし、住民の集結は素早かったと言う。村々に使いを出すと、多くが検問所を見に来た。そして人々は「すぐに思いを理解し、何十人もが賛同した。こうして発足からわずか数日で400人の運動員を数えた。」話を聞きつけ西隣のヘルマンド州全域や東隣のパキスタンからはせ参じた者もいた。

こうなると資金の提供も増えてくる。匿名で9千万アフガニ(約2億2千5百万円)を寄付した者もいたというから彼らへの期待は大きかった。勢いづいたターリバーンは「既存の検問所をあちこち回って、こんな略奪と虐めは止めよと説いて回るが、ほとんど無視された。」それどころかターリバーンの検問所へ向かう車には呪いと脅しに溢れた警告書が渡された。敵はターリバーンを揶揄して「乞食、ムラの息子、野蛮なターバン男」と呼んだ。

※脚注「ムラ:ムッラー(聖職者)の妻への蔑称。」

ターリバーンの検問所が管轄したのはマイワンドとパンジャウィの2地区だったが、その地区では、6人の元ムジャヒド転じて盗人たちが検問所を設営していた。何度口説いても検問所を閉じない彼らに対し、とうとう実力行使に出る。最初の標的はダル・カーンの検問所。武器はわずか1丁のRPGとカラシニコフが数丁。道路に沿って進む隊列と、側方から迫る隊列が検問所を挟み撃ちにした。

※脚注「ダル・カーン:パンジャウィ地区パシュモルに近いクルク村出身。ハラカット(パキスタンの過激派)と共にムジャヒドとして戦ったが、後にサイヤフのイテハデ・イスラミに宗旨替えした。今(2010年)も存命中。」

不意を衝かれたダル・カーンは懇願した、「神のお恵みを!私を殺しても何の得にもなりません。共に手を取りジハードを戦った仲でしょう。ここを離れるチャンスをください。どんな命令にも従います!」こう言ってターリバーンを騙し、彼はまんまと遁走した。それを聞いた他の盗人たちは戦わずしてそれぞれの検問所を放棄した。いわゆる腰抜けだったのだろう。

ただ手強いのが1人残った。道路のずっと先に検問所を構え、強盗と恐れられたサレーである。「ムラの息子の倒し方は心得ている、学生どもは1人残らず捕まえて殺す」と豪語するこの強盗の背後には、カンダハール市内に君臨する2人の司令官(ハレームとサルカテブ)がいた。彼らがターリバーンを市内に寄せ付けまいとサレーに戦闘員と武器を提供したのだ。

ターリバーンは、まず3度使者を送り、検問所の明け渡しを勧める。「24時間以内に放棄せよ」との最後通告にも、敵の反応は無かった。期限超過から2日目、業を煮やしたターリバーンは3手に分かれてサレーの基地を攻めたてた。たまらずサレーの一味はカンダハール市内へと逃げ出した。

ぶんどった基地には沢山の武器や弾薬があった。喜びも束の間、敷地内に掘られた穴に凄まじい物を見つけた。ヘラート出身と見られる女2人の裸の死体だった。ザイーフも「ヘラートからの女はバスから引きずり出されレイプされる」と旅人から聞いてはいた。

その通り、目の前の死体には殴られレイプされた痕があった。「この恐ろしい光景にみなの怒りがこみ上げた。我々の使命にまだ納得がいかなかった者たちも、何をしているのか再認識し、さらに結束が固まった。」

敵がこれほどの悪なので、ひとたび打ち倒すと、ターリバーンへの支援はさらに伸びていく。例の行政官ハッジ・バシャールは管轄するケシキナクド地区を自らターリバーンに差し出した。トヨタ、ダットサン、ヒノのトラック、そしてランドクルーザーが寄付される。面白いのがムッラー・ナキブ。ロシア時代から名を馳せたカンダハールの大物ムジャヒドで、敵からは、ターリバーン掃討に乗り出すと期待されていたが、突如ヒンドゥー・コタイ村にある自らの主要基地をターリバーンに差し出した。

最初の勝利とナキブの協力がニュースとして伝わると、さらに多くが加勢してきた。ヒンドゥー・コタイの基地には、あのカルザイの父など大物政治家も訪れるようになった。赤十字も世界の報道機関も。ただ、ジャーナリストに対し口が堅いのはこの頃からの習性らしく、「ターリバーンは秘密主義だ」とザイーフも認めている。

ターリバーンはアフガニスタン南東部を支配するほどの勢いとなり、カンダハール市内では最後の大敵サレームとサルカテブを残すのみとなった。やがてサルカテブがムッラー・オマルの暗殺を企てているとの情報が入る。すると、彼は道路を使った移動を止めた。このことが彼に神秘のヴェールを纏わせたのか・・・。こうして集団の秘密性はさらに高まっていく。

ここで、もうひとつ見ておきたいのは、この集団の統一性だ。カンダハール市内に攻め入った頃、ターリバーンは「3つの派閥に分かれて戦っていた」と言う。それぞれの首領は①ムッラー・オマル、②ムッラー・モハマド・ラッバーニ・アークンド※1、③マウラウィ・アブドル・ラザク※2であった。ムッラー・オマルは後2者を集め運動統一の必要性を説いた。すると彼らは「ムッラー・オマルに従うことをクルアーンに誓った」と言う。何やら出来すぎた逸話だが、ターリバーンが発足当初から一枚岩ではなかったことの証左とも言えよう。

※1脚注「ムッラー・モハマド・ラッバーニ・アークンド:1980年代のジハードにおいてカリスのヒズベ・イスラミの一員として戦った司令官。配下に6つの軍団を持ち、従える兵の総数は120名を数えた。ムッラー・ナキブに従いターリバーンに加わった。」

※2脚注「マウラウィ・アブドル・ラザク:ハラカット(パキスタンの過激派)の大司令官として1980年代のジハードを戦った。後にターリバーンが政権を握ると、ヘラート州の財務担当秘書官となった。現在(2010年)も存命中。」

カンダハール市内でターリバーンを苦しめたのは敵将ウスタズ・アブドル・ハレームだった。彼の部下は「ターバンの材料にする布がいるって? いくらでも持っていきな、ターリバーンの死体から」と自慢するほどの猛者たちだったが、ムッラー・ナキブが前線のザイーフに手持ちの戦車を与えたことで戦局が逆転。最後は蹴散らされた。

最後に残った敵はサルカテブだった。この男は裏技が得意と見えて、ムッラー・オマルの義父(妻の父)を拘束するなど激しく抵抗したが、結局はターリバーンに敗れ去った。ターリバーンに味方したムッラー・ナキブは進んでカンダハール市を差し出した。州軍の司令官や州知事をはじめ、州内のあらゆる要職がターリバーンによって占められた。「少年を手込めにする悪趣味を持ち、淫行にふけり、盗み、不法な検問所で稼ぐ、銃による政府は消え去った。」

次に南部一帯で彼らが着手したのが司法システムの再構築だった。ムッラー・オマルに選ばれたザイーフはパサナイ師を法廷で補佐した。シャリーア(イスラーム法)による裁判である。彼はいろいろな興味深い事件を担当したが「そのうちの2つは特に抜きん出ている」と言う:

【チャルシャカ村殺人事件】
●冷血をもってナイフで1人の男を刺し殺した犯人がシュクールの丘に引き出される。
●犯人の身内が「50丁のカラシニコフと相応の金を差し上げるので許してください」と懇願。
●殺された男の父は動じることなくナイフを手にした。
●犯人は両手両足を縛られ、父の前に差し出される。
●父は「アッラーアクバール(神は偉大なり)」と大声で叫び犯人の首にナイフを当てた。
●しかし殺さず「神は喜ばれた。審判の日に復讐するのは神である」と宣言し、彼を放免した。
●群衆は喜び、犯人は丸5分間身動き1つできなかった。
●ザイーフは「この男は2度と犯罪に手を染めないだろうと確信したが、しばらく後に再び殺人を犯した。それは強盗事件で、その場で彼も殺されたと聞いた。」

【バージャ全家族惨殺事件】
●別れた妻の姉妹の夫(ややこしいが「バージャ」と呼ぶ関係)の家に招かれた肉屋のナビが犯人。
●歓待され、夜になるとほかの客(1名)と共にその家の1室で泊まることに。
●夜中、ナビは肉切り包丁でその客の首を切り落とした。
●その後、家中の部屋をまわり、家族全員を殺した。犠牲者は計11人(女1、男2、半年の乳児を含む子ども8)。
●家を去る前に、全遺体を細かく切り刻み、地下室に放り込んだ。
●逮捕後も動機を一切語らず、ただ「殺してくれ」と懇願する。眠れないようだ。
●処刑は河原で行われた。
●殺された2家族の親類が1人ずつ復讐者として立ち会った。
●ザイーフが「カーバに向かって最後の祈りをしなさい」とナビに言ったが、返事は「早く殺してくれ。手足を切り落とした子どもたちの胴体が俺の手から離れないんだ。」
●さしものパサナイ師もあきらめ、相続人たちがナビを撃ち殺した。
●この出来事からザイーフは「残虐な者は祈ることすらできずに死ぬ、人は神によって導かれなければ、如何に苦しもうが正しい道には戻れない」と実感した。

やがて勝利を続けたターリバーンの軍勢は、大半がカーブルに進軍するか、東部戦線で活躍していた。ところが1995年3月、イスマエル・カーンが突如西側から襲ってきた。ザイーフも戦闘に駆り出されたが、あいにく脚を負傷した。そこでカンダハール市内にある中国人の建てた病院にしばらく入院した。

※脚注「イスマエル・カーン:1946年ヘラート州生まれ。ジャミアテ・イスラミと提携し、西アフガニスタンでソ連と戦った。アフガン政界では今(2010年)も健在で、電力相を務めている。」

回復しきらないうちに退院し、しばらくぶりにパサナイ師の裁判所に顔を出すと、どうも様子がおかしい。留守のうちにザイーフのサインを偽造してパサナイ師(高齢で目が悪い)をだました判事がいたのだ。ザイーフのサインした書類にならパサナイ師がしっかり確かめないで同意するのを知った上で、師を騙したのだ。

アフガニスタンとパキスタンの各都市で商業店チェーンを展開する富豪兄弟のすったもんだだった。そのうちの一方が「なぜアイツに営業許可を出したのか」と怒鳴り込んで来た。パサナイ師は「私を騙すとは見損ねた」とザイーフを叱る。あきれたザイーフは「筆跡をよくご覧ください」と天眼鏡を手渡し、やっと濡れ衣が晴れた。どこの国の判事にも悪い奴はいる。ターリバーンとて例外ではいられないようだ。

こんな司法界に嫌気がさしたザイーフは辞表を出した。再び軍関係の業務に就こうと画策し、兵站や無線連絡などをこなしていた9月のある午後、ムッラー・オマルに「事務所に来なさい」と声をかけられた。

(続く)

 

==========<野口壽一>==========(2023年6月5日)

● ある読者の方からこの「編集室から」が『「編集スタッフの制作余話」とは言い難く、長くて読みにくい』とのご意見をいただきました。確かにご指摘の点はそのとおりで編集部としてもスタートから2年を経る、来る7月よりサイトのバージョンアップを計画しています。これまでとの継続性を維持しつつ、より読みやすいサイトに成長させたいと意気込んでおります。乞うご期待。

● 5月27日に東京池袋のIKE-bizで開かれたRAWAと連帯する会の「アフガニスタンは今 アフガニスタン訪問報告会」に参加しました。数十人の参加者で会場は満杯。セキュリティの観点から公表できない写真が2枚のホワイトボードいっぱいにはられアフガンの雰囲気を伝えていました。会場後方では書籍やパンフレット類、現地のお土産やナッツや民芸品などが陳列販売され、賑わっています。
報告は、部屋全面を覆う大きなスクリーンに、訪問団が写してきたスライドが上映され、前田朗、清末愛砂共同代表、桐生佳子事務局長、高橋国夫事務局員ら4人の報告がつづきました。カーブルやナンガルハールの隠れ教室で学んだりミシン掛けする女性たちの姿が印象的でした。中村哲医師の記念公園訪問やバーミヤン訪問の体験談は久しぶりに日本人の知り合いの口から直接聞くことができ、感動的でした。『ウエッブ・アフガン』としては、女性解放と人権獲得のために先頭に立ってたたかうRAWA(アフガニスタン女性革命協会)を引き続き応援していきます。皆さんもひきつづきRAWAと連帯する会への支援をお願いいたします。

● オランダを拠点にして活動するBaamdaad(亡命詩の家)と日本の連携はますます緊密になり、オランダからの要請で連帯のために寄せられた詩の日本語版の出版も決まり、作業が進行しています。「世界の声」に収録しました。ご覧ください。

● 『ウエッブ・アフガン』を開設して2年が経過しました。最初は一方的な情報提供でしたが、読者の声が寄せられ、活動のお知らせや報告も寄せられるようになりました。それにつれて、現地のメディアやジャーナリスト、詩人などクリエイターとの個々の連携も生まれ、掲載する記事の内容とバラエティーが広がりました。これもひとえに、日本で本サイトを支持してくださる読者の方々のおかげです。改めてご支援に感謝いたします。来月からグランドオープン3周年となります。引き続きのご支援を重ねてお願いいたします。

 

==========<金子 明>==========(2023年5月25日)

アブドル・サラム・ザイーフの自伝「ターリバーンと共にある私の人生」(My Life with the Taliban/Abdul Salam Zaeef/2010) を紹介する第10弾。今回はその第7章「行動開始」から抜粋・翻訳する。

「以後数年間、私はパキスタンで暮らしたが、しょっちゅうカンダハールを訪れた」とザイーフは第7章を書き始める。ナジブラーが倒れた後に、ムジャヒディーン政府が誕生し、「アフガニスタンがバラバラになるように思われた」と言う。ここで、鋭い読者ならば、ハタと気づくだろうか?

つぶやき子も騙されていたのだが、ザイーフは第6章で時間軸をごまかして記述している。つまり、あの穀物倉庫におけるターリバーンの会議は、ザイーフがパキスタン逃亡後に「しょっちゅうカンダハールを訪れた」ある機会に開かれたものだった。それは1992年4月14日の出来事で、ちなみに翌4月15日にカーブルでは軍事クーデターが勃発し、ナジブラーが失墜(16日に国連庁舎へ亡命)している。

さすがに自伝の編集者は正直で、上記「1992年4月14日」の日付もしっかりと脚注し、巻末の年表には以下のように記している:
1989年(21歳)ロシアとの戦争を終え、帰郷
1990年(22歳)ザイーフ、父となる
1991年(23歳)内戦を避けパキスタンに(再度)逃亡
1992年(24歳)ナジブラー失墜(4月)
ムジャヒディーン司令官たちがカンダハールを分割支配(4月)
内戦本格化

長い自伝のため、単なる記憶違いによる前後か? 執筆時(2010年)はまだ米軍とターリバーンが各地で戦闘中だったため、記述の順番替えに深い狙いがあるのか? そこは謎のまま残して、先を読み進むことにする。

最初カーブルで始まった戦いは、じきに南へと下ってきた。ウスタズ・アブドル・ハレーム、ハッジ・アフマド、ムッラー・ナキブらの地方司令官が、カンダハールの市街入り口や周辺地域で衝突していた。

※脚注「ハッジ・アフマド:1980年代のジハードではムジャッディディーのジャブハイエ・ミリ(救国戦線)と共闘。1990年代初期の南アフガニスタンにおける主要司令官の一人。ナジブラーの政府を引き継ぎカンダハール州を分割統治するにあたり、彼とその部下たちはカンダハールの空港を手に入れた。」

ザイーフがちょうどカンダハールに来ていたとき、デモがあった。何千もの人々が通りに出て司令官に戦いを止めるよう声を上げた。そこへ、かつてのムジャヒドであるバルーが1台の戦車を駆り、手下たちを従え広場に現れた。デモ隊に警告もなく発砲。数十人がバルーによって殉教し、デモは解散させられた。

※脚注「バルー:サイヤフのイテハデ・イスラミ(イスラム団結)と共闘したムジャヒディーン司令官だが、今日(2010年)でも、カンダハールでは極めて評判が悪い。少女たちと結婚し父親から持参金をせしめる、1カ月後に離婚し、持参金の返還を拒否するという悪行を続けたことで知られる。ターリバーンは、カンダハール州を落とした最初の日々に彼を絞首した。」

デモが鎮圧されてから6晩を経てようやく、戦っていた双方が停戦に合意した。「街は変わった。道路は壊され、弾の痕ででこぼこ。壁は火薬で黒ずみ、家々は跡形もなく崩れ去った。通りには死体が放り出され、どこもかしこも血まみれだった。」

続いて「検問所」の実態が解説される:
●内戦が始まるや否や、南部には検問所がキノコのように生えてきた。
●通りを鎖で封じて、バス、車、トラックを止め金銭や品物を要求する。

とある検問所でこんな出来事があった。高価なチャマン帽※1をかぶり、マカロフのセミオートマチックピストルをさげ、L&M※2を吸っている15歳ほどの「童貞にしか見えない少年」がザイーフの乗るバスを止めた。運転手にナグマ※3のカセットテープをねだる。持っていないので断ると、バスのキーを抜いて嫌がらせ。「おいおい誰かこの子をしつけておけよ」と呟くドライバー。それを聞き咎めた少年は興奮して、蹄鉄を起こした銃を彼に突きつけた。

※1脚注「チャマン帽:つばの無い多色の帽子で前の部分が開いている。南部のパシュトゥーン人がよくかぶる帽子だが、カンダハール州では当時とくに大流行した。」

※2脚注「L&M:当時のタバコの人気ブランド(ケントとウィンストンに並ぶ)。重要人物や年配の司令官はL&Mばかりを好んでよく吸ったものだ(アメリカ製)。」

※3脚注「ナグマ:ソビエト時代の人気女性歌手。パシュトゥーン人でカンダハール出身。ラグマン出身で、当時を代表する大物パシュトゥーン人歌手マンガルと一時結婚していた。ナグマはソビエト学校の合唱隊で歌い始め、後にマンガルとデュエットした。パキスタンに移り、そこでほとんどの楽曲をレコーディングした。ナジア・イクバルと並び、アフガニスタン中およびクエッタ周辺のタクシー運転手に最も人気のパシュトゥーン人歌手。」

検問所にいた他の3人の男が驚いて駆けつけ、少年の腕をとって何とか落ち着かせようとした。ザイーフはあきれて言った、

「何を優しく諭しているのか? 司令官でもあるまいし、こんな子は殴って銃を取り上げなさい。年上の君がこんな態度なのは見るに忍びない。」

するとその男は力なくこう返した、

「我々には何も出来ないのです。この子はバルーの少年ですから。バルーの大のお気に入りで、殴るなんてとんでもない。苦言を述べただけで、バルーが怒るのです。」

※脚注「バルーの少年:カンダハールの社会は未成年者への同性愛虐待で評判が悪かった。犠牲者数は不明だが、決して少数ではない。ジハード期以前に始まった風習で、内戦の期間中ずっと、被害はより拡大していった。」

こんなやりとりを経て、ようやく少年は怒りを鎮め、キーを返した。スポイルされたこの少年を咎めることは容易い。だが、音楽が好きで、年端もいかぬうちからピストルで人を脅すことが当たり前だと教えられてきた彼も、戦争の犠牲者であることに間違いはないだろう。

やがてザイーフは帰国し、カンダハールの小さな村のモスクでイマームとなった。集まる信者の中には、内戦を憂い、すぐにでも検問所を攻撃し反乱の狼煙を上げようと提案する猛者もいた。ペシャワールで政治に目覚めたザイーフは、宗教儀式を司るイマームであると同時に、村のリーダーでもあったのだ。だが彼は「神に任せよ、時を待て」と慎重だった。

ところが、事態は急速に動き出す。当時、危険なのはもはや司令官同士の戦闘や検問所周辺ばかりではなくなっていたのだ。カンダハール市内で白昼堂々と強盗が跋扈している様子を被害者から直接聞いたザイーフはすぐに行動を決意する。「まず友人たちに意見を聞こう。それを全て集めて突破口を見つけるのだ。そうすれば成功する。」

「友人たち」とはムジャヒディーンやターリバーンというかつてのジハード仲間たちだ。数日後パシュモルにあるモスクで会議が開かれ、33人が参加した。討論の結果「通りから無法者たる司令官たちと検問所を一掃する」という行動計画を定めた。そのために使者を3方に送る:

①窃盗・強盗を行わない信心深いムジャヒディーン/戦いに参加するように。
②ターリバーンほかの高潔な人々/仲間になるかせめて邪魔をせぬように。
③ウレマ(宗教学者)たち、特に大物裁判官であるモハメド・パサナイ/有利なファトワ(布告)を出すように。

1カ月後に各使者が結論を持ち帰り報告した(第2回パシュモル会議):

①多くのムジャヒディーンが計画に力を貸すと同意した。
②ターリバーンは否定的で、協力しないどころか反対する司令官もいた。
③パサナイは肯定的だが、計画の全てに賛同するわけではないと言った。

小さな反発はあるものの大枠としての「計画」にはゴーサインの結論が出た。次にリーダーを誰にするかが議論された。部屋にいた多くはザイーフを暫定リーダーにしようと考えたが、「私がリーダーでは年配の司令官は、盗みに走らぬ者たちでも、反発する。もっと政治的に中立で司令官としては目立たない者がよかろう」とザイーフは反論し、リーダー選定は先延ばしにされた。

ただし幾人かのリーダー候補の名前が出され、それぞれ使者が会いに行くこととなった。ザイーフ自身が使者となり会いに行った1人が、ムッラー・モハマド・オマルだった。彼はサンジサールという村に住んでいた。ちょうど妻が出産した直後で、家には多くの知人たちが先客として祝福に訪れていた。

その一行が姿を消すのを待って、舞台は別室へ。ザイーフたち3人の使者がオマルに要件を切り出した。行動計画を伝え、リーダー就任を依頼したのだ。例によってオマルは沈黙した。それは彼の常套手段だった。相手に思いっきりしゃべらせ、決して口を挟まない。しっかり理解した後で、ゆっくりと考えをまとめ、筋の通った意見を返す。

「計画には賛同する、何か手を打たねばならない。だが、リーダーの話は受け入れられない。」

こう言うと、ザイーフともう1人の使者に顔を向け、続けた、

「なぜ君たちがリーダーにならないのだ?」

ザイーフは理由を説明したが、彼の疑念は晴れなかった。

「これを束ねるのは難しい任務だ。うまく行かなくなったとき、皆がリーダーを見捨てないという保証もない。」

ザイーフたちは説得する、

「関係者は全員ホンモノのターリバーンでムジャヒディーンだ。」

使者たちの熱意にほだされ最後にオマルはこう結論した、

「実は、前にも似たような話がここに持ち込まれたことがある。ケシキナクドの行政官ハッジ・バシャールが君たちと同じ計画を立て、本人も大いに乗り気だった。だから、協力は惜しまない。結局はすべて神の思し召しだ。仲間のウレマたちにも聞いてみよう。パサナイ先生にも伝えておこう。我々に何が出来るか楽しみだ。」

※脚注「ハッジ・バシャール:1964年、南アフガニスタン生まれ。1980年代にサイヤフのイテハデ・イスラミと組んでソ連に抵抗。その間、世界最大の麻薬王の1人にのし上がったと言われ、『アフガニスタンのパブロ・エスコバール』と称された。その後、ムッラー・モハマド・オマルおよびターリバーンとの関係を利用して麻薬貿易をさらに拡大した。ターリバーンが追放されると、米国に舵を切り替えようとする。アメリカへの忠誠心を示すため、ニューヨークに出向きローワーマンハッタン(金融の中心地)にあるホテルに数日間投宿。米政府の役人からの質問に答えていた。彼らに協力し、アメリカにもアフガニスタンにも有用な人物であることを証明しようとして。しかし後になって、極秘起訴の形で逮捕され、2008年9月、わずかな審議のみで有罪判決を受けた。罪名は「国際麻薬密売陰謀」。量刑が伝えられたのは翌年5月1日。刑務所内で終身刑を言い渡された。」
(にもかかわらず、この麻薬王はターリバーンの報道官によると昨年9月、人質交換によって釈放され、帰国した。この人物、日本のマスコミでは「バシル・ヌールザイ」と表記される。)

(編集部注:ハッジ・バシャールについては本サイトの下記に詳しい。
バシャール・ヌールザイ、グアンタナモ刑務所から釈放
アフガン解放をより困難にする麻薬王の釈放
汚れたゲーム=テロリストの育成と取引
(編集部注:オマルが指導者になれたいきさつと秘密については
カンダハールの文盲のムッラーが、なぜ突然「アミール・アル=ムウミニーン」になれたのか?

こうしたターリバーン創設前夜の動きは、最初の反乱提案からわずか1カ月半のうちに素早く進展し、やがて運命の日を迎えた。この自伝では、次の文で初めて一般名詞のターリバーン(学生たち)に定冠詞がつく。つまり「”ザ・ターリバーン”として知られるようになる運動の最初の会議は1994年の晩秋に開かれた。(下線ママ)40人から50人が、サンジサールの「ホワイトモスク」に集結した。

この初会議で決定された人事:
●ターリバーンのアミール(プリンス)に指名されたのは、マウラウィ(大先生)・アブドル・サマド。これはいわゆる名誉職。
●同司令官(実質的リーダー)には、ムッラー・モハマド・オマルが就任し、出席者全員が、彼へ忠誠を尽くし腐敗及び犯罪と戦うことをクルアーンに誓った。

※脚注「マウラウィ・アブドル・サマド:ウルーズガーン州のチリンコット出身だが、先祖はカンダハール州のアルゲスタン地区から出た。ターリバーンが政権についてからは、カンダハール州スピンボルダック地区初の地区長官、カンダハール州電力庁の長官、続いてヘルマンド州農業庁の長官を歴任した。現在(2010年)も存命中。」

ちなみに後に「ターリバーン」と呼ばれるこの集団は、初会議の時点ではまだ、運動自体の定款も呼び名もロゴも取り決めていない。ザイーフによると「我々はシャリア(イスラーム法)によって導かれるが、それを執行するのも我々だ。我々は悪を懲らし、善を勧める。そして国を流血させる者たちを止める。会議のあと間もなく、ヘラート・カンダハール間の幹線道路上の町ハウゼムダットに独自の検問所を設けた。そして直ちに、その周囲にシャリアを執行し始めた。(下線ママ)

ターリバーンは自らが何者であるかを近隣の住民に告げ、パンとサワーミルクを家々から集めた。メンバーの多くは地元でよく知られ、尊敬されていたので人々は喜んで支援した。

※脚注「サワーミルク:南アフガニスタンでは”シュルンバイ”と呼ばれる乳飲料を食事にあわせて飲む。成分はヨーグルト、水、塩。ときおり小さく刻んだキュウリも混ぜる。」

会議が開かれた翌晩、BBCが新たに起こったこの運動をニュースとして伝えた。それによると「ターリバーンは不法な武装集団が国民に強盗を働く地域を洗浄しようとしている。」マスコミの注目を浴びた。「ターリバーン」という単純明快な名称もつけられた。ザイーフはこの運動がしっかりと根を張るものと予見しつつ、一抹の不安を感じていた。

心配のタネは、古参の司令官たちであった。「彼らは我々の前に立ち塞がるだろう。その手下たちは未来の国民運動には加わらないだろう。いかにして彼らを仲間に組み入れるか。その道を我々は探らねばならなかった。」

(つづく)

 

==========<野口壽一>==========(2023年5月25日)

先号の<視点>で「今週、世界は大きくうごきます」と書いた。G7ヒロシマ会議を前にしての実感だった。ゼレンスキー氏が、Zoom会議でなく、フランス専用機で直接広島に乗り付け、会議のテーマがウクライナ戦争と原爆問題に一挙にクローズアップされた。また、参加した世界各地からのキー諸国代表も原爆記念館を訪れ、歴史的な国際イベントの感。これはこれで実り多いG7だと思ったが、だからといって、戦争や核兵器なき世界の創造を政治家だけに任せて安心しているわけにもいかないだろう。今号の<視点>は、引き続きG7ヒロシマ会議をテーマに書こうと企画していた。しかし、中楯健二さんの「読者の声」への投稿は野口が書くより簡潔かつ説得的にまとめられていて脱帽。G7がらみの<視点>はそちらに譲ります。ぜひお読みください。ここをクリック

先号では「戦争は外交失敗の結果」とも書いた。攻め込んだロシアも失敗だし、クリミアを占領されたあと、ドンバス地方で内戦状態がつづき、ロシアの介入が予想されていたのに攻め込まれたウクライナにも失敗があったのだろう。本サイトでは、ロシアを挑発して直接的武力行使に踏み込ませたアメリカの陰謀に焦点をあてて論じてきた。戦争を利潤の源泉とする軍産複合体システムはつねに戦争をさせようと企んでいる。それを許してはならないからだ。

戦争が外交失敗の結果なら、戦争の勝敗を決めるのもまた外交だ。戦場における戦闘だけが戦争の勝敗を決めるわけではない。戦場の帰趨と緊密に結びついた外交が必須だ。圧倒的に強大なロシア帝国に対して勝利を収めた日本もバックにイギリスやアメリカを引きつけた外交、とくに軍費調達に駆けずり回り戦闘を勝利に結びつける下支えを実現した当時の日本銀行副総裁・高橋是清の活躍を忘れるわけにいかない。

日露戦争時、戦費不足に直面していた日本の苦衷は並大抵ではなかった。公債依存が実に78%に達していた。これを国内で調達することは不可能で外国から調達せざるをえなかった。その役目を申し付けられたのが高橋だった。調達成功までの綱渡りのようなスリリングな高橋の活躍ぶりは語り草になっているが、ロシア敗北に賭けた米国ユダヤ人協会のシフ会長の支援がなければ膨大な外債起債に成功しロシアとの戦争に勝つことはできなかっただろう。

軍費や武器弾薬の調達や政治的支持の獲得のために世界中を駆け回り、鬼神もたじろぐほどの活躍をするゼレンスキー大統領の姿をみていると、昭和になって2.26事件で銃殺された高橋是清翁のイメージが髣髴としてきた。

ここまで書いてきて、頭がほてってきた。ほてりをさますために、近所の世田谷実相院にある高橋是清翁の「髭の墓」にお参りをしてきた。先ほど撮影したお墓の写真を掲載しておきます。どうぞご覧ください。

 

 

 

 

==========<金子 明>==========(2023年5月15日)

アブドル・サラム・ザイーフの自伝「ターリバーンと共にある私の人生」(My Life with the Taliban/Abdul Salam Zaeef/2010) を紹介する第9弾。今回はその第6章「撤退」の最終部分から抜粋・翻訳する。

亡き父の友バハウッディンから6万アフガニもの大金を喜捨されたザイーフは、さっそくその翌日、バスでカンダハールへと向かった。息子を病院で診てもらうためだ。道中、刑務所のそばまで来ると、ウスタズ(指導者)・アブドル・ハレームとムッラー(師)・ナキブの軍勢がまだ小競り合いをしているのに出くわした。ハレームの手下とおぼしき薄汚い男たちがバスを止めた。

「全員バスから降りて、塹壕を掘り始めろ。」

「私は6カ月の病気の息子を連れて病院に行く途中です」とザイーフ。

「さっさと降りろ。聞かれていないことはしゃべるな。
今度口をきいたら、30発撃ち込んでお前の体を蜂の巣にするぞ。
ムジャヒディーンに協力しないとは何事だ。」

恥を知れ!この類いのムジャヒディーンよ。こんな連中がムジャヒディーンの名を貶め、全ジハードを辱めた。徴用され塹壕を掘っている最中に、撃ち合っている双方から銃撃を浴びる。こうして命を落とす民間人は多かった。しかも徴用した兵士たちは死者をまともに埋葬せず、その死を家族に知らせることもない。

バスから降りて塹壕を掘る場所に向かっていると、誰かがザイーフの肩を叩いた。

「おー、ムッラー様。ここで何をしているのですか?」
兵士の一人だった。事情を伝えると、

「このゲス野郎め!ガジがどんな顔か知らないのか?バスから引きずり降ろしただと!いいかね、わが息子よ。この方はムッラー様だ。ロシア時代からのガジだ。それくらい知っておけ。」

※脚注「ガジ:文字通りの意味はイスラームの戦士。ムジャヒドと似た意味なので、代替語としてよく使われる。」

ジハードにおけるザイーフの人気は大きかったようだ。顔もよく知られていたのだろう。彼は運良くバスに戻ることを許された。最初に命令した男は「わが息子よ!どうすれば私のこの父が誰なのかを知り得たでしょう?」と謝った。命がけの徴用を免れたザイーフを乗せてバスは再び走り出した。

※脚注「文字通りに訳すと意味をなさないが、パシュトゥー語で父と息子の関係を語ると、それは尊敬の意を表す。」

しかし、走ることものの数分。またバスは止められた。そこはヒンドゥー・コタイという村で、今度はムッラー・ナキブの手下の出番だった。その1人が車内に乗り込み、見回してから降りた。無言だった。別の男が果物の入った袋を持って乗り込んで来た。ムッラー・ナキブの検問所で働く男だった。

その男を乗せたままバスは発車。ザイーフが尋ねた、
「兄弟よ!その果物にいくら払った?」

男は笑って答えた、
「幹線道路を走って果物を運ぶトラックからの上納金代わりさ。」

ザイーフが1台あたりの上前を聞くと、「10袋」とのこと。

「そんなに取るなら、パキスタンまでの安全は保証するんだろうね?」と確かめると、

「俺たちがカバーするのはハザラジ・ババまで。その先はラライの領分だから、彼の部下がまた上納金を課すのさ。」

※脚注「アミール・ラライ:ワイヤン(シャー・ワリ・コット地区)出身。ハッジ・ミール・アフマドの息子で、1980年代のジハードにワイヤンにおいて参戦。現在(2010年)カーブルで国会議員を務めている。」

ヒンドゥー・コタイとハザラジ・ババの距離はわずか4キロ足らず。数々の検問所を通るトラックは、その荷物をほとんど失うだろう、とザイーフは心配した。

その夕方、ザイーフと息子は無事に帰宅した。その日の経験から、家族に「アフガニスタンは最早安全ではない」と語った。彼が暮らすパンジャウィ地区の行政官はモアレム・フェダ・モハマド。善人にしてムジャヒドでもあったが、市街への旅すら危険で困難なものになっていた。「モアレム・フェダは厳格で、任地においては盗賊、博徒、酒飲みを許さなかった。しかし、いつまでこの地を守れるだろうか?」

※脚注「モアレム・フェダ・モハマド:パンジャウィの中心地出身。1980年代のジハードで、カリスのヒズベ・イスラミと共闘したムジャヒディーンの大司令官。2001年のマザーリシャリーフではターリバーン側に立って戦うも、捕虜となりグアンタナモに送られた。後に釈放されアフガニスタンに戻った。現在(2010年)も存命中で、パキスタンに拠点を移し、アフガン国内の外国軍と戦っている。」

こんな事件もあった。イードの祝日に、ウスタズ・アブドル・ハレームは部下を従えてパンジャウィまで下ってきた。闘犬を催し、住民から金を巻き上げようとの魂胆だった。地区の警察官がそれを事前に察知し、止めさせようとした。そこで暴動勃発。すぐに地元のムジャヒディーンが警察に加勢し、「ハレームの喜びを悲しみへと変えた。」部下の幾人かが殺され傷ついたが、ハレーム自身はどうにか逃げ延びた。

ザイーフはこれを見て、家族もろとも(再び)パキスタンへと逃げ出した。幹線道路は使わず、密輸ルートや裏街道を行く。南アフガニスタン一帯にはびこる、旅行者を銃で脅し、財産を奪い、妻をレイプするギャングたちを避けるためだ。「道中に安全も法もなかった。」元ムジャヒディーンが暴漢となり人々の血を吸って生きていた。「誰も彼らを訴追しない。旅は危険で高価な賭けだった。」

事件に巻き込まれること無く越境できたときはほっとしたと言う。クエッタ近郊の村に住む従兄弟が彼らの住む部屋を工面した。そうこうするうちにバハウッディンにもらった金も底をついた。「またも困った状況だ。」従兄弟から借り入れをして小さなヨロズ屋を開いたが、ほとんど稼ぎにならない。にもかかわらず、小さな家を借りて、イスラームの研究と教育を再開した。

窮すれば通ずか。やがて手を出した宅地開発の事業が当たり、「アフガニスタンは忘却の彼方へ。」
●借金する
●小さな土地を買う
●そこに何軒か家を建てる
●数か月のサイクルで完成した家を売る
●借金を返済する
●また借金して・・・

やり手である。一家の財政状況は格段に向上した。「仕事に精を出し、起きている間は1分たりとも惜しまず、労働か研究に捧げた。」この成功を経て、ペシャワールへと居を移した。その街で、ザイーフはイスラームの研究と教育の完遂を目指した。さらに、そこで政治への興味が育まれ、一層の精進を重ねた。

こうして第2の故郷パキスタンで経済的成功を収めた23歳のザイーフ。時は1991年。ソ連の撤退から2年以上が過ぎていた。やがて伝え聞くアフガンの惨状が彼を祖国へと引き戻すことになる。

(続く)

 

==========<野口壽一>==========(2023年5月15日)

5月15日といえば、思い出すのは1932年の5・15事件。その日、総理官邸に押し入った青年将校に銃殺された犬養毅総理の有名な言葉「話せばわかる」が発せられた。犬養の評伝『狼の義』(堀川惠子/KADOKAWA)を紹介するPRESIDWNT Online(2019/05/15)によれば、「頭部を撃たれた犬養はそれでも意識があり、テルという名の女中に、「今の若いもんをもう一度、呼んでこい。よく話して事情を聞かせる」と、言ったという。凄まじいまでの信念の強さである。

人間には話してもわからない「バカの壁」がある、と養老孟司先生が初版を発行して断定したのが2003年4月。犬養毅の言葉が発せられてから71年後だ。もし養老先生の言葉を犬養総理が知っていたら何と言っただろうか。

野口は、取材でアフガニスタンを最初に訪れた1980年8月以前には、人間同士であれば「話せばわかるはずだ」と思っていた。そう思ったのは、対立して闘っている政権側と反政府勢力の間のことではない。学生運動や反戦運動、労働運動の経験から、話してもわからず最後は力と力による衝突になる、という事実は身に染みてわかっていた。話せばわかる、と思ったのは、革命によって新政権から土地を分け与えられる農民は受益者であるから、話せばわかるはずだ、と思っていた。甘ちゃんでしたね。

人間というものは「こちらの水はあ~まいよ」と言えばそちらに寄って来るような単純なものではない。頭で分かってはいても現実に直面するまで真に理解できないこともある。敵陣に突入して命を捨てる行為も、督戦隊に背後から銃撃されるからいやいや突入するケースだけでなく、自ら命を捨てるべき論理を信じて突入するケースもある。

本当のバカの頭の中にある壁ならば、話せばバカが解消されて分かるようになるかもしれないが、死ぬべき論理を信じている人間の頭の中にある壁を話して超えることはできないだろう。話して説得しようとすれば犬養のようにズドンとやられてしまうに違いない。

今号のトピックス欄に「ターリバーン元報道官、海外でタリバン反対派へのナイフ攻撃を呼びかける」(2023年5月2日)を掲載した。ターリバーン内務省の元報道官サイード・コスティが、アフガニスタン内外でターリバーン反対派をナイフで殺せと脅迫した件だ。つまりこの男は、信念や思想という頭の中の壁はナイフや銃弾で突き崩すしかない、とわかっているわけだ。

最近、「『台湾で戦争』と信じる中国民衆、戦狼効果に慌てる当局」という記事が日経新聞に掲載された(5月10日)。強硬姿勢をつらぬく習近平指導部の姿勢に、戦争の危機が近づいていると信じた中国人民がネット空間で危機感を募らせ始めたというのだ。むかし日露戦争の講和交渉で日本代表の姿勢が軟弱だとして起きた日比谷焼き討ち暴動を思い出す。これも、日露戦争の戦果をたたえ交渉団の弱腰をたたく新聞の論調に大衆があおられた結果だった。この二つの事例は養老先生のいう「バカの壁」ならぬ「壁のないバカ」、つまり信念や知識という知的壁のない付和雷同頭脳のなせる業なのではないだろうか。

課題は、「賢い壁」、情報をフィルタリングする「賢さ」を人民大衆が持つこと=教育なのだろう。

 

==========<金子 明>==========(2023年5月5日)

アブドル・サラム・ザイーフの自伝「ターリバーンと共にある私の人生」(My Life with the Taliban/Abdul Salam Zaeef/2010) を紹介する第8弾。今回はその第6章「撤退」の後半から抜粋・翻訳する。

ターリバーンのリーダーたちがカンダハールにある穀物貯蔵庫で会議を開いた。ロケット弾や迫撃砲の傷を残しながらも、街の西部郊外に今(2010年)も建っている倉庫だ。ロシアが出て行った後、ターリバーンがほかのムジャヒディーンの派閥と街をどう分割するかを討論する会議だった。

※脚注「会議:当時のニュース記事が残されており、それによると1992年4月14日に開かれた。」

ちょうどその時、ムジャヒディーンの各集団がカンダハールを目指して素早く進軍していた。彼らはナジブラー政権の側に寝返り、ターリバーンを新行政から排除しようと企んでいた。瞬く間に街は分割。ターリバーンが会議で次の出方を探っているまさにその隙に、倉庫の外では街中が彼らによって分割統治されてしまった。

※脚注「分割状況:グル・アガ・シェルザイが州知事に納まり、ムッラー・ナキブラーが陸軍基地を掌握。アミール・ラライは市内のイード・ガー門まで迫り、紡績工場と織物職人の工房群を手に入れた。ハッジ・アフマドが空港、ウスタズ(師)・アブドル・ハレームがKhADの事務所・警察署・刑務所、サルカテブがバグエ・プル地区(カンダハールの約10キロ西)と穀物倉庫周辺を押さえた。」

会議の場を一旦離れ、所用のためバイクに乗って市外と向かったザイーフは、何十人もの武装集団が検問所を突破し、市内になだれ込んだのを目撃した。急いで倉庫に戻り、会議に乱入した。居並ぶ司令官たちに叫ぶ、「ここでのんびりしている間に、街は同盟軍に奪われたぞ!」この静かなる進撃に気づいた司令官は誰一人いなかったのだ。ターリバーンが、事態を収拾しようと街へと出向いたときは、もう遅かった。

対ロシア戦において、命を賭けて戦い、何千もの犠牲者を出し、「ジハードの最も重要な柱の一つだった我々ターリバーンは裏切られた。」ようやく確保できたのは、空港のそばにある古いロシアの家族向け兵舎※1だけ。この失態はひとえに故ハッジ・ムッラー・ヤー・モハンマド・アークンド※2の責任だった。

※1脚注「ロシア兵舎:ファミリー兵舎と呼ばれ、政府役人もしくは軍人の家族が暮らしていた。現在では隣に建てられた集合住宅に比べて見劣りするが、まだそこに暮らしている家族もいる。彼らは建物と土地を政府から購入し、居残る道を選んだ。」

※2脚注「ヤー・モハンマド・アークンド:1980年代のジハードにおいて、ヒズベ・イスラミのために戦った大物司令官。ターリバーンが政権を取ると、ヘラート州、続いてガズニー州の知事に任命された。しかし1999年、会議の最中に殺された。殺害犯は不明で、彼が殺された状況は(多勢が目撃したにも関わらず)ある種の謎となっている。」

こうしてターリバーンはかつての仲間に裏切られ、その取り分も少なかった。「だが、我々は戦いを続けようとは思わなかった」とザイーフは言う。ほとんどのターリバーンは故郷へ帰り、学業を続けた。「アフガニスタンからロシア人を追い出したという事実だけで満足したのだ。」

ここでアフガンの政況を見ておこう:
●どの地域でもムジャヒディーンの一派が隆盛を極めた。
●ナジブラーは辞任を強いられ、1992年4月16日にカーブルの国連庁舎に亡命。
●2週間後、シブガトゥッラー・ムジャッディディー※1率いる暫定政府をISIがペシャワールに擁立した。
●ムジャッディディーの任期は2ケ月のみで、その後はブルハヌッディン・ラッバーニ※2が引き継ぐ手はずだった。

※1脚注「シブガトゥッラー・ムジャッディディー:1925年カーブル生まれ。アフガニスタンとカイロ(アル=アズハル大学)で教育を受け、1980年代には亡命先のペシャワールにて主要なムジャヒディーン政党の一つを率いた。1992年7月に暫定大統領に就任。カーブルで今も(2010年)、アフガン政治の一角を担っている。

※2脚注「ブルハヌッディン・ラッバーニ:1940年生まれで、出身地はファイザバード(アフガニスタン北東部にあるバダフシャーン州)。カーブルで教育を受け、カイロのアル=アズハル大学に留学した後、1968年に帰国。1980年代ジハードにおける主要政党の一つ、ジャミアテ・イスラミの党首。1992年に大統領に就任し、ターリバーンがカーブルを制圧した96年まで在職。カーブルで今も(2010年)、アフガン政治の一角を担っている。」

ムジャッディディーの大統領就任についてザイーフは「暫定とは言え、たった2カ月とは奇妙に思えた。羊飼いですら4カ月より短い仕事は受けない」とニヒルにコメントしつつ、そのニュースを朗報と捉え、大いに喜んだと言う。それは次のように伝わった:

●ある日、ザイーフはカーブルからのラジオ放送に耳を傾けていた。
●それは以前、ムジャッディディーをISIとアメリカの召使いだと非難した局だった。
●ところが番組の司会は平坦な調子でこう口を切った、「ハズラット・シブガトゥッラー・ムジャッディディー教授閣下はジャブハイエ・ミリの党首ですが、このたびアフガニスタンイスラーム政府の大統領となりました。」

※脚注「ジャブハイエ・ミリ:アフガニスタン国民解放戦線。1980年代にペシャワールでムジャッディディーが旗揚げした。ジハードの主要政党の一つ。」

「この瞬間が私の人生最大の幸福だったかも知れない」とザイーフの語気は荒い。1989年のハッジ(聖地巡礼)でメッカとカーバを見たこと、結婚したこと、学習及び知識の喜びを知ったこと、アラビア語で書かれた聖なるクルアーンの恵みに触れたこと、後に政府の役職を頂いたことと比べてすらも、「この日の喜びには及ばない」と言うのだから、相当なものである。

※脚注「カーバ:サウジアラビアのメッカに位置する。全ムスリムが日々の祈りを捧げるとき、顔を向ける精神的焦点。ムスリムはイブラヒム(アブラハム)がカーバを建てたと信じている。ハッジの儀式においても大きな役割を持つ。」

ザイーフによると「あのとき私は幸せだった。これでやっと国民の願いが叶ったと。」ところが、その後に録音で登場した大統領本人の演説が「一句一句」彼を絶頂から引きずり下ろした。その極めつけがこれ:

「首都の北西に位置する肥沃な谷パンジシール※1から来た、シャー・アフマド・マスード※2を終身国防相に任命する。」

※1脚注「パンジシール:カーブルの北にある渓谷地帯。レジスタンスの司令官シャー・アフマド・マスードと関連付けてよく紹介される。民族は主にタジク人。16世紀にはスンナ派へと改宗させられた。サラン峠に近いため、ソ連と戦うには理想的位置にあった。ソ連はこの谷を一度も制圧できなかった。」

※2脚注「シャー・アフマド・マスード:1953年、パンジシール生まれ。ソビエトに対する1980年代のジハードにおいて、最も有名なレジスタンス司令官の一人。1990年代には政治面、軍事面両方で優れた活躍をした。1992年に国防相。1990年代末は、ターリバーンに対抗して『北部同盟』を組織。『パンジシールの獅子』と称賛された。2001年、世界貿易センタービルへの攻撃の数日前に暗殺された。」

「なぜ大統領は、国防相という要職を州レベルの司令官に任せるのか? しかも大統領本人が2カ月の期限付き就任なのに、その地位を終身にわたり保証するとは? なぜ、よりによってマスードなのだ? ムジャッディディー自身がジハードにおいて神の名のもとに大変苦労し、多くの犠牲を払った。なぜさらなる苦労を呼び込むようなことをするのか?」

一緒になって手強い共産軍を蹴散らしたあとだけに、ザイーフの失望は大きかった。聞いているうちに涙が出て頬を伝い、やがて大声で泣き叫んでしまった。一緒にラジオを聞いていたムジャヒディーンが驚いて声をかけた、「この幸せな日になぜ泣くのだ? アフガニスタンは解放され、望みが叶ったではないか。」ザイーフは犠牲となった戦友のことを思うと、この人事が唾棄すべき暴挙と思えたのだ。

案の定、カーブルではマスードとヘクマティヤールの戦闘が勃発した。前者が首都の全掌握を宣言したが、首相たる後者は認めなかった。「まるで共産政権時代のハルク派とパルチャム派の戦いだった。」繋がりはぼんやりしたものだったが、概してハルクがヘクマティヤール、パルチャムがマスードを支援した。

※脚注「グルブッディン・ヘクマティヤール:1954年、クンドゥーズ州生まれ。政党ヒズベ・イスラミの党首。ソ連侵攻前はイスラーム主義者の間でのみ有名だったが、1980年代のジハードで広く脚光を浴びた。その間、ムジャヒディーンへの援助から、身に沿わぬほど多くを懐に収めた。1992年5月カーブルで首相に就任。2002年に逃亡。北東アフガニスタンの山中に隠れ、アフガン政府と外国軍に対し、軍事行動を展開していると信じられている。」

2人の戦闘はすぐにカンダハールに飛び火した。ムジャヒディーン同士が血で血を洗う抗争劇を繰り広げた。ターリバーンはそこから身を引き、ほとんどの戦士が故郷に戻った。ムッラー・オマールは、サンジサールにあった陣地をマドラサに模様替えした。しばらくザイーフも彼に従っていたが、「稼ぎがないので長く続けるのは難しかった。」

やがて妻と子どもたちが暮らす町へ帰ろうと決心する。彼は1987年に結婚していた。妻は実家に残り、既に子どもも産んでいた。戻ると義父が「働け」と勧めた。かつて戦友とつるんで、工事現場で金を稼いだのとは訳が違う。今度は家族を養うための孤独な労働である。

「生涯働いたことがなく、事業を始める金もなく、途方に暮れた」ザイーフだったが、近くで幹線道路を工事していると聞き、翌日駆けつけた。戦後の人手不足の時代。すぐにシャベルを渡された。道路に沿って水路を穿つ。朝8時から昼1時までの仕事で、1日のギャラは250アフガニ(約600円)と小麦7キロ。ザイーフは「家族を養うため一所懸命働いた。」

本題とは直接関係しないが、ここにアフガンの肉体労働者の面白い生態が描かれている。読者の皆さんの労働に対する視点が問われる逸話なので紹介しよう:
●ザイーフ以外の労働者たちは、放っておかれたり、見張りがいなくなると仕事を止める。
●地面に座り込んで、お話を始める。
●働き続けているザイーフに「やめな」と言いさえする。
●見張りがいても、「忙しぶりっこ」をして裏で手を抜く。

勤勉を旨とする日本人の感覚からして、この労働者の態度はいかがだろう?「ほらコレだ、怠けは良くない、民度が低いね」と鼻で笑うだろうか・・・敬虔な宗教小僧だったザイーフ自身も「いかがなものか」と言わんばかりにこの状況を報告している。果たしてそうだろうか?

暑い砂漠にスコップ1本を渡されて毎日毎日水路を掘らされてみないと分からないだろうが、これは命を削る労働である。もちろん工事費用の大半は管理者側がくすねている。「だったら見張りくらい出せよ、こちとら命を賭けてんだよ、倒れたら助けてくれよ、見られてないときくらい自主休憩にするさ。」

これは至極バランスの取れた労働感覚、体のほか売るものを持たない人々の真っ当な防衛手段だと、「つぶやき子」には映る。(何か隠れた悪事によって)日々の生活に困らない先進国の住人や、共同体の情けで(いと高きところの神を崇め)宗教に打ち込める幸せ者に、この怠けを「悪」だと非難する資格があるか?

さて、この記念すべき労働の初日、昼になるとザイーフに都合良く白馬の騎士が現れた。父の生徒で友人だったハッジ・バハウッディンという知人がバイクで通りかかったのだ。たった数時間の労働で皮がすりむけ血をにじませた彼の手を見て落涙。「このような手は働いてはならぬ」と宣言し、即刻ザイーフをバイクに乗せ実家まで送り届けた。

家には6カ月の息子がいたが、病気だった。恥ずかしながらバハウッディンを歓待する食べ物も茶も備えがない。白馬の騎士はそそくさと姿を消した。「これは困った、どうお礼をしようか」と悩んでいると、ドアにノック。バハウッディンの息子だった。手には小麦粉が一袋。「これを中に入れてもいいですか?」と聞く。

中庭に荷を降ろすと、息子はポケットから封筒を出した。「父が言うには、あなたはこのお金であなたの問題をすぐに解決するべきです。」ザイーフが数えると6万アフガニ(約15万円)もの大金だった。バハウッディンの「想像を絶する気前の良さ」に驚き、その善意を一生忘れないとザイーフは記録する。

翌日、彼はバスに乗った。息子をカンダハール市内の病院で診てもらうためだ。しかし、このバスの旅が、ザイーフを窮地に陥れた。

(第6章「撤退」は次回も続く)

 

==========<野口壽一>==========(2023年5月5日)

ウクライナ戦争の成り行きを注視していると、どうしても、青春の情熱を賭けたベトナム戦争反対運動時の既視感に襲われる。国土を蹂躙され住民を虐殺される側のウクライナはかつてのベトナム、侵略し無差別爆撃で住民を苦しめインフラを徹底的に破壊するロシアはかつてのアメリカ。

あの頃、北ベトナムを支援したのはソ連を先頭とする社会主義諸国と第三世界諸国(今でいうグローバルサウス)それに西側(資本主義国)の反戦勢力だった。アメリカ本国でも若者を中心に激しくかつ大衆的な反戦運動が燃え盛った。善悪は二者択一、シンプルだった。

今は世界の大半から反感を買っているのはかつてのソ連邦を引き継ぐロシア連邦。建前の国家目標は旧ソ連時代の支配地域回復と中世ロシア帝国の栄光を追う偏狭なナショナリズム。中国はロシアを表立って批判せず漁夫の利をむさぼっている。万国の労働者人民連帯の立場に立つ国際主義を打ち捨て一国の国家利益の実現に邁進しているようにしかみえない。世界は複雑化し、ねじくれている。

今となっては老成できない独りよがりの老人の繰り言かもしれないが、つい、つぶやいてしまう。

あの頃のソ連や中国は、まだ、第2次世界大戦時のファシズムとの戦いに勝利した余韻を身にまとい、資本主義に対するアンチテーゼとしての社会主義理念を掲げていた。それに対する希望が世界的に存在していた。しかし、先進資本主義国では、スターリン登場以後のソ連の一国利益主義や民衆を搾取し社会を停滞に陥れる官僚主義に対する失望と批判が高まっていた。日本では、安保反対と反帝反スタ思想が理想に燃える行動的な若者の心をつかんだ。

ベトナム人民はアメリカには勝利したのだが、国家運営を理想的な社会主義思想で行うことはできず、中国の改革開放政策に類似のドイモイ政策を導入し、国家資本主義に近い一党独裁体制を維持している。

そもそも、マルクスらが唱えた社会主義(共産主義にいたる過渡的な社会)は一国で実現できるものではなく、政権党が社会主義を宣言すれば実現するような代物ではなく、客観的な社会経済発展法則にしたがう歴史的な世界革命事象のはずなのだが、政権を取ってしまうと一国での生き残りが最優先され、現在の中国のようになってしまった。マルクスの唱えた社会主義は資本主義に対するアンチ思想ではなく、爛熟した資本主義があたかも熟した柿が自然に落ちるようにして出現する社会発展段階だとすると、現在の中国やベトナム、崩壊したかつての社会主義諸国が資本主義的政策を取り入れているのは理にかなっているのかもしれない。一歩後退だ。ロシアが国家思想として帝政ロシアに戻るのは何十歩も後退する行き過ぎだ。

いずれにせよ、昔の「反帝反スタ」というスローガンは、「改帝改スタ」つまり、帝国主義とスターリン主義国家の両方を同時に改革せよというスローガンに改変する必要があるのかもしれない。

==========<金子 明>==========(2023年4月25日)

アブドル・サラム・ザイーフの自伝「ターリバーンと共にある私の人生」(My Life with the Taliban/Abdul Salam Zaeef/2010) を紹介する第7弾。今回はその第6章「撤退」の前半から抜粋・翻訳する。

長かった戦いだが、ザイーフによると「80年代末になって、我々はやっとテーブルをソビエトに向けひっくり返した。」犠牲の多さに耐えきれず、モスクワが撤退を決めたのだ。その理由の一つは「ムジャヒディーンが戦場だけでなく国際舞台でも優位に立った」ことだった。

それを可能にしたのは:
●主権国を暴力で侵したロシアに対する国連の度重なる非難
●パキスタンから「反対側」へ潜入し、戦争を目撃したジャーナリスト
●欧米に生まれたアフガニスタンを支援する組織や社会的風潮
などであった。

ムジャヒディーンは多額の援助金を受け取り、高性能の武器を手に入れた。80年代半ばでは既にロシアに対し優勢だったと言う。片やソ連は国際的に孤立し、国内でも市民や退役軍人たちが、政府に内側から圧力をかけ始めていた。

アフガニスタンをソ連の第16共和国にしようとしたバラク・カルマル大統領※1が辞任し、クレムリンの傀儡であるナジブラー※2がその後任となった。彼は前任者よりも力で劣り若かったが、さすがKhad※3の元長官だけあって寝技に長け、大統領へと上りつめた。

※1脚注「バラク・カルマル:1929年カーブル生まれ。ソビエトのアフガン派兵に合わせて帰国し、79年12月から86年11月まで大統領職。96年、モスクワにて没。」

※2脚注「ナジブラー:1947年カーブル生まれ。86年11月から92年4月まで大統領職。共産主義政党アフガニスタン人民民主党(PDPA)の重要メンバーでパルチャム派に属する。96年、ターリバーンによるカーブル掌握に際し、拷問の末処刑され、その遺体を公衆の面前にさらされた。」

※3脚注「Khad:アフガニスタン国家保安局の別名。ナジブラー大統領がWADと改名したが、今でも諜報機関である国家保安局の通称として人口に膾炙している。」

そのナジブラー期に、ロシアはアフガニスタンから兵力を引き揚げることを発表した。それにザイーフは大喜び。「聖戦は終わったようだ。我々は勝ったのだ。生きているうちにソ連が撤退するとは思っていなかった。」彼にとって戦うことは死への誘いだった。「死を望みさえもした」と強弁する彼にとっても、この勝利はありがたかったようだ。

しかし、勝利が平和を呼ぶという単純な話ではなかった。「違うグループが違うゴールを目指し、ムジャヒディーン間の緩やかな同盟が見る見る揺らぎ出した。次に起きたことは戦いの成果をぶっ壊し、ムジャヒディーンと聖戦そのものの名誉を辱めた。」

戦局は次のように変化した:
撤退の発表→ロシアによる軍事作戦の数が急激に減少
→山岳部でも砂漠地帯でも、彼らのパトロールがほとんど停止
→すぐに都市部や幹線道路からも姿を消し、空港と滑走路にだけ軍備を集中
→そこから退路への空爆だけは引っ切りなしに続けた。

そんなロシア軍の撤退は「村々の生活を格段に向上させると共に、新たな問題も生み出した。」1990年に米国はムジャヒディーンへの資金援助を減額し始めた。金にありつけなくなった司令官たちは、他の金づるを求めて右往左往した。「ムジャヒディーン戦士に金を払っていた司令官もいて、金の切れ目は部下の喪失を意味したのだ。」

※脚注「1989年10月から翌90年10月までの1年間で、CIAの隠密アフガン計画への秘密の予算割り当てを、米議会は約60%減額させ、計2億8千万ドルにまで落とした。(2004年、コルによる)」

活動を続けるためにナジブラーの新政府に尻尾を振った司令官もいた。大統領はここを先途と、自慢のKhadに彼らの部隊を登録した上で、金を与えた。こうしてムジャヒディーンの多くは政府の諜報部門の出先機関に成り下がり、「もはや政府にとっての脅威ではなくなった。」

政府の犬となったムジャヒディーンは、奇妙な戦争ごっこに明け暮れた。それは手の込んだ芝居で、次のような筋書きだ:

●当時のカンダハール州知事ヌール・ウル=ハク・ウルミが、トラック何杯もの金をいくつかのムジャヒディーン集団にばらまく。
●条件は、お互いが戦い合っていると見せかけること。
●戦闘にあたっては事前に「お知らせ」を交わすので、死傷者は1人も出ない。
●その金の出所はナジブラーを操るソ連だった。

※脚注「ヌール・ウル=ハク・ウルミ:カンダハール州の出身で、元共産軍の陸将。1980年代末の政権移行期間に州知事を勤めた。ナジブラーが打ち立てた『従えば現ナマ』方針に沿って、巨額の資金をばらまき、好戦的だったムジャヒディーンを骨抜きにした。」

これはムジャヒディーンの変節である。こんなことでは求めていた「イスラームによる政権」など絵に描いた餅にすらならない。ザイーフはあきれて、ムジャヒディーン全般と「我々のように本来の方針通り共産主義に対し聖戦を挑み続ける前線部隊」との間に一線を画す。こうして「ターリバーン」とその他のカンダハール系ムジャヒディーンは決別した。

(後付けの分析は以上。)
とは言え、1988年8月、最後のソ連兵がカンダハールを後にしたとき、ザイーフの心は晴れかつ躍った。そう、文字通りアッタンを踊った。皆が古いストーブの蓋を叩いてリズムを奏でた。歌い出すムッラーもいた。「イスラームによる政府」を打ち立て、死者を弔い、孤児を食べさせ、未亡人を援助できると夢見た。だが、実際に登場した新政府は別物だった。

ナジブラーによるラジオ放送:
●平和、安全そして兄弟愛を語った。
●聖なるクルアーンから予言者ムハンマド(神に平穏あれ)のハディスの数節を引用した。
●和解への道はまず許すこと。真の和解はその先にしかない。
●起きたことを忘れ、生じてしまった敵意や衝突を記憶からブロックしよう。
●「君は何もしなかったし、私も何もしなかった」が彼の常套句。
●私に加わり、共に政府を確立しよう。

※脚注「ハディス:予言者ムハンマド(PBUH/彼に平穏あれ)の言行録。一連の証拠(アスナッドと呼ばれる)をもって特定され聖文化されている。口承で伝わったイスラームの神髄で、後の宗教学者たちが収集し一定の書式に従い書き留めた。」

確かによい話を聞いた。しかしザイーフたちは「新大統領が弱く、その政府には力がなく、永続させる援助も来ない」ことを知っていた。

さて、そこはさすがに学生を意味する「ターリバーン」。ロシア人がカンダハールを離れると、多くはザイーフのように宗教の研究を再開した。もちろん治安活動は続け、ときに僻地においては共産主義者の残党どもと戦いつつ。

仲間たちとカンダハール近郊に暮らし、住居にマドラサよろしく人々を集めた。そこで教えながら学問に勤しむ。そして稼ぐために、建築現場で働く。やがて2台のクルマを所有し、さらなる収入を求めてトラクターもレンタルしたと言う。学生でありつつ、いっぱしの事業家でもあったようだ。

ところが先述の変節したムジャヒディーンにとって、正論を説くターリバーンは目の上のたんこぶ。やがて、事件が起きた。

(続く)

 

==========<野口壽一>==========(2023年4月25日)

「知恵の女神は武装していた」

この名文句を私は、大学を卒業してしばらくある雑誌の編集をしていたころ、日本を代表するさる大先生の口から直接聞いた。

出隆先生である。原稿依頼でご自宅をなんどか訪問したことがあった。「出隆」といえばアリストテレス研究の泰斗。戦後、日本共産党に入党し朝鮮戦争さなかの都知事選に立候補した闘う哲学者として尊敬の的だった人。そんな先生に原稿料無しの原稿執筆を依頼に行く方も行く方でタダモノではないが、そんな若造を書斎に引き入れて何時間もお相手される先生も先生で大人物だったんですねぇ。私が20台半ば先生は亡くなる数年前だから80数歳だったはず。カクシャクとして論理明晰、浅薄で青臭い若造に諄々と教えを講じてくださった。こんな出会いが可能だったのは、先生が、1964年に党中央の路線に公然と反対された方だったからだ。そのとき日本共産党は総評のストライキに直前で反対する裏切り行為を働いたのだった(日本共産党の大衆運動裏切り、引き回しは当時から同党の業病、宿痾)。先生はその日本共産党の在り方に反対する党員文化人12人のひとりとして除名されていたからで、私がやっていた雑誌が先生たち知識人グループの影響を引く潮流の一部に属していたからだ。

当時はベトナム戦争が最終局面を迎えており戦闘も激しさを増していた。当然話題は戦争と平和。哲学者としての先生の思想を当時の若者に伝えてほしい、と切実にお願いしたものだった。いまとなっては記憶は断片化しているのだが、その代わり、エキスだけが残っているような気がする。

先生は都知事選に立候補した時の演説の模様をこぶしを振り上げて話された。ひょろりとして背が高く、手足がながく先端部分が大きい。頭も大きく髪はぼさぼさだった。そんな風貌の先生が頭上にあげたこぶしを開き人差し指を立てて頭上で後ろを指さして演説のシーンを再現された。
「あの時はGHQの占領下で朝鮮戦争反対と言えないんだよ。だから、朝鮮半島の方向に背を向け指さして、あちら方の戦争反対、とやったんだ」と。ひとしきり選挙演説の苦労話をされてから、突然「君、知恵の女神は武装していたって、知っていたかい」と問われた。「知りません」と答えたら、ギリシャ神話の知恵の女神アテナは、知恵と平和の神であるが同時に武装して生まれてきた軍神なのだ、と話された。もう、その時の具体的な話は思い出せないが、平和は力なしには守れないということを教えられたのではないか、と記憶の底に沁みついている。何をもって「力」とするか、永遠の課題ではあるが、いま答を持っていなければ、いまを生き抜くことはできない。

他にもいろいろと教えていただいたが、それはまたの機会に。

 

==========<金子 明>==========(2023年4月15日)

アブドル・サラム・ザイーフの自伝「ターリバーンと共にある私の人生」(My Life with the Taliban/Abdul Salam Zaeef/2010) を紹介する第6弾。今回はその第5章「苦い絵」から抜粋・翻訳する。

1985年に試みた自身2度目の越境攻撃で負傷し、我らがザイーフはあっさりと亡命先のパキスタンに逃げ帰った。だが、行ったり来たりの戦いこそがムジャヒディーンの真骨頂。その上、ザイーフは体力と気力に満ちた10代の若き戦士。そんな彼は仲間たちとともに、結局ソ連を敗走させるまでカンダハール州で戦い抜くことになる。だが、その戦いの情景はあまりにも苦いものだった。

悲しい統計を著者は第5章の冒頭で紹介している:
「ソ連が送り込んだのは合わせて10万の兵士。対したムジャヒディーンの戦死者は約100万を数えた。」

※脚注:「アフガニスタンの戦死者に関するある統計(カリディ、1991年)によると、1978年から1987年までの9年間にアフガン国内で生じた不自然死の総数は87万6825件に上る。また1995年に出されたWHOの統計では、戦争が原因の身体障害者数を’150万弱’と見積もっている。」

特に自ら参戦し活躍もした戦争末期の数年間においては、1度の戦闘に数千のムジャヒディーンが加わる場面もあって、ソビエト軍とそれに与するアフガン政府軍の残忍な行動が目立つようになり、絶え間なく空爆を仕掛けてきたと言う。

※脚注:「1985年の1年だけで、米国はムジャヒディーンに2億5千万ドルを提供したが、その額は、1980年から1984年まで、つまり過去5年間の援助額の合計と同じだった。その結果1980年から1992年までの間に米国は総額20億〜30億ドルをムジャヒディーンに与えたことになる。またアラブ系の資金提供者からも、ほぼ同額が与えられた。」

以下この章では「ザイーフの戦争」が活写されるのだが、お馴染みの有名人も登場し、なかなか興味深い。

【カレーシュ包囲網突破】
神出鬼没のムジャヒディーンに対し、ロシアは幾重ものセイフティゾーンで取り囲み、退路を断って殲滅を目論む。カレーシュでどうにか保持しているザイーフたちの前線だが、このまま援軍が無ければやがて陥落する。包囲網の外には別のムジャヒディーンがいるが、連絡手段がない。そこで敵線を突破する伝達者が必要となった。司令官はザイーフを指名した。

敵線の裏に出て、秘密裏に仲間を集め、後ろからロシア兵の不意を突き、蹴散らして隙を作り、本隊の包囲網突破を可能にする。だが、まずもって「どうやれば外に出られるか?」そこで農民に扮し、村人のバイクに乗せられて、ロシアの前線へと向かうことにした。

ロシア側の検問所で待っていたのはとあるアフガン兵。カラシニコフを突きつけ「見たぞ、村でお前が農夫に化けるところを」と探りを入れる。しらを切るザイーフと村人。問答無用とばかり、男はザイーフの腕にペンを突き刺した。血が吹き出る。しかし口は割らない。体中をまさぐっても兵隊であるとの尻尾は何も出ない。とうとう男は根負けし、通行を許した。

バイクを飛ばしながら村人が肩越しに言った、「あれがビスミラーです。ここ数か月で35人が後ろから撃たれて死んだが、ほとんどが奴の仕業なんです。」

※脚注「ビスミラー:当時その残虐さで恐れられていたアフガン兵。現在(2010年)もその記憶はカンダハールに根付いている。」

その日のうちに目的の村に着いた。そこで3日かけて200人のムジャヒディーンをかき集めて本隊の援護に向かった。背後から不意を突かれたロシアとアフガン政府の混成軍は2つに分断された。武器を捨てて逃げ出す敵兵もいた。こうしてザイーフの活躍で、カレーシュの包囲は解かれた。

【サンジサール塹壕戦】
劣勢のロシアはサンジサール目がけて総攻撃に出た。地域のムジャヒディーンが一致団結してそれに対抗する。3日間絶え間なく、ロケット砲、地対地砲、空からの攻撃が続いた。戦闘になれたザイーフたちですら恐怖した。戦車に続いて、陸戦隊が侵入してくる。圧倒的な物量を誇るロシア兵とアフガン兵の混成軍をムジャヒディーンが迎え撃った。

4、5日後、敵は包囲網を完成させた。するとムジャヒディーン側は食料すらも乏しくなった。ロシア兵は徐々に包囲を狭めて来る。陣地の周囲に塹壕を掘った。その塹壕から姿が見えるところまで敵が近づいてきた。夕方近くには距離が100メートルにまで縮まった。そして衝突。わずかな間だったが、戦場は死体で埋め尽くされた。ムジャヒディーン側の戦果は機関銃が2丁といくつかの小型兵器。北側の塹壕を守っていたムッラー・モハンマド・オマール・アークンドに、機関銃の1丁が託された。

※脚注「ムッラー・オマール:1962年生まれと伝えられ、ウルーズガーン州出身。1980年代のジハード(聖戦)においてはハラカテ・エンケラベ・イスラミ(イスラム革命運動)と共に戦っていたが、1994年に、生まれたばかりのターリバーンの指導者に選ばれた。(2010年時点では)広く存命中と信じられ、おそらくパキスタンかアフガニスタンのどちらかで暮らしているとされる。」

次の敵襲は「まさに手と手で競う戦いとなり、手榴弾が頭上を飛び交った。」ムジャヒディーンの1人がそれを空中でキャッチし投げ返す。手放す前に爆発して戦死した者もいた。敵の空爆もあって、ムジャヒディーンは4人の戦死者と4人の負傷者を出した。その負傷者の1人がムッラー・オマールだった。

彼はザイーフから20メートルほど離れたところ、壁の陰から味方を援護射撃していた。ちょうど角から顔を出したとき、近くに爆弾が落ちた。破片が顔に当たり片目をえぐり出した。すぐに室内に運び込む。そこにはすでに負傷した先客がいたが、どんどんとその数が増えていく。「だが、誰ひとり戦意を失う者はなかった。」ムッラー・オマールは自分の手で負傷した目に包帯を巻いた。

その夜、生き延びたムジャヒディーンたちは素敵なパーティーを開いた。皆が何かを叩いて打ち鳴らす中、ムッラー・オマールが歌い出した:

私の病気は、手の施しようが無い
おー、花のような我が友よ
私は生きられぬ、あなた無しでは
おー、花のような我が友よ

その夜の感動を反芻してザイーフはこう記す:
「神よ崇められよ!何というムジャヒディーン間の兄弟愛であることか!世事や命に執着せず、生きる意図は純粋で、全員が殉教者となることを目指した。我々が互いに抱き合った愛と尊敬を今になって思い返すと、まるで夢のように思える。」(下線ママ)

翌日、部隊はザンジャバードへ逃げ出し、2、3日休息した。その間、ロシアとアフガン政府の混成軍はパシュモルへと転戦した。パシュモルのムジャヒディーンが助けを求めてきたので、ザイーフの部隊は敵の後を追った。ムッラー・オマールも参戦を希望したが、説得されて治療のためパキスタンに帰還した。

【アルガンダブ包囲】
南アフガニスタンでロシア軍が仕掛けた最大の戦闘。山を越えて4千台の戦車が侵攻してきた。肥沃な緑の谷で、5週間を超える戦いが繰り広げられた。各地からムジャヒディーンが参戦し、殉教者は数百を数えた。ザイーフの隊だけでも、70人が戦死した。ターリバーンもやって来て、ムッラー・ナキブが率いる軍団と共に戦った。

※脚注「ムッラー・ナキブ:ジハードに加わったことで、特にアルガンダブ地域では今でも高く評価されている司令官。その軍団は勇猛果敢さで知られるが、同時にならず者で残虐だとの批判もついて回る。」

最後はロシア軍がメインの基地がある空港まで敗走した。すると戦いは、空港基地へと至るルートを巡る攻防戦となった:

<ロシア側>
●高速で移動可能な幹線道路に検問所をいくつか設けた。
●ヘリで定時パトロールを行い怪しい動きに目を光らせた。
●夜間単独で移動する車両は必ず停止させ、場合によっては銃撃した。
●山間の密輸ルートを使ってアフガニスタンとパキスタンを行き来するムジャヒディーンに対しては、待ち伏せ作戦をとり、しばしば空挺隊による攻撃も実施した。

<ムジャヒディーン側>
●検問所を一つずつ制圧し、敵を外へと追いやった。
●ターリバーンが活躍し、制圧した地区では独自の司法制度を導入した。
●裁判所が機能し、コミュニティ内の紛争を解決していった。

このように地元民の支持を得た兵力は強かろう。そこへ持ってきて、極めつけはムッラー・ネック・ムハンマド・アークンドの活躍である:

●この男はムッラー・オマールの親しい友人。
●自転車のタイヤチューブを使って呼吸をしつつ、道路脇を流れる川に潜り、戦車隊が通ると、RPGで攻撃する。
●彼は「たとえ死んでも、ロシアにこの道は使わせない」と豪語していた。
●あまりの被害の大きさに、ロシアは彼を殺そうと空から攻撃を仕掛けた。
●そのため結局は爆死により殉教し、その遺体は遺言通り道路脇に埋葬された。
●それからわずか3日後にロシア軍は空港基地へと追い込まれ、彼らがその道を通うことは2度となかった。

【カンダハール空港攻防戦】
「私にとってこれほど強烈な戦闘はなかった」とザイーフに言わしめるのが、1988年夏のカンダハール空港襲撃である。この戦いでムジャヒディーンは空港から逃げようとするロシア軍に引導を渡したことになる。とは言え、その抵抗は凄まじく、58人からなる部隊を率いるザイーフも相当苦しめられた。

時はラマザンであった。

※脚注「ラマザン:ラマダンとも呼ばれる。イスラーム暦におけるある月の名称で、ムスリムはその間、日中は断食を強いられる。しかしこの義務には例外もある。例えば病人や旅人の場合がそれに当たる。」

ウレマーはザイーフに断食を止めても良いと助言したが、彼自身が断食を行っていないときに死ぬのを嫌がった。すると空港襲撃において彼は、指揮する58人のうち50人を失ってしまった。ただし原因は断食ではなく、強敵の存在だった。

※脚注「ウレマー:文字通りの意味は’知識を持つ者’で、宗教学者を指す(本来的にはスンナ派の聖職者)。つまり宗教’科学’(クルアーン、スンナ、ハディスなど)を学んだ者。」

その敵こそが、あのドスタムの部下たちだった。

※脚注「アブドラシード・ドスタム:ウズベク人司令官で、アフガニスタンの戦争を通じて何度も寝返ったことから評判が悪い。1980年代は、ソ連に味方する専らウズベク人からなる軍閥の首魁だった。ところが最後に寝返ってムジャヒディーン政権で地位を授かった。彼の兵力は1980年代のアフガン軍事力の中で最も有名かつ恐れられていた。現在(2010年)も、カーブルおよび北部おいてアフガン政治の要職についている。」

またロシアにとっては、この空港が守るべき最後の砦。不退転の決意で応戦したことだろう。その結果、多くのムジャヒディーンが犠牲となった。そんな中、特に若いターリバーンが命を落とすことに心を痛めた司令官がいた。その名はハッジ・ラティフ・アークンド。この戦いにおけるムジャヒディーン連合のトップで、西側のジャーナリストには「カンダハールの獅子」として知られていた。

「ターリバーンとウレマーこそが、我が国の精神的支柱であり、守られねばならない」と宣言した彼は、続けてこう嘆いた、「私の前線にいる戦士のほとんどは、ハッシッシをふかし、髭を剃り、イスラームについてほとんど何も知らない。私が許せば、ムジャヒディーンの敵に平気でなるだろう。ここにいさせているから、政府軍に加わらないだけの連中だ。それに比べて社会におけるターリバーンの役割は大きい。」

その後ある作戦会議で、実際のターリバーンにまみえたハッジ・ラティフは、「部下たちをターリバーンに変えて見せよう」と心から誓った。そして会議から帰るや否や、部下の散髪や着替え、そして教育に乗り出した。その結果どうなったか?

ザイーフが伝え聞いた所によると。ある女性がハッジ・ラティフの行動を見て、こう批判した:
「そんなことをしても、ターリバーンにはなれないわ。放っておきなさい。彼らは若いし、欲望もある。彼らに残された命はあと2日だけよ。幸せに死なせるべきです。」それを聞いたハッジ・ラティフは即座に先の決断を撤回した。

なるほど、ターリバーンは1日にしてならずか・・・
この示唆に富むエピソードに対しザイーフは「神はより良きことを知り給う!」との1文を添えて、第5章を締めくくる。

(続く)

 

==========<野口壽一>==========(2023年4月15日)

ウクライナ戦争に絡む極秘情報がアメリカからリークされた。直後、ある読者から『ウィキリークスの衝撃』(菅原出、2011年、日経BP刊)なる書籍の書評が送られてきた。アフガニスタンにおける米軍の状況についても暴露されている、と書き添えられていた。出版されたのも暴露された事件も十年以上昔のものだが、当時は極秘情報だった。ジュリアン・アサンジ氏がウィキリークスを立ち上げた2006、7年当時は暴露された極秘情報の内容と分量はすごいもので、世界に大きな衝撃を与えた。その後、創設者のアサンジ氏は謀略的に拘束され現在もイギリスで収監されている。いま、彼はアメリカへの身柄引き渡しの危機に直面している。

アメリカにはもうひとり有名な人物がいる。元CIA職員で2013年に外国のトップクラスの首相や政府要員を含む世界中のすべての人間を盗聴・監視する諜報体制をアメリカが構築している事実を証拠を挙げて暴露したエドワード・スノーデン氏だ。彼はロシアに亡命し今はロシアの国籍を付与されている。

自由と平等と公正を謳うアメリカの2枚舌、3枚舌(それは兄貴分のイギリス譲りなのだが)は誰もが知っている。出版界では暴露本が山ほどでている。ベトナム戦争では有名なペンタゴン・ペーパーズがあり、アフガニスタン問題でもアフガニスタン・ペーパーズがある。岩波書店が翻訳本を出す前に『ウエッブ・アフガン』では、要約を連載した。

ニューヨーク・タイムズが7日前に報じたウクライナ戦争に関する極秘情報漏洩事件の犯人として、さきほど21歳の若者が逮捕された。どのような動機でそれを行ったのか彼についてはいまはまだ不明だが、不正義を許さず全人生をかけ勇気をもって告発したアサンジ氏やスノーデン氏には素直に脱帽する。

日本にもそのような人はいた。代表格は佐藤政権の沖縄返還交渉における密約を暴いた当時の毎日新聞記者・西山太吉氏だろう。彼は先々月の2月24日、91歳でなくなった。西山の死を論じた河谷史夫は書いている。「権力が嘘をつくのは日本も米国も同じだ。だが違いがある。統治の実態を証す公文書が米国では一定年限ののち公開され嘘はばれるが、日本では消失し、あるいは改竄され、嘘が罷り通るのだ。」(『選択』2023年4月号)西山も徹底的にウソを隠そうとする日本の国家権力によって、情報入手ルートが女性からであったことを歪曲粉飾して真実を隠蔽した。一審で無罪を勝ち得た西山は高裁と最高裁で逆転有罪とされた。国家のウソを暴いた記者は罪を着せられ新聞社を退社し苦汁の人生を送らざるをえなかった。しかし、事件から28年後の2000年5月、奇跡が起こった。密約をうらづける米国の公文書が発見されたのだ。濡れ衣は晴れたけれど、国家のウソは修正されることもなく、何事もなかったかのように時はながれている。先の河谷氏は西山の死を「非業の死」と表現した。

沖縄返還に絡んで「非業の死」をとげた人物はもうひとり存在している。若泉敬氏だ。
彼は佐藤栄作首相の密使として米との沖縄返還交渉にあたり「有事の際の核持ち込み」を認める密約をまとめた。しかし政府は核の持ち込みを認めた事実はなく当然そのような密約はない、と言い張った。しかし、1972年の沖縄返還の22年後、自著『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋、1994年)で交渉内容を暴露しその2年後に責任をとって自死した。国家的ウソをついたことを自白した行為は多とすべきかもしれないが死ねば責任を逃れられるとは言えない。西山の死を「非業の死」とするなら若泉の死は「自業自得の死」というべきかもしれない。

私は若泉氏がキッシンジャーと核持ち込み密約を図っていたころの1969年4月、「核抜き・本土並み」返還を要求する沖縄返還デモに参加し、逮捕され完全黙秘を貫き4カ月拘留された。以後8年一切の反省強要を拒否し非転向裁判闘争を戦い抜いた。結果、有罪判決(懲役1年執行猶予1年)をいただいた。執行猶予が切れて自由に海外渡航ができるようになった79年に解放されたベトナム訪問を皮切りにアフガニスタン取材に飛び、現在につながった。幸いまだ生きていて体もうごく。どんなに小さくてもいいから、目の前にある、自分にできる、おおやけの課題を見つけて取り組み、「非業の死」でも「自業自得の死」でもない、ただの常民として普通の死をとげて、この世からおさらばしたい。

 

==========<金子 明>==========(2023年4月5日)

アブドル・サラム・ザイーフの自伝「ターリバーンと共にある私の人生」(My Life with the Taliban/Abdul Salam Zaeef/2010) を紹介する第5弾。今回はその第4章「ISIの教え」から抜粋・翻訳する。

15歳で難民キャンプを後にしたザイーフは、翌年パキスタンにいる家族のもとに戻って来た。ただし新しい暮らしの舞台はクエッタ。キャンプを出た大勢のアフガン人が暮らす都会だった。そこで学生に戻り、マドラサに通い始めた。

やがて1年が経ち、17歳になったころ、彼は決断を迫られた。「祖国でのジハードに参戦せよ」と檄を飛ばす学友に賛同するか。はたまた「お前がパキスタンに留まるなら、家も妻も仕事も世話しよう」と説得する家族に従うか。

結局「ジハードの呼ぶ声」には逆らいきれず、またも内緒で家を出た。ところが彼ら「小さなムジャヒディーン」の一行は、直にアフガニスタンを目指さず、まずはパキスタンのザンガルにある難民キャンプにやって来た。そこには、ジハードの前線に兵士を送り込むとあるムジャヒディーン一派の基地があった。

ところでムジャヒディーンはパキスタンとアフガニスタン両国において、どう関連しつつ戦闘を維持したのか?この疑問をザイーフはその経験から、以下のように解き明かしてくれる:

●ムジャヒディーンの司令官は、アフガニスタンとパキスタンを行き来しつつ、その時間をほぼ均等に両国で費やす。
●組織のナンバー2は「マネージャー」として機能し、その自宅がムジャヒディーンのパキスタン(ザイーフが属した集団の場合はザンガル)基地である。
●前線の維持に欠かせないのが、政治的・財政的援助で、そのためには他のムジャヒディーン集団および政党との関係を確立せねばならない。(パキスタン側の仕事)
●実際の前線における戦果は、カンダハールの「地で」戦う司令官たちの働き如何による。(アフガニスタン側の仕事)
●パキスタンとアフガニスタンの両輪が1つのユニットとして複雑に機能して、資金と武器を集め、コミュニケーションを維持し、兵員を動かし、新たなムジャヒディーンを調達・訓練する。

さらに、彼は初期のジハードの弱点をこう解説する:
●ロシアのヘリや戦車には太刀打ちできない。ましてやミグ戦闘機や長距離爆撃機が出てくればお手上げ。
●中でもロシアのヘリは脅威で、難攻不落のムジャヒディーンの渓谷基地をも一掃できる。

そこで登場するのがISI※である。

※脚注「ISI:正式名称は統合情報局で、パキスタン軍随一の諜報部門。アフガニスタンのムジャヒディーンに資金と武器を提供することに特別熱心で、政治的各方面へのパキスタン軍の強い介入を示す代名詞となっている。」

ISIは1980年代初頭に、ムジャヒディーン向けの特殊兵器教練を開始した。つまりザイーフによると「我々に約束された新兵器はロシアの戦車を破壊し、そのヘリを空から撃ち落とすと期待された。」

司令官がその教練生※にと選んだのが、ザイーフだった。そこでクエッタに戻り、ある男の事務所に参上する。

※脚注「元ISI局員によると、約8万のムジャヒディーンが1980年代を通じてパキスタンで教練された。1983年末には2カ所のキャンプで200人を教練していたのみだが、翌84年半ばには、1度に千人を教練するシステムを立ち上げ、87年には、7つのキャンプを同時に運営した。」

そこはアブドゥル・ラスル・サイヤフの事務所。イテハデ・イスラミ※を組織したばかりのサイヤフがムジャヒディーンとISIの間を取り持っていたのだ。

※脚注「イテハデ・イスラミ:正式名称はアフガニスタンの自由のためのイスラーム連合で、サイヤフが1981年にペシャワールで旗揚げした政党。当初は各政党を繋ぐ連合組織として意図されたが、1980年代ペシャワールにおける政治的野合の泥沼の中で頭角を現し、正統性を確立した。」

「サイヤフがISIから支援、武器、教練を引き出すためのキーパーソンであることは当時の常識だった。」こう記したあと、ザイーフはアフガニスタンとパキスタンの違いについて詳述する:

●カンダハールの前線においては、どの派閥に属するかなどまず問題にされない。
●ムジャヒディーンは何があろうと助け合う。
●特にターリバーンもしくはターリバーン風の前線では、人々が同朋兄弟として協力することがよく知られている。
●派閥や部族がもとで揉め出すのは、後のジハードにおいてのみ。
●ところが、パキスタンでは派閥政治がすべてだった。

さあ、パキスタン政府のトラックがサイヤフの事務所に到着し、下りてきた役人が集まっていたザイーフたちを荷台に詰め込んだ。窓が無く、どこに向かっているのか分からない。山道を行くこと約3時間。皆が山間の秘密基地に着いたと思った。しかし出てみると、期待に反してそこはバザールと難民キャンプに挟まれ見慣れたトラットの町だった。

ザイーフの前線から参加したのは12人だったが、中庭には80人を超えるムジャヒディーンが立っていた。教官はパシュトゥー語でしゃべったので、北から参加したムジャヒディーンのために、皆でダリ語に翻訳した。教練はこんな具合:

●着いた初日に、いろんな武器を見せられる。
●翌日から教練が始まるが、最初の10日間は理論を学ぶ座学のみ。
●それが終わると10~12人のグループに分かれ各グループが1個の武器を与えられる。
●最初に実際手にしたのは多弾頭ロケットランチャーBM12・・・アルミニウム製、軽量高性能、中国製、射程8キロ超。
●次に、扱う武器はBM14へとグレードアップする、などなど。

こうして初期教練は1カ月で終了。次にトラックに乗せられ走ること6時間。今度は砂漠の射場に着いた。ヘラート、クンドゥズ、ジャララバード、ガルデズ、カーブルのムジャヒディーンも集結した。ここで最後の実弾訓練を行い、評価される。ザイーフのカンダハール組は芳しい成績を残せず悔しかったが、前線は待ってくれない。クエッタに戻ると即アフガニスタンに向けて出発した。

途中の村でアラブ出資の組織がトラクターを1台提供してくれた。23人がそれに乗り込み、2日後、例によって夜闇に紛れて国境を越えた。やがて、またしてもロシア兵の待ち伏せにあった。ザイーフは腰を撃たれ大量に出血した。途中気を失いながらも数日かけて逃げおおせた。出発からわずか1週間。特殊教練の成果もほどほどに、ザイーフはパキスタンに帰還した。

(続く)

 

==========<野口壽一>==========(2023年4月5日)

フィンランドのNATO正式加盟が実現しました。同時期に加盟申請したスウェーデンはトルコとハンガリーが承認していないので実現していませんが、加盟は時間の問題と思われます。

そもそも、昨年2月のロシアによるウクライナ侵略は、「ウクライナ領内のロシア系住民の保護」を直接的名目としていましたが、侵攻の真の目的が「ゼレンスキー政権の打倒、全土占領、ウクライナの中立化とNATOの拡大を防ぐ」であったことは衆目の一致するところでした。もちろん、ウクライナ国内のロシア系住人による独立や住民投票による併合といった姑息な策動そのものも決して許せるものではありませんでしたが。

プーチンの目論見は、ウクライナの中立化だけでなく、自国国民の損耗、戦争長期化と制裁による経済疲弊、軍事大国幻想の正体暴露、国際政治における孤立化などなど、ロシアの観点からみてもなにひとつ評価できるものはありません。しかも、いままで中立政策を取っていたフィンランドとスウェーデンまで宿敵のNATOの側に追いやってしまいました。ロシアにとってオウンゴールというにはあまりにも悲惨な結果です。

それでもプーチンは敗北を認めないでしょう。しかし、歴史の決定はすでに下っています。野口は「国際紛争を解決する手段としての戦争には反対する派」に与しますが、ウクライナで現に戦争が起きており、その決着が戦場での帰趨にかかっている現実を冷静にみつめるべき、の立場に立っています。

いま、実現すべき最大の課題は「国境線の変更を核恫喝や武力侵攻によって実現しようとする思想」の打破です。それが実現されなければ世界秩序は崩壊し、第2次世界大戦時とは比べ物にならない悲劇に世界は直面することになります。プーチンロシアの行動は、世界を好戦化させ、分裂させ、不安定化させる以外のなんの成果もあげていません。一刻も早いプーチン的ロシアの打破を望みます。

 

==========<金子 明>==========(2023年3月25日)

アブドル・サラム・ザイーフの自伝「ターリバーンと共にある私の人生」(My Life with the Taliban/Abdul Salam Zaeef/2010) を紹介する第4弾。今回はその第3章「聖戦」から抜粋・翻訳する。

1983年夏、15歳のザイーフ少年はパンジパイの難民キャンプを後にした。国境の町チャマンまではバス。そこでカンダハールに向かう少人数の集団に紛れ込んだ。「真夜中に密輸ルートを歩き通した。国境に、しるしなど無い。いつアフガニスタンに入ったのか分からなかった。ただ嬉しかった。」結局2泊3日歩き通して、カンダハールの近郊パシュモルの谷に到着した。

その地域は戦場となって既に3年。優れた火器と空からの支援が頼みのロシア兵を相手に、地形を熟知し機動力に富むジャヒディーンは、場所を変えつつゲリラ戦を挑んでいた。あとで知ったことだが、敵はこの手の戦いを得意とするスペツナズ(ロシアの特殊部隊)も投入していたらしい。「だが、それが戦況に影響したかどうかは分からない。」

アブドル・ラジクなる司令官が谷での戦いを率いていると知り、その部隊に加わった。最初は良き司令官かつ良き男だと思ったが、すぐにその正体に気づいた。「彼の本当の目的は自分の土地と財産でしかない」ことに。その上、2か月間配下にいたにも関わらず、戦いに出されたのはたったの2回。普段はラジクやその部下たるムジャヒディーンたちの身の回りの世話を受け持った。

毎週1度、ザイーフは銃を掃除し、時おり標的訓練にいそしむ。確かにラジクとその部下たちのもとで最初の「聖戦」を味わった。兵器の取り扱い方法や、戦地での身の処し方を習った。しかしすぐに幻滅した。「聖戦をしようとアフガニスタンに来たのに、気がつくと他人の世話という雑事をしていた。」

まだ15歳の少年は、勉強もしたかった。「ラジクの部下には教師がいなかった。だから自分が武器の取り扱い方法以外なにも身につけていないことに気をもんだ。」そこにターリバーンが登場する。その語の意味は「学生たち」であるから、向学心を持つザイーフが彼らに惹かれたのは無理もないだろう。

ネルガムという村にターリバーンがいて戦っていると知った。だがその村には親類が多く、中にはターリバーンに加わった者もいた。見つかると家族に報告され、間違いなくパキスタンの難民キャンプに引き戻される。躊躇したザイーフだが、ここでターリバーンの魅力を列挙する:

●その頃ですら、ターリバーンは人々の噂の的だった。
●他のムジャヒディーンから一目置かれていた。
●ターリバーンの法廷に紛争解決を託す者や、助言を求めて来る者もいた。
●紛争解決能力は高く、パシュモルの谷のほか支配各地に刑務所を備えていた。

「聖戦は単に戦うだけではない。我々の考えでは、正義の規定に加えて強い教育的視点が必要なのだ。」そう述べたあとザイーフは、彼らの特質を次のように表現している:

前線で戦うムジャヒディーンのほとんどは、同じ仲間の集まりだった。ほとんどが同じバックグラウンドを持ち、同じ部族で、同じ家族で、はたまた同じ地域の出身だった。ターリバーンは違った。バックグラウンドがそれぞれ異なる宗教学者と学生の集まりだった。普通の同盟や派閥を超えていた。戦う原動力はジハード(聖戦)への深い宗教的確信と神への信頼だった。存在する唯一の理由がアッラーだった。方や、他の多くのムジャヒディーンは金と土地のために戦っていた。」(下線ママ)

逡巡したのも一時、まだ夏が盛りの内にザイーフはネルガムへ向かい、ターリバーンに加わった。何人かの知り合いがいて、密告されないかと不安だったが、学習しながら戦えるという興奮が勝った。

だが、その喜びも一瞬だった。ネルガムに来て数日と経たないうちに、ソ連軍とアフガン陸軍が村を包囲した。火器と空襲が夜を昼に変えた。村は瓦礫と化し、死が至る所にあった。無数の葬儀で悲しみに歪む男と女の顔をザイーフは今もおぼえていると言う。最後まで残ったわずかな住民たちも村を去った。その家や畑にロシアの飛行機がまるで水を注ぐかのように、爆弾を降らせた。

ターリバーンは敗走し、ザンジャバードへ。だが、ソ連軍は全地域を落としながら前進し、戦いの舞台はザンジャバードに移った。わずか10日ほどの戦いは、何百人ものムジャヒディーンと住民が戦死してソ連側の圧勝。その勢いで敵はパシュモルへと転戦した。ザイーフら生き残ったムジャヒディーンはその後を追う。この戦記で、ザイーフが「ターリバーン」と「ムジャヒディーン」を同義語として扱っているのは興味深い。

さて、そのパシュモルも2週間で陥落。「ザンジャバードとパシュモルの戦いは、ソ連とムジャヒディーン間の戦争の典型例だ」とザイーフは解説し、その特徴を次のように述べている:

●ムジャヒディーンは常に兵数とその熟達度で劣り、年代物の武器に頼らざるを得なかった。しかし、ゲリラ戦を展開し敵を出し抜いた。
●相手は不動の第40陸軍(脚注:8万5千の空陸混成兵からなるソ連の侵略軍で、ソ連の正式資料によると「限定的即応部隊」)
●ムジャヒディーンは補給路と撤退路を確保し、1か所で敗れても各地を転戦して力を回復し、最後は元の前線に戻って抵抗する。「ターリバーンが今(2010年当時)やっているのとほぼ同じ戦い方だ。」

ザイーフがターリバーンを好んだ理由は、その教育システムだった。そこでは、お互いが教育しあう。入隊して2、3年も経てば、普通の文盲の「ムジャヒド」(聖戦士)が立派な「ターリブ」(学生)になれた。ザイーフは前線で戦い方を学びつつ、また戦友に読み書きの基礎を教えた。「我々はターリバーンで、これが我々の道だった。」逆に学びたくない者は他の司令官の下へと去った。

1年後、ザイーフはパキスタンに戻るよう命令された。戦車砲で撃たれ脚をケガしたムッラーを退避させるのが任務だった。この頃になると、国境越えは車などまったく使えないくらい危険になっていた。頼れるのはラクダ。辿るのは密輸ルート。その山道を行くのは何もムジャヒディーンだけではない。住民、家族、外国人、ジャーナリストも旅の仲間だった。

ラクダに乗った5人がゆっくりと国境を目指す。キャラバンのリーダーはザイーフ。日没までにさらに2人のムジャヒディーンがその列に加わった。彼らのラクダは大きな荷物を運んでいたが、中身が何なのかは決して言わなかった。やがて、ド・ラレーという場所に着いた。

そこで大変な情報を得た。わずか2日前にその先でロシア人が待ち伏せをし、30人と7頭のラクダを殺したと言うのだ。ザイーフは「まだロシア人はいる、正しく準備しないと同じ罠に落ちる」と確信した。別ルートは時間がかかりすぎ、ケガしたムッラーの命が危ない。進めば、待ち伏せに遭う。しかも武器が無い。

その夜、ド・ラレーを出たときキャラバンの規模は30〜40人に増えていた。ゆっくりと罠の待つ道を進んでいると、例のムジャヒディーンの1人がこう持ちかけて来た、「あなたにカラシニコフ3丁とRPGを1つあげよう。残りのカラシニコフ2丁は我々が使う。」あの秘密の積み荷は武器だったのだ。

そこでザイーフはキャラバンを二手に分けた。ザイーフ側はムッラーと元からの同行者たちの大半。2人のムジャヒディーン側についた者もいた。密輸ルートには2つの脇道があったので、それぞれ別の道をとることにした。

しばらく行くと、約1キロほど先からRGPの飛翔音と機銃掃射の音が聞こえた。ロクサナ(ロシア軍の照明弾)があたりを眩しい夏の日に変えた。数機のヘリが空に舞い、ロクサナの発射に合わせて爆撃する。パキスタンから来た別のキャラバンが襲われたのだ。ザイーフたちは見つからぬことを祈ってただ身を隠した。

やがて静かになったので、別の脇道を通って、その難所を越えた。途中いくつかの村をたどり、別の待ち伏せの危険を回避しつつ、国境の町チャナンに到着した。「旅のあいだ何もなかったかのようだった。我々はあの恐怖をまるで遠い記憶のように感じた。」

ザイーフは急ぎムッラーを病院へと運んだ。不運にも彼のケガは感染症を誘発していた。すぐにクエッタの赤十字病院へ転院させたが、やがて殉教者として亡くなった。

一方、ザイーフには家族に会うほかすることも無かったのでパンジパイのキャンプに足を運んだ。すると、クエッタに移ったと言う。そこで懐かしいキャンプで1泊した後、クエッタに向かった。時は1984年の夏。彼は13か月、祖国アフガニスタンにいた。久しぶりに会った家族はザイーフが家出したことを咎めるのも忘れ、彼を喜びで迎えた。

【つづく】

 

==========<野口壽一>==========(2023年3月25日)

写真はウズベク族のノウルーズ祭

日本の3月21日は春分の日。太陽暦で昼と夜の長さが等しくなり、夏至を経て秋分の日まで昼の時間が夜より長くなります。

アフガニスタンなどかつてのペルシャ文明圏から広く北アフリカ~ユーラシア地域まで、この日はナウローズと称して、春の訪れを告げる新年のお祭りが執り行われます。人々は収穫の象徴である麦苗や花飾り、果物、お菓子などを備えて祝います。日本の年賀状のように年賀カードを交換し合います英語では「Happy new year!」と書かれています。野口のもとにも色鮮やかな楽しい画像がたくさん送られてきました。

 

楽しいナウローズ画像の数々

ナウローズの後は引き続いてラマダンに入ります。日中の断食はつらいですが、日没ともなれば毎夜、パーティーです。ただし、それは平和で豊かな日々のこと。アフガニスタンやトルコ・シリアの被災地、テレビニュースでは経済困難のつづくパキスタンやバングラディシュなどでは素直に喜んでばかりはいられないようです。アフガニスタンでは相変わらずパシュトゥーン文化に固執しペルシャ文化を排斥するターリバーンがナウローズ祭を妨害しています。一日も早く文化や民族が共生できる日が来ることを祈ります。

 

 

==========<金子 明>==========(2023年3月15日)

アブドル・サラム・ザイーフの自伝「ターリバーンと共にある私の人生」(My Life with the Taliban/Abdul Salam Zaeef/2010) を紹介する第3弾。今回はその第2章「難民キャンプ」から抜粋・翻訳する。

1978年に成立したPDPA政権による圧政に耐えかね、多くの国民がアフガニスタンから逃げ出した。その主な理由としてザイーフは2つの「布告」を上げる:
①布告8号・・・土地と財産を没収し、他人に分け与えることを法制化した
②布告7号・・・女性に教育されることを命じ、結婚の持参金を最高300アフガニ(約450ドル)に制限した

8号はともかく、7号がなぜ逃げ出す理由なのかと思うのだが、どちらの布告も国民は「ハラム」と判断して、拒絶したと言う。

(脚注:「ハラム:宗教的用語で、イスラームにとって許されないことを指す。反対語はハラルで、文字通りの意味は”許されたもの”。」)

人々はパキスタンやバルチスタンの国境地帯にある様々な難民キャンプに逃げ込んだ。後には各亡命政党が身分証明書を出すほどの活況で(脚注↓)、難民にとっては国中の移動はおろか事業や商売も自由だった。「パキスタンは難民のおかげで、政治的にも経済的にもリッチになった。」

(脚注:1990年代初め、国外に暮らす難民数は600万超)

もれなく付いてきたのが、国連とNGO。中でもゲームの主要プレーヤーたるアメリカは熱心だった。ライバルのソ連を打ち負かそうと、パキスタンに急接近した。だがその後、「赤軍がアフガニスタンで地盤を失うと、西側諸国の援助も関心もしぼんだ。」

するとパキスタンも難民につらく当たり出すのは世の常か。難民の一部はアフガニスタンに強制送還されたり、中には不毛な地に追われ自らの手で家を建てさせられた者たちもいた。ここまで概説した後、著者は一族の逃避行について書き始める。

「1979年1月、村を出た。ちょうど南アフガニスタンの戦闘が激化した頃だった。」評判の悪い土地改革法はその前月に成立していた。「真夜中に、7台の車で出発。行き先は南のパキスタン。」荷物は極力へらし、父の本は置いて出た。砂漠を走り、国境を越えた。ザイーフにとって初めての外国。だが、その先が危険地帯だった。

「幹線道路は危ない。移動は夜のみで、見つからぬようヘッドライトを消して、脇道を行く。山の急坂に来ると、車から降りて歩いた。そして、ある所まで来ると車を捨てた。」その先は徒歩。たまに通りがかりのバイクに分乗した。1台に4人がしがみつく。道はアフガニスタンとパキスタンを結ぶ古来からの密輸ルートである。「3日3晩かけて目的地に着いた。」

そこはチャナンの郊外にある難民キャンプだった。(脚注↓)パキスタンはこの街を以降数百万に上るアフガン難民の通過拠点にした。

(脚注:「チャナン:当時で人口10万超の街、今も続く水不足のため、緑の庭は少ない。ゆるやかな山の懐にあり、周囲を村々が囲むなどカンダハールに酷似している。」)

「ここでどこに行くべきか指示され、次へと進む。我々は早朝について、数時間をキャンプで過ごした後、他の家族と一緒にトラックに乗った。後ろの荷台に、まるで家畜のように立って運ばれる。クエッタを通って、ヌシュキに着いた。」これから大量にやって来ると見越されるアフガン難民を受け入れるためパキスタン政府が新たに準備したエリアで、一行はそこに落ち着いた。

キャンプでは難民の自治が認められていた。セクションごとに代表者が選ばれ、年配の者ほど高い地位についた。彼らがパキスタン政府の役人と折衝したが、キャンプは最も基本の設備すら欠き、役人たちの反応は鈍かった。まともな水の供給も、健康チェックも、療養所もない。砂漠のど真ん中で、テントの布に触れると手を火傷するほどの暑さだった。

水は政府が時折トラックで運んでくるが、量が足りない。そこで近くの村にもらいに行く。すると、地元バローチ人とアフガン人は文化が違うので、些細なことで一触即発となる。難民キャンプが出来て以来、緊張が広がっていた。そしてとうとう衝突が起き、難民2人、現地人4人が殺された。以降、難民キャンプからの人々の出入りは禁止された。

それでも、近隣に難民キャンプを建てられたバローチ人の不満は収まらず、最後はキャンプの移転で決着した。ある晩、政府のトラックが連なってキャンプにやって来たのだ。難民たちはたった数時間の猶予で、荷物をまとめヌシュキを後にした。

まず運ばれた場所はシェル・ジャン・アガ。砂漠のオアシスで、そこにはジアラットもあり、新たな難民キャンプが決まるまでの2日間、そこで過ごした。

(脚注:「ジアラット:聖人が死に、その墓がある場所。南アフガニスタンやパキスタンの国境地帯では、ジアラットを訪れれば聖人の御利益に預かるとされ、聖地として人気がある。例えば、訪れると子宝に恵まれる、女性に人気のジアラットもある。」)

オアシスで泳いだザイーフ少年は、とてもリフレッシュできた。また、聖人の霊験のお陰か、砂の中に10ルピーのコインまで発見し、今も印象に残る土地なのだと言う。そして3日目にようやく、新たなキャンプ地に到着した。そこはクエッタの75キロ西、パンジパイと呼ばれる場所だった。

(脚注:「パンジパイ:アフガン難民が来る前から、パンジパイ・キャンプと名付けられていた村。このエリアの5大難民キャンプは、スルカブ、サラナン、ジャンガル、パンジパイ、キルディ・ジャンガルにあった。」)

「もう太陽が沈みかけたころ、トラックは狭い未舗装路のドン付きまで来て止まった。何も無い林の中だ。即興で寝る場所をこしらえた。最初の数日は皆で木を切り倒し、平地を作るのに明け暮れた。倒した木で家々を作り、モスクも建てた。」

キャンプの周りには茨で柵を作ったが、サソリには効かない。毎晩ランプをつけるたびに3、4匹のサソリがはさみを振って侵入してきた。水は無く、持ち込んだ水に頼ったが、すぐに飲み干した。祈りの前の沐浴には砂を使った。

(脚注:「沐浴:ウドゥーとも呼ばれ、ムスリムには祈りの前に身を清める儀式がある。両手、口、顔、上腕、足を洗う。水が無ければ泥や砂で代用してもよい。」)

数キロ離れた村の井戸で水をくむのは、ザイーフたち子どもの役割だった。毎朝出かけるが、家に戻るのは、午後の喫茶の時間だった。道は長く、バケツは重く、みんなヘトヘトだった。

親類の15家族が最初このパンジパイ・キャンプで暮らし始めた。手作りのモスクに集まり、完璧なジャマートを行った。

(脚注:「ジャマート:文字通りはアラビア語で”集団”を意味する言葉だが、ここでは日に5度の祈りのうち、1度は皆がモスクにそろって祈ることを指す。」)

やがて難民の数は増え、「数百から数千に、即席のモスクは数十軒も建った。」その規模の急拡大にはパキスタン当局もただ驚くばかり。小麦粉、石けん、茶、脱脂粉乳などの必需品は足りたが、水はいつも不足した。そこで皆が力を合わせて井戸を掘った。すると31メートル下から水が湧き出した。そのときの喜びようは、まるでイードが来たかのようだった。

(脚注:「イード:すべてのムスリムの例に漏れず、アフガン人も年に2度、イードと呼ばれる祭りを祝う。キリスト教徒のクリスマスに似ている。イードの日には、特別な祈りと説教が行われ、家族・友人間で贈り物をする習わしがある。イード・アル=フィトゥルとイード・アル=アダハとして知られている。」)

やがて新たな難民たちがニュースを伝えた。1979年12月、ソ連がアフガニスタンに侵攻したと。以降国内ではムジャヒディーン対ソ連軍の戦いとなった。それに呼応してか、アフガン難民間では教育活動が盛んになった。難民に含まれる多くのムッラーが各地のモスクで教室を開いていたが、さらにシャー・モハンマド・カーンがマドラサを創設・運営した。

(脚注:「シャー・モハンマド・カーン:政党兼軍閥ヒズベ・イスラミの司令官で、後にガイラニ率いるアフガニスタン民族解放戦線が余った武器の分配にありつき始めると、そちらに鞍替えした。後のムジャヒディーン政権時はカンダハール州の教育長官。今も存命中で、2005年の総選挙に立候補した。」)

マドラサでは10年生(日本で言うと高1)までを教育した。ザイーフも入試を受けて6年生として通い始めた。パンジパイ・キャンプからは彼と合わせて7人がそこで学んだが、8年生の時には、級長に選ばれるなど、ザイーフは優等生だったと言う。しかし、別のキャンプから来た生徒たちと大喧嘩して、退学処分となった。以降はキャンプのモスクに戻り、学習を続けた。

アフガン内戦は4年目に突入した。ザイーフはムジャヒディーンが難民キャンプを出てアフガニスタンに向かい、一部は負傷して戻ってくるのを見た。しかし、戻らぬ者も多かった。彼の親類も多くが代わる代わるムジャヒディーンの前線に出向いた。

(脚注:「前線:戦いの起きる場所。カンダハール周辺の広い範囲で戦いは繰り広げられ、前線は常に変動した。戦闘員は基本的に少人数に分かれ前線ごとに配備された。」)

(脚注:「代わる代わる:ムジャヒディーンは指示に従って前線に赴くが、しばらくすると撤退して、パキスタンの家族などのもとに帰る。静養して傷を癒やし、再びアフガニスタンに舞い戻るのだ。似たような戦法をカルザイ政権への敵対集団(ターリバーン)も使っている。だからと言って、今の問題がパキスタンにその根を持つと述べているのではない。」)

モスクでは、ムッラーがジハードについてザイーフたちに説教した。

(脚注:「ジハード:訳しにくさで定評のある単語。元々のアラビア語の意味は、”奮闘”、”尽力”、”精進”など。そのため、文脈次第で別の物を意味する。あるときは、悪への傾倒を避ける奮闘。またあるときは、イスラームの法基準に沿って罰せられた者への戦争を指す。ボネイの著作『ジハード』(Jihad: From Qu’ran to Bin Laden/R.Bonney)などに詳しい。」)

すると興味が高まり、他の若者同様、参加したくなった。「アッラーへの義務を果たし、神の無いロシア人たちから我が祖国を解放したいと欲した。しかしそこへ行く金が無い。」ザイーフの親類も教師も、彼がそんな「奮闘」に加わるのを許さなかった。ジハードの考えには賛同しても、その息子たちの1人が命を危険にさらすのは嫌だった。

そこで、手に入る金すべてを貯金した。すると3か月で100パキスタンルピー

(脚注:それだけあると当時100キロの小麦粉か10キロの食用油を買えた)

が貯まった。親類にも友人にも告げず、ザイーフはこの金を手にアフガニスタンへと旅立った。15歳の少年は「自らのジハードを開始したのだ。」

(続く)

 

==========<野口壽一>==========(2023年3月15日)

3月12日、旧東京音楽学校奏楽堂(写真は1926年当時のもの)で開かれた「よみがえれ! アフガニスタンの旋律(しらべ)」コンサートを鑑賞した。演奏したのはアフガニスタン音楽を演奏し続ける日本人ユニット「ちゃるぱーさ」。難民として日本に亡命してきたラバーブ奏者のアジムッラー・カリム氏が特別参加し演奏を披露した。

この奏楽堂は、「東京藝術大学音楽学部の前身、東京音楽学校の施設として、明治23年に建築され、日本における音楽教育の中心的な役割を担ってきた」とされているが、要は、「脱亜入欧」に突き進む明治日本の西洋音楽発祥の拠点だったわけで、悠久の昔から奏でられていたユーラシアのしらべが時と空間を超えて再来したのだ。

 

 

 

「ちゃるぱーさ」は集会や小さな集まりで何度か聴いたことはあったが、日本の近代音楽のメッカであり、重要文化財のホールで演奏を聴けたのにはひとしおの感慨があった。アフガニスタンでは太鼓やラバーブ、ハルモニア(アフガニスタンのアコーディオン)などの最小の器楽構成で、パーティーや集会や商談の後の打ち上げでも演奏を楽しみ輪になって踊る。結婚式では一晩中踊り狂う。由緒ただしいホールで西洋クラシック音楽を鑑賞するときのような演奏会も悪いものではないが、沖縄で蛇皮線が鳴り始めると居合わせたみなが立ち上がってカチャーシーを踊るような、そんな平和がアフガニスタンにも早く戻ってほしいと祈りながら奏楽堂を出た。

 

 

==========<金子 明>==========(2023年3月5日)

アブドル・サラム・ザイーフの自伝「ターリバーンと共にある私の人生」(My Life with the Taliban/Abdul Salam Zaeef/2010) を紹介する第2弾。今回はその第1章「故郷での死」から抜粋・翻訳する。

物語はザイーフが生まれる6年前の1962年に始まる。当時は「やがて滅びる運命とは言え、その強さに国民が満足している」ザヒール・シャー国王(在位1933~1973)の治世だった。カンダハールとカーブルの中間にあるジャルダックという村(ザーブル州)で土地がらみの部族闘争が起こり、数10人の死者が出た。16人を殺害したとの容疑をかけられたムッラー・ネザムは砂漠に逃げたが、政府軍に襲撃され銃撃戦の末に殺された。

それで事が治まる訳ではない。「パシュトゥーン人の名誉の掟は、敵討ちを強いる。」それを避けるためネザムの兄弟3人は一族を従え、隣州カンダハールの小さな村ザンジャバードに移り住んだ。その3人のうちの1人が宗教学者だったが、やがて4人の子ども(男2女2)に恵まれた。著者のアブドル・サラム・ザイーフの父親である。

本文でザイーフは「母の3番目の子どもだった」と書いているが、巻末の年表によると母親はザイーフが7か月のときに死んでいる。父親はその後、妻をめとらなかったというから、ザイーフが末っ子なのだろう。子どもたちに決して手を上げず、怒鳴ることさえない優しい父親だったと言う。

アフガン人ならば、決して1人だけの存在ではない。家族、部族、民族、生まれ故郷、全てが我々の一部である。大都市カーブル、パキスタン、世界へと出て行って久しいパシュトゥーン人は、それを忘れているのかも知れない。部族、一族、家族、そして親類たちと共に、真のアイデンティティーは存在する。外国人はアフガン人であることが意味することを本当には理解しきれない。」(下線ママ)

この思いを強くザイーフに抱かせたのは、その生い立ちであると言えようか。子どもたちは母の死後、叔父の家に引きとられ、その妻が面倒を見た。当然、父親も一緒にその家に移り住む(大家族)。しかし子どもたちは、父の姿をほとんど見かけなかった。村のマドラサで、教育に没頭していたのだ。

例の宗教学校「マドラサ」である。この自伝の優れている点のひとつは、脚注の詳しさ、およびその視座である。過激派たるターリバーンを生み出す”虎の穴”的存在と紹介されがちなマドラサだが、以下を読むと若干印象が変わる:

「南アフガニスタンとパキスタンで、(特に田舎の貧乏な人々によって)教育の最初の手段として普通に選ばれる宗教学校。概して男子のみが対象だが、女子を教育する所もある。教育内容は主に宗教学の全般を大まかに。卒業すると聖なる書物(特にクルアーンそのもの)を暗記できると、しばしば期待される。」

ザイーフが2歳になると、父は3人の子ども(ザイーフと2人の姉)を連れてムーシャムという村に引っ越した。ちなみに長男はすでに別の村で学業にいそしんでいた。父は村のモスクで1日の長い時間を教育と研究のために費やした。ムッラーとなったのである。

脚注「ムッラー:アフガニスタンの都市を1歩出ると極めて幅をきかせている宗教的役職または聖職者。各村に普通1人だけいる宗教の権威(子どもの頃マドラサに通ったか、おそらく若干のアラビア語、つまりクルアーンの言葉を読めるので)。その性質からして、ムッラーの権威は宗教的な事象に普通は限定される。」

1971~72年は国中を干ばつが襲い、村でも多くの犠牲者が出た。脚注によると、当時の農業相は「貧農どもが草を食おうが決して大事ではない。奴らは獣だ。慣れたものさ」と言い放ったらしい。2人の姉のうち次女がその時期に死んだ。気落ちした父は3度目の引っ越しを行い、ラングレザンという村の小さなモスクでイマームとなった。

脚注「イマーム:宗教的理解者を指し示す別の呼び名。どこにいてもイマームは日に5度の礼拝で指揮をする。」

4歳のザイーフはこの村のモスクで、父から読み書きを教わるようになる。その際使用した教科書がアル=カーイダである。

脚注「アル=カーイダ:宗教を学ぶ生徒が最初に使う基本かつ初歩の教科書。アラビア語のアルファベット、イスラームのいくつかの句、極めて初歩の算数を紹介する。後の時代になるとパシュトゥー語に訳されたが、ザイーフが学んだ頃はすべてアラビア語で書かれていた。アル=カーイダと言えばこちらが本家。1988年8月になってやっと創設されたオサマ・ビン=ラーディンのグループとは何の関係もないので混同に注意。」

やがて父はイマームとして有名になり、遠くの村からも多くの人がその教えを乞いに来た。ときおり病人や取り憑かれた者を家に連れ帰り、一緒に神へ祈りを捧げた。そんな場合でさえ、父はまったく代価を要求せず、ザカットすらも拒んだ。

脚注「ザカット:イスラームの5つの柱(信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼)の1つ、喜捨。特に南アフガニスタンでは広く推奨されている。また多くの場合、公式に認められた慈善寄付の1形態として、ある程度まで体系化されている。つまり財政手段を持つ者は、年収及び流動資産の2.5%を困窮者に施さねばならない。宗教上の聖職者は、政府から与えられる名目上の給金だけでは足りず、特に南部の田舎では他の村人が施すザカットないし寄付に頼らざるを得ない。アフガニスタンにはこの他にウシュールもある。それは利益の1割を仲間の村人に分け与え差し出す伝統である。」

そんな父だったが、かなり高齢だったようで、1975年ザイーフが7歳のときに病死した。残された姉とザイーフはチャルシャカという村で従兄弟を頼って暮らすようになった。そこでも従前通り朝はモスクで勉強した。午後は家の手伝い。羊と山羊の世話をし、牛舎を掃除して牛に餌をやった。そんな暮らしを1年半続けた頃、姉が父の決めた相手と結婚した。結婚式の日、ザイーフは心が乱れ、たくさん泣いた。

ひとりになったザイーフは、将来の不安から勉強に身が入らず、無為な日々を過ごしていた。心配した兄の計らいでサンジガールという村に暮らす母親の親類夫婦に預けられることになった。村のマドラサに父の教え子がおり、入学した。するとそこでニアズ・モハンマドという教師と出会った。

1978年にPDPA(アフガニスタン人民民主党)による四月革命が勃発。首相となったタラキをカンダハール州で強く支持していたのがニアズ・モハンマドだった。突如、共産主義を礼賛し、「タラキを救世主の仲間で、その使いであるとまで言う」教師の出現。こうなるとマドラサは混乱し、生徒の多くはパキスタンや周辺地域へと去った。

ザイーフの親類たちも宗教教育に嫌気がさしてか、彼を州都カンダハールの世俗の小学校に送り出した。ザイーフは入試を受け、4年生として編入された。そこで1年間学んだ。当時のカンダハール州は生き生きとしていた。穀物庫はいっぱいで、水はどこも潤沢、人々はバレーボールに打ち興じていた。

ある日、サンジガールに里帰りしてニアズ・モハンマドに再会した。彼は変貌していた。そしてこう言った、「息子よ!もう登録は済ませたのか、それともまだか?」

革命以降、タラキの動きは速かった。まず、人民への土地の分け与え。登録さえすれば、誰もが最大2ヘクタールもの土地をもらえた。ザイーフはこう答えた。

「先生、その土地は他人の物だと言う先生たちもいます。他人の財産を奪うのは罪です。どうしてこの土地をもらえましょう?」

「これが世界の富の最後の分け前なのだ、息子よ。今参加しなければ永遠に土地無しだぞ。ほぼ間違いなく登録すべきだ!責任は王がとる。王がこうしろと言ったら、それを疑うべきではない。従うのだ。」

まだ子どものザイーフを助けようとの親切心からだろうが、納得は行かない。その家で1晩泊まり、翌朝挨拶もせず、街へ帰った。

かつてマドラサで教えてくれた教師たちはパキスタンに逃げた。逃げ遅れた者は政府に罰せられた。この地方に住む高学歴者が共産主義者に助言した、「田舎で勢力を保ちたければ、地元の有力者を投獄せよ」と。多くが監獄に入れられたが、ほとんどが2度と帰らなかった。

タラキとアミンによる、土地改革の非道さもあって、内戦状態はすでに始まっていた。政府は名だたる司令官を捕まえ、「ターリバーン」を非難していた。ここで、著者は「ターリバーンとは何か」につき、下線付きで解説する:

ターリバーンが1994年になって初めて登場したという一般的な誤解がある。実はターリバーンとは、ターリブという語の複数形である。その意味は学生。そうであるから、マドラサがあった限り、宗教的学生はいつもいて、つまりターリバーンもいた。ターリバーンは専ら政治的な分野を避けて存在していたのだ。それを政府が、土地改革を進めるために政治の舞台に引きずり出した。それに賛成しないのなら、今度は脅した。

お返しにとばかりに、ターリバーンは政府の支持者を攻撃し始めた。ニアズ・モハンマドら賛成派は殺された。ザイーフもまた若き学生だったが、そうした事態には関心が薄く、ただ人々が「今は不信心者の時代になった」と言うのを耳にしていた。

ソ連は新政府を支援した。人々は恐れた。スパイの噂は絶えず、人々が忽然と消えた。政府は反対派を無慈悲に弾圧した。それに武力で抗したのがムジャヒディーンだった。するとタラキとアミンは、カンダハールの南、砂漠にあるムジャヒディーンの陣地を戦闘機で襲った。またザイーフが育った村々も破壊した。

数千数万の人々がパキスタン、イラン、その先へと逃げた。共産主義者の攻撃は激しくなり、パキスタンとの国境地帯まで撤退したムジャヒディーンは、かつてのような戦果を上げられなくなった。

ザイーフは姉と、街のわずか数キロ西にあるムジャヒディーンの隠れ基地に引っ越した。戦いは村々を巡る攻防戦となっていた。政府軍がムジャヒディーンと対面する裏で、タラキの配下が村を巡って、市場に武器を卸し、小さな御用軍団を形成していた。それと知らぬターリバーンやムジャヒディーンは村々を移動中に待ち伏せを受けた。

時に戦いは終夜続いた。州の南は完全な戦争状態だった。そこで一族が最初にカンダハール州に落ち着いた村ザンジャバードにある従兄弟の家にザイーフは戻った。「毎日状況は悪化する」と一族の意見は一致し、即刻パキスタンに逃げることにした。2人の叔父はムジャヒディーンに加わった。

「闘争は広まった。流された血はやがて川となり流れた。1つの村から次の村へと。1つの地域から次の地域へと。1つの州から領域全体へと。そしてアフガニスタンという国全体が、その川に沈んだ。」

 

==========<野口壽一>==========(2023年3月5日)

ちょっと気張って言うと、身の程知らずにウエッブジャーナリズムを極めようと『ウエッブ・アフガン』を立ち上げた(隠された野望)のですが、サイトテーマを「アフガニスタンと世界の平和、進歩、人権のために」と大上段に振りかぶったため、読者の方々から望外の期待や課題を寄せられ、非力さを痛感する日々となりました。
しかし、今回の詩人の国際連帯を呼び掛ける手伝いに関しては、さまざまな詩人の方がたが応えてくださり、わたしのネットワークは狭かったにもかかわらず、今後の展望を確信する反応をいただくことができました。本当にありがとうございました。今回は本番の出発のその予行演習的な段階で、呼びかけられた人々も、海上に頭を出している氷山の頂上部分のそのまた一部の方がただ、と認識しております。

ロシアのウクライナ侵略が1年を超えて継続。ミサイルによる都市インフラ爆撃や原発攻撃という、あってはならない事態を同時代人として目撃し、アフガン事態と重なる個人的にはどうすることもできないもどかしさに、心がくじけそうな気分になるときもありました。
今回の読者の声コーナーに寄せられた伊藤さんの、「SDG’s(持続可能な開発目標)に〝戦争で若者を殺すな!〟」の項目を追加させようという提案にはまったくそうだ、と膝を叩きました。また、B.Sさんの天皇陛下の誕生日発言にも、感じるところが大でした。

私は、天皇制なるシステムは、ずる賢い人間たちが生身の人間を人身御供にして支配システムを維持する非人間的反人権的システムだと思っているのですが、天皇とされる実物の〝人間〟が存在しなけらばならないのは厳然たる事実です。そのような人が(現在の上皇様ご夫妻ですが)親の代の不始末を生涯かけて償おうとされた努力には頭が下がります。その意味で、私は、このサイト『ウエッブ・アフガン』を出発させるときの基本文献のひとつとして、「書籍/批評/提言」コーナーの「防衛省防衛研究所」の項に「上皇上皇后両陛下のフィリピン御訪問-『慰霊の旅』の集大成として」という論文を収録しておきました。上皇ご夫妻は私より一回り以上うえの世代の戦中派です。われわれ団塊世代は戦後生まれとして父母の世代の戦争責任を追及しましたが、上皇ご夫妻は戦中派としてしかも戦争責任が問われる真っただなかにいて、勤めを果たされたのだと思います。果たして、自分は、戦後派として父母の世代の責任を償いえたか、と自責の念に囚われます。B.Sさんの天皇発言の紹介文を読んで、緒方貞子さんを引き合いにして語られた今上天皇の言葉の中に、他人ごとでなく、孫世代の自分事として世界の平和をとらえられているのだと拝察しました。

天皇と言えどシステムで動いている世の中を自由にできるわけではありません。それは戦争当事者の露宇大統領、その他諸国のトップでも同じです。一人一人はすべて人類というシステムにはめ込まれた歯車。個々の歯車が全体に奉仕する良い方向をめざす動きをしなければ人類システムは良い方向に動きません。不遜かもしれませんが、天皇発言を聞いてそんなことを感じた次第です。

 

==========<金子 明>==========(2023年2月25日)

ロシアがウクライナに攻め入って、もう1年か。すぐに屈服すると思ったウクライナの大統領だが、誰かの手助けもあって粘りに粘り、悪役プーチンを長きにわたり苦しめている。国民にしてみれば、取って食おうという訳でもなかろう大国に(いや、民を取って食うのはどんな国家も同じかな)下手に抗い、物理的に殺されまくって迷惑至極だろうと同情する。戦争は景気を良くするので、「ワハハ」状態の輩もいるんだろうね、と思うと歯がゆいばかり・・・

さて、そうなるとへそ曲がりの私は、どうもロシアに肩入れしたくなる。この点、青ポチ覚悟。みんなが右と言えば、左へ行きたくなる・・・この性分は死ぬまで変わるまい。日清戦争の戦果に狂奔する教室で、「日本はきっと負けます」と言い放った小学生、中勘助の気分かな。

そしてアフガニスタンである。これまでこのサイトで、アメリカや女性代議士の声はさんざん紹介してきた。そこでへそ曲がりにとって気になるのが、プーチン並みの悪役たるターリバーンの内幕である。西側の学者やジャーナリストによる解説本はいくつかあるが、ターリバーンその人が書いた書物(われわれにも読めるという意味では’英語’の書物)は無いのだろうか?
これがあるのだ。著者はアブドル・サラム・ザイーフ(1967~)。あのオマル師よりも先にターリバーンの創生に関わった人物だと言う。第1次ターリバーン政権では最後、駐パキスタン大使だったが、2001年秋アメリカの侵攻で政府は崩壊し、翌年イスラマバードにて逮捕。結局アメリカに引き渡されグアンタナモで3年間(2002~2005)お勤めしたという大物である。

モスレムの政治家はたびたび優れた詩人でもある。ザイーフもこの著書「ターリバーンと共にある私の人生」(My Life with the Taliban/2010) の冒頭に自らの詩を寄せている。

この「自由」は誇りある国民を鎖に繋ぐ
そして自由な人を奴隷に変える
「独立」はわれわれを弱くし
われわれを屠殺する
親切の名前で
これは鞭と
鎖の恐怖による民主主義
その核には突風が舞う

この詩を受けて、英語翻訳に携わった編集者2人によるやや長い解説や、読み方ガイド、登場人物一覧ほかがあり、やっとこさ著者本人による序文が始まる。それは2007年、生まれ故郷のカンダハールを訪れたときの短い旅行記である。
ザイーフが最後にここに来たのは2001年。当時は米軍機が無慈悲に街を爆撃し、黒い煙が立ち上る中、市民たちは子どもを連れて逃げ惑っていた。6年たった今はさすがに平穏だが、話を聞くと生活は苦しいと言う。仕事が少なく失業者が多いのだ。
「アメリカ人はここで寄贈された金を使うのだが、自分たちのためにだけ。アフガン人で恩恵にあずかるのは、その手助けをした者だけ。あげくに彼らは外国の援助がアフガン人を殺しているのさ、とうそぶく。」

続いて、第3地区で起きた肉屋の悲劇をレポートする。証言者は肉屋の子どもたちだ。
「外国人が家の玄関を爆破した。みんな寝床から飛び起きたよ。2人の兄さんが『おー神様』と叫び、そのうちの1人が事態を把握しようと中庭に走り出た。まさか米兵がいて、屋根やその他の場所に陣取っているとは思っていなかった。奴らは待ち伏せしていたのさ。米兵が兄さんを蜂の巣にした。尋問しようとすらしなかった。兄さんが何かに関わっているかどうかには興味が無かった。ただ無慈悲に撃ち始めた。」
銃声を聞いたもう1人の兄も中庭に走り出て、同じ運命となった。その後、米兵は家に踏み込み、野獣のごとくあらゆる家財道具を滅茶苦茶に壊した。だが怪しい物は何も見つからなかった。家にいた男はみな中庭でうつ伏せにされ、妻たちと子どもたちが震えながらそれを見ていた。米兵が怖くて隣近所も、政府ですらも何の手出しも出来ない。
去り際にアメリカ人は「すまんね、戻っていいよ」と言った。「問題なし」と。だが、そのわずか数メートル先には殺された2人の死体が自らの血の海で泳いでいた。ターリバーンの戦闘員が幾人かの兵士を殺したとき、彼らは報復として一般市民を殺した。ザイーフはわずかな滞在期間だったが、日に日に国民の怒りが高まっていくのを感じたと言う。

敬虔なモスレムの例に漏れず、神をあがめ、敵味方関わらず生命の大切さを説いた後、ザイーフはこの半生記をしたためた4つの目的を開陳する:
1. 王だろうが乞食だろうが、若かろうが年寄りだろうが、男だろうが女だろうが、黒だろうが白だろうが、生命は平等であることを知るのは皆の責任だと理解させる。
2. 自分自身およびその持ち場と名誉を守ることは、真っ当な権利であると考える者に、この地球の別の場所にいる他人も、生きて、その持ち場と名誉を守る権利を持つと理解させる。
3. 真のアフガン文化に疎い人々に、その知識を増し理解を深めさせる。
4. 世界にアフガンの現状のひどさを理解させ、いかに抑圧されているかを知らしめ、人々の親切と同情を引き出す。
なかなか立派な4つの狙いである。
これに沿ってこのあとの全21章が書かれている。

われわれのスタンスは「反ターリバーン」で間違いなかろう。とは言え、闇雲に毛嫌いしていては何も変わらない。かつて日本と戦った米国は「日本の文化」なる短編映画を劇場で公開し、一般市民に敵国への興味を持たせたと聞く。そのおかげばかりではないが、米国は勝ち、敵性語を禁じたわが帝国は敗れた。
敵を知ることは大切だと思う。次回からこの本を少しずつ読み解いていくのでご期待あれ。

 

==========<野口壽一>==========(2023年2月25日)

大谷昌弘さんから投稿いただいた読者の声(2022年12月9日づけ)に関連して、別の読者に貸していただいた小説を読了した、その翌日お伺いした大先輩の事務所兼書斎を出たところの壁に上の写真が飾られているのを発見。思わず写真に撮った。

大谷さんの投稿は台湾での日本新幹線建設にからむ台湾の対日感情にふれながらアフガニスタンでの中村哲さんの仕事への感想を述べたものだった。読んだ小説というのはその台湾新幹線建設を背景に人間模様を描いた『路(ルウ)』(吉田修一)。この小説は新幹線建設に絡むさまざまな問題を取り扱ってはいるが、本当のテーマは4組ないし5組の日本人・台湾人の男女の恋愛や葛藤を絡ませた多彩な人間関係だった。そのエピソードのひとつに、台湾生まれの日本人退職技術者とその妻、および小学校時代台湾で同級だった少年との三角関係(といっても日本人技術者の妻となった日本人少女はすでに亡くなっているのだが)があって、心に残った。それは、日本人技術者が想いを告げられずにいた同級生の少女をめぐる話だ。親友だった台湾人同級生に「俺は彼女が好きだ。結婚したい」とませた告白をされたのだ。それに対して日本人技術者はその少年に「お前は二流国民だ。彼女のご両親が認めるはずがない。幸せにできるはずがない」と言い放った。敗戦で日本に帰国してから一度も訪台していなかった彼は、自分が発した言葉をずっと胸に刺したまま、その「二流国民」と60年ぶりに台湾で再開する挿話である。少年少女の甘酸っぱい三角関係に国家関係とそこから生み出され幼い脳に刷り込まれたイデオロギーが投影された心痛いテーマだ。

目を奪われた壁の写真、若い女教師を取り囲む数十人の小学校低学年と思しき少年少女のまなざしが迫ってくる。背後の黒板にはチョークで書かれた「忠義」の白い文字がくっきりと目を射る。しばしその写真にくぎ付けになった。板書された文字を読んだ。自分の名前だけでなく「大日本帝国」とか「航空決死」とか「少年航空隊」とか「空へ」とか「海軍」とか書かれている。この写真を額に入れて、書斎に飾っていた先輩に聞くと敗戦直前、自分が10歳で台湾から日本へ帰ってくる直前の写真だという。本土では男女別室だったが台湾では共学で男女25人ずつが同じ教室だったという。

アフガニスタンではターリバーンが政権を掌握して、小学校は男女別学でも教育を受けられる。教育の重要性は言うまでもないが教育の中身はさらに問題だ。少年少女をあつめたマドラサ(神学校)の授業はジハード思想や男性優位思想やコーランが中心。それは大問題だ。一方、読み書きそろばんの基本的な能力はもっと大事だ。たとえターリバーンとはいえそのことを無視はできないはずです。日本や台湾の少年少女たちが「打ちてし止まん」や「決死の覚悟」の痛ましさや虚妄さに気づいたようにアフガンの少年少女たちが「ジハード」や時代遅れの反人間的思想に気づく時も必ずくるだろう。そう信じたい。

帰りがけに大変なものを発見した。しかしもう時間がなかったので、先輩には、日本と台湾の関係など、もっと話を聞かせてもらうことを約束をして帰宅の途に就いた。

GWI_Fawzia

==========<金子 明>==========(2023年2月15日)

いつの頃からか、zoomなるものがあって、どうやら遠隔で多人数によるテレビ会議が出来るらしい。交通費も要らないし、ド高い衛星中継の段取りも不要かあ、などと感心しつつ、先日(1月26日木曜日)早朝4時に初体験した。ここで散々ネタにしたファウジア・クーフィさんその人が登場するとの情報だ。本当のナマではないが、zoom越しのナマである。わくわく。

会議を主催したのは、国際大卒女性(GWI/Graduate Women International)。およそ2時間(終わったら朝6時、コケコッコー!)にわたり、アフガン女性の現状と、それに対する、主にカナダ東海岸のインテリ女性たちの意見が聞かれる貴重な体験だった。以下、例によって抜粋・翻訳し、そのイベントの雰囲気をお伝えしよう。

まず、呼びかけ人(GWI内に「アフガン女性を援助する大学女性/UWHAW」を立ち上げたハリー・シドンズさん)によるクーフィ氏の紹介:
著名なアフガン人権&女権活動家。平和使節の一員。元アフガン国会議員にして初の女性副議長。ターリバーンの批判者。2度の暗殺未遂を体験。2021年8月15日のカーブル陥落後は自宅に軟禁されつつも世界に向け活発に意見を発信。2021年8月30日、米軍の最終撤退を機に出国。以来、亡命先で活動を続け、本日の登場に至った。

ここでクーフィさん登場。亡命先のマンションのお部屋かしらん。国連の映像で拝見するよりも険が立っておらず、優しそうに感じたのは私だけか・・・

話の中身(前もって振られた人物による質疑と、応答も含めて)については、本サイトの「アフガンの声」をご参照あれ。

そのあと、参加者(約170人)は10いくつの分科会に分かれて、zoom討論を30分ほど行い、最後にそれを発表し合う。昨今の勉強会でよくやる方式であった。こちらは能動的に意見を出せるので面白かった。他のメンバーはインテリ女性ばかりで若干気後れしたが・・・・アフガンの状況は、何はともあれ「伝えることが大事」との持論を自慢のブロークン英語でぶったが、わかってもらえた(と思う)。

さて、その後、各分科会から意見の発表があった。テーマは、アフガニスタンの女性問題にどう貢献するか。これが中々面白かったので、以下に列記する:

●ターリバーンの子息が国外の大学にいるのなら、その実態を調べ上げ、彼らを大学から排除するなど報復的制裁をなすべし。そうすれば、何も知らないターリバーンとて、事態の深刻さに気づくだろう。

●アフガニスタンの男たちを教育せよ。ターリバーンと共に生きるなと。

●アフガニスタンvsターリバーンにもウクライナvsロシアなみの関心、および行動を。

●アフガニスタンに戦車を送ろう。

●ターリバーンの指導者たちを最新兵器で暗殺すればよい。

中にはかなり物騒な提案もあったが、参加者たちの血の気の多さを物語っているのかな。

このあと、GWIの歌をみんなで鑑賞して3時間にも及ぼうかというzoom会議は終わった。
なお、この歌は以下のリンクで、確認できる。

https://www.facebook.com/watch/?v=293858144818633

 

==========<野口壽一>==========(2023年2月15日)

1月30日、警察官が多く集うペシャワルのモスクがパキスタン・ターリバーン(TTP)のテロ攻撃を受け、100人以上の死者、200人近くの負傷者と悲惨な事件となった。犯人はイスラム国(IS)だという情報も流れている。

パキスタン政府はアフガニスタン・ターリバーンにTTPを何とかしてくれと泣きついている。そもそも、アフガニスタン・ターリバーンとパキスタン・ターリバーン、それにパキスタン政府、軍(特に統合情報局ISI)の関係は米NATO軍の存在下ではもともと両手両足の関係であったものが、重しが取れて、それら4本の手足が殴り合いを始めたようなものだ。

TTPはパキスタンの政府・軍・警察は背教者(異教徒)とみなしジハードの対象だから殺してよいとしている。ISがシーア派の宗派全体を異教徒とみなしジハードの対象としているのと同じだ。中東調査会の調査によれば、TTPが発表した2022年のパキスタン4州での対政府軍事作戦件数はペシャワルのあるハイバル・パフトゥーンフワー州348件(ほぼ毎日1件)、バローチスターン州12件、パンジャーブ州5件、シンド州2件と、アフガニスタンと接するパシュトゥーン族居住地域が圧倒的に多く件数も驚くほどだ。

アフガニスタンでもIS系のテロが増えており、最近はハザラ族への攻撃だけでなくロシア、パキスタン、中国などの外交施設や関連施設への攻撃も報告されている。昨年タジキスタンのドゥシャンベで開催されたヘラート安全保障対話ではターリバーンは外国人テロリストの身分を保証しアフガン国内に根付かせている実態が暴露された

中東やヨーロッパ、とくに最近はトルコでクルド族のテロ事件も発生している。スウェーデンのトルコ大使館前では1月に極右勢力が抗議行動のさなかにコーランを燃やしテロ含みの事態に発展している。雑誌『選択』は1月号で「南米と欧州がテロの拠点に ぶり返す『イスラム国』の恐怖」とする分析記事を掲載し、イスラム国が南米でその活動を「劇的に増加させ・・・一定の成果をあげている」と書いている。

ウクライナ戦争に世界の目がひきつけられている間に現代世界の大混乱の原因を生み出したイスラム過激派が、アフガニスタン、パキスタン周辺だけでなく世界中で復活しつつある。パキスタンは経済不振・外貨不足に加えて、国土の1/3が水没した昨年の大洪水の後、先月には全国で終日の停電が発生するなど、社会不安が高まっている。デフォトの危機もささやかれている。アフガニスタン・パキスタンが今以上に不安定化すれば、この周辺の数億、中国・インドも加えて数十億の人口が影響を受けることとなる。日本におよぶその余波は単なる過激派のテロ事件、ではすまなくなるだろう。

 

==========<金子 明>==========(2023年2月5日)

アフガン国軍にかつて存在した女性エリート部隊FTP(Female Tactical Platoon)をテーマとした第3弾。引き続き米雑誌ポリティコ(POLITICO)の昨年8月4日付け記事(https://www.politico.com/interactives/2022/afghan-women-soldiers-taliban-us-refugees/ ) から抜粋・翻訳し、カーブル陥落後の女性兵士たちの命運、そして今の暮らしを紹介する。

【あの日】
2021年8月15日、カーブル郊外の米軍基地。部隊はそこに簡易難民キャンプを組み立て、寝泊まりの訓練を続けていた。その朝ナフィサ(鋭い射手)に、アフガン人の男性兵士がこう伝えた、「ターリバーンがやって来た。軍服を直ちに脱ぎなさい。」しかし、彼女はすぐには反応できなかった。

米軍の撤退に伴い、ターリバーンが勢力範囲を広めているのは知っていた。しかし、カーブルは無事だろうと思っていた。せめて数か月は。「だから、そう聞いたとき、とても動揺したの。」彼女はしばし固まっていたが、兵舎の外で銃声が響き、すべてを理解した。自分の人生が永遠に変わってしまったと。

慌てて軍服を脱ぎ、ロッカーに放り込んだ。「あの瞬間は決して忘れないわ」と言う。タクシーに乗り、妙に閑散とした道路を家へと向かった。3日間そこに閉じこもった。今にもターリバーンが現れるかと思うと「気が狂いそうでした。」軍事表彰や英文の書類を燃やし、携帯からはほぼすべてのアプリを削除した。

【米国側の対策】
ここで、時間を少し戻そう。数か月前からアメリカでも彼女たちを救い出す動きがあった。エリー(仮名)という女性退役軍人を中心にプロジェクトチームを立ち上げ、特別移民査証(SIV)の獲得を目論んだ。以前ここで紹介したファキール姉妹(ラジオドラマ声優)を助けたビザだ。だが、FTPには適用されないと通告された。隊員はアフガン国軍の兵士だ。ビザの要件たる「米国の雇い主が書いた手紙」がないのだ。

血眼になって他のビザを申請しまくるも、よい結果は出ない。そんな中カーブル陥落の1週間前に悲劇が起きた。FTP隊員のひとりマハジャビン・ハキムが自宅で殺害されたのだ。例によって迷宮入り。状況からして、彼女が女性兵士であることとは直接関係しないようだ。とは言え、隊員が受けた衝撃は大きい。米国にいるエリーたちも驚き、残る隊員の保護に一層拍車をかけて取り組んだ。

【最後の作戦】
カーブル陥落から数日後、FTP隊員たちは意を決してカーブル国際空港へ向かった。ナフィサも、ナヒド(万能勲章兵)も、マハタブ(元書道教師)も、ほぼ全ての隊員が連れ立って動いた。国外脱出を願う群衆に混ざって。もう武器も軍服も無い。空港の周囲では倒れた親が踏みにじられ、子どもたちは飢えて泣き叫ぶ。それを助けられないとは、何のための訓練だったのか?

米軍特殊部隊もしのぐ戦歴を誇る女性兵士たちが、突然の無力感に苛まれた。ただ怖かった。「ターリバーンには道徳も倫理もありません。だから捕まれば拷問です。いや、もっとひどいでしょう。人が思いつく限り最悪のことをします」とナヒドは当時の心境を語った。

この最後の出撃に先立ち、数時間も、時には数日かけて、エリーは隊員たちとアプリで連絡を取り合った。いかに元アフガン女性兵士を空港に近づけるか。さすればエリーの知る米兵が彼女たちをフェンス越しに引っ張り上げる。その段取りを決めるやりとりが延々と続いた。「何が何でもフェンスに近づいて。下から強く素早く押し上げるのよ。助ける方法はそれしかないの。」

そして当日。

「みんな離れちゃダメ(˃ᗝ˂)」

「塔が目印よ♡」 添付は手書きの地図と見取り図

「門のそばスウェーデン国旗の所よ♡♡♡」

「OK頑張る」

しんがりを務めたひとりがナフィサだった。アメリカの女性たちとコンタクトを取っていたアーミーレンジャーが、地上にいる米兵に指示を出す。仲間に尻を押してもらえないナフィサをその米兵がフェンス越しに引き上げた。全員が空港内に入ってからの主役はアメリカ人だ。国務省に連絡し、滑走路にいた将軍を動かした。こうしてやっとFTP隊員が乗る実機が確保された。

軍用機に最後に乗り込んだナフィサは、どこに飛ぶのか見当もつかなかった。機内は人々であふれ、みな床に座っていた。着陸したのはカタール。2時間後、別機に乗った。ドイツに着いたが、7日間は空軍基地で足留め。他の難民同様、ナフィサに行き先の選択権は無かった。

文字通り一晩でエリート兵士から難民へ。救う者から救われる者になった。ナフィサたちは結局、米ウィスコンシン州のマッコイ基地に降り立ち、そこで3か月を過ごした。マハタブと13人の隊員も一緒だった。

【軟着陸】
無事に米国に到着したはずの隊員たちだが、どこに送られたのか?エリーほか退役・現役混在の女性軍人たちが追跡し始めた。「混沌としていたわ」とエリーは言う。何人かは特に見つけにくく、見つけてもすぐに連絡不能となった。「彼女たちの要求に私たちが応えられないことは、すぐに分かりました。彼女たちはもっと長い目で見守って欲しかったのです。」

そこでエリーたちは「戦役姉妹」(https://sistersofservice.org)を組織し、各隊員にマンツーマンでメンターをつけるべく人材採用を開始した。また基地に留まっている隊員には、暖かい上着、運動靴、そしてもちろん化粧品を送った。隊員たちはお礼に絵文字だらけのセルフィーを送信した。その中の傑作:「これで逃げてきたのよ(≧∀≦)」とキャプションされたのは、7.5センチのハイヒール姿。いつもの「アフガン流」である。

マハタブによると米国は奇妙なくらい見慣れている。映画のおかげか。建物は高く、道路はアフガニスタンよりもはるかに整っている。何よりも安全だ。彼女は移民専門の法律事務所でリモート通訳の職を得た。メリーランド州の高速道路脇、質素なアパートに暮らす。部屋には訪ねて来たエリーにもらったピンクのFTP人形一式が飾られている。

ナヒドはピッツバーグ州に落ち着いた。フェイスブックで出会った地元の有志を介してファストフードチェーン「チックフィレー」のオーナーを紹介された。実際に会い、通訳アプリをはさんで話し始めた。40分かけてやっと鶏肉はハラルに非ずと分かってもらった。すると即刻、採用を告げられた。今ではナヒドを含め4人の元隊員が各地のチックフィレーで働いている。

 

ナフィサはアトランタ州。彼女は社会保障番号と労働許可証の取得に手間取り、先の2人ほど素早く職にありつけなかった。1年前は機関銃をぶっ放し、テロ容疑者を尋問していた彼女が、戦役姉妹の資金集めイベントで売る小さな紫の財布を手編みして暮らした。そしてひたすら待った。ようやく書類がそろったのは、去年の3月。アトランタの喫茶店でバリスタとして働き始めた。(3人並びの中央)

この3人を含め現在39人の元FTP隊員が米国の26の都市に散らばり暮らしている。職業としては他に、老人介護や牧場での庭師など。職に就かず英語学校に通う者、格闘技を習う者もいる。みなが新しい暮らしに適応しようと努力している。

【残して来たもの】
一見、小さな幸せを得たように見える元女性戦士たちだが、これでハッピーエンドではない。マハタブは言う、「今は戦争よりもつらいの。空港では出迎えたみんなが拍手してくれた。ありがたいわ。でも私の心はそこに無かった。私はアフガンの人々のことを思っていたの。」

アフガン国軍特殊部隊で共に戦った元男性兵士たちからメッセージが毎日届く。悪夢に捕らわれた、逃がしてくれと。もちろん、彼女には何も出来ない。「ターリバーンが殺さなくても飢えて死ぬでしょう」と彼女は言う。当然SIVも効かない。どんなにそれを伝えても、いつか米国が助けてくれると男たちは信じている。

マハタブはこの記事を書いたアマンダ・リプリーに1枚の写真を見せた。送ってきたのは元同僚兵士の家族、写っているのはターリバーンに拷問され、殺され、焦げ跡のある彼の死体だった。「米国は私を助けてくれたわ。でも私が聞きたいのは『肩を並べて戦った彼と私の違いは何?』なの。」答えるのは簡単だが、話はそこで終わったという。

ナフィサは8人の兄弟姉妹をアフガニスタンに残した。彼女の軍歴のために、全員が隠れて暮らしている。ターリバーンのカーブル制圧があまりにも早かったため、軍部には書類を処分する時間が無かった。FTPの名簿や給与記録がターリバーンの手に落ちている可能性は高い。「体はここにある。でもわたしの心と精神はアフガニスタンにあるのよ」と彼女は語った。

【それぞれの未来】
(部屋にアフガン国旗を飾るナヒド゙)万能兵士のナヒドはチックフィレーで働きながら、大学で英語を学んでいる。いつかグリーンカードを取得し、米軍の兵士になるのが夢だと言う。射撃自慢のナフィサも同様に、米軍への入隊を目指している。2人の心には、アフガニスタンにいる家族や戦友への思いがあるのだろう。得意だった戦いに敗れ、愛する人たちの運命を敵の手に渡してしまったのだから。

「私は絶対にあきらめない」とナフィサはリプリーにメールをよこした。

元隊員が新天地に落ち着いた直後の2021年11月、FTPは栄えある軍人に送られるジョン・マケイン賞を授与された。授賞式にビデオ参加したマハタブはこう語った、「アフガニスタンを救いたいなら、ぜひ女性の教育のために立ち上がってください。女性の働く権利のために、女性が発言できるように。われわれの小隊は解散しましたが、われわれの任務はまだ終わっていないのです。」

(ホワイトハウス前の反ターリバーンデモに参加したマハタブ゙)

マハタブの夢はいつかアフガニスタンに帰国すること。そして何らかの形で国に奉仕することだ。「私に子どもはいりません。アフガニスタンのすべての子どもが私の子どもですから。そう、孤児院を開こうかしら」と彼女は語った。そしてこう付け加えた、「あの大きな目のザクロっ娘にちなんで、孤児院はアナルグルと名付けましょう。」
(終)

 

 

 

 

 

==========<野口壽一>==========(2023年2月5日)

さすがアラブニュース、ペシャワルのモスク自爆攻撃事件のその日に死者数こそ59人と途中経過でしたが詳細報道してました。まるまる転載したいほどの情報だったけど、クレームされるといやだからリンクを飛ばしました。ぜひ本体をお読みください。

それによると、ペシャーワル地区のリアズ・メスード行政官はアラブニュースに、以下のように語ったそうです。
「このモスクでの礼拝者の大半は警察官なので、死傷者の9割は警察関係者だと思われる」。ハワージャ・アースィーフ国防相によると、犯人は礼拝者の最前列にいた。爆発時にモスクにいたアフマド・カーン巡査の話では、爆風でモスクの屋根が崩れ落ちたという。「ズフルの礼拝の時間でした。私は爆発が起きた時2列目にいましたが、モスクの屋根が崩落したために、多くの人が下敷きになりました。私はどうにか抜け出すことができ、軽傷で済んだのです」。襲撃は明らかに警察を狙ったものだった。
それに対して最初は、パキスタン・タリバン運動(TTP)のサルバカフ・モフマンド司令官はツイッターに投稿して、爆破事件への関与を認めた。そしてすぐその数時間後、今度はTTPのモハメド・フラサニ広報官が事件と無関係であるとの声明を発出したことも速報している。

首相その他のインタビューを紹介した後、簡単に事件の背景を報じています。

ペシャーワルはカイバル・パクトゥンクワ州の州都で、パキスタンのタリバンの一大拠点となっており、武装勢力による攻撃が頻繁に起きている。昨年11月に、5月に政府との間で結んだ停戦をTTPが破棄して以降、攻撃は増加している。30日の爆破は2022年3月に金曜礼拝の最中にダーイシュの自爆テロにより、58名以上の死者が出て以来、ペシャーワルで最悪の悲劇となった。
国民の大半がスンニ派イスラム教徒であるパキスタンでは、パキスタン・タリバン運動が政府軍との停戦を昨年11月に破棄して以来、武装派組織による攻撃が相次いでいる。
今月初め、TTPはメンバーの1人がパキスタン軍の諜報機関、軍統合情報局のテロ対策部門のトップを含む2人の情報将校の射殺に関与したと認めた。治安当局者は30日、射殺犯はアフガニスタンとの国境に近い北西部で銃撃戦の末殺害されたと明らかにした。
TTPはアフガニスタンのタリバンの分派であるが、アフガンの組織と同盟関係にある。過去15年にわたり、パキスタン国内で反政府活動を続け、イスラム法のより厳格な適用、政府の拘束下にあるメンバーの解放、長年拠点としてきたカイバル・パクトゥンクワ州でのパキスタン軍の勢力縮小を求めてきた。
2022年に起きた未曽有の大洪水では、死者1,739人、倒壊家屋200万以上の被害を出し、ある時点では国土の1/3もの面積が水没した。パキスタン政府がその対策に取り組む最中に、TTPとの停戦が破棄された。
財政状況の厳しいパキスタンは深刻な経済危機に直面しており、デフォルトを回避するため、国際通貨基金(IMF)からの資金11億ドルの支払いを求めている。これは総額60億ドルの援助計画の一部に当たるが、ここ数か月間、援助再開に関するIMFとの交渉は停滞している。

『ウエッブ・アフガン』でたびたび報道しているように、一昨年ターリバーンがアフガニスタンを再掌握してから、イスラム国やパキスタンTTPなどの活動が活発化しています。ターリバーンは彼らを取り締まりアフガニスタンを再びテロリストの安息所にしないとアメリカに約束し、そのお代を頂戴と手を差し出し、アメリカは気前よくキャッシュを送金しています。アメリカはそんな風にしてかつてはビン・ラーディンを育成し、シリアではイスラム国を誕生させています。獅子身中の虫を育てるのが好きな国なんですね。アフガンはいまやイラン、中央アジア、パキスタン、インド、中国(全体で世界人口の半分に迫る規模)に直接影響を及ぼすテロ活動のセンターになりつつあります。日本にとってもひとごとではありません。

 

==========<金子 明>==========(2023年1月25日)

アフガン国軍にかつて存在した女性エリート部隊FTP(Female Tactical Platoon)紹介の第2弾。今回のテーマは女性兵士3人の活躍。引き続き米雑誌ポリティコ(POLITICO)の昨年8月4日付け記事(https://www.politico.com/interactives/2022/afghan-women-soldiers-taliban-us-refugees/ ) から抜粋・翻訳する。

【ナヒド】(偽名)
大抵の女性兵士の例に漏れず、彼女もハザラ人、シーア派。母親が16歳のとき生んだ子。文盲の父親は彼女に期待を寄せ、「いつか大物になる」と信じて学校へ通わせた。周囲は「娘は学校に行かせるべきでない」と非難したが、意志を曲げない彼を「バカ親」とからかった。同じ年頃の少女たちが、家で絨毯を編んでいるなか、ナヒドは高校、大学へと進学した。20歳のときテレビで女性兵士募集の広告を見て志願。父親はそれを許した。

厳しい訓練を経て実戦に配備される。アフガン国軍敗北までの6年間、米軍特殊部隊との合同夜襲作戦に50回も名を連ねた。

ある晩、敵が2階の窓から投げた手榴弾によって、近くにいた3人の男性アフガン兵が爆死した。米兵も1人負傷したが、ナヒドは彼をかばい暗闇に向かってM4攻撃ライフルを撃ち続けた。彼の命を神に祈りながら。やがて援助のヘリが現れた。またあるときは、ターリバーンが人質にした6人の女性と13人の子どもを救出した。その功績で勲章を授与された。

「兵士として何が一番得意だったのか、射撃か、肉弾戦か、尋問か?」と記者に聞かれ彼女はこう答えている、「すべてよ。」

【マハタブ】(偽名)
最初期に入隊した兵士のひとりで、それまではアラビア書道の講師だった。ほとんどの同僚と同じく、小柄で長い黒髪。入隊すると毎日が新しい発見に満ちていた。実戦に出ると、次に何が起きるか分からない興奮に「まるで恋をするかのように」酔いしれた。また彼女は入隊後も夜間の大学に通い、政治学の学位獲得を目指していた。そうした知性と持ち前の物怖じしない性格で階級を駆け上がり、後にFTPの司令官を7年も勤めることになった。

そんなマハタブだが、入隊から数年たつと最初の蜜月的興奮は薄らいできた。戦うモチベーションが新たに必要だった。それは「目的に向かう気持ちでした」と言う。「アフガニスタンをテロリストの保養地にしたくなかったの。私たちは、ただ国のために奉仕しているんじゃない、世界のために奉仕していたのよ。」

兵士募集に関わった時期もあった。「私は正直に伝えたわ、『これは戦争よ、あなたは死ぬかも。腕も脚も無くすわ。でも本当の意味で国への奉仕よ。あなたの体だけじゃない、精神、心、すべてを賭けた奉仕なの』と。」

しかし彼女も人の子だ。実戦経験の初期、グリーンベレー(米陸軍特殊部隊)のとある夜襲に加わり心を乱された。ターリバーン指導者の妻を捉え、彼女が尋問した。それが終わると妻はマハタブを冷ややかに睨みつけこう言った、「今日はお前が我が家に来た。明日は私がお前の家に行く」と。この邂逅はマハタブを数週間にわたり悩ませた。

彼女は「そのとき初めてターリバーンが権力に返り咲く恐れに気づいた」と言う。同僚たちは「心配無用、奴らは弱いし、米軍もいる」となだめた。結果、そのことについては深く考えず、目下の任務に集中した。ただ一心、国のより良き未来のために。

忘れられない夜襲がもう1つある。ヘルマンド州における米アーミーレンジャーズとアフガン特殊部隊の総勢約75人からなる合同作戦。ターリバーン司令官とおぼしき1人の男を追っていた。真夜中前後になってやっと1軒の家に突入した。しかし、どうやら誤認情報で、その家の探索は空振りだった。

それでも、家人に話を聞こうとマハタブは中庭に入った。すると1人の大きな丸い目をした少女が彼女を見つめていた。彼女の声を聞いて「あなた女性?」と少女は尋ねた。その目はマハタブの銃からナイトビジョンへと移り、最後はヘルメットからピョコンと突き出たスカーフに留まった。

「そうよ」と答える。

「何か記念になるものをちょうだい。」

マハタブは気づいた、この子が彼女をユニコーンだと思っていると。ユニコーンが実在する証拠を欲しているのだ。ポケットをまさぐった。1本のペンとピーナツが少々、特別な物は何もなかった。だが、全部引っ張り出して、少女にあげた。

「ほら、食べてごらん。」

「絶対食べない」少女は誓った。「一生の宝物にするわ。」

少女の名前はアナルグル、ダリ語で「ザクロっ娘」の意味。その晩、ついに敵は見つからなかったため、マハタブはその家をもう一度訪ね、アナルグルを呼び出した。少女とその家族はマハタブと奇襲隊員に、どこでターリバーンの司令官を見つけられるかについて詳しく助言した。

こうした関係の取り結びがFTPの真骨頂だった。確かに理論上は有益な女性兵士たちだが、舞台は戦場のまっただ中。男性奇襲隊員たちは最初FTPをお荷物と思い、命令されて否応なく現場に連れ出していた。しかしやがて、積極的に彼女たちを作戦に加え始めた。

マハタブの説明はこうだ、「私たちは同じ言葉をしゃべり文化を理解できるの。女性を尋問するときには『私はムスリム、あなたもムスリム。私はアフガン、あなたもアフガン。私は女性、あなたも女性』と言うのよ。」莫大な資金と装備、優れた訓練体系を誇る米軍を持ってしても、これは決して真似のできない裏技だった。

【米軍女性兵士によるFTP隊員の印象】
米奇襲隊員には女性兵士もいる。彼女たちの目にFTPがどう映ったのかを見ておこう。両国の女性兵士たちは、すぐに打ち解けた。ミッションの合間に、基地内のお互いの部屋を訪問し合い、ダンス、喫茶、ヘナタトゥーに興じた。双方の違いは大きいが、他の女性の安全のため超男性的職業についているという同胞感が勝った。

元文化援助チームの一員で、2020年にマハタブやナヒドの上官だったサラ・スカリーによると「FTPは特別な任務で、軍の中でもまれな存在と噂された」と言う。もちろん多くを米兵から学んだ彼女たちだが、自分たちのやり方にこだわる一面もあった。たとえば、多くが化粧し、宝石を身につけ、ヒールを履いて現れる。山奥の夜襲にも関わらずだ。女性米兵は「アフガン流」と面白がった。(写真:米兵とFTP隊員たち)

ある極寒の夜、1人の隊員が毛皮のロングコートをまとって参上した。おまけにヘルメットとナイトビジョンのゴーグルをフードでスッポリ覆っている。女性の米司令官は、これは懲らしめねばと苦言した、「何かのジョークよね、まさかそれでは行かないでしょ。」

返事はこうだった、「今夜もし死ぬなら、かわいく死ぬの。」

一度ならずも男性奇襲隊員は彼女たちに「お願いだから、もっと地味な着こなしをしてくれ、女性米兵のように」と頼んだ。この発言は、両国の女性兵士が何度も繰り返し楽しむジョークとなり、やがて飽きられたが、アフガン流は廃れなかった。マハタブによると「女性らしく着飾るのは一種の抗議活動ね。『これが私よ』と言ってるの。」

【ナフィサ】(苗字は匿名)
マハタブによってリクルートされた隊員の1人。うりざね顔に口紅、アイシャドー、マスカラを決して忘れない。笑顔が顔中に広がり形良い鼻が一層際立つ。マハタブが彼女を決して忘れないのは、その卓越した美貌と時間厳守の姿勢からだ。「みんなナフィサを見習いなさい」とマハタブは時間にルーズな部下をよく叱った。

ナフィサが入隊した2018年は内戦が最も激しい時期だった。以来隊員だった3年間で60回の出撃。ほぼ全作戦で銃弾を発射した。そのため「鋭い射手」と呼ばれた。標的訓練も好んだが、一番得意な訓練は機銃掃射。157センチ、42キロの体からは誰も想像できない腕前だった。25歳にして強者米兵の大多数よりも実戦経験が多かった。(写真:左がナフィサ)

特筆すべきは2019年6月、北部の都市マザーリシャリフでの作戦。ナフィサを含む50人からなる米アーミーレンジャーとアフガン特殊部隊の混成軍は、24時間内に3度にわたって、ターリバーンに待ち伏せされ、重火器で狙い撃たれた。ナフィサも被弾したが、ボディアーマーに守られ無傷だった。(10年間の存続期間中、FTPの戦死者はゼロ。但し、2人が重傷を負っている。)

自爆ベストを着ていると言われた女性を果敢にもタックルしたことがある。しかし、うっすらと見えた針金は爆弾ではなく、女性の持ち金たる札束に巻かれたものだったので事なきを得た。また、赤ん坊をくるむ毛布の下にピストルを見つけたこともあった。こうしたナフィサの、さらにはFTP戦士たちの活躍は仲間の女性米兵にも影響した。

「私はウェストポイントを出ましたが、単に戦闘体験を求めて入隊しました。でも彼女たちと共に戦ったことで、より多くの感銘を受けたのです。」今も現役のため匿名のある女性米兵は語る。「あの女性たちが如何に振る舞い、ワルな任務を成し遂げたか。実社会では誰も女性など認めない国で。それこそ謙遜の鏡よね。彼女たちのことを思うと自然と微笑むの。あの女性たちがいたから喜んで任務を続けられたと。」

【去る者、去らざる者】
時が経つと、女性米兵はローテーションで任地が変わる。1人ずつ去って行く。大概は半年単位だ。だがFTPに異動はない。米陸軍予備役少佐のアンドレア・フィロゾフはFTP1期生の訓練を支援したが、こう認めている。「いつも心配でした。私たちが去った後、この女性たちは安全だろうかと。」
(写真:FTP隊員たち・アフガニスタン北部にて)

両国の女性たちが互いに別れを告げるとき、もう2度と会えることはないという暗黙の諦めがあった。

結成から10年間でFTPの女性兵士が出撃した作戦の数は約2000。にもかかわらず、その存在は秘密にされた。この記事を執筆したアマンダ・リプリーが米軍の各方面に探りを入れても、「聞いたことがないね」と返されたと言う。特殊任務の記録官は情報を持っていたが、「極秘扱い」だった。

強烈な愛国心に突き動かされ、戦場で命を賭けて戦ったが、闇に生きざるをえなかった女性兵士たち。仲間だった米兵が逃げ去る中、国を離れられない彼女たちに、やがて運命の2021年8月15日が迫って来る。

(次回へ続く)

 

==========<野口壽一>==========(2023年1月25日)

昨年12月、といってもほんの先月のことだが、ターリバーンは立て続けに女性の権利を奪った。女性を大学から締め出し、NGO機関で働く女性も就業禁止とした。おまけに、イスラーム神学校(マドラサ)からも追い出した。かろうじて残されていた女性の権利のほとんどが奪われたに等しい措置だった。さすがにイスラム諸国もターリバーンのやり方にはついていけず、批判や非難の声を上げ始めた。(「トピックス」コーナー参照)

これに対してアフガニスタンの女性たちは、嘆いてばかりいるのではない。銃で武装したターリバーンに徒手空拳で立ち向かい、デモや集会などの抗議行動をつづけている。教育の実際では、第1次ターリバーン支配時代のときのように、私邸で「秘密の学校」を開き少女たちに教育を施している。彼女らの熱意と粘り強さには驚嘆するほかない。

米英NATO軍進駐の成果はまったくゼロに帰したという声がある。確かに表面上ではそうかもしれない。だが、20年間の外国からの支援とアフガン人の努力は無駄ではない。いまは散り散りになったり押さえつけられていても、底流には民主主義と近代化への熱望が伏流となって流れ続けている。

アフガン問題とはひっきょうパシュトゥーン問題であり、曲解され極端化したイスラームの強要だ。それを跳ね返す力は女性にこそあり、この20年、もっと言えば前世紀70年代から脈々とつづいてきた女性解放運動の流れのうえにある。ターリバーンがイデオロギー的なよりどころとしているパシュトゥーンの女性抑圧、父(男)による女性の私有意識/社会システムの打破が必要で、その意識はこの20年でとくに強くなっているのだ。

金子編集委員がつぶやき始めたアフガン国軍にかつて存在した女性エリート部隊(Female Tactical Platoon)の存在は国家運営において女性が軍隊でも活躍できることを示している。日本は女子警察官の育成を支援したし、『ウエッブ・アフガン』への原稿寄稿者にもアフガン人女性警官がいる。
「アフガンの声」に載せた「アフガニスタンの女性たちとコバニの娘たちとの比較」は時代錯誤的女子奴隷化を実施したイスラム国を武器をもって叩き潰した(米軍と一緒だったが)シリアのコバニの娘たちの戦いをアフガンの女性の闘いと比べていた。アフガンの女性は素手でも武器を持ってでも闘う経験をもっている。

殺人兵器をもった戦いは敵にも味方にも回復不能となるほどの痛手をあたえる。
ターリバーンとの戦いは、ターリバーン戦闘員の身体を不能にすることが目的ではない。ターリバーン隊列のさらにその中にいる連中の頭の中にあるもっとも愚劣なイデオロギーとの戦いである。この戦いは武器だけで勝つことはできない、思想的、イデオロギー的、文化的、生活習慣的、つまり人間としての生き方の戦いである。短期間で結論を出すことはできない。数年十数年でも難しいかもしれない。内と外からの重層的な働きかけにより、ターリバーンとして表れている前近代性との戦いだ。女性の目から見れば、ターリバーンの陰にさらに狡猾な別のターリバーンが隠れているかもしれない。
最近寄せられてくる情報をひもとくと、抑圧に何千年も耐えてきた女性たちはどんなに長い年数がかかってもこの変革を必ず実現するだろうと確信する。

 

==========<金子 明>==========(2023年1月15日)

ターリバーンと戦い敗れたアフガン国軍に、女性だけのエリート部隊があったという。名付けて女性戦術小隊(FTP/Female Tactical Platoon)。女性は男性の同伴無しでは外出すらできない。そんな女性差別の国として悪名高いアフガニスタンに女性兵士?にわかには信じられない話だが、隔月発行の米雑誌ポリティコ(POLITICO)の昨年8月4日付けニュースに詳しいリポートが載せられている。https://www.politico.com/interactives/2022/afghan-women-soldiers-taliban-us-refugees/

筆者はアマンダ・リプリー。邦訳本も出ている大物女性ジャーナリストである。今回から数話に分けて、その記事を抜粋・翻訳し、ユニークな女性部隊FTPの歩み、兵士たちの横顔と活躍、政権崩壊時の混沌、そして気になる現状を紹介する。

【誕生】
2011年、アフガン駐留米軍のローラ・ピータース少佐は妙な部隊を新たに生み出す話を聞かされ、大いにいぶかった。良くて危険極まりなく、悪けりゃ全滅必至の部隊と思えた。アフガン女性をエリート軍人に鍛え上げ、ターリバーンが占拠する国内最悪の地に送り出す?「正直言って、うまく行くとは思わなかった」と、当時を振り返って少佐は話す。

その頃ピータースは米軍特殊作戦部隊内に誕生したばかりの「文化援助チーム」の一員だった。それは高度に訓練されたアメリカ人女性たちからなり、戦場で女性や子供と関わることを指命としていた。だが、嫌になるほど物議を醸した。男性兵士は彼女らの力を軽んじ、コンバットゾーンに向かうヘリの貴重な座席が、役立たずの女性たちに奪われるのに憤慨した。

「まず私たちが力量を示さなくてはならなかった」とピータースは言う。「やりがいはあるが、とても困難なミッションだった。」それと同じ事を今度はアフガン女性でやるって?「狂気の沙汰に思えた。まずもって、どうリクルートする?」アフガン女性は伝統的に外で働くとは思われていない。ましてや夜に外出など常識外れにも程がある。女性は原則走らず、重量上げなどしない。

後に新兵を訓練した別の将校によると、「腕立て伏せを1回もできなかった。」だが、小隊のメンバーは男性戦闘員と張り合うくらい丈夫でなくてはならない。さもなければ、炎に包まれたヘリから飛び降りたり、重装備で山を歩き回れない。

障壁は体力の差ばかりではなかった。基地をひとたび離れると、女性兵士たちは民間人の服を着て、任務を隠す。毎日どこに通っているのか隣人に嘘をつく。ターリバーンの検問所で止められると、架空のストーリーをでっち上げ、進んでクルアーンに手を置き真実であると誓う。基地では、女性は専用の空間を要し、活動、訓練、食事、祈祷などすべてを男性と離れて行った。兵站的に言うと、滅茶苦茶な面倒だ。

やがてリクルート活動が始まると、100人来ても、仕事の中身を聞いて帰ってくるのは10人のみ。もうやめたくなるような成果だったが、ピータースらが続けた唯一の理由は、女性の戦地における理論上の有用性を米軍が熟知していたからだ。どんな部族の村でも、女性は男性の居場所、武器のありか、誰が床板の下に携帯を隠したのかを知っていた。

男性兵士はこうした村の女性たちに話しかけられない。村の男性たちは話しかけられた女性を罰し、酷いときは殺す。また、その子どもも同罪となる。どこぞの王族のように「チェスの駒」と粋がってもいいが、その地域一帯で米軍への憎しみが天を衝く。元来その回避のために導入されたのが、ピータースらの文化援助チームだった。

だが、いつか米兵は撤退する。だからアフガン女性からなる姉妹ユニットを生み出したかった。かてて加えて、アメリカ人女性は文化の微妙なニュアンスに疎い。話すのには通訳を介し、隔靴掻痒。にもかかわらず、文化援助チームは驚くほどの成果を残した。重要標的人物や爆弾製造原料の発見などが相次いだ。アメリカ人女性がもたらしたこの成果を、アフガン女性がやったらいかばかりか!こうして女性部隊FTPは誕生した。

【新兵教育】
ピータース少佐と彼女の文化援助チームは候補者の中から、まず12人を選びFTPに入隊させた。全員が家族の了解を取り付け、腕立て伏せができそうで、心理テストや性格判断をくぐり抜けた新兵たちだ。性格判断には各項目があったが、面白いのはこれ:自分の現職について友人や近隣者に対し、喜んで嘘の説明を言い続けられるか?

アメリカ人は新兵たちをカーブル近郊にあるキャンプ・スコルピオンに詰め込み、知っているすべてを教えた。まずは射撃、そして重量挙げ。ここで面白いのはこれ:ある日の訓練テーマは「外で用を足す術を学びましょう」だったが、新兵の1人がしごく真っ当な突っ込みを入れた「なぜ?」

アメリカ人教官たちの最初の驚きは、新兵たちの執着心だった。「誰も辞めたがらなかった、驚いたことに」とピータースは言う。職場への安全な交通手段に窮する者が多かった。この仕事をすることで親類から脅される隊員もいた。その上、アフガン政府の職務怠慢で最初の数か月間は無給となってしまった。にもかかわらず、「彼女たちは、もっと多くの何かを求めて戻って来つづけた。」

もう一つの驚きは喜びだった。毎週20キロの行軍訓練では、灼熱の中15キロの装備を背負う。長袖長ズボンの軍服に加えヒジャブまでまとう。だがそんなとき、いつもその衣装のすぐ下に笑顔があった。「そうそう、とっても愉快に笑っていたわ」とピータースは言う。ドアの蹴破り方、ロープを使ったヘリからの緊急降下など、どの訓練にもそれまで想像すらできなかったパワーを彼女たちは炸裂させた。

「個人的意見ですが、彼女たちはそれまで大抵静かにしていろと教えられたのでしょう」とピータースは言う。「それが今ではみんなで集まり、ワルになれとそそのかされる。完璧な傍若無人な振る舞いに味をしめ、とっても輝いていたわ。」

訓練が終わると彼女たちは戦場へ。真夜中に米軍の大型輸送ヘリ、チヌークに乗り込む。装備はM4攻撃ライフルとナイトビジョン。標的はターリバーンとISISだ。共に行動するのはグリーンベレー(陸軍特殊部隊)、ネイビーシールズ、アーミーレンジャーズという米軍が誇る強者どもだ。

FTPの存在は米軍にとって重要だったが、ターリバーンにとっても重要だった。「彼女たちはターリバーンが象徴するすべてのものに抗っていた」と、あるグリーンベレーの将兵は言う。彼はFTPのメンバー4人と任務についた経験を持つ。「ターリバーンとはいえ『見たら殺す』敵はそうざらにはいない。だが彼女たちはその1つで、もし捕まれば確実に殺された。」

次回はそんな女性兵士たちと、その活躍を紹介する。

 

==========<野口壽一>==========(2023年1月15日)

15日号のアフガンニュースレターは新年第1号だから「明けましておめでとうございます」というべきなんでしょうが、アフガン、ウクライナ、台湾をテーマにしている本サイトとしては、とてもそんな明るい言葉を口にしづらい気分です。そういえば周囲に原因不明の頭痛に悩まされている人が多いようです。まさか、誰もまだ気づいていないコロナ風邪ウイルスとは別の頭痛ウイルスではないでしょうね。そういえば脳関係を患って亡くなる有名人のニュースが心なしか多いような・・・

不吉なことを口にすると不吉なことが起こるというから、こんなつぶやきはおしまい。

何かいいことなかったかな、と思っていたらとんでもなく良いことを忘れていました。それは、昨年始まった「ひこばえサロン」という小さな集まりですが、小生にとってはもっとも大事なここの仲間たちから「2022年 第1回ひこばえ大賞」をいただいたことです。しかも賞金付き。新年会に表彰式までしていただきました。頂いた可愛い手のひらサイズのクリスタル表彰盾にはでっかい切り株から双葉の蘖(ひこばえ)がちょこんと顔をのぞかしているイラストが刻まれたずしりと重い立派なものです。多くの方はご存じでしょうが「ひこばえ」とは切り株から自然に生えてくる新芽のこと。毎月行う勉強会を切り株に喩えてすでに切り株となった年配者を土台にして新芽が這い出てほしいという思いで名づけられたサロンです。毎月1回、ベンチャー支援を続けてきた会社の会議室をお借りしてアフガンについての勉強をした後、参加者の自由発言で会社経営やこれから始める新規事業や起業アイデアについて丁々発止、激論を交わします。そのころになると缶ビールと柿の種が出てきます。この日の参加者は80代、70代、60代、50代、30代と多彩な年代が揃い、2年目にはますます多彩な新芽が生えてきそうな気配に満ちていました。70代、80代は切り株でしょうが高齢化社会の現在、60代以下は立派なひこばえです。第2回目のひこばえ大賞には本物のひこばえさんに受賞してほしいものです。
ちなみにひこばえサロンとは、野口壽一が執筆した大著「ひこばえ物語」を読んで感動したベンチャー氏の提案で始まったものです。新規の切り株さんとひこばえさんの参加、大募集中だそうです。ぜひご参加ください。野口宛(juichi◆gmail.com)(◆⇒@)、メールをお待ちしています。

 

==========<金子 明>==========(2022年12月28日)

(雑誌「ニューヨーカー」2021年12月27日付けエリザ・グリスウォルドによる記事「アメリカが後に残したアフガン人」より。ターリバーン支配下のアフガニスタンに取り残されたザルミナ・ファキールの妹ミーナ。つぶやきはその抜粋・翻訳https://www.newyorker.com/magazine/2021/12/27/the-afghans-america-left-behindより)

ターリバーンから死刑宣告を受けたファキールは、夫と娘を連れて2017年米国に亡命した。だが、妹のミーナは去年8月のあの日、カーブルにいた。クレジットカードの更新のため銀行で並んでいたとき、通りで銃声が轟き始めた。銀行は一瞬にしてもぬけの殻。ミーナも飛び出し家へと走る。途中、国軍兵が逃げているのを見かけた。

米国政府は目立った亡命支援策をとらなかったが、その代わりアフガニスタンに関係する個人やNPOが力を発揮した。雑誌「詩」の取材でファキールを通訳として雇ったジャーナリストのエリザ・グリスウォルドも人道支援団体に献金。150万ドルが集まった。エアバスをチャーターすると、席はあっという間に埋まった。

亡命者には、女権提唱者、ジャーナリスト、政府高官、戦闘員を投獄した廉でターリバーンに追われる裁判官、女医、映画「君のためなら千回でも」のスターたちがいた。こんな訳ありたちを、うまく国外へ脱出させるのはかなり難しく思われた。

しかし、その段取りをつけるための暗号チャットに時々、マイクとかマットという暗号名の見知らぬ人が現れ、「空港への移動中は『目』となり、ゲートでは『握手』を求めるのでわれわれを信頼して行動せよ」と説いた。実は、彼らは現職または退職した米国の諜報部員および政府職員で、亡命者の安全を確保するために隠密行動をとっていたのだ。

ミーナはターリバーンを恐れ、家の扉を見張りながら暮らしていた。「何よりも4人の子どもと母が心配でした」と言う。母はビザ申請のためトルコ大使館にパスポートを預けたままで、ほかに政府発行の身分証明書は一切持っていなかった。しかし、空港で家族が固まっていれば、混沌の中、母は紛れて出国できるはず。そう考え、一家7人での亡命を決意した。

カナダ在住のあるアフガン人テレビ作家が電話の連絡網を駆使して、市内にバスを走らせた。ミーナの家のすぐ前が運良くそのバスの1台の停車地点だった。8月22日、脱出決行。ミーナは衣類をまとめ、かつて姉から買うよう教わった金の腕輪を各袖に潜ませた。

何組もの家族が彼女の家に集合し、男は外で、女と子どもは室内でバスを待った。やかましくなってきたので、彼女は「こんな大勢がいることを近所に聞かれたら、ターリバーンに通報されるわよ」と警告した。バスは遅れ、果たして通りがかりのターリバーンに見つかった。外の男たちに「お前たち、どこに行くのか?」と聞く。一人が「結婚式です」と答えた。

夜の7時半、家族はやっとバスに乗った。10カ所を超えるターリバーンの検問をくぐり抜け、9時までに空港へと近づいた。ターリバーン政府はアフガン市民を今後出国させないとの命令を既に出していた。ただし、違反者にどう対処するかは判然としない。

最後の検問で事件が起きた。守衛たちが無差別に発砲した。運転手は下車し、検問の司令官と話した。司令官は彼を自動小銃の銃床で殴った。「間違いなく彼は殺され、みんなも殺される」とミーナは思った。しかし、運転手はバスに転がるように乗り込み、空港へと再び出発した。

空港ゲートの向かいにガソリンスタンドがあり、そこにエンジンをかけたまま停車した。ここで入場許可を待つのだ。その間、散発的に銃声が響く。ミーナは夫に向き直って言った、「私たち、みんな死ぬわ。」

この事態は逐一アメリカの支援団体に知らされた。亡命者たちは「現場で標的のアヒル状態だ」と報告された。支援団体の上層部はホワイトハウスのコネを活かし、その情報分析室あてに伝言した。「『君のためなら千回でも』のスターたちが空港ゲートの外で足留めされているが、このままでは殺される恐れがある」と。

すぐに海軍特殊部隊が動き出した。しかし、群衆が邪魔でバスに近づけない。空港警備の責任者ジェイソン・ホック中佐が直々にミーナたちにテキストメールを送った、「ここのゲートが開く前に動き出した方がいい。」ミーナは子どもたちに手を繋がせ、全速力で走るよう指示した。そして、「すぐ後ろを私たちも追うからね」と伝えた。

ゲートが開き、ミーナたちが入場した途端に再び閉められた。ミーナは姉にボイスメールを送った、「空港に入ったわ、もう安全ね。」だが、滑走路に出たものの、手配されたエアバスを目前に搭乗を拒まれた。CIAに援護されたアフガン諜報部員が数名その機に乗り込み、離陸を妨げたのだ。後にCIAの報道官に確かめると、逃がすべき「現地雇用者の数が多く、特に報復の危険がある共働者たち」を優先した結果だと言う。

バスの乗客のほとんどは、代わりの軍用機に乗せられ、ドーハにある米軍基地へと向かった。しかしミーナの家族は空港ではぐれ、その便を逃してしまった。ミーナは近くにいた飛行機のエンジンがうなり出すのを聞いた。ファキールは電話で「乗りなさい、どこへ向かう飛行機だろうが」と伝えた。それから約4時間後、ミーナたちの乗った機はドーハの基地に着陸した。その格納庫は3千人のアフガン難民であふれていた。

その後、ミーナたちは米軍基地を転々とする。ドーハからドイツを経て、ワシントンDCへ。この時は姉ファキールの家にわずか100キロの距離まで迫った。だが会うことは出来ず、ニューメキシコ州の空軍基地へ。そこで7週間、テント暮らしを強いられた。ミーナは思った、「いつになったら本当のアメリカに着くのかしら」と。

アフガニスタン出身のアメリカ人で難民対応をしている医療従事者によると、「エリス島の滅茶苦茶版だ」と言う。基地から出る便を待つ長い列ができているが、やがてはファキールの住むリッチモンドへ行けるとミーナは前向きだった。しかし、姉にビデオ電話で「プリズンブレークみたい」と言われ泣き出した。あわててジョークで取り繕う、「あなた素敵な眉毛ね、基地にもいい美容院があるのかしら。」ファキールによると、「笑わなければ、これまで生きてこられなかった」らしい。

出国してから約二か月後、10月末にやっとミーナの家族は姉が住むリッチモンドに降り立った。閑散とした空港。ガラス越しにミーナ夫妻、4人の子ども、そして母親の7人が見えた。ファキールはうれしさのあまり突然動けなくなった。4人の子どもが自動ドアから飛び出してきた。ファキールは叫んだ、「難民たちよ、アメリカへようこそ!」そして二枚のテイクアウトピザを差し出した。

<終>

三回にわたり紹介してきたが、上記はエリザ・グリスウォルドによる記事「アメリカが後に残したアフガン人」(雑誌「ニューヨーカー」2021年12月27日号)からの翻訳・抜粋である。この記事はここで11月5日に紹介した同誌の12月20日付け記事「アフガニスタンでの米国外交の失敗」と対になるもので、昨年ニューヨーカー誌はちょうどクリスマスをはさみ、アフガン問題を二度特集したことになる。しかも、前半が政府の動き、後半が民間の動きと、うまく対比されている。

そして今2022年の暮れ。この一年でアフガニスタンにいたアメリカの同朋はどれくらい出国できたのか。二度目のターリバーン2.0下の冬を迎え、アフガン人の暮らし、特に女性の生きる環境はどうなのか。どうすればテロリストの温床となるのを食い止められるか。アフガニスタンへの心配と興味は後を絶たない。

 

==========<野口壽一>==========(2022年12月28日)

ロシアがウクライナに攻め込んで300日を超えた。来年になっても終わりそうにない。本サイトではウクライナ戦争は長期化しアフガン化する、とロシアのウクライナ侵攻の4日後に「視点」で論じた。(「罠にかかったプーチン/アフガン戦争化に向かう危険性」)。侵攻9日前には「(アメリカは)ロシアのウクライナ侵攻のシナリオを作成し、ゼレンスキー・ウクライナ政権に鞭を入れ、危機を大々的に演出し、世界を戦争前夜の緊張に巻き込もう」と挑発」している、と書いた。(「アフガン-ウクライナ-新疆・台湾/地球を滅ぼしかねない危険な火遊び」)

野口は予言者ではないけれど、ソ連とアメリカが軍事的に対峙した79年末からアフガニスタンを通してアメリカのやり口を何十年とモニターしてきた。その前のベトナム戦争にも学生時代からかかわり、アメリカの戦略を見続けてきた。その経験に基づく直観だった。

つまり、昨年からのアメリカの戦略の骨子を概略すると;
・アフガニスタンから撤退し「転んでもただでは起きないしたたかな戦略」を実施。
・ロシアにウクライナ侵攻をさせ、戦争を長期化させ、ロシアを弱らせ、対中封じ込めに注力できるようにする。
・各国の軍事費を増大させ軍産複合体を養う。
・極東では日本政府に軍事費の増額をさせ、対中工作の前線に立たせる。
・結果、岸田政権は中ロ北に対し敵基地攻撃能力を増強し米国と共同で戦うと宣明。

世界はなんと浅はかな指導者ばかりなのだろう、と思うが、戦争は商売、税収のネタ。メンテナンスのために在庫を処分し新品で入れ替える必要がある。各国の軍事費を増大させるのが共同のミリタリーサブスクビジネス(MSB)。

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(手前味噌に聞こえるかもしれないが、本サイトは昨年のグランドオープン直後から、すでに今日を見通して主張を展開してきた。下記はそのほんの一例)

● ターリバーン復権直後(2021年08月16日):「カーブル緊急報道
―(米NATO軍のアフガン撤退後のアメリカの戦略をつぎのように読み解いた。つまり)アフガニスタンに中国・ロシアを引き込む。そして新疆ウイグル・台湾問題で中国を叩き、ウクライナ問題でロシアを叩き、経済的軍事的に足元を脅かすようになった中国を蹴落とそうとする。

● ロシア、ウクライナ侵攻直前(2022年02月15日):「アフガン-ウクライナ-新疆・台湾/地球を滅ぼしかねない危険な火遊び
――つまりはロシアのウクライナ侵攻のシナリオを作成し、ゼレンスキー・ウクライナ政権に鞭を入れ、危機を大々的に演出し、世界を戦争前夜の緊張に巻き込もうとする挑発

● ロシア、ウクライナ侵攻直後(2022年02月28日):「罠にかかったプーチン/アフガン戦争化に向かう危険性
―アメリカは早々と外交団や自国民をウクライナから撤退させ、英欧日に追随させた。国際メディアはロシアの侵攻が決まった、決行はいついつ、明日だ!などと書き立てて挑発し、誘導した。プーチンらはまんまとワナにかかった。

※ プーチンの命脈はすでにつきている。これ以上ウクライナ国民、ロシア国民の命と生活を奪う権利はプーチンにはない。戦争を終わらせるためには、一刻も早く「プーチン的存在」を終わらせなければならない。

 

==========<金子 明>==========(2022年12月15日)

(写真は、雑誌「ニューヨーカー」2021年12月27日付けエリザ・グリスウォルドによる記事「アメリカが後に残したアフガン人」より。ターリバーン支配下のアフガニスタンに取り残されたザルミナ・ファキールの妹ミーナ。つぶやきはその抜粋・翻訳https://www.newyorker.com/magazine/2021/12/27/the-afghans-america-left-behindより)

引き続き、エリザ・グリスウォルドによる記事「アメリカが後に残したアフガン人」(雑誌「ニューヨーカー」2021年12月27日号)からの翻訳・抜粋で、今回はその第二弾。

ターリバーンに死刑を宣告されたファキールは、アメリカに帰国していたエリザにあわてて電話した。家族が心配しないよう、手紙については誰にもしゃべっていないと言う。エリザは自分の関与について心を悩ませた。アメリカの各報道機関は現地協力者の保護に関して手順を取り決めていたが、雑誌「詩」はその範疇に含まれていなかった。

ファキールがアフガニスタンから出国する最も手っ取り早い方法は、メッカへの巡礼(ハッジ)だった。彼女も常々、「いつかはハッジを」と考えていた。そこでエリザは仲間で金を集め、ファキールをサウジアラビアへ、さらにその弟が大学で学ぶインドのプネーへと送り出すことにした。

ファキールは新婚の妻に扮して出国した。何年もかけて買い込んだ金のブレスレットやネックレスを身につけて。エリザが非難した無駄遣いは、この日を予測してファキールが準備した動く銀行だった。

しかし、ファキールはインドを好きになれなかった。仕事が見つからず、国に残した家族のことも心配だった。しばらくして、こっそりカーブルに舞い戻った。家に閉じこもり、既に結婚していた妹ミーナの三男一女を世話して暮らした。

やがてマッチングアプリで、ナジールという男性と出会った。「ハンサムで、優しそうで。あの1クリックが、私の人生を変えるとは思っていなかったわ。」結婚した二人は、夫の故郷マザーリシャリーフに移り住んだ。誰も知らない土地だったが、それは彼女にとって好都合だった。

国連の仕事にありつき、特別移民査証(SIV)を申請した。それが発給されれば、アメリカのために働いた者は渡米できる。手続きには長期を要し、トランプ新大統領のムスリム入国禁止もあって見通しは暗かった。しかし、2017年春、ファキール、夫、そして一歳半の娘にビザがおりた。

5月にヴァージニア州リッチモンドに到着。ファキールは難なく国際救済委員会で職を得、同じ境遇の人たちを助け始めた。ナジールは製薬会社の分析官として働いた。二人は貯金して郊外に家を買った。しかし、その年の感謝祭、首都ワシントンでエリザと会ったとき、ファキールは浮かない顔だった。カーブルに残した弟妹と母親のことが心配だったのだ。

妹のミーナは「新しい家、新しい暮らし」に出演しながら、女性省で米国が資金提供する教育プログラムを推し進めていた。夫のザヒールは米軍と請負業者間の通訳を束ねていた。ミーナは夜間幾度となく見知らぬ男の乗る車に家までつけられた。そこで夫婦はSIVを申請した。

妹との一刻も早い再会を期待したファキールだが、2020年2月トランプ政権がターリバーンと和平交渉を立ち上げたのには絶望した。いわゆるドーハ合意である。アフガン政府を交えずに、翌年のNATO軍の完全撤退が決められた。ミーナのSIV申請に関する最終面談は2021年8月31日に組まれていた。

バイデンが政権についたとき、ミーナは新大統領なら撤退を延期するだろうと期待した。自分のようなアフガン人の安全な出国を保証するために。ところが、彼は撤退期限を9月11日と設定した。ファキールもがっかりして、エリザにメールした、「アフガン系市民は全員がバイデンに投票したはずよ。でも彼はトランプよりひどい。こんなこと言いたくないけど(-“- )」さらに8月13日のメール、「私たちはみんながっかり。誰もアフガン人を人間だと思っていない。その血は水ほどの価値もないのね。」

米国の諜報専門家は撤退完了からカーブルの崩壊までを18か月と予想した。実際はその週末、ターリバーンが首都を制圧した。そのとき国内には、米国市民数千人、グリーンカードもしくはSIV保持者数万人、それ以外に米国と共働したため報復を受ける恐れのあるアフガン人が数十万人いた。

米国の撤退に備え、国務省は2021年春から夏にかけて5千件ものSIVを発給した。当時のアフガニスタン臨時代理大使ロス・ウィルソンによると、「一人ずつ電話した。『大丈夫か?出国したいのか?我々はどう手伝えばいいか?』とね。」

国務省はSIV保持者の出国を加速しようとフライトを組んだが、それは後に米国市民の脱出に使われた。

結局、米国政府は大多数のアフガン人に安全をもたらす計画をほとんど立てていなかった。コネチカット州選出の上院議員リチャード・ブルメンタール(民主党)によると、「5月の時点でホワイトハウスに出向き、今すぐここで、強力な脱出策を講じるよう要請した。アフガンの同朋がアメリカの助けも無いなか、必死に出国しようとしているのは、聞くに忍びなかった。」

米国が大規模脱出に乗り気でないのには理由があった。それを始めれば、パニックとなり、アフガン国家を弱めてしまうと懸念したのだ。だがカーブル崩落後も無策は続いた。第三国と亡命協定を組み上げ損ねたのだ。そのため、アフガン人の大量受け入れを表明する国はなかった。また、難民を安全に脱出させる人道回廊も構築されなかった。

残された手段は、米国本土か領域内の基地に彼らを飛行機で直接運ぶことだった。だが役人たちは、アル=カーイダやイスラム国が機内に工作員を潜り込ませることを恐れた。「あの危機の中では、米国市民の脱出が第一で、アフガン人同朋の中には後に残された者もいた」とミシガン州選出の下院議員(民主党)で元CIA職員のエリッサ・スロトキンは語った。

国が手をこまねいているとき、個人が動くのがアメリカ流だ。援助要員、ジャーナリスト、元役人や元軍人たち数百人が、暗号チャットやクラウド上で情報を交換して、チャーター便を準備し、着陸許可を確定する方法を探った。うまくいくグループもあったが失敗するグループもあった。参加したあるジャーナリストはこう語った、「一度成功すると、百万件のコンタクトが来るの。泣き顔の絵文字で『なぜ私を助けてくれないのか?』とね。この絵文字を残らず国務省に送りつけてやりたいわ。」

段取りがつくと、空港へ。多くが向かうのはハーミド・カルザイ国際空港(カーブル)だが、周囲はターリバーンの検問所だらけだ。うまく空港にたどり着いてからも大変だ。ゲートにはアフガン人の門番がいて、確認してから中に入れる。ある門番は自分の親類を無事に通したあとも門を開けておいた。彼はこう言う、「まるで釣りをしているようだった。集まった家族たちはみな私の家族と同じだった。なるべく多くを助けたかった。」彼は後ろの米兵に「殺されたいのか?」と肩を叩かれ門を閉じた。

空港内では米兵が政府や個人グループの要望を聞き分け、多国籍調整監房に入れる。援助グループが飛行機をチャーターでき、政府の認証を得られて初めて、難民たちは搭乗ゲートに向かう。こうしたグループ活動に参加した元米政府役人リナ・アミリによると、「みんなよく知っている人たちだったの。ほんの一握りしか助けられないのは、とてもつらくて、難しい判断でした。まるで今に蘇った『シンドラーのリスト』だったわ。」

そんな修羅場を妹のミーナ一家がどうかいくぐるか。次回第三弾へと続く。

 

==========<野口壽一>==========(2022年12月15日)

昨日(12月13日)のBS-TBS「報道1930」は『死刑囚の残された肉声 日本の死刑制度の実態と課題』と題して日本の死刑制度を特集していた。「絞首刑は残虐な刑罰か否か」など、なぜ日本は140年前と変わらぬ制度をいまも変えないのか、と問うものだった。

一方、2022年12月8日のNIKKEI Asiaは、カーブル発ロイター伝として「ターリバーンがアフガン乗っ取り以降初めて公開処刑を実施した」として次のように報じている。(注:トピックス欄参照)

「ターリバン政権は水曜日(12月7日)、アフガニスタン西部で殺人罪で起訴された男性を殺害したと、タリバン政権のスポークスマンは述べた。ファラー州での処刑は、2017年に別の男性を刺殺した罪で起訴された男性のものであり、タリバンのザビフラ・ムジャヒド報道官は、タリバンの高官が出席したと語った。処刑は犠牲者の父親によって行われ、男性を 3 回撃ったとムジャヒドはその後の声明で付け加えた。」
さらに「シラジュディン・ハッカニ内相代行、アブドゥル・ガニ・バラダル副首相代行、アフガニスタンの司法長官、外務大臣代行、教育大臣代行など、十数人のタリバン高官が処刑に出席した」とムジャヒド報道官は述べた。

「国連人権事務所の報道官ジェレミー・ローレンスは、死刑は『人権の基本的な信条と相容れないものであり、その使用は生存権の完全な尊重と両立することはできない』と述べた。」
ターリバーンの副報道官ユスフ・アフマディは、国連の批判に対して、報復的正義は犠牲者の家族の権利であると次のように述べた。「彼らが許したいなら彼らは許すことができる。彼らが処刑したいのであれば彼らは自ら処刑することができる…報復は神の命令であり、実行されなければならない」と。

「報復は神の命令」である、というが、復讐(バダル)は実はパシュトーン・ワリにいう「血讐」の掟である。今回のように犠牲者の父親が息子の殺人者を殺害して復讐を果たしても、こんどは殺人者として殺害された血縁者が復讐を実行した父親の命を狙う。そのようにして、血讐が血讐を呼び、仇討が永遠に終わることはない。だがこの血讐を金銭や羊などの物で代行することもできるそれが講和(ルーガ)である。今回のようにルーガでなくバダルの実行は部族の掟としてもその存続は極めて危険である。

復讐や処刑は現代にいたるまで人類が犯してきた非人道的な行為のひとつであり、近代法の整備により、私怨の発露としての復讐の実行(私刑=リンチの禁止)にとどまらず刑罰としての死刑も、世界は禁止する方向にある。しかし日本は、明治初期にも行われた斬首さらし首はなくなったが、死刑を存続させ今も実施する少数派国家のひとつである。世界人口割合からみると死刑存置国の人口合計は世界の50%を超えているが、EU加盟28カ国はすべて死刑を廃止している。そのうえ死刑廃止はEUの加盟条件となっており、死刑廃止は先進国のひとつの基準にさえなっている。(アムネスティ・インターナショナルによれば法律上・事実上の死刑廃止国144カ国、存置国55カ国)(https://www.amnesty.or.jp/human-rights/topic/death_penalty/DP_2020_country_list.pdf)

死刑は、被害者の恨みの表現の究極形でもあるが、本質的には「権力行使と見せしめの最高最終の形態」である。そのことを今号のアフガンの声「恐怖を広めるほか統治策なきターリバーン」は鋭く突いている。イランでもいま、ヒジャブの着用の仕方が悪いとして逮捕されたマフサ・アニミさんの死を契機とした全国的抗議行動がデモにより数百人が死亡してもいまも収まらず、政府は死刑判決だけでなく実際に2件を公開処刑している。時代に逆行する行為は行為者をも時代の後方に追いやることになるだろう。

==========<金子 明>==========(2022年12月5日)

(写真は、雑誌「ニューヨーカー」2021年12月27日付けエリザ・グリスウォルドによる記事「アメリカが後に残したアフガン人」より。つぶやきはその抜粋・翻訳https://www.newyorker.com/magazine/2021/12/27/the-afghans-america-left-behindより)

アメリカに賛同し協力した。だが、いざという時にハシゴを外された。すると、どうなるか?

-1956年、ポーランドとハンガリーの反体制派が通りに出たが、彼らを支えるはずだったが戦争を恐れた米国は、彼らだけにソ連の戦車と対峙させた。

-70年代、ベトナム撤退後に協力者と疑われた推定100万人が収容所に投獄された。

-2011年、イラク撤退時、基地内で守られ暮らす地元民がいた。国際難民支援プロジェクトの事務局長ベッカ・ヘラーによると「クライアントたちは出口まで丁寧にエスコートされた。だが誰もタクシーの1台も、呼ばなかった。彼らはその後、何年も米国特別移民査証を待つ羽目となった。隠れる場所もなく。」

アフガニスタンも同じパターンだった。

-1979年、ソ連が侵略したとき、米国は反乱分子ムジャヒディーンを支え、戦争によって住処をなくした市民に何百万ドルもの金を注ぎ込んだ。しかしソ連撤退後、その金を止めると、国は飢餓と大移動に見舞われた。政治アナリストで元イタリア駐在アフガン大使のヘレナ・マリクヤールによると「米国はその目的を達したと知るや即、アフガニスタンを見捨てた。」その結果生じた混沌の中、前ムジャヒディーンが興したターリバーンが権力についた。

-2001年、米国が侵略したとき、通訳、警察官、軍人として働くアフガン人に頼った。見返りは保護。ただし査証発給には時間がかかり、現地人の中には報復されるものもいた。

-2013年、サンジンという町から米軍が撤収を始めたとき、ターリバーンは報復戦を仕掛け、何百ものアフガン人警察官及び軍人を殺した。先のヘラー事務局長によると「我々の言い草はこうだ、『おいで、一緒に働こう。危ないのは知っているよ。背中に標的を背負うようなもんだね。でも、きみを守るから。』実際は、守らなかった。」

前置きが長くなったが、今回紹介するのは、アフガン女性ザルミナ・ファキールと米ジャーナリストのエリザ・グリスウォルドの物語だ。二人が出会ったのは、サンジンの虐殺の前年、2012年。場所はカーブルだった。当時エリザは写真家・記録映画監督のシーマス・マーフィーと一緒に、米雑誌「詩」のため活動していた。「ランデイズ」と呼ばれる地元の二行連を収集していたのだ。女性が日々の暮らしを詠み、歌う。例えば「姉妹が集まり座ると、必ず兄弟の誰かを讃える。兄弟が集まり座ると、必ず姉妹を誰かに売る。」「愛しいあなた、あなたはまるでアメリカ。あなたは罪を犯し、謝るのはわたし。」

前任のパシュトゥー語通訳が心臓麻痺で死に、ファキールが紹介された。長い車での移動中、彼女は後部座席でしゃべり続ける。たまらずシーマスは、助手席の窓から首を出し静寂を求めるが、効果無し。市場に行くと金の鼻輪・首輪売り場をハシゴ。「アメリカがいなくなったら、金が入らなくなったら、その浪費を後悔するわよ」と忠告しても聞かない。メークはいつもばっちりで、履くのは高いヒールばかり。エリザがスニーカーを履いているのは妊娠しているからと知ると、こんなフレーズを教えてくれた、「ズマ、マシューム、ハレク、デイ」(赤ん坊は男の子)。それを聞くと女性たちは喝采するが、超音波診断を知らない地域では、ファキールに「エリザは魔女か」と質問が浴びせられた。

田舎に行くほど、人々の口は重い。そんなとき、ファキールはこう言った、「私は『新しい家、新しい暮らし』のゴータイよ」と。すると、口を開かぬ決意に満ちていた人々が、驚き、クッションとお茶を差し出した。さて、このファキールとは何者か?

北部のクンドゥズ州で小麦農家だった彼女の父親は、ソ連占領時代の1985年、アフガニスタンから逃げ出した。生後半年のファキールを背負い、妻と共に徒歩で雪のヒンドゥークシを越えた。ペシャワールで警備員の仕事につき、さらに5人の子に恵まれた。1995年にその父が死んだ。一家は小学校の一室で暮らした。それから6年後、16歳になったファキールは中学教師として月5ドルを稼ぎ、一家の暮らしを支えていた。

そんな2001年の7月、ペシャワールのBBCが新ラジオドラマのオーディションを開いた。ファキールは「今よりは稼げるだろう」と応募した。ライバルは7人。みな経験者だった。マイクの前でうまくしゃべれず、「バス賃を無駄にした」と泣きながらバス停まで歩いた。

二週間後、中学校に電話が来た。相手はBBCで「あなたが仕事を得ました」と言った。ギャラは月100ドル。録音は8月に始まった。彼女の役は、ゴータイ。最近イランからアフガニスタンに帰国した母親で、嫁は家にいるべきという舅に逆らい、小さな店を開き、懸命に生きる。このよろめきドラマ「新しい家、新しい暮らし」は、放送されるや、7百万の聴取者を数える一番人気の番組となった。

秘密の恋、女性の進出に加え、ワクチン啓蒙などの社会メッセージにもあふれ、ファキールによると、みなが聴いた。「ターリバーンも聴いた、やることがないから。」ファキールは得た金を使い、英語とコンピューターを学んだ。一家は別の借家に引っ越した。子供たちの学費を出し、初めてのテレビを買った。

10月、アメリカがアフガニスタンに侵攻した。ターリバーンが落ちアフガニスタンには新たな可能性が芽生えた。ターリバーンを避けてぺシャワールに疎開していたBBCは、翌年カーブルに戻った。やがて、ファキールも家族ごと後を追った。4歳下の妹ミーナも「新しい家、新しい暮らし」で役を得た。学校に行く権利を巡り父親と喧嘩する少女の役だった。

故郷クンドゥーズの村では、一家が街でどうやって暮らしを支えているのかが話題になった。いとこが上京して訪ねて来ても、ラジオの役については秘密だった。人々が、高級な絨毯や皿に盛られた大量の米や肉をいぶかっても無視した。ファキールによると「村の男たちはつらい状況にいた。なのに私はあれほど多くを稼ぐ。それは何かの間違いだった。」

アメリカ人と共働するさいの違和感が「何かの間違い」とよく表現された。「民主主義建設」ほか、アメリカの計画を遂行するため、何十億ドルもの外国資金がアフガニスタンに注ぎ込まれていた。新市民社会を支える様々な仕事がよりどりみどりで、どれも一日数百ドルを稼げた。トヨタカローラに乗りボリウッド音楽を大音量で響かせるトレンディーなカーブルっ子が街に溢れた。

その裏で、怒りがくすぶっていた。居住区では米兵が夜間攻撃を繰り返した。空爆は結婚式を誤爆し、市民を殺した。ファキールによると「みな、NGOで働く女性をあしざまに言った。」

2005年、ファキールは副業として、アーカンサス州リトルロックから来た警官トーリー・コッブの通訳を始めた。トーリーはアフガニスタンの女性警官を訓練していた。給与は月450ドルだったが、危険を伴った。詰め所がしょっちゅう自爆テロの標的にされ、従業員が乗るバスも狙われた。「バスに乗るときは、いつも今日死ぬのね」とファキールは考えた。一度、守衛が吹き飛ばされて、電線に引っかかるのを見た。

同僚たちはアフガン警察で働いたらと勧めたが、丁寧に断った。警官登録した女性に関する噂をよく聞いていたのだ。ファキールによると「人々は彼女たちが上官とセックスしていると言っていた。」

「独立を味わえる」とグルメな外食が好きなファキールは目立ちもした。その年のある午後、ミーナと弟の三人で銀行に向かっていたとき、白装束の男たちに尾行された。二人を両脇に抱えて、銀行に飛び込んだ。ラジオ局の同僚に電話し、車を回させた。二人にまっすぐ家に帰るよう命じて、自分はその車で出勤した。男たちは夜まで銀行を取り囲んでいたという。

やがてドラマ以外に、ラジオ番組の司会もするようになった。ときおり、ターリバーンがそのトークショーに電話をかけてきて「女がラジオに出るのはイスラーム法に反する」と脅した。でも話しているうちに仲良くなり、最後は「何か曲のリクエストがあるんでしょ」と水を向けると、素直に曲名を告げた。「みんながみんな、指導者みたいな堅物じゃないのよ」とは、彼女のターリバーン観である。

とうとう遠い従兄弟の一人が、ラジオの彼女の声に気づいた。別の従兄弟に「あいつを殺す」と告げた。ファキールは村へと旅して、その従兄弟と対決した。「邪悪な計画」を非難し、恥を知れと諭した。彼は心を折られたようだった。その頃のファキールは、「何も自分を害せられないと信じていた。」

こんな日々に、ファキールとエリザたちは出会い、詩を収集し、ボスのシーマスは彼女のやかましさに辟易した。しかし収集の仕事はやがて終わる。翌2013年の夏エリザたちは帰国した。それから数週間たった7月のある日、「アフガニスタンイスラム首長国」のレターヘッドにしたためた一通の手紙が、ファキールの家の玄関に差し込まれた。

「我々はこの8年間、貴殿のアメリカとの関わりを追ってきた。貴殿はアメリカ女性と共にいる所を見られた。よってその行為に対する処罰を受けねばならない。この手紙で死刑を宣告する。貴殿は家の外に出たと見られれば、イスラーム法によって殺される。言い逃れは、もはや許されない。」

【続く】

 

==========<野口壽一>==========(2022年12月5日)

昨日12月4日、中村哲さんが凶弾に倒れて3年。地元の福岡をはじめ日本各地で中村さんや同時に殉難したアフガン人スタッフの方々をしのびペシャワル会の偉業に敬意を払う行事が執り行われました。東京でも、在日アフガニスタン人が中心になって「在日アフガン人による故中村哲氏3周年追悼の会」が催され、出席してきました。

追悼会は、当然のことアフガン人の姿が大多数でしたが、ペシャワル会はじめ関係する日本人も多く、予定の50名をオーバーする人々が参列しました。式は午後2時に厳かな中にもしめやかな雰囲気で始まりました。開会宣言のあとアフガニスタン国家の斉唱があり、中村哲医師の遺影にむけて全員が起立し黙とうを捧げました。そのあと、駐日アフガニスタン大使、ペシャワル会代表のスピーチがあり、本日のメインである、中村さんの活動を映したビデオ『荒野に希望の灯をともす』が上映されました。

中村さんたちの35年におよぶ活動の記録は、現在、同名の劇場版として各地で上映されています。ご覧になった方も多いと思います。ここに来る前にも「観たよ」という声を何人からも聞きましたが、まわりのほとんどをアフガン人に囲まれ、瀟洒なアフガン大使館のなかで観るのはっひときわ感慨深いものがありました。

しかもアフガン大使館はかつて246コミュニティでベンチャー支援をして、シリコンバレーやロサンゼルスの風を日本に吹かせていたころ(笑)何度かパーティーに呼ばれたアメリカンクラブのすぐ左隣にあります。飯倉交差点から外苑東通りをちょっと登ってロシア大使館の手前を左折しその壁沿いに歩いてすぐのつきあたりです。
アメリカンクラブは、なんの因果か、旧ソ連大使館の裏側に隣接しています。アフガニスタンの新社会建設の応援をしていたころ、アフガン革命を軍事支援していたソ連が写したアフガン関連記録映像を何本も見せられたのも大使館内にある講堂でした。アフガニスタンは悠久の大昔のシルクロードの交差点であるだけでなく、現代世界政治の〝へそ〟に寄り添って佇んでいるのでした。

中村さんたちの映画の後はアフガニスタン名物のナッツやドライフルーツをつまみながらこれまたアフガン伝統のチャイ(紅茶)タイム。約2時間の追悼会は滞りなく閉じられました。

中村さんはもはや聖人の域に達し、現地アフガニスタンには中村さんを追悼する記念公園が作られ、その中央には中村さんの偉業をたたえる記念塔が建設され、アフガニスタンに新設されたひとつの聖廟というたたずまいです。今年夏、そこを訪れたアフガン人のビデオでは、男性ばかりのターリバーンの一団が緑鮮やかな芝生の上に車座になってお茶を飲み語らっている平和な姿が記録されていました。

中村哲さんは私より2歳上、学年では1年上のまさに同世代で、九州大学と東京工業大学という地理的には離れた地でしたが同じ時代の空気を吸い、同じような思いをアフガニスタンから与えられ、同じような時代に活動を始めました。しかしそれからの約半世紀、中村さんと中村さんを支えた人々の活動の成功は(中村さんたちはまだ志半ばというでしょうが)、まさに、政治の敗北を明かしだすこととなりました。まだ「敗北」というには早いのかもしれませんが、日本の、心ある人々にとって日本の政治の「劣化」はもはや常識となっています。アメリカンクラブと旧ソ連現ロシア大使館に囲まれ(守られ?)る形で袋小路の奥に蟄居していると見える在東京アフガニスタン大使館の姿と対面すると、胸が締め付けられます。

追悼会が終わり帰ろうとアフガン大使館正門を出てすぐ左をみると芝生で覆われた築山に何かの記念碑があります。近寄ると国土交通省国土地理院が建てた「日本経緯度原点」でした。説明版には「我が国の経度・緯度を決める基準となる日本経度緯度原点が設置されている」ところだそうです。明治になって日本が西洋世界に認められ一部となるときに地球上の基準点を定めた由緒ある地点だそうです。アフガン大使館、アメリカが90年の歴史を誇るアメリカンクラブ、ロシア大使館に囲まれる形で日本の経度緯度原点がある、というのは歴史の偶然でしょうか、運命でしょうか、それとも皮肉・冷笑でしょうか。

 

 

 

==========<金子 明>==========(2022年11月25日)

『アフガニスタンの一番長い日』、今回はそのパート3で最終回。これまで同様、米国政府「アフガニスタン復興特別査察官(SIGAR)」の今年8月9日付け報告から翻訳・抜粋する。

(写真は、階段を急ぎ降りるありし日のガニーとその取り巻きたち/ハシュテ・スブ・デイリー2021年12月18日記事より)

「大統領官邸にあったと言われる5百万ドルよりも、はるかに謎めいた金の流れがある。それは国家保安局の運用資金だ。」その額は年に2億2千5百万ドル。うち数千万ドルが現金で飛び交うとは、さすがに一国の諜報予算だ。去年の夏に手元のキャッシュを数えたら、7千万ドルを越えたという。ある国の公共放送機関が貯め込んだ20億ドル(当時)は、桁違いにすごいけど。

さて、そのキャッシュの多くはターリバーンに敵対する軍閥への支援や地域の黒幕たちの懐柔に使われる。ターリバーンが迫る中、去年8月にその準備高は頂点に達した。ある元高官の証言:「最後の頃は、武器を買うための大金を各地に送った。州知事たちの要請があった。それには国家保安局の資金だけが頼りで、族長など様々な人に大金を届けて回った。」ところが、その直後に妙なことが起きる。政府崩壊に際し、数百万から数千万ドル単位で国家保安局の金庫から現金が消えていたのだ。

つまり8月14日の時点で、米ドル札はすでに底をついていた。翌日ターリバーンが来た。すると今度は少額のアフガニ札を残し金庫はすべて空っぽになった。何が起きたのか?「事前に盗まれた金などない。全部ターリバーンが持ち出したのさ」と証言する元政府高官(2人)がいる。「出納係がターリバーンの横に座って、ここ数か月の資金の動きを逐一説明した。財務省からいくらもらって、いくら使い、いくら金庫にしまったか、正確にね。さしものターリバーンも盗まれた金はないと、納得したんだ」と2人は言う。

しかし、以下のような証言もあるので一筋縄ではいかない、「局の現ナマに近づける者は、まずほとんどいない。ところが政府崩壊の2週間前に、鍵を握る男つまり出金担当の出納係がクビになった。」さらに別の元高官「その出納係だが、クビになったあともボランティアで仕事を続けていた。ただし、金庫の鍵は持たされなかった。」その上、「金庫の鍵はたったの1セットで、その男がいつも持っていた」という証言まであるから、話はこんがらがる。

そこへ、とどめの証言。ある元政府高官いわく、「政府が崩壊するとき、鍵を握る出納係のクビをすげ替えるのは、その混乱に乗じて資金をうまく盗むための常套手段だ。」彼は政府のある部署で金庫番をしていたのだが、その話は生々しい・・・

私が担当していたのは、3千9百万ドルが保管されている政府の金庫だった。他の部署と比べれば、キャッシュの比率は高い。政府崩壊の1週間前ころ男たちがやって来た。2手に分かれて私をそそのかす。いわゆる「良い警官」「悪い警官」だ。

良い警官「崩壊は近い、金庫を開けて現ナマをみんなで分けよう。」

悪い警官「だまって言うことを聞け、さもないとひどい目に遭うぞ。」

良い警官「よしよし、ではこうしよう。君の替わりにこの男を雇って財務を任せたらどうかな。万事うまく行くよ。」

結局、私は良い警官の提案を飲んだ。すると悪い警官も急に優しい顔になった。良い警官はすかさず書類を出した。「さあ、ここに正式なサインを。そうすれば半分の2千万ドルは、君の物だ。」こうして私は仕事を他人に譲り、崩壊の直前に出国した。

しぶといSIGARも、その捜査手段は聞き込みしかない。盗まれた紙幣の番号も記録されてはいない。頼みの防犯カメラの映像はターリバーンの手中にある。お手上げ状態であるが、捜査は今後も続けると言う。さらにソプコ査察官はこう言い訳もする:「消えたと言われる金が果たして米国から出たものかどうかは判別しかねる。」なるほど。ただこうも付け加える:「メディアや研究者によると、歴史的に国家保安局へは中央情報局(CIA)が金を融通してきた」と。

さて、この「最終版」のリポートが改めて出されたのは、ガニーへ送った質問集(ネチネチと56問)に7月末、返事(たったの6項目のみ)が届いたからだった。その返事の中に、この資金に関する部分がある:「現金で資金をプールしていたのは、国家保安局だけだった。それは米国とその国際的パートナーたちが提供したもので、現金のまま取っておけという指図があった。」

とある元政府高官のコメントは、さらに示唆に富む:「ここ数年、CIAやその仲間たちは反ターリバーン軍閥のために資金が費やされるのを嫌っていた。奴らを支援したいなら、アフガン政府の自前資金から出せとね。しかも、最終年度における2億2千5百万ドルという局の年間予算にCIAからの金はびた一文含まれていない。」それを傍証する別の元高官の発言:「CIAが国家保安局に資金提供したのは崩壊の半年ほど前が最後だった。それに、ここ数年はせいぜい全予算の15~20%ほどだったしね。」

「こうだったら楽しいな」と思う、勝手な(ハリウッド風)私的結論:

  • 大統領官邸にあったガニーの隠し金500万ドルは、残されて悔しい警護隊の下っ端たちが盗み出した。いくつかの袋に詰め込んで車で大統領府から逃走。そのリーダー役はマーク・ストロング。
  • 国家保安局の金庫に残っていた数千万ドルは国家安全保障顧問のモヒブが、部下たち(良い警官と悪い警官)を差し向けて2週間前にゲット。1週間後、他の部署の金庫からも現金を盗み出した。2組の福袋がそろった。1組目には前者の現金と極秘書類を詰め込み、あの日UAE大使館へ。現金の一部はアタッシェケースやバックパックに入れ、逃走資金(飛行機のチャーター代など)に当てた。
  • 後者の現金は2組目の袋に。ガニーの古本コレクション(時価2万ドル)もその中に入れた。それを大統領府の役人がモヒブに命令されてヘリポートへと運んだ。袋を積んだヘリは最後に飛び立つが、重さで高度が保てない。木に当たる寸前でドアを開け、その袋を放り出した。但しこちらは捨て駒。その紛失をわざとらしく嘆いたモヒブの役を演じるのはマット・デイモン。ちなみに銃声が轟く中その袋を茂みで拾い上げ、そっと巨木の洞に隠したのは、ベン・キングズレー演じる老庭師。
  • ターリバーンがせしめたのは、ヘリポートに散らばる警護隊が投げ捨てた防具類と、国家保安局の金庫に残ったアフガニ札のみだった。

さあ、銀幕が暗転。エンドクレジットが上がってきた。そこに縦長素人ビデオ仕立てで、大統領逃亡劇の最後が映し出される。

8月16日午後11時、一行を乗せたボンバルディアはテルメズを離陸した。

機は3時間半のフライトの後、UAEの首都アブダビに着陸。

真夜中にもかかわらず、丁重に出迎えるアラブ人たち。

ガニー大統領、ルーラ夫人、モヒブらは贅沢な車に乗せられ空港を後にした。

(参考:「日刊ハシュテ・スブ紙」去年10月29日付け記事「特報−アフガン大統領アシュラフ・ガニーの国外逃亡秘話」)

締めくくりに、逃亡劇の主役である大統領と国家安全保障顧問が後に発した鼻白むコメントがこちら:

ガニー「カーブルを離れることは、わが人生で最も難しい選択だった。しかし、銃を黙らせ、カーブルとその6百万市民を救う唯一の手段だと信じた。」

モヒブ「あの時、アフガン国防軍はもはや我々がコントロールできる状況ではなかった。軍を動かし、空爆を行う以外、首都を守る手はなかった。そんな準備はしていなかった。」

 

口直しに、蛇足的ラストシーン(以下は金子による全くのフィクションです。実在の人物や実際の出来事、さらにSIGARのリポートとは一切関係ありません。):

(写真はカーブル上空の雷雲/カーブルタイムス2022年3月14日記事より)

あの日から7か月ほどたった3月半ばの夜。大統領府に落雷があった。1本の巨木に命中し、ばったりと倒れた。翌朝、老庭師がその残骸を片付けた。切った枝や幹を荷台いっぱいに載せた彼のおんぼろトラックは市中へと姿を消した。通りでは女たちが女子教育の再開を求めて、デモ行進を続けていた。直後のノウルーズ(イスラーム圏の春のお祭り:ターリバーンは禁止した)は自粛令が出されたが、それを機に引退した老庭師の家では密かな宴会が催された。

【終わり】

 

==========<野口壽一>==========(2022年11月25日)

本サイトの記事集めのため、各地の友人知人たちとメールのやり取りをしたり、ネット上でアトランダムに情報を探ったり、めぼしい記事を翻訳したりしていると世界中を駆け回っているようなつもりになる。
BSではNHKの国際ニュースで世界中のテレビキャスターの顔を覚えたし、CATVではBBCとCNNという世界を牛耳る英米メディアが24時間、ニュースを垂れ流している。政治だけでなくあちこちの天変地異自然や動物、スポーツ芸能、天気予報もある。地球の一部となって生きている錯覚に陥る。

去年の夏から冬にかけては、世界の政治ニュースの主役はアフガン、年が明けてからはウクライナとロシアだったが、アメリカの中間選挙で異変がおきなかったからか、もともと生存の危機に落ち込んでいたアフガン国民だけでなく、電気水道などのインフラを破壊されたウクライナ国民も厳しい冬を迎えて生存の危機直面しているはずなんだけど、中国を除いてコロナ騒ぎも落ち着いたからか、ここのところ世界のキャスターたちのトーンが若干下がり気味のように思える。

しかしなんだか何かが動き始めているような気がする。嵐の前の静けさ、と言うほどではないにしても。

アフガニスタンには毎週何千ドルもの金が国際機関やアメリカからつぎ込まれている。もちろんその目的は人道支援なんだけど、直接間接にターリバーン支配を支えている。トピックス欄で紹介したFRB(連邦準備理事会)やBEP(米国造幣局)のラベルが張られた札束のパッケージの山を見ていると複雑な気持ちになる。世の中の常識と異なり、裏ではアメリカとターリバーンが密接な関係を築いている。先週モスクワで開かれたアフガニスタンに関する多国間協議にはこれまで招かれていたターリバーンは招待されなかった。ターリバーンに「テロを輸出しない」と約束させるはずの会議なのに。アフガン人の分析によれば、「アメリカの言うことを聞くテロリスト(ターリバーン)はいいテロリスト、アメリカの言うことを聞かないテロリスト(アル=カーイダとかIS)は悪いテロリスト」なんだそうだ。これも先週トルコで爆発事件を起こしたクルド系テログループはどっちなんだろう。テロも戦争も、それ自体を取り出して「いい」も「悪い」もないはず。テロも戦争も「不要」な世界を目指さなければいけない。

ウクライナ戦争はいまやロシア対NATOの戦争になっていて、膠着状態に見えるが、ロシアは押されて孤立化を深めている。アメリカの中間選挙では民主党が善戦して英米後押しのウクライナがもう一段の攻勢を準備している予感がする。米中間選挙では対中政策では民主党より強硬派の共和党が下院議長を取った。台湾の統一地方選挙の後台湾支援対中挑発をより鮮明にしそうだ。アメリカを中心になんだか裏でもぞもぞと動いている感じがするのはなぜだろう。杞憂であればいいんだが。

それにしてもWカップ、ドイツ戦での日本の逆転劇は鮮やかだった。「何かが動き始めているような」予感がこちらの方だと気持ちが明るくなるんですけどね。

 

==========<金子 明>==========(2022年11月15日)

今回は『アフガニスタンの一番長い日』のパート2。米国政府「アフガニスタン復興特別査察官」の2022年8月9日付け報告から翻訳・抜粋する:

(写真は、2021年8月15日午前に撮影された、大統領府の庭での打ち合わせ。右からガニー、UAEの職員(サイーフ)、モヒブ(SIGARの2022年8月9日付けリポートより))

査察官ジョン・ソプコがこの報告につけたメインタイトルは「アフガニスタン資金の窃盗」。いやしくも他国の資金の動きについて「窃盗」よばわりとは穏やかでない。しかも、6月7日に出された同タイトルの中間報告に続く第2弾で、「最終報告」と銘打つ執念深さである。わが国の大陸撤収時にソプコ調査団がいたら、さぞや煙たかったろうと心配になるほどだ。

さて、飛び立ったヘリにどんな疑惑が持ち上がったか。例えばこんな報道がある:

  • 在アフガニスタンのロシア大使館によると、ガニー大統領は4機のヘリに1億6千9百万ドルの現金を詰め込んで逃げた。積みきれず後に残した現金もあった。
  • 在タジキスタンのアフガン大使は記者会見で、ガニー大統領は窃盗の廉でインターポールに逮捕されるべきだと訴えた。

ソプコはまずその嵩に注目する。1億6千9百万ドルは100ドル札でほぼ2立方メートル。1辺1メートルのどでかいサイコロが2個分だ。おまけに重さは約1700キロ。命からがらで逃げるとき持って行けと言われたら・・・ピカソかダイヤに換えてくれ!と言いたくなる。

これを密かに空輸するのは子供でもわかる無理な話だ。規定より多くの人員を乗せたヘリ。しかも飛び立った午後3時すぎには、その日の最高気温30度超を記録した。空気の薄いカーブルで、その上気温も高いとプロペラの効率は落ちる。どうも持ち逃げ疑惑は、ガニーへの根拠に乏しい言いがかりのようだ。

さて、大型ヘリはどこへ向かうのか。前もっての計画ではジェット機が待つカーブル空港。だが危険すぎてその線は消えた。プランBは、ガニーの勢力が強い南部のホースト州またはナンガルハール州だった。しかし離陸直後、撃墜を恐れるガニーと国家安全保障顧問モヒブは外国まで一気に高飛びすると決めた。そこで3機は北へ進路を変える。

不安なのは2機目と3機目に乗った側近や警護隊員たち。ドーハに行くのか? しかし、眼下にヒンドゥークシ山脈を認めたことで、初めて北進していると気づいた。またその頃やっと1機目に大統領がいることを知らされた。

決めた行き先はウズベキスタン。ウズベクの国境警備隊に無線で連絡したが繋がらない。国境線に沿って西進するうち、燃料が切れた。突如アムダリヤ川の対岸テルメズの空港に無許可で着陸。乗っていた40人は、武器を手にしたウズベクの保安隊によって出迎えられた。ガニー、ルーラ夫人、モヒブの3人はターミナルビルに連れて行かれた。

さてここで、いま一度カーブルに戻ろう。ちょうどその頃、大統領府で面白い事件が起きていた。敷地内に約5百万ドルの現金が落ちていたのだ。これが何の金であるか、2説ある:

①「ガニー夫妻の個人的な持ち金」説

2015年に発表された夫妻の資産は1340万ドル。さすがにアメリカで財をなした夫婦だ。うち544万は流動資産なので、ほぼピッタリと一致する。しかし、そんな大金を現金で持つかい? との査察官によるきつい質問に、ガニーの取り巻き連中はこう答えた:「大統領は最後の最後までアフガン市民のことを考えていました。生まれ故郷に大統領記念図書館、イスラーム研究センター、農業振興センターを私財で建てようとしていたのです」と。これが本当なら、どこかの園児よろしく、思わず「ガニー大統領バンザーイ!」と叫びたくなるような美談である。

②「UAEが与えた政治資金」説

ガニーの別の側近は「2019年の選挙にからむ金が残ったものだ」という。選挙の翌月(10月)にUAEに行った側近は「選挙後には金に困るだろうから」と、首長たちが100ドル札のぎっしり詰まったスーツケース(しめて500万ドル)を何個もくれたと証言している。ふうむ、どちらが信憑性が高いかは皆さんのご判断で。

この大金がどうして落ちていたかを説明する前に、見つかったあと、どうなったかを見ておこう。こんな証言がある:

大統領警護隊員(後に残されてよかった?)はこれを見つけるや、3〜4個の袋に小分けした。そして隊の車列のトランクに隠してアリアナ門(大統領府の北東角)からまんまと脱出した。「出る車はどれも止められたのにおかしいな」と思いきや、警護隊の車列だけは「前大統領のカルザイを迎えに行く」と言い訳して出て行ったと言う。「あれれ、カルザイにはカルザイの車列があるのに変だね」と気づいたときはあとの祭りだった。この成り行きは、まるでハリウッド映画ではないか。

さらに傑作なのは、この金が落ちていた経緯だ。3説ある:

①「大統領官邸にあった」説

ガニーがヘリで逃げたあと、残された警護隊はみやげ欲しさに官邸を荒らし、そこでお宝の金袋を発見した。単純にありうる話だが、あとから荒らしに入った(だろう)ターリバーンの上前をはねたようで愉快。

②「もともと袋は2組に分けられていた」説

これにはUAEの外交官がからむ。午前11時のミーティング(パート1参照)のあと、モヒブと外交官はモヒブのオフィスに行き、そこに大統領府スタッフを呼んだ。彼は本や書類を入れたという2組の袋を見せられ、「1組はUAE大使館に届ける手はずだ」と言われた。それがどうなったかはあずかり知らぬが、もう1組は間違いなく、大統領の車列に積み、自分でヘリポートまで届けたと言う。つまり混乱の中、UAE大使館に届くはずの袋がどこかに消えてしまったのか。

③「ヘリポートで積み損ねた」説

さらに話をややこしくするのが、モヒブが離陸後に思わずもらした一言だ。②説の袋がヘリに載ったとばかり思っていたモヒブは、「ちゃんと載せたよな」と先のスタッフに尋ねた。スタッフが無線で確認すると、パイロットは「荷物よりも人間だ」と、その袋を地上に放置したとのこと。それを聞いたモヒブが唸った、「おー、いかん。袋には金が入っていたのに。」これを警護隊が拾った。

それにしても、まるでクロサワの「羅生門」。百戦錬磨のモヒブが、これ聞こえよがしに本音を吐くか?この男もかなり怪しい。ちなみに②説と③説は合体でき、その場合、ありがたい金の袋は2組落ちていたことになる。

さて、夕方。やがて14人を乗せた4番目のヘリもテルメズについた。大方はカーブル空港に詰めていたヘリの保安要員だ。これで計54名の大統領率いる逃亡団がそろった。そのうち、ガニー、ルーラ夫人、モヒブら数名だけは、スルハンダリヤ州(その州都がテルメズ)の迎賓館に泊まることが許された。

それ以外は、夜更けにかけ、みなが根掘り葉掘り、出国の経緯を何度となく尋問された。武装警官に囲まれ、滑走路で一夜を過ごす。翌日チャーター便でドバイへ出発すると決まった。ボンバルディアは50人掛けだが、補助椅子を設置した。そのチャーター費を出そうと、ルーラ夫人が財布を見たら800ドルしか無かったとはご愛敬。

そこで2人の大統領側近が、持っていた国家保安局の資金から12万ドルもの金を取り出して払った。大統領の旅なら妥当な額の準備金か? この国家保安局の資金がらみの疑惑が次回パート3の主題となる。

 

==========<野口壽一>==========(2022年11月15日)

アフガニスタンの独立系ジャーナル『ハシュテ・スブ・デイリー』の11月5日の記事によれば、アフガニスタンの国民的英雄、アフマド・シャー・マスードの墓が再び破壊されたという。

同紙によれば発表の前日4日(金曜日)に多くのターリバーン兵が墓石を壊したという。また、別の事件ではターリバーン兵がそのうえで踊る動画がソーシャルネットワークで流された、ともいわれている。戦闘員らは、国民抵抗戦線 (NRF) 軍と戦うためにパンジシールに入っていた。

ターリバーンに破壊される前、墓は荘厳な雰囲気のなかにおかれていた。(写真は2018年マーク・ペリー氏撮影)

墓はマスード記念広場の塔のなかにある。

一方、翌日の11月6日、ターリバーン政府はターリバーンの創始者ムッラー・オマルの埋葬地と墓地を公開した。写真はVOANEWA/AFP

まるで金属製の鳥かごのなかに収められているかのような質素さだ。マスードの墓に比べると貧弱だ。これが、偶像崇拝を否定するターリバーンの思想性に基づくものであれば、墓無用論者の野口としてはそれなりに評価をするが、はたしてどうなのだろうか。

オマルの写真を発表したターリバーンのザビフラ・ムジャヒド報道官は「墓への損害を避けるためにこれまで場所は秘密にされていた」と述べている。オマルの墓の公表と式典は、ターリバーン当局者がパンジシール渓谷のレジスタンスの英雄アフマド・シャー・マスードの墓が破壊されたという報道を否定した翌日に行われた。それは偶然ではないだろう。

ムジャヒドはまた、「死者を侮辱する権利は誰にもない。そのような行為は罰せられる。この件も調査され、必要な措置が取られるだろう」と述べたというが、現在、アフガニスタンで住民にたいしてテロ攻撃や住居や土地を奪う暴挙を「取り締まる」といいながら許容し、利用しているターリバーンのやり口からみて、きわめて怪しい。

このような卑劣なやり方がいつまでもつづくと思っているとすれば、天罰をくだされるのは、ターリバーンの方だろう。「天網恢恢疎にして漏らさず」とは、東洋の真実であるだけでなく森羅万象を貫く大宇宙の法則である。

==========<金子 明>==========(2022年11月5日)

今回からは雑誌「ニューヨーカー」の去年12月10日付けスティーブ・コル、アダム・エントゥースによる記事および米国政府「アフガニスタン復興特別査察官」の今年8月9日付け報告から翻訳・抜粋し、アフガニスタンのあの日に迫ってみる。題して『アフガニスタンの一番長い日』、本日はそのパート1:(アフガニスタン復興特別審査官(SIGAR)とは博識な米国新聞記者でさえ「よく知られていない連邦機関」と評するマイナー機関なのだが、実はアフガニスタン戦争につぎ込む(つぎ込んだ)リソースが正しいものだったか否かを審査するアメリカの国家機関)

2021年8月15日、日曜日の朝。大統領の国家安全保障顧問ハムドゥラー・モヒブは官舎を出て、アシュラフ・ガニーの執務室に向かった。9時の定例ミーティングのためだ。ターリバーンはすでにカーブルに到達していた。警官、兵士、護衛の多くが制服を脱ぎ捨て家路へと向かっている状況下で、運命の1日が始まった。

(写真はカーブルのダルラマン宮殿上空を飛ぶ在りし日のガニー大統領専用機:2021年8月2日撮影)

同じころ、ドーハでは米アフガン特使のザルメイ・ハリルザドがターリバーンのアブドゥル・バラダールとリッツカールトンホテルで会談した。2人は「カーブルへの侵入はなく、勇み足の数百人は市外へ引き戻す」との合意に至る。だが、いろいろいい加減なこの2人。その報告を受けたガニーも、さすがに彼らを信用するほど甘くはなかった。

その朝、在カーブルの米代理大使ロス・ウィルソンは大使館の全職員をカーブル空港へ向かわせると決断した。ターリバーンとイスラム国に一斉退去の情報が漏れるのを恐れ、ガニーにはその旨を伝えない。

11時、UAEの外交官が大統領府に現れ、芝生エリアで屋外ミーティング。気温は28度と暑いのに、なんとなく優雅。モヒブは前日UAEに掛け合い、翌16日に専用ジェットでガニーを救い出すことに決めていた。カーブル空港にいつでも飛べる状態でパイロットを待機させる段取りだった。ミーティング中、上空をアメリカ国籍の大型ヘリが飛び交い始め、さらに銃声まで聞こえてきた。ボディーガードが急ぎガニーを屋内に避難させた。

正午、大統領執務室。ファーストレディーのルーラ夫人と、特に用のないスタッフ全員をすぐにでも退避させることに決めた。UAE側も予定を繰り上げ、その日午後4時発のエミレーツ機で彼らを脱出させることに合意した。

午後1時、モヒブにターリバーンの首魁シラージュッディン・ハッカーニから「話がしたい」とショートメール。パキスタンの電話番号からの着信を受けると、要は「降伏せよ」との脅しだった。

ハッカーニ「君たちがしかるべき声明を出せば、話し合いにも応じよう。」
モヒブ  「いや、交渉が先だろう。」
ハッカーニ「降伏宣言が先だ。(ガチャン)・・・・」

モヒブは電話があった旨を、ハリルザドの副官トム・ウェストに知らせた。ウェストのアドバイス、「いかなる交渉の場も避けよ。罠の危険がある。」

午後2時、大統領官邸にモヒブが到着。ルーラ夫人を車に乗せて大統領府内ディルクーシャ宮殿の北にあるヘリポートへ。そこからカーブル空港へ向かう手はずだった。ヘリポートには大型ヘリが3機いた。いずれも大統領用にキャビンが改造され、乗客は6人まで。4機目、26人の警護隊を乗せるいつもの随伴機は、まだカーブル空港に駐機中だった。

3機とも燃料はフル。その気になれば、タジキスタンかウズベキスタンまで飛べる。ルーラ夫人とモヒブはそのうちの1機に乗った。だが、パイロットはカーブル空港で無法化したアフガン兵がヘリを乗っ取るとの報告を受けて離陸を渋る。そこへ大統領警護隊長のカハール・コチャイがやって来た。モヒブを機外に引きずり出す。

コチャイ「もう大統領を守る手立ては尽きた。いま離陸したら彼は死ぬぞ。」
モヒブ 「私に残れと言うのか?」
コチャイ「違う。大統領も連れて行って欲しいんだ。」

午後3時、ガニーは大統領府に隣接する国防省で国防大臣と首都防衛について作戦を立てる予定だった。警護隊はすでに国防省ビルに先乗りし大統領の到着を待っていた。しかしターリバーンが接近し、ガニーは動けない。官邸の入り口広間で様子を見る。そこへモヒブとコチャイがやって来た。逃げろという意見に折れて、ガニーは官邸を後にした。靴も履かず、パスポートも持たないで。

潮目が変わったと悟った2人の側近は、警護隊がガニーを暗殺することを恐れた。たった1台の車で地味にヘリポートへ。しかし、任務に忠実な大統領警護の車列は結局その後に続いた。

ガニー、ルーラ夫人、モヒブ、コチャイが1機目に乗った。2機目には10人ほどの主任級スタッフが乗り、3機目には20人から25人ほどの警護隊員が乗った。ただし、警護隊員の中には搭乗者リストから漏れた者もいた。捨てられたと思った。そのうちの1人が、ライフルを構え「アッラーアクバール(神は偉大なり)」と叫んで離陸中の2機目に近づいた。残された別の警護隊員がすんでのところでタックルし、事なきを得た。

「生きて出られる確率は5%もないと本当に思っていました」とは、その様子を機内から見た主任スタッフの後日談である。さらに選別が続く。問題は明らかに重量オーバーの3機目だった。すぐには2機の後を追えない。まず何人かを降ろす(どうやって決めたのかが気になるが)。さらに、隊員たちは重い防護服を機外へ投げ捨てた。ようやく飛び立ったが、危うく木に突っ込みそうだったと言う。

こうして、アフガニスタンはターリバーンの手に落ちた。そして、いま問題なのはこのヘリに積んだ荷物である。直後の報道で「避難時、大量の現金が運び出された」と揶揄されたために、アフガニスタン復興特別査察官ジョン・ソプコの鋭い目がキラリと光ったのだ。(パート2へ続く)

 

==========<野口壽一>==========(2022年11月5日)

中国共産党大会第20回全国代表大会が終わりました。「習近平3期目、最高指導部の8割が身内」「台湾、武力統一否定せず、有事危機高まる」「胡錦濤前総書記の退席は強制か、体調不良か」などがにぎやかに取りざたされています。おおかたは、鄧小平以来の「改革開放」「集団指導」「韜光養晦(能ある鷹は爪隠す、臥薪嘗胆)」が完全に終わり、国内経済の険しさを抱えたまま準鎖国よろしく身を固めた強硬な「戦狼外交」「軍備増強」に出るもの、との警戒感が支配しています。
たしかに、トランプ政権下で発動された中国封じ込めがますます強まる中、「習近平さんも大変だなぁ」「苦しくても挑発には乗らないでね」と思う一方、もうひとつの重大事を思わざるをえません。
それはコロナ。
ゼロコロナ政策を成功させ、それをもって西側とくにアメリカの政治社会体制への優位つまりは習政権の大成果、と歌い上げていた反作用です。
コロナパンデミックの根本原因は、PCR検査の不適切な大量導入により、「病気と闘うのでなくウイルスと戦ってしまったこと」にあると私は思っているのですが、中国は、とくに貧弱な医療体制への過剰な恐れから陽性者の絶対隔離による「ウイルスゼロ」政策をとらざるをえませんでした。最初の武漢パニックを見た世界が、「恐ろしい病原菌」と誤認し、医療体制が整っていた先進諸国まで正常感覚を失い医療崩壊をおこしてしまいました。しかし、2年半の試行錯誤により世界は、コロナはむやみに恐れるものではなく対処可能との認識に落ち着きつつあります。
しかし中国は、「完全隔離、ゼロウイルス」を実現するため、国民にコロナの恐怖をあおり、徹底した暴力的な隔離(ロックダウン)とITを駆使した24時間監視体制を社会全体に導入してしまいました。
世界が鎮静に向かいつつある今、中国は静かにコロナの感染が全土に広がりつつあります。そしてその全住民PCR徹底検査、完全隔離、都市封鎖を増やしつつあります。国民は疲弊し、経済への影響も大きなものがあります。かといって、コロナ陽性者の数勘定に一喜一憂しなくなった世界のように管理制限を緩めれば、全土でどっと感染者(=陽性者)が増えるのは間違いありません。、しかも発症者もいないのに都市封鎖をしたり、10月末にはiPhoneを組み立てているファックスコンの工場(河南省鄭州市)で感染者がで、閉じ込められるのを恐れた従業員が工場から塀を乗り越えて脱出したり、高速道路を故郷まで歩いて帰ろうとする大集団の行列ができたりする映像が拡散されるほどのパニックぶりです。
習近平政権は強権の行使と恐怖の植え付けによって国民をコントロールしてきましたが、その管理手法は極めて危ういものであることが垣間見えてきました。ひとたび、政治不信、経済不振によるパニックが起きた場合、なまなかな方策ではおさまりがつかないのではないか、と心配しております。

==========<金子 明>==========(2022年10月25日)

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第20弾。似顔絵イラストはクーフィ氏本人のTwitterアカウントから

今回にて「ファウジア・クーフィ自伝」つぶやきは完了。ご愛読ありがとうございました。金子編集委員は次なるつぶやきを企画中です。乞うご期待。

いよいよ投票日。30年以上行われなかった国政選挙だ。投票所は朝6時に開いた。ファウジアの姉たちはブルカをまとい(匿名で)女性有権者を車に乗せ、投票所へとピストン輸送した。「だれに投票しようが構わない。投票カードを持った女性が一人でも多くそれを使うチャンスを活かせるなら。」

投票カード?そう、投票カードが要るのだ。読み返すと選挙期間中にこんなエピソードがあった。ある男が電話をしてきてファウジアに言った、「妻は投票カードを持っていない。俺が許さなかったからね。するとあんたに投票しろとうるさい。だから電話した。あんたは誰で、どんな考えなのかね?」電話口で政見(女性の地位の向上!)を説くと、最後は「あんたに投票する」と約束した。

「次の選挙では妻にも投票を認めて欲しいものだ」とファウジアが述懐してその段は終わる。ファウジアの優れた話術や誠実さを伝える逸話なのだろうが、そもそも投票カードをもらうには、家長の許可が必要だったのか・・・ローマは一日にしてならず、何気に感慨深い。翻ると、手ぶらで安全な投票所に行き自由に選挙できるニッポンのなんと恵まれていることか。

閑話休題。この日、輸送チームの次に登場したのはチェック班。姉の一人がタクシーに乗った。なるべく多くの投票所を駆け巡り、不正が行われていないか確認するのだ。たちまち最初の投票所で異状が見えた。姉が電話の向こうでわめく、「何か変。係員たちがある候補者に肩入れしている。中立じゃない。人々に誰に投票すべきか指図している!」

さらに別地区からの報告がとどめを刺す、「地元の警察署長の兄弟の一人が候補者で、その地区の全警官が彼に投票するよう命令されている。」ファウジアのキャンペーンスタッフは行動を開始した。BBC、地元のラジオ局、考えられる全員に電話でたれ込んだ。「不正を止めるには、それしかなかった。」

一日が終わると、各地からファイザバードに投票箱が送られてきた。その晩は鍵をかけ、翌日から開票が始まる。「投票箱が細工されてはならぬ」と、二人の若いキャンペーンスタッフが毛布もないのに開票所の前で寝ずの番をした。集計には二週間を要した。最初の一週間が過ぎようとした頃、またも異状が発覚。「選挙委員会の何者かが私の名が記された投票用紙を排除していた。」ファウジアのサポーターが現場を目撃した。

彼は怒鳴った、「おい、立候補に命を賭けた女だぞ。なぜ彼女への投票を数えない?われわれ若い世代は彼女に導かれたいんだ。」言い争いは激しくなり、警官が呼ばれた。幸い警察署長は訴えを認めた。警察監視の下で再集計。するとたった数箱で300票もの漏れが見つかった。不正は疑いもない。

すったもんだの挙げ句、ファウジアは8千票を獲得して当選した。さあ政治家人生の始まりだ。プライバシーは過去のものとなった。家の戸口には、陳情者の列。二人の娘を以前のように寝かしつけることもできない。やがて日に500人もやってくる事態に。スタッフを雇い、予約制にして乗り切った。

追い打ちをかけるように敵対者たちが事実無根の噂を広めた:
●ドバイのボーイフレンドが大金持ちの実業家で選挙資金を提供した。
●立候補のため夫と離婚した。死別など嘘。
●別れた夫は山岳部の村落で元気に暮らしている。
当選した女性議員は、みな不幸にもこうした風評被害にあった。それが死につながることもあるからたちが悪い。「アフガニスタンでは女性の風評や名誉は、その命を左右した。敵はそれを知っていた。」

2005年10月、33年もの抗争を経て民主議会が開かれた。議場への道は自爆テロを警戒して封鎖された。それでも大勢が道ばたで旗を振り、アッタン(attan/アフガン風盆踊りかな)を踊った。下院の定員250のうち女性議員はファウジアを含め68人。任期は5年だ。議場に入ると、元大統領や、閣僚、州知事、ムジャヒディーンの首魁までいる。

アフガン議会はやかましく、暴力的だ。「ひげの引っ張り合い」の伝統すら持つ。ここで怒りを露わに怒鳴り返しても何も達成できない。ファウジアは「互いを尊敬する雰囲気を醸し出そうと頑張った。プロとして機能し、みなと協力しようと心に決めた。」とはいえ、黙っていては公約の「男女平等」などおぼつかない。そこで大胆にも副議長に立候補した。

ファウジアの立候補は「大方の議員たちにとって、お笑いぐさに思えた。」しかし、対抗馬たちが戦争や犯罪で暴利をむさぼった大物たちだとわかると、ファウジアの勝ちたい気持ちは高揚した。さっそく敵は自宅や市内の高級レストランやホテルでパーティーを開き、議員たちを懐柔する。

そんな金のないファウジアは、投票の前夜、ようやく姉の助けを借りて「安いしなびたレストランでつつましいパーティーを催し、20人ほどの議員を集めた。」これは寒い。いや物理的に寒かった。隙間風で息も白い。レストランの責任者がブクハリ(bukhari)と呼ばれる木炭ストーブを出してくれた。

だが、今度は煙で顔が見えなくなった。しかも一酸化炭素が充満。散々であった。家に帰ると姉につぶやいた、「終わったね。」その後、明け方まで演説の原稿を書いたり破ったり。とうとう「アドリブ」に決めた。

翌日、副議長選出の日。立候補したのは11人。そのうち無名は一人であとは大物揃い。朝10時、ある候補者から使いが来た。「立候補を辞退したらしかるべき金をやる」と言う。あきれた。やがて議場が開き、演説のときが来た。最初は震えんばかりに緊張したが、8千の得票を思い出し落ち着いた。そしてこうアドリブした:
●アフガン女性の力を示すため立候補した。
●国家の利益を個人の利益に優先させるのが私の使命。
●傷ついたアフガニスタンを救うのは新しい声と新しいエネルギーだ。
●30歳だが経験は豊富。
●アフガニスタンとその文化を心から愛している。
●だから、その変革に関わりたい。良い方向への変革に。

いつものように早口でまくしたてていると、拍手がだんだん大きくなっているのに気づいた。議員たちの心を鷲づかみにしたのだ。結果、大差で副議長に選出された。たちまちファウジアはマスコミに注目され、「国民的ぽっと出ヒロイン」としてその名が知れ渡った。

続く2010年10月の選挙。このときも敵対候補の不正や贈賄がひどく、暗殺の脅しまであったが、ファウジアは5年前より得票を増やし再選された。また彼女の姉のマリヤムも当選した。無学だったがファウジアの活躍に刺激され夜学に通い、コンピューターと文学を学んだ苦労人だ。そしてクーフ村で母が武器の隠し場所を明かさなかったあの晩、ムジャヒディーンに殴られた姉がこのマリヤムである。

2005年の選挙期間中にファウジアは一度クーフ村を訪れている。4歳の時以来、初めて戻った生まれ故郷はファウジアの目にどう映ったか。引用して「お気に入りの娘」紹介のラストとする:

「最後に台所に入る勇気を振り絞った。かつて母が君臨した場所。私たちが毎晩マットレスを広げて寝た場所。はるか遠くの国や王様や女王様の話を、私やほかの子供たちに母が語った場所。宴会や御馳走が準備された場所。壁の高いところに窓があり、雨が降り、雪が降り、陽が昇り、陽が落ちるのを眺めた。窓から見えるあの景色がこの世のすべてだと、昔々の私は思っていた。」

(第18章「新しい目的」、第19章「変化への動き」、第20章「戦争で引き裂かれた国のための夢」より抜粋・翻訳)

【終わり】

 

==========<野口壽一>==========(2022年10月25日)

コロナパンデミックが発生から3年になろうとしてやっと落ち着く気配が見えてきたようだ。一時は感染者・死者数とも他国に比べて少なく「ファクターX」の存在が取りざたされていた日本もやっと終盤にきて中国を除く他国並みに なった。それどころか今年の夏過ぎには世界一の感染者数を誇るまでになった(あんまり誇るようなものでもないが・・・)。

コロナに関しては発生後1年半ほどはネットやテレビで情報を見、文献に当たって必死に研究した。その結果、このパンデミックは、中国政府、WHO、各国政府の大きな錯誤によって作り出された「人災」であるとの確信をえるにいたった。結論に至る過程は、Facebookや年2回の挨拶状などで明らかにしてきたが、コロナパンデミックが集団ヒステリーとなっている社会状況では、同じ結論とはいえ到底賛同しかねる「とんでも論」や「陰謀論」と間違われるので、2021年からはコロナに関する発言は控え、この『ウエッブ・アフガン』を立ち上げて、アフガン問題に集中することにした。お陰様で本サイトは多くの人びとに応援していただけるサイトに育ってきた。この間、励ましてくださった皆様、原稿や情報を寄せていただいた皆様、とくに厳しい状況の中から「声」を寄せてくださったアフガニスタンの方がたに心からお礼申し上げます。

ところでコロナの話題にもどると、このパンデミックの原因はつまるところ、「病気とたたかうのでなく、ウイルスとたたかった」ところにある、というのが私の結論。PCRという極めて優秀な検査手段を未知のウイルス検出の手段に歴史上はじめて導入し、「無症状感染者」という未病者をあぶり出しウイルスを徹底駆除しようとした。そして、中国武漢の惨状を見た国々はPCR検査を導入し患者を隔離する保健行政を強力に導入し既存医療を崩壊の淵まで追いやりました。病人をどんどんと死なせてしまったのだ。あとはワクチンを打ち、特効薬が出てくるのを待つ、との政策を採用。本当にそれでよかったのか。やっとこれから本当の「科学的」な検証が行われるのを個人的には期待している。まだCovid-19パニックは終わらず第第7波、第8波とまだまだつづきそうである。ワクチンも特効薬もなかったスペイン風邪は2年半で収束したというのに。

最後に、冒頭に掲げた地図の意味。これは日経データベースによる「新型コロナウイルス感染 世界マップ」。世界的にコロナが蔓延したのは中国を除く経済的にある程度の水準にある国々。アフリカでは、地中海沿岸と最南端の南アだけが多くの感染者を出している。ところが北部と南部をのぞく中央部に位置するほとんどの諸国が10万人台だ。アフリカの人口はこの時点で約11億人。その大半がこの中央部に存在している。そしてあれほど厳重な隔離政策を施している中国と変わらないくらいの感染率でしかない。アフリカ中央部では、中国のような厳格な対策がとられているのだろうか、それともコロナ予防が徹底し、ワクチンなどが普及しているからなのか。

先日、アフリカ諸国との友好運動を推進している組織の代表と話す機会があり、この点を聞いてみた。その答えは。それらの国々は貧しくてPCR検査もまともにできず、保健行政もおくれており、ワクチンだって満足な摂取はできていない。統計だって満足なものではない。患者を確認できるのは保健行政の手ががかろうじて届くところだけだからだ。貧しさの結果である、とのことだった。すとんと胸に落ちる結論だ、だからといって死者がばたばたでてパニックが生じているわけではない。むしろこの時期でも死亡率の高いエボラ出血熱や熱帯性マラリアその他の感染症への対策の方が急がれている。

コロナ対策はしない方がよいと言っているわけではない。手厚い対策ができる能力を持った国や地域ほどパニックの度が高かったのではないか、ということだ。中国の問題は別途独立して論じるべきだ。

個人的には、ウイルスどうこうより、とにかく、栄養、休息、運動、快眠に心がけて自己免疫をたかめ、風邪にかからぬよう注意して生活することが一番だとこころがけている。

 

==========<金子 明>==========(2022年10月15日)

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第19弾。)

二日後、ファウジアが勤めるユニセフ事務所に、ラジオを持った同僚が駆け込んできた。マスードが生前警告し、西側指導者が軽視した大規模テロは果たしてニューヨークで勃発した。その後はメールの嵐。下された指令は、外国人スタッフの即時帰国と、アフガン人スタッフの事務所内禁足だった。他州出身だった上司は家族のもとに急いで帰った。

そのため、国内でただ一人の女性国連職員だったファウジアは、ただ一人の女性責任者となり、二つの事業に取り組んだ:
●戦争やターリバーンによって登校を妨げられた数千の少年少女を学校に引き戻す「学校に戻ろう」キャンペーン。具体的には、各所にテント学校を開設し、教科書や文房具を提供した。
●ポリオの予防接種。州全域で実施するため、準備をおしすすめた。

やがて10月7日、「不朽の自由作戦」が開始された。米英のクルーズミサイルがターリバーンとアル=カーイダを攻撃し、同時に「悲しくも鍵となる将軍を亡くした」北部同盟が陸路カーブルを目指した。西側の目標は、ターリバーンの「素早くきれいな」掃討と、ビン=ラーディンおよびその副官アル=ザワヒリの「逮捕または死」だった。

ターリバーン軍への凶行もよく耳にした。「ターリバーンを何百人も焼き殺した」とか「ターリバーンが跋扈した村々では住民が勇気を出して彼らに石を投げつけ、出て行くように要求した」とか。ハーミドの逮捕騒動で一部のターリバーンの優しさに触れたファウジアは「そんな個人が殺されることを悲しく感じた。」しかし、「アフガン史上の暗黒期が終わりつつあることに興奮した。」

ファウジアによると「ターリバーンは生粋のアフガン人ではない。彼らはいつも外国にコントロールされ指揮されている。」そのいい例がショマーリ平原にあると言う。今も「燃える平原」と呼ばれるほど、苛烈な殲滅戦がかつてターリバーン勃興時にこの平原で繰り広げられた。「一回の戦闘で数千人が殺され、木も作物もすべてが焼き払われた。」これでは戦後の復興は望めない。「このやり方はアフガンではなくアラブだ。ターリバーンはこんな戦術を思いつくほど、賢くはない」とファウジアは言い切る。

だが、今度の敵は手強い。ターリバーンは敗走を続け、最後の戦地はトラボラへと移った。ビン=ラーディンの隠れ場所と言われた場所だ。数週間後、突然戦いが終わり、ターリバーンは姿を消した。

変わったこと:
●一夜にして、数百の難民が帰国し始めた。
●外国で財をなしたアフガン人投資家が、国内で新規事業に乗り出し、ホテル、銀行、ゴルフ場、スキーリゾートなどを開いた。
●政治的には、「ローヤジルガ」(部族会議)が開かれ民主憲法の制定が決まった。
●ハーミド・カルザイが暫定大統領に。

変わらないこと:
●多くの人々は赤貧状態のまま。
●どの都市も設備が破壊され電力供給がおぼつかない。
●きれいな水にありつける人々はごくわずか。
●帰って来ると、家は壊されるか、よそ者に取られている。
●失業が蔓延。
●深刻な食糧不足。

こうした事態を「混沌としているが、初めて経験する前向きな混沌だ」とファウジアは喜ぶ。

ターリバーンが消え、ラッバーニの役割も終わり、ファイザバードはもう政治の中心でなくなった。やがてユニセフがカーブルに事務所を開いた。中央思考のファウジアは、ここを先途と上京し「女性および児童保護士」に昇進した。

一方、ハーミドの病状はますます悪化した。パキスタンやイランの病院にも出向いて治療を続けたが、改善されなかった。2003年夏、懸命の闘病もむなしく他界した。獄中で感染した結核による早すぎる死。彼もターリバーンの犠牲者の一人であった。

その後「二年間、まるで心をなくしたロボットのように国連の仕事をこなした。」再婚の話にもまったく興味のないファウジアにとって、「別の意味の夫となったのが政治だった。」政治が自分の血の中にあり、政治が自分の運命だと信じた。

2004年にアフガニスタン初の民主選挙が行われ、雪崩的勝利でカルザイ大統領が誕生した。翌2005年には、国会議員の選挙が組まれている。クーフィ一族もこの機に「我らが政治的歴史を再確認し、来たるべき新世代の一翼を担うべし」と決定した。さて、誰を立てるか?

立候補を希望したのはファウジアと、父がかつて離婚した妻の息子。半兄弟との公認・跡目争いである。相手はムジャヒディーンの栄えある元戦士で、すでにバダフシャーン州内で地区のまとめ役になっていた。

一見不利かと思われたが、数週間も議論した末に、ファウジアが一族を代表して立候補することが決まった。一同の気が変わる前に「私がクーフィ一族の唯一の政治代表であるとの文書」を書くよう、ファウジアは居並ぶ兄たちに要求した。

当選に向けて、ファウジアの強み:
●父の偉大さはまだ州民に忘れられていない。
●4年間ハーミドとファイザバードで暮らしたときに、ボランティアを通して築いた女性グループとの絆。
●400人もの生徒に英語を教えた。
●国内難民のキャンプをいくつも訪問し、衛生計画や学校設立に尽力して顔が知られた。
●友人には、市民社会のリーダーや、教師、医師、人権活動家らがおり、バラエティ豊か。
●29歳と若いが、ソ連占領、内戦、ターリバーンをくぐり抜け、経験豊富。

ファイザバードに選挙事務所を立ち上げ、ボランティアを集めた。選挙期間に突入。女性たちからの暖かい励ましや、モスク前での演説を聴いて涙する老人、「この売女め!」という嫌がらせの電話、「もし落ちて期待に応えられなかったらどうしよう?」突然襲ってくる不安とパニック。規則で決められた投票開始の24時間前まで、懸命の選挙活動が続けられた。

ファウジアはその感触をこう述べる、「私が会った人たちは、どんなに貧乏でも、文盲でも、間違いなくこの投票の機会を活かして、変化を望んでいる。投票行為が安全で、その機会が与えられているのに、投票したくない人などこの世にいるだろうか?」

(第17章「暗闇が明ける」、第18章「新しい目的」より抜粋・翻訳)

 

==========<野口壽一>==========(2022年10月15日)

夢を見ました。
おバカプーチンの末路でした。
攻め込んでくるウクライナ軍に戦術核を打ち込んだところまではよかったものの不発つづき。やっと、一発爆発してしまった。
戦争したくてしたくてたまらず、満を持していたアメリカ軍は黒海艦隊だけでなく海深く潜っていた潜水艦まですべて撃破。核兵器を使わせる暇を与えず海中海上全艦隊を2、3日で全滅させ、世界核戦争による地球終末を防ぐ「究極の地球救世作戦」をさらに激進。
ウクライナ領内はウクライナ軍にまかせ、NATO軍を率いて一挙にモスクワへ。ロシア軍内の終末戦争反対派反プーチン勢力と示し合わせたうえでのプーチン斬首作戦。もちろん米・NATO・ロシア軍共通の戦略目標は世界核戦争による地球終末の阻止。
プーチンはウラルの隠れ家に逃げ込んだがロシア救世軍に探知され逮捕。ロシア革命の歴史を引き継ぐロシア軍は革命的な局面では異常に堅固で頼りになり、米NATO軍とがっちり組んでロシア国内をまとめ切り、消滅するかに見えたロシアを見事立て直しプーチンを自力で始末。ここが革命の歴史に乏しかったイラクとの違い。
ウクライナからはロシア軍をすべて撤退させ、核爆発による放射能処理もチェルノブイリ以来手慣れたもの。米NATO軍と手を携えててきぱきとプーチン派の一斉検挙と戦後処理。撤退していた外国資本もわんさと戻ってき、経済も復活。ヨーロッパと世界は米NATOと新生ロシアによる新秩序確立に向けて動き出す。中国はただオロオロと傍観するのみ。新秩序内の存命を画策するしかできません。地球を股に戦争ばかりやってきた英米やロシアとのキャリアの差と格の違いが歴然。
もちろん唯一の被爆国日本は、被爆仲間となったウクライナと手を携えて核兵器の無慈悲さを世界に訴え三度目の核戦争なき世界をめざす歴史的な行脚の旅を始めます。
国連は新生なったロシアを再び迎え入れ、未来志向の世界新秩序にふさわしい国家連携の在り方をさぐる議論をはじめましたとさ、というところで愛猫に頭を引っかかれて目が覚めました。

 

==========<金子 明>==========(2022年10月5日)

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第18弾。(写真は、2022年5月国際ジャーナリストセンター(ICFJ)の年間賞を受賞したTOLOnewsのテレビレポーターをしていたアニサ・シャヒード(Anisa Shaheed)さん。彼女も国外避難を余儀なくされている。Fawzia Koofi氏のFacebookより)

アフガニスタンの北東の端にあるバダフシャーン州。結婚し、妊娠し、ターリバーンに追われた22歳のファウジアは、6年ぶりに、その都ファイザバードへと戻ってきた。「高地の空気はきれいで、古いバザールには泥づくりの店々が並び、街の中央を澄んだターコイズ色の川が流れる。」忘れてしまっていたその美しさがファウジアを出迎えた。

離れたきりだったたくさんの親戚とも再会し、ファウジアはやっと落ち着きを取り戻した。ハーミドは小さな家を借りて金融業の看板を出し、大学で講義も始めた。やがて長女が生まれると、3部屋ある大きな家を借り、ファウジアは英語塾を開業した。一月もしないうちに、300人もの生徒が集まった。「幼い少女から、男性の医者、学生や教師たちまで」が彼女に学んだ。

夫の結核以外は、順風満帆を思わせる暮らしだったが、長女がちょうど6か月になったとき、またも「あの慣れ親しんだ吐き気」に見舞われた。二人目の妊娠である。さすがにこたえた。長女を母乳で育てつつ、朝8時から夕5時まで教壇に立つ。さらに追い打ちをかけるように、ターリバーン接近の報が届いた。

二人が通過したあの国境の町キシャムが彼らの手に堕ちた。敵はファイザバードから24キロの地点まで迫ってきた。教室の外に出ると、聞き慣れた重砲火の音が山にこだました。ラッバーニを助けムジャヒディーンに志願する男たちはトラックに乗り込んだ。「私のどこかに、ハーミドも彼らに加わって欲しいと思う気持ちがあった。」しかし、彼には「行かないで」と言った。「彼は教師であって兵士ではない。銃の使い方さえ知らない。その上、病気のため体も弱すぎた。」

トラックに乗った男たちは、その多くが戻らなかった。だが命を賭けた抵抗は功を奏し、ターリバーンをファイザバードから遠ざけた。そんな混乱の中で次女が生まれた。そしてハーミドの結核は悪化した。大学での講義を週たった二日に減らし、残りの五日間は長女の面倒を見た。

次女の出産から二週間後に、ファウジアに面白い仕事の話が舞い込んできた。小さな孤児院でのパート職の依頼だった。「もう少し休みたかったが、ハーミドの病気治療のために、お金が必要だった。」長女を夫に預け、乳飲み子をスカーフで体にくくり付けて孤児院に勤め始めた。

そこで三か月近く働くと、さらに面白い仕事を依頼された。「子供のための財団」が行う調査に参加しないかと言うのだ。それは、60人からなる医師・看護婦・援助スタッフが州内12の遠隔地を巡り、地域の医療・栄養上のニーズを探ろうというプロジェクトだった。かつてファウジアが医学の道を選んだのも、こうした福祉の分野で働くためだった。「生まれたばかりの赤ん坊を連れて、死の淵にいる夫を家に残す。この二重の悪条件にもかかわらず、決して断れない依頼だった。」

ハーミドは快諾し、妻と次女を祝福して送り出した。ファウジアによると、「この旅が私の人生を変えた。」調査地域は並みの僻地ではなかった。その特徴は:
●シーア派第二の分派イスマーイール派が多く暮らす。
●中国との国境地帯ワハーン回廊も含む。

そのすさまじい貧困ぶりは:
●1月に出発したが、寝ている赤ん坊を暖め凍死を防ぐため人々は動物の新鮮な糞を使う。
●子供は雪の中でも裸足で、ほとんどが栄養失調。
●長老の家でも便所は穴を掘っただけの汲み取り式。(西洋人の医者たちは苦労したが、ファウジアは懐かしかった。)
●村人の家は一部屋で、全家族がそこに住む。一角に動物、別の一角には便所。但し便所はただの地面で、赤ん坊は積み上がった排泄物の周囲を這い回る。
●家から少し離れた所に穴を掘ればいいのだが、掘るのは男の役割。そんな役割を果たす男は情けない。よって掘らない。
●ある村では、女性は朝4時に起き、雪の中、動物に餌をやる。終わると帰宅して家族のために裸火でパンを焼く。男性も朝6時から日が暮れるまで畑で働く。

こうした惨状が「私の中にある何かを呼び覚ました」とファウジアは言う。続いて、とあるイスマーイール派の村での出来事。村の長老は、ただの通訳である彼女にこう挨拶した。「ミス・クーフィ、よくぞいらした。あなたのお姿は、あなたのお父上とそっくりです。」その家に泊まった翌朝、別れ際に長老は、彼女の赤ん坊にと羊を一頭くれた。他のスタッフが「私たちの羊はどこ?」とからかうと、長老はこう答えた、「この羊は彼女のお父上の故に、お贈りしたのです。」

6週間の調査旅行の期間中、父親の知り合いに多く出会い、父親の偉大さを改めて知らされた。それがファウジアの中に、政治家を目指す心を呼び起こした。「私は、政治家になりたいんだと気づいた。いや、『なりたい』は正しい表現ではない。ならなければならない。私の存在意義そのものだと気づいた。」

ファイザバードに戻ると、孤児院業務が待っていた。彼女にとって力一杯取り組める仕事だった。そして数か月後、ユニセフがファイザバードに事務所を構えることになった。ファウジアは求人に応募して、「児童保護士」としての仕事を獲得した。国連での仕事であるため、パキスタンのイスラマバードへも度々出張した。

娘たちと夫を連れての出張も幾度か許された。イスラマバードの有名病院で診てもらうと、新薬による治療を勧められた。月々500ドル。ファウジアの給料では半年続けるのが精一杯だった。時は2001年初め。ハーミドはまだ35歳。ファウジアは彼の生きる望みに賭けていた。

その年の春、あのマスードがラッバーニ政府を代表してヨーロッパへ向かった。ターリバーンの脅威を訴え、アル=カーイダが西側を標的とした大規模テロをすぐにでも起こすとEUに警告した。またブッシュ米大統領にも「我々を助けなければ、これらテロリストがごく近い将来、米国とヨーロッパに必ず損害を与える」という私信を送った。しかし、米国も、ヨーロッパ諸国も、それに対して素早い反応は見せなかった。逆に9月9日、マスードが暗殺された。

(第16章「娘のための娘」より抜粋・翻訳)

 

==========<野口壽一>==========(2022年10月5日)

先号(9月25日号)を発信してから、編集部は大忙しとなった。

▼イランのマーサ・アミニさん殺害抗議行動は高まる一方でついに「イラン・ヒューマン・ライツ」の発表(2日)では死者が133人を超えた。最高指導者ハメネイ師はデモへの厳しい鎮圧姿勢を崩さず。

▼イラン・シーラーズの女性からはインターネット遮断をかいくぐって「This will be a revolution for the liberation of women.」(これは女性解放にむけた革命となるでしょう」と簡潔ながら力強いメッセージが届いた。

▼また、9月30日に起きた西カーブでのむごたらしいテロ事件を受けて、アフガン難民からは「世界のすべての国がアフガニスタン、パキスタン、シリア、イラク、レバノン、パレスチナ、エジプト、イエメン、サウジアラビアにいるターリバーン・テロリストと他のテロリストグループを破壊しなければなりません。 これはイスラム・テロリストに対する世界的な戦いなのです。」と怒りのメールがきた。われわれがアフガニスタン問題を他人ごとでなく、自分の問題としてとらえなければならない理由がここにもある。

▼そのまえ9月20日には、アメリカとの人質交換で、グアンタナモ刑務所に収監されていた麻薬王でターリバーン創成のパトロンであるバシャール・ヌールザイが解放され、アフガニスタンにもどった。編集部ではその情報収集と翻訳に掛かりきりとなった。

▼麻薬王の帰還の直後、編集部が毎日アクセスしていた、ターリバーンを厳しく監視、批判していたハシュテ・スブ紙のドメインがターリバーンによって突然停止され、サイトにまったくアクセスできなくなった。一瞬目の前のディスプレイも頭も真っ白。

▼アフガン周辺での状況の緊迫度がぎりぎりと高まっていくのと足並みをそろえるように、ウクライナではウクライナ軍の大進撃がつづき、プーチンは30万人動員、4州併合・核使用宣言などを行い、危機が大詰めを迎えそうな形勢となってきた。

▼読者からも有益な情報が多数寄せられ、打ち合わせにでかける回数も増えた。取捨選択もままならず自然にニュースメールの分量も増えてしまった。

▼国葬があって本原稿締め切り前には北朝鮮のミサイル発射でJアラーム。

▼全部の事件が結びついているのを実感します。国際情勢も国内情勢も境目がなく気を緩められません。気候が良くなってきたので運動して体調を整え、目を見開き耳をそばだてて周辺事態に対応したいと思います。

 

==========<金子 明>==========(2022年9月25日)

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第17弾。

ハーミドは3か月続いた3度目の拘留を解かれ帰宅した。1998年の春。ファウジアは妊娠7か月だった。ハーミドは結核を患っており、再び逮捕されれば、確実に獄死する。二人はカーブルを脱出し、故郷のバダフシャーン州に向かうことにした。ターリバーンの検問をかいくぐるため複雑な陸路で。

早朝タクシーに乗り込み、まず東へ向かう。カーブル川にそって下り、目指すはスロービの町。1950年代にダムができ、以来ここから首都に電気を供給している。谷沿いの道は内戦中、幾度も爆撃され、クレーターだらけ。車は数珠つなぎになってゆっくりと進む。道をはずれると、そこは地雷源。対戦車地雷を踏めばひとたまりもない。

スロービからは北へ。かつての激戦地タガブを通る。そこで「大勢の人々が戦闘でつぶれた泥の家に、しがみくように住み続けている」のを見てファウジアは驚いた。さすがに要衝だけあって、ターリバーンはタガブに基幹検問所を設けていた。そこには「ビデオの樹」があった。それはいったい何か?

検問所では通行人のすべての荷物をぶちまけ、あら探しをする。餌食となったのはファウジアの前の車に乗っていた夫婦だった。妻の持ち物の中からビデオカセットが見つかった。トロフィーのように掲げて勝ち誇るターリバーン。怒って奪い返そうとする若い妻。一歩引き下がり何もしない夫。銃を持つターリバーンが女の胸を押し、乳房をまさぐる。性的暴行!さらに肩で顎に一撃し、女を倒した。

やっと四つん這いになり起き上がろうとしたとき、男は黒いカセットを彼女の目の前の地面に叩きつけ、足で踏み割った。声も出ない女。男が残骸を拾い上げると指の間に芯がこぼれ出た。構わずそれを後ろの木に放り投げた。よく見ると、その木には「何十本ものビデオカセットの内臓がなびき、昼の日差しの中、黒く輝いていた。」この勝利に満足したのか、次のファウジア夫妻への追求は甘かった。

タクシーはこの検問所まで。ハーミドが馬とガイドをやとった。そこから鞍上山道を行く。ハーミドとガイドは徒歩。7時間後一行は北部同盟の支配下にある小さな町にたどり着いた。ガイドは振り向き、あっさりと「ここですよ」と告げたが、二人は心が躍った。その町で再び車を手配した。

ほんの数時間でジャブルサラジに着いた。「まるで別世界だった。市場は盛況で買い物客にあふれ、女たちはターリバーンにとがめられることなく、男たちと話している。レストランにも客が多かった。」その晩はホテルに泊まり、翌朝プリクムリ行きの小さなバスに乗った。

席に着くと、ジャブルサラジの名物「アシャワパニール」というチーズが急に食べたくなった。妊婦の食欲。ハーミドはわざわざバスを降りて、行商人から買い、ぎりぎりのタイミングで戻って来た。しかし、彼は大きなミスを犯した。干しぶどうを忘れてしまった。絶品チーズと干しぶどうのマリアージュを逃し、すこしがっかりするファウジア。もう出発だ。買いには戻れない。するとバスの窓を激しくたたく音。

「すわ、ターリバーンか」とおびえるファウジアが見たのは、黒いターバンではなく、年配のチーズ売りのやさしい目だった。「シスターどうぞ」と彼は小さなビニール袋を差し出した。「あの男、干しぶどうを忘れたんでね。」さすがのファウジアも、これにはちょっと涙腺が緩んだという。

バスはサラン峠を越えて北へ。「山の頂は白い冬の上着を脱ごうとし、ずっと麓の斜面では、草と花々が春の光の中で輝いていた。」ターリバーンがいかに冷たく残忍でも、「いつかあの雪のように消え去る」ことをファウジアは願った。

プリクムリはかつてファウジアが避難し、ハーミドが求婚に訪れた町。あのとき訪ねて来たハーミドの姉の家に一晩泊まった。この義姉ともよく気があったが、「二万ドルの妻はどんな美人かな」と詮索に来るご近所さんたちには辟易した。翌日またバスに乗り、タハールの州都タールカーンへ。そこから州境を越えてキシャムに行くにはジープを使った。雪解け水による洪水のせいだ。

目的地のファイザバードまでは車で4時間。だが、その車に「教養にあふれ良い血筋を誇るシティ・ウーマン」は難色を示した。見つかった唯一の車が、山羊をのせるトラックだったのだ。「その日は米袋が積まれていたが、とにかく山羊くさい。」ごねるファウジアに、ハーミドは最後通告を出した、「これに乗るか、キシャムに留まるか。」

あれほど、ブルカを嫌ったファウジアが、荷台で体をスッポリと覆った。「暖かさをキープし埃を寄せ付けない」ためでもあったが、一番は「誰か知っている人に見られないため」だった。景色がきれいそうな場所では少し顔を出したが、一瞥するとすぐにひっこめた。そんなファウジアが、たまらず顔を上げる瞬間が最後にやってきた。

きつい山道。上り坂で突然のエンスト。おまけに頻繁なブレーキングの結果、制動がバカになった。みるみる下って後ろ向きに川へと向かう。ファウジアは嫌っていた米袋にエアバッグよろしくしがみつく。お腹に腕をまわしカバーするハーミド。川に落ちる寸前でどうにか停止した。ドライバーは力なくクラクションを鳴らし、みなが「アハマドゥラー」(アッラーを讃えよ)と叫んだ。

もうトラックは走れない。ブレーキが焼けた。その晩は荷台で寝た。山羊臭さも気にならない。夜が明けたら歩いて出発だ。「もうブルカを着ることもない。そう選択するなら。」ターリバーンから逃げ切った喜びをかみしめながら、生まれ故郷の山々と空の下、ファウジアは眠りについた。「明日はファイザバードだ。」

(第15章「始めた地へ戻る」より抜粋・翻訳)

 

==========<野口壽一>==========(2022年9月25日)

ウクライナ、プーチン大統領の思惑はつぎつぎと外れ、事態はロシアにも西側世界にも第三世界にも悪くなっている。もちろん、戦場で善戦しているとはいえ人命やインフラを最も多く損耗しているウクライナは最悪だ。

『ウエッブ・アフガン』では、昨年8月のアフガンからの米国撤退の狙いは、ロシアと中国対策に力を入れるためであると「視点」や「アフガンの声」サミ氏論評などで指摘してきた。中ロをアフガンに引き寄せ、ロシアをウクライナの罠にかけ、中国を台湾を題材にたたく。最終目的はアメリカに追いつき追い越せと経済を発展させ軍備を増強し世界を舞台に力比べを挑んでくるその中国である。

昨年12月13日付け「視点:アフガンのつぎ、西はウクライナ、東は台湾/アメリカの2番手たたきの標的となった中国」で2018年10月4日ペンス米副大統領(当時)の中国への「宣戦布告」演説を紹介した。この「宣戦布告」後、トランプ政権は中国への経済戦争をしかけ、中国はそれに真っ向から対峙した。「(敵対する外国へは)強力な反撃と威嚇の能力を形成しなければならない」(20年4月党会議での習近平指示)。

ウクライナでの戦争をまえに、米英の戦争屋たちの「戦闘情報」に踊らされて世界危機を煽るマスコミ。アメリカの戦争屋たち(情報の出元は軍産複合体)の5年以内の中国による台湾武力侵攻との言説に乗せられて、すわ日本も巻き込まれる、と危機をあおる軍事評論家や政治家たち。日米安保条約とそれに付随する地位協定と日米合同委員会ですでに抜き差しならない日本なのに。

ソ連崩壊後、G7に入れてもらったロシア。そのチャンスを生かすことができずアメリカの挑発に単細胞反応し続けみずから降りてしまったプーチン。その末路がいまである。もう、核兵器を枕に共倒れの寝技に持ち込むしかない。柔道家だというプーチン。そんな下手クソな技しか学ばなかったのかよ。

中国は周恩来や鄧小平のような知恵者がいてアメリカやソ連を手玉にとりわが畑を実らせた。周さんをみているとプーチン並みの頭かなと心配ではあるが、中国は権謀術数・手練手管4000年の歴史の国。200年ちょっとの米国に果たして伍していけるのかも気がかりだ。

そもそも戦争は外交の延長で外交は政治の仕事だ。台湾有事が日本有事だというのなら、まだ実弾が飛び交っていないいまこそ政治家の出番ではないのか。戊辰戦争の硝煙が消え切らない明治維新初年、無礼なふるまいをする韓国に兵力をもって懲罰を加えようとする連中に、丸腰で衣冠束帯、礼を尽くして談判に行く、と征韓論でなく譴韓論をとなえた西郷隆盛。その主張にかずかずの議論の余地はあるかもしれないが、その姿勢こそ政治家の精神の現れではないのか。明治維新はテロリストの革命などとバカな説を唱えて原稿料を稼いでいる輩がいるが、そんなアホなことを言っていないで、高級とって平和ボケしている政治家たちに批判の刃を向けたらどうか。(写真は、征韓論の誤りを追究し勝者による歴史歪曲をただす好著『征韓論政変の謎』伊牟田比呂多、2004年、海鳥社刊

 

==========<金子 明>==========(2022年9月15日)

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第16弾。(写真出典:Fawzia氏のFacebook)

ラマダンの朝5時、ターリバーンによって夫ハーミドは連れ去られた。三度目の逮捕となった今回、収監先はどこか? 情報はその日のうちに夫の遠い親戚がもたらしてくれた、「第三諜報部」であると。それは諜報部の中で最も危険なセクションで、政敵を黙らせ根絶やしにすることを生業としていた。

ファウジアはそこへ毎日通い、毎日薄ら笑いの守衛に追い払われた。そして7日目、やっとハーミドと面会できた。まっすぐに立てないほどに弱り切った彼は、「夜は雪のふる外に立たされ、昼は尋問され殴られる」と惨状を吐露した。彼らが知りたいのは「なぜ、ラッバーニと会ったのか? 会合の目的は何か? ラッバーニとはどんな関係か?」だと言う。

それを聞いたファウジアはこう結論する、「ラッバーニ大統領はパキスタンのISI(軍統合情報局)が差し向けた諜報部員によって警護されていた。その諜報部員の多くがターリバーンに通じていると長く疑われてきた。その立派な証拠が今そろった。」皮肉にも、兄と夫の愛国心をくすぐったあの会合に敵のスパイが潜んでいたのだ。

そうすると、お尋ね者の兄がパキスタンへ出国したことにターリバーンはもう気づいていることになる。そして一週間の拷問でハーミドには義兄以外の政治的背景がないことも十分にわかっただろう。ここはゴチャゴチャ言わずにハーミドを解放するのが、一本気なターリバーンらしいやり方だと思うのだが・・・

ファウジアが刑務所を出ようとすると、「ターリブの上役」がやって来てこう言った、「お前の夫の解放にいくら払うか? 2500ドルか? 5000ドルか?」ファウジアの手元にそんな大金はなかった。パキスタンの兄なら工面できたろうが、銀行システムが崩壊しており送金は不可能だった。その誘いを蹴った代償は大きかった。長引く拘留によって、ハーミドが結核を発症してしまったのだ。

刑務所の上役が大金をせしめることに失敗すると、次は下っ端たる守衛の出番となった。ファウジアの指のマニキュアを認めるや「ムスリムでない」と非難し何度も投石した挙げ句、ある日こう持ちかけてきた、「行って男の親戚を連れてこい。財産証明を見せられる男だ。お前の夫がカーブルに留まる保証としてその財産を使うなら、解放してやろう。」

そんな便利な男が身近にいるか。ファウジアとハーミドの姉は考えた末に、店のオーナーを勤める従兄弟を思い出した。その店に駆けつけたがあいにく金曜日で休みだった。そこで、親類に頼る策は消えた。急いで刑務所に戻り、件の守衛に隣人に頼む旨を説明した。彼は黙って中に消えた。「何時間も待たされたように感じたが、たぶん数分」経つと、戻って来た。他に二人の姿も。一人はもっと若い守衛で、もう一人はハーミドその人だった。

「ハーミドをお前と一緒に行かせよう。この男も。その隣人だか友人だかの手紙を持ってきたら解放する。」その上、ハイラックスと運転手までつけてくれた。
頼りないほど若い守衛はヴァルダク州の出たっだ。マクロリアンに着くと、義姉が近所にアパートを所有している人を思い出し、頼みに行った。その間、残された三人は階上の部屋で待機した。

若い守衛はパシュトゥー語をしゃべるが、ファウジアたちの使うダリ語で懸命に話しかけてきた。「心配しないで、お姉さん。私も新婚です。まだ20日。だからあなたの痛みがわかります。保証がなくても今夜はハーミドをここに残し、明日また来て手紙をもらいます。」先輩守衛の怒りを買うこともお構いなしで、こう提案した。ファウジアとハーミドは驚き、感謝した。

しばらくすると、外の廊下に男たちの声が聞こえてきた。ドアを開けると6人の隣人がいた。「ハーミドが解放されて何とうれしいことか。心配するな。みんなで共同して保証する。」そのうちの二人が財産を持っており、保証の手紙をしたためた。ファウジアは部屋を出る若い守衛に小さなレースの刺繍ハンカチをプレゼントした。

やがて隣人たちも去った。やっと家族だけになった。ファウジアと義姉は冗談を言ってハーミドを笑わせようとした。思わず声を出して笑ったハーミド。しかし、その笑い声のあとに結核の咳が続き、いつまでも止まなかった。

(第14章「暗がりが満ちる」より抜粋・翻訳)

 

==========<野口壽一>==========(2022年9月15日)

結局、プーチンには「大義」がないんだな。

ウクライナ東部の親ロシア派が実効支配する地域を「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」として「独立」させ、そこからの支援要請という形をとって武力侵攻した。
1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻したときも同じような論理だった。アフガニスタンの革命政権(カルマル議長)から善隣友好条約にもとづく支援要請があった、と。両ケースとも国連で非難決議がなされ、同じように国際的には大多数の国から支持されない大義なき侵攻のように見える。だが、実態はかなり違う。

ウクライナ侵攻の場合は「2国」からの支援というのは単なる口実で、親ロシア派住民へのジェノサイドから住民を守るとか、ウクライナの中立化=NATO加盟・NATO東漸を阻止するんだとか、ウクライナ東南部からトランスニストリアまでの独立とか、ウクライナ全体の併合とか、帝政ロシアの復活とか、数々のプーチンの夢、というか時代錯誤の妄想が漏れ伝わってきた。

アフガニスタンの場合はクーデターの形をとった政変ではあったが、アフガニスタン国内での近代化を目指す社会変革運動がベースにあり、国内外からの武力反対攻撃からアフガン政権を守る、という「大義」があった。たとえ国際的な支持が少なかったとしても。ウクライナの場合も、ソ連崩壊後米英の長期にわたる勢力拡張策動やロシアへの挑発活動があったことは事実だが、プーチンはその挑発に無謀にも乗って見せたのだ。しかも、一度は自国が認めた国境線を武力で変更しようとし、核兵器の使用までほのめかした。なぜNATOが拡大に成功し、最後には中立を守り通してきたフィンランドやスウェーデンまでプーチン自身の過ちによってNATO加盟に追い込んでしまったのか、アメリカのNATO不拡大の約束破りなどと子供じみた言い訳などせず、一国の政治指導者を自任するのであれば、胸に手をあててよくよく考えてみるべきだ。

英米の植民地主義や帝国主義の、数々の悪らつな行為によって痛い目にあってきた第三世界の国々でさえ、公然とプーチンを支持するのがはばかられるほどプーチンの行動には「大義」がない。

アメリカのアフガン侵攻だって大義があったとは言い難い。ビン・ラーディンの逮捕であれば警察行動ですむはずだが、ターリバーン政権を打倒して別の政権を打ち立てる、という「大義」の拡張を行った。テロ対策というのであればビン・ラーディン殺害の時点で方向転換することもできたのに、アフガニスタンでの民主国家建設に驀進した。「幸せ」の押し付けだ。

ロシアとアメリカ(イギリス含む)の決定的な違いは、軍事・政策実行責任者たちが自分たちの行動を自己点検している点だ。非力な『ウエッブ・アフガン』ではあるが、米英の実行責任者たちの自己点検・反省の言葉、行動をできうる限りフォローする努力をつづけてきた。英米には確かな民主主義の精神がある。その精神がある限りいくら過ちを重ねたとしても正道に戻りうる可能性が存在する。アメリカに追随してアメリカに次ぐほどの膨大な資金や労力(すべて税金)をつぎ込んだ日本は自らの行動の自己点検をしているだろうか。プーチンのバカさ加減を批判して溜飲を下げて済ますわけにはいかない。政府、与党、野党、マスメディア、そして国民自身の責任を厳しく問うべきではないだろうか。

 

==========<金子 明>==========(2022年9月5日)

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第15弾。(写真出典:Fawzia氏のFacebook)

新婚の夫ハーミドとファウジアをずっと支え続けて来た兄。二人が三か月もの拘留を経て帰宅した。「あの汚い子供まみれの元共産主義者将軍転じターリバーンは言葉通りのいい男だった。」約束した英語私塾をどうするかは平和慣れした読者ののんきな心配だろう。翌朝、急ぎパキスタンへと出発した。今度は兄夫妻と赤ん坊、ファウジア夫妻、計5人の逃避行だ。

一家の友人である別の元将軍が手助けを申し出た。「純粋な親切心から」助手席に座ってくれたのだ。彼はパシュトゥーン人だった。検問所を通るたびに、聞き慣れたパシュトゥー語の響きと元将軍の威厳が、ターリバーンの警戒心を払い去った。

「おじさん、行っていいよ。」

このやりとりを聞くたびにファウジアはほっとため息をもらした。そしてトールハムで国境を通過。長い拘留でさらに体調を崩したハーミドも、嘔吐用の椀をブルカの下で抱え続けたファウジアも、全員が歓喜の声をあげた。「ターリバーンの恐ろしい抑圧から脱した。みなが重荷を解かれたのだ。」

午後4時、ペシャワールに到着し、その先は夜行バスでラホールへ向かった。兄の家に着くと、彼の第一夫人とその両親が暖かく出迎えてくれた。その晩、豪勢なケバブ料理を「コカコーラで飲みくだした。」ターリバーンという毒がトッピングされていない「神聖な味」だったとは、いかにもファウジアらしい。

古都ラホールは500万もの人口を誇る大都市だ。ファウジアはその静けさに打たれた。「それを静かだと表現するのは少し変。でも私たちが来た道と比べると、そう思えた。」到着してから一週間後、ニュースが飛び込んできた。「アフガン大統領のラッバーニがペシャワールにいる」と。

当時ターリバーン政権を認めていたのはサウジアラビアとパキスタンのみ。国連総会のアフガニスタン代表はラッバーニが任命した大使だった。かつてその内務省に勤めた兄は大統領にコンタクトをとった。そして招待された。ハーミドも一緒に。二人は「ラッバーニが語る政権奪回のプランを聞きたくて、意気揚々と出かけた。」

ファウジアのラッバーニ観:
●出身はバダフシャーン州で同郷。
●ファウジアの父の友人であり、ときにはライバル。一家全員が深く尊敬。
●1950~60年代、共産主義の台頭に反対したキーパーソンのひとり。
●ソ連による占領時は、パキスタンから軍事的、政治的レジスタンスを組織した。
●共産主義者の敗北を受け、ナジブラー大統領の後継として選出された。
●最近(本書執筆時)、カルザイ大統領からターリバーンとの和平交渉を推し進める任務を授かった。
●だが2011年9月、ターバンに爆弾を仕込んだ自爆テロ犯によって殺された。

ラッバーニの陣地は多くの人であふれていたらしい。二人はとても興奮した様子で戻って来た。大統領と話し合って、彼がターリバーンを倒し再び返り咲くと確信したと言う。それを聞いてファウジアも同様に感じた。「楽観主義に支配された」ファウジアとハーミドはカーブルに戻ることにした。

世の中に「女たらし」という言葉がある。うまい政治家は「人たらし」だという。いかに主義主張が異なろうとも、連中を目の前にして話し合うと何か引きつけられる。言葉の力、オーラ、権力の甘い香り・・・多分こちら側の弱さなのだろう。とにかくラッバーニが有能なアジテーターなのは確かだ。

戻る理由は楽観主義だけでなかった。ハーミドの姉と子供たちをカーブルに残してきた。「彼女を支えなくては。」兄は反対したが、既婚の妹の決断を翻すことはできない。二人のラホール滞在はわずか一週間だった。季節は冬の盛り。帰路ハイバル峠の山々は雪に覆われていた。ファウジアは夢想した、「切り立つ岩々はターリバーン、覆う新雪はアフガニスタンの生まれ変わる姿であれかし」と。

無事カーブルに戻り、ラマダンの始まりを迎えた。かの有名なラマダンだが、ファウジアはそれをこう解説する:
●その間、全ての注意深いムスリムの例にならい、私たちも断食する。
●断食する時間は、日の出から日没まで。
●日の出前にサハールと呼ばれる食事をとり、日中の活動の支えとする。
●サハールを食べ終えると、朝の祈りまで少し眠る。

その朝、眠りについた二人だが、すぐノックの音に目を覚ました。二人とも「お隣さんがなにか用事かな」くらいに思い、ハーミドが玄関へ向かった。しばらく話し合う声。そしてハーミドが戻ってくる足音。見ると、彼の顔は灰のように暗く、今にも病に伏しそうだった。上着をとってくれとファウジアに頼んだ。玄関に現れたのはターリバーンだった。

(第14章「暗がりが満ちる」より抜粋・翻訳)

 

==========<野口壽一>==========(2022年9月5日)

読者の飯沼さんに教えられて「ソビエト帝国の崩壊 瀕死のクマが世界であがく」(小室直樹)を読みました。復刻版でなく図書館で借りました。昭和61年(1986年)発行の44刷でした。初版は昭和55年(1981年)、ちょうどソ連崩壊の10年前です。「○○崩壊」なるキャッチは〝さもしい売らんかな根性〟で巷にあふれていますが、この本は正真正銘の予言書と言えます。

1981年と言えば、前年はモスクワオリンピック。西側諸国は総ボイコット。参加を逃した金メダル確実と言われた柔道の山下選手が無念の記者会見をするなど、東西冷戦がまさにピークに達していた時代でした。その6年前にはベトナム戦争にアメリカが負け、サイゴンから逃げかえる惨めなドサクサ騒ぎ(まさに一年前のアフガン・カーブル)。あのころは西側も押されていて、まさかソ連が崩壊するなどありえない、と思われていた時代でした。

44刷がでた1986年頃はソ連侵攻の6年目。ちょうど侵攻10年の半分が過ぎたあたりでした。このころはソ連と社会主義圏の矛盾がいろいろと取りざたされる半面、中国の改革開放が軌道に乗り始め戦争をした同士のベトナムも親中国のドイモイ政策(ベトナム版改革開放)に転じインドも追随する勢い。この時もまだ、ソ連ないし社会主義世界体制が崩壊するなどとはほとんどの人は信じていない時代でした。

ところが、86年は先週30日に亡くなったゴルバチョフが書記長に就任して1年目。4月28日にはチェルノブイリ原発事故が起き、それを受けてゴルバチョフ書記長(当時)は「ペレストロイカ」と「グラスノスチ」 を提唱します。ガチガチの官僚主義で社会は閉塞し経済は停滞していた古い社会主義体制を立て直そうとします。このころもまだ、アジアでの経済成長と相まって、スターリン主義(懐かしい成句!)を克服した社会主義が生まれるかもしれない、と幻想が生まれた時代でした。

それから3年、アフガニスタンからソ連が撤退し、さらに2年してソ連が解体。ヨーロッパの社会主義諸国も崩壊する世界の大激動時代に突入しました。
アフガニスタンの民衆はこのような世界の激動にもみくちゃにされつづけました。私もアフガン民衆の視点から世界を見、もみくちゃにされた一人ですが、小室氏のような視点は研究会仲間との勉強会でも持っていました。しかし、率直に言って、91年の時点でソ連と世界社会主義体制が現実に崩壊するとは思っていなかった一人でした。

私は活動家の一人として、当時の評論家たちのさまざまな論議は当然にも知っていたし、参考にもしていました。しかし、社会主義も行き詰っていたが資本主義にも未来を感じられず第三世界との連携で変革運動を永続的世界的に続けていくしかないと考える世代(ないし潮流)でした。いまもあまり変わりません。その意味ではスターリンに殺されたトロツキーの後塵を拝しているのかもしれないなぁ、とまあ、こんなことをつぶやき始めると終わりがいつになるかわからないので、ここいらで止めて、いつかキチンと論じたい。

 

==========<金子 明>==========(2022年8月25日)

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第14弾。(写真出典:Fawzia氏のFacebook)

再びターリバーンによって夫を強奪されたファウジアだが、今回はすぐにその後を追わなかった。共に逮捕された兄に別れ際「追うな」と言われたからでもあったが、別の理由もあった。彼女は「力をなくし、二日間床についた。恐怖と欲求不満で体が麻痺した。ハーミドがまた連れ去られた。しかも今度あとに残したのは一人だけではない。私たちのまだ生まれぬ子供もだ。」

その三日前に妊娠を告げられたばかりだった。夫婦は喜んだ。しかし、戦時中だ。「こんな地獄に無力の乳児を産み落とすのは身勝手か?たぶんそうだ。」新たな命の誕生を知って希望より不安が勝る。そんな社会であっていいはずがない。平和が普通のわが国と平和のない国アフガニスタンの乖離には絶句する。

ありがたいことに、どんな世界へも子供たちはたくましく生まれてくる。「そう、怖れはした。でもこうも考えた。新たに生まれた子供に集中するのはとても貴重で前向きな何かだろうと。」ただ、アフガニスタンの出産時死亡率は高い。生まれ出ると同時に死にかけたファウジア自身がそれを一番よく知っている。加えてターリバーン治世だ。著者は当時の女性たちが置かれた医療状況をこう解説する:

  • すべての女医が禁止された。たくさんの女医が活躍していたのに。(ファウジアも女医を目指していた。)
  • 男性の医者が女性を診察するのも禁止された。風邪を引いた女性にアスピリンを処方することすらできない。
  • ターリバーン治世に、何百もの女性がいわれなく死んだ。インフル、病原菌、敗血症、骨折、妊娠によって。

「国を運営する残忍な男たちは女の命をハエと同等に扱っていた。神の申し子と自称するあの男たちは、神のもっとも偉大な創造物の一つ、女性への尊厳をまったく欠いていた。」あの日のファウジアには、そんな恨み節をたれる余裕もなかっただろう。兄がつてを使って獄中から手紙をよこしたのだ。この男に頼み込めと。

寝込んでいる場合ではない。目的を持ったファウジアは強い。しかも母親だ。すぐに兄のコネを訪ねた。共産主義時代、国防省で上役だった元将軍で、今はターリバーンのもと軍事アドバイザーを務めていた。その家を探し当て中に招かれた。ファウジアは居間の汚さ、暗さ、匂い(隅にいた子供を含む大家族が発していた)に辟易とした。

だが一番ショックを受けたのは、対応した妻の素朴さ、無教養丸出しの言葉と立ち居振る舞いだった。ファウジアは自問した、「家がこんなに汚くて、女性や子供が無知の罠にはめられて、どんな国ができるんだ?こうも無知で無教養な人たちが権力を持つアフガニスタンに希望はあるのか?」そしてもっと身近な問題に気づき身震いした。「これがターリバーンの上級アドバイザーの居間ならば、その刑務所の状況はいかばかりか。」

ターリバーンと付き合う上で忍耐は欠かせない。かなり待たされた挙げ句、元将軍が現れた。見た目は貧相だったが(お察しの通りファウジアの要求レベルはかなり高い)、兄をよくおぼえている、解放を保証しようと請け負い、彼は奥へ電話をかけに行った。だが戻って来たその顔は曇っていた。「出すのには少し時間がいる」と。季節は秋。帰り道、目前に迫る冬の冷たさが身にこたえた。

翌朝は雪が積もっていた。トイレに駆け込むと(つわり)、窓の外に階下の屋根屋根が輝く新しい毛布のように見えた。急いで身支度をすませ、ターリバーンの家へと向かった。転ばないよう注意して。着くと家の様子が変わっていた。掃除してある。子供の青っ洟も拭き取られている。男も様子が変わっていた。黒ずんだ歯を見せて微笑みながら、こう持ちかけて来た。

「私の子供たちに英語を教えてくれ。」

「もちろん。私の家に来ればいいわ。遊べる場所もあるし、その方がうまく教えられるわ。」

掃除したとはいえ、その家に一瞬たりとも「まったく必要な以上には留まりたくない」のが本心だった。このあたりの受け答えは、さすが政治家の娘、後の国会議員としての片鱗を見せたと言うべきだろうか。「この薄汚れた壁の向こうにある何かを、たとえ小さな何かでも、こんな子供たちに教えられれば、ゆくゆくわが国にも希望がある」とファウジアの志は高い。

さて、その夜更け。アパートの玄関ドアが激しくこぶしでたたかれた。ファウジアは用心深く、ちょっと開けた。毛むくじゃらの手がドアを強く押し返し、額にあたりそうになった。のけぞるファウジア。太い眉の下の暗い二つの目と、黒いターバンが彼女をにらみつけた。だが怖くなかった。「実際、ターリブの顔など見る暇もなかった。その隣に二人がいたから。ハーミドと兄だった。」

(第14章「暗がりが満ちる」より抜粋・翻訳)

 

==========<野口壽一>==========(2022年8月25日)

ターリバーンがカーブルを再占拠して1年。依然、中高女子の教育が禁止されています。それでも教育を受けたい受けたさせたい子供や親は、自分たちの家に秘密の学校を開いて子供たちに英語や数学や国語や歴史を教えています。
金子編集委員がつぶやいているファウジア・クーフィさんも、第1次ターリバーン時代(1996年~2001年)の婚約/新婚時代にマクロリアンの自宅に子供たちを集めて秘密の学校を開いていました(第7弾、6月15日。第14弾、8月25日)。実は、その活動を詳しく書いた書籍が2001年に日本で出版されています。『ラティファの告白 アフガニスタン少女の手記』(松本百合子訳、角川書店)。もともとはフランスで出版されたのですが、ターリバーン・バージョン2となって、いま再び注目を浴びているようです。
この本は、ファウジアさんより5歳年下の少女がソ連進駐時代からムジャヒディーンの内戦、ターリバーン登場までの自分が10代初めから20歳まで過ごしたカーブルの激変を多感な少女の感性で描いた迫真の物語です。彼女は最初、同じ住宅地に住むファウジアさんに教えてもらっていたのですが、ターリバーンがカーブルを支配するようになって2年が過ぎたころ18歳になって今度は自分が秘密の学校を開きます。そのとき、ファウジアさんに学校運営のノウハウを教えてもらい、タ-リバーンに見つからないよう、十数人の子供たちに本来学校で教えるはずの教科を教えます。このくだりはとても感動的だし、金子さんがまだつぶやいていないファウジアの運命なども書かれていて、はらはらします。ターリバーン・バージョン1の話ですが、その前の時代の一般少女の生活ぶりも生き生きと描かれていて興味が尽きません。ご購読をお勧めします。
なお、『ウエッブ・アフガン』では秘密の学校についてつぎの記事を掲載しました。
ターリバーンに挑む秘密の女子学校
アフガニスタンの女子のための秘密学校
学校のない 1 年、アフガニスタンの少女たちは教育を受けるための基本的な権利を求めて闘う

秘密の学校に関するより多数の情報はhttps://bit.ly/3wJL1Rk

 

 

==========<金子 明>==========(2022年8月15日)

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第13弾。(写真出典:Fawzia氏のFacebookより)

捕まった夫をどうにか助け出したい。ファウジアはその思いに突き動かされ、早朝ターリバーンの家を訪れ、夫の釈放を頼み込んだ。まっすぐ新婚の家に戻ったファウジアを待っていたのは、夫のハーミドその人だった。バスルームから出てきた彼は「やせこけた頬を水で輝かせ、頭からはしずくがこぼれていた。」

わずか一晩の拘留で「痩せ細り、よろめいて歩く」ようになったハーミドをファウジアは抱きしめ、お互いが涙した。短時間でもターリバーンの捕虜となることが、如何に心と体をさいなむか。自分に置き換え想像しただけで、気絶しそうな恐怖と絶望だ。やわな日本の官憲による扱いとは訳が違うのだろう。屈強な青年が一晩でガリガリになるとは!

ファウジアは、ここで夫の帰還に安心しへたりこんだりはしない。すごいな。私ならその日はもう動けない・・・「事前通告もなく夫を釈放した。ならば、次の標的は兄だ。間違いなく捜査の手を刷新するだろう。隠れ家を変えねば、早く。」思いついたのがかつて彼女の英語教室に通っていた女性だった。未亡人で数ブロック先に二人の娘と暮らしていた。

「政治的な人物ではなく、狂乱のカーブルで生き延びようとする普通の人だった。」再びブルカを着て、その家に走る。ほとんど家具が残っていない部屋に通された。「かなり前に、金目の物は売って米、油、燃料に変えたのだろう。」事情を話した。彼女が怒り出すのではと心配した。例によって、男を泊めるだけで御法度なのに、元警察長官をかくまってくれと頼むとは。

「なんて愚かな質問なの!」と未亡人は一喝した。「もちろんここに連れてきて。」
ハーミドの親類のアパートにとって返し、兄を連れ出した。わずかの着替えと食料を持たせ、彼を未亡人の家に届けた。かくまってくれた母と二人の娘たちはとても優しく、兄も「少しはリラックスできたと思う。」

彼はそこに10日滞在した。その間、兄の捜索騒ぎもやや落ち着きを見せた。そこで彼はハーミドとファウジアが暮らすアパートに移った。毎日のようにターリバーンに踏み込まれ、質問攻めにされ、神経をすり減らした兄の第一夫人も同じく転がり込んだ。新婚のファウジア夫妻、お尋ね者の兄とその家族、そして元から同居していたハーミドの姉一家。三家族が一つ屋根の下で暮らし始めた。

「最初は幸せな新婚生活を台無しにするこの事態に腹を立てた。でもやがて義務感が勝った。兄のためだ。これまで、どれほどかわいがってくれたことか。自分勝手に怒ったことに罪悪感すらおぼえた。今こそお返しに兄とその家族を世話するときだ。」

当初からの狙いだったパキスタンへの亡命。兄はついに意を決した。計画は単純だった。タクシーで国境検問所のあるトールハムまで行く。1997年当時、国境を越えるのにビザは不要だった。賑わう国境地帯の人混みにまぎれてうまく脱出できるだろう。その先、有名なカイバル峠を越えればペシャワール。そこから500キロで、第二夫人の待つ別宅があるラホールだ。

ここで著者は亡命ルート上にあるパシュトゥーンワリという地域についてかなり詳しく言及する:
●パシュトゥーン人が住む地域をこう呼ぶ。アフガニスタン南部とパキスタン北部にまたがる一帯。
●パシュトゥーン人は何世紀も国境など気にせず行き交っていた。彼らにとって国境はただの地図上の線にすぎない。
●デュアランドラインと呼ばれる一応の国境はあるが、アフガニスタンもパキスタンも正式には承認していない。
●国境地帯に暮らすパシュトゥーン人はその歓待の素晴らしさで有名。「もしあなたが彼らの客なら、彼らはあなたのために死も辞さない。もし彼らを怒らせたら、後悔もせずあなたを殺す。」
●アメリカとNATOはアル=カーイダと戦い、この弛緩した国境地帯が何千ものアル=カーイダ戦闘員の隠れ家になっていると訴えている。それに対しパキスタンは否定するばかりで、はびこる原理主義に対しほとんど何のアクションも起こさない。
●パシュトゥーン人の尊厳の掟は強く、ビン=ラーディンらの大物を探してアメリカがいくら空爆しても、村人たちは口を割らない。「爆弾は村々を破壊し尽くす。だが、『名誉ある客人』は決して裏切られない。」

ファウジアは「私には到底理解できないが、地元の人たちは決して変わらず、変わることができない」とコメントし、解説の最後をこう締めくくる:「その地に足を踏み入れれば、500年の時を遡ることになる。これまでの一連の政府や外国勢はこれを理解できなかった。理解できないと必ず敗北する。」500年か。わが国なら室町から戦国時代?確かにあの頃の戦士がカラシニコフやRPGをかついだら、そりゃあ強いな。

いよいよ亡命決行の日。兄は朝早く迎えに来るようタクシーを予約していた。彼は髭をたくわえ、ターリバーンも認識できぬほど風貌が変わっていた。ファウジアはテキパキと準備を進めた。「弁当はナーンと、兄の滋養のための固ゆで卵。兄の妻はスーツケースにもろもろを詰め込んでいた。」すると、玄関のドアがノックされた。

ファウジアはドライバーが来たと思い、反射的にドアを開けた。すると玄関先に立っていたのは二人の男で、頭には黒いターバン。銃を手に部屋の中に押しいって来た。全員が凍りついた。できるのはお互い視線を交わすことだけ。「来てしまった。捕まった。」

間髪を入れず一人が兄を蹴り倒し、もう一人がハーミドの首根っこを押さえて、逮捕した。どちらもまだ20代の若者だった。兄とハーミドは部屋からひきずり出された。廊下で兄が叫んだ、「ファウジア、俺たちを追うな。家で待て!」四人は階下で待つピックアップトラックの中に消えた。

(第14章「暗がりが満ちる」より抜粋・翻訳)

 

==========<野口壽一>==========(2022年8月15日)

ザワヒリ容疑者のドローンによる殺害などショッキングな事件があったり、ターリバーン再登場から1年を迎えると周年行事的に思い出したようにアフガニスタンの記事がマスメディアに登場する。
しかしネットを通してわが編集部には目をそむけたくなるような残酷な映像を含め、アフガニスタン民衆の生の叫びやニュースが毎日飛び込んでくる。日本人には想像もできないような厳しい環境の下でアフガニスタンの人びとは苦しみつつも闘い続けている。そんな情報はマスメディアではお目にかかれない。『ウエッブ・アフガン』はそのような人びとの声をすべて拾い上げて伝播、蓄積して日本で共有していきたいが、実際にできるのはその千分の一、万分の一に過ぎない。
だから、少しでも時間ができたら、本サイトの「便利帳」にリストアップされているさまざまなサイトを覗いてみて欲しい。
たとえば「長倉洋海さんのアフガン緊急メッセージ」では、主にパンジシール(パンシール)州の人びとの現状や闘いがフォトグラファーとしての感性をとおして伝えられる。また、「RAWA News」では女性の目を通して「秘密の学校」を開設して学ぶ少女たちの息遣いが伝えられる。アメリカ占領下で設立された独立系ジャーナルである「Hasht e Subh」(ハシュテスブ)」や「KHAAMA PRESS」はターリバーンの抑圧を跳ねのけて民衆の側に立った報道と論説を発信し続けている。アフガニスタン初の24時間ニュース、時事問題、ビジネス、地域および世界のニュース・TVネットワークである「TOLOnews」も英語のサイトを公開している。最近はブラウザの自動翻訳機能もよくなって、英語だけでなくたいていの言語をそこそこの品質で翻訳してくれる。
アフガニスタンでは「報道とは何か」「報道にはどんな価値があるのか」が人が生きるか死ぬかのレベルで問われている。「公正中立」などに価値があるのではない。人間一人ひとり、あるいは人類の立場に立って本質的に重要な情報が伝えられているのかどうかが、毎日問われている。
日本でも同じだろう。しかし、大新聞もテレビも視聴率やスポンサーの意向で報道の中身が決められ、金太郎あめ、横並びとなる。それを回避しうるのは、営利を度外視して関心を持つ個々人が横のつながりをつくり情報やオビニオンをシェアし合うネット文化の進展以外にありえないのではないだろうか。

 

==========<金子 明>==========(2022年8月5日)

(Fawzia Koofi)
アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第12弾。(写真出典:Fawzia氏のFacebookより)

夫から引き離され諜報部の敷地を出ると、ファウジアは急に兄のことが心配になった。タクシー代はもう残っていなかったので兄の家(高級アパート)まで歩いた。第一夫人がいた。彼女によると、兄はこの3日間居場所を転々とし、今日は西カーブルの親戚の家にいるとのことだった。「今ハーミドには何もできないが、兄の力にはなれる」と、内戦で最も破壊されたカードセ地区へ向かった。

たどりついた家には夫婦が暮らしていた。夫はカーブル大学の経済学教授。妻は教師だったが職を失い、今は秘密の学校を運営していた。居間に通されると、兄がマットレスの上に寝転んでいた。ファウジアを見た彼は危険が迫っていることを知った。二人は急ぎその家を離れ、徒歩で市外に向かった。人目の少ない郊外で、4時間あてもなく歩き続けた後、タクシーを拾った。

行く先はファウジアの新居がある第4マクロリアン。 振り出しに戻る感じだが、とても広い団地群なのだろう。そこにハーミドの親戚の女性が子供と二人で住んでいるのを思い出したのだ。途中怖れていた検問にあったが、運良く窓を下ろせとは言われなかった。

正確な住所は知らなかったが、あちこち聞いてやっとつきとめ、ドアをノックした。中に入り、急ぎ状況を説明し、「兄を一晩だけ泊めてくれ」と頼み込んだ。彼女は承知したが、喜んでという訳ではなかった。「怖がる気持ちはわかる。女は血縁でない者を家に泊めただけで逮捕され、勧善懲悪省に連行される。」ましてや、客はお尋ね者の政府高官だ。だがファウジアにとって他に選ぶ道はなかった。

翌朝、鏡の前で歯を磨いていると名案が浮かんだ。ターリバーン政府の役人の妻に刺繍を教えている友だちを思い出したのだ。ファウジアが知る唯一のターリバーンとのコネであった。彼女の家に駆けつけ、事情を説明すると、驚き同情し、一緒に生徒の家まで行ってくれることになった。

一刻も早くそのターリバーンに会いたいファウジアが、道すがら思わず足を止めた。通りの写真店の前に「いかにも意気消沈した様子で背をかがめた女が青いブルカを着て立っていた。一瞬誰だかわからなかったが、それはガラスに映る自分だった。」驚くと同時に店内の様子が目に入った。ターリバーンによって写真は御法度となり、うち捨てられた店だった。

ボリウッドの俳優よろしく滝に打たれてポーズを決める男。浮かぶ風船の糸を握りしめ歯のない口をあける赤ん坊。レースのドレスを着て短いソックスをはき恥ずかしそうに微笑む少女。正装した夫の横で自慢げに立つ白いベールの花嫁。

「これはだれだ?今どこにいる?」 ターリバーンの時代になる前、もといた1800万の人口のうち3分の1が戦闘で死んだ。残りの3分の1は国外難民になった。今は最後の3分の1が残るばかり。「店の主人は転職したのか。地下に潜り写真屋を続けているのか。ひょっとして逮捕されているのか。」ハーミドの囚人仲間かも知れぬと思ったとき、ファウジアは我に返った。

友だちがそっと彼女の腕に触れ、二人はまた歩き始めた。ターリバーンの住まいは門付きの団地だった。幼い男の子が玄関先で遊び、ゆでたマトンの香りが漂っていた。夫妻は二人を歓待し、熱い緑茶をふるまった。ターリバーンに「役所が開き次第、行って調べてみる」と言われ、ファウジアは満足しないまでも、感謝の気持ちを抱いた。

「私は驚いた。ターリバーンも、どんなターリバーンも人間性を表せるんだと。この男は見ず知らずの私を助けようとしている。その必要もないのに。彼がターリバーン全般に関する私の考えを改めさせた。理念や政治観を私と共有しないからといって、必ずしも悪い人ではない。アフガン人の多くは、民族性と文化の共有、住む場所の親近感、または単に経済的必要からターリバーンと交わる。それは当時も今も同じだ。仕事のない村で、給料を払うと言われれば、貧しい男は何をするか? もちろん、カンダハールやヘルマンドなど南部の都市では、イスラーム文化が厳しく守られている。私は反対だが、理解し尊敬する強い気持ちは常に持っている。」

アフガニスタンでは民族によって文化も言語も異なる。「国内に30以上の言語があることはあまり知られていない。」ファウジアによると、そんな多様性こそがアフガニスタンの強みである。少なくとも、平和時においてはそうだ。しかし、「戦争時においては、そうした民族的多様性が我々の最大の弱点になる。そのために考えもせず、お互いを殺し合う。」

ターリバーンの役人は二人を丁寧に門まで見送り、別れ際に「役に立てるかどうか確信はない」と注意した。ファウジアは帰り道いろいろと心配した。考えないようにと思っても脳裏に浮かぶ。「ハーミドが手を縛られ、中庭に引きずり出され、頭を打ち抜かれる。さもなければ、汚い凍える獄房でやせ衰え、空腹と寒さのせいで、徐々に正気を失う。」

こんな思いにさいなまれながら、ファウジアはようやく家に着いた。すると、バスルームから見慣れた顔が現れた。

(第13章「始まりの前の終わり」、第14章「暗がりが満ちる」より抜粋・翻訳)

 

==========<野口壽一>==========(2022年8月5日)

アル=カーイダのナンバー2、ザワヒリ容疑者が殺害された。なんと、ナンバー1のオサマ・ビン・ラーディンがパキスタン軍統合情報局(ISI)の拠点でパキスタン陸軍士官学校の至近距離にあった豪邸で殺害されたのと同じように、ザワヒリも政府機関や大使館などが集中するカーブル中心地の住居のベランダに出てきたところを米CIAのドローンミサイルで爆殺されたのだという。実に奇妙な一致だ。

この事件報道にふれていくつもの疑問がわいてくる。アメリカの発表が正しいとして;
①ドローンはどこから飛んできたのか。カタールか、だとすればイラン領空を侵犯したことになる。パキスタン領内かパキスタン沖の艦船からか。アフガニスタン国内から、とも考えられる。ここにはおびただしい数の疑問点が存在する。
②アメリカの単独作戦かそれとも協力国はあったのか。あったとすればパキスタンかターリバーンか、あるいは3者共同作戦か。暗黙の了解もありえる。
③カーブル現地からの情報によると、殺害の直前2、3日前にザワヒリ潜伏地近傍で2度のドローン爆撃があったという。その爆撃音をザワヒリは聞いていたはず。ターリバーンへの敵対勢力掃討戦と聞かされていたのだろうか。
④爆撃したドローンは帰還したのかどこかに不時着したのか。ターリバーンは把握しているはず。
⑤アフガンからの情報によるとこれまで何度もアフガン上空に国籍不明のドローンが飛来し、爆撃を行っている。恐らくはアメリカのものだったのだろうが。
⑥アメリカは人道目的に限りアフガンの凍結資産を解除する決定を今年2月にしている。先月末ターリバーンとアメリカはタシケントで凍結解除について協議している。

以上の事柄をつなげて考えれば、アメリカとターリバーンとの間にかなり高度の合意が存在する可能性が高いと断じざるをえない。
ロシアと中国(こちらが主敵)との対決、包囲網づくりにまい進する米強硬派=軍産複合体の思惑が透けて見える気がする。犯罪者と断じて裁判なしに殺害する、外国の主権は無視する、等々、傍若無人に振舞うアメリカの姿をみる人びとや国々は、ロシアの肩を持つか、等閑視するのである。さらに言えば、言わずもがなの当然のことだが、テロの指導者をテロ(ステート・テロ)で殺害しても新たなテロリストを生み出すだけであり、テロの悪循環を断ち切ることはできない。
謎に満ちたこの事件については本サイトの「トピックス」コーナーと「アフガンの声」にいくつかの情報と見解を載せておいた。ぜひお読みいただきたい。

 

==========<金子 明>==========(2022年7月25日)

(Fawzia Koofi)
アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第11弾。(写真出典: https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/tv/directtalk/20220406/2058814/)

兄がムジャヒディーン政府の警察長官であったため、北部におけるターリバーン対ムジャヒディーンの戦闘に巻き込まれたファウジアは、兄とその家族と共にカーブルに戻ってきた。その頃のターリバーン支配の非道さは、次のように紹介されている。

●武器狩り:ターリバーンは家々をしらみつぶしに訪問し、武器を差し出すよう迫る。「彼らは誰もが武器を持っているはずだと信じて疑わず、武器がないという返答は認めなかった。」そのため武器を渡さない一家の主は軒並み逮捕された。すると残された家族はどうするか?どこかで武器を買ってターリバーンに差し出し、解放してもらう。

●勧善懲悪省:「もっとも勇敢な人々も、その名を聞いただけで震え上がる。」宗教に対する犯罪や「道徳的犯罪」を犯した者を裁く機関で、市内の一等地にある庭付きの瀟洒な建物に陣取っていた。ひげが短すぎる男、ブルカを着ていない女らを連行し、足の裏を金属製のケーブルで打ちたたく。「保守的な南部の田舎から来た不潔で無学文盲のムッラー」が大都市の教養ある女性たちを裁き、ひげ面の番兵たちは、その叫び声を聞きながらバラの香る庭を眺めて茶をすすった。

●公開処刑:姦通や窃盗の罪を犯した者がトラックに乗せられ五輪スタジアムの真ん中に運ばれる。歩いて場内一周し観客の喝采を受ける。ある者は両腕を切り落とされ、またある者は頭を撃たれるが、極めつけは投石刑。腰まで地面に埋められ死ぬまで投石される。「たった一切れのパンを盗んだのは飢えた子供のためだった。実はレイプだった。そんな事情を、裁く者、最初の石を投げる野蛮人たちが気にとめることはなかった。」

●ムハッラム:女性は外出するときはかならず「男性の血縁者」=ムハッラムと一緒でなくてはならない。これはファウジアがカーブルに戻ってから知った新たな差別だった。ターリバーンは見張りのため、多くの検問所を設けていた。男女が乗った車を止めると、二人の関係について根掘り葉掘り尋問する。これも勧善懲悪省の管轄だった。

●ハイラックス:勧善懲悪省のパトロールカー。屋根につけたスピーカーから「聖なるクルアーン」を大音量で流す。その音を聞くと女性はみな素早く身を隠す。女性を見ると捕まえて難癖をつけるからだ。ある日ファウジアは「路上で少女が鞭打たれているのを見た。するとその母と姉が身を投げ出して彼女をかばった。ターリバーンはかまわず3人を打ち続けた。本当に狂気の沙汰だ。」

そんなカーブルでファウジアとハーミドは結婚した。式には1500人もが押しかけた。うち500人は兄の関係者で、ファウジアは「ちょっと頭にきた。無銭飲食をしに来たのじゃないかと。」その中にターリバーン政府に協力するものもいたのか?兄はもっと早く国を離れるべきだった。しかし、結婚式を人生の一大イベントと考え、「ネットワークを構築する」機会と捉える政治一家にとって、親代わりである兄の欠席は許されなかった。

ターリバーンのおかげで「とても地味になった」結婚式だが、伝統に則り数日間続いた。最後はファウジアも兄も涙した。そして、「第4マクロリアン」という寝室が3つもある高級アパートで新婚生活が始まった。ただ、アフガン風というか、その時代らしいというか、二人きりではない。最近夫を亡くしたハーミドの姉とその二人の子供が同居した。

元教師の義姉はとてもエネルギッシュで、ファウジアと意気投合。すぐに素敵な関係が結ばれた。しかしターリバーンが支配するカーブルでの暮らしは先行きがあまりに暗い。いずれ故郷のバダフシャーンに移ろうと、結婚した直後からファウジアたちは話し合っていた。

結婚式からちょうど10日後の午後、玄関のドアがノックされた。現れたのは黒いターバンを巻いたひげ面の男たちだった。兄がカーブルに戻ったことを、ターリバーンの指導者オマル師が知り逮捕状を出した。彼らは行方をくらました兄を三日間、血眼になって探していたのだ。

男たちは「警察長官はどこにいる?」と逮捕状を見せ、部屋中をあら探しした。何も見つけられず帰ろうとした彼らと、職場から戻って来たハーミドが間一髪鉢合わせした。ハーミドは手錠をかけられ、諜報部へと連行された。

気丈なファウジアはすぐにタクシーを拾って追いかけようとしたが、例の「ムハッラム」によって1台目は乗車を拒否した。しかし二台目のドライバーが乗せてくれ、道々名前や住所などを教えてくれた。「検問所では私の妹だと名乗りなさい」と。たどりついた諜報部前で、ファウジアは感謝を込めてかなりの大金を払い下車した。「私が今たくさん払えば、次また別の女性を助けてくれるだろう。」

ゲートで「私は逮捕されましたが、女なのでターリバーンの方たちの車には乗れませんでした。そこで、ここに自分で来いと言われました。入れてください。」と嘘をつき侵入した。見ると敷地内に拘置所があり、その門前でハーミドは二人のターリバーンにはさまれ、放心状態で突っ立っていた。

やがて別の門に向かって歩き出した。ファウジアは駆け寄り、ハーミドの手を取った。拘置所の門が開く。中に何百もの囚人が見えた。手錠をかけられた者、縛り上げられた者、立ち尽くす者。皆が悪臭漂う中庭にたたずんでいた。ターリバーンがハーミドのもう片方の手を引き中に入れようとした。「新婚です、お許しを」と迫ったが、「うるさい女め」と蹴飛ばされ、ファウジアは泥水の中に倒れた。ハーミドは中に消えた。

(第10章「北への撤退」、第12章「とあるターリバーン結婚式」、第13章「始まりの前の終わり」より抜粋・翻訳)

 

 

==========<野口壽一>==========(2022年7月25日)

8月15日が近づいています、と書けば「終戦記念日」。日本の敗戦日です。しかし今年からは、「ターリバーン勝利の日」、その1年目です。
国際的にみれば片や先進国、片や最貧国そもそも破綻国家。
日本は、憲法もあるし、国政選挙もあるし、合法政府もある。政府は借金してるけど国民からのもので外国にとやかく言われる筋合いはない、お金持ち国家。そもそも対外的には世界一の債権国、対外純資産額は411兆円(2021年末)。片やアフガニスタンは、日本にあるものが何にもない、ないない尽くしで、比べ物になりません。そもそも「国家」自体、あるんだかないんだか分からない。政府は外国からの正式承認ゼロ!
比べ物にならない、と言いましたけど、「国家とはなんじゃ?」という視点から見れば、小生には、「大同小異」、「どっこいどっこい」としか見えません。
安倍元首相が凶弾に倒れたってんで、それ「国葬」と一部が騒ぎ立てていますが、この国には「国葬」に明確な法令基準はありません。日本は「法治国家」ですから税金や公務員や国の施設や財産を使う場合は、その根拠となる法律がなければなりません。政府が持つ機密費から支出、というゴマカシは許されません。法律専門家たちはすでに動き出していますから差し止めを求める仮処分申請もなされるでしょう。されたら小生も応援します。(裁判官殿、もう忖度する必要ないから、正当な判断をしてくださいね。)
「大同小異」「どっこいどっこ」と思う理由は、あの国もこの国も国民の合意ができていないのに力を持った勢力が好き勝手にやってるからです。あの国は格好つけるのがへたくそで(つまり法治国家の体裁がとれていない)のに対して、こちらは立派な法治国家。なのにやってることはそんなに変わらず好き勝手。ごまかすのが上手、というくらいの違いしかありません。
そもそも、こちらの国だって政府がお手盛りだったり、違法だったり、利権誘導だったり、かなりなもので「お友達内閣」と揶揄されても平気、揶揄したほうも、是正するための本気の批判でなく、ただ視聴率稼ぎで面白がっただけ。実態は「人治」国家なんですね、この国も。中国をさんざん「法治」でなく「人治」だと批判していたのは誰だったんでしょうか。
この国は「法治」でなく「放置国家」なり、と断じたくなります。
放置していたのはわれわれなんですけどね。

 

==========<金子 明>==========(2022年7月15日)

(Fawzia Koofi)
アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第10弾。

ターリバーンによる北部への攻撃は続いた。「ムジャヒディーン政府が完全に掌握していた地域内で、ターリバーンに鞍替えする村が出てきはじめた。政府側だった場所に突然、ターリバーンの白旗があがるのだ。」

北部同盟の司令官の中には、ターリバーンと取引する者が出てきた。かつての共産主義者の中にも同盟を結びたがる者がいた。だがターリバーンは非情だ。欲しいものを手に入れると、相手を裏切るか暗殺した。ターリバーンに仲間はなく「ターリバーンにあらざれば敵」だった。

そんな戦況の中、ファウジアの婚約成立も束の間、兄は国外への逃亡を決意した。第一夫人と子どもたちを連れカーブル経由でパキスタンへ。そこで第二夫人も従えて、最後はヨーロッパへ渡るという亡命計画だった。

しかし、行動に移す前にマスードとラッバーニの部下たちから指令が来た、「一端タハール州へ退き、対ターリバーンの軍備を確立せよ」と。その時点でターリバーンの手に落ちていないのは、アフガン最北端にあるファウジアの故郷バダフシャーンと、その西隣にあるタハールの2州のみだった。「そのため私たちは兄に従ってタハールへ着き、また例の一時的な暮らしが、また例の借家住まいで始まった。」

それから2、3週ほどたってマスードが自軍を整えるためタハールを離れパンジシールに向かうことになった。その機会を逃さず兄はマスードに直接、家族をパキスタンへと連れ出したいと訴えた。マスードは同意した。すぐさま兄は制服を脱ぎ捨て、女性たちは荷物をまとめ、「さわやかで暖かい春の日に」ファウジアたちは出発した。

380キロの道のりを戦時下タクシーに乗って南へ。「川に沿って走っていると、橋の手前で私たちは息をのんだ。ターリバーンが人々を通させまいと橋を砲撃したのだ。金属と木材の破片が飛び散り、不運にも橋の上にいた数台は空に舞い叩きつけられて粉々になった。」

タクシーを降り、そこから先は、ほぼ丸1日ずっと歩いた。「曲がりくねる山道をのぼり、ゴツゴツした岩山を越え、バラとクワの果樹園を抜け、川に沿って道を下った。」砲弾が頭上に音を立てて行き交う。道の左右どちらからも狙われる。ときおりあまりに多くのロケット砲がビュンビュンと空にうなる。そんなときは、直ちにわきの茂みに逃げ込む。

そんな状況で「途中何度かタクシーを拾えた」とは驚きだ。「本物のタクシーではない。素人が客を乗せて運び、料金を取っているのだ。命がけの仕事だが、彼らも金が必要だった。」こうして、いよいよカーブル郊外まであと一息のショマーリ平原へとたどり着いた。

しかし、タクシーを降りたところは、ちょうどマスードとターリバーンが戦っている最前戦だった。「普段は交通量の多い道だろうが、さすがにここを走るタクシーはいない。歩いている集団に合流した。皮肉さに笑ってしまった。この人々はターリバーンがカーブルを掌握したとき、街から逃げ出したのを私たちが見たその同じ人々だ。比較的静かで一時は聖域だった田舎の町が戦場となり、逆にカーブルがいまや比較的安全な選択肢なんだから。」

流れ弾も怖いが、野犬や毒蛇にも要注意の道中。赤ん坊を抱き続けた義姉は足もとが無謀にもハイヒールだったので、とうとう痛みに耐えきれなくなって泣き出した。そこでファウジアは自分の低いサンダルと交換することにした。「何かの理由で私はハイヒール歩行がいつも得意だった。戦闘中でも。私の持つたぐいまれなる才能のひとつだ。」

道端の木陰で靴をはき替え、二人は少し休んだ。リンゴをみつけてかじっていると、木が揺れだした。そして「ドッカーン!」ファウジアの頭上数メートルのところでロケット弾が炸裂した。木は葉もろとも一瞬で姿を消したが、ファウジアは無傷だった。「またしても私は、きわどく死を免れた。」

道に戻ると、そのロケット弾が殺した女性と子どもの死体がいくつかころがっていた。兄はその様子を見て、「歩き続けろ」と叫んだ。さらに2時間歩いて、急流と滝で有名なサヤド川沿いのかつての観光スポットについた。そこで見ず知らずの一家がファウジアたちを招き入れ、茶とパンとクワの実でもてなした。
その上、歩きやすいサンダルを一足わけてくれた。

壊れかけた橋を渡ってさらに30分歩くと、ようやくターリバーンが支配する地域に入った。また1台タクシーを拾った。後部座席にへたりこんだファウジアはすぐ眠ってしまった。目を覚ますと車は「愛するカーブル」の通りを走っていた。兄は運転手に「マクロリアンへ」と行く先を告げた。こうして「ばかげたハイヒールをはいて、ロケット弾と銃弾をかわした1日が終わった。」

(第11章「すべて真っ白」から抜粋・翻訳)

 

==========<野口壽一>==========(2022年7月15日)

今号に掲載したハシュテ・スブ(アフガニスタンの独立系日刊紙)の社説「アフガン人は乞食ではない」はアフガン人の在り方への根本的な疑問と筆者の決意を次のように表明している。

産業革命は、日本、韓国、そして中国にまで到達し未曾有の飛躍をもたらしたのに、なぜアフガニスタンはこの道をたどれないのか。その原因のひとつは、アフガニスタンの「文化の一部」とさえなっている、外国人の寄付や援助に頼って生き延びてきた物乞い精神ではないのか。その乞食根性のゆえに「経済的に自立する努力」をしなかったからではないのか、と。

私はアフガン人自身によるこの結論を歓迎するし、社説に掲げる勇気を讃えたい。
国造りの出発点、国民意識の在り方としてこの考え方は基本であり、真っ当だ。ソ連の軍隊を導入して政権維持を図ったPDPA(アフガニスタン人民民主党)でさえカルマル議長の後を継いだナジブラー議長(のち大統領)は、ソ連軍にたよるべきでないと国会で何度も「アフガン人は乞食ではない」と誇りと自立を訴えた。その結果、1年かけてソ連軍をほぼ無傷で撤退させることができた。しかし、ジュネーブ和平協定に基づき軍事援助を停止したソ連に対し、ムジャヒディーン・パキスタン・アメリカ連合は軍事攻勢をつよめた。これにたいしアフガン国軍は2年半近く独力でムジャヒディーンを跳ね返しつづけたが、孤立無援の末最後は矢尽き刀折れて崩壊した。

いま指摘した事例は軍事(体制維持)だが、「外国に頼らない」という精神論だけでは経済社会や国家建設はさらに難しいだろう。

西洋に後れを取った日本が成功しえたのは絶対主義的中央集権国家の樹立に成功したこと、身分制度を撤廃し下級武士を労働者や兵士に変え、農村を搾取し、国民皆兵制度による軍制の確立に成功したことなどが大きい(富国強兵)。さらに、日清戦争に勝ち賠償金を手にできたことなど、数々の僥倖が重なった。その間足りない資金は外国からの借款に頼った。日露戦争の勝利を決定づけた戦費でさえ、イギリスやユダヤ系財閥の支援のおかげだった。

日本の成功が単なる〝僥倖〟でなかったことは、第2次世界大戦後、韓国、台湾、タイ、フィリピン、東南アジア、そして中国と、日本が発明した「軍事独裁+外資」という方程式に基づくものだったことを歴史が証明している。

しかし、内部的に異なる多くの民族をかかえ周辺諸国との強い血縁的宗教的つながりを持つ複雑で多様なアフガニスタンにとってこの道を選択するのは困難、むしろ不可能なのではないだろうか。

アフガニスタンは、いま、「国」の在り方をめぐって隘路にはまり込んで苦しんでいる。経済的な困窮に重ねてターリバーンという過去の亡霊が暴力支配をしている。しかし、そのターリバーンを含めてアフガニスタンである。過去の亡霊からの決別はアフガン人自身で決着をつけない限り不可能だ。「アフガン人は乞食ではない」という誇りは多くのアフガンが持つ矜持だろう。外国軍の直接進駐がなくなったいま、アフガン人がアフガンの未来を決める舞台はできた。

アフガニスタンではいま、単一国家としての形成の難しさを認識し、連邦制度や分国などさまざまな解決策が模索されている。アフガン人がアフガン人としての誇りをもって、国の在り方を自らで決め、土台を形成する以外に、発展の道筋はありえないだろう。

(以上の見解は、本サイト開設の際の基本認識であり、開設時の「視点」に詳しく記しました。)

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==========<金子 明>==========(2022年7月5日)

(Fawzia Koofi)
アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第9弾。

カーブルを制圧したターリバーンは戦線を徐々に北へと押し上げ、北部同盟の懐に迫っていた。そのためパルワン州にたどり着いたのもつかの間、ファウジアたちは安全を求め、さらに300キロほど北の都市プリクムリへ避難することになった。ハイラックスに乗って村を出発したときの描写は生々しい:

「幹線道路に出て、車列に加わった。何千もの人々が侵攻するターリバーンから逃れようとしていた。どの車も衣類、台所用品、毛布さらに動物を満載。乗員たちの全財産だ。車の側面に人がぶら下がる。あらゆる場所にしがみついて。タクシーにしがみついた男が私たちのトラックに目をとめた。ケガをしている。たぶん兵士。見た目はウズベク人。顔は丸く、目はアーモンド型。ムジャヒディーン兵のようだ。片脚から流血し、今にもタクシーから振り落とされそう。幅寄せしてきた。銃を持っている。併走しながら銃を振りかざし、運転手に止まるよう命じた。しかし運転手は止めない。すると彼はタイヤをめがけ発砲した。タイヤは破裂しトラックは蛇行。危うくその男を跳ね飛ばす所だった。助手席の私は怖れた。追いつかれ引きずり出されるのではないかと。しかし、運転手は肝を据え、どうにか走り続けた。男は後続車に狙いを変え、必死に撃ち続けた。私には後ろを見て確かめる勇気がなかった。かわいそうな一家が皆殺しにされたかどうかを。」

一路北へ進み、やがて着いたサラン峠のトンネルはターリバーンの侵入を防ぐため閉鎖されていた。逃げてきた人々は足留めされて寒さに凍えるかUターンするしかない。しかしファウジアを乗せたトラックは、元警察長官の兄が準備していた通行証をかざして通過した。

プリクムリでは義姉が準備した隠れ家に案内された。狭い場所だったが既に60人も集まっていた。みな兄の部下で元警官、いまや行く場所のない男たちだった。「だからいまのアフガニスタンには、不法な武装集団がこんなに多い。体制が崩壊したとき、こうした男たちにはとるべき道がない。そこで、かつての上司や指導者に頼り、民兵を組織する。」

さすがに元上官の兄もこれほど多くの男たちとファウジアが一緒にいることは欲さなかった。そこで彼らに家族の元に帰るよう諭した。こうしてプリクムリで、ひとときの平和な暮らしが始まった。料理し、掃除し、庭でチャイを飲む日々。それはファウジアの母親や姉たちが耐え抜き、ファウジアが最も抗った「苦役に満ちた退屈な暮らし」だった。

ある日、ファウジアが庭で日光を顔に受けて楽しみ、山に降る雪を眺めていると、来客があった。3歳と4歳の子どもを連れたハーミドの姉とその夫、そしてハーミドの叔父だった。5人の姿を門前に見つけたファウジアは思わず「キャッ」と喜びの声を上げた。

彼らの話でわかったこと:「ハーミドは私たちの家に行ったが、カーテンが閉ざされ、誰もいなかった。周囲で聞きこみ、どこに行ったかを知った。そして好機到来かと思った。私がムジャヒディーンの支配地にいることは、武装した民兵や司令官に囲まれていることを意味する。みな私をレイプしかねない輩だ。なのにハーミドの見立てによれば、私の兄は二人の妻の安全を保つのに手一杯で、私の誇りにまでは気が回らない。そこで私たちの結婚に対して、兄はより寛容になるだろう。」こうして、一行が求婚の使いとしてやってきた。

子連れで戦時下の移動。さらに途中、雪崩にあって一晩凍えたと聞き、ファウジアはハーミドに対し若干怒りをおぼえた。「同時に、そこまで真剣に結婚しようと思う彼の気持ちに触れドキドキした。」

続けて、著者はアフガニスタンの求婚の風習に言及する:求婚をやんわり断る場合、はっきり「ノー」とは言わない。相手にとてもクリアできない要求を突きつける。しかも彼らは命をかけて求婚の旨を伝えに来ている。かねてから階級・財力の違いで二人の結婚に猛反対の兄も、簡単に拒絶するのは失礼だと考えた。

みなでディナーを楽しんだあと、ファウジアとハーミドの姉は別室へ。そして兄がハーミドの義兄と叔父に出した要求:「ファウジア名義の家の購入、しかるべき量の金と宝石の付与、そして現金2万ドル。」壁に耳を当てて話を聞いたファウジアはあきらめのため息をついた。「しかし驚いたことに、ハーミドの叔父は同意した。」

数日後、今度は兄がカーブルに出向き、ハーミド側の進捗状況を確認する手はずとなった。しかし戦闘が激化しており、サラン峠のトンネルの向こう側で兄は音信不通となった。生死が定まらない状況が続く。兄の第一夫人は夫をカーブルに行かせたファウジアを非難の目で見た。

40日たってようやく、兄は生きており、バダフシャーン州にいることがわかった。ターリバーンがあまりにも優勢なため、ムジャヒディーンは一時バダフシャーンに撤退し新陣地を築こうとしたのだ。やがて兄はファウジアのもとに戻って来た。

「そして春の緑の芽が雪を突き抜け充分にのびるころ」ハーミドの叔父がまたやって来た。「今度はハーミド本人を連れて。」再び、男だけの会議。ハーミドはファウジア名義の家を購入し、その書類と現金2万ドルを持参していた。

バダフシャーン州に土地を持ち、その一部を処分して資金を工面したハーミドは確かに貧乏ではない。しかし「カーブルに4軒の家、加えて(パキスタンの)ラホールにも別宅を持つ」兄は煮え切らない。常日頃こう言っていた:「ファウジアよ、こんな貧乏人とは結婚するな。男はいくらでもいる。お前は月給に頼る暮らしなどできない。リッチでパワフルな男と結婚しろ。」

ファウジアと隣室で息を潜めていた実の姉が、業を煮やして交渉の場に乱入。兄を部屋から引っ張り出して、こう言い放った:「かわいそうなこの人たちを試すのはもうやめて。約束のお金は持参したわ。今度はあなたが決める番よ。イエスかノーか、さあどっち?」

兄は無言で目を丸くして大きなため息を一つ。ついに不承不承ながら求婚を受け入れた。だが、こんな記念すべき日ですら当事者が直接会えないとは、目がくらむほど古風なアフガンのしきたりだ。婚約成立。家を出て、車へと向かうハーミド。窓のカーテンに隠れてフィアンセの後ろ姿を見つめるファウジア。ふと立ち止まって頭をかくハーミド。晴れて花嫁になる21歳のファウジアを、このあと大きな試練が待ち構えていた。
(第10章「北への撤退」から抜粋・翻訳)

 

==========<野口壽一>==========(2022年7月5日)

まことに現代は、何が真で、何が善で、何が美で、ましては何が愛なのか、さっぱり分からなくなった。と、ほとほと嘆かざるをえない。
ひと昔前は正義というものがあって、不正義に怒りをたぎらせたこともあった。自分はその時と変わらない、と思っているが、ただ単に歳をとっただけなのかもしれない。

そう言えば、若い時、不確実性の時代がきたと囃し立てられたことがあった。そのころは不確定性原理を勉強したあとだったのでそんなのあたりまえじゃん、と思ったものだ。自然と違って人間社会のファクターは無限にある。あちらを立てればこちらが立たず、という現象は日常茶飯事だ。とはいえ、人間社会には常識というものがある。とことん対立して闘いをやめなければ共倒れになる危険があるからどこかで妥協が成立して日常が復活する。一生添い遂げる夫婦関係では「愛」とは無数の「妥協」の集積なのだろう。

米ソが地球を破滅させられるほどの核兵器を蓄積して対立した冷戦時代にも、数々の内戦や国家間の戦争があったけれど、収拾の道筋について敵味方で共通認識があったような気がする。冷戦が終わってから、世界が騒がしくなりぎくしゃくとし始めたような気がする。ソ連のアフガニスタンからの撤退がそのような時代の始まりだったような気がする。イスラーム過激派が世界史のど真ん中に登場した。各国でポピュリズムが力をまし、常識の変更がせまられているような気がする。

アメリカでトランプ大統領が当選したあたりからそのような傾向が加速した。なんでもありの世界になって、反論はフェイクとされ、聞く耳もたずに拒絶される。もともと、芥川龍之介の「藪の中」(映画「羅生門」)のように人間社会の真実は当事者の数ほどありうるのだから、真善美や愛が一種類とは限らない。不可知論とか相対論とかの理論を打ち立てる哲学者もいる。

何百年と続いてきた資本主義は終わった、あるいは歴史そのものが終わった、と主張する学者もいる。しかし自分も人類も生きていかなければならない。終わったと達観して澄ましているわけにはいかない。現状維持はじり貧で老いさらばえるだけだ。現状変革を求めて抗うしかない。世界中にあらがうおびただしい人びとがいる。自分もその中のひとりだと認識して列に並ぶべきなのだろう、老骨に鞭打ってでも。常識の変革がもとめられるとはそういうことなのだろう。それにしてもしんどいなぁ。

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==========<金子 明>==========(2022年6月25日)

(Fawzia Koofi)

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第8弾。

1996年9月26日「ある普通の木曜日」、ファウジアは大学の授業がなかったため、姉を誘って新しい靴を買いに出かけた。ところが靴屋の店主にこんなことを言われた:「お嬢さんたち、明日になったらそんな格好でここには来られないよ。明日はターリバーンがここに来る。だから君たちが買い物を楽しめるのもこれが最後。今のうちに楽しんでおきな。」

気分を害したファウジアは言い返す:「それはあなたの思い込みよ。お墓までどうぞご大切に。絶対そうはならないから。」幼少期からのトラウマでただ怖いだけだったムジャヒディーンも、大学生になった今は「対話をしないで、ただ戦うだけの男ども」とクールに批判できた。彼女はターリバーンも同類だろうと思い、すっかり「うんざり」していた。

その晩、BBCラジオのニュースに耳を疑った:「マスードの部隊がカーブルから撤退し、パンジシールの渓谷に戻った。」
ラジオにかじりついたファウジアの分析:「だからといって負けたとは限らない。一時退却はよくあること。朝食前には戻って来て反撃し、ラッバーニを支援するだろう。」カーブル市民もほぼ全員がそう信じた。

しかし上級警察長官の兄が突然帰宅し、妻に命令した:「時間が無い。私の身支度をしておけ。ほかの上級官僚と一緒にパンジシールに移り、マスードに合流する。」兄の命令で、一人の妻はファウジアと一緒にマクロリアン(高級アパート)に残った。もう一人の妻はパキスタン、ラホールにある夫の別宅を目指して直ちに出発した。

BBCの速報:「ラッバーニ大統領とその閣僚たちも空路パンジシールへ。そこから大統領の故郷バダフシャーン州へ向かう見込み。」
さらに続報:「国連施設内で家族と共にかくまわれていたナジブラー元大統領に、マスードがパンジシールの渓谷に連れて行こうと申し出たが、ムジャヒディーンもターリバーンも信頼せず、罠を怖れたナジブラーは拒絶した。」

夜の8時、ジェット機が上空を飛び交った。やがて兄がその晩二度目の帰宅。こう言った:「私はいますぐカーブルを発つ。」ファウジアは怒って:「今こそ残ってカーブルと政府を守るべきよ。それなのにあんな連中を前に逃げ出すなんて!」

十把ひとからげの信心深い学生たちを相手に政府が勝利をあきらめるなど、ファウジアにはとても信じられなかった。「ラッバーニ政府が特段好きなわけじゃない。でも少なくとも政府は政府。なのに、私の兄のような官僚が地位を投げ捨て逃げ出した。」

そして迎えた金曜日の朝6時。窓から外をうかがったファウジアが見たのは、「小さな白い祈りのための帽子をかぶった人々。」みなが突然そんな格好をし始めた。そこへ噂:「彼らは人々を叩き、モスクへと連れ出している。」このとき初めてターリバーンが共産主義者ではないとファウジアたちは確信した。

次に起きた事件:「ターリバーンが国連施設を急襲、ナジブラー元大統領を引きずりだし処刑した。その死体は弟の死体と一緒に市内のランダバウトにさらされた。」さらにカーブル博物館に乗り込み、収蔵品を破壊。バーミヤンでは石仏を爆破した。

それだけでなく、アフガン人の「心を破壊し始めた。」つまり、学校や大学の建物を焼き払った。本を焼き、文学を禁じた。ファウジアの通う医大は閉鎖された。女性が医者になるのは禁じられた。派手な結婚式は御法度となった。スカーフをまとっただけでブルカを着ていない女性はその場で鞭打たれた。おしゃべりしている男女を見つけると、女を転がして鉄製のケーブルでたたく。テレビは禁止。ラジオから流れるのはターリバーンのプロパガンダのみとなった。

恐怖の様々な形を体験し、克服してきたと自負するファウジアだったが、ターリバーンの恐怖はまた格別だった。「冷たく、陰湿で、氷のような怒りが染め上げた」恐怖。その怒りの主は、誰あろうファウジア本人だった。ターリバーン入城以来ファウジアが外出したのは母の墓参に出かけた一度きり。それ以降、およそ二か月も部屋に閉じこもった。

その間も、カーブルの北東方面、ショマーリの平原とパンジシールの渓谷はマスードの支配下だった。そのため、カーブルから多くの市民がそこを目指して逃げ出した。「持ち家が内戦を生き延びたことを祝福してから数週間もたたないうちに、その家々の門扉に鍵をさして、人々は振り返ることなく歩み去った。」

しばらくして兄が手紙をよこした:「いまパルワン州にある運転手の家にかくまわれている。妻と子どもをよこしてくれ。」パルワン州はカーブルのすぐ北。美しい川と谷があって、夏になると多くの市民がピクニックに訪れる風光明媚な避暑地だ。

車でまっすぐ走れば1時間でつくところを、略奪や戦闘、地雷などをさけて迂回しながら進む。12時間もかかる大移動。途中、ファウジアは求婚者ハーミドのことを思っていた。最後に彼と会った場所は大学だった。そのとき「彼と話したのはほんの少し。でも本当に彼を愛し始めていると感じた。」ただ、こんな状況では次にいつ会えるか、まったく見当がつかなかった。

当時の世界がアフガニスタンのことをどう見ていたか、著者は悔しさを隠さずこう記す:
「冷戦は終わった。強いソビエト帝国は崩壊しつつある。アフガン人の対ロシア戦はもはや西側に関連がない。国際ニュースで毎晩取り上げられることもない。われわれの内戦は終わり、ターリバーンがいま、われわれの政府だと世界は認識した。われわれは昨日の物語。一面に載るのは別の悲劇だ。でもわれわれの悲劇は終わっていない。なのに世界は続く数年間、われわれのことを忘れてしまった。われわれが漆黒の中で何かを求めていたそのときに。」

(第9章「ある普通の木曜日」から抜粋・翻訳)

 

==========<野口壽一>==========(2022年6月25日)

日頃、パソコンとスマホの画面ばかり見つめていて運動不足。電車で1時間ちょっとで行ける鎌倉に「アルプス」があると聞いて出かけてきました。土曜日だったせいもあって長谷駅から登山口の大仏さん裏手までの参道は歩道から人がはみ出しそうな賑わい。すっかりコロナ前にもどっていました。マスクだけはほぼ全員してましたけど。
鎌倉アルプスは高低差157メートルほどのどこにでもあるハイキングコースといったたたずまい。場所柄が鎌倉だからありがたみはあります(なんで?)。今回は「ひこばえ」についてつぶやいてみます。
写真は源氏山公園手前でみつけたもの。コナラかなにかの切り株から新芽が生えています。これがひこばえ。漢字では「蘖」または「孫生え」。初々しい代替わりをイメージさせます。ひこばえといえば、12年前に大嵐で耐え切れず倒れた樹齢1000年ともいわれた鶴岡八幡宮の大イチョウが気になります。倒れた2、3年後を見ていますが、いまどうなっているでしょうか。

行ってみると神様になっていました(笑)(写真)。「茅の輪くぐり」と人形(ひとがた)奉納祈願をしてきました。ひこばえを従えた老木の横には独立した子銀杏が植えられて赤い柵と紙垂(しで)で結界が張られていました。命をつなぐ現場は神々しいものです。
歴史あるこの老銀杏の再生を支えるのは人の努力です。大木の倒伏から現在までを写真入りで見せてくれるブログがありました。(https://www.yoritomo-japan.com/hana-kesiki/ooityo-hatiman2.htm)後期高齢者の手前まで来た身としてはひこばえを生やせられるか気になるところではあります。

 

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==========<金子 明>==========(2022年6月15日)

(Fawzia Koofi)
アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第7弾。

第8章「彼女の喪失」の冒頭で、ファウジアは求婚される。会ったことも、話したこともない17歳の少女を妻として求めたのは、カーブルで「両替商のような小口の金融業」を営むハーミドという青年だった。彼はバダフシャーン州にある、ファウジアの生まれ故郷クーフ村からほど近い村の出身だった。

そのころ彼女の母は体を壊して入院中だったが、見舞いに来たハーミドを気に入り「この男なら私たちに十分よ」と第一印象を述べた。しかし、彼女は回復することなく、時を経ず死んでしまう。母を失ったショックでファウジアは寝込み、高校の卒業試験も受けずじまいとなった。

半年後やっと気を取り直し、卒業試験の追試に合格。18歳の誕生日を前に、大学受験の準備クラスに通い始めた。大学で医学を学び、将来は医者になるのが夢だった。そのクラスの帰り道、ハーミドがファウジアを出迎えるようになり、二人はようやく言葉を交わし始めた。

「当時、戦いは静まる兆しを見せていた。異なるムジャヒディーンの派閥が仲裁し合って、お互い合意を探り始めた。違う派閥が違う場所を制圧してカーブルは相変わらず分裂都市だったが、彼らはお互い交渉を始めた。新憲法の草案作りも開始した。内戦が終わりに近づき、ブルハヌッディン・ラッバーニが大統領に指名された。これは良い兆しだ、戦争は過去のものになったと、多くの人が考えた。」

翌年、ファウジアは19歳になり、英語の単位を取得した。そして年齢を問わず女性たちにボランティアで英語を教え始めた。「何かを理解したとき生徒の目が光を放つのを見ることは私にとって驚くべき経験だった。すごく楽しかった。」続いて大学入試に合格。晴れて医者への道を歩み始めた。

「やがて戦いはますます散発的になり、ラッバーニ政府は平穏な状態を築いた。1995年の夏、和平合意が仲裁された。ヘクマティアールはラッバーニ政府内で首相の地位を得る代わりに武器を置くことを約束した。この合意を裏で促したのは、南部におけるターリバーンの勢力拡大だった。」

ターリバーンをよく知るものは誰もいなかった。知っていたとしても、アフガニスタンとパキスタンの国境地帯にあるマドラサといういくつかの宗教学校で学ぶ生徒だということくらい。そしてよく耳にするのは、彼らが白い衣装を身にまとい、“救済の天使”と自称しているとの噂だった。

ここで著者は、アフガニスタンの人々がターリバーンに何を求めたのかを説明する。やや長いがそのまま引用すると:

「カーブルで戦いが熾烈を極めたころ、比較的静かな州に住む人々は、無視されうち捨てられたと感じた。彼らのとてつもない貧しさは、混乱の中で増大しこそすれ、消え去ることはなかった。彼らが必死で求めたのは、助けてくれるまともな政府だった。天使と自称するこの男たちがトラックの荷台に乗って村々に現れた。そしてコミュニティレベルで秩序と安全を立て直し始めた。まるで自己流の自警団のようだった。だが、略奪が怖くて店が開けられず、怖くて子どもを学校に通わせられない人々の住む場所を、この自警団が一つずつ安全にしていった。それだけで彼らは信頼を得るに値した。」

ムジャヒディーンの内戦は長すぎた。その和平合意は遅すぎた。彼らによるアフガニスタンの平穏は「蝶の命のように」はかなく、傷つきやすいものだった。そのつかの間の平穏な日々、20歳直前のファウジアは、恋愛し、教える喜びを知り、医者を目指して大学生活を始めた。次章ではそんな彼女の人生にいよいよターリバーンが登場する。

 

==========<野口壽一>==========(2022年6月15日)

梅雨のないアフガニスタン。砲弾やミサイルの雨が降りやまないウクライナに梅雨はあるんだろうか・・・
せっかくコロナも収まりかかっていた日本。ヨーロッパ戦争の影響で数十年ぶりの円安に揺れる。
それでも季節はきっちりとめぐり、紫陽花が美しい。
この花、同じ種類とは思えないほどバラエティーに富み、それぞれがボリュームいっぱいで存在感がある。しかしガクアジサイは可憐だ。中央に蕾のような小さな粒粒が手鞠のように盛り上がり、周囲を数片の花びら(実はガク)をもつ小花が取り囲む。それが額に縁どられた絵画にみえることからガクアジサイと命名されたらしい。小生には、暗闇の中で中央の火球から四方八方に花びらを散らす線香花火のようにみえる。あるいは髪にいくつも髪飾りを刺した少女の後ろ姿にみえる。
写真中央の粒粒部分をよく見ると、ひとつだけ小さな青い花が咲いている。それが雄蕊と雌蕊をもつ本当の花だという。周囲の小花は装飾花といってガクと中心の小さな粒(雌蕊)だけ。見栄えをよくするための品種改良が続けられた結果、このような複雑な形になったそうだ。
人間のあくなき欲と探求心のしからしむるところだが、この場合、許せる気がする。

 

==========<金子 明>==========(2022年5月30日)

(Fawzia Koofi 近影)
アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第6弾。

ファウジアのカーブルでの生活が再び始まった。家は以前と同じ、ソ連時代に建てられたマクロリアン(住処)と呼ばれる高級アパートの一画。第7章「内なる戦争」の冒頭では、当時の首都の混乱ぶりが紹介されている。

首都西部:ハザラ人の指導者マザリーが制圧
郊外のパグマン:サイヤフとその配下が制圧
郊外の別地域:ウズベク人の指導者ドスタムが制圧
城壁の南側:ヒズベ・イスラミの指導者ヘクマティアールが制圧
(このヒズベ・イスラミのナンバー2が新首相のコヒスタニだった)

「要は、政権を分かち合い、“北部同盟”の一員としてロシア人と戦った司令官たちがいま、権力を求めて互いに戦っていた。内戦が残虐さを増すにつれ、味方についたり裏切ったり、情勢は頻繁に変わった、まるで天気のように。」

特に政府内での処遇に不満なヘクマティアールは、高台から市内に毎日何十発もロケット弾を打ち込んだ。政府側だったグループが一夜のうちに反旗を翻し攻撃を仕掛ける。二、三日で何百人もの市民を殺した挙げ句、国営テレビで、あれは誤解だった、いまは政府を支持するとアナウンスする。「明日は何が起きるか、市民は全くわからない。多分、私たちの指導者たちも。」

そんなカーブルで、ファウジアは英語のレッスンに通い続けた。往きのタクシーがロケット弾に狙われるというのだから命がけだ。また、タクシーが拾えないと二時間も歩く。帰りも歩く。すると今度は、銃撃されたりレイプされたりの危険が生じる。夜アパートの前で待っていた母親はよく娘を叱った、「このコースがお前を大統領にしようが、どうでもいい。お前には大統領になって欲しいのではなく、生きていて欲しい。」

ファウジアが勉強好きなら、母親は信心深い。「キリングゾーン」と化した市街を歩いて、殺害された息子ムキムの墓に命がけで日参した。ある日の夕方、帰りが遅い母親を心配して、ファウジアは墓に向かった。「神経を研ぎ澄まして歩き続けた。この道の先、どこかに母がいると感じて。通りに死体が転がり始めた。撃たれたもの、爆破でこなごなになったもの。なきがらはまだ膨張が始まっておらず、新鮮だった。」

やっと拾ったタクシーには先客たちがいた。運転手が死体を拾い上げ、後部座席に乗せ、病院まで運んでいたのだ。「でこぼこを乗り越えるたび、乗客たちの手足が躍った。死んだもの、死にかけたものを見ると、家族のことを連想した。名も知らぬ犠牲者の顔が家族の顔に見えてくる、そんな自分の心と戦わねばならなかった。」

墓地に着くと、果たして母親はムキムの墓に覆い被さるようにして泣いていた。もと来た道をマクロリアンまで帰るのは時間的に危険だった。二人は墓地に留まり、すっかり暗くなってから夜闇に紛れて歩き出した。幸い近所に、かつて父親が所有していた家があった。そこに転がり込むと、管理を担っていた親類一家が迎え入れてくれた。こうして、どうにかその恐ろしい一夜を乗り切った。

母親が墓参りに便利だと主張し、母娘はその家で暮らすようになった。すると、ロケット弾が街を破壊するのを窓から眺めるのがファウジアのつらい日課となった。青い家は青い塵に、ピンクの家はピンクの塵に、瞬時に姿をかえ空に舞い散るというすさまじさだ。

中でも工芸学校の図書館の焼失は、彼女をひどく悲しませた。かつてロシア人が建てた施設で、「いまでも高校を出た若い多くの学生が集い、コンピュータ科学、建築、工学を学んでいた。あのマスードも学んだ学校だった。」

内戦は終わりが見えず、首都に住む知識人や技術者の多くはパキスタンに向かった。「彼らは不安な生活に備えて、衣服、書類、宝石を車に詰め込み、しっかりと戸締まりをし、戦いが静まった隙に、街から逃げ出した。車に乗るのは夫と妻か妻たち、そして子どもたち。大家族の一員である年寄りや遠い親戚たちは、命を賭けて残された家を守るのが定めだった。」

やがて冬が来ると、「世界がアフガニスタンへの関心を失い始めた」とファウジアは感じた。「西側はソ連の敗北と帰国に満足したようで、アフガニスタンについてそれ以上を知る必要などなかった。しかし、ムジャヒディーンが権力をめぐって戦い、やったりやり返したりを繰り返し、近隣国家と協定を結んでいたまさにそのときに、アフガニスタンのどこかで新たな勢力が育っていた。国の南部にあるマドラサと呼ばれるいくつかの宗教学校で育っていたある動き。それが後に、アフガニスタンのみならず、世界中を震撼させることになる。」

当時、ファウジアはやっと17歳。クーフ村、カーブル、ファイザバード、ヤフタル、カーブルと流転し、身をもって経験してきたアフガン内戦は、このあと新勢力「ターリバーン」の登場で新しい局面を迎える。

 

==========<野口壽一>==========(2022年5月30日)

ありがたいことに、『アフガン・ニュース・メール』を発行するようになって読者の方から思いもかけないありがたい情報をいただく機会が増えました。そのひとつに、ウクライナ支援に関する知見がありました。
ロシア軍はオデーサ攻略にむけて海上封鎖しています。小麦やヒマワリの種など農作物輸出を外貨獲得の主な手段としているウクライナにとって海路がふさがれるのは大きな痛手となります。兵器や銃弾など軍需品の支援は短期的に必須ですが、並行して経済活動を維持しないと長期戦になると国がへたってしまいます。ロシアの侵攻でウクライナのGNPはことし半分以下になるだろうと予測されています。陸路をもっと広げられないのだろうかと心配していたら、欧州委員会が、ウクライナの農産物を支援する「連帯レーン」を設置すると発表したそうです。(https://ec.europa.eu/commission/presscorner/detail/en/ip_22_3002
同委員会は「緊急時の解決策だけでなく、ウクライナのインフラストラクチャをEUのインフラストラクチャとより適切に接続および統合するための中長期的な対策にも対応」する、としています。さらに「ウクライナとEUの間の国境通過を緩和するためのEUとその加盟国による即時の努力にもかかわらず、何千台ものワゴンと大型トラックがウクライナ側の通関を待っています。ワゴンの現在の平均待機時間は16日ですが、一部の国境では最大30日です。より多くの穀物がまだ貯蔵されており、輸出の準備ができているウクライナのサイロに抑えられています。課題の中には、鉄道軌間幅の違いがあります。ウクライナの貨車は、ほとんどのEU鉄道網と互換性がないため、ほとんどの商品は、EU標準軌に適合する大型トラックまたは貨車に積み替える必要があります。このプロセスには時間がかかり、国境沿いの積み替え施設はほとんどありません。これらの障害に対処し、連帯レーンを設定するために、委員会は加盟国および利害関係者とともに、短期的に以下の優先行動に取り組みます」としてさまざまな具体的計画を発表しています。
軍事行動は国土を破壊しますが、欧州委員会の「連帯レーン」はウクライナ国民の自衛戦を支えるだけでなく、戦後復興につながる明るい話題です。
このような目立たないけれど重要な情報・話題をもっともっとお伝えしたいと思います。読者のみなさんのますますのご協力をお願いいたします。

 

==========<金子 明>==========(2022年5月16日)

(Fawzia Koofi氏 近影)
アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第5弾。

ファウジアがカーブルで過ごした「最も幸せな子ども時代」の3年間(1986年~1989年)とはアフガニスタンにとってどんな時期だったのか。今回はまず巻末の年表を確認する。

1986年:「米国がムジャヒディーンにスティンガーミサイルの供給を開始。ソ連の攻撃ヘリを撃墜するために使われる。ソ連が後押しする政権のトップはバブラク・カルメルからモハマド・ナジブラーに交代。」
1987年:「アフガニスタン、ソ連、米国、パキスタンが平和協定に調印し、ソ連軍が撤退を開始。」
1989年:「ソ連軍の撤退が完了。しかしムジャヒディーンがナジブラーを倒そうと攻勢に出て、内戦は継続。」

こうした流れを経て1990年代が始まった。今回紹介する第5章「再び村の少女」で、ファウジアは16歳となっている。休みを利用して母親とバダフシャーン州の州都ファイザバードに来ていたとき、ラジオが事件を伝えた、「国外逃亡を図ったナジブラー大統領を警察が逮捕した」と。翌日、ファイザバードを囲む山々で銃撃音がこだました。撃ち合っていたのは政府軍とムジャヒディーン。火器で勝るムジャヒディーンは、その残虐さも手伝い政府軍を圧倒した。そしてわずか2日後に新政府を打ち立てた。

山から降りて役場を占拠したムジャヒディーンの姿はファウジアを驚かせた。「長年、山岳地帯のキャンプで、わずかな食料を分け合い、毎日戦いに明け暮れていた彼らは、兵士らしい素敵な制服姿ではなく、ジーンズにスニーカーという身なりだった。」

娘を持つ親たちはレイプを怖れて子どもを学校にやらなくなり、ファウジアも自衛のためブルカをまとった。翌日カーブル空港が閉鎖され、彼女はファイザバードの叔母の家に足留めされた。ラジオが「学校は開いている、女子も登校せよ」という新政府の檄を放送し、ファウジアはファイザバードの学校に通うことになった。

1か月が過ぎた頃、一人のムジャヒディーン戦士が叔母の家の戸口に現れた。ナディールという名の異母兄で、ファウジアの母親にとっては、彼がロシア兵と戦うと告げてクーフ村を出て以来15年ぶりの再会だった。ナディールはクーフ村への軍事物資の補給を監督する指揮官になっていた。彼の地位は家族の安全を守るのには十分だったが、たまたまファウジアを見初めた「ファイザバードにいる兵士が彼女を強制的に妻にすることは拒めない」ため、町から逃げ出すことを提案した。

避難場所はヤフタル地区の村にあるナディールの家だ。彼はその日のうちに2頭の白馬を調達し、2人でファイザバードを後にした。初日の夜、泊めてもらった村でファウジアはカルチャーショックを受ける。「村の女性と話すうち、彼女たちの手の汚れに気づいた。長くきつい畑仕事で泥にまみれ、ろくに風呂にも入っていない。僻地の貧農が着る粗末な服。驚いてはいけないと思いつつも、時間を遡ったような感覚を拭い去れなかった。」

こんな体験をしながら、馬の背に幾日も揺られてたどり着いた村で新生活が始まった。テレビもラジオも学校もなく、夕食後7時には床につく。茹でた肉とナーンだけの素朴な食事はやがて喉を通らなくなり、体重が減り始めた。ふと耳にしたカーブルに残る兄ムキムの殺害の噂は彼女の心をひどくかき乱した。

ファウジアが村で約1年を過ごしたころ、カーブルの情勢が安定してきた。そこでファイザバードを越えて一気にカーブルにいる兄のもとに戻ることになった。ファイザバードから空路クンドゥスへ。そこで母親と合流し、カーブルまでは約300キロのバスの旅だった。その道は険しく、今でも有名な陸の難所である。夕方になってやっとカーブル近郊までたどり着いた。

待っていたのは大渋滞。AK47をかついだ兵士がバスに乗り込み運転手に告げた、「新政府の首相にコヒスタニ司令官が選ばれた。その車列を通すため道路をすべて閉鎖している」と。ソ連時代でもこれほど大がかりな道路封鎖はなかった、要人の警護にそこまで気を遣うのか、とファウジアはムジャヒディーンの政治力をいぶかった。

兄は首都警察の長官に出世していた。ソ連が開発した高級団地群の一画に暮らしており、母子はそこへ身を寄せた。歓迎した家族の中にムキムの姿はなかった。そして、ファウジアは彼が何者かによって殺されたと知った。「わたしたちは皆泣き崩れた、どうして?と。どうして、こうも善良で強靱な若者が、こうも卑怯な手口でわたしたちから奪われたのか?わたしたち家族の最も明るく輝く星が、またひとつ逝ってしまった。」

最後に、この間の年表を確認しておく。
1991年:「米国とソ連が、それぞれムジャヒディーンとナジブラーへの軍事援助の停止を同意。」
1992年:「抵抗勢力がカーブルに迫り、ナジブラーが失墜。民兵たちは互いに覇を競う。」
1993年:「ムジャヒディーンの各派による新政府内で、タジク人のブルハヌッディン・ラッバーニが大統領就任を宣言。」

こんな時流の中で、「村の少女」から再び首都カーブルに戻ってきたファウジアは、最愛の兄の死を悼む間もなく、内戦のまっただ中にその身を置くことになる。

 

==========<野口壽一>==========(2022年5月16日)

5月10日バイデン政権はウクライナがらみで「武器貸与法」を成立させた。ちょうどそのとき『誰が第二次世界大戦をおこしたのか』(渡辺惣樹)の「武器貸与法」の章を読んでいたときだったので驚いた。1941年にアメリカがイギリスに当時の金で310億ドル、ソ連に110億ドル分の武器貸与を行った、と書いてあった。アメリカのこの決断によって、ナチスドイツに追い込まれていたイギリスとソ連は息を吹き返し、反転攻勢に転じたのだった。特に、レニングラードまで攻め込まれて息絶え絶えになっていたソ連にとっては「壁紙まで煮て食べた」というエピソードまである900日にも及ぶ都市包囲をはねのける起死回生の決定打となった。
渡辺本によると武器貸与法とは「アメリカ防衛に役立つと考えられる場合には外国政府に、旧式新式を問わずあらゆる武器を、ほぼ無制限で供給できる権限を大統領に与えるもの」。今回のバイデンのものと同じである。この支援を要請していたチャーチルの言葉が絶妙だ。「我々は絶対にくじけないし、闘いに負けない。ただし、そのための道具(武器)が必要だ。それを提供してくれれば、自分たちで仕上げの仕事はする。」まるでゼレンスキーの言葉だ。チャーチルの強気は、ルーズベルトがイギリスをドイツにけしかけたことを知っていたからだ、と渡辺は書いている。これもまた、ゼレンスキーの強気の理由と同一だ。
アメリカ(とイギリス)はウクライナへの武器支援に全力をあげている。東欧に残存する旧ソ連の武器を根こそぎウクライナに送り、提供した東欧にはアメリカの新品を買わせる寸法だ。イギリスはそのためにソ連製武器の買い集めに奔走している。NATO諸国は新規輸入のための軍事費の増額を決めている。
『ウエッブ・アフガン』では、ソ連がアフガンに侵攻したのはアメリカ(ブレジンスキー)の罠にソ連がはめられたからだと知っていたので、ウクライナにプーチンが侵攻した時「罠にかかったプーチン」と論じた。
今回は、アメリカとウクライナは2014年のクリミア併合の失敗を繰り返さないために十分な準備をしたうえで、バイデンは「アメリカは参戦しない」と誘いをかけたのだった。
ルーズベルトに強気で接したチャーチルの役目をゼレンスキーは立派に果たしている。アメリカの軍需産業はとてつもない好景気に沸いている。
歴史は繰り返すというけれど、これほどわかりやすく繰り返されるとは信じがたい。初回の「武器貸与法」がナチス・ドイツの息の根を止めたように、二度目の「武器貸与法」がプーチンの暴挙を止めるよう祈りたい。

 

==========<金子 明>==========(2022年4月25日)

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第4弾。今回紹介する第4章「逃走」では、父親アブドル・ラーマンが殺害されたあとの家族の逃避行がまず描かれる。

アブドルの死後幾日もたたないうちに、ムジャヒディーンは彼の遺族を捜索し始めた。最初は昼間に。ファウジアたちが急いで山に逃げ、岩陰から見守る中、彼らは屋敷にあったラジオ、家具、壺や鍋などを略奪し山へと戻った。

二度目の襲来は二三週間後の真夜中だった。屋敷を出て叔父の家の屋上で寝ていた一家は、ライフルの銃床で叩き起こされた。夜襲をしかけたムジャヒディーンは「怒鳴り叫んでいた。アブドル・ラーマンの息子たちはどこだと。」ファウジアの兄ムキムは当時6歳。見つかれば殺されるところを、隣家の屋上に飛び移り、女のスカートに潜り込んで逃げおおせた。

その代わりに共に16歳だった姉と義姉が捕まった。屋根から引きずり下ろされ、屋敷へと連行された。ファウジアたちが屋上から見守る中、「二人はピストルの吊り紐で打たれ、ライフルの銃床で殴られた。彼らはしつこく、武器の隠し場所を言えと脅した。」だが、姉は銃剣で胸をつかれ出血しても、口を割らなかった。

この蛮行に抗ったのは屋敷の庭にいた番犬のみ。鎖を引きちぎって男たちに噛みつこうとしたが、あっさり撃ち殺された。彼らは二人の少女を夜明けまで殴り続け、やがて祈りのため山へと戻った。

二日後、彼らがまた現れ、まだ10代だったファウジアの異母兄を脅して武器のありかを吐かせようとした。とうとう村人は立ち上がり、ムジャヒディーンにメッセージを送った。次に来たら抵抗する、女たちを守るために、シャベルも斧も使える物はなんでも使うと。返事が来た。「目的は村ではない。アブドル・ラーマンの家族の死だ。」

翌朝早く、ムジャヒディーンは村に刺客を放った。母とファウジアは牛糞の山に潜って、目前に来た敵をかわした。彼らの姿が消えた隙に、一家5人(母・二人の兄・姉・ファウジア)が集まり、逃走が始まった。

谷底を川に沿って逃げるのを、刺客が負う。足の遅い4歳児のファウジアを指して姉が叫んだ。「その子を川に投げないとみんな捕まって死ぬ。さあ、投げて。」母親はファウジアを持ち上げたところで思いとどまった。そして彼女を背負って走り出した。

今にも捕まって母親の背中から引き剥がされる・・・ファウジアが恐怖にさいなまれていたとき、一行は「突然、一人のロシア人と出くわした。」

軍服を着た金髪の兵士だった。敵はきびすを返して逃げていった。5人は谷に住む教師の家に二週間かくまわれた。やがて州都ファイザバードで警察署長を勤める兄のもとにクーフ村の惨状が伝わった。彼は谷までヘリコプターを飛ばし、一家を救い出した。

こうして生きのびた村の少女はファイザバードで暮らし始めた。7歳になると学校に入学。テレビで見たサッチャーやインディラ・ガンディーに憧れるようになった。11歳の時、兄の昇格によって一家は首都カーブルへ。黄色いタクシー、トロリーバス「ミリー」を操る女性運転手の青い制服、洋品店に飾られた最新のファッション、何百ものレストランから漂うバーベキューのかおりに驚いた。通ったハイスクールの同級生の家にはプールがあった。

ファウジアは「自由で明るく楽しい」3年間を首都カーブルで過ごした。生死をかけた修羅場をくぐり抜けた村の少女にとって、さぞや輝かしい思春期だったことだろう。そして、彼女は次のように第4章を締めくくる:
「しかし、より広い世界が再び、そんな私の小さな世界と衝突することになる。」

 

==========<野口壽一>==========(2022年4月25日)

▼ アフガニスタン、コロナ、ウクライナ、次々とおきる理不尽な事態で気持ちが晴れず社会全体がうつ状態になっている気がする。ゴールデンウィークが近づくが、子供たちや若者はどんな気持ちで休日を迎えるのだろうか。
▼ 後期高齢者一歩手前の団塊世代のひとりとして、ウクライナで命を惜しまず戦う国民の姿に、自由と独立を求めて戦っていたベトナム人民の姿を思い起こす。
▼ ウクライナ戦争について語る〝識者〟の中に、「ロシアが悪いのは大前提だが」といいつつウクライナ側の〝非〟をあげつらう人びとがいる。問題はそんなところにあるのではない。「ロシアが悪い大前提」、つまり、「他国の主権侵害」「力による国境の変更」「核兵器使用の恫喝」を許さない決意と闘いが、今、求められているのだ。それをやっているのがロシア=プーチンだ。
▼ 米英だってロシアよりはるかに多く侵略戦争をやってきた、ウクライナをけしかけて戦争させたのはアメリカのネオコンだ、とかの主張をする人もいる。まったくその通りだが、米英NATOなどは民間への誤爆や戦争犯罪については、たとえそれがトカゲのしっぽ切りであったとしても調査したり罰したり、賠償したりする。金子編集委員が連載したアフガニスタン・ペーパーズのような活動がアメリカにはあるし、それよりなにより、ベトナム戦争ではペンタゴン・ペーパーズを自分たちで公開に持ち込んだりして大統領を退陣に追い込んだりしている。〝民主主義陣営〟には戦争犯罪という概念も報道の自由もあるが、プーチン・ロシアにはその両方とも、カケラもないし、アメリカの仕掛けた罠に引っかかって先に手を出す脳なしだ。
▼  日本国憲法は、「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」と述べている。ロシアの行為は、この前提を否定するものだ。しかもそのような国際社会を保証するものとして自分たちがつくり存在させている国際連合を、常任理事国として否定しているのである。
▼ 憲法前文の最終行では「日本国民は、国家の名誉にかけて、全力をあげて崇高な理想と目的を達成することを誓う」と決意を述べている。憲法9条があろうとなかろうと、この最終行の決意を実行しなければ、日本国憲法の存在価値はない。
▼ 国際社会が「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努め」ないのであれば、日本国憲法の前文は無効となろう。ウクライナ戦争は、日本という国の存立の基本をも問う戦争なのだ。
▼ それは、帝国主義と植民地主義が歴史的に押し付けた社会的・経済的矛盾からの脱却過程で苦しむアフガニスタンのような国々に対して、いわゆる〝先進諸国(=先進帝国主義国)〟が償わなければならない罪悪を、日本も背負っているという自覚と一体のものなのだと思う。
▼ うつ状態から脱するためには、うつの症状を解剖しうつの原因を突き詰め、自己治癒力を発揮して治癒するしかない、と覚悟した。

 

==========<金子 明>==========(2022年4月12日)

今回は、アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)を紹介する第3弾。前回紹介した第2章「ただの少女」のラストにアフガン現代史の重大事件「四月革命」の解説がある:

「1978年4月28日、共産主義のアフガニスタン人民民主党(PDPA)がアフガニスタン政府から政治権力を奪い取った。ペルシャ歴では1年の第2の月をダリ語で“サウル”と呼び、その月に蜂起が起こったことからサウル革命(訳注:原文はthe Saur Revolution、日本語では四月革命)と呼ぶ。革命後に任命された政府はソビエト寄りの傀儡で、このときからソビエトのアフガニスタン支配が事実上始まったとされる。権力につくや、PDPAはソビエト共産主義の政治課題を実行に移した。国家無神論への道に邁進し、無謀な農地改革を実行して、事実上全国民を憤慨させた。国旗も、イスラームの伝統色である緑を捨て、ソビエト連邦の赤旗のコピーまがいとし、この保守的なイスラーム国の国民を怒らせ侮辱した。またPDPAは何千人もの伝統的エリート層、宗教的支配者層、そして知識人たちを拷問し、殺害した。」

このページを受けて、第3章「恐るべき喪失」が始まる。バダフシャーン州の風景の息をのむような美しさと、そこで起きる悲惨な出来事のギャップがすさまじい。少女ファウジアが3歳半、四月革命が起きた1978年の話である。

ファウジアの父アブドル・ラーマンは革命後も国会議員を続けた。すると新政府は彼に「失敗すれば死罪」という重大任務を与えた。それは、バダフシャーン州に新たに勃興した反政府勢力ムジャヒディーンの懐柔であった。地元に戻ったアブドルは州の各地から数百人の仲間を集め、先頭に立って馬上山岳ルートを行く。目指すはパミール山地にある反乱軍の陣地だ。

「肥えて茂った谷が、やがて岩肌へと姿を変える。それは光に照らされ、青から緑、さらにオレンジがかった黄土色に輝く。そして雪に覆われた頂がそびえる高原にたどりつく。」

その美しい高原で待っていたのはライフルを持った3人のムジャヒディーンだった。さらにどこかに援軍も隠れていたようだ。ライフルを撃って丸腰の一行を蹴散らし、落馬したアブドルを捕虜にした。2日後、彼は処刑されうち捨てられた。さらに、亡骸を回収に来る者も撃ち殺す、とムジャヒディーンは脅した。だが、アブドルの姉一家が勇気を振り絞って山に登り、探し出して連れ帰った。そして翌朝、葬儀。

「ひげをたくわえた老人の灰色の頭、白いターバン、緑の上着。みなが庭に座り、赤ん坊のように泣いた。父は屋敷の裏手、小高い一画に埋葬された。メッカと、彼がそれほどまでに愛したクーフの谷にその顔を向けて。」

幼くして親を亡くす子はいる。だが、その頭の一部が銃撃で吹っ飛んでいるのを見るのは、どうだ。戦争が長引く中、すべてのアフガンの子どもたちは平和を知らない。そんな子どもの1人だったファウジアが、このあとどんな人生を送ることになるのか。彼女が生き延びて、この本を書き残してくれたことに感謝しつつ、読み進めて行きたい。

 

==========<野口壽一>==========(2022年4月12日)

ウクライナでの虐殺事件の報道に接して、これまで戦争被害者への賠償金がどうなっていたのか気になった。ウクライナがロシアから賠償金を取るには、なにがなんでも勝たねばならないのだが。

村ごと焼き払う虐殺、絨毯爆撃、ナパーム弾、枯葉剤散布による国土破壊、多数の奇形児等々、誰かの言葉を借りれば「戦争犯罪のデパート」のようなベトナム戦争であれば、さぞかし多額の賠償金をアメリカに要求できるだろう、と思ったら、アメリカは一銭も払っていないという。ベトナム側が請求しなかったんだそうだ。

そういえば、中国も日本へ賠償を請求しなかったけど、北京空港はじめ多数のインフラ整備や製鉄事業など産業支援など多額の無償援助をしている。いろんなケースがあることが分かった。
そのアメリカだが、昨年夏、カーブル空港からの撤退の際にISを攻撃したつもりでまったく無関係な民間人十人をドローン攻撃で殺害した事件があった。アメリカはこれを誤爆として認め賠償金の支払いを申し出たというが、金額は明らかになっていない。
一方イギリスは、そのアフガニスタンで2006~2014年に死亡した民間人289人について、計68万8000ポンド(約1億円)を支払ったそうだ。1人当たりの平均は2380ポンド(約36万円)。保証額の最低額は1万5800円で6頭のロバの群れを誤って射撃して死なせた補償金より少なかったという。人間の命の安さに驚く。ハイジャック事件の際に「ひとの命は地球より重い」と発言して超法規措置を発動した日本の政治家(福田首相)もいたっけ。

コソボ紛争中の1999年にアメリカ軍機が駐ユーゴスラビア中国大使館を誤爆したことがあった。このとき、中国人3人が死亡し死傷者総数は29名という大事件だった。アメリカは誤爆を認め謝罪したが中国政府は強い抗議を行っただけだったという。金銭的な賠償がなされたかどうかはわからない。
戦争被害・戦争犯罪への過去の賠償がどうなされたのか、命の値段はいくらだったのか、がぜん興味がわいた。

 

==========<金子 明>==========(2022年4月4日)

今回は、アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri)を再び紹介する。その第2章「ただの少女」では、ラーマン家の暮らしぶりが幼い少女ファウジアの目を通して描かれている。その中身はアフガニスタンの女性たちが当時いかに虐待されていたかのカタログである。

こと男女差別に関しては、革命も敗戦も‘人道国家’による占領も有効な対抗策とはなり得ず、50年や100年くらいで改まらないのはわれわれ日本人も知っての通り。ましていまや復古主義のターリバーンの治世下である。現代アフガン女性たちの怨嗟の一端を知る上でも重要と思い、以下に列記する:

・生まれたのが女児なら父親がわざわざでばって赤ん坊の顔を拝みに来ることはない。少なくともこれまでのラーマン家では。
・女は人生の半分以上を台所ですごし、そこで眠り、料理し、子育てする。
・男は家では、毎晩別の妻と寝る。
・シャリア法では「全ての妻を平等に扱うべし」と定められている。が、男は生身だ。かかる掟の存在が何を意味するかは推して知るべし。
・認められる妻は4人まで。だがもっと欲しい。抜け道はある。古いのを「カリファ」にする。あのカリフと同じ語源かな。カリファは経済的には保護されるがセックスレスとなり、家族内にとどまる。ファウジアの母ビビが第二夫人にしてヘッドワイフだったのは、第一夫人がカリファ化したのもその理由だろう。
・ただただ絨毯織りの技術をほかの妻たちに伝授させるため、蒙古系の妻をめとるのもアリ。
・夫は怒ると妻を追いかけ回し、とっつかまえて殴ってよい。意識がなくなるまでも。また勢い余って髪の毛をガバッと引きむしってもよい。
・耐えられなくなって実家に逃げ帰る妻もいるが、たいがいその父親が夫のもとに送り返す。
・妻殴りは規範的行動で結婚生活の一部。娘は母が殴られるのを見て育ち、祖母も殴られたことを知り、自分がやがて殴られるのを予見する。
・いやなら夫と離婚できるが、その申請は妻の兄弟がなさねばならない。離婚すれば我が子とはもう会えない。
・妻が実家の兄弟に虐待を訴えることがある。しかし、それを知った夫は、またさらに殴る。ただその妻の家事能力が高ければ(利用価値があれば)すこし優しくして様子を見る。
・男児の誕生日は祝うが、女児の誕生日を祝うことはない。
・女児は学校に行かない。女児はやがて結婚して出て行き、投資した教育費が家計に還元されないから。
・ファウジアの17歳の兄は12歳の少女をめとった。セックスのあと姑のビビはまだあどけない嫁を入浴させ、傷ついた体をいやしてやった。

壮絶な虐待の一覧表である。著者はそれに「これが彼女たちの人生で、女の運命だった」とコメントする。そして第2章を締めくくる:
「母が12歳の義姉にできたことは、おそらくただ次の三つ。慰めようと努めること、まず軽い雑用をやらせること、さらに諸先輩と同じく次のように考えること。つまり、この娘もやがて成長し、疑問も不平も持たず、これを自分の運命として受け入れるだろうと諦めること。それが文化による謀略で、すべての女性を縛り付けていた。そして、誰もそれに異を唱えなかった。」(下線、原著者)

今回「世界の声」で紹介したジェハンギル氏の記事では、まさにいま「異を唱え」ている女性たちについて触れている。たとえ自らの生活に忙殺され具体的には何もできなくても、おぼえておくことはできる。ニュースがどんなにあふれても、決して「キエフ」を「キーフ」と呼び直しただけで満足し、忘れ去ってはならない。

 

==========<野口壽一>==========(2022年4月4日)

<視点025>の「ソ連もアメリカの罠にかけられていた」の節で、罠を仕掛けたズビグニュー・ブレジンスキーのフランスの雑誌とのインタビューを紹介しました。しかしその情報は孫引きでした。いま、そのオリジナルを見つけたので紹介しておきます。アメリカがアフガニスタンや中東で育てたイスラム主義過激派のテロに苦しむフランスやヨーロッパに対してブレジンスキーの自信満々な冷酷さと無責任ぶりがひときわ目立っています。
1998年1月15日号のヴォルテールネットワーク(Voltaire Network: https://www.voltairenet.org/article165889.html)です。このメディアはフランスの知識人Thierry Meyssanの主導で作成された、国際関係の分析に特化した非同盟の報道ネットワークとの自己紹介がありました。

Le Nouvel Observateur:CIAの元局長Robert Gatesは、彼の回想録で、アメリカのシークレットサービスは、ソビエトの介入の6か月前にアフガニスタンのムジャヒディンを支援し始めたと書いています。当時、あなたはカーター大統領の治安問題に関する顧問でした。それで、あなたはこの場合重要な役割を果たしましたか?
Zbigniew Brzezinski:はい。公式には、ムジャヒディンへのCIAの援助は、1980年、つまり、1979年12月24日にソビエト軍がアフガニスタンに侵攻した後に始まったことになっています。しかし、秘密にされていますが現実はまったく異なります。カーブル親ソ政権への反対者へ秘密支援行う指令にカーター大統領が最初に署名したのは、1979年7月3日でした。そしてその日、この援助はソビエトによる軍事介入につながるだろう、と大統領にメモを渡しました。
Le Nouvel Observateur:そのようなリスクがあるにもかかわらず、あなたはその秘密作戦に賛成したのですか。あなたはソビエトが戦争に参加することを望み、それを挑発したのですか?
Zbigniew Brzezinski:私たちはロシア人に介入を強要したのではありません。彼らが介入する可能性を意図的に高めたのです。
Le Nouvel Observateur:アフガニスタンでの米国による秘密の干渉と戦うために軍事介入したとのソ連の主張は正当化したとき、誰も彼らを信じなかったのですが、真実だったわけですね。あなたは今、その行為を後悔しますか?
Zbigniew Brzezinski:なぜ後悔する必要があるのですか? この秘密工作は素晴らしいアイデアでした。それはロシア人をアフガニスタンの罠に誘い込む効果がありました、あなたは私に後悔させたいのですか? ソビエトが正式に国境を越えた日、私はカーター大統領に、この事実の本質について次のように書きました。「われわれは今、ソ連をベトナム戦争に引き込んだのです。実際、モスクワはほぼ10年間、政権にとって耐え難い戦争、士気阻喪、そして最終的にはソビエト帝国の崩壊につながる紛争と戦わなければなりませんでした。
Le Nouvel Observateur:イスラム原理主義を支持し、将来のテロリストに武器とアドバイスを与えたことを後悔していませんか?
Zbigniew Brzezinski:世界史の観点から最も重要なことは何ですか? ターリバーンまたはソビエト帝国の崩壊? 若干のイスラム主義者を刺激したこと? 中央ヨーロッパの解放と冷戦の終結?
Le Nouvel Observateur:若干の? そんなことはないです。繰り返しますが、今日のイスラム原理主義は世界的な脅威になっています。
Zbigniew Brzezinski:ナンセンス。西側はイスラム主義に関してグローバルな政策をとるべきだと言われていますが、それはばかげた考えです。愚かです。グローバルなイスラム主義などありません。イスラム教を合理的に見てごらんなさい。これは、世界で最初の15億人の信者を持つにいたった宗教ですよ。しかし、それは、原理主義のサウジアラビア、穏健なモロッコ、軍国主義のパキスタン、親西エジプト、または世俗化された中央アジアという風に、何か共通したものがありますか? キリスト教の国々が団結して対抗すべきものはなにもありません。
(by ZbigniewBrzeziński, VincentJauver)

 

==========<野口壽一>==========(2022年3月28日)

英エセックス大学の経営学教授 Peter Bloomさんがロシアのウクライナ侵攻で軍需企業が大儲けしているとこんなことを言っています。(https://courrier.jp/news/archives/282803/#paywall_anchor_282803)
「(この戦争で)軍需産業がおよそ5000億ドルの武器を両陣営に供給し、かなりの利益を得ようとしているのだ。
この戦争における防衛支出は既に膨大なものとなっている。EUは4億5000万ユーロの武器を購入し、ウクライナに輸送した。アメリカは90トン以上の軍需品と、昨年だけでも6億5000万ドルの援助をしたことに加え、さらに3億5000万ドルの軍事支援を約束した。
まとめると、現時点(原記事掲載時の3月9日)で、アメリカとNATOは1万7000発の対戦車兵器と、2000発の防空ミサイル「スティンガー」を供給している。イギリス、オーストラリア、トルコ、カナダを含め、世界的な国家連合もまた、ウクライナのレジスタンスに積極的に武器を供給している。これが世界最大級の防衛関連企業に、多大に貢献しているのだ。
レイセオン社はスティンガー・ミサイルを製造し、さらにロッキード・マーティン社と共同でジャベリン対戦車ミサイルを製造した。これらはアメリカやエストニアのような国に供給されている。
S&P500指数が1%下がっているにもかかわらず、レイセオン社とロッキード社のシェアは約16%上昇し、ウクライナ侵攻以来、それぞれ3%上昇しているのだ。
また、イギリスとヨーロッパで最大の防衛関連企業、BAEシステム社は26%上昇した。売上高世界トップ5の防衛関連企業のうちでは、主に航空路線への影響が原因で、ボーイング社のシェアだけが下落している。」そして「戦争で儲かる国がある」として、
「西側諸国のトップ兵器企業は戦争に先駆け、利益が増大しそうであることを投資家たちに報告していた。アメリカの巨大防衛関連企業、レイセオン社の最高経営責任者であるグレゴリー・J.・ハイエスは、1月25日、以下のように業績発表を行っている。
「先週UAEで起きたドローン攻撃に注目する必要がある……そしてもちろん、東ヨーロッパの緊張、南シナ海の緊張、こういったことはすべて、現地における軍事費のいくらかを圧迫している。そこから利益を獲得できるであろうことを、我々は最大限に期待している」
その当時でさえ、世界的な防衛産業は、2022年に7%成長することが予想されていた。アメリカの防衛コンサルタント会社、エアロ・ダイナミック・アドヴァイザリー社の最高経営責任者であるリチャード・アブラフィアが言うように、投資家にとって最大のリスクは「すべてがロシアの砂上の楼閣であると明らかになり、脅威が消滅することである」。
そのようなことが起こらなかったため、防衛企業はいくつかの方法で利益をあげている。交戦中の国に直接武器を売りつけるだけではなく、ウクライナに武器を供与している他の国に武器を供給しているのだ。軍事費の増強を宣言しているドイツやデンマークといった国からの追加要請もあるだろう。
この産業の“世界のリーダー”はアメリカであり、2016年から2020年にかけて37%の兵器を売っている。次がロシアで20%、フランスが8%、ドイツ6%、中国5%と続く。
だが武器輸出トップ5のこれらの国以上に、この戦争で利益を得る可能性がある国がいくつかある。トルコはロシアの警告に逆らい、ハイテク・ドローンなどの武器をウクライナに供給することを宣言した。ハイテク・ドローンはトルコの防衛産業に大きく寄与しており、世界市場の1%ほどを供給している。
世界中のセールスの約3%を占めるイスラエルでは、現地の新聞が「ロシアの侵攻の最初の勝者は、イスラエルの防衛産業である」と称えた。
ロシアに関して言えば、2014年に遡る西側諸国の制裁への対応として、自前の軍需産業を打ち立てている。ロシア政府は巨大な輸入代替計画を作成し、国外の兵器と軍事知識への依存度を縮小し、さらには国外への武器輸出を増大させようとしているのだ。
世界第2位の武器輸出国として、ロシアは世界中の顧客をターゲットにしている。同国の武器輸出は2016年から2020年の間に22%まで下落した。だがその主な原因は、インドへの輸出が53%減少したことだ。時を同じくして、中国、アルジェリア、エジプトといった国への輸出は劇的に強化されている。
アメリカ合衆国議会予算報告書によると、「ロシアの兵器は高価ではないだろうし、西側諸国の兵器システムと比べると操作やメンテナンスが簡単だ」という。ロシアの最大の兵器企業はミサイル製造のアルマズ-アンテイ社(売上高66億ドル)、ユナイテッド・エアクラフト社(46億ドル)、ユナイテッド・シップビルディング社(45億ドル)などだ。」
そして結論として、「人殺し」に依存した経済基盤を放置してはならない、と次のように締めくくります。
「プーチンの帝国主義に直面して、成し遂げられることには限界がある。ロシアから長年の脅威に直面しているウクライナが、武装解除するという可能性はほとんど見出せない。
しかし、状況を沈静化する努力はいくつかなされてきた。たとえばNATOは、飛行禁止区域を設けるようにというウクライナ大統領ウォロディミル・ゼレンスキーの要求を、公然と拒絶した。
だがこうした努力が、兵器レベルを向上させようとする双方の巨大な経済的特権によって蝕まれている。
西側諸国とロシアが共有しているのは、大規模な軍産複合体だ。どちらの陣営も巨大兵器関連企業に依存し、その影響を受ける可能性がある。あるいは実際すでに、影響下にある。こうした影響力の強さはドローンや、洗練されたAI制御の自動兵器システムにいたるまで、新たなハイテク攻撃能力によって推進されるのだ。
最終的なゴールが事態の沈静化と持続可能な平和なら、「軍隊による攻撃」に依存した経済基盤を真剣に批判していく必要性があるだろう。
ロシアの兵器産業が原材料の入手をしづらくし、軍備に再投資するために外国へ商品を売ることがより難しい状況にすることで、アメリカは直接的な制裁を加えるとした。ジョー・バイデン大統領によるこの声明を、私は歓迎している。
そうは言っても、これは西側諸国の防衛関連企業に商機をもたらすだけかもしれない。それによって、アメリカとヨーロッパの企業に一時的な真空地帯が残され、今後の競争がかなり優位になる。その結果、世界的な兵器開発競争が拡大し、新たな戦争に備えた大きなビジネス上の特権が創出されることもありうる。
この戦争の余波として、私たちは軍需産業の権力と影響力を制限する方法を探求するべきだ。それには、特定の武器の販売を制限する国際的な同意や、防衛産業を縮小しようとする国への国際的な支援、軍備費を増強させようとロビー活動をしている軍需企業に制裁を加えることなどが含まれる。より根本的には、さらなる軍事力の展開に対抗する運動が含まれるだろう。
もちろん、簡単な答えなどない。一夜のうちに達成できることでもない。しかし儲かる経済産業としての「兵器の製造と販売」をできるだけ多く廃止しなければ、永続的な平和が訪れることはない──私たちはこの事実を、国際社会の一員として認識することが必要だ。」

まったくその通り。

 

==========<金子 明>==========(2022年3月21日)

すっかり忘れていたが、昨日(3月20日)は地下鉄サリン事件が起きてから、27年目の日だったという。もう四半世紀以上が経ったのかと感慨深いが、このサイトに関わっているいま、自分なりにあの日を回想してみようと思う:

当時私はテレビ朝日に派遣され夕方のニュース番組(蓮舫・宜嗣のステーションEYE)の製作にあたっていた。驚天動地だった神戸の大地震(1月17日)から2か月が経過し、報道局内の雰囲気も少し落ち着いていた。個人的には、番組立ち上げから2年勤めたその職場を3月いっぱいで離れ、ちょこっと自主映画を製作する予定だったので(のんきだねえ)のんびりしていた月曜の朝だった。

市川の自宅に電話がかかって起こされた。「すぐに出てこい。地下鉄は止まっているのでお茶の水でハイヤーに乗れ」という。私を待っていたハイヤーのドライバーは道々「ラジオによると、霞ヶ関の駅では爆弾騒ぎらしいですよ」などと言っていた。

六本木でカメラクルー&丸川アナと合流し、地下鉄中野坂上駅に向かった。駅の周辺には警察官が大量にいた。胸に星が複数ついている年配の制服姿に「何が起きている?」と聞いたが、どうもよくわかっていない模様。地下に降りて駅構内を撮影したあと、他社のクルーも加わって駅事務所に突入し、駅長を囲んだ。なんだかんだと10分ほど話を聞いたのだが、「駅員が車両の床にこぼれた液体を拭き取った」そのモップが、駅長の背後に立てかけてあった。

続いて、被害者の多くが搬送された新宿にある医大の附属病院へ。治療を待つ男性が語った内容:「ドア横の席に座っていた男女がまず倒れた。おいおい、こんなところで心中かよ、と驚いたが、すぐに自分も気持ちが悪くなった。見ると、床には麦茶のような液体が入ったビニール袋が転がっていた。1個は破れ、もう1個は無傷だった。」

ひるころ局に戻って美術パートに麦茶とビニール袋による証拠物件の再現を指示し、編集を開始した。6時のオンエアなので、4時には試写。プロデューサーは内容については満足したが、試写終わりにこうコメントした、「カネゴンがそばに来ると目がチカチカする。」

ふうむ、残留したアセトニトリルによる副作用か・・・実はさっきから口の中にツバがたまるのよねえ。トレーナーとジーパンの上下だったので、繊維中になにやらよからぬものを含み込んでしまったのかしらん。そう言えば、病院でインタビューしているときに気づいたが、何人かの患者さんの体からは揮発性っぽい刺激臭が出ていたなあ。

やがて毒ガスのサリンが撒かれたとわかり、退社時に私は着ていたもの全てを脱ぐよう命じられた。しょうがないので、局にあった雨合羽を全裸の上に着て、電車に乗って帰宅した。翌日が春分の日だったので、それほど寒くなかったのはありがたかった。

そんな1日だったのだが、その前年の暮れにふと耳にしたうわさ話は、思い返すと心に刺さる。いわく、「ロシアにあるオウム運営のラジオ局がこのところ『終末が近い』と騒ぎ立てている。麻原は不治の病で余命幾ばくらしい。アリゾナのカルト教団よろしく集団自殺をやらかすのではないか。」これを聞いたとき、「勝手に死ねば・・・」と思うことなど微塵もなかったと言えば嘘になる。年が明けて大震災、その2か月後にこのサリン事件が起きた。やらかしたのは集団自殺ならぬ、殺人ガスによる都市型無差別テロだった。

 

==========<金子 明>==========(2022年3月14日)

2010年、アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏は自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri)を発表した。共著者のナディーン・グーリ氏についてはキンドル本上には紹介がないのでウェブで調べると、BBCとアルジャジーラで特派員を勤めたやり手のジャーナリストらしい。そのためか、英語の文章は簡潔で読みやすく、巻末の年表もありがたい。それによるとクーフィ氏が生まれた1975年はダウドのクーデターから2年後。78年にはそのダウドが殺され、翌79年暮れにソ連が侵攻してくる。なるほど彼女は戦争時代の申し子なのだ。

そして、バダフシャーン州で生まれた。さすがに地図の付録はないので再びウェブに頼る。すると、あの中国までひょろっと触手状に伸びた州ではないか。ちょっとした親近感。さらに細かい出生地は、バダフシャーンのダルワズ・クーフ地区というから、その右手に伸びる回廊部分ではなく、最上部にある一画だ。つまりアフガニスタンで最北に位置し、当時のソ連邦タジキスタンとの国境地帯である。「州都のファイザバードから今(2010年)でも車で3日かかる僻地の山岳地帯」と彼女が表現するのもうなずける。

物語はビビ・ジャン(美しい鹿)という名の女が8番目にあたる最後の子を放牧に訪れた山中で産み落とすところから始まる。夫はクーフ村で代々長老を務める一家の家長で、州を代表する国会議員アブドル・ラーマン。ビビ・ジャン自身もかつてクーフ村と対立した村の有力な家族の出身で、完全な政略結婚(第2婦人)だった。「結婚は家族、伝統、文化、恭順のため。それらすべてが個人の幸福よりも勝る。愛はめんどうを起こすだけ」というのが、この地域の山村の伝統だという。

持ち前の美貌と心配り、そして優れた能力で代議士一家の家事を取り仕切る立場(ヘッド・ワイフ)となったビビとはいえ、前年、夫が14歳の少女を7番目の妻として迎え入れたのには消沈した。その新妻はやがて男児(アブドルの第18子)を出産する。それを妊娠6か月のビビが介助した。「現代でも女は息子を授けてと祈る。息子を産むことだけで女には地位が認められ、夫を満足させられるから」と著者は解説している。

しかし、旅先の山で30時間におよぶ難産の末に生まれたアブドルの第19子は女児だった。気を落とし弱り切った母親は意識が朦朧とし、「青白く斑点だらけで小さくてふにゃふにゃの」赤ん坊を抱くこともなく、ただちに病に伏した。すると取り巻きは「村の文化では無でしかなく価値もない」女児などは外にほっぽり出し、数週間にも及ぶ放牧の旅を取り仕切るヘッドワイフの看病に専念した。

ひとびとが翌日になって女児の存在を思い出し室内に入れたとき、母親はようやく回復の兆しを見せていた。生まれた直後の丸1日、高温の外気で焼かれたにもかかわらず、10代まで残る顔のやけど跡だけを残して生き延びた我が子をビビは改めて見直した。すると彼女から最初の冷たさが消え去った。その子をぐっと抱きしめた母親は、以来激動のなか「お気に入りの娘」との絆を深めていく。

(「お気に入りの娘」第1章「昔の物語」より抜粋)

※ アフガニスタン全土の行政区地図は基礎データのページをご参照ください。

 

==========<野口壽一>==========(2022年3月14日)

● プーチン・ロシアのウクライナ侵攻は、アメリカのアフガニスタン侵攻、とくにイラク侵攻にそっくりです。アメリカは第2次世界大戦後、数々の侵略や他国への武力介入を山ほどやってき。だが、だからと言ってプーチンはロシアの侵攻を合理化することはできない。アメリカの産軍コンプレックスはアフガン→ウクライナ→新疆・ウイグル・台湾と緊張を作り出す長期プランを着々と遂行している。しかし、アメリカは国内に深刻な対立を抱え、また、経済力や世界における信用力においても長期衰退過程にあり、主敵である中国叩きもそうは思うように進むとは思えない。世界はますます危うさの度をましている。

● 最近のロシア国内からのニュースに接しているとまるで戦前の日本もこうだったのかと錯覚する。
・戦争を「特別軍事行動」と言い換える言葉の詐術の数々。
・自分らに都合の悪い情報はニセ情報。
・TV、ラジオ、新聞などでのプーチン崇拝。
・独自情報を流すメディアは解散。
・敵対者は暗殺。
・都合の悪い発言は個人のものであっても逮捕有罪化して弾圧。
・戦争支持、軍人激励の官製デモや行動への強制参加。
・経済制裁による生活苦には「勝つまで耐えろ」
・世界が反対しても唯我独尊。
親の世代からの伝聞や映像・書物でしか知らない日本の戦中が思いやられる。ただ、唯一違うのは、ロシア人民が戦っている、ということ。逮捕され、拘禁され、殴打され、職を失い、家族分断にさいなまれ、経済社会的に圧迫されても、街頭に出て、SNSで、さまざまな形態で「戦争反対」を叫び続ける人びとが全国にいる、ということ。
プーチンや世界が口をそろえて悪口をいうレーニンは、第一次世界大戦を終わらせるために自国の敗戦を主張してロシア革命を成功させ戦争を終わらせ平和宣言を発した。ロシアは「革命的祖国敗北主義」の伝統を持つ国。きっと、自分たちの力で自分たちの国を正しい道に引き戻すに違いないと信じたい。

 

==========<金子 明>==========(2022年2月28日)

このサイトの編集に関わるようになってキンドルで読む本が増えた。するとアマゾンさんは「しめた」とばかり、おすすめ情報をよこしてくる。半月ほど前に、カーター・マルカジアン著「アフガニスタンにおけるアメリカの戦争:ある歴史」(The American War in Afghanistan: A History/ Carter Malkasian/ Oxford University Press/ 2021)をすすめてきた。著者が、これまで読んできたアフガン本のようにジャーナリストではなく米軍関係者(将軍の政治アドバイザー)というのが気になり、立ち読みを始めた。サンプルで読めた第1章は序文だったが、さっそくそこに常々感じていた疑問をしっかり疑問ととらえ、うまく解説した一節にでくわした。

その疑問とは、米軍ともあろうものがターリバーンごときになぜ負けるのか?このサイトの常連ファテー・サミ氏によれば、米国らが仕組んだ陰謀とのことだが、それだけでかつての敗残者がかくも電光石火にリバイバルできるのか。サミ氏が当事者たるアフガン人であるため当たり前すぎて説明に及んでいない「何か」が、背景にあるのではないか。著者のマルカジアンはその点を以下のように記している:

ターリバーンが例示したのは、精神を奮わせる何か、闘いで自らを強力にする何か、アフガン人であることの意味に密接につながる何かが、存在することだ。簡単に言えば、彼らはイスラームのため、占領への抵抗のため、アフガン人たるアイデンティティーとして守り抜かれてきた価値のために戦った。外から来た占領国と手を結ぶ政府が、似かよった精神を奮い立たせることはなかった。政府は支持者を得られず、せいぜい頑張っても、数でターリバーンに勝るだけだった。政府がイスラームだと主張しても胡散臭かった。アフガニスタンでのアメリカの存在自体が、アフガン人であることの意味を踏みにじった。男女を突き動かし、自らの尊厳、宗教、そして故郷を守らせた。若者を戦いに挑ませた。ターリバーンを力づけた。アフガン軍とアフガン警察の意気を砕いた。ひとたび衝突するや、ターリバーンは怯まず殺し殺され、その気概は軍や警察を凌駕した。少なくとも大多数の軍や警察を。この本が総論として伝えたいのは、ターリバーンとアフガン人であることの意味の結びつきが、アフガニスタンでのアメリカの敗北には欠かせなかったということだ。

見落とせないターリバーンと「アフガン人であることの意味」との結びつき。それがアメリカ敗北の十分条件ではないが必要条件だった、と著者の論は続く。その視点に気づかされた瞬間、やるね!とワンクリックで全編を購入した。お代の約3千円は高いか安いか・・・いつかこの場でつぶやくネタにするので判断はそのときに。

さて、打ち負かしてから20年も駐留したと言うとことは、日本に当てはめると1965年まで駐留か・・・沖縄には1972年までいたし、出先機関の米軍基地は日本各地にいまも存在する。「日本人であることの意味」など考えなくても平和に暮らせるわが国は幸か不幸か。ただここへ来てコロナだ、ウクライナだ、とちまたは騒々しい。気を引き締めて2022年の春を迎えたいものだ。

 

==========<野口壽一>==========(2022年2月28日)

・ウクライナの首都の表記は日本語ではキエフ、英語ではKievと思っていたが、ロシア軍のウクライナ侵攻の前後から四六時中BBCとCNNを見るようになり、Kyivと表記されているのを知った。調べると、ウクライナ語ではクィイヴと発音されるらしい。「ウクライナの地名のカタカナ表記に関する有識者会議報告」(http://www.eb.kobegakuin.ac.jp/~keizai/v02/data/pdf/201912okabe.pdf)
・映画「戦艦ポチョムキン」で有名なオデッサはオデーサ、ハリコフはハルキウ、ドネツクはドネツィク、ルガンスクはルハンシクだそうだ。キエフをクィイヴと表記するのは現状ではまだなじまなので、キエフ、キーウ、キイフの3例表記を可とする、と提案されている。次の投稿で知りました。→ https://news.yahoo.co.jp/byline/obiekt/20220224-00283698
・今回、原稿を書くにあたって久しぶりに津田元一郎さんの『日本的発想の限界』(1981年、弘文堂)を読み返しました。<視点>「ウクライナとアフガニスタンの意外な関連-社会変革の意欲と外国との連携」で引用させていただきました。イラン・アフガンに在住して教育事業に携わりながら対象国の変革に関わる津田さんの愛情を感じると同時に、その地に生きる人びとの欲求でなく外部の搾取者の視点から意図的にニュースをつくり配信する外信(国際報道機関)の視点は実はユダヤ系エスタブッシュの視点にほかならず、それに拝跪する日本の言論機関の浅はかさを痛烈に批判していました。今度のウクライナ問題でもそのことを感じました。われわれの努力はミクロとも言えないほど小さいものですが、SNSの時代になって、ミクロの視点、ミクロの努力でも世界とリアル、ダイレクトにつながり、予想以上の大きな力になりうることも知りました。外信を利用しつつ洗脳されない視点を磨いていきたいと思います。

 

==========<金子 明>==========(2022年2月15日)

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第11弾(最終回)。

今回のテーマは「ザルメイ・ハリルザドの発言」

紹介してきた「アフガニスタン・ペーパーズ」たが、最終回はザルメイ・ハリルザドの発言を中心に取り上げる。大使や特使として米国のアフガン政策を長く牛耳ってきた人物で、当サイトで発表中のファテー・サミ氏の一連の記事によると、2人の大統領(カルザイ&ガニー)と並んで評判が悪い。そんなハリルザドが政策の中枢でどんな言葉を発し、後の「学んだ教訓」インタビューでは何を語ったか。アフガニスタンとアメリカの20年を考える上で貴重な史料である。

—2003年11月ハリルザドはアフガニスタン大使に就任したが、年明けの1月ワシントンポスト紙に署名入りコラムの体裁で檄文※を寄せた。その最後に:
「これほどの掛け金をもらっているので、成功という結果が出るまでは投げ出すわけにいかない。」

※ このコラム(2004年1月6日)は米国務省のアーカイブで確認できるので、以下に要約する:
https://2001-2009.state.gov/p/sca/rls/rm/27702.htm

「アフガニスタンの一里塚」 駐アフガニスタン大使 ザルメイ・ハリルザド 著
アフガン人は米国らが提供した機会をものにして国政選挙への道を歩み出した。それは民主主義への2つの道で、まずはターリバーンやアルカーイダらの極端主義者による妨害の排除。その結果、ロヤジルガの候補者に全体の2割に及ぶ102人もの女性たちが名乗りを上げた。次いで言論による問題解決。新聞、ラジオ、モスク、学校、インターネットなどで、国家の仕組みや宗教、人権、民族、地方自治の問題が討論された。アフガニスタン5千年の歴史で初の快挙だ。
 アフガン人の問題克服への思いが失敗の怖れを上回った。彼らは軍閥や極端主義者の妨害をものともせず健全な憲法を欲した。女性や少数者が指導的立場に躍り出た。ロヤジルガによって認められた7人の指導者のうち3人は女性だ。全民族の言葉が公用語と定められた。できあがったのはイスラム諸国の中で最も開明的な憲法の一つで、大統領制と強力な議会そして独立した司法府を定め、信仰の自由、男女平等などが盛り込まれている。
 アフガニスタンには今後も課題が多い。それは憲法遵守、極端主義者の残党討伐、軍属の武装解除、麻薬産業の撲滅などだ。だが整然として透明なやりかたで憲法を選んだことで最初のハードルはクリアされた。
 アメリカはアフガニスタンの成功に投資した。ブッシュ大統領は2004年度20億ドルの援助を行い、国軍と警察力と経済インフラ、学校、医療機関を整える。誇りを持ってその民主化をサポートしよう。
 われわれのアフガニスタンでの仕事は終わっていない。この国が自力で歩き出すまでにはさらに数年がかかり、国際社会の協力も欠かせない。(このあと最後のパンチラインとして前述の1文が登場する)

—このひどく楽観的なコラムにカーブルの米大使館員たちも驚いたようだが、そのうちの1人はこう証言している(2004年4月に採取された外務省口述歴史インタビュー):
「大使館のカフェで出くわした広報戦略の担当者に聞くと、あのコラムを書くのに20人ものチームが組まれたんだってさ。戦争について光り輝く記事の下書きを作るためだけに、政府はなんでそんな大勢に給料を払うのかねえ。」

ところがこの高価にして強気のコラムとは裏腹に下野中のハリルザドは2016年12月、「学んだ教訓」インタビューに答えて次のように語っている:
「もし米国が2001年12月の時点でターリバーンと話し合う気があったなら、アメリカの最も長いこの戦争は逆に最も短い戦争の一つとして歴史に刻まれただろう。多分われわれは機敏でも賢明でもなかったので、早い内にターリバーンに手を差し伸ばすことができなかった。彼らを受け入れ和解すべきだとは考えず、敗走した彼らは正義により裁かれる必要があると考えた。」

大使在任中ハリルザドは1日幾度もカルザイと話し合い、ほぼ毎晩夕食を共にした。その後も数時間話を続け、大使館に戻るのはしばしば夜中過ぎだったという。仲良しというか、ズブズブの関係だったというか。続いて同じ「学んだ教訓」インタビューから彼の証言をピックアップしよう。

—2003年から2005年の大使在任中に、アフガン国軍の規模をどうするか?米国vsアフガニスタンの論争があったが、そのいきさつについて:
「アフガン政府の要求は最初20万人だったが渋られ、せめて10万人から12万人を雇う資金を出して欲しいとワシントンに頼みこんだ。だが、ラムズフェルドはもっと数を減らせと命じ、訓練を施すことを“人質”に、結局兵員数は上限5万ということで同意した。」

—同時期、ブッシュ政権下米国がケシ駆除のため農薬の空中散布を画策したのに対し:
「空中散布などアフガン人に化学戦争を仕掛けるようなものだ、とカルザイは考えていた。」

アフガン側からの猛反発やベトナムでの枯れ葉剤使用のトラウマ、また麻薬撲滅作戦の効果自体に疑義が生じ、この試みは頓挫した。

2005年6月、ブッシュはイラク問題の収束をハリルザドに託し、彼をイラク大使へと配置換えした。カルザイはその決定を翻そうと個人的にホワイトハウスと掛け合ったが、願いはかなわなかった。その時分、ハリルザドはまだ米政府に信頼されていたと見える。

—さて、ハリルザドはイラク入りした当時を思い出して:
「イラクに行ったら、カルザイがすごく人気だった。ホワイトハウスの役人は冗談まじりにこう言ってきたよ、『イラクでもカルザイタイプの人物を探し出したらどうですか?』とね。」

有頂天だったハリルザドに対し、カーブルに着任した米大使(ロナルド・ニューマン)にとってはカルザイと食事を共にするなどもってのほか。それどころか腐敗対策に乗り出し、カンダハール州議会議長でカルザイの異母弟アハマド・カルザイの更迭を要求した。かの地で麻薬取引を仕切っているという嫌疑だった。この騒動はカルザイと米国の関係が悪化する大きな要因となったのだが、もともとアハマドに資金を与え顔役に育て上げたのはCIAだったわけで、もうどっちもどっち、ええ加減にせんかい、と言いたくなる泥仕合だ。ちなみにアハマドはしぶとく議長をやり続け陰の知事とも噂されたが、2011年自らの警備員によって暗殺された

イラク大使、国連大使を歴任したハリルザドは2009年以降しばらく野に下っていたが、トランプ大統領が呼び戻す形で、2018年9月、いわゆる「アフガニスタン和解の特別使節」として国事に返り咲いた。その後の活躍というか、迷走ぶりは、ファテー・サミ氏の一連の記事に詳しいところである。泥船でも船は船とばかりバイデン政権も対アフガン政策の最終局面を彼にまかせた形だった。そして昨年10月15日、ターリバーンの復帰からちょうど2か月後にその職を解かれた。翌週、彼はカーネギー国際平和基金によるライブインタビューに登場した。「この事態になったのは、あなたに何か間違いがあったためで、やり直したいことはあるか?」と尋ねられてこう答えている:
「それについてはこれから省みる。」

 

==========<野口壽一>==========(2022年1月25日)

「衣食足りて礼節を知る」という。歌舞音曲や文学・絵画・旅や遊興も、衣食足りてこそ大衆化するのだろう。芸術や科学も宗教組織や貴族の資金援助があってこそ発展した歴史がある。
2001年以降のアフガニスタンでは、国内で余剰資金はなくても国家予算の半分もの資金が外国から流入した。戦争余禄みたいなもので、それが戦争ビジネスや汚職・腐敗の原資になったけれど、一部は、社会インフラや教育などへの投資にあてられて90年代までの停滞とは異なる都市部の発展につながったのも事実だ。そのような社会改革の成果として『カーブルの孤児院』をつくった映画監督が生まれたり、エンターテイナーやスポーツ選手が生まれたりした。それらを社会的に普及するメディアとして、TOLOテレビなどのテレビ局、FMラジオ局、多くの新聞社・出版社が生まれた。また、インターネットの普及により、YouTuberも誕生し、SNSも盛んになった。
40年間の戦争の期間に、悲惨さだけでなく未来を背負う確実な才能が育っている。『ウエッブ・アフガン』は、それらのすべてを紹介したいと思うが力量が圧倒的にたりない。しかし今号では、歌手Ariana Sayeedを紹介することができた。彼女の歌声はYoutubeで「Ariana Sayeed」と検索すれば多くのコンテンツがヒットする。そのほかにも、ネット上での検索で、アフガニスタンのエンターテイナーやアートに触れることができる。ぜひお試しあれ。

 

==========<金子 明>==========(2022年2月1日)

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第10弾。

今回のテーマは「部族と軍閥」

紹介してきた「アフガニスタン・ペーパーズ」だが、キンドルで読むと検索がたやすく、テーマ別に並べかえて読み直すときとても重宝する。これまで、やっぱ本は紙だよね、と思っていたが、電子本もありがたいなあ、と宗旨が揺らぐほどだ。さて359ページにも及ぶこの証言集だが、その中に、小説か映画の主人公になれそう、と私が勝手に思う人物が2人いる。1人は第6回で紹介したギャンブラー兼銀行王、シャーカーン・ファヌード。そしてもう1人が今回登場するマイケル・メトリンコである。

メトリンコは米国人。イランに派遣され1979年には例のテヘラン大使館事件で人質の1人となった伝説の外務担当官だ。2002年、米国がカーブルに大使館を再開するにあたり、政務部長として登用された。ダリー語で現地の人々と直接話せるというアメリカ人としては希有な外交官であった。そのメトリンコがターリバーンをどうとらえたのか、今回はそこから紐解き始めよう。

2003年、外務口述歴史企画によるインタビュー
「我々がターリバーンと呼ぶ活動の多くは実は部族的なもので、ライバルとの競争、昔からのいがみ合いだ。そのことを私に、何度も何度も何度も説明してくれたのは、ほら知ってるだろ、あの白い長いあごひげでやってきて、ひとたび座るや1時間も2時間もしゃべり続ける長老たちだった。現状について彼らが笑いながら説明してくれたこともあった。でも必ず言った言葉は、『君たち米兵はこれを理解しないねえ。』つまり、彼らの考えではターリバーンの行為は、ターリバーンたちそれぞれの家族内でもう100年以上続いている内輪のいがみ合いにすぎなかったのだ。」

この後メトリンコはCIAの現地活動を「ド素人、効果ゼロ」とこき下ろして痛快なのだが、ここでは長老の言う「家族」つまりアフガンの「部族」はターリバーンに対してどう動いたのか、証言をひとつ紹介しよう。

2017年、アフガン国防省の政府高官
「地域の部族長に尋ねた、『500人という大部隊の治安兵たちがなぜ20人か30人のターリバーンを倒せないのか』と。地元の長老たちはこう答えた、『治安部隊はターリバーンと戦って人々を守るためにここにいるのではない。金を稼ぐためにいるんだ』と。治安兵はアメリカが支給した武器や燃料を横流ししていたんだ。そこでこう問い直した、『わかった、政府はあなたたちを守らない。でもあなたたちはこの地区に3万人もいる。ターリバーンが嫌いなら戦うべきではないのか』と。彼らの答えはこうだった、『こんな腐敗した政府には来てもらいたくないし、ターリバーンも望まない。だからどっちが勝つのか見ながら待っているのだ。』」

なるほど、国民に支持されない政府では戦争の先行きは怪しかろう。ではアフガンの大統領府を支えたのは誰だったのか?こんな証言がある。

第2次ブッシュ政権(2005~2009)下の国家安全保障顧問
「カルザイは決して民主主義を買わなかったし、民主的な機関にも頼らなかった。彼が頼ったのはお得意さんの軍閥たち。私の印象では軍閥が舞い戻ったのは彼が欲したからだ。」

かつてソ連に占領されていたとき反乱分子としてアメリカの援助で軍事力を増大させ、麻薬取引や賄賂でしこたま金を稼ぐ軍閥たち。独自の紙幣を印刷したり、武装解除にまったく応じないなど大統領府も頭が痛かったようだ。かつてカンダハールに暮らし、後に米軍の市民アドバイザーを勤めたジャーナリスト、サラ・チェイスは2015年、学んだ教訓インタビューに答えてこう述べている:
「敵の敵は味方であるという考えに従って我々は軍閥に頼った。我々はターリバーンが軍閥を蹴り飛ばすことにわくわくしている国民たちがいることを知らなかった。」

メトリンコに講釈をたれた長老たちが言うように、これはただの家族間の権力闘争なのか?それが軍事力と財力を持つ軍閥同士の内輪もめとなると、国家の一大事だ。差別を受け、生活に困り果て、命を落とす国民もさぞ多いだろう。アフガニスタンの状況は予断を許さず、人々の暮らしはいま緊張の極みにある。

 

==========<野口壽一>==========(2022年2月1日)

先週の号で紹介したが、アフガニスタン女性の闘いの歴史は多彩で揺るぎがない。その歴史の積み重ねが現在の不屈の闘いにつながっているのだろう。先週23日からオスロで開かれたターリバーンと欧米各国との対面協議でもそのことが如実に示された。アフガニスタンからやってきた二人の女性代表のオスロでの活動を、現地カーブルでは女性たちが街頭に出てデモンストレーションし、支えている。パンジシールでの闘いを先頭になって支えているのも女性たちだ。
女性が変われば男も変わる。1917年のロシア革命は食料が尽きて女性が街頭に出、パンをよこせと叫んだことが発端だった。翌年の1918年、日本で全国規模で発生した米騒動も米価高騰で家計を圧迫された女たちの決起が発端だ。日本では革命は起こらず逆に騒動鎮圧とロシア革命をつぶすためのシベリア出兵につながった。
オスロでターリバーンと対決した女性たちは、全国民が寒さと飢餓に苦しむアフガニスタンにもどりターリバーンと対決し続ける。国際援助は彼女たちに直接手渡されるべきだ。国連や各国政府がそのための手立てを講じるよう要求し、実行を見守らなけばならない。

 

==========<金子 明>==========(2022年1月25日)

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第9弾。

今回のテーマは「ラムズフェルド雪片」
アメリカが同時多発テロで攻撃を受け、その仕返しとばかりアフガニスタンに侵攻したとき、国防長官はラムズフェルド(在任期間2001〜2006年)だった。彼は下っ端に出す指示や様々なコメントを短いメモに残した。薄い白い紙がいつのまにか机上に降り注ぐので「ラムズフェルド雪片」と呼ばれた。その積雪量は5万9千ページにも上り、雪片どころかブリザードだと、「アフガニスタン・ペーパーズ」の著者ウィットロックは形容している。当然おおかたは機密文書であった。それらがすべて保存されているのもさすがだが、ジョージワシントン大学に基盤を持つ非営利研究機関が裁判の結果勝利し、その全貌を明かにしたとは恐れ入る。大寒にはいった今回は「アフガニスタン・ペーパーズ」で引用されているラムズフェルド雪片をいくつか紹介しよう。

—2002年3月28日テレビのインタビュー番組で「米兵の生命を守るために、あの会見室で事実を曲げて伝えなくてはならないことはありましたか?」と聞かれ「そんなことは一度もなかった。我々は事実を曲げることよりも信頼性の方がはるかに重要だと考えている。我々は今後も軍服を着た男女の生命を守るために、我々の国の勝利を見届けるために、やるべきことをする。そこに嘘は含まれない。」と答えたが、その数時間前に2人のスタッフに伝えた極秘雪片:
「いま心配なのはアフガン情勢が漂流中であることだ。」

—同年4月17日午前10時15分、ブッシュはバージニア州立軍事学校で演説をした、「春が来ればまたぞろ殺し屋どもは息を吹き返しアフガニスタンの恒久平和への道に水を差すだろう。最初はうまくいっても、そのあとでもがき苦しみ、みな最後は失敗する。それはアフガニスタンでの軍事闘争の歴史が物語っている。だが我々はそんな失敗を繰り返さない。」その1時間前にペンタゴンのトップ4人(統合参謀本部の議長・副議長を含む)のデスクに降り積もった極秘雪片:
「米軍はずっとアフガニスタンに足留めだろう。安定をもたらす何かが起きぬ限りは。その何かをしっかり見極めてやっと撤退できる。助けてくれ!」

—同年6月25日、国内世論を恐れて米国の対テロ戦争に協力しかねるパキスタンのムシャラフ大統領に関して、ペンタゴンの政策主任への雪片:
「パキたちを今いる場所で対テロ戦争に参加して本気で戦わせたいなら、つまりパキスタン国内で戦わせたいなら、我々が金をしこたま手に入れればいいと思わないかい? そうすればムシャラフに与えて、彼を今の場所から、我々が望む場所へと配置転換できるだろう。」(この意見は通り、軍事・対テロの名目でその後6年間にわたり100億ドルが援助された。)

—同年10月21日、ブッシュに「今週フランク将軍とマクニール将軍にお会いしますか?」と尋ねたことについて:
「大統領は言った『マクニール将軍とは誰か?』そこで『アフガニスタンを統括している将軍です』と答えた。するとこう言った『そうか、彼と会う必要はない』と。」

—2003年(侵攻開始から約2年後)、諜報部長へのメモ:
「アフガニスタンで誰が悪い奴らかについては視界ゼロだ。人物評価に関する諜報量が圧倒的に不足している。」

—2004年10月、フランスの国防大臣(女性)がケシ産業によってカルザイ大統領の政治力が弱められると心配していることに関して:
「彼女は直ちに行動すべきだと考えている。さもないと麻薬資金がアフガン国会を牛耳り、国会がカルザイに反目し、政府を汚染してしまうと。」

—同年11月、ブッシュ政権の目的なき麻薬対策を批判して:
「アフガニスタンにおける麻薬対策は、てんでんバラバラに見える。どこにも責任者がいない。」

—同年12月、カルザイ大統領の就任式典出席をブッシュに報告して:
「決して忘れられない1日でした。カルザイ大統領は言いました、『やっと命が活動し始めた。米国がアフガニスタンに来る前、我々は静物画のようだった。あなたたちが来て、全てが生き返った。あなたたちの助けでここまでやってこられた』と。」

—2005年2月、ライス国務長官に極秘リポート「アフガン警察恐怖物語」を提出しアフガン警察の現状(無学・無装備・無準備)をこき下ろした際に併せて送った雪片:
「ぜひ一読ください。これがアフガニスタン国家警察の現状です。大問題です。私の印象では、この2ページは人知の及ぶ限り柔和に物議を招かぬよう書かれています。」

—2006年10月16日、ラムズフェルドの演説執筆者たちが書いた「アフガニスタン:5年後」という米アフガン政策よいしょ原稿(アメリカさんのおかげで、19000人を超える女性養鶏家が誕生したとか、道路交通の速度が3倍アップしたとかというデータ集)を絶賛して:
「この書類は秀逸だ。どう使おうか?新聞記事にすべきか? 署名入りか? 折り込みでもいいか? 記者会見もするか? いや、もっと衝撃的にやれないか? 大勢とびつくと思うぞ。」

この文書「Afghanistan: Five Years Later」をいまググっても何も出てこない。記事にはならなかったのか。欣喜雀躍したのはラムズフェルドだけだったのか。
翌月の中間選挙で共和党が敗れたのを機に彼は国防長官を辞任した。アフガニスタンとイラク、同時に2つの戦争を遂行した国家の英雄と呼ぶべきだろうか。残された雪片に触れると、いかに堅固な要塞に守られていたとはいえ、難しい時代を切り抜けた長官の心労がうかがい知れる。昨年6月29日没。その47日後にターリバーンがカーブルを制圧した。

 

==========<野口壽一>==========(2022年1月25日)

「視点」で紹介した『RAWA 声なき者の声―アフガニスタン女性革命協会』はネットで購入可能だが、 amazon.co.jp では品切れになっている。紀伊国屋書店のサイト https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784906456536 では注文は受け付けているが出版社より取り寄せとなっている。古本が出る場合もある。根気よく探してでも購入する価値がある。パンフレットを入手できなくても、RAWA本体のサイト http://www.rawa.org/ は日本語ページもあるのでそちらをご覧になることをお勧めする。思いもかけない情報が満載である。また日本を拠点として活動する「RAWAと連帯する会」(http://rawajp.org/)のホームページにも豊富な情報が掲載されている。同会はカンパ、あるいは会費の受付を行っている。(http://rawajp.org/?page_id=1195)独自に現地アフガニスタンのRAWAに直接送金するルートを確保した、とのことなので、同会に寄付すれば、ターリバーンに抜き取られることなく支援対象者に確実に届く。アフガニスタンの情勢、特に女性たちの闘いに注目しつづけること、できればいくらかでも支援金を送ることを実践し、周囲にも知らせてください。

 

==========<金子 明>==========(2022年1月10日)

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第8弾。

今回のテーマは「軍隊と警察」。ターリバーンとの戦争状態が続くなか、米国は早急にアフガニスタンの軍隊と警察を整備・強化する必要に迫られた。

軍隊に関しては2003年にブートキャンプをカーブル近郊に開設し、米国流の軍事訓練で効果を上げようとするのだが・・・

—訓練にあたった米歩兵将校/ブートキャンプに来た800名の新兵の中で射撃試験に合格したのは80名だけにもかかわらず全員が卒業できたことについて
「みんな訓練ごっこをしているだけだった。」

—2005年にアフガニスタンに赴任した銃器教官/スイカを棒に突き刺し地面に立て標的にした射撃訓練を行って
「そしてこう言った『よし、アフガン兵さんよ。あのスイカを撃ってみな。』するとただ当てずっぽうに撃ちまくる。で、スイカにはかすり傷すらつかない。」

—アフガン部隊に配属されたカンザス州兵
「銃撃が始まると、アフガン兵は飛び出して敵の銃火を目指して走り出す。そこには敵が構えており、来るのを待っているのだから狂っている。ずっと撃ち続け叫びながら敵を目指して山の斜面を駆け上がる。体は小さいが勇敢な男たちだ。しかし、そんな戦法は我々のやりたいビジネスではない。」

—軍用車両教習官を勤めたウィスコンシン州兵
「フルスロットルかフルブレーキ、とにかくそのどちらか。何かにぶつけても自分の責任だとは思わない。こう考えているんだ、『教官が新しいのを調達するだろう、これは壊れたんだから』とね。」

—戦略計画を担当する米少佐/アフガン兵に「米軍撤退後も軍隊に残るか?」と質問すると
「大多数が、私が話を聞いたほぼ全員が、『いいえ』と答えた。元に戻ってケシかマリファナか何かを育てるんだろう、そこに金があるんだから。これを聞いて私は堂々巡りに放り込まれた。」

警察組織の状況はさらに大変。

—アフガン警察と共働した米国家警備隊委員
「腐敗はひどい。もし家に強盗が入ったとしよう。警察に電話をする…すると警察が現れる。そしてその警察が2度目の強盗になる。」

2012年9月には、ザブール州内の戦地でターリバーンの動向を探っていた米兵がアフガン警察の裏切りにあって銃撃され、4名が死亡、2名が負傷する事件が起きた。

—負傷した米特殊技能兵の一人
「我々は奴らならやりかねないと思っていた。奴らの姿を見るたびに考えていた、『おまえたちいつか俺を殺すだろ』と。」

—元米国務省高官
「軍隊をあれほど短期間であれほど上手に構築できると考えるなど正気ではない。また18か月という期間では、米国内で持続可能な地方警察の一支部を立ち上げることすらできないだろう。同じ期間内に、アフガニスタンでそれを何百も作り上げるなんて、どうすれば期待できるんだ?」

なんだか愚直でくそ勇敢な軍人と、かなりあくどそうな警察官。ターリバーンが舞い戻った今それぞれどんな新年を迎えたのか。今年もアフガニスタンから目が離せない。

 

 

==========<野口壽一>==========(2022年1月10日)

オミクロン株コロナの急拡大が始まったと大騒ぎ。でも驚いてはいけない。なんせこれは終わりの始まり。極めて強い感染力なんて言って脅かしてるけど、そのほとんどは無症状で死亡者もほとんどいない。ウイルスは弱毒化して少しでも多くにとりついたものが生き残る。これ、感染症の真理。
100年前、PCRもワクチンもなく、ウイルスのなんたるかもよくわかっていなかったスペイン風邪も3年で終息。Covid-19はこれまでのウイルスとは違うというけれど、違うのは、病気診断ではなくウイルス検査にPCR法を大々的かつ全世界的に採用し、極端なワクチン偏重策をとったこと。重ねてこれまた偏執狂的な隔離やロックダウン策をとったこと。そんな認識や対策への「科学的」な考察や研究なしに重大な政策を繰り出し、結果として為政者には好都合な国民強制監視体制が出来上がりました。まさにコロナ対策に名をかりたジョージ・オーウェル的世界の実現。そしてこれはコロナが終わっても、たぶん日本では、マスクや手指消毒やワクチン、ソシアルディスタンスなどが、デフォルト社会体制として残るのでしょう。
なぜ今回のコロナパンデミックが起こったのか。それは人災ではなかったのか。コロナウイルスそのものの実態解明、検査法から対処法、病理・薬学・疫学研究の妥当性などなど、政府・行政・既得権益者を排除した研究の必要性を痛感します

 

 

==========<金子 明>==========(12月26日)

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第7弾。

今回は2003年春のイラク戦争とその後の混乱が米国のアフガン政策にもたらした影響について。

去る12月9日、米国防総省は過激派組織イスラム国掃討のためにイラクに駐留していた米軍がついにその戦闘任務を終了したと発表した。2003年春のイラク戦争とその後の混乱をやっとのことでひとまず終わらせたことになるが、この戦争が米国のアフガニスタン政策にもたらした影響は何か?今回も「アフガニスタン・ペーパーズ」を紐解き、関係者の証言を確認しよう:

ハーミド・カルザイ大統領(2003年5月1日、イラク戦争が終った日、カーブルでの記者発表にラムズフェルド米国防長官とともに出席して)
「君らみんなイラクにいってしまったと思ったよ。まだいたのか。よし。つまり世界はアフガニスタンに関心があるんだな。」

2003年夏に参謀としてアフガニスタンに着任した米軍大佐
「われわれが忘れられたというのではないが、明らかに人々の目は多くがイラクへと向けられた。」

イラク戦争当時ホワイトハウスとペンタゴンで働いていた職員
「物量的にも、政治的にも、すべてはイラクへと傾いて見えた。自分の役割すべてが二軍的なもの、最悪は“兵力節約部隊”の任務だという現実を受け入れるのはつらい。君の仕事は勝つことではなく、負けないことだと言われる。情緒的にも心理的にも、これはつらい。」

2003年8月アフガニスタンに着任した米陸軍大将
「陸軍が送ってよこした人の中に将来大将にまで出世しそうな人はいなかった。穏やかにいうと、陸軍は協力的ではなかった。彼らの頭は明らかにイラク漬けで、われわれに提供するものは本当に最低限の援助、それだけだった。よりによってパイプラインのどん詰まりにいるような人を送ってよこすんだ。」

イラク戦争当時アフガニスタンに送られた参謀たちの自虐ネタ
「ここは米国退職者協会の世界的最前線支部だからな。」

ブッシュとオバマの両政権で戦争指導者としてホワイトハウスに勤めた陸軍中将
「ターリバーンが弱体化し統制を失っていたときにうまくやれば、状況は変わっていたかもしれない。しかしわれわれはイラクへ行った。上手により迅速に金を使えば、結果は変わっていただろう。」

2003年10月、ビン=ラーディンからのビデオメッセージ
「アメリカ人たちはティグリスとユーフラテスの泥沼にはまった。」

2003年10月、ラムズフェルド雪片(メモ書き)
「われわれは地球的規模の対テロ戦争に勝つのか、負けるのか?有志連合はアフガニスタンでもイラクでも、何らかの方法で勝てるだろう。だが長くて大変なゴチャゴチャが続くぞ。」

アフガン兵を訓練した米軍曹
「2003年にイラクへ配属されるはずだったが、出発直前に変更命令が出てアフガニスタンに飛び、国軍の訓練を始めた。田舎に行って『さて何をしようか?』って。あの痛みは半端なかったな。」

野戦砲士官として駐留したテネシー州兵
「出発前に国内で講義を受けた。講師がパワーポイントを開いてこう始めた、『では諸君、イラクに行くとだな。』そこで俺は『別の戦争に行くのですが、』と言った。すると講師はこう答えた、『ああ。イラクとアフガニスタンね。同じだよ、』とね。」

ロナルド・ニューマン在アフガニスタン米国大使(任期2005年~2007年)
「アフガン政府への追加援助として6億ドルを要求したがブッシュ政権が用意したのは4300万ドルだった。『イラクで使うので君には渡せないよ、』とは誰も言わなかったが、実質起こったことはその通りだった。」

ラムズフェルドの後を継いだゲーツ国防長官(任期2006年~2011年)
「当時の優先項目は3つあった。イラク、イラク、そしてイラクだ。」
平和を求める戦争を仕掛けられ、その挙げ句に殺されたフセインさんはお気の毒だったとしか言いようがないが、イラク戦争がアフガニスタンにも暗い影を落としたことは上の証言からも明かだ。最後に長くアフガニスタン問題に関わったジェームズ・ドビンズ外交官のインタビューを引用する:
「わかるだろ。まずルールその一。一度に一つの国に侵攻せよ。クリントン時代を見ると、まずソマリアから撤退してハイチへ。ハイチを終わらせてバルカンへ。ボスニアを安定させてからコソボへと向かったんだ。一か国ずつでも時間と注意はハイレベルで注ぐ。それを一度に2か国も展開すれば機能不全に陥るのは必然だ。」

2003年夏に「すべてがアンダーコントロール」と大見得を切ったブッシュに対し、この言葉は重い。

 

==========<野口壽一>==========(12月26日)

バイデン大統領が主唱して「民主主義サミット」が開かれた。あわせて人権擁護のための共同行動として「北京冬季オリパラ・外交ボイコット」も呼びかけられた。だが世界の反応はいまいち迫力が感じられない。しかも、民主主義そのものの定義に関して中国から「民主主義にもいろいろあらーな」的な反論をされて腰砕け。〝な~んでだろ〟と考えてみると、結構あたりまえなんじゃないか。

そもそもいろんな団体がいろんな観点から(といってもほとんどは欧米の価値観なのだが)「民主主義ランキング」なるものが発表されている。英エコノミスト調査の民主主義度ではアメリカは24位で「欠陥がある民主主義」。ほとんどの国が欠陥民主主義以下か非民主主義国。大統領選挙で負けた候補が選挙結果無視のクーデターまがいの行動に走ったり、人種差別や移民の人権迫害などが日常化しているアメリカにはいわれたくないと内心思っている国が多いんじゃないか。

人権擁護の点でも国連決議を無視して違法な武力行使で領土を増やしたりパレスチナ人への武力や暴力を使った迫害を70年以上もつづけているイスラエルを物心両面で支えているアメリカが新疆ウイグル人のために人権擁護を叫んでも、二枚舌三枚舌の下心がミエミエ

「民主主義」にかんしても「民主主義は最悪」というチャーチルの有名な言葉は実は「民主主義は現状では最善」との逆説にすぎず、マルクスやレーニンの系譜をひく革命思想においてもマルクスのコミューン三原則を引くまでもなく民主主義は理想化されている。資本主義のブルジョワ独裁を隠すイチジクの葉にすぎない民主主義の対抗概念として「プロレタリア民主独裁」という言葉が生まれたり、党運営においても「民主集中制」など言う言葉さえ生まれてきたのである。北朝鮮の国名は「朝鮮民主主義人民共和国」である。アフガニスタンのPDPAも「アフガニスタン人民民主党」であった。

そもそも民主主義という概念は国民を支配するためのシステムを合理化するための思想にすぎず理想の政治形態ではない。そもそも政治や国家などないほうが人間にとってはいいのだがそのような社会は古代国家成立後いまだに存在していないし矛盾と欠陥に満ちた民主主義に変わるシステムを人間は「発明」していない。そもそも人が人を強権で支配するシステムの不要な社会こそが理想とされるべきなのだろうが、いまだ空想の領域。

だから、「民主主義」だとか「社会主義」だとか「〇〇主義」だと「〇〇教」だとかの抽象概念を振り回すのでなく、起きている事象(殺人だとか戦争だとか干ばつだとか飢餓だとか貧困だとか疫病だとか拉致だとか、その他もろもろの不幸そのもの)を直接阻止したり解消したりする努力をこそすべきだろう。そうすれば下心を隠す必要もなく、二枚舌三枚舌にだまされることも少なくなるじゃないだろうか。

 

==========<金子 明>==========(12月09日)

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第6弾。
今回はアフガニスタン・ペーパーズ第5章「さいなむ汚職」後半より抜粋について。

2010年夏のある日 、シャーカーン・ファヌードという名の国際的ポーカープレーヤーがカーブルにある米国大使館ビルを内密に訪れた。当時彼の肩書きはカーブル銀行会長、6年前43歳にして銀行業の砂漠地帯と言われたアフガニスタンで、決まった得意先もないままカーブル銀行を立ち上げ、瞬く間に国内最大の市中銀行に育て上げた稀代のギャンブラーだ。

成功の理由は 卓越したマーケティング戦略にあった。彼は預金者に利子ではなくクジをばらまいた。預金額100ドルごとに一度のクジ引き権を与え、賞品は洗濯機から自動車、新築マンションまでと預金者の射幸心を煽った。月に一度開かれる抽選会は国中で評判となり、アフガニスタン全土に支店が広がった。

ファヌードは銀行王となり 、ドバイで不動産投資に着手、アフガンのエアラインも買収し、ベガス、ロンドン、マカオなど世界のカジノの顔となった。「私のしていることは上品ではないし、本来やるべきことでもない。だがこれがアフガニスタンだ、」と以前ワシントンポスト紙の記者に自慢していた。

しかし2010年の7月彼が米国大使館に現れたとき 、その手にはカーブル銀行が崩壊寸前のカードの館だと暴露する秘密書類があった。ファヌードを含む数人の銀行株主がクジ狂いの顧客の預金を吸い出し数億ドルも自らに不正投資したことの証拠書類だ。金の多くは消え去り銀行は沈没の危機に瀕していた。組織内の権力闘争に敗北した彼は仕返しに全ての銀行業務を停止させようと米国外交官に申し出たのだ。

アフガンの財政を揺るがし、民衆蜂起を誘発しかねない金融スキャンダル だった。加えてカーブル銀行は政府の給与支払い銀行で25万もの兵士、警官、公務員が預金をしていた。その多くは座して預金を失う運命だった。また、カルザイ大統領の兄マームードは銀行の第3株主だったし、タジク人軍閥のモハメド・ファヒム・カーン将軍も大株主でカルザイを支えて副大統領を務めていた。

ファヌードは自分と共謀して銀行の資産を盗んだのはこの2人 だと非難した。その上、銀行がカルザイ大統領に選挙資金として2千万ドルを与えたとも訴えた。米国財務省のある高官は学んだ教訓インタビューで匿名を条件にこう語っている、「この腐敗を1点から10点までで採点するなら、堂々の20点だ。カーブル銀行の経営陣と国政を担っていた連中の関係は多岐にわたり、スパイ小説をまるごと一冊書けるほどの要素がぎっしりだ。」

以来数週間でファヌードを含む主な経営陣は辞職 し、支払い能力を疑問視する報道に驚いた数万の預金者が引き出しを求めて各地の支店に殺到した。カルザイ大統領は記者会見して、中央銀行が運営に乗り出して預金を保証すると発表し、収拾に努めた。ただし舞台裏は大変で、ドイツの銀行に頼みこんでフランクフルトから急遽3億ドルを空輸してもらい当座の危機を乗り越えた。

この事態は当然オバマ政権も無視できず 、カルザイにスキャンダルの徹底究明を促した。この出来事がアフガニスタンにおける一連の反汚職キャンペーン、ひいては戦争自体の分岐点だったと見る米国政府関係者は多い。ある匿名の政府高官は学んだ教訓インタビューでこう語った、「やりたいことは100万もあった。だが実行するには効率的なパートナーとしてカルザイ政権に頼らざるをえなかった。こんなスキャンダルが続けば、他の試みもみな同じ轍を踏むんじゃないか?みんな怒って嫌気がさした。これはいただけないと。」

とは言え米国も非難できる立場ではない 。兆しはあったのだ。前年9月の時点で米国大使館は国務省に電文を打っている、「ファヌードが所有する航空会社の便で大量の現金がドバイへ持ち出されている」と。その頃には諜報機関もカーブル銀行内で不正が行なわれているのを察知していたと学んだ教訓インタビューで語った匿名の米国政府高官もいる。「銀行からターリバーンや他の反乱分子に資金が流れているのをわが国の諜報部員がつきとめ、アフガンのいくつかの諜報組織に伝達した。だがそこから警察に話が進まなかった。彼らにそこまでの権限はないからね。」

ファヌードが大使館に現れる5か月も前 に、ポスト紙はカーブル銀行の危険な状況を記事にして、その中でファヌードもインタビューに答えている。アフガニスタン中央銀行のフィトラート総裁はそれを読んでショックを受け、米国財務省にカーブル銀行の調査を依頼した。カルザイがその着手の許可を出し渋るなど、一悶着の挙げ句、夏には調査が始まった。財務省の調査員はカーブルに着任し、3年もアフガニスタン中央銀行のもとで働いている米職員に面会し話し合った。テーマはもちろんカーブル銀行だ。2人ともまさか失墜直前だとは思いもしていない。その調査員は学んだ教訓インタビューでこう述べている、「一時間も話し合ったよ。こう聞いたんだ『財政的に健全な銀行かい?』と。彼は『はい』と答えた。で、文字通りその30日後にカードの館は全壊したんだ。私の職歴を通して最大のミスの一つだ。つぶれた10億ドルの銀行に対して、わが国が派遣したアドバイザーが財政的に健全だと太鼓判をおしたんだぞ。」

その後は中央銀行が業務を引き継いだが、 打ち合わせの席は皿や椅子を投げつけ合うなど混乱を極めた。翌2011年4月にやっと焦げ付き総額は10億ドルと発表された。フィトラート総裁は預金を食い物にしたカーブル銀行の株主の資産を凍結することを発表したが、政治的にも有力な株主たちは猛反発し、逆に総裁が米国に亡命した。当時を彼はこう回顧している、「アフガニスタンはマフィアが操る政治家グループの人質だった。彼らは国民の生活を改善するために集められた貴重な国際援助を盗み取ったのだ。」

悪党たちが処罰されたのは大統領がガニーに代わった2014年 だった。裁判が開かれ、ファヌードと共に銀行の代表だった重役には15年の刑が言い渡された。しかし、拘禁条件は軽く、なんと毎日刑務所を出て大規模な不動産取引の現場に出かけることが許されているという。他にも9人が罰金刑か1年以内で出所するなど大スキャンダルのわりに犯人の処分は甘い。ただ一人何の後ろ盾もないポーカープレーヤーのみが言い渡された通り15年の刑に服していた。しかし4年後、ファヌードは刑務所内で死を迎えた。享年55。アフガニスタンの混乱を象徴する男だった。

 

==========<野口壽一>==========(12月09日)

ターリバーンが復権して3カ月がすぎました。「視点」で批判しましたが、さすがにムッラー・ナカタほど全面肯定、全面賛美する人は少ないとはいえ、「ターリバーンって本当に悪いの?」とか「ムジャヒディーンや軍閥だって同じようなことをしたでしょ?」とか、マスコミでもいろいろ取りざたされています。

一言でいいます。悪いんです。

軍閥やムジャヒディーンや私が支援したPDPAだって、ソ連だってアメリカだって悪いところはたくさんあります。いまだに反省していなければそれらもみーんな〝悪〟です。
ターリバーンが悪いのは、過去の〝悪〟を反省をせず今でも政策として掲げ、受容を拒否する人に暴力・武力で強制し、従わなければ有無を言わさず終極的には殺してさらす(さらして殺す)から〝極悪の悪〟なんです。PDPAやソ連やアメリカは、その時のアフガンのあり様から一歩も二歩も〝未来の善〟を現実に持ってきて強制したから失敗したのです。善を掲げて武力で強制した行為は間違いであり〝悪〟です。しかしそれらはいまは反省されています(少なくとも表面的には)。
ターリバーンもアメリカと有志連合にその座を追われた第一期の失敗を反省しているようなそぶりを見せています。しかしそれは素振りだけ。本質は全然変わっていないし、むしろ悪賢くなっただけです。

今号に掲載したファテー・サミ氏の「米国アフガン占領20年の失敗―その原因<5> 」や「トピックス」で外電も明らかにしているようにさまざまな非道が現に今なされており、多数の命が理不尽に奪われているのです。とくに小生が強調したいのが、秦の始皇帝がやった焚書坑儒の現代版が繰り返されていることです。ぜひ、ファテー・サミ氏の告発をお読みください。

また、この同じヘラートでの暴挙を、長倉洋海さんが自身のブログ「アフガン情勢に関するメッセージ」で現地からの情報を引用しながら告発しています。また、もっとも現地でターリバーンと果敢に闘う女性たちを支援する「RAWAと連帯する会」が提供する情報も必見です。

 

 

==========<金子 明>==========(11月29日)

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第5弾。
今回はばらまきについて。

民主国家をこしらえるという旗印のもと米国がアフガニスタンでいかにすさまじい“ばらまき”をしたか。「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)から証言をいくつか紹介する。

—米国国際開発庁の元役人(オバマ政権下での援助額の急激な上昇について)
「あの急上昇のころは、人も金も大量にアフガニスタンに送られた。たったひとつの漏斗に水をいっぱい注いだようなものさ。あまり急いで注ぐと漏斗からあふれた水が地面にこぼれるだろ。われわれのせいで地面はまさに洪水だった。」

—米国国際開発庁の別の役人
「費やした9割は無駄だったと思う。われわれには客観性が欠けていた。金を与えられて、使えと言われ、その通りにした。理由も無く。」

—現地の援助請負業者
「おおまか米国の郡くらいの大きさの一地域に毎日おおまか300万ドルをばらまくよう役人たちに言われた。アメリカの議員が視察に来たので聞いてみた。『おたくの国では立法者が責任をもってこれほどの金を使えるか』と。かれは断じてないと答えた。そこでこう言ってやった、『いいですか、だんな。そんな大金をわれわれに使い切れと迫っているのがあなたたちだ。だから使っている、窓もない土くれでできた小屋に住まう社会のためにね。』」

—ダグラス・ルート中将(オバマ政権下の戦争政策指揮官)
「ダムや高速道路をつくるのに気前よく金を払ったのは、ただ払えるのを見せたいがためだった。世界最貧国の一つで教育水準も最低レベルにあるアフガン人ができあがった巨大施設を維持できないことも十分に知っていた。まあ、たまの無駄遣いもいいだろう。われわれは富める国だ。穴ぼこに金を捨てても銀行はへっちゃらだ。だが、それはやるべきことか?もっと理性的でいることが大事じゃないのか?あるとき米軍がひどい僻地の州警察本部ビルを建設した。正面とロビーはガラス貼りだった。だが完成セレモニーでリボンを切った警察署長はドアさえ開けられなかった。アメリカ人が現地に相談せずに設計したのは明白だ。署長はそんな取っ手を見たことがなかったんだ。この出来事は私にとってアフガニスタンでの全体験の縮図である。」

—特殊部隊のアドバイザー
「われわれは誰も通わない学校の隣に新たに学校を建てていた。何の意味もないよね。地元民は学校など本当は欲しくないとはっきり言っていた。子供たちには外で羊の群れを世話して欲しいんだと。」

—米国職員
「まず安定した地域でプロジェクトを成功させ、他を羨ましがらせないのか? これまで私がつきあった国民の中でもアフガン人は最も嫉妬深い部類に属する。でもわれわれはその国民性を利用もてこ入れもしなかった。その逆で、子供が危険すぎて家を出られないような地域にまず学校を建てたんだ。」

—カンダハール州知事(2008年から2015年在任)
「アメリカ人が推し進めようとした手洗いキャンペーンは国民への侮辱だった。ここでは祈りのため人々は一日五回も手洗いしているのだから。そんなものより、仕事と技術を身につけさせるプロジェクトが必要だ。」

—カナダ軍へのアドバイザーを務めた海軍大学院教授
「カンダハール州で仕事を提供しようと月90から100ドルで村人を雇い農業水路を整備させた。すると月60から80ドルの給料しかもらえない教員たちが仕事を辞めて水路掘りにいそしんだ。」

—米軍将校
「アフガニスタンの東部で50も学校を建て公教育を改善しようとした熱心な陸軍旅団があった。しかしターリバーンを助けることになってしまった。教員が足りなくて、校舎は見捨てられ、爆弾製造工場に落ちぶれたのさ。」

政治家の人気とりには手っ取り早い“ばらまき”であるが、ここまで来るとほとんど破壊工作のレベルである。アフガニスタンで20年にわたってこうした事態が繰り広げられていたのなら、いま国家を受け継いだターリバーンも苦労は絶えまい。外国の金や助けに頼らない国の自立、それがまず大事だろう。

 

 

==========<野口壽一>==========(11月29日)

今年はペルーがスペインから独立して200周年だそうです。それを記念する『ペルー映画祭』が始まったので初日に2作連続で観ました。「ペルーの叫び」と「クッキング・アップ・ドリームス」です。
「ペルーの叫び」は、36年ぶりにWカップ出場を果たしたペルーサッカーの努力と奮闘を、ペルーという国のありようと重ねて描いたドキュメント。ありきたりのスポ魂物語ではなく、ペルーという国の成り立ち、貧富の差、人種民族の差別、植民地の悲劇、現実を深く掘り下げて、ペルー人とはなにか、ペルーという国はいかにあるべきかを追求した超一級の作品でした。さらに上映後の日系ペルー人仲村渠夏江氏のトークも考えさせる内容で、深く胸にささりました。自身と両親のペールでの生活と歴史を重ねて「貧困・格差・人種、ぐちゃぐちゃでなにも進歩がないペルー」「自己肯定感の低い国民」をシビアに明らかにしつつ「ペルー人としての恥」を感じてきた。それは自分だけでなくほとんどのペルー人が感じていることで、だからこそ映画の原題「アイデンティティ」にこめられた自己探索にふれ、ペルー人はペルー人としての一体感をもとめている、との話に、なぜペルー人がペルー人として唯一熱狂できるのがサッカーだけだったのか、と、日本タイトルが「ペルーの叫び」と変えられている理由に得心しました。日本人が忘れて久しい問題意識、アフガン人がいままさに闘い求めている課題がそこにありました。素晴らしい映画でした。
2本目の「クッキング・アップ・ドリームス」は本国のペルー料理の紹介とそれを世界に広げようとする人びとの努力を描いた映画。興味と食欲がそそられます。こちらのトークはボクシングインストラクターでマチュピチュ観光大使の青年・片山慈英士氏。世界一周旅行中にマチュピチュのふもとの村で7カ月間足止めを食らい、その間に閉鎖されていたマチュピチュに唯一の観光客として訪問できた幸運を、ペルーとの友好運動として恩返しするに至った体験と現在の活動を紹介。こちらも興味深いものでした。
ペルーは日系人大統領が誕生したり、日本大使公邸占拠事件があったりと移民の昔からゆかりの深い国。
11月27日から12月10日まで、新宿K’s cinemaで毎日3本上映。この機会をお見逃しなく。情報はここをクリック

 

 

==========<金子 明>==========(11月15日)

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第4弾。
今回は麻薬対策について。

2006年春、米国とアフガニスタンは共同して麻薬撲滅作戦を開始した。米国が資金を提供し、アフガン兵がケシ畑をトラクターと棒切れで破壊し始めたのだ。その成果はどうだったか。

—ジョン・ウォルタース麻薬問題担当長官(記者会見で)
「わが国がもたらした成果はものすごい。状況は毎日良くなっている。ヘルマンド州(訳注:南部に位置し麻薬栽培が国内でもっとも盛んな地域)が対アヘン戦争の中心地で、州内の農民も宗教指導者も役人も皆がこの撲滅作戦を支持している。」

—麻薬撲滅作戦でアフガン兵の顧問を務めたケンタッキー州兵中佐
「大成功だったと言われているが、ただの純粋な牛糞だね。作戦のどこにも何の値打ちもないよ。」

—米軍事顧問としてアフガン人部隊と行動を共にした少佐
「撲滅作戦は(有力者の畑には手をつけないなど)違法な作戦だった。国民の金を巻き上げる悪党どもに安全を提供しているのなら、われわれは国民に間違ったメッセージを伝えていることになる。いまにも反乱が起きるのではないかと心配で、作戦の終わる頃には髪が白くなったよ。本当さ。」

—駐留米軍副司令官の副官
「麻薬商人はケシの乾燥樹脂などどこからでも入手できるので、契約した農家の畑がつぶされてもただこう言うだけさ、『去年の冬に2千ドル渡したんだから、お前は俺に18キロ分の借りがある。なのに乾燥樹脂を渡せないというなら、お前か女房か子供たちを殺すぞ。ただ、もう一つ手がある。この銃を取って俺がアメリカ人と戦うのを手伝え』と。われわれのせいで全住民が敵に回った。ヘルマンド州は爆発したのさ。」

—ロナルド・ニューマン駐アフガニスタン大使(本国への電文で)
「撲滅作戦の結果、より多くのターリバーンがヘルマンド州で戦おうと集まってきた。おそらく自らの財政基盤を維持するためと、ケシの収穫を『守る』ことで地元民たちの支持を得るために。」

—ケンタッキー州兵
「麻薬撲滅作戦でわれわれを引き継いだ英軍は、わずか1週間で戦死者、戦傷者ともに数がはねあがった。麻薬王が加勢し、ターリバーンが加勢し、ほんとうに大変になった。」

—アフガニスタンの麻薬対策状況を視察した米下院議員(本国への機密電文で)
「ケシ畑は本当にどこにでもある。何百もの大きなケシ畑がヘリコプターから確認でき、生育の各段階にあった。満開の畑も多かった。」

—米国務省の南アジア対策を監督した上級外交官
「軍隊には同情します。防弾ジャケットを着てケシをみかけたら、わたしも『ああきれいな花だな』と言うだけだろう。花を刈るために戦地に来たのではない。なのに、花を刈ると農民が敵になりどこかから撃ってくる。」

—米麻薬取締局幹部
「対テロリストの場合なら政府に楯突く首領を殺せばいい。だが、アフガニスタンの麻薬ネットワークと戦うときは、首領を殺せない。そいつが政府のシステム内で囲われているから。」

—麻薬撲滅作戦の調整役を務めた米軍中佐
「こう尋ねる村人は結構いた、『中佐、あんたの国の人たちが欲しがり使っているものを、なんで撲滅するんだい?』とね。そこを彼らは理解できなかった。」

<金子>
アフガニスタンで育ったケシからとれた麻薬はそのほとんどが西側諸国で消費されているという。売る方も悪いが、買う方も悪いと言える。また30年という長期の戦争で耕地は荒れ、地雷もたくさん埋められている。ケシを育てて生き延びようとする農民を、簡単には非難できまい。

紹介している「アフガニスタン・ペーパーズ」の証言は、その多くが米国のアフガニスタン復興担当特別監察官による当事者へのインタビュー からなる。「学んだ教訓/Lessons Learned」というありがたい名称のプロジェクトだ。その中身を法廷闘争の末に著者が入手して公開した。先のロナルド・ニューマン大使は、後にそのインタビューに答えてこう語っている。

短期間で結果を出せという死に物狂いの圧力があった。国会が目に見える成果を欲しがったんだ。、農村全体を発展させようとする努力によってのみ麻薬対策が成功し機能することをワシントンは理解しなかった。

この教訓から学ぶものは大きい。

 

==========<野口壽一>==========(11月15日)

ガニー政権下で国家和解高等評議会議長を務めていたアブドラ・アブドラ氏。報道によれば元大統領のカルザイ氏とともにカーブルに残ってターリバーンとの交渉に当たっている、とのこと彼のツイッターをみると、11月8日にカーブルに駐在しているパキスタン大使と会って「アフガンの現状および今後の永続的な平和と安定を促進する方法を検討した」という。結構な邸宅にお住いのようで翌日は、同じ応接間で国連アフガニスタン支援ミッションの副代表とお会いになっているようだ。カルザイ氏も同様にカーブルに残り、アブドラ氏と連動して行動している。
1996年の第1次ターリバーンカーブル開城の時にはナジブラー元大統領と弟らを惨殺し死体を凌辱のうえ広場につるすという残虐行為を行い(パシュトゥーンの伝統的懲罰法)、世界のヒンシュクをかったので、今回はその旧政権の二人を丁重に扱っているようだ。ターリバーンは格段に成長している。われわれ『ウエッブ・アフガン』のみたてによれば、そもそもガニー政権とターリバーンは一体=メダルの裏表で裏はアメリカが仕切っている(かなり下手を打ってるけど)。
ターリバーンの宿題は、広範な国民を包摂し支持される政権となること。明治維新では徳川政権の責任は東北列藩同盟にとらせて徳川時代の遺産をごっそり薩長がいただいた。ターリバーンも、ガニーには金をわたして逃がし(薩長も徳川慶喜を殺さなかった)、西側が築いた20年のインフラと人材を頂戴しようと考えているようだ。
果たして、ターリバーンはアブドラ氏らを使って日本のようにうまいことやれるだろうか。アフガニスタンの民衆レベルでは、ターリバーンよりもカルザイ・ガニ政権の評判は悪いんだけど、大丈夫?

 

 

==========<金子 明>==========

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers: A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第3弾。先週日本でも総選挙があったので、今回のテーマは選挙。みんな投票したかい?誰も言わんが、投票するにはハガキも身分証明書もいらない、ただ住所と氏名を告げればOK! そんな当然の権利に関する情報が国民に知らされていない。効率優先国家日本の問題はそこなんだよね。では、行こう:

—ラムズフェルド国防長官(記者会見で)
「アフガニスタンでは選挙などうまく行かないと皆が言った。『500年やったことがない。ターリバーンが立て直している。戻ってきてみんな殺すぞ。そしてわれわれは泥沼にはまる』とね。だが見て驚け。アフガニスタンで選挙だぞ。すごいだろ。

—東部ガズニ州に6か月駐留した大佐(1990年代バルカン戦争のベテラン)
「ボスニアとコソボでは、まず地域の選挙から始めて州選挙、国政選挙へと段階的に進めた。しかしアフガニスタンでやったことは全く逆だった。国民にまず大統領を選挙させた。そしてここらの人々はほとんどが投票の意味さえ知らなかった。そう、指に紫のインクを塗っていたよ。田舎の環境ではとても難しい試みだったと思うね。そう言えば、パトロールに出た部隊が尋ねられたことがあったな、『ロシア人が戻って来て何やってんだ?』とね。ここらの人々は米軍がいることすら知らなかったんだ。駐留して2、3年はたっていたのに。

—ゲイツ国防長官
「カルザイが軍閥と取引して選挙で詐欺を働いたのには訳がある。前回の選挙のようにわれわれが彼を支持しなかったので、彼はわれわれが自分から離れてしまったと気づいた んだ。そこでわれわれに基本的には『くたばってしまえ』と言ったんだ。」

—ノルウェーの外交官
(NATO国防相会議での発言前、隣席のゲイツにこっそりと)
「今から大臣たちにアフガンの選挙で露骨な干渉があったと伝える。ただそれが米国とホルブルック (訳注:オバマ政権下のアフガニスタン・パキスタン問題担当特使)の仕業だとは言わないよ 。」

—カルザイ大統領(2010年4月の演説)
「詐欺まみれの選挙となったのは私を陥れようとする外国人のせいだ。部外者が私への圧力を止めないなら、ターリバーンに加わることも辞さない 。」

 

アフガニスタンの女性国会議員ファウジア・クーフィ氏(バダフシャーン州選出)による自伝「お気に入りの娘」も面白い。彼女は投票所で誰々に入れろと指図している担当官を非難したり、反対派が捨てた自分宛の300票を見つけ出すなど、すったもんだの挙げ句当選した。アフガニスタンの国政選挙では各州で少なくとも2名の女性議員が選ばれるという割り当て制が採用されており、1800票でも当選だった。しかし彼女は8000票を集め、割り当てがなくても当選だったと自慢している。割り当て制について、女性の進出のためには良いことだと認めつつ、彼女は心配している。「そのせいで私たち女性議員が真剣に受け止めてもらえないかも。平等な場で人々の票を獲得したい」と

話は変わるが、戦前の英国映画はハリウッド製の米国映画には、人気実力ともはるかに及ばなかった。そこで国内の映画産業を守ろうとした政府は割り当て制を導入した。つまりある本数の映画を国内で作った会社だけが米国映画を輸入できると決めたのだ。その結果「クイッキー」と呼ばれる駄作群があたま数あわせのために乱造され、かえって英国映画の質を落としたという。

日本でも女性の政界進出を促すため割り当て制の導入が必要だ、他の先進国並みに、との声がある。政界のみならずすべての分野で女性の進出には大賛成だが、付け焼き刃的な対策はいかがなものかと考えさせられる逸話である。

(2021年11月8日)

 

==========<野口壽一>==========

精力的にアフガン情報を発信している長倉洋海さんのブログページで興味深い記事を拝見しました。
ターリバーンの州知事の1人が、フランス人ジャーナリストに「アフガニスタンはどこかわかりますか」と問われ、机の上にあった地球儀を手に取ったが、どこかわからない。「ココですよ」と指さされ、「あっ、このグリーンのところがそうだね」と答える動画です。【動画はここ】
この州知事は若い。40歳くらいかもしれません。ソ連軍の侵攻から40年以上たっているわけですか₉難民暮らしで満足な学校教育を受けたことがないのかもしれません。神学校(マドラサ)と言ってもモスクの片隅で床にあぐらをかいて体を揺らしながら熱心にコーランを暗唱している映像を見ます。コーランのみの授業しか受けたことがなく成人したのは自動小銃を抱えた戦場だったのかもしれません。悪評高いターリバーンですが、曲がりなりにも米欧軍を追い出し自分たちの世界を取り戻しつつあります。世の中はネット社会。いまは世界のどんな田舎でもネットで世界とつながっています。貪欲に外の世界の情報を吸収して自分たちの生活に生かしてほしいと願います。

(2021年11月9日)

 

==========<金子 明>==========

前回紹介した本「アフガニスタン・ペーパーズ」には面白い証言が満載なので引き続きいくつか。今回は米国がアフガニスタンで樹立を図った政権がいかに国の実情にそぐわなかったかを証言によって探ってみる。

EUの役人
「あとから見れば、中央集権を目指したのが最悪の判断だった。」

ドイツの高官
「ターリバーンが落ちたあと、われわれはすぐに大統領が必要だと考えたが、それは間違いだった。」

米国高官
「アメリカ型の大統領制など海外で決して通用しないのは知っての通りだ。なぜわれわれは中央集権政府を築き上げたのか、そんなものが一度もなかった場所で。」

米国の上級外交官
「強力な中央政府を築き上げるのに必要な時間枠は百年だ。われわれにそんな時間はなかった。」

米国務省主任報道官
「われわれは何をしているのかわからなかった。アフガニスタンが国としてうまく機能したのは、ある大物が出てきて種族と軍閥のごった煮をうまく料理したときだけ。しかも、お互いあんまり喧嘩するなよというレベルだ。それがわが国の州か何かのようになると思ったのがそもそもの間違い。おかげで2、3年で終わるはずがわれわれは15年も苦しんでいる。」

—ウルーズガン州駐留の大隊司令官
「まず、なぜ政府がいるのかを多くの人に証明しなければならなかった。みんな僻地の人だからね。いろんな場所があるだろうが、ともかくここでは中央政府が食わせてくれるわけじゃない。中央集権政府を持つメリットなど理解しないし見向きもしない。『羊と山羊と野菜をこの狭い土地で何百年も育ててきた。中央政府なんか持ったこともない。なぜいまさらそんなものがいるのかい?』とね。」

NATOカーブル本部に特派された米陸軍中佐
「彼らは家族や種族に対してとても長い忠誠の歴史を持っている。チャグチャラン(訳注:ヘラートの西380キロ、アフガン中部の町)の通りで座っている男にとっては、ハーミド・カルザイ大統領が何者かも、カーブルで政府を代表していることもまったく興味外だ。モンティ・パイソンの映画を思い出したよ。ほら王が泥まみれの農民のそばを馬で行くだろ。農民に向かってこう言った、『我は王だ。』すると農民は振り返って『王って何だ?』と返すやつ。」

ちなみにモンティ・パイソンの映画とは1975年公開の「モンティ・パイソンと聖杯」で、正しくはこんな会話が交わされる:
王「我はアーサー、ブリトンの王だ。あれは誰の城か?」
女「何の王だって?」
王「ブリトンだ。」
女「ブリトンって何よ?」
ところで、このアーサーは馬に乗っているのではない。後につく従者がココナッツをたたいて蹄の音を響かせ、ただパカランパカランとトロット走りをしているだけ。何とも辛辣なたとえではある。

どうやらこのタイプの政府を樹立したことそのものが間違いだったようで、それを認めるのは勝手だが、残された国民はたまったものじゃない。

(2021年11月1日)

 

==========<野口壽一>==========

衆院総選挙、驚きました。
大阪選挙区では自民全滅。公明党との合意のもと議席をゆずった4選挙区以外の15選挙区はすべて維新の勝ちです。いうならば維公全勝。ターリバーンのカーブル無血開城の時以上の驚きです。

マスメディアの評価は、まあ、可もなく不可もなし、というところでしょうか。
<毎日新聞>「勝者なしという民意」
<朝日新聞>「政権与党の〝勝ちすぎ〟を嫌ったものではあっても、政権交代を求めるものではなかった」
<日経新聞>「争点なき政治の危機」
<讀賣新聞>「与野党のどちらにも、〝追い風〟は吹かなかった」
<産経新聞>「安定勢力で成果を挙げよ 対中抑止に本腰を入れる時」

野党がだらしないというか、経済にしろコロナにしろ、安全保障にせよ、与野党の主張に大差なし(共産党を除く)の現状では、有権者としても燃えようがない。「候補者の人柄や主張をよく検討して必ず投票に行こう」とマスコミは言うが、現状の小選挙区制のもとではそんな選択はできない。日本の政治はとっくに政党政治に切り替わっているのだ。
そんななか、大阪小選挙区の結果には驚愕する。19小選挙区のうち維新が15、のこり4区は公明だ。しかも維新と公明はお互いに対立候補をださない協定を結んでいる。つまり、維公100%勝利である。自民全敗。小選挙区制の特徴をかくも見事に具現化した選挙結果を初めてみた。大方の批評では、コロナで顔と名前を売った吉村知事の功績と分析しているが、ひとたびポピュリズムの風が吹けば一夜にして天地がひっくり返るほどの変化に見舞われかねない脆弱な議会制度のもとにわが国はあるのだな、と実感した。
政治の劣化は言われて久しいが、官僚機構も大企業もそれに負けず劣らず劣化している。今の政治システムのままだと、ある日突然大激変ということがありうるのではないか。

(2021年11月1日)

 

==========<金子 明>==========

ターリバーンが旧政権を追い出して2か月になる。この間に当サイトにもいろいろな記事を上げてきたが、その中に「アフガニスタン・ペーパーズ(Afghanistan Papers)」を引用した記述があり、興味を持った。そこで、いい世の中になったなあと思いつつキンドルをクリックし即座に入手した。ワシントンポスト紙の記者が米政府を相手に裁判を起こし、勝訴。いくつかの極秘文書を公開させ、それをもとに書いた記事を書籍化したという。なるほど、米国では不都合な書類でも溶解したりはせず、また経口歴史というインタビューによる歴史記録が調査学問としてあるのかと感心した。いいとこどりではあろうが、うまく章立てされており解説文も楽しめた。紹介がてら少し引用すると:

国軍の兵士について/ブートキャンプの教官だった米軍少佐
「基礎訓練で脱落する者はいない。50回引き金が引ければ全部はずれでも  問題なし。弾の飛ぶ方向が正しければ良しとされた。」
アフガン警察について/警察を指導した米国家警備隊少佐
「問題があっても警察には行かないで村の長老に訴える。長老はそいつが気に入れば好きなようにしろと言い、気に入らなければ羊か山羊を持ってこないと撃ち殺すぞと脅す。」
カルザイ大統領について/国際麻薬法執行局アフガニスタン支部長
「麻薬対策をカルザイに強制するのは米大統領にミシシッピ川以西の米経済を全て停止せよと要請するのと同じ。それほどインパクトのある要請だ。」
ケシ栽培について/麻薬撲滅作戦の指南役を務めた米国家警備隊大佐
「ヘルマンド州の人たちは収入の9割をケシの売り上げに頼っている。それを取り上げるのがこの作戦だ。そう、もちろん彼らは武器を手にして撃ってくる。生計を奪ったのだから。食わせる家族がいるのに。」
汚職について/米国務省アドバイザー
「汚職はアフガンの問題でわれわれがそれを解決すると大方は思っている。しかし汚職には材料がいる。金だ。その金を持っていたのがわれわれだった。」
汚職について/在カーブル米大使館の高級外交官
「もちろん悲しくてうかつな話だが、われわれが成し遂げたことはただひとつ、汚職の大量生産だったのかも知れない。この失敗がわれわれの努力の終着点だ。」
腐敗選挙について/カーブルで勤務したドイツ人官吏
「人々はお互いに言ったものさ。だれだれが米大使館に行ってこの金額をもらったと。聞いたものは『よし、俺も行こう』と続いた。つまり彼らの民主主義とは最初から金にまみれた体験だった。」
「ターリバーンが橋を壊した。アメリカ人の役人は付け替えたい。1週間もしないうちに町の建設会社に新たな橋の建設を発注した。その社長の弟は地元ターリバーンのメンバーで、2人の事業は大盛況。知らぬはアメリカ人ばかりだった。」

米国が「やーめた」と放り出したあとアフガニスタンでこれから何が起こるのか。それを考える上で、この20年間に米国が果たした役割、その功罪について知っておくことは大切だろう。アフガニスタンに興味を持つものにとって必読の一冊である。

(2021年10月18日)

 

==========<野口壽一>==========

ターリバーンがカーブルに入城して2か月。編集部にはさまざまな情報が届くようになった。原理主義のターリバーンといえども、20年前そのままを実行するわけにいかないのだろう。

カーブル市内を巡回するターリバーンの一般兵は相変わらずに見えるが、スマホ手に自撮りをしている映像が流れてきたりする。そもそも大統領府にはいって大統領執務室からの映像も、20年前なら略奪されるか破壊されそうな絵画の前に陣取ってポーズを取ったりしている。拉致犯と称して殺害し市中にさらしたりつるし首のリンチをしたりしているのは相変わらずだ。しかも今回も、与しやすいと見たのか、女性隔離だけは多少の手直しをして厳格に実施している。しかし、女性の反撃はすさまじい。銃で脅しても効き目はなさそうだ。学校に行く権利ももちろんだが、生きていくための最低限の要求、仕事や食糧の確保に必死だからだ。

アフガニスタンの冬は厳しい。冬は戦闘も中止だった。今回は行政能力のない、しかも外国からの援助も途絶えたターリバーン統治のアフガニスタンだ。家があっても食料が乏しいのに、家のない国内避難民だけでも数十万人いるという。餓死、凍死の危険が迫っている。

そんななかでISによる爆破テロが増えてきている。内輪もめ、内部対立も厳しくなっているのだろう。悲惨なニュースを収集して危機感をあおるだけではだめだと思って、できるだけ未来のある情報を探っている。これまでは海外に避難しているアフガン人からの情報が多かったが、今回は、アメリカ初の女性解放運動『One Billion Rising』の活動を紹介することができた。趣旨、活動内容、規模のどれを取ってみても心強い運動だ。日本であまり知られていないのが意外だったが、世界では有名な運動だ。こんなところにも内向き日本の弊害がでているようだ。今後、この運動には注目していこうと思う。

(2021年10月18日)

 

==========<金子 明>==========

1994年春、館山行きの各駅停車でたまたま隣席だった老婦人と話をした。彼女は内房にあるとある宗教施設で開かれる「集まり」に行く途中だと言う。東京の東部にある町のタバコ屋の看板娘だったとのことで、確かに端正な顔立ちだった。

話しているうちに「ご主人はお元気ですか?」と聞くと、面白い返事がかえってきた。「ある日、消えたのです」と。彼女の夫は戦中モンゴルでラマ僧をしていた。日本のスパイである。市場などをうろつき人々の噂話を収集し軍部に報告していたらしい。帰国後彼女と結婚して家庭を築き、何不自由なく暮らしていたが、終戦から45年を過ぎて忽然と姿を消した。「モンゴルのうちに戻ったのでしょう」と語る彼女に夫を取り戻したいという思いはまったく見えず、かの地でもうひとつの家族と幸せな最後を迎えて欲しいと願っているようだった。いまとなっては彼の諜報活動の成果を評価する術はない。また莫大な量の情報が電話とインターネットを介して伝達される現代において、市場で交わされる人々の会話がどれほど諜報的意味を持つかは知らない。

ただそんな昔話を思い出したのは、アフガニスタンでは特に地方では未だにこうした原初的な情報がものを言うかもしれないと感じたからである。

このサイトはアフガニスタンに関するさまざまな情報をインタラクティブに提供しあう場である。
・米国が20年前に侵攻し滅ぼしたのがターリバーン政権で、いま米軍がきえターリバーンが再び政権につくのなら、この20年はいったい何だったのか?
それは誰もがいだく疑問だろう。米軍の撤退でいきなり火がついた報道合戦からは異なった視点で、この疑問へのこたえをさぐっていきたい。そのために、手元にとどいた質問をファテー・サミ氏らこのサイトの情報源にぶつけていく。
・6月に直接対談したガニーとバイデンだが、今になってその中身が漏れ聞こえてくることがあるか?
・各所でおきていた反ターリバーンの民衆蜂起は制圧されてしまったのか?
・パキスタンがターリバーンへの支援を真っ向から否定するのはなぜか、またパキスタン軍はどこまで関与しているのか?
・インドは現状をどう見て、今後どんな行動に出るのか?
・中国はターリバーン政権を認めそうだが、国内の対イスラム政策への影響は?
など。こうした質問へのこたえの中にアフガニスタンの現状を読み解き、将来の平和につながる手がかりが見えてくることを期待している。

(2021年9月2日)

 

==========<野口壽一>==========

9月1日のグランドオープンに向けた編集作業はアフガニスタン現地同様、激動の日々だった。
トピックスの編集のため海外メディアの報道をフォローするだけで日が暮れる。アフガニスタン問題を根底から理解するための書籍や日本の政府機関、研究機関の研究や提言のなかから、今必要なものをピックアップするだけで何日も過ぎてしまう。その間に見るのはアメリカ軍のもたもたした撤収模様。IS-Kの自爆攻撃。カーブル空港での混乱や自衛隊機の空輸作戦の失敗など、記録に残したくもない悲劇が繰り広げられる。(下の絵を描いたサラ・ラフマニさんはアフガン出身。カリフォルニア在住。詳しくはここをご覧ください。)
悲劇の舞台となったカーブル空港。僕らが何度も離着陸したことのある、あのカーブル空港。周囲を山に囲まれた狭い空港の滑走路に直進して着陸するにはその山をすれすれに飛ばなければならない。そうすると、アメリカがムジャヒディンに供与したスティンガーミサイルの格好の餌食となってしまう。だから、着陸も離陸も、空港上空でらせんを描きながら下降上昇し、加えて熱戦追尾式ミサイルであるスティンガーの追尾をくらますため、フレアを撒きらせん状に下降上昇する。ぐるぐる渦巻くフレアの炎と白い煙が空中芸術のように青空に映えた。
離陸する米軍輸送機にしがみついて振り落とされる人影の映像。カーブルに残るリスクより振り落とされて死ぬリスクの方が小さいと考える究極の行動判断。フレアを撒きながららせんを描いて上昇する航空機に乗って自分は帰ってきた。あのときのカーブル空港も戦場だったんだな。

もうひとつ。「アフガンの声」でFateh Sami氏が強調する、アフガン市民の戦う意欲。ガニー政権の指示でターリバーンに投降する国軍とは異なり、腐りきったシステムの下でも市民的権利と自由を築きつつあった人びとがいる。日本ではほとんど報道されないが、アフガニスタン国内にも国外にもたくさんのアフガン人が戦いに立ち上がろうとしている。その端緒を、8月28日の世界35カ国一斉行動に見た。今回はアムステルダムとロンドンしか紹介できなかったが、ネット上には難民として国外に出ざるを得なかった人びとが現地の心ある人びとと一緒に行動に立ち上がっている。確かに、ターリバーンの8月15日のカーブル占拠は、こんどこそアフガン人の手で中世の闇を終わらせるその始まりの日に違いない、と確信した。しかも、このふたつの都市の行動の先頭に立っているのは女性たちだ。日本アフガン合作記録映画『よみがえれカレーズ』の撮影に同行した時、監督の土本典昭さんが「その国の社会がどんなものか見るには女性や子供や老人や障がい者などをどうあつかっているか観察するのが一番だ」と繰り返されていたのを思い出す。今号のトップで紹介した詩「ガニーを逮捕せよ」の作者もヘラートの女性活動家だ。
アフガニスタンの女性たちは確実に新しい社会の扉をひらく強力な導き手だ。

(2021年9月1日)

 

=======<金子 明>=======

バーミヤンがあるくらいだから、大むかしは仏教がさかんだったんだろう。
立派な絨毯が有名みたいだけど、高いしうちには必要ないね。殺された中村哲さんは残念だったな。そういや、タリバーンのオマル師はどうなったの?アフガニスタンと聞いて思いつくのはそれくらいだった。しかし、このサイトを立ち上げた野口さんと最近であい、この国では数十年も内戦状態が続いていることを思い出した。なかは多民族でまとまりを欠いてぐちゃぐちゃ。そとはまわりや遠方のいろんな国からちょっかいをだされて大変。悲惨だなあ。日本は平和でよかったね、と通りすぎるのがおおかたの日本人だろう。
しかし、「最後の焼け跡派」を自称する自分にとって、戦争にはみすごせぬ魅力がある。ひいじいさんは、高砂の底のほうで機械をいじっていたため今も旅順港に沈んでいる。とうちゃんは、開拓義勇軍として張学良の兵舎を守っていたというが、戦後6年間もシベリアでおつとめ。帰宅時、見たこともない弟(わたしのおじ)がたまげて逃げ、「のきに乞食がおるがあ」と家人に訴えた。かあちゃんの小学校の先生は、生徒の胸に輝く万年筆をみつけて取り上げたが、爆発して片腕になった。その万年筆は米機が落とした仕掛け爆弾だった。
このたび、米軍が撤退するのにあわせて、戦闘も激しくなっている。たんに遠い国のはなしではない。アフガニスタンは隣国の隣国である。これまでの経験とひまな午前中と週末が、その和平にほんのちょっとでも貢献できればこれ以上のしあわせはない。

金子明 略歴 1958年愛媛県生まれ 元テレビの派遣ディレクター 担当した番組は「朝まで生テレビ」「知ってるつもり」「ステーションEYE」「どうぶつ奇想天外!」「見える歴史」「おはなしのくに」など 現在は放課後児童クラブの補助員

 

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=======<野口壽一>=======

思えばいつの間にかアフガニスタンとの付き合いは41年を超えた。
1979年12月、ソ連軍がアフガニスタンに進駐。世界中が大騒ぎとなった。西側諸国はこぞって制裁をかけ翌年のモスクワオリンピックもボイコットしアフガニスタンへの正式取材もされなくなった。
そんななか、駐日アフガン大使と知り合い日本から最初の正式取材記者としてジャーナリストビザを獲得。1980年8月、タイ、インドを経由して42日間現地を取材した。帰国後、アフガニスタンでなにが起きているのか、スライドプロジェクターをかついで日本中で報告しまくった。翌年、写真記録『新生アフガニスタンへの旅』を上梓。さまざまな人びとと知り合いになり<アフガニスタンを知る会>をつくり、数年後<アフガニスタン友好協会>に発展させ友好連帯活動に走りまわった。その間、内戦が激しくなって中止するまで数年にわたって延べ100人以上を友好訪問団としてアフガニスタンへ派遣したり、鉛筆5万本やノート、古着など支援物資をコンテナ便で何度か送った。87年にはアフガニスタン政府からの要請をうけ新社会建設を支援するため貿易を主とする株式会社キャラバンを設立。88年から89年にかけては土本典昭監督の『よみがえれカレーズ』の制作に原案者としてかかわり、88年4月から同年10月までの半年間は、奈良で開かれた「なら・シルクロード博覧会」にアフガニスタンを代表してアフガン文物を出展販売した。1991年ソ連崩壊、92年アフガニスタン共和国崩壊により、アフガニスタンとの連絡が絶たれた。以後、北部同盟政権下で内戦はより激しくなり、タリバンが登場するにおよびますますアフガニスタン本国との関係は疎遠となり、亡命して各国に散った友人たちと連絡を取り合うだけの関係となった。2001年、9.11事件が起き、アフガニスタンは再び世界政治のホットスポットとなった。アメリカと有志連合がアフガニスタンに侵攻しタリバン政府を倒し、EUと日本など西側諸国が援助してアフガニスタンの平和と発展を支えることとなった。日本は経済や技術での支援を担当し東京会議が開かれた。2003年2月にはカルザイ大統領以下新政権のトップが東京に勢ぞろいした。このとき、新政権の支持を要請され、カルザイ大統領(写真中央。その左はアブドゥラー氏)との面会が設定され帝国ホテルで待つこと5時間、天皇や首相らとの会見で時間が取れなくなった大統領に代わりNo.2のアブドゥラー氏と面談することとなった。(写真下。アブドゥラー氏と名刺交換)駐日大使館も日米の支援で新規開設され豪華な館となった。アブドゥラー氏はマスード氏の盟友でありアメリカ主導の政権とはいえタリバン政権よりはましだと思ったが、自分がしゃしゃりでる幕ではないと判断し、新政権とは距離をおくこととした。アフガニスタンにおける革命、新社会の建設はいかにすれば可能なのか、研究活動に活動の軸足を移した。折から元駐日アフガニスタン大使でアフガニスタン共和国最後の副大統領としてマスード氏ら北部同盟への平和的な権力移行を実現したあと国外に亡命していたアブドゥル・ハミド・ムータット氏と文通・面談しながら研究を継続した。その間、ムータット氏は回想録の形で自らの経験を総括する文章を英文化し野口に託された。それを翻訳し2018年に日本語版を回想録『わが政府 かく崩壊せり』として出版した。
20年、ソ連の駐留のちょうど倍の年数、アメリカはアフガニスタンで戦争をつづけ、ついに勝利することなく完全撤退することとなった。日本はコロナとオリパラに目を奪われ、マスコミ的にはアフガニスタンは他人ごとの扱いだが、今年の秋以降、アフガニスタンでは戦争がおわらないどころか、三度目の国際政治の焦点となることは必定である。次に来る焦点化はこれまでと決定的に違うものになるかもしれない。それは、アフガニスタンで敗北したアメリカが、この問題を新疆ウイグル問題とからめて対中戦略に組み込む可能性があるからだ。アフガニスタンでの戦争を長引かせ西と東(台湾、南シナ海)に火種を仕込み中国を締め上げようとする。香港で強行的に50年契約を破棄した中国はその挑発に乗りかねない。そんななかで日本政府はどうする? いやおうなく政府の動向に支配される国民、自分たちはどう考える? どうする?
目を見開いて国際情勢を見つめなければ流される。

(2021年7月22日 14:39:09)

野口壽一 略歴 1948年鹿児島県生まれ 1980年夏アフガニスタンを単独取材し翌年<写真記録>『新生アフガニスタンへの旅』を上梓。2018年元アフガニスタン共和国副大統領の回想録『わが政府 かく崩壊せり』を翻訳出版。元株式会社キャラバン代表取締役、インターネットによるベンチャー支援組織「246コミュニティ」創設世話人、現在フェニックス・ラボラトリー合同会社代表。