編集室から

==========<金子 明>==========(2022年12月5日)

(写真は、雑誌「ニューヨーカー」2021年12月27日付けエリザ・グリスウォルドによる記事「アメリカが後に残したアフガン人」より。つぶやきはその抜粋・翻訳https://www.newyorker.com/magazine/2021/12/27/the-afghans-america-left-behindより)

アメリカに賛同し協力した。だが、いざという時にハシゴを外された。すると、どうなるか?

-1956年、ポーランドとハンガリーの反体制派が通りに出たが、彼らを支えるはずだったが戦争を恐れた米国は、彼らだけにソ連の戦車と対峙させた。

-70年代、ベトナム撤退後に協力者と疑われた推定100万人が収容所に投獄された

-2011年、イラク撤退時、基地内で守られ暮らす地元民がいた。国際難民支援プロジェクトの事務局長ベッカ・ヘラーによると「クライアントたちは出口まで丁寧にエスコートされた。だが誰もタクシーの1台も、呼ばなかった。彼らはその後、何年も米国特別移民査証を待つ羽目となった。隠れる場所もなく。」

アフガニスタンも同じパターンだった。

-1979年、ソ連が侵略したとき、米国は反乱分子ムジャヒディーンを支え、戦争によって住処をなくした市民に何百万ドルもの金を注ぎ込んだ。しかしソ連撤退後、その金を止めると、国は飢餓と大移動に見舞われた。政治アナリストで元イタリア駐在アフガン大使のヘレナ・マリクヤールによると「米国はその目的を達したと知るや即、アフガニスタンを見捨てた。」その結果生じた混沌の中、前ムジャヒディーンが興したターリバーンが権力についた。

-2001年、米国が侵略したとき、通訳、警察官、軍人として働くアフガン人に頼った。見返りは保護。ただし査証発給には時間がかかり、現地人の中には報復されるものもいた。

-2013年、サンジンという町から米軍が撤収を始めたとき、ターリバーンは報復戦を仕掛け、何百ものアフガン人警察官及び軍人を殺した。先のヘラー事務局長によると「我々の言い草はこうだ、『おいで、一緒に働こう。危ないのは知っているよ。背中に標的を背負うようなもんだね。でも、きみを守るから。』実際は、守らなかった。」

前置きが長くなったが、今回紹介するのは、アフガン女性ザルミナ・ファキールと米ジャーナリストのエリザ・グリスウォルドの物語だ。二人が出会ったのは、サンジンの虐殺の前年、2012年。場所はカーブルだった。当時エリザは写真家・記録映画監督のシーマス・マーフィーと一緒に、米雑誌「詩」のため活動していた。「ランデイズ」と呼ばれる地元の二行連を収集していたのだ。女性が日々の暮らしを詠み、歌う。例えば「姉妹が集まり座ると、必ず兄弟の誰かを讃える。兄弟が集まり座ると、必ず姉妹を誰かに売る。」「愛しいあなた、あなたはまるでアメリカ。あなたは罪を犯し、謝るのはわたし。」

前任のパシュトゥー語通訳が心臓麻痺で死に、ファキールが紹介された。長い車での移動中、彼女は後部座席でしゃべり続ける。たまらずシーマスは、助手席の窓から首を出し静寂を求めるが、効果無し。市場に行くと金の鼻輪・首輪売り場をハシゴ。「アメリカがいなくなったら、金が入らなくなったら、その浪費を後悔するわよ」と忠告しても聞かない。メークはいつもばっちりで、履くのは高いヒールばかり。エリザがスニーカーを履いているのは妊娠しているからと知ると、こんなフレーズを教えてくれた、「ズマ、マシューム、ハレク、デイ」(赤ん坊は男の子)。それを聞くと女性たちは喝采するが、超音波診断を知らない地域では、ファキールに「エリザは魔女か」と質問が浴びせられた。

田舎に行くほど、人々の口は重い。そんなとき、ファキールはこう言った、「私は『新しい家、新しい暮らし』のゴータイよ」と。すると、口を開かぬ決意に満ちていた人々が、驚き、クッションとお茶を差し出した。さて、このファキールとは何者か?

北部のクンドゥズ州で小麦農家だった彼女の父親は、ソ連占領時代の1985年、アフガニスタンから逃げ出した。生後半年のファキールを背負い、妻と共に徒歩で雪のヒンドゥークシを越えた。ペシャワールで警備員の仕事につき、さらに5人の子に恵まれた。1995年にその父が死んだ。一家は小学校の一室で暮らした。それから6年後、16歳になったファキールは中学教師として月5ドルを稼ぎ、一家の暮らしを支えていた。

そんな2001年の7月、ペシャワールのBBCが新ラジオドラマのオーディションを開いた。ファキールは「今よりは稼げるだろう」と応募した。ライバルは7人。みな経験者だった。マイクの前でうまくしゃべれず、「バス賃を無駄にした」と泣きながらバス停まで歩いた。

二週間後、中学校に電話が来た。相手はBBCで「あなたが仕事を得ました」と言った。ギャラは月100ドル。録音は8月に始まった。彼女の役は、ゴータイ。最近イランからアフガニスタンに帰国した母親で、嫁は家にいるべきという舅に逆らい、小さな店を開き、懸命に生きる。このよろめきドラマ「新しい家、新しい暮らし」は、放送されるや、7百万の聴取者を数える一番人気の番組となった。

秘密の恋、女性の進出に加え、ワクチン啓蒙などの社会メッセージにもあふれ、ファキールによると、みなが聴いた。「ターリバーンも聴いた、やることがないから。」ファキールは得た金を使い、英語とコンピューターを学んだ。一家は別の借家に引っ越した。子供たちの学費を出し、初めてのテレビを買った。

10月、アメリカがアフガニスタンに侵攻した。ターリバーンが落ちアフガニスタンには新たな可能性が芽生えた。ターリバーンを避けてぺシャワールに疎開していたBBCは、翌年カーブルに戻った。やがて、ファキールも家族ごと後を追った。4歳下の妹ミーナも「新しい家、新しい暮らし」で役を得た。学校に行く権利を巡り父親と喧嘩する少女の役だった。

故郷クンドゥーズの村では、一家が街でどうやって暮らしを支えているのかが話題になった。いとこが上京して訪ねて来ても、ラジオの役については秘密だった。人々が、高級な絨毯や皿に盛られた大量の米や肉をいぶかっても無視した。ファキールによると「村の男たちはつらい状況にいた。なのに私はあれほど多くを稼ぐ。それは何かの間違いだった。」

アメリカ人と共働するさいの違和感が「何かの間違い」とよく表現された。「民主主義建設」ほか、アメリカの計画を遂行するため、何十億ドルもの外国資金がアフガニスタンに注ぎ込まれていた。新市民社会を支える様々な仕事がよりどりみどりで、どれも一日数百ドルを稼げた。トヨタカローラに乗りボリウッド音楽を大音量で響かせるトレンディーなカーブルっ子が街に溢れた。

その裏で、怒りがくすぶっていた。居住区では米兵が夜間攻撃を繰り返した。空爆は結婚式を誤爆し、市民を殺した。ファキールによると「みな、NGOで働く女性をあしざまに言った。」

2005年、ファキールは副業として、アーカンサス州リトルロックから来た警官トーリー・コッブの通訳を始めた。トーリーはアフガニスタンの女性警官を訓練していた。給与は月450ドルだったが、危険を伴った。詰め所がしょっちゅう自爆テロの標的にされ、従業員が乗るバスも狙われた。「バスに乗るときは、いつも今日死ぬのね」とファキールは考えた。一度、守衛が吹き飛ばされて、電線に引っかかるのを見た。

同僚たちはアフガン警察で働いたらと勧めたが、丁寧に断った。警官登録した女性に関する噂をよく聞いていたのだ。ファキールによると「人々は彼女たちが上官とセックスしていると言っていた。」

「独立を味わえる」とグルメな外食が好きなファキールは目立ちもした。その年のある午後、ミーナと弟の三人で銀行に向かっていたとき、白装束の男たちに尾行された。二人を両脇に抱えて、銀行に飛び込んだ。ラジオ局の同僚に電話し、車を回させた。二人にまっすぐ家に帰るよう命じて、自分はその車で出勤した。男たちは夜まで銀行を取り囲んでいたという。

やがてドラマ以外に、ラジオ番組の司会もするようになった。ときおり、ターリバーンがそのトークショーに電話をかけてきて「女がラジオに出るのはイスラーム法に反する」と脅した。でも話しているうちに仲良くなり、最後は「何か曲のリクエストがあるんでしょ」と水を向けると、素直に曲名を告げた。「みんながみんな、指導者みたいな堅物じゃないのよ」とは、彼女のターリバーン観である。

とうとう遠い従兄弟の一人が、ラジオの彼女の声に気づいた。別の従兄弟に「あいつを殺す」と告げた。ファキールは村へと旅して、その従兄弟と対決した。「邪悪な計画」を非難し、恥を知れと諭した。彼は心を折られたようだった。その頃のファキールは、「何も自分を害せられないと信じていた。」

こんな日々に、ファキールとエリザたちは出会い、詩を収集し、ボスのシーマスは彼女のやかましさに辟易した。しかし収集の仕事はやがて終わる。翌2013年の夏エリザたちは帰国した。それから数週間たった7月のある日、「アフガニスタンイスラム首長国」のレターヘッドにしたためた一通の手紙が、ファキールの家の玄関に差し込まれた。

「我々はこの8年間、貴殿のアメリカとの関わりを追ってきた。貴殿はアメリカ女性と共にいる所を見られた。よってその行為に対する処罰を受けねばならない。この手紙で死刑を宣告する。貴殿は家の外に出たと見られれば、イスラーム法によって殺される。言い逃れは、もはや許されない。」

【続く】

 

==========<野口壽一>==========(2022年12月5日)

昨日12月4日、中村哲さんが凶弾に倒れて3年。地元の福岡をはじめ日本各地で中村さんや同時に殉難したアフガン人スタッフの方々をしのびペシャワル会の偉業に敬意を払う行事が執り行われました。東京でも、在日アフガニスタン人が中心になって「在日アフガン人による故中村哲氏3周年追悼の会」が催され、出席してきました。

追悼会は、当然のことアフガン人の姿が大多数でしたが、ペシャワル会はじめ関係する日本人も多く、予定の50名をオーバーする人々が参列しました。式は午後2時に厳かな中にもしめやかな雰囲気で始まりました。開会宣言のあとアフガニスタン国家の斉唱があり、中村哲医師の遺影にむけて全員が起立し黙とうを捧げました。そのあと、駐日アフガニスタン大使、ペシャワル会代表のスピーチがあり、本日のメインである、中村さんの活動を映したビデオ『荒野に希望の灯をともす』が上映されました。

中村さんたちの35年におよぶ活動の記録は、現在、同名の劇場版として各地で上映されています。ご覧になった方も多いと思います。ここに来る前にも「観たよ」という声を何人からも聞きましたが、まわりのほとんどをアフガン人に囲まれ、瀟洒なアフガン大使館のなかで観るのはっひときわ感慨深いものがありました。

しかもアフガン大使館はかつて246コミュニティでベンチャー支援をして、シリコンバレーやロサンゼルスの風を日本に吹かせていたころ(笑)何度かパーティーに呼ばれたアメリカンクラブのすぐ左隣にあります。飯倉交差点から外苑東通りをちょっと登ってロシア大使館の手前を左折しその壁沿いに歩いてすぐのつきあたりです。
アメリカンクラブは、なんの因果か、旧ソ連大使館の裏側に隣接しています。アフガニスタンの新社会建設の応援をしていたころ、アフガン革命を軍事支援していたソ連が写したアフガン関連記録映像を何本も見せられたのも大使館内にある講堂でした。アフガニスタンは悠久の大昔のシルクロードの交差点であるだけでなく、現代世界政治の〝へそ〟に寄り添って佇んでいるのでした。

中村さんたちの映画の後はアフガニスタン名物のナッツやドライフルーツをつまみながらこれまたアフガン伝統のチャイ(紅茶)タイム。約2時間の追悼会は滞りなく閉じられました。

中村さんはもはや聖人の域に達し、現地アフガニスタンには中村さんを追悼する記念公園が作られ、その中央には中村さんの偉業をたたえる記念塔が建設され、アフガニスタンに新設されたひとつの聖廟というたたずまいです。今年夏、そこを訪れたアフガン人のビデオでは、男性ばかりのターリバーンの一団が緑鮮やかな芝生の上に車座になってお茶を飲み語らっている平和な姿が記録されていました。

中村哲さんは私より2歳上、学年では1年上のまさに同世代で、九州大学と東京工業大学という地理的には離れた地でしたが同じ時代の空気を吸い、同じような思いをアフガニスタンから与えられ、同じような時代に活動を始めました。しかしそれからの約半世紀、中村さんと中村さんを支えた人々の活動の成功は(中村さんたちはまだ志半ばというでしょうが)、まさに、政治の敗北を明かしだすこととなりました。まだ「敗北」というには早いのかもしれませんが、日本の、心ある人々にとって日本の政治の「劣化」はもはや常識となっています。アメリカンクラブと旧ソ連現ロシア大使館に囲まれ(守られ?)る形で袋小路の奥に蟄居していると見える在東京アフガニスタン大使館の姿と対面すると、胸が締め付けられます。

追悼会が終わり帰ろうとアフガン大使館正門を出てすぐ左をみると芝生で覆われた築山に何かの記念碑があります。近寄ると国土交通省国土地理院が建てた「日本経緯度原点」でした。説明版には「我が国の経度・緯度を決める基準となる日本経度緯度原点が設置されている」ところだそうです。明治になって日本が西洋世界に認められ一部となるときに地球上の基準点を定めた由緒ある地点だそうです。アフガン大使館、アメリカが90年の歴史を誇るアメリカンクラブ、ロシア大使館に囲まれる形で日本の経度緯度原点がある、というのは歴史の偶然でしょうか、運命でしょうか、それとも皮肉・冷笑でしょうか。

 

 

==========<金子 明>==========(2022年11月25日)

『アフガニスタンの一番長い日』、今回はそのパート3で最終回。これまで同様、米国政府「アフガニスタン復興特別査察官(SIGAR)」の今年8月9日付け報告から翻訳・抜粋する。

(写真は、階段を急ぎ降りるありし日のガニーとその取り巻きたち/ハシュテ・スブ・デイリー2021年12月18日記事より)

「大統領官邸にあったと言われる5百万ドルよりも、はるかに謎めいた金の流れがある。それは国家保安局の運用資金だ。」その額は年に2億2千5百万ドル。うち数千万ドルが現金で飛び交うとは、さすがに一国の諜報予算だ。去年の夏に手元のキャッシュを数えたら、7千万ドルを越えたという。ある国の公共放送機関が貯め込んだ20億ドル(当時)は、桁違いにすごいけど。

さて、そのキャッシュの多くはターリバーンに敵対する軍閥への支援や地域の黒幕たちの懐柔に使われる。ターリバーンが迫る中、去年8月にその準備高は頂点に達した。ある元高官の証言:「最後の頃は、武器を買うための大金を各地に送った。州知事たちの要請があった。それには国家保安局の資金だけが頼りで、族長など様々な人に大金を届けて回った。」ところが、その直後に妙なことが起きる。政府崩壊に際し、数百万から数千万ドル単位で国家保安局の金庫から現金が消えていたのだ。

つまり8月14日の時点で、米ドル札はすでに底をついていた。翌日ターリバーンが来た。すると今度は少額のアフガニ札を残し金庫はすべて空っぽになった。何が起きたのか?「事前に盗まれた金などない。全部ターリバーンが持ち出したのさ」と証言する元政府高官(2人)がいる。「出納係がターリバーンの横に座って、ここ数か月の資金の動きを逐一説明した。財務省からいくらもらって、いくら使い、いくら金庫にしまったか、正確にね。さしものターリバーンも盗まれた金はないと、納得したんだ」と2人は言う。

しかし、以下のような証言もあるので一筋縄ではいかない、「局の現ナマに近づける者は、まずほとんどいない。ところが政府崩壊の2週間前に、鍵を握る男つまり出金担当の出納係がクビになった。」さらに別の元高官「その出納係だが、クビになったあともボランティアで仕事を続けていた。ただし、金庫の鍵は持たされなかった。」その上、「金庫の鍵はたったの1セットで、その男がいつも持っていた」という証言まであるから、話はこんがらがる。

そこへ、とどめの証言。ある元政府高官いわく、「政府が崩壊するとき、鍵を握る出納係のクビをすげ替えるのは、その混乱に乗じて資金をうまく盗むための常套手段だ。」彼は政府のある部署で金庫番をしていたのだが、その話は生々しい・・・

私が担当していたのは、3千9百万ドルが保管されている政府の金庫だった。他の部署と比べれば、キャッシュの比率は高い。政府崩壊の1週間前ころ男たちがやって来た。2手に分かれて私をそそのかす。いわゆる「良い警官」「悪い警官」だ。

良い警官「崩壊は近い、金庫を開けて現ナマをみんなで分けよう。」

悪い警官「だまって言うことを聞け、さもないとひどい目に遭うぞ。」

良い警官「よしよし、ではこうしよう。君の替わりにこの男を雇って財務を任せたらどうかな。万事うまく行くよ。」

結局、私は良い警官の提案を飲んだ。すると悪い警官も急に優しい顔になった。良い警官はすかさず書類を出した。「さあ、ここに正式なサインを。そうすれば半分の2千万ドルは、君の物だ。」こうして私は仕事を他人に譲り、崩壊の直前に出国した。

しぶといSIGARも、その捜査手段は聞き込みしかない。盗まれた紙幣の番号も記録されてはいない。頼みの防犯カメラの映像はターリバーンの手中にある。お手上げ状態であるが、捜査は今後も続けると言う。さらにソプコ査察官はこう言い訳もする:「消えたと言われる金が果たして米国から出たものかどうかは判別しかねる。」なるほど。ただこうも付け加える:「メディアや研究者によると、歴史的に国家保安局へは中央情報局(CIA)が金を融通してきた」と。

さて、この「最終版」のリポートが改めて出されたのは、ガニーへ送った質問集(ネチネチと56問)に7月末、返事(たったの6項目のみ)が届いたからだった。その返事の中に、この資金に関する部分がある:「現金で資金をプールしていたのは、国家保安局だけだった。それは米国とその国際的パートナーたちが提供したもので、現金のまま取っておけという指図があった。」

とある元政府高官のコメントは、さらに示唆に富む:「ここ数年、CIAやその仲間たちは反ターリバーン軍閥のために資金が費やされるのを嫌っていた。奴らを支援したいなら、アフガン政府の自前資金から出せとね。しかも、最終年度における2億2千5百万ドルという局の年間予算にCIAからの金はびた一文含まれていない。」それを傍証する別の元高官の発言:「CIAが国家保安局に資金提供したのは崩壊の半年ほど前が最後だった。それに、ここ数年はせいぜい全予算の15~20%ほどだったしね。」

「こうだったら楽しいな」と思う、勝手な(ハリウッド風)私的結論:

  • 大統領官邸にあったガニーの隠し金500万ドルは、残されて悔しい警護隊の下っ端たちが盗み出した。いくつかの袋に詰め込んで車で大統領府から逃走。そのリーダー役はマーク・ストロング。
  • 国家保安局の金庫に残っていた数千万ドルは国家安全保障顧問のモヒブが、部下たち(良い警官と悪い警官)を差し向けて2週間前にゲット。1週間後、他の部署の金庫からも現金を盗み出した。2組の福袋がそろった。1組目には前者の現金と極秘書類を詰め込み、あの日UAE大使館へ。現金の一部はアタッシェケースやバックパックに入れ、逃走資金(飛行機のチャーター代など)に当てた。
  • 後者の現金は2組目の袋に。ガニーの古本コレクション(時価2万ドル)もその中に入れた。それを大統領府の役人がモヒブに命令されてヘリポートへと運んだ。袋を積んだヘリは最後に飛び立つが、重さで高度が保てない。木に当たる寸前でドアを開け、その袋を放り出した。但しこちらは捨て駒。その紛失をわざとらしく嘆いたモヒブの役を演じるのはマット・デイモン。ちなみに銃声が轟く中その袋を茂みで拾い上げ、そっと巨木の洞に隠したのは、ベン・キングズレー演じる老庭師。
  • ターリバーンがせしめたのは、ヘリポートに散らばる警護隊が投げ捨てた防具類と、国家保安局の金庫に残ったアフガニ札のみだった。

さあ、銀幕が暗転。エンドクレジットが上がってきた。そこに縦長素人ビデオ仕立てで、大統領逃亡劇の最後が映し出される。

8月16日午後11時、一行を乗せたボンバルディアはテルメズを離陸した。

機は3時間半のフライトの後、UAEの首都アブダビに着陸。

真夜中にもかかわらず、丁重に出迎えるアラブ人たち。

ガニー大統領、ルーラ夫人、モヒブらは贅沢な車に乗せられ空港を後にした。

(参考:「日刊ハシュテ・スブ紙」去年10月29日付け記事「特報−アフガン大統領アシュラフ・ガニーの国外逃亡秘話」)

締めくくりに、逃亡劇の主役である大統領と国家安全保障顧問が後に発した鼻白むコメントがこちら:

ガニー「カーブルを離れることは、わが人生で最も難しい選択だった。しかし、銃を黙らせ、カーブルとその6百万市民を救う唯一の手段だと信じた。」

モヒブ「あの時、アフガン国防軍はもはや我々がコントロールできる状況ではなかった。軍を動かし、空爆を行う以外、首都を守る手はなかった。そんな準備はしていなかった。」

 

口直しに、蛇足的ラストシーン(以下は金子による全くのフィクションです。実在の人物や実際の出来事、さらにSIGARのリポートとは一切関係ありません。):

(写真はカーブル上空の雷雲/カーブルタイムス2022年3月14日記事より)

あの日から7か月ほどたった3月半ばの夜。大統領府に落雷があった。1本の巨木に命中し、ばったりと倒れた。翌朝、老庭師がその残骸を片付けた。切った枝や幹を荷台いっぱいに載せた彼のおんぼろトラックは市中へと姿を消した。通りでは女たちが女子教育の再開を求めて、デモ行進を続けていた。直後のノウルーズ(イスラーム圏の春のお祭り:ターリバーンは禁止した)は自粛令が出されたが、それを機に引退した老庭師の家では密かな宴会が催された。

【終わり】

 

==========<野口壽一>==========(2022年11月25日)

本サイトの記事集めのため、各地の友人知人たちとメールのやり取りをしたり、ネット上でアトランダムに情報を探ったり、めぼしい記事を翻訳したりしていると世界中を駆け回っているようなつもりになる。
BSではNHKの国際ニュースで世界中のテレビキャスターの顔を覚えたし、CATVではBBCとCNNという世界を牛耳る英米メディアが24時間、ニュースを垂れ流している。政治だけでなくあちこちの天変地異自然や動物、スポーツ芸能、天気予報もある。地球の一部となって生きている錯覚に陥る。

去年の夏から冬にかけては、世界の政治ニュースの主役はアフガン、年が明けてからはウクライナとロシアだったが、アメリカの中間選挙で異変がおきなかったからか、もともと生存の危機に落ち込んでいたアフガン国民だけでなく、電気水道などのインフラを破壊されたウクライナ国民も厳しい冬を迎えて生存の危機直面しているはずなんだけど、中国を除いてコロナ騒ぎも落ち着いたからか、ここのところ世界のキャスターたちのトーンが若干下がり気味のように思える。

しかしなんだか何かが動き始めているような気がする。嵐の前の静けさ、と言うほどではないにしても。

アフガニスタンには毎週何千ドルもの金が国際機関やアメリカからつぎ込まれている。もちろんその目的は人道支援なんだけど、直接間接にターリバーン支配を支えている。トピックス欄で紹介したFRB(連邦準備理事会)やBEP(米国造幣局)のラベルが張られた札束のパッケージの山を見ていると複雑な気持ちになる。世の中の常識と異なり、裏ではアメリカとターリバーンが密接な関係を築いている。先週モスクワで開かれたアフガニスタンに関する多国間協議にはこれまで招かれていたターリバーンは招待されなかった。ターリバーンに「テロを輸出しない」と約束させるはずの会議なのに。アフガン人の分析によれば、「アメリカの言うことを聞くテロリスト(ターリバーン)はいいテロリスト、アメリカの言うことを聞かないテロリスト(アル=カーイダとかIS)は悪いテロリスト」なんだそうだ。これも先週トルコで爆発事件を起こしたクルド系テログループはどっちなんだろう。テロも戦争も、それ自体を取り出して「いい」も「悪い」もないはず。テロも戦争も「不要」な世界を目指さなければいけない。

ウクライナ戦争はいまやロシア対NATOの戦争になっていて、膠着状態に見えるが、ロシアは押されて孤立化を深めている。アメリカの中間選挙では民主党が善戦して英米後押しのウクライナがもう一段の攻勢を準備している予感がする。米中間選挙では対中政策では民主党より強硬派の共和党が下院議長を取った。台湾の統一地方選挙の後台湾支援対中挑発をより鮮明にしそうだ。アメリカを中心になんだか裏でもぞもぞと動いている感じがするのはなぜだろう。杞憂であればいいんだが。

それにしてもWカップ、ドイツ戦での日本の逆転劇は鮮やかだった。「何かが動き始めているような」予感がこちらの方だと気持ちが明るくなるんですけどね。

 

==========<金子 明>==========(2022年11月15日)

今回は『アフガニスタンの一番長い日』のパート2。米国政府「アフガニスタン復興特別査察官」の2022年8月9日付け報告から翻訳・抜粋する:

(写真は、2021年8月15日午前に撮影された、大統領府の庭での打ち合わせ。右からガニー、UAEの職員(サイーフ)、モヒブ(SIGARの2022年8月9日付けリポートより))

査察官ジョン・ソプコがこの報告につけたメインタイトルは「アフガニスタン資金の窃盗」。いやしくも他国の資金の動きについて「窃盗」よばわりとは穏やかでない。しかも、6月7日に出された同タイトルの中間報告に続く第2弾で、「最終報告」と銘打つ執念深さである。わが国の大陸撤収時にソプコ調査団がいたら、さぞや煙たかったろうと心配になるほどだ。

さて、飛び立ったヘリにどんな疑惑が持ち上がったか。例えばこんな報道がある:

  • 在アフガニスタンのロシア大使館によると、ガニー大統領は4機のヘリに1億6千9百万ドルの現金を詰め込んで逃げた。積みきれず後に残した現金もあった。
  • 在タジキスタンのアフガン大使は記者会見で、ガニー大統領は窃盗の廉でインターポールに逮捕されるべきだと訴えた。

ソプコはまずその嵩に注目する。1億6千9百万ドルは100ドル札でほぼ2立方メートル。1辺1メートルのどでかいサイコロが2個分だ。おまけに重さは約1700キロ。命からがらで逃げるとき持って行けと言われたら・・・ピカソかダイヤに換えてくれ!と言いたくなる。

これを密かに空輸するのは子供でもわかる無理な話だ。規定より多くの人員を乗せたヘリ。しかも飛び立った午後3時すぎには、その日の最高気温30度超を記録した。空気の薄いカーブルで、その上気温も高いとプロペラの効率は落ちる。どうも持ち逃げ疑惑は、ガニーへの根拠に乏しい言いがかりのようだ。

さて、大型ヘリはどこへ向かうのか。前もっての計画ではジェット機が待つカーブル空港。だが危険すぎてその線は消えた。プランBは、ガニーの勢力が強い南部のホースト州またはナンガルハール州だった。しかし離陸直後、撃墜を恐れるガニーと国家安全保障顧問モヒブは外国まで一気に高飛びすると決めた。そこで3機は北へ進路を変える。

不安なのは2機目と3機目に乗った側近や警護隊員たち。ドーハに行くのか? しかし、眼下にヒンドゥークシ山脈を認めたことで、初めて北進していると気づいた。またその頃やっと1機目に大統領がいることを知らされた。

決めた行き先はウズベキスタン。ウズベクの国境警備隊に無線で連絡したが繋がらない。国境線に沿って西進するうち、燃料が切れた。突如アムダリヤ川の対岸テルメズの空港に無許可で着陸。乗っていた40人は、武器を手にしたウズベクの保安隊によって出迎えられた。ガニー、ルーラ夫人、モヒブの3人はターミナルビルに連れて行かれた。

さてここで、いま一度カーブルに戻ろう。ちょうどその頃、大統領府で面白い事件が起きていた。敷地内に約5百万ドルの現金が落ちていたのだ。これが何の金であるか、2説ある:

①「ガニー夫妻の個人的な持ち金」説

2015年に発表された夫妻の資産は1340万ドル。さすがにアメリカで財をなした夫婦だ。うち544万は流動資産なので、ほぼピッタリと一致する。しかし、そんな大金を現金で持つかい? との査察官によるきつい質問に、ガニーの取り巻き連中はこう答えた:「大統領は最後の最後までアフガン市民のことを考えていました。生まれ故郷に大統領記念図書館、イスラーム研究センター、農業振興センターを私財で建てようとしていたのです」と。これが本当なら、どこかの園児よろしく、思わず「ガニー大統領バンザーイ!」と叫びたくなるような美談である。

②「UAEが与えた政治資金」説

ガニーの別の側近は「2019年の選挙にからむ金が残ったものだ」という。選挙の翌月(10月)にUAEに行った側近は「選挙後には金に困るだろうから」と、首長たちが100ドル札のぎっしり詰まったスーツケース(しめて500万ドル)を何個もくれたと証言している。ふうむ、どちらが信憑性が高いかは皆さんのご判断で。

この大金がどうして落ちていたかを説明する前に、見つかったあと、どうなったかを見ておこう。こんな証言がある:

大統領警護隊員(後に残されてよかった?)はこれを見つけるや、3〜4個の袋に小分けした。そして隊の車列のトランクに隠してアリアナ門(大統領府の北東角)からまんまと脱出した。「出る車はどれも止められたのにおかしいな」と思いきや、警護隊の車列だけは「前大統領のカルザイを迎えに行く」と言い訳して出て行ったと言う。「あれれ、カルザイにはカルザイの車列があるのに変だね」と気づいたときはあとの祭りだった。この成り行きは、まるでハリウッド映画ではないか。

さらに傑作なのは、この金が落ちていた経緯だ。3説ある:

①「大統領官邸にあった」説

ガニーがヘリで逃げたあと、残された警護隊はみやげ欲しさに官邸を荒らし、そこでお宝の金袋を発見した。単純にありうる話だが、あとから荒らしに入った(だろう)ターリバーンの上前をはねたようで愉快。

②「もともと袋は2組に分けられていた」説

これにはUAEの外交官がからむ。午前11時のミーティング(パート1参照)のあと、モヒブと外交官はモヒブのオフィスに行き、そこに大統領府スタッフを呼んだ。彼は本や書類を入れたという2組の袋を見せられ、「1組はUAE大使館に届ける手はずだ」と言われた。それがどうなったかはあずかり知らぬが、もう1組は間違いなく、大統領の車列に積み、自分でヘリポートまで届けたと言う。つまり混乱の中、UAE大使館に届くはずの袋がどこかに消えてしまったのか。

③「ヘリポートで積み損ねた」説

さらに話をややこしくするのが、モヒブが離陸後に思わずもらした一言だ。②説の袋がヘリに載ったとばかり思っていたモヒブは、「ちゃんと載せたよな」と先のスタッフに尋ねた。スタッフが無線で確認すると、パイロットは「荷物よりも人間だ」と、その袋を地上に放置したとのこと。それを聞いたモヒブが唸った、「おー、いかん。袋には金が入っていたのに。」これを警護隊が拾った。

それにしても、まるでクロサワの「羅生門」。百戦錬磨のモヒブが、これ聞こえよがしに本音を吐くか?この男もかなり怪しい。ちなみに②説と③説は合体でき、その場合、ありがたい金の袋は2組落ちていたことになる。

さて、夕方。やがて14人を乗せた4番目のヘリもテルメズについた。大方はカーブル空港に詰めていたヘリの保安要員だ。これで計54名の大統領率いる逃亡団がそろった。そのうち、ガニー、ルーラ夫人、モヒブら数名だけは、スルハンダリヤ州(その州都がテルメズ)の迎賓館に泊まることが許された。

それ以外は、夜更けにかけ、みなが根掘り葉掘り、出国の経緯を何度となく尋問された。武装警官に囲まれ、滑走路で一夜を過ごす。翌日チャーター便でドバイへ出発すると決まった。ボンバルディアは50人掛けだが、補助椅子を設置した。そのチャーター費を出そうと、ルーラ夫人が財布を見たら800ドルしか無かったとはご愛敬。

そこで2人の大統領側近が、持っていた国家保安局の資金から12万ドルもの金を取り出して払った。大統領の旅なら妥当な額の準備金か? この国家保安局の資金がらみの疑惑が次回パート3の主題となる。

 

==========<野口壽一>==========(2022年11月15日)

アフガニスタンの独立系ジャーナル『ハシュテ・スブ・デイリー』の11月5日の記事によれば、アフガニスタンの国民的英雄、アフマド・シャー・マスードの墓が再び破壊されたという。

同紙によれば発表の前日4日(金曜日)に多くのターリバーン兵が墓石を壊したという。また、別の事件ではターリバーン兵がそのうえで踊る動画がソーシャルネットワークで流された、ともいわれている。戦闘員らは、国民抵抗戦線 (NRF) 軍と戦うためにパンジシールに入っていた。

ターリバーンに破壊される前、墓は荘厳な雰囲気のなかにおかれていた。(写真は2018年マーク・ペリー氏撮影)

墓は下の、マスード記念広場の塔のなかにある。

一方、翌日の11月6日、ターリバーン政府はターリバーンの創始者ムッラー・オマルの埋葬地と墓地を公開した。写真はVOANEWA/AFP

まるで金属製の鳥かごのなかに収められているかのような質素さだ。マスードの墓に比べると貧弱だ。これが、偶像崇拝を否定するターリバーンの思想性に基づくものであれば、墓無用論者の野口としてはそれなりに評価をするが、はたしてどうなのだろうか。

オマルの写真を発表したターリバーンのザビフラ・ムジャヒド報道官は「墓への損害を避けるためにこれまで場所は秘密にされていた」と述べている。オマルの墓の公表と式典は、ターリバーン当局者がパンジシール渓谷のレジスタンスの英雄アフマド・シャー・マスードの墓が破壊されたという報道を否定した翌日に行われた。それは偶然ではないだろう。

ムジャヒドはまた、「死者を侮辱する権利は誰にもない。そのような行為は罰せられる。この件も調査され、必要な措置が取られるだろう」と述べたというが、現在、アフガニスタンで住民にたいしてテロ攻撃や住居や土地を奪う暴挙を「取り締まる」といいながら許容し、利用しているターリバーンのやり口からみて、きわめて怪しい。

このような卑劣なやり方がいつまでもつづくと思っているとすれば、天罰をくだされるのは、ターリバーンの方だろう。「天網恢恢疎にして漏らさず」とは、東洋の真実であるだけでなく森羅万象を貫く大宇宙の法則である。

==========<金子 明>==========(2022年11月5日)

今回からは雑誌「ニューヨーカー」の去年12月10日付けスティーブ・コル、アダム・エントゥースによる記事および米国政府「アフガニスタン復興特別査察官」の今年8月9日付け報告から翻訳・抜粋し、アフガニスタンのあの日に迫ってみる。題して『アフガニスタンの一番長い日』、本日はそのパート1:(アフガニスタン復興特別審査官(SIGAR)とは博識な米国新聞記者でさえ「よく知られていない連邦機関」と評するマイナー機関なのだが、実はアフガニスタン戦争につぎ込む(つぎ込んだ)リソースが正しいものだったか否かを審査するアメリカの国家機関)

2021年8月15日、日曜日の朝。大統領の国家安全保障顧問ハムドゥラー・モヒブは官舎を出て、アシュラフ・ガニーの執務室に向かった。9時の定例ミーティングのためだ。ターリバーンはすでにカーブルに到達していた。警官、兵士、護衛の多くが制服を脱ぎ捨て家路へと向かっている状況下で、運命の1日が始まった。

(写真はカーブルのダルラマン宮殿上空を飛ぶ在りし日のガニー大統領専用機:2021年8月2日撮影)

同じころ、ドーハでは米アフガン特使のザルメイ・ハリルザドがターリバーンのアブドゥル・バラダールとリッツカールトンホテルで会談した。2人は「カーブルへの侵入はなく、勇み足の数百人は市外へ引き戻す」との合意に至る。だが、いろいろいい加減なこの2人。その報告を受けたガニーも、さすがに彼らを信用するほど甘くはなかった。

その朝、在カーブルの米代理大使ロス・ウィルソンは大使館の全職員をカーブル空港へ向かわせると決断した。ターリバーンとイスラム国に一斉退去の情報が漏れるのを恐れ、ガニーにはその旨を伝えない。

11時、UAEの外交官が大統領府に現れ、芝生エリアで屋外ミーティング。気温は28度と暑いのに、なんとなく優雅。モヒブは前日UAEに掛け合い、翌16日に専用ジェットでガニーを救い出すことに決めていた。カーブル空港にいつでも飛べる状態でパイロットを待機させる段取りだった。ミーティング中、上空をアメリカ国籍の大型ヘリが飛び交い始め、さらに銃声まで聞こえてきた。ボディーガードが急ぎガニーを屋内に避難させた。

正午、大統領執務室。ファーストレディーのルーラ夫人と、特に用のないスタッフ全員をすぐにでも退避させることに決めた。UAE側も予定を繰り上げ、その日午後4時発のエミレーツ機で彼らを脱出させることに合意した。

午後1時、モヒブにターリバーンの首魁シラージュッディン・ハッカーニから「話がしたい」とショートメール。パキスタンの電話番号からの着信を受けると、要は「降伏せよ」との脅しだった。

ハッカーニ「君たちがしかるべき声明を出せば、話し合いにも応じよう。」
モヒブ  「いや、交渉が先だろう。」
ハッカーニ「降伏宣言が先だ。(ガチャン)・・・・」

モヒブは電話があった旨を、ハリルザドの副官トム・ウェストに知らせた。ウェストのアドバイス、「いかなる交渉の場も避けよ。罠の危険がある。」

午後2時、大統領官邸にモヒブが到着。ルーラ夫人を車に乗せて大統領府内ディルクーシャ宮殿の北にあるヘリポートへ。そこからカーブル空港へ向かう手はずだった。ヘリポートには大型ヘリが3機いた。いずれも大統領用にキャビンが改造され、乗客は6人まで。4機目、26人の警護隊を乗せるいつもの随伴機は、まだカーブル空港に駐機中だった。

3機とも燃料はフル。その気になれば、タジキスタンかウズベキスタンまで飛べる。ルーラ夫人とモヒブはそのうちの1機に乗った。だが、パイロットはカーブル空港で無法化したアフガン兵がヘリを乗っ取るとの報告を受けて離陸を渋る。そこへ大統領警護隊長のカハール・コチャイがやって来た。モヒブを機外に引きずり出す。

コチャイ「もう大統領を守る手立ては尽きた。いま離陸したら彼は死ぬぞ。」
モヒブ 「私に残れと言うのか?」
コチャイ「違う。大統領も連れて行って欲しいんだ。」

午後3時、ガニーは大統領府に隣接する国防省で国防大臣と首都防衛について作戦を立てる予定だった。警護隊はすでに国防省ビルに先乗りし大統領の到着を待っていた。しかしターリバーンが接近し、ガニーは動けない。官邸の入り口広間で様子を見る。そこへモヒブとコチャイがやって来た。逃げろという意見に折れて、ガニーは官邸を後にした。靴も履かず、パスポートも持たないで。

潮目が変わったと悟った2人の側近は、警護隊がガニーを暗殺することを恐れた。たった1台の車で地味にヘリポートへ。しかし、任務に忠実な大統領警護の車列は結局その後に続いた。

ガニー、ルーラ夫人、モヒブ、コチャイが1機目に乗った。2機目には10人ほどの主任級スタッフが乗り、3機目には20人から25人ほどの警護隊員が乗った。ただし、警護隊員の中には搭乗者リストから漏れた者もいた。捨てられたと思った。そのうちの1人が、ライフルを構え「アッラーアクバール(神は偉大なり)」と叫んで離陸中の2機目に近づいた。残された別の警護隊員がすんでのところでタックルし、事なきを得た。

「生きて出られる確率は5%もないと本当に思っていました」とは、その様子を機内から見た主任スタッフの後日談である。さらに選別が続く。問題は明らかに重量オーバーの3機目だった。すぐには2機の後を追えない。まず何人かを降ろす(どうやって決めたのかが気になるが)。さらに、隊員たちは重い防護服を機外へ投げ捨てた。ようやく飛び立ったが、危うく木に突っ込みそうだったと言う。

こうして、アフガニスタンはターリバーンの手に落ちた。そして、いま問題なのはこのヘリに積んだ荷物である。直後の報道で「避難時、大量の現金が運び出された」と揶揄されたために、アフガニスタン復興特別査察官ジョン・ソプコの鋭い目がキラリと光ったのだ。(パート2へ続く)

 

==========<野口壽一>==========(2022年11月5日)

中国共産党大会第20回全国代表大会が終わりました。「習近平3期目、最高指導部の8割が身内」「台湾、武力統一否定せず、有事危機高まる」「胡錦濤前総書記の退席は強制か、体調不良か」などがにぎやかに取りざたされています。おおかたは、鄧小平以来の「改革開放」「集団指導」「韜光養晦(能ある鷹は爪隠す、臥薪嘗胆)」が完全に終わり、国内経済の険しさを抱えたまま準鎖国よろしく身を固めた強硬な「戦狼外交」「軍備増強」に出るもの、との警戒感が支配しています。
たしかに、トランプ政権下で発動された中国封じ込めがますます強まる中、「習近平さんも大変だなぁ」「苦しくても挑発には乗らないでね」と思う一方、もうひとつの重大事を思わざるをえません。
それはコロナ。
ゼロコロナ政策を成功させ、それをもって西側とくにアメリカの政治社会体制への優位つまりは習政権の大成果、と歌い上げていた反作用です。
コロナパンデミックの根本原因は、PCR検査の不適切な大量導入により、「病気と闘うのでなくウイルスと戦ってしまったこと」にあると私は思っているのですが、中国は、とくに貧弱な医療体制への過剰な恐れから陽性者の絶対隔離による「ウイルスゼロ」政策をとらざるをえませんでした。最初の武漢パニックを見た世界が、「恐ろしい病原菌」と誤認し、医療体制が整っていた先進諸国まで正常感覚を失い医療崩壊をおこしてしまいました。しかし、2年半の試行錯誤により世界は、コロナはむやみに恐れるものではなく対処可能との認識に落ち着きつつあります。
しかし中国は、「完全隔離、ゼロウイルス」を実現するため、国民にコロナの恐怖をあおり、徹底した暴力的な隔離(ロックダウン)とITを駆使した24時間監視体制を社会全体に導入してしまいました。
世界が鎮静に向かいつつある今、中国は静かにコロナの感染が全土に広がりつつあります。そしてその全住民PCR徹底検査、完全隔離、都市封鎖を増やしつつあります。国民は疲弊し、経済への影響も大きなものがあります。かといって、コロナ陽性者の数勘定に一喜一憂しなくなった世界のように管理制限を緩めれば、全土でどっと感染者(=陽性者)が増えるのは間違いありません。、しかも発症者もいないのに都市封鎖をしたり、10月末にはiPhoneを組み立てているファックスコンの工場(河南省鄭州市)で感染者がで、閉じ込められるのを恐れた従業員が工場から塀を乗り越えて脱出したり、高速道路を故郷まで歩いて帰ろうとする大集団の行列ができたりする映像が拡散されるほどのパニックぶりです。
習近平政権は強権の行使と恐怖の植え付けによって国民をコントロールしてきましたが、その管理手法は極めて危ういものであることが垣間見えてきました。ひとたび、政治不信、経済不振によるパニックが起きた場合、なまなかな方策ではおさまりがつかないのではないか、と心配しております。

==========<金子 明>==========(2022年10月25日)

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第20弾。似顔絵イラストはクーフィ氏本人のTwitterアカウントから

今回にて「ファウジア・クーフィ自伝」つぶやきは完了。ご愛読ありがとうございました。金子編集委員は次なるつぶやきを企画中です。乞うご期待。

いよいよ投票日。30年以上行われなかった国政選挙だ。投票所は朝6時に開いた。ファウジアの姉たちはブルカをまとい(匿名で)女性有権者を車に乗せ、投票所へとピストン輸送した。「だれに投票しようが構わない。投票カードを持った女性が一人でも多くそれを使うチャンスを活かせるなら。」

投票カード?そう、投票カードが要るのだ。読み返すと選挙期間中にこんなエピソードがあった。ある男が電話をしてきてファウジアに言った、「妻は投票カードを持っていない。俺が許さなかったからね。するとあんたに投票しろとうるさい。だから電話した。あんたは誰で、どんな考えなのかね?」電話口で政見(女性の地位の向上!)を説くと、最後は「あんたに投票する」と約束した。

「次の選挙では妻にも投票を認めて欲しいものだ」とファウジアが述懐してその段は終わる。ファウジアの優れた話術や誠実さを伝える逸話なのだろうが、そもそも投票カードをもらうには、家長の許可が必要だったのか・・・ローマは一日にしてならず、何気に感慨深い。翻ると、手ぶらで安全な投票所に行き自由に選挙できるニッポンのなんと恵まれていることか。

閑話休題。この日、輸送チームの次に登場したのはチェック班。姉の一人がタクシーに乗った。なるべく多くの投票所を駆け巡り、不正が行われていないか確認するのだ。たちまち最初の投票所で異状が見えた。姉が電話の向こうでわめく、「何か変。係員たちがある候補者に肩入れしている。中立じゃない。人々に誰に投票すべきか指図している!」

さらに別地区からの報告がとどめを刺す、「地元の警察署長の兄弟の一人が候補者で、その地区の全警官が彼に投票するよう命令されている。」ファウジアのキャンペーンスタッフは行動を開始した。BBC、地元のラジオ局、考えられる全員に電話でたれ込んだ。「不正を止めるには、それしかなかった。」

一日が終わると、各地からファイザバードに投票箱が送られてきた。その晩は鍵をかけ、翌日から開票が始まる。「投票箱が細工されてはならぬ」と、二人の若いキャンペーンスタッフが毛布もないのに開票所の前で寝ずの番をした。集計には二週間を要した。最初の一週間が過ぎようとした頃、またも異状が発覚。「選挙委員会の何者かが私の名が記された投票用紙を排除していた。」ファウジアのサポーターが現場を目撃した。

彼は怒鳴った、「おい、立候補に命を賭けた女だぞ。なぜ彼女への投票を数えない?われわれ若い世代は彼女に導かれたいんだ。」言い争いは激しくなり、警官が呼ばれた。幸い警察署長は訴えを認めた。警察監視の下で再集計。するとたった数箱で300票もの漏れが見つかった。不正は疑いもない。

すったもんだの挙げ句、ファウジアは8千票を獲得して当選した。さあ政治家人生の始まりだ。プライバシーは過去のものとなった。家の戸口には、陳情者の列。二人の娘を以前のように寝かしつけることもできない。やがて日に500人もやってくる事態に。スタッフを雇い、予約制にして乗り切った。

追い打ちをかけるように敵対者たちが事実無根の噂を広めた:
●ドバイのボーイフレンドが大金持ちの実業家で選挙資金を提供した。
●立候補のため夫と離婚した。死別など嘘。
●別れた夫は山岳部の村落で元気に暮らしている。
当選した女性議員は、みな不幸にもこうした風評被害にあった。それが死につながることもあるからたちが悪い。「アフガニスタンでは女性の風評や名誉は、その命を左右した。敵はそれを知っていた。」

2005年10月、33年もの抗争を経て民主議会が開かれた。議場への道は自爆テロを警戒して封鎖された。それでも大勢が道ばたで旗を振り、アッタン(attan/アフガン風盆踊りかな)を踊った。下院の定員250のうち女性議員はファウジアを含め68人。任期は5年だ。議場に入ると、元大統領や、閣僚、州知事、ムジャヒディーンの首魁までいる。

アフガン議会はやかましく、暴力的だ。「ひげの引っ張り合い」の伝統すら持つ。ここで怒りを露わに怒鳴り返しても何も達成できない。ファウジアは「互いを尊敬する雰囲気を醸し出そうと頑張った。プロとして機能し、みなと協力しようと心に決めた。」とはいえ、黙っていては公約の「男女平等」などおぼつかない。そこで大胆にも副議長に立候補した。

ファウジアの立候補は「大方の議員たちにとって、お笑いぐさに思えた。」しかし、対抗馬たちが戦争や犯罪で暴利をむさぼった大物たちだとわかると、ファウジアの勝ちたい気持ちは高揚した。さっそく敵は自宅や市内の高級レストランやホテルでパーティーを開き、議員たちを懐柔する。

そんな金のないファウジアは、投票の前夜、ようやく姉の助けを借りて「安いしなびたレストランでつつましいパーティーを催し、20人ほどの議員を集めた。」これは寒い。いや物理的に寒かった。隙間風で息も白い。レストランの責任者がブクハリ(bukhari)と呼ばれる木炭ストーブを出してくれた。

だが、今度は煙で顔が見えなくなった。しかも一酸化炭素が充満。散々であった。家に帰ると姉につぶやいた、「終わったね。」その後、明け方まで演説の原稿を書いたり破ったり。とうとう「アドリブ」に決めた。

翌日、副議長選出の日。立候補したのは11人。そのうち無名は一人であとは大物揃い。朝10時、ある候補者から使いが来た。「立候補を辞退したらしかるべき金をやる」と言う。あきれた。やがて議場が開き、演説のときが来た。最初は震えんばかりに緊張したが、8千の得票を思い出し落ち着いた。そしてこうアドリブした:
●アフガン女性の力を示すため立候補した。
●国家の利益を個人の利益に優先させるのが私の使命。
●傷ついたアフガニスタンを救うのは新しい声と新しいエネルギーだ。
●30歳だが経験は豊富。
●アフガニスタンとその文化を心から愛している。
●だから、その変革に関わりたい。良い方向への変革に。

いつものように早口でまくしたてていると、拍手がだんだん大きくなっているのに気づいた。議員たちの心を鷲づかみにしたのだ。結果、大差で副議長に選出された。たちまちファウジアはマスコミに注目され、「国民的ぽっと出ヒロイン」としてその名が知れ渡った。

続く2010年10月の選挙。このときも敵対候補の不正や贈賄がひどく、暗殺の脅しまであったが、ファウジアは5年前より得票を増やし再選された。また彼女の姉のマリヤムも当選した。無学だったがファウジアの活躍に刺激され夜学に通い、コンピューターと文学を学んだ苦労人だ。そしてクーフ村で母が武器の隠し場所を明かさなかったあの晩、ムジャヒディーンに殴られた姉がこのマリヤムである。

2005年の選挙期間中にファウジアは一度クーフ村を訪れている。4歳の時以来、初めて戻った生まれ故郷はファウジアの目にどう映ったか。引用して「お気に入りの娘」紹介のラストとする:

「最後に台所に入る勇気を振り絞った。かつて母が君臨した場所。私たちが毎晩マットレスを広げて寝た場所。はるか遠くの国や王様や女王様の話を、私やほかの子供たちに母が語った場所。宴会や御馳走が準備された場所。壁の高いところに窓があり、雨が降り、雪が降り、陽が昇り、陽が落ちるのを眺めた。窓から見えるあの景色がこの世のすべてだと、昔々の私は思っていた。」

(第18章「新しい目的」、第19章「変化への動き」、第20章「戦争で引き裂かれた国のための夢」より抜粋・翻訳)

【終わり】

 

==========<野口壽一>==========(2022年10月25日)

コロナパンデミックが発生から3年になろうとしてやっと落ち着く気配が見えてきたようだ。一時は感染者・死者数とも他国に比べて少なく「ファクターX」の存在が取りざたされていた日本もやっと終盤にきて中国を除く他国並みに なった。それどころか今年の夏過ぎには世界一の感染者数を誇るまでになった(あんまり誇るようなものでもないが・・・)。

コロナに関しては発生後1年半ほどはネットやテレビで情報を見、文献に当たって必死に研究した。その結果、このパンデミックは、中国政府、WHO、各国政府の大きな錯誤によって作り出された「人災」であるとの確信をえるにいたった。結論に至る過程は、Facebookや年2回の挨拶状などで明らかにしてきたが、コロナパンデミックが集団ヒステリーとなっている社会状況では、同じ結論とはいえ到底賛同しかねる「とんでも論」や「陰謀論」と間違われるので、2021年からはコロナに関する発言は控え、この『ウエッブ・アフガン』を立ち上げて、アフガン問題に集中することにした。お陰様で本サイトは多くの人びとに応援していただけるサイトに育ってきた。この間、励ましてくださった皆様、原稿や情報を寄せていただいた皆様、とくに厳しい状況の中から「声」を寄せてくださったアフガニスタンの方がたに心からお礼申し上げます。

ところでコロナの話題にもどると、このパンデミックの原因はつまるところ、「病気とたたかうのでなく、ウイルスとたたかった」ところにある、というのが私の結論。PCRという極めて優秀な検査手段を未知のウイルス検出の手段に歴史上はじめて導入し、「無症状感染者」という未病者をあぶり出しウイルスを徹底駆除しようとした。そして、中国武漢の惨状を見た国々はPCR検査を導入し患者を隔離する保健行政を強力に導入し既存医療を崩壊の淵まで追いやりました。病人をどんどんと死なせてしまったのだ。あとはワクチンを打ち、特効薬が出てくるのを待つ、との政策を採用。本当にそれでよかったのか。やっとこれから本当の「科学的」な検証が行われるのを個人的には期待している。まだCovid-19パニックは終わらず第第7波、第8波とまだまだつづきそうである。ワクチンも特効薬もなかったスペイン風邪は2年半で収束したというのに。

最後に、冒頭に掲げた地図の意味。これは日経データベースによる「新型コロナウイルス感染 世界マップ」。世界的にコロナが蔓延したのは中国を除く経済的にある程度の水準にある国々。アフリカでは、地中海沿岸と最南端の南アだけが多くの感染者を出している。ところが北部と南部をのぞく中央部に位置するほとんどの諸国が10万人台だ。アフリカの人口はこの時点で約11億人。その大半がこの中央部に存在している。そしてあれほど厳重な隔離政策を施している中国と変わらないくらいの感染率でしかない。アフリカ中央部では、中国のような厳格な対策がとられているのだろうか、それともコロナ予防が徹底し、ワクチンなどが普及しているからなのか。

先日、アフリカ諸国との友好運動を推進している組織の代表と話す機会があり、この点を聞いてみた。その答えは。それらの国々は貧しくてPCR検査もまともにできず、保健行政もおくれており、ワクチンだって満足な摂取はできていない。統計だって満足なものではない。患者を確認できるのは保健行政の手ががかろうじて届くところだけだからだ。貧しさの結果である、とのことだった。すとんと胸に落ちる結論だ、だからといって死者がばたばたでてパニックが生じているわけではない。むしろこの時期でも死亡率の高いエボラ出血熱や熱帯性マラリアその他の感染症への対策の方が急がれている。

コロナ対策はしない方がよいと言っているわけではない。手厚い対策ができる能力を持った国や地域ほどパニックの度が高かったのではないか、ということだ。中国の問題は別途独立して論じるべきだ。

個人的には、ウイルスどうこうより、とにかく、栄養、休息、運動、快眠に心がけて自己免疫をたかめ、風邪にかからぬよう注意して生活することが一番だとこころがけている。

 

==========<金子 明>==========(2022年10月15日)

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第19弾。)

二日後、ファウジアが勤めるユニセフ事務所に、ラジオを持った同僚が駆け込んできた。マスードが生前警告し、西側指導者が軽視した大規模テロは果たしてニューヨークで勃発した。その後はメールの嵐。下された指令は、外国人スタッフの即時帰国と、アフガン人スタッフの事務所内禁足だった。他州出身だった上司は家族のもとに急いで帰った。

そのため、国内でただ一人の女性国連職員だったファウジアは、ただ一人の女性責任者となり、二つの事業に取り組んだ:
●戦争やターリバーンによって登校を妨げられた数千の少年少女を学校に引き戻す「学校に戻ろう」キャンペーン。具体的には、各所にテント学校を開設し、教科書や文房具を提供した。
●ポリオの予防接種。州全域で実施するため、準備をおしすすめた。

やがて10月7日、「不朽の自由作戦」が開始された。米英のクルーズミサイルがターリバーンとアル=カーイダを攻撃し、同時に「悲しくも鍵となる将軍を亡くした」北部同盟が陸路カーブルを目指した。西側の目標は、ターリバーンの「素早くきれいな」掃討と、ビン=ラーディンおよびその副官アル=ザワヒリの「逮捕または死」だった。

ターリバーン軍への凶行もよく耳にした。「ターリバーンを何百人も焼き殺した」とか「ターリバーンが跋扈した村々では住民が勇気を出して彼らに石を投げつけ、出て行くように要求した」とか。ハーミドの逮捕騒動で一部のターリバーンの優しさに触れたファウジアは「そんな個人が殺されることを悲しく感じた。」しかし、「アフガン史上の暗黒期が終わりつつあることに興奮した。」

ファウジアによると「ターリバーンは生粋のアフガン人ではない。彼らはいつも外国にコントロールされ指揮されている。」そのいい例がショマーリ平原にあると言う。今も「燃える平原」と呼ばれるほど、苛烈な殲滅戦がかつてターリバーン勃興時にこの平原で繰り広げられた。「一回の戦闘で数千人が殺され、木も作物もすべてが焼き払われた。」これでは戦後の復興は望めない。「このやり方はアフガンではなくアラブだ。ターリバーンはこんな戦術を思いつくほど、賢くはない」とファウジアは言い切る。

だが、今度の敵は手強い。ターリバーンは敗走を続け、最後の戦地はトラボラへと移った。ビン=ラーディンの隠れ場所と言われた場所だ。数週間後、突然戦いが終わり、ターリバーンは姿を消した。

変わったこと:
●一夜にして、数百の難民が帰国し始めた。
●外国で財をなしたアフガン人投資家が、国内で新規事業に乗り出し、ホテル、銀行、ゴルフ場、スキーリゾートなどを開いた。
●政治的には、「ローヤジルガ」(部族会議)が開かれ民主憲法の制定が決まった。
●ハーミド・カルザイが暫定大統領に。

変わらないこと:
●多くの人々は赤貧状態のまま。
●どの都市も設備が破壊され電力供給がおぼつかない。
●きれいな水にありつける人々はごくわずか。
●帰って来ると、家は壊されるか、よそ者に取られている。
●失業が蔓延。
●深刻な食糧不足。

こうした事態を「混沌としているが、初めて経験する前向きな混沌だ」とファウジアは喜ぶ。

ターリバーンが消え、ラッバーニの役割も終わり、ファイザバードはもう政治の中心でなくなった。やがてユニセフがカーブルに事務所を開いた。中央思考のファウジアは、ここを先途と上京し「女性および児童保護士」に昇進した。

一方、ハーミドの病状はますます悪化した。パキスタンやイランの病院にも出向いて治療を続けたが、改善されなかった。2003年夏、懸命の闘病もむなしく他界した。獄中で感染した結核による早すぎる死。彼もターリバーンの犠牲者の一人であった。

その後「二年間、まるで心をなくしたロボットのように国連の仕事をこなした。」再婚の話にもまったく興味のないファウジアにとって、「別の意味の夫となったのが政治だった。」政治が自分の血の中にあり、政治が自分の運命だと信じた。

2004年にアフガニスタン初の民主選挙が行われ、雪崩的勝利でカルザイ大統領が誕生した。翌2005年には、国会議員の選挙が組まれている。クーフィ一族もこの機に「我らが政治的歴史を再確認し、来たるべき新世代の一翼を担うべし」と決定した。さて、誰を立てるか?

立候補を希望したのはファウジアと、父がかつて離婚した妻の息子。半兄弟との公認・跡目争いである。相手はムジャヒディーンの栄えある元戦士で、すでにバダフシャーン州内で地区のまとめ役になっていた。

一見不利かと思われたが、数週間も議論した末に、ファウジアが一族を代表して立候補することが決まった。一同の気が変わる前に「私がクーフィ一族の唯一の政治代表であるとの文書」を書くよう、ファウジアは居並ぶ兄たちに要求した。

当選に向けて、ファウジアの強み:
●父の偉大さはまだ州民に忘れられていない。
●4年間ハーミドとファイザバードで暮らしたときに、ボランティアを通して築いた女性グループとの絆。
●400人もの生徒に英語を教えた。
●国内難民のキャンプをいくつも訪問し、衛生計画や学校設立に尽力して顔が知られた。
●友人には、市民社会のリーダーや、教師、医師、人権活動家らがおり、バラエティ豊か。
●29歳と若いが、ソ連占領、内戦、ターリバーンをくぐり抜け、経験豊富。

ファイザバードに選挙事務所を立ち上げ、ボランティアを集めた。選挙期間に突入。女性たちからの暖かい励ましや、モスク前での演説を聴いて涙する老人、「この売女め!」という嫌がらせの電話、「もし落ちて期待に応えられなかったらどうしよう?」突然襲ってくる不安とパニック。規則で決められた投票開始の24時間前まで、懸命の選挙活動が続けられた。

ファウジアはその感触をこう述べる、「私が会った人たちは、どんなに貧乏でも、文盲でも、間違いなくこの投票の機会を活かして、変化を望んでいる。投票行為が安全で、その機会が与えられているのに、投票したくない人などこの世にいるだろうか?」

(第17章「暗闇が明ける」、第18章「新しい目的」より抜粋・翻訳)

 

==========<野口壽一>==========(2022年10月15日)

夢を見ました。
おバカプーチンの末路でした。
攻め込んでくるウクライナ軍に戦術核を打ち込んだところまではよかったものの不発つづき。やっと、一発爆発してしまった。
戦争したくてしたくてたまらず、満を持していたアメリカ軍は黒海艦隊だけでなく海深く潜っていた潜水艦まですべて撃破。核兵器を使わせる暇を与えず海中海上全艦隊を2、3日で全滅させ、世界核戦争による地球終末を防ぐ「究極の地球救世作戦」をさらに激進。
ウクライナ領内はウクライナ軍にまかせ、NATO軍を率いて一挙にモスクワへ。ロシア軍内の終末戦争反対派反プーチン勢力と示し合わせたうえでのプーチン斬首作戦。もちろん米・NATO・ロシア軍共通の戦略目標は世界核戦争による地球終末の阻止。
プーチンはウラルの隠れ家に逃げ込んだがロシア救世軍に探知され逮捕。ロシア革命の歴史を引き継ぐロシア軍は革命的な局面では異常に堅固で頼りになり、米NATO軍とがっちり組んでロシア国内をまとめ切り、消滅するかに見えたロシアを見事立て直しプーチンを自力で始末。ここが革命の歴史に乏しかったイラクとの違い。
ウクライナからはロシア軍をすべて撤退させ、核爆発による放射能処理もチェルノブイリ以来手慣れたもの。米NATO軍と手を携えててきぱきとプーチン派の一斉検挙と戦後処理。撤退していた外国資本もわんさと戻ってき、経済も復活。ヨーロッパと世界は米NATOと新生ロシアによる新秩序確立に向けて動き出す。中国はただオロオロと傍観するのみ。新秩序内の存命を画策するしかできません。地球を股に戦争ばかりやってきた英米やロシアとのキャリアの差と格の違いが歴然。
もちろん唯一の被爆国日本は、被爆仲間となったウクライナと手を携えて核兵器の無慈悲さを世界に訴え三度目の核戦争なき世界をめざす歴史的な行脚の旅を始めます。
国連は新生なったロシアを再び迎え入れ、未来志向の世界新秩序にふさわしい国家連携の在り方をさぐる議論をはじめましたとさ、というところで愛猫に頭を引っかかれて目が覚めました。

 

==========<金子 明>==========(2022年10月5日)

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第18弾。(写真は、2022年5月国際ジャーナリストセンター(ICFJ)の年間賞を受賞したTOLOnewsのテレビレポーターをしていたアニサ・シャヒード(Anisa Shaheed)さん。彼女も国外避難を余儀なくされている。Fawzia Koofi氏のFacebookより)

アフガニスタンの北東の端にあるバダフシャーン州。結婚し、妊娠し、ターリバーンに追われた22歳のファウジアは、6年ぶりに、その都ファイザバードへと戻ってきた。「高地の空気はきれいで、古いバザールには泥づくりの店々が並び、街の中央を澄んだターコイズ色の川が流れる。」忘れてしまっていたその美しさがファウジアを出迎えた。

離れたきりだったたくさんの親戚とも再会し、ファウジアはやっと落ち着きを取り戻した。ハーミドは小さな家を借りて金融業の看板を出し、大学で講義も始めた。やがて長女が生まれると、3部屋ある大きな家を借り、ファウジアは英語塾を開業した。一月もしないうちに、300人もの生徒が集まった。「幼い少女から、男性の医者、学生や教師たちまで」が彼女に学んだ。

夫の結核以外は、順風満帆を思わせる暮らしだったが、長女がちょうど6か月になったとき、またも「あの慣れ親しんだ吐き気」に見舞われた。二人目の妊娠である。さすがにこたえた。長女を母乳で育てつつ、朝8時から夕5時まで教壇に立つ。さらに追い打ちをかけるように、ターリバーン接近の報が届いた。

二人が通過したあの国境の町キシャムが彼らの手に堕ちた。敵はファイザバードから24キロの地点まで迫ってきた。教室の外に出ると、聞き慣れた重砲火の音が山にこだました。ラッバーニを助けムジャヒディーンに志願する男たちはトラックに乗り込んだ。「私のどこかに、ハーミドも彼らに加わって欲しいと思う気持ちがあった。」しかし、彼には「行かないで」と言った。「彼は教師であって兵士ではない。銃の使い方さえ知らない。その上、病気のため体も弱すぎた。」

トラックに乗った男たちは、その多くが戻らなかった。だが命を賭けた抵抗は功を奏し、ターリバーンをファイザバードから遠ざけた。そんな混乱の中で次女が生まれた。そしてハーミドの結核は悪化した。大学での講義を週たった二日に減らし、残りの五日間は長女の面倒を見た。

次女の出産から二週間後に、ファウジアに面白い仕事の話が舞い込んできた。小さな孤児院でのパート職の依頼だった。「もう少し休みたかったが、ハーミドの病気治療のために、お金が必要だった。」長女を夫に預け、乳飲み子をスカーフで体にくくり付けて孤児院に勤め始めた。

そこで三か月近く働くと、さらに面白い仕事を依頼された。「子供のための財団」が行う調査に参加しないかと言うのだ。それは、60人からなる医師・看護婦・援助スタッフが州内12の遠隔地を巡り、地域の医療・栄養上のニーズを探ろうというプロジェクトだった。かつてファウジアが医学の道を選んだのも、こうした福祉の分野で働くためだった。「生まれたばかりの赤ん坊を連れて、死の淵にいる夫を家に残す。この二重の悪条件にもかかわらず、決して断れない依頼だった。」

ハーミドは快諾し、妻と次女を祝福して送り出した。ファウジアによると、「この旅が私の人生を変えた。」調査地域は並みの僻地ではなかった。その特徴は:
●シーア派第二の分派イスマーイール派が多く暮らす。
●中国との国境地帯ワハーン回廊も含む。

そのすさまじい貧困ぶりは:
●1月に出発したが、寝ている赤ん坊を暖め凍死を防ぐため人々は動物の新鮮な糞を使う。
●子供は雪の中でも裸足で、ほとんどが栄養失調。
●長老の家でも便所は穴を掘っただけの汲み取り式。(西洋人の医者たちは苦労したが、ファウジアは懐かしかった。)
●村人の家は一部屋で、全家族がそこに住む。一角に動物、別の一角には便所。但し便所はただの地面で、赤ん坊は積み上がった排泄物の周囲を這い回る。
●家から少し離れた所に穴を掘ればいいのだが、掘るのは男の役割。そんな役割を果たす男は情けない。よって掘らない。
●ある村では、女性は朝4時に起き、雪の中、動物に餌をやる。終わると帰宅して家族のために裸火でパンを焼く。男性も朝6時から日が暮れるまで畑で働く。

こうした惨状が「私の中にある何かを呼び覚ました」とファウジアは言う。続いて、とあるイスマーイール派の村での出来事。村の長老は、ただの通訳である彼女にこう挨拶した。「ミス・クーフィ、よくぞいらした。あなたのお姿は、あなたのお父上とそっくりです。」その家に泊まった翌朝、別れ際に長老は、彼女の赤ん坊にと羊を一頭くれた。他のスタッフが「私たちの羊はどこ?」とからかうと、長老はこう答えた、「この羊は彼女のお父上の故に、お贈りしたのです。」

6週間の調査旅行の期間中、父親の知り合いに多く出会い、父親の偉大さを改めて知らされた。それがファウジアの中に、政治家を目指す心を呼び起こした。「私は、政治家になりたいんだと気づいた。いや、『なりたい』は正しい表現ではない。ならなければならない。私の存在意義そのものだと気づいた。」

ファイザバードに戻ると、孤児院業務が待っていた。彼女にとって力一杯取り組める仕事だった。そして数か月後、ユニセフがファイザバードに事務所を構えることになった。ファウジアは求人に応募して、「児童保護士」としての仕事を獲得した。国連での仕事であるため、パキスタンのイスラマバードへも度々出張した。

娘たちと夫を連れての出張も幾度か許された。イスラマバードの有名病院で診てもらうと、新薬による治療を勧められた。月々500ドル。ファウジアの給料では半年続けるのが精一杯だった。時は2001年初め。ハーミドはまだ35歳。ファウジアは彼の生きる望みに賭けていた。

その年の春、あのマスードがラッバーニ政府を代表してヨーロッパへ向かった。ターリバーンの脅威を訴え、アル=カーイダが西側を標的とした大規模テロをすぐにでも起こすとEUに警告した。またブッシュ米大統領にも「我々を助けなければ、これらテロリストがごく近い将来、米国とヨーロッパに必ず損害を与える」という私信を送った。しかし、米国も、ヨーロッパ諸国も、それに対して素早い反応は見せなかった。逆に9月9日、マスードが暗殺された。

(第16章「娘のための娘」より抜粋・翻訳)

 

==========<野口壽一>==========(2022年10月5日)

先号(9月25日号)を発信してから、編集部は大忙しとなった。

▼イランのマーサ・アミニさん殺害抗議行動は高まる一方でついに「イラン・ヒューマン・ライツ」の発表(2日)では死者が133人を超えた。最高指導者ハメネイ師はデモへの厳しい鎮圧姿勢を崩さず。

▼イラン・シーラーズの女性からはインターネット遮断をかいくぐって「This will be a revolution for the liberation of women.」(これは女性解放にむけた革命となるでしょう」と簡潔ながら力強いメッセージが届いた。

▼また、9月30日に起きた西カーブでのむごたらしいテロ事件を受けて、アフガン難民からは「世界のすべての国がアフガニスタン、パキスタン、シリア、イラク、レバノン、パレスチナ、エジプト、イエメン、サウジアラビアにいるターリバーン・テロリストと他のテロリストグループを破壊しなければなりません。 これはイスラム・テロリストに対する世界的な戦いなのです。」と怒りのメールがきた。われわれがアフガニスタン問題を他人ごとでなく、自分の問題としてとらえなければならない理由がここにもある。

▼そのまえ9月20日には、アメリカとの人質交換で、グアンタナモ刑務所に収監されていた麻薬王でターリバーン創成のパトロンであるバシャール・ヌールザイが解放され、アフガニスタンにもどった。編集部ではその情報収集と翻訳に掛かりきりとなった。

▼麻薬王の帰還の直後、編集部が毎日アクセスしていた、ターリバーンを厳しく監視、批判していたハシュテ・スブ紙のドメインがターリバーンによって突然停止され、サイトにまったくアクセスできなくなった。一瞬目の前のディスプレイも頭も真っ白。

▼アフガン周辺での状況の緊迫度がぎりぎりと高まっていくのと足並みをそろえるように、ウクライナではウクライナ軍の大進撃がつづき、プーチンは30万人動員、4州併合・核使用宣言などを行い、危機が大詰めを迎えそうな形勢となってきた。

▼読者からも有益な情報が多数寄せられ、打ち合わせにでかける回数も増えた。取捨選択もままならず自然にニュースメールの分量も増えてしまった。

▼国葬があって本原稿締め切り前には北朝鮮のミサイル発射でJアラーム。

▼全部の事件が結びついているのを実感します。国際情勢も国内情勢も境目がなく気を緩められません。気候が良くなってきたので運動して体調を整え、目を見開き耳をそばだてて周辺事態に対応したいと思います。

 

==========<金子 明>==========(2022年9月25日)

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第17弾。

ハーミドは3か月続いた3度目の拘留を解かれ帰宅した。1998年の春。ファウジアは妊娠7か月だった。ハーミドは結核を患っており、再び逮捕されれば、確実に獄死する。二人はカーブルを脱出し、故郷のバダフシャーン州に向かうことにした。ターリバーンの検問をかいくぐるため複雑な陸路で。

早朝タクシーに乗り込み、まず東へ向かう。カーブル川にそって下り、目指すはスロービの町。1950年代にダムができ、以来ここから首都に電気を供給している。谷沿いの道は内戦中、幾度も爆撃され、クレーターだらけ。車は数珠つなぎになってゆっくりと進む。道をはずれると、そこは地雷源。対戦車地雷を踏めばひとたまりもない。

スロービからは北へ。かつての激戦地タガブを通る。そこで「大勢の人々が戦闘でつぶれた泥の家に、しがみくように住み続けている」のを見てファウジアは驚いた。さすがに要衝だけあって、ターリバーンはタガブに基幹検問所を設けていた。そこには「ビデオの樹」があった。それはいったい何か?

検問所では通行人のすべての荷物をぶちまけ、あら探しをする。餌食となったのはファウジアの前の車に乗っていた夫婦だった。妻の持ち物の中からビデオカセットが見つかった。トロフィーのように掲げて勝ち誇るターリバーン。怒って奪い返そうとする若い妻。一歩引き下がり何もしない夫。銃を持つターリバーンが女の胸を押し、乳房をまさぐる。性的暴行!さらに肩で顎に一撃し、女を倒した。

やっと四つん這いになり起き上がろうとしたとき、男は黒いカセットを彼女の目の前の地面に叩きつけ、足で踏み割った。声も出ない女。男が残骸を拾い上げると指の間に芯がこぼれ出た。構わずそれを後ろの木に放り投げた。よく見ると、その木には「何十本ものビデオカセットの内臓がなびき、昼の日差しの中、黒く輝いていた。」この勝利に満足したのか、次のファウジア夫妻への追求は甘かった。

タクシーはこの検問所まで。ハーミドが馬とガイドをやとった。そこから鞍上山道を行く。ハーミドとガイドは徒歩。7時間後一行は北部同盟の支配下にある小さな町にたどり着いた。ガイドは振り向き、あっさりと「ここですよ」と告げたが、二人は心が躍った。その町で再び車を手配した。

ほんの数時間でジャブルサラジに着いた。「まるで別世界だった。市場は盛況で買い物客にあふれ、女たちはターリバーンにとがめられることなく、男たちと話している。レストランにも客が多かった。」その晩はホテルに泊まり、翌朝プリクムリ行きの小さなバスに乗った。

席に着くと、ジャブルサラジの名物「アシャワパニール」というチーズが急に食べたくなった。妊婦の食欲。ハーミドはわざわざバスを降りて、行商人から買い、ぎりぎりのタイミングで戻って来た。しかし、彼は大きなミスを犯した。干しぶどうを忘れてしまった。絶品チーズと干しぶどうのマリアージュを逃し、すこしがっかりするファウジア。もう出発だ。買いには戻れない。するとバスの窓を激しくたたく音。

「すわ、ターリバーンか」とおびえるファウジアが見たのは、黒いターバンではなく、年配のチーズ売りのやさしい目だった。「シスターどうぞ」と彼は小さなビニール袋を差し出した。「あの男、干しぶどうを忘れたんでね。」さすがのファウジアも、これにはちょっと涙腺が緩んだという。

バスはサラン峠を越えて北へ。「山の頂は白い冬の上着を脱ごうとし、ずっと麓の斜面では、草と花々が春の光の中で輝いていた。」ターリバーンがいかに冷たく残忍でも、「いつかあの雪のように消え去る」ことをファウジアは願った。

プリクムリはかつてファウジアが避難し、ハーミドが求婚に訪れた町。あのとき訪ねて来たハーミドの姉の家に一晩泊まった。この義姉ともよく気があったが、「二万ドルの妻はどんな美人かな」と詮索に来るご近所さんたちには辟易した。翌日またバスに乗り、タハールの州都タールカーンへ。そこから州境を越えてキシャムに行くにはジープを使った。雪解け水による洪水のせいだ。

目的地のファイザバードまでは車で4時間。だが、その車に「教養にあふれ良い血筋を誇るシティ・ウーマン」は難色を示した。見つかった唯一の車が、山羊をのせるトラックだったのだ。「その日は米袋が積まれていたが、とにかく山羊くさい。」ごねるファウジアに、ハーミドは最後通告を出した、「これに乗るか、キシャムに留まるか。」

あれほど、ブルカを嫌ったファウジアが、荷台で体をスッポリと覆った。「暖かさをキープし埃を寄せ付けない」ためでもあったが、一番は「誰か知っている人に見られないため」だった。景色がきれいそうな場所では少し顔を出したが、一瞥するとすぐにひっこめた。そんなファウジアが、たまらず顔を上げる瞬間が最後にやってきた。

きつい山道。上り坂で突然のエンスト。おまけに頻繁なブレーキングの結果、制動がバカになった。みるみる下って後ろ向きに川へと向かう。ファウジアは嫌っていた米袋にエアバッグよろしくしがみつく。お腹に腕をまわしカバーするハーミド。川に落ちる寸前でどうにか停止した。ドライバーは力なくクラクションを鳴らし、みなが「アハマドゥラー」(アッラーを讃えよ)と叫んだ。

もうトラックは走れない。ブレーキが焼けた。その晩は荷台で寝た。山羊臭さも気にならない。夜が明けたら歩いて出発だ。「もうブルカを着ることもない。そう選択するなら。」ターリバーンから逃げ切った喜びをかみしめながら、生まれ故郷の山々と空の下、ファウジアは眠りについた。「明日はファイザバードだ。」

(第15章「始めた地へ戻る」より抜粋・翻訳)

 

==========<野口壽一>==========(2022年9月25日)

ウクライナ、プーチン大統領の思惑はつぎつぎと外れ、事態はロシアにも西側世界にも第三世界にも悪くなっている。もちろん、戦場で善戦しているとはいえ人命やインフラを最も多く損耗しているウクライナは最悪だ。

『ウエッブ・アフガン』では、昨年8月のアフガンからの米国撤退の狙いは、ロシアと中国対策に力を入れるためであると「視点」や「アフガンの声」サミ氏論評などで指摘してきた。中ロをアフガンに引き寄せ、ロシアをウクライナの罠にかけ、中国を台湾を題材にたたく。最終目的はアメリカに追いつき追い越せと経済を発展させ軍備を増強し世界を舞台に力比べを挑んでくるその中国である。

昨年12月13日付け「視点:アフガンのつぎ、西はウクライナ、東は台湾/アメリカの2番手たたきの標的となった中国」で2018年10月4日ペンス米副大統領(当時)の中国への「宣戦布告」演説を紹介した。この「宣戦布告」後、トランプ政権は中国への経済戦争をしかけ、中国はそれに真っ向から対峙した。「(敵対する外国へは)強力な反撃と威嚇の能力を形成しなければならない」(20年4月党会議での習近平指示)。

ウクライナでの戦争をまえに、米英の戦争屋たちの「戦闘情報」に踊らされて世界危機を煽るマスコミ。アメリカの戦争屋たち(情報の出元は軍産複合体)の5年以内の中国による台湾武力侵攻との言説に乗せられて、すわ日本も巻き込まれる、と危機をあおる軍事評論家や政治家たち。日米安保条約とそれに付随する地位協定と日米合同委員会ですでに抜き差しならない日本なのに。

ソ連崩壊後、G7に入れてもらったロシア。そのチャンスを生かすことができずアメリカの挑発に単細胞反応し続けみずから降りてしまったプーチン。その末路がいまである。もう、核兵器を枕に共倒れの寝技に持ち込むしかない。柔道家だというプーチン。そんな下手クソな技しか学ばなかったのかよ。

中国は周恩来や鄧小平のような知恵者がいてアメリカやソ連を手玉にとりわが畑を実らせた。周さんをみているとプーチン並みの頭かなと心配ではあるが、中国は権謀術数・手練手管4000年の歴史の国。200年ちょっとの米国に果たして伍していけるのかも気がかりだ。

そもそも戦争は外交の延長で外交は政治の仕事だ。台湾有事が日本有事だというのなら、まだ実弾が飛び交っていないいまこそ政治家の出番ではないのか。戊辰戦争の硝煙が消え切らない明治維新初年、無礼なふるまいをする韓国に兵力をもって懲罰を加えようとする連中に、丸腰で衣冠束帯、礼を尽くして談判に行く、と征韓論でなく譴韓論をとなえた西郷隆盛。その主張にかずかずの議論の余地はあるかもしれないが、その姿勢こそ政治家の精神の現れではないのか。明治維新はテロリストの革命などとバカな説を唱えて原稿料を稼いでいる輩がいるが、そんなアホなことを言っていないで、高級とって平和ボケしている政治家たちに批判の刃を向けたらどうか。(写真は、征韓論の誤りを追究し勝者による歴史歪曲をただす好著『征韓論政変の謎』伊牟田比呂多、2004年、海鳥社刊

 

==========<金子 明>==========(2022年9月15日)

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第16弾。(写真出典:Fawzia氏のFacebook)

ラマダンの朝5時、ターリバーンによって夫ハーミドは連れ去られた。三度目の逮捕となった今回、収監先はどこか? 情報はその日のうちに夫の遠い親戚がもたらしてくれた、「第三諜報部」であると。それは諜報部の中で最も危険なセクションで、政敵を黙らせ根絶やしにすることを生業としていた。

ファウジアはそこへ毎日通い、毎日薄ら笑いの守衛に追い払われた。そして7日目、やっとハーミドと面会できた。まっすぐに立てないほどに弱り切った彼は、「夜は雪のふる外に立たされ、昼は尋問され殴られる」と惨状を吐露した。彼らが知りたいのは「なぜ、ラッバーニと会ったのか? 会合の目的は何か? ラッバーニとはどんな関係か?」だと言う。

それを聞いたファウジアはこう結論する、「ラッバーニ大統領はパキスタンのISI(軍統合情報局)が差し向けた諜報部員によって警護されていた。その諜報部員の多くがターリバーンに通じていると長く疑われてきた。その立派な証拠が今そろった。」皮肉にも、兄と夫の愛国心をくすぐったあの会合に敵のスパイが潜んでいたのだ。

そうすると、お尋ね者の兄がパキスタンへ出国したことにターリバーンはもう気づいていることになる。そして一週間の拷問でハーミドには義兄以外の政治的背景がないことも十分にわかっただろう。ここはゴチャゴチャ言わずにハーミドを解放するのが、一本気なターリバーンらしいやり方だと思うのだが・・・

ファウジアが刑務所を出ようとすると、「ターリブの上役」がやって来てこう言った、「お前の夫の解放にいくら払うか? 2500ドルか? 5000ドルか?」ファウジアの手元にそんな大金はなかった。パキスタンの兄なら工面できたろうが、銀行システムが崩壊しており送金は不可能だった。その誘いを蹴った代償は大きかった。長引く拘留によって、ハーミドが結核を発症してしまったのだ。

刑務所の上役が大金をせしめることに失敗すると、次は下っ端たる守衛の出番となった。ファウジアの指のマニキュアを認めるや「ムスリムでない」と非難し何度も投石した挙げ句、ある日こう持ちかけてきた、「行って男の親戚を連れてこい。財産証明を見せられる男だ。お前の夫がカーブルに留まる保証としてその財産を使うなら、解放してやろう。」

そんな便利な男が身近にいるか。ファウジアとハーミドの姉は考えた末に、店のオーナーを勤める従兄弟を思い出した。その店に駆けつけたがあいにく金曜日で休みだった。そこで、親類に頼る策は消えた。急いで刑務所に戻り、件の守衛に隣人に頼む旨を説明した。彼は黙って中に消えた。「何時間も待たされたように感じたが、たぶん数分」経つと、戻って来た。他に二人の姿も。一人はもっと若い守衛で、もう一人はハーミドその人だった。

「ハーミドをお前と一緒に行かせよう。この男も。その隣人だか友人だかの手紙を持ってきたら解放する。」その上、ハイラックスと運転手までつけてくれた。
頼りないほど若い守衛はヴァルダク州の出たっだ。マクロリアンに着くと、義姉が近所にアパートを所有している人を思い出し、頼みに行った。その間、残された三人は階上の部屋で待機した。

若い守衛はパシュトゥー語をしゃべるが、ファウジアたちの使うダリ語で懸命に話しかけてきた。「心配しないで、お姉さん。私も新婚です。まだ20日。だからあなたの痛みがわかります。保証がなくても今夜はハーミドをここに残し、明日また来て手紙をもらいます。」先輩守衛の怒りを買うこともお構いなしで、こう提案した。ファウジアとハーミドは驚き、感謝した。

しばらくすると、外の廊下に男たちの声が聞こえてきた。ドアを開けると6人の隣人がいた。「ハーミドが解放されて何とうれしいことか。心配するな。みんなで共同して保証する。」そのうちの二人が財産を持っており、保証の手紙をしたためた。ファウジアは部屋を出る若い守衛に小さなレースの刺繍ハンカチをプレゼントした。

やがて隣人たちも去った。やっと家族だけになった。ファウジアと義姉は冗談を言ってハーミドを笑わせようとした。思わず声を出して笑ったハーミド。しかし、その笑い声のあとに結核の咳が続き、いつまでも止まなかった。

(第14章「暗がりが満ちる」より抜粋・翻訳)

 

==========<野口壽一>==========(2022年9月15日)

結局、プーチンには「大義」がないんだな。

ウクライナ東部の親ロシア派が実効支配する地域を「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」として「独立」させ、そこからの支援要請という形をとって武力侵攻した。
1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻したときも同じような論理だった。アフガニスタンの革命政権(カルマル議長)から善隣友好条約にもとづく支援要請があった、と。両ケースとも国連で非難決議がなされ、同じように国際的には大多数の国から支持されない大義なき侵攻のように見える。だが、実態はかなり違う。

ウクライナ侵攻の場合は「2国」からの支援というのは単なる口実で、親ロシア派住民へのジェノサイドから住民を守るとか、ウクライナの中立化=NATO加盟・NATO東漸を阻止するんだとか、ウクライナ東南部からトランスニストリアまでの独立とか、ウクライナ全体の併合とか、帝政ロシアの復活とか、数々のプーチンの夢、というか時代錯誤の妄想が漏れ伝わってきた。

アフガニスタンの場合はクーデターの形をとった政変ではあったが、アフガニスタン国内での近代化を目指す社会変革運動がベースにあり、国内外からの武力反対攻撃からアフガン政権を守る、という「大義」があった。たとえ国際的な支持が少なかったとしても。ウクライナの場合も、ソ連崩壊後米英の長期にわたる勢力拡張策動やロシアへの挑発活動があったことは事実だが、プーチンはその挑発に無謀にも乗って見せたのだ。しかも、一度は自国が認めた国境線を武力で変更しようとし、核兵器の使用までほのめかした。なぜNATOが拡大に成功し、最後には中立を守り通してきたフィンランドやスウェーデンまでプーチン自身の過ちによってNATO加盟に追い込んでしまったのか、アメリカのNATO不拡大の約束破りなどと子供じみた言い訳などせず、一国の政治指導者を自任するのであれば、胸に手をあててよくよく考えてみるべきだ。

英米の植民地主義や帝国主義の、数々の悪らつな行為によって痛い目にあってきた第三世界の国々でさえ、公然とプーチンを支持するのがはばかられるほどプーチンの行動には「大義」がない。

アメリカのアフガン侵攻だって大義があったとは言い難い。ビン・ラーディンの逮捕であれば警察行動ですむはずだが、ターリバーン政権を打倒して別の政権を打ち立てる、という「大義」の拡張を行った。テロ対策というのであればビン・ラーディン殺害の時点で方向転換することもできたのに、アフガニスタンでの民主国家建設に驀進した。「幸せ」の押し付けだ。

ロシアとアメリカ(イギリス含む)の決定的な違いは、軍事・政策実行責任者たちが自分たちの行動を自己点検している点だ。非力な『ウエッブ・アフガン』ではあるが、米英の実行責任者たちの自己点検・反省の言葉、行動をできうる限りフォローする努力をつづけてきた。英米には確かな民主主義の精神がある。その精神がある限りいくら過ちを重ねたとしても正道に戻りうる可能性が存在する。アメリカに追随してアメリカに次ぐほどの膨大な資金や労力(すべて税金)をつぎ込んだ日本は自らの行動の自己点検をしているだろうか。プーチンのバカさ加減を批判して溜飲を下げて済ますわけにはいかない。政府、与党、野党、マスメディア、そして国民自身の責任を厳しく問うべきではないだろうか。

 

==========<金子 明>==========(2022年9月5日)

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第15弾。(写真出典:Fawzia氏のFacebook)

新婚の夫ハーミドとファウジアをずっと支え続けて来た兄。二人が三か月もの拘留を経て帰宅した。「あの汚い子供まみれの元共産主義者将軍転じターリバーンは言葉通りのいい男だった。」約束した英語私塾をどうするかは平和慣れした読者ののんきな心配だろう。翌朝、急ぎパキスタンへと出発した。今度は兄夫妻と赤ん坊、ファウジア夫妻、計5人の逃避行だ。

一家の友人である別の元将軍が手助けを申し出た。「純粋な親切心から」助手席に座ってくれたのだ。彼はパシュトゥーン人だった。検問所を通るたびに、聞き慣れたパシュトゥー語の響きと元将軍の威厳が、ターリバーンの警戒心を払い去った。

「おじさん、行っていいよ。」

このやりとりを聞くたびにファウジアはほっとため息をもらした。そしてトールハムで国境を通過。長い拘留でさらに体調を崩したハーミドも、嘔吐用の椀をブルカの下で抱え続けたファウジアも、全員が歓喜の声をあげた。「ターリバーンの恐ろしい抑圧から脱した。みなが重荷を解かれたのだ。」

午後4時、ペシャワールに到着し、その先は夜行バスでラホールへ向かった。兄の家に着くと、彼の第一夫人とその両親が暖かく出迎えてくれた。その晩、豪勢なケバブ料理を「コカコーラで飲みくだした。」ターリバーンという毒がトッピングされていない「神聖な味」だったとは、いかにもファウジアらしい。

古都ラホールは500万もの人口を誇る大都市だ。ファウジアはその静けさに打たれた。「それを静かだと表現するのは少し変。でも私たちが来た道と比べると、そう思えた。」到着してから一週間後、ニュースが飛び込んできた。「アフガン大統領のラッバーニがペシャワールにいる」と。

当時ターリバーン政権を認めていたのはサウジアラビアとパキスタンのみ。国連総会のアフガニスタン代表はラッバーニが任命した大使だった。かつてその内務省に勤めた兄は大統領にコンタクトをとった。そして招待された。ハーミドも一緒に。二人は「ラッバーニが語る政権奪回のプランを聞きたくて、意気揚々と出かけた。」

ファウジアのラッバーニ観:
●出身はバダフシャーン州で同郷。
●ファウジアの父の友人であり、ときにはライバル。一家全員が深く尊敬。
●1950~60年代、共産主義の台頭に反対したキーパーソンのひとり。
●ソ連による占領時は、パキスタンから軍事的、政治的レジスタンスを組織した。
●共産主義者の敗北を受け、ナジブラー大統領の後継として選出された。
●最近(本書執筆時)、カルザイ大統領からターリバーンとの和平交渉を推し進める任務を授かった。
●だが2011年9月、ターバンに爆弾を仕込んだ自爆テロ犯によって殺された。

ラッバーニの陣地は多くの人であふれていたらしい。二人はとても興奮した様子で戻って来た。大統領と話し合って、彼がターリバーンを倒し再び返り咲くと確信したと言う。それを聞いてファウジアも同様に感じた。「楽観主義に支配された」ファウジアとハーミドはカーブルに戻ることにした。

世の中に「女たらし」という言葉がある。うまい政治家は「人たらし」だという。いかに主義主張が異なろうとも、連中を目の前にして話し合うと何か引きつけられる。言葉の力、オーラ、権力の甘い香り・・・多分こちら側の弱さなのだろう。とにかくラッバーニが有能なアジテーターなのは確かだ。

戻る理由は楽観主義だけでなかった。ハーミドの姉と子供たちをカーブルに残してきた。「彼女を支えなくては。」兄は反対したが、既婚の妹の決断を翻すことはできない。二人のラホール滞在はわずか一週間だった。季節は冬の盛り。帰路ハイバル峠の山々は雪に覆われていた。ファウジアは夢想した、「切り立つ岩々はターリバーン、覆う新雪はアフガニスタンの生まれ変わる姿であれかし」と。

無事カーブルに戻り、ラマダンの始まりを迎えた。かの有名なラマダンだが、ファウジアはそれをこう解説する:
●その間、全ての注意深いムスリムの例にならい、私たちも断食する。
●断食する時間は、日の出から日没まで。
●日の出前にサハールと呼ばれる食事をとり、日中の活動の支えとする。
●サハールを食べ終えると、朝の祈りまで少し眠る。

その朝、眠りについた二人だが、すぐノックの音に目を覚ました。二人とも「お隣さんがなにか用事かな」くらいに思い、ハーミドが玄関へ向かった。しばらく話し合う声。そしてハーミドが戻ってくる足音。見ると、彼の顔は灰のように暗く、今にも病に伏しそうだった。上着をとってくれとファウジアに頼んだ。玄関に現れたのはターリバーンだった。

(第14章「暗がりが満ちる」より抜粋・翻訳)

 

==========<野口壽一>==========(2022年9月5日)

読者の飯沼さんに教えられて「ソビエト帝国の崩壊 瀕死のクマが世界であがく」(小室直樹)を読みました。復刻版でなく図書館で借りました。昭和61年(1986年)発行の44刷でした。初版は昭和55年(1981年)、ちょうどソ連崩壊の10年前です。「○○崩壊」なるキャッチは〝さもしい売らんかな根性〟で巷にあふれていますが、この本は正真正銘の予言書と言えます。

1981年と言えば、前年はモスクワオリンピック。西側諸国は総ボイコット。参加を逃した金メダル確実と言われた柔道の山下選手が無念の記者会見をするなど、東西冷戦がまさにピークに達していた時代でした。その6年前にはベトナム戦争にアメリカが負け、サイゴンから逃げかえる惨めなドサクサ騒ぎ(まさに一年前のアフガン・カーブル)。あのころは西側も押されていて、まさかソ連が崩壊するなどありえない、と思われていた時代でした。

44刷がでた1986年頃はソ連侵攻の6年目。ちょうど侵攻10年の半分が過ぎたあたりでした。このころはソ連と社会主義圏の矛盾がいろいろと取りざたされる半面、中国の改革開放が軌道に乗り始め戦争をした同士のベトナムも親中国のドイモイ政策(ベトナム版改革開放)に転じインドも追随する勢い。この時もまだ、ソ連ないし社会主義世界体制が崩壊するなどとはほとんどの人は信じていない時代でした。

ところが、86年は先週30日に亡くなったゴルバチョフが書記長に就任して1年目。4月28日にはチェルノブイリ原発事故が起き、それを受けてゴルバチョフ書記長(当時)は「ペレストロイカ」と「グラスノスチ」 を提唱します。ガチガチの官僚主義で社会は閉塞し経済は停滞していた古い社会主義体制を立て直そうとします。このころもまだ、アジアでの経済成長と相まって、スターリン主義(懐かしい成句!)を克服した社会主義が生まれるかもしれない、と幻想が生まれた時代でした。

それから3年、アフガニスタンからソ連が撤退し、さらに2年してソ連が解体。ヨーロッパの社会主義諸国も崩壊する世界の大激動時代に突入しました。
アフガニスタンの民衆はこのような世界の激動にもみくちゃにされつづけました。私もアフガン民衆の視点から世界を見、もみくちゃにされた一人ですが、小室氏のような視点は研究会仲間との勉強会でも持っていました。しかし、率直に言って、91年の時点でソ連と世界社会主義体制が現実に崩壊するとは思っていなかった一人でした。

私は活動家の一人として、当時の評論家たちのさまざまな論議は当然にも知っていたし、参考にもしていました。しかし、社会主義も行き詰っていたが資本主義にも未来を感じられず第三世界との連携で変革運動を永続的世界的に続けていくしかないと考える世代(ないし潮流)でした。いまもあまり変わりません。その意味ではスターリンに殺されたトロツキーの後塵を拝しているのかもしれないなぁ、とまあ、こんなことをつぶやき始めると終わりがいつになるかわからないので、ここいらで止めて、いつかキチンと論じたい。

 

==========<金子 明>==========(2022年8月25日)

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第14弾。(写真出典:Fawzia氏のFacebook)

再びターリバーンによって夫を強奪されたファウジアだが、今回はすぐにその後を追わなかった。共に逮捕された兄に別れ際「追うな」と言われたからでもあったが、別の理由もあった。彼女は「力をなくし、二日間床についた。恐怖と欲求不満で体が麻痺した。ハーミドがまた連れ去られた。しかも今度あとに残したのは一人だけではない。私たちのまだ生まれぬ子供もだ。」

その三日前に妊娠を告げられたばかりだった。夫婦は喜んだ。しかし、戦時中だ。「こんな地獄に無力の乳児を産み落とすのは身勝手か?たぶんそうだ。」新たな命の誕生を知って希望より不安が勝る。そんな社会であっていいはずがない。平和が普通のわが国と平和のない国アフガニスタンの乖離には絶句する。

ありがたいことに、どんな世界へも子供たちはたくましく生まれてくる。「そう、怖れはした。でもこうも考えた。新たに生まれた子供に集中するのはとても貴重で前向きな何かだろうと。」ただ、アフガニスタンの出産時死亡率は高い。生まれ出ると同時に死にかけたファウジア自身がそれを一番よく知っている。加えてターリバーン治世だ。著者は当時の女性たちが置かれた医療状況をこう解説する:

  • すべての女医が禁止された。たくさんの女医が活躍していたのに。(ファウジアも女医を目指していた。)
  • 男性の医者が女性を診察するのも禁止された。風邪を引いた女性にアスピリンを処方することすらできない。
  • ターリバーン治世に、何百もの女性がいわれなく死んだ。インフル、病原菌、敗血症、骨折、妊娠によって。

「国を運営する残忍な男たちは女の命をハエと同等に扱っていた。神の申し子と自称するあの男たちは、神のもっとも偉大な創造物の一つ、女性への尊厳をまったく欠いていた。」あの日のファウジアには、そんな恨み節をたれる余裕もなかっただろう。兄がつてを使って獄中から手紙をよこしたのだ。この男に頼み込めと。

寝込んでいる場合ではない。目的を持ったファウジアは強い。しかも母親だ。すぐに兄のコネを訪ねた。共産主義時代、国防省で上役だった元将軍で、今はターリバーンのもと軍事アドバイザーを務めていた。その家を探し当て中に招かれた。ファウジアは居間の汚さ、暗さ、匂い(隅にいた子供を含む大家族が発していた)に辟易とした。

だが一番ショックを受けたのは、対応した妻の素朴さ、無教養丸出しの言葉と立ち居振る舞いだった。ファウジアは自問した、「家がこんなに汚くて、女性や子供が無知の罠にはめられて、どんな国ができるんだ?こうも無知で無教養な人たちが権力を持つアフガニスタンに希望はあるのか?」そしてもっと身近な問題に気づき身震いした。「これがターリバーンの上級アドバイザーの居間ならば、その刑務所の状況はいかばかりか。」

ターリバーンと付き合う上で忍耐は欠かせない。かなり待たされた挙げ句、元将軍が現れた。見た目は貧相だったが(お察しの通りファウジアの要求レベルはかなり高い)、兄をよくおぼえている、解放を保証しようと請け負い、彼は奥へ電話をかけに行った。だが戻って来たその顔は曇っていた。「出すのには少し時間がいる」と。季節は秋。帰り道、目前に迫る冬の冷たさが身にこたえた。

翌朝は雪が積もっていた。トイレに駆け込むと(つわり)、窓の外に階下の屋根屋根が輝く新しい毛布のように見えた。急いで身支度をすませ、ターリバーンの家へと向かった。転ばないよう注意して。着くと家の様子が変わっていた。掃除してある。子供の青っ洟も拭き取られている。男も様子が変わっていた。黒ずんだ歯を見せて微笑みながら、こう持ちかけて来た。

「私の子供たちに英語を教えてくれ。」

「もちろん。私の家に来ればいいわ。遊べる場所もあるし、その方がうまく教えられるわ。」

掃除したとはいえ、その家に一瞬たりとも「まったく必要な以上には留まりたくない」のが本心だった。このあたりの受け答えは、さすが政治家の娘、後の国会議員としての片鱗を見せたと言うべきだろうか。「この薄汚れた壁の向こうにある何かを、たとえ小さな何かでも、こんな子供たちに教えられれば、ゆくゆくわが国にも希望がある」とファウジアの志は高い。

さて、その夜更け。アパートの玄関ドアが激しくこぶしでたたかれた。ファウジアは用心深く、ちょっと開けた。毛むくじゃらの手がドアを強く押し返し、額にあたりそうになった。のけぞるファウジア。太い眉の下の暗い二つの目と、黒いターバンが彼女をにらみつけた。だが怖くなかった。「実際、ターリブの顔など見る暇もなかった。その隣に二人がいたから。ハーミドと兄だった。」

(第14章「暗がりが満ちる」より抜粋・翻訳)

 

==========<野口壽一>==========(2022年8月25日)

ターリバーンがカーブルを再占拠して1年。依然、中高女子の教育が禁止されています。それでも教育を受けたい受けたさせたい子供や親は、自分たちの家に秘密の学校を開いて子供たちに英語や数学や国語や歴史を教えています。
金子編集委員がつぶやいているファウジア・クーフィさんも、第1次ターリバーン時代(1996年~2001年)の婚約/新婚時代にマクロリアンの自宅に子供たちを集めて秘密の学校を開いていました(第7弾、6月15日。第14弾、8月25日)。実は、その活動を詳しく書いた書籍が2001年に日本で出版されています。『ラティファの告白 アフガニスタン少女の手記』(松本百合子訳、角川書店)。もともとはフランスで出版されたのですが、ターリバーン・バージョン2となって、いま再び注目を浴びているようです。
この本は、ファウジアさんより5歳年下の少女がソ連進駐時代からムジャヒディーンの内戦、ターリバーン登場までの自分が10代初めから20歳まで過ごしたカーブルの激変を多感な少女の感性で描いた迫真の物語です。彼女は最初、同じ住宅地に住むファウジアさんに教えてもらっていたのですが、ターリバーンがカーブルを支配するようになって2年が過ぎたころ18歳になって今度は自分が秘密の学校を開きます。そのとき、ファウジアさんに学校運営のノウハウを教えてもらい、タ-リバーンに見つからないよう、十数人の子供たちに本来学校で教えるはずの教科を教えます。このくだりはとても感動的だし、金子さんがまだつぶやいていないファウジアの運命なども書かれていて、はらはらします。ターリバーン・バージョン1の話ですが、その前の時代の一般少女の生活ぶりも生き生きと描かれていて興味が尽きません。ご購読をお勧めします。
なお、『ウエッブ・アフガン』では秘密の学校についてつぎのよな記事を掲載しました。
ターリバーンに挑む秘密の女子学校
アフガニスタンの女子のための秘密学校
学校のない 1 年、アフガニスタンの少女たちは教育を受けるための基本的な権利を求めて闘う

秘密の学校に関するより多数の情報はhttps://bit.ly/3wJL1Rk

 

 

==========<金子 明>==========(2022年8月15日)

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第13弾。(写真出典:Fawzia氏のFacebookより)

捕まった夫をどうにか助け出したい。ファウジアはその思いに突き動かされ、早朝ターリバーンの家を訪れ、夫の釈放を頼み込んだ。まっすぐ新婚の家に戻ったファウジアを待っていたのは、夫のハーミドその人だった。バスルームから出てきた彼は「やせこけた頬を水で輝かせ、頭からはしずくがこぼれていた。」

わずか一晩の拘留で「痩せ細り、よろめいて歩く」ようになったハーミドをファウジアは抱きしめ、お互いが涙した。短時間でもターリバーンの捕虜となることが、如何に心と体をさいなむか。自分に置き換え想像しただけで、気絶しそうな恐怖と絶望だ。やわな日本の官憲による扱いとは訳が違うのだろう。屈強な青年が一晩でガリガリになるとは!

ファウジアは、ここで夫の帰還に安心しへたりこんだりはしない。すごいな。私ならその日はもう動けない・・・「事前通告もなく夫を釈放した。ならば、次の標的は兄だ。間違いなく捜査の手を刷新するだろう。隠れ家を変えねば、早く。」思いついたのがかつて彼女の英語教室に通っていた女性だった。未亡人で数ブロック先に二人の娘と暮らしていた。

「政治的な人物ではなく、狂乱のカーブルで生き延びようとする普通の人だった。」再びブルカを着て、その家に走る。ほとんど家具が残っていない部屋に通された。「かなり前に、金目の物は売って米、油、燃料に変えたのだろう。」事情を話した。彼女が怒り出すのではと心配した。例によって、男を泊めるだけで御法度なのに、元警察長官をかくまってくれと頼むとは。

「なんて愚かな質問なの!」と未亡人は一喝した。「もちろんここに連れてきて。」
ハーミドの親類のアパートにとって返し、兄を連れ出した。わずかの着替えと食料を持たせ、彼を未亡人の家に届けた。かくまってくれた母と二人の娘たちはとても優しく、兄も「少しはリラックスできたと思う。」

彼はそこに10日滞在した。その間、兄の捜索騒ぎもやや落ち着きを見せた。そこで彼はハーミドとファウジアが暮らすアパートに移った。毎日のようにターリバーンに踏み込まれ、質問攻めにされ、神経をすり減らした兄の第一夫人も同じく転がり込んだ。新婚のファウジア夫妻、お尋ね者の兄とその家族、そして元から同居していたハーミドの姉一家。三家族が一つ屋根の下で暮らし始めた。

「最初は幸せな新婚生活を台無しにするこの事態に腹を立てた。でもやがて義務感が勝った。兄のためだ。これまで、どれほどかわいがってくれたことか。自分勝手に怒ったことに罪悪感すらおぼえた。今こそお返しに兄とその家族を世話するときだ。」

当初からの狙いだったパキスタンへの亡命。兄はついに意を決した。計画は単純だった。タクシーで国境検問所のあるトールハムまで行く。1997年当時、国境を越えるのにビザは不要だった。賑わう国境地帯の人混みにまぎれてうまく脱出できるだろう。その先、有名なカイバル峠を越えればペシャワール。そこから500キロで、第二夫人の待つ別宅があるラホールだ。

ここで著者は亡命ルート上にあるパシュトゥーンワリという地域についてかなり詳しく言及する:
●パシュトゥーン人が住む地域をこう呼ぶ。アフガニスタン南部とパキスタン北部にまたがる一帯。
●パシュトゥーン人は何世紀も国境など気にせず行き交っていた。彼らにとって国境はただの地図上の線にすぎない。
●デュアランドラインと呼ばれる一応の国境はあるが、アフガニスタンもパキスタンも正式には承認していない。
●国境地帯に暮らすパシュトゥーン人はその歓待の素晴らしさで有名。「もしあなたが彼らの客なら、彼らはあなたのために死も辞さない。もし彼らを怒らせたら、後悔もせずあなたを殺す。」
●アメリカとNATOはアル=カーイダと戦い、この弛緩した国境地帯が何千ものアル=カーイダ戦闘員の隠れ家になっていると訴えている。それに対しパキスタンは否定するばかりで、はびこる原理主義に対しほとんど何のアクションも起こさない。
●パシュトゥーン人の尊厳の掟は強く、ビン=ラーディンらの大物を探してアメリカがいくら空爆しても、村人たちは口を割らない。「爆弾は村々を破壊し尽くす。だが、『名誉ある客人』は決して裏切られない。」

ファウジアは「私には到底理解できないが、地元の人たちは決して変わらず、変わることができない」とコメントし、解説の最後をこう締めくくる:「その地に足を踏み入れれば、500年の時を遡ることになる。これまでの一連の政府や外国勢はこれを理解できなかった。理解できないと必ず敗北する。」500年か。わが国なら室町から戦国時代?確かにあの頃の戦士がカラシニコフやRPGをかついだら、そりゃあ強いな。

いよいよ亡命決行の日。兄は朝早く迎えに来るようタクシーを予約していた。彼は髭をたくわえ、ターリバーンも認識できぬほど風貌が変わっていた。ファウジアはテキパキと準備を進めた。「弁当はナーンと、兄の滋養のための固ゆで卵。兄の妻はスーツケースにもろもろを詰め込んでいた。」すると、玄関のドアがノックされた。

ファウジアはドライバーが来たと思い、反射的にドアを開けた。すると玄関先に立っていたのは二人の男で、頭には黒いターバン。銃を手に部屋の中に押しいって来た。全員が凍りついた。できるのはお互い視線を交わすことだけ。「来てしまった。捕まった。」

間髪を入れず一人が兄を蹴り倒し、もう一人がハーミドの首根っこを押さえて、逮捕した。どちらもまだ20代の若者だった。兄とハーミドは部屋からひきずり出された。廊下で兄が叫んだ、「ファウジア、俺たちを追うな。家で待て!」四人は階下で待つピックアップトラックの中に消えた。

(第14章「暗がりが満ちる」より抜粋・翻訳)

 

==========<野口壽一>==========(2022年8月15日)

ザワヒリ容疑者のドローンによる殺害などショッキングな事件があったり、ターリバーン再登場から1年を迎えると周年行事的に思い出したようにアフガニスタンの記事がマスメディアに登場する。
しかしネットを通してわが編集部には目をそむけたくなるような残酷な映像を含め、アフガニスタン民衆の生の叫びやニュースが毎日飛び込んでくる。日本人には想像もできないような厳しい環境の下でアフガニスタンの人びとは苦しみつつも闘い続けている。そんな情報はマスメディアではお目にかかれない。『ウエッブ・アフガン』はそのような人びとの声をすべて拾い上げて伝播、蓄積して日本で共有していきたいが、実際にできるのはその千分の一、万分の一に過ぎない。
だから、少しでも時間ができたら、本サイトの「便利帳」にリストアップされているさまざまなサイトを覗いてみて欲しい。
たとえば「長倉洋海さんのアフガン緊急メッセージ」では、主にパンジシール(パンシール)州の人びとの現状や闘いがフォトグラファーとしての感性をとおして伝えられる。また、「RAWA News」では女性の目を通して「秘密の学校」を開設して学ぶ少女たちの息遣いが伝えられる。アメリカ占領下で設立された独立系ジャーナルである「Hasht e Subh」(ハシュテスブ)」や「KHAAMA PRESS」はターリバーンの抑圧を跳ねのけて民衆の側に立った報道と論説を発信し続けている。アフガニスタン初の24時間ニュース、時事問題、ビジネス、地域および世界のニュース・TVネットワークである「TOLOnews」も英語のサイトを公開している。最近はブラウザの自動翻訳機能もよくなって、英語だけでなくたいていの言語をそこそこの品質で翻訳してくれる。
アフガニスタンでは「報道とは何か」「報道にはどんな価値があるのか」が人が生きるか死ぬかのレベルで問われている。「公正中立」などに価値があるのではない。人間一人ひとり、あるいは人類の立場に立って本質的に重要な情報が伝えられているのかどうかが、毎日問われている。
日本でも同じだろう。しかし、大新聞もテレビも視聴率やスポンサーの意向で報道の中身が決められ、金太郎あめ、横並びとなる。それを回避しうるのは、営利を度外視して関心を持つ個々人が横のつながりをつくり情報やオビニオンをシェアし合うネット文化の進展以外にありえないのではないだろうか。

 

==========<金子 明>==========(2022年8月5日)

(Fawzia Koofi)
アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第12弾。(写真出典:Fawzia氏のFacebookより)

夫から引き離され諜報部の敷地を出ると、ファウジアは急に兄のことが心配になった。タクシー代はもう残っていなかったので兄の家(高級アパート)まで歩いた。第一夫人がいた。彼女によると、兄はこの3日間居場所を転々とし、今日は西カーブルの親戚の家にいるとのことだった。「今ハーミドには何もできないが、兄の力にはなれる」と、内戦で最も破壊されたカードセ地区へ向かった。

たどりついた家には夫婦が暮らしていた。夫はカーブル大学の経済学教授。妻は教師だったが職を失い、今は秘密の学校を運営していた。居間に通されると、兄がマットレスの上に寝転んでいた。ファウジアを見た彼は危険が迫っていることを知った。二人は急ぎその家を離れ、徒歩で市外に向かった。人目の少ない郊外で、4時間あてもなく歩き続けた後、タクシーを拾った。

行く先はファウジアの新居がある第4マクロリアン。 振り出しに戻る感じだが、とても広い団地群なのだろう。そこにハーミドの親戚の女性が子供と二人で住んでいるのを思い出したのだ。途中怖れていた検問にあったが、運良く窓を下ろせとは言われなかった。

正確な住所は知らなかったが、あちこち聞いてやっとつきとめ、ドアをノックした。中に入り、急ぎ状況を説明し、「兄を一晩だけ泊めてくれ」と頼み込んだ。彼女は承知したが、喜んでという訳ではなかった。「怖がる気持ちはわかる。女は血縁でない者を家に泊めただけで逮捕され、勧善懲悪省に連行される。」ましてや、客はお尋ね者の政府高官だ。だがファウジアにとって他に選ぶ道はなかった。

翌朝、鏡の前で歯を磨いていると名案が浮かんだ。ターリバーン政府の役人の妻に刺繍を教えている友だちを思い出したのだ。ファウジアが知る唯一のターリバーンとのコネであった。彼女の家に駆けつけ、事情を説明すると、驚き同情し、一緒に生徒の家まで行ってくれることになった。

一刻も早くそのターリバーンに会いたいファウジアが、道すがら思わず足を止めた。通りの写真店の前に「いかにも意気消沈した様子で背をかがめた女が青いブルカを着て立っていた。一瞬誰だかわからなかったが、それはガラスに映る自分だった。」驚くと同時に店内の様子が目に入った。ターリバーンによって写真は御法度となり、うち捨てられた店だった。

ボリウッドの俳優よろしく滝に打たれてポーズを決める男。浮かぶ風船の糸を握りしめ歯のない口をあける赤ん坊。レースのドレスを着て短いソックスをはき恥ずかしそうに微笑む少女。正装した夫の横で自慢げに立つ白いベールの花嫁。

「これはだれだ?今どこにいる?」 ターリバーンの時代になる前、もといた1800万の人口のうち3分の1が戦闘で死んだ。残りの3分の1は国外難民になった。今は最後の3分の1が残るばかり。「店の主人は転職したのか。地下に潜り写真屋を続けているのか。ひょっとして逮捕されているのか。」ハーミドの囚人仲間かも知れぬと思ったとき、ファウジアは我に返った。

友だちがそっと彼女の腕に触れ、二人はまた歩き始めた。ターリバーンの住まいは門付きの団地だった。幼い男の子が玄関先で遊び、ゆでたマトンの香りが漂っていた。夫妻は二人を歓待し、熱い緑茶をふるまった。ターリバーンに「役所が開き次第、行って調べてみる」と言われ、ファウジアは満足しないまでも、感謝の気持ちを抱いた。

「私は驚いた。ターリバーンも、どんなターリバーンも人間性を表せるんだと。この男は見ず知らずの私を助けようとしている。その必要もないのに。彼がターリバーン全般に関する私の考えを改めさせた。理念や政治観を私と共有しないからといって、必ずしも悪い人ではない。アフガン人の多くは、民族性と文化の共有、住む場所の親近感、または単に経済的必要からターリバーンと交わる。それは当時も今も同じだ。仕事のない村で、給料を払うと言われれば、貧しい男は何をするか? もちろん、カンダハルやヘルマンドなど南部の都市では、イスラーム文化が厳しく守られている。私は反対だが、理解し尊敬する強い気持ちは常に持っている。」

アフガニスタンでは民族によって文化も言語も異なる。「国内に30以上の言語があることはあまり知られていない。」ファウジアによると、そんな多様性こそがアフガニスタンの強みである。少なくとも、平和時においてはそうだ。しかし、「戦争時においては、そうした民族的多様性が我々の最大の弱点になる。そのために考えもせず、お互いを殺し合う。」

ターリバーンの役人は二人を丁寧に門まで見送り、別れ際に「役に立てるかどうか確信はない」と注意した。ファウジアは帰り道いろいろと心配した。考えないようにと思っても脳裏に浮かぶ。「ハーミドが手を縛られ、中庭に引きずり出され、頭を打ち抜かれる。さもなければ、汚い凍える獄房でやせ衰え、空腹と寒さのせいで、徐々に正気を失う。」

こんな思いにさいなまれながら、ファウジアはようやく家に着いた。すると、バスルームから見慣れた顔が現れた。

(第13章「始まりの前の終わり」、第14章「暗がりが満ちる」より抜粋・翻訳)

 

==========<野口壽一>==========(2022年8月5日)

アル=カーイダのナンバー2、ザワヒリ容疑者が殺害された。なんと、ナンバー1のオサマ・ビン・ラーディンがパキスタン軍統合情報局(ISI)の拠点でパキスタン陸軍士官学校の至近距離にあった豪邸で殺害されたのと同じように、ザワヒリも政府機関や大使館などが集中するカーブル中心地の住居のベランダに出てきたところを米CIAのドローンミサイルで爆殺されたのだという。実に奇妙な一致だ。

この事件報道にふれていくつもの疑問がわいてくる。アメリカの発表が正しいとして;
①ドローンはどこから飛んできたのか。カタールか、だとすればイラン領空を侵犯したことになる。パキスタン領内かパキスタン沖の艦船からか。アフガニスタン国内から、とも考えられる。ここにはおびただしい数の疑問点が存在する。
②アメリカの単独作戦かそれとも協力国はあったのか。あったとすればパキスタンかターリバーンか、あるいは3者共同作戦か。暗黙の了解もありえる。
③カーブル現地からの情報によると、殺害の直前2、3日前にザワヒリ潜伏地近傍で2度のドローン爆撃があったという。その爆撃音をザワヒリは聞いていたはず。ターリバーンへの敵対勢力掃討戦と聞かされていたのだろうか。
④爆撃したドローンは帰還したのかどこかに不時着したのか。ターリバーンは把握しているはず。
⑤アフガンからの情報によるとこれまで何度もアフガン上空に国籍不明のドローンが飛来し、爆撃を行っている。恐らくはアメリカのものだったのだろうが。
⑥アメリカは人道目的に限りアフガンの凍結資産を解除する決定を今年2月にしている。先月末ターリバーンとアメリカはタシケントで凍結解除について協議している。

以上の事柄をつなげて考えれば、アメリカとターリバーンとの間にかなり高度の合意が存在する可能性が高いと断じざるをえない。
ロシアと中国(こちらが主敵)との対決、包囲網づくりにまい進する米強硬派=軍産複合体の思惑が透けて見える気がする。犯罪者と断じて裁判なしに殺害する、外国の主権は無視する、等々、傍若無人に振舞うアメリカの姿をみる人びとや国々は、ロシアの肩を持つか、等閑視するのである。さらに言えば、言わずもがなの当然のことだが、テロの指導者をテロ(ステート・テロ)で殺害しても新たなテロリストを生み出すだけであり、テロの悪循環を断ち切ることはできない。
謎に満ちたこの事件については本サイトの「トピックス」コーナーと「アフガンの声」にいくつかの情報と見解を載せておいた。ぜひお読みいただきたい。

 

==========<金子 明>==========(2022年7月25日)

(Fawzia Koofi)
アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第11弾。(写真出典: https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/tv/directtalk/20220406/2058814/)

兄がムジャヒディーン政府の警察長官であったため、北部におけるターリバーン対ムジャヒディーンの戦闘に巻き込まれたファウジアは、兄とその家族と共にカーブルに戻ってきた。その頃のターリバーン支配の非道さは、次のように紹介されている。

●武器狩り:ターリバーンは家々をしらみつぶしに訪問し、武器を差し出すよう迫る。「彼らは誰もが武器を持っているはずだと信じて疑わず、武器がないという返答は認めなかった。」そのため武器を渡さない一家の主は軒並み逮捕された。すると残された家族はどうするか?どこかで武器を買ってターリバーンに差し出し、解放してもらう。

●勧善懲悪省:「もっとも勇敢な人々も、その名を聞いただけで震え上がる。」宗教に対する犯罪や「道徳的犯罪」を犯した者を裁く機関で、市内の一等地にある庭付きの瀟洒な建物に陣取っていた。ひげが短すぎる男、ブルカを着ていない女らを連行し、足の裏を金属製のケーブルで打ちたたく。「保守的な南部の田舎から来た不潔で無学文盲のムッラー」が大都市の教養ある女性たちを裁き、ひげ面の番兵たちは、その叫び声を聞きながらバラの香る庭を眺めて茶をすすった。

●公開処刑:姦通や窃盗の罪を犯した者がトラックに乗せられ五輪スタジアムの真ん中に運ばれる。歩いて場内一周し観客の喝采を受ける。ある者は両腕を切り落とされ、またある者は頭を撃たれるが、極めつけは投石刑。腰まで地面に埋められ死ぬまで投石される。「たった一切れのパンを盗んだのは飢えた子供のためだった。実はレイプだった。そんな事情を、裁く者、最初の石を投げる野蛮人たちが気にとめることはなかった。」

●ムハッラム:女性は外出するときはかならず「男性の血縁者」=ムハッラムと一緒でなくてはならない。これはファウジアがカーブルに戻ってから知った新たな差別だった。ターリバーンは見張りのため、多くの検問所を設けていた。男女が乗った車を止めると、二人の関係について根掘り葉掘り尋問する。これも勧善懲悪省の管轄だった。

●ハイラックス:勧善懲悪省のパトロールカー。屋根につけたスピーカーから「聖なるクルアーン」を大音量で流す。その音を聞くと女性はみな素早く身を隠す。女性を見ると捕まえて難癖をつけるからだ。ある日ファウジアは「路上で少女が鞭打たれているのを見た。するとその母と姉が身を投げ出して彼女をかばった。ターリバーンはかまわず3人を打ち続けた。本当に狂気の沙汰だ。」

そんなカーブルでファウジアとハーミドは結婚した。式には1500人もが押しかけた。うち500人は兄の関係者で、ファウジアは「ちょっと頭にきた。無銭飲食をしに来たのじゃないかと。」その中にターリバーン政府に協力するものもいたのか?兄はもっと早く国を離れるべきだった。しかし、結婚式を人生の一大イベントと考え、「ネットワークを構築する」機会と捉える政治一家にとって、親代わりである兄の欠席は許されなかった。

ターリバーンのおかげで「とても地味になった」結婚式だが、伝統に則り数日間続いた。最後はファウジアも兄も涙した。そして、「第4マクロリアン」という寝室が3つもある高級アパートで新婚生活が始まった。ただ、アフガン風というか、その時代らしいというか、二人きりではない。最近夫を亡くしたハーミドの姉とその二人の子供が同居した。

元教師の義姉はとてもエネルギッシュで、ファウジアと意気投合。すぐに素敵な関係が結ばれた。しかしターリバーンが支配するカーブルでの暮らしは先行きがあまりに暗い。いずれ故郷のバダフシャーンに移ろうと、結婚した直後からファウジアたちは話し合っていた。

結婚式からちょうど10日後の午後、玄関のドアがノックされた。現れたのは黒いターバンを巻いたひげ面の男たちだった。兄がカーブルに戻ったことを、ターリバーンの指導者オマル師が知り逮捕状を出した。彼らは行方をくらました兄を三日間、血眼になって探していたのだ。

男たちは「警察長官はどこにいる?」と逮捕状を見せ、部屋中をあら探しした。何も見つけられず帰ろうとした彼らと、職場から戻って来たハーミドが間一髪鉢合わせした。ハーミドは手錠をかけられ、諜報部へと連行された。

気丈なファウジアはすぐにタクシーを拾って追いかけようとしたが、例の「ムハッラム」によって一台目は乗車を拒否した。しかし二台目のドライバーが乗せてくれ、道々名前や住所などを教えてくれた。「検問所では私の妹だと名乗りなさい」と。たどりついた諜報部前で、ファウジアは感謝を込めてかなりの大金を払い下車した。「私が今たくさん払えば、次また別の女性を助けてくれるだろう。」

ゲートで「私は逮捕されましたが、女なのでターリバーンの方たちの車には乗れませんでした。そこで、ここに自分で来いと言われました。入れてください。」と嘘をつき侵入した。見ると敷地内に拘置所があり、その門前でハーミドは二人のターリバーンにはさまれ、放心状態で突っ立っていた。

やがて別の門に向かって歩き出した。ファウジアは駆け寄り、ハーミドの手を取った。拘置所の門が開く。中に何百もの囚人が見えた。手錠をかけられた者、縛り上げられた者、立ち尽くす者。皆が悪臭漂う中庭にたたずんでいた。ターリバーンがハーミドのもう片方の手を引き中に入れようとした。「新婚です、お許しを」と迫ったが、「うるさい女め」と蹴飛ばされ、ファウジアは泥水の中に倒れた。ハーミドは中に消えた。

(第10章「北への撤退」、第12章「とあるターリバーン結婚式」、第13章「始まりの前の終わり」より抜粋・翻訳)

 

 

==========<野口壽一>==========(2022年7月25日)

8月15日が近づいています、と書けば「終戦記念日」。日本の敗戦日です。しかし今年からは、「ターリバーン勝利の日」、その1年目です。
国際的にみれば片や先進国、片や最貧国そもそも破綻国家。
日本は、憲法もあるし、国政選挙もあるし、合法政府もある。政府は借金してるけど国民からのもので外国にとやかく言われる筋合いはない、お金持ち国家。そもそも対外的には世界一の債権国、対外純資産額は411兆円(2021年末)。片やアフガニスタンは、日本にあるものが何にもない、ないない尽くしで、比べ物になりません。そもそも「国家」自体、あるんだかないんだか分からない。政府は外国からの正式承認ゼロ!
比べ物にならない、と言いましたけど、「国家とはなんじゃ?」という視点から見れば、小生には、「大同小異」、「どっこいどっこい」としか見えません。
安倍元首相が凶弾に倒れたってんで、それ「国葬」と一部が騒ぎ立てていますが、この国には「国葬」に明確な法令基準はありません。日本は「法治国家」ですから税金や公務員や国の施設や財産を使う場合は、その根拠となる法律がなければなりません。政府が持つ機密費から支出、というゴマカシは許されません。法律専門家たちはすでに動き出していますから差し止めを求める仮処分申請もなされるでしょう。されたら小生も応援します。(裁判官殿、もう忖度する必要ないから、正当な判断をしてくださいね。)
「大同小異」「どっこいどっこ」と思う理由は、あの国もこの国も国民の合意ができていないのに力を持った勢力が好き勝手にやってるからです。あの国は格好つけるのがへたくそで(つまり法治国家の体裁がとれていない)のに対して、こちらは立派な法治国家。なのにやってることはそんなに変わらず好き勝手。ごまかすのが上手、というくらいの違いしかありません。
そもそも、こちらの国だって政府がお手盛りだったり、違法だったり、利権誘導だったり、かなりなもので「お友達内閣」と揶揄されても平気、揶揄したほうも、是正するための本気の批判でなく、ただ視聴率稼ぎで面白がっただけ。実態は「人治」国家なんですね、この国も。中国をさんざん「法治」でなく「人治」だと批判していたのは誰だったんでしょうか。
この国は「法治」でなく「放置国家」なり、と断じたくなります。
放置していたのはわれわれなんですけどね。

 

==========<金子 明>==========(2022年7月15日)

(Fawzia Koofi)
アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第10弾。

ターリバーンによる北部への攻撃は続いた。「ムジャヒディーン政府が完全に掌握していた地域内で、ターリバーンに鞍替えする村が出てきはじめた。政府側だった場所に突然、ターリバーンの白旗があがるのだ。」

北部同盟の司令官の中には、ターリバーンと取引する者が出てきた。かつての共産主義者の中にも同盟を結びたがる者がいた。だがターリバーンは非情だ。欲しいものを手に入れると、相手を裏切るか暗殺した。ターリバーンに仲間はなく「ターリバーンにあらざれば敵」だった。

そんな戦況の中、ファウジアの婚約成立も束の間、兄は国外への逃亡を決意した。第一夫人と子どもたちを連れカーブル経由でパキスタンへ。そこで第二夫人も従えて、最後はヨーロッパへ渡るという亡命計画だった。

しかし、行動に移す前にマスードとラッバーニの部下たちから指令が来た、「一端タハール州へ退き、対ターリバーンの軍備を確立せよ」と。その時点でターリバーンの手に落ちていないのは、アフガン最北端にあるファウジアの故郷バダフシャーンと、その西隣にあるタハールの2州のみだった。「そのため私たちは兄に従ってタハールへ着き、また例の一時的な暮らしが、また例の借家住まいで始まった。」

それから2、3週ほどたってマスードが自軍を整えるためタハールを離れパンジシールに向かうことになった。その機会を逃さず兄はマスードに直接、家族をパキスタンへと連れ出したいと訴えた。マスードは同意した。すぐさま兄は制服を脱ぎ捨て、女性たちは荷物をまとめ、「さわやかで暖かい春の日に」ファウジアたちは出発した。

380キロの道のりを戦時下タクシーに乗って南へ。「川に沿って走っていると、橋の手前で私たちは息をのんだ。ターリバーンが人々を通させまいと橋を砲撃したのだ。金属と木材の破片が飛び散り、不運にも橋の上にいた数台は空に舞い叩きつけられて粉々になった。」

タクシーを降り、そこから先は、ほぼ丸1日ずっと歩いた。「曲がりくねる山道をのぼり、ゴツゴツした岩山を越え、バラとクワの果樹園を抜け、川に沿って道を下った。」砲弾が頭上に音を立てて行き交う。道の左右どちらからも狙われる。ときおりあまりに多くのロケット砲がビュンビュンと空にうなる。そんなときは、直ちにわきの茂みに逃げ込む。

そんな状況で「途中何度かタクシーを拾えた」とは驚きだ。「本物のタクシーではない。素人が客を乗せて運び、料金を取っているのだ。命がけの仕事だが、彼らも金が必要だった。」こうして、いよいよカーブル郊外まであと一息のショマーリ平原へとたどり着いた。

しかし、タクシーを降りたところは、ちょうどマスードとターリバーンが戦っている最前戦だった。「普段は交通量の多い道だろうが、さすがにここを走るタクシーはいない。歩いている集団に合流した。皮肉さに笑ってしまった。この人々はターリバーンがカーブルを掌握したとき、街から逃げ出したのを私たちが見たその同じ人々だ。比較的静かで一時は聖域だった田舎の町が戦場となり、逆にカーブルがいまや比較的安全な選択肢なんだから。」

流れ弾も怖いが、野犬や毒蛇にも要注意の道中。赤ん坊を抱き続けた義姉は足もとが無謀にもハイヒールだったので、とうとう痛みに耐えきれなくなって泣き出した。そこでファウジアは自分の低いサンダルと交換することにした。「何かの理由で私はハイヒール歩行がいつも得意だった。戦闘中でも。私の持つたぐいまれなる才能のひとつだ。」

道端の木陰で靴をはき替え、二人は少し休んだ。リンゴをみつけてかじっていると、木が揺れだした。そして「ドッカーン!」ファウジアの頭上数メートルのところでロケット弾が炸裂した。木は葉もろとも一瞬で姿を消したが、ファウジアは無傷だった。「またしても私は、きわどく死を免れた。」

道に戻ると、そのロケット弾が殺した女性と子どもの死体がいくつかころがっていた。兄はその様子を見て、「歩き続けろ」と叫んだ。さらに2時間歩いて、急流と滝で有名なサヤド川沿いのかつての観光スポットについた。そこで見ず知らずの一家がファウジアたちを招き入れ、茶とパンとクワの実でもてなした。
その上、歩きやすいサンダルを一足わけてくれた。

壊れかけた橋を渡ってさらに30分歩くと、ようやくターリバーンが支配する地域に入った。また1台タクシーを拾った。後部座席にへたりこんだファウジアはすぐ眠ってしまった。目を覚ますと車は「愛するカーブル」の通りを走っていた。兄は運転手に「マクロリアンへ」と行く先を告げた。こうして「ばかげたハイヒールをはいて、ロケット弾と銃弾をかわした1日が終わった。」

(第11章「すべて真っ白」から抜粋・翻訳)

 

==========<野口壽一>==========(2022年7月15日)

今号に掲載したハシュテ・スブ(アフガニスタンの独立系日刊紙)の社説「アフガン人は乞食ではない」はアフガン人の在り方への根本的な疑問と筆者の決意を次のように表明している。

産業革命は、日本、韓国、そして中国にまで到達し未曾有の飛躍をもたらしたのに、なぜアフガニスタンはこの道をたどれないのか。その原因のひとつは、アフガニスタンの「文化の一部」とさえなっている、外国人の寄付や援助に頼って生き延びてきた物乞い精神ではないのか。その乞食根性のゆえに「経済的に自立する努力」をしなかったからではないのか、と。

私はアフガン人自身によるこの結論を歓迎するし、社説に掲げる勇気を讃えたい。
国造りの出発点、国民意識の在り方としてこの考え方は基本であり、真っ当だ。ソ連の軍隊を導入して政権維持を図ったPDPA(アフガニスタン人民民主党)でさえカルマル議長の後を継いだナジブラー議長(のち大統領)は、ソ連軍にたよるべきでないと国会で何度も「アフガン人は乞食ではない」と誇りと自立を訴えた。その結果、1年かけてソ連軍をほぼ無傷で撤退させることができた。しかし、ジュネーブ和平協定に基づき軍事援助を停止したソ連に対し、ムジャヒディーン・パキスタン・アメリカ連合は軍事攻勢をつよめた。これにたいしアフガン国軍は2年半近く独力でムジャヒディーンを跳ね返しつづけたが、孤立無援の末最後は矢尽き刀折れて崩壊した。

いま指摘した事例は軍事(体制維持)だが、「外国に頼らない」という精神論だけでは経済社会や国家建設はさらに難しいだろう。

西洋に後れを取った日本が成功しえたのは絶対主義的中央集権国家の樹立に成功したこと、身分制度を撤廃し下級武士を労働者や兵士に変え、農村を搾取し、国民皆兵制度による軍制の確立に成功したことなどが大きい(富国強兵)。さらに、日清戦争に勝ち賠償金を手にできたことなど、数々の僥倖が重なった。その間足りない資金は外国からの借款に頼った。日露戦争の勝利を決定づけた戦費でさえ、イギリスやユダヤ系財閥の支援のおかげだった。

日本の成功が単なる〝僥倖〟でなかったことは、第2次世界大戦後、韓国、台湾、タイ、フィリピン、東南アジア、そして中国と、日本が発明した「軍事独裁+外資」という方程式に基づくものだったことを歴史が証明している。

しかし、内部的に異なる多くの民族をかかえ周辺諸国との強い血縁的宗教的つながりを持つ複雑で多様なアフガニスタンにとってこの道を選択するのは困難、むしろ不可能なのではないだろうか。

アフガニスタンは、いま、「国」の在り方をめぐって隘路にはまり込んで苦しんでいる。経済的な困窮に重ねてターリバーンという過去の亡霊が暴力支配をしている。しかし、そのターリバーンを含めてアフガニスタンである。過去の亡霊からの決別はアフガン人自身で決着をつけない限り不可能だ。「アフガン人は乞食ではない」という誇りは多くのアフガンが持つ矜持だろう。外国軍の直接進駐がなくなったいま、アフガン人がアフガンの未来を決める舞台はできた。

アフガニスタンではいま、単一国家としての形成の難しさを認識し、連邦制度や分国などさまざまな解決策が模索されている。アフガン人がアフガン人としての誇りをもって、国の在り方を自らで決め、土台を形成する以外に、発展の道筋はありえないだろう。

(以上の見解は、本サイト開設の際の基本認識であり、開設時の「視点」に詳しく記しました。)

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==========<金子 明>==========(2022年7月5日)

(Fawzia Koofi)
アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第9弾。

カーブルを制圧したターリバーンは戦線を徐々に北へと押し上げ、北部同盟の懐に迫っていた。そのためパルワン州にたどり着いたのもつかの間、ファウジアたちは安全を求め、さらに300キロほど北の都市プリクムリへ避難することになった。ハイラックスに乗って村を出発したときの描写は生々しい:

「幹線道路に出て、車列に加わった。何千もの人々が侵攻するターリバーンから逃れようとしていた。どの車も衣類、台所用品、毛布さらに動物を満載。乗員たちの全財産だ。車の側面に人がぶら下がる。あらゆる場所にしがみついて。タクシーにしがみついた男が私たちのトラックに目をとめた。ケガをしている。たぶん兵士。見た目はウズベク人。顔は丸く、目はアーモンド型。ムジャヒディーン兵のようだ。片脚から流血し、今にもタクシーから振り落とされそう。幅寄せしてきた。銃を持っている。併走しながら銃を振りかざし、運転手に止まるよう命じた。しかし運転手は止めない。すると彼はタイヤをめがけ発砲した。タイヤは破裂しトラックは蛇行。危うくその男を跳ね飛ばす所だった。助手席の私は怖れた。追いつかれ引きずり出されるのではないかと。しかし、運転手は肝を据え、どうにか走り続けた。男は後続車に狙いを変え、必死に撃ち続けた。私には後ろを見て確かめる勇気がなかった。かわいそうな一家が皆殺しにされたかどうかを。」

一路北へ進み、やがて着いたサラン峠のトンネルはターリバーンの侵入を防ぐため閉鎖されていた。逃げてきた人々は足留めされて寒さに凍えるかUターンするしかない。しかしファウジアを乗せたトラックは、元警察長官の兄が準備していた通行証をかざして通過した。

プリクムリでは義姉が準備した隠れ家に案内された。狭い場所だったが既に60人も集まっていた。みな兄の部下で元警官、いまや行く場所のない男たちだった。「だからいまのアフガニスタンには、不法な武装集団がこんなに多い。体制が崩壊したとき、こうした男たちにはとるべき道がない。そこで、かつての上司や指導者に頼り、民兵を組織する。」

さすがに元上官の兄もこれほど多くの男たちとファウジアが一緒にいることは欲さなかった。そこで彼らに家族の元に帰るよう諭した。こうしてプリクムリで、ひとときの平和な暮らしが始まった。料理し、掃除し、庭でチャイを飲む日々。それはファウジアの母親や姉たちが耐え抜き、ファウジアが最も抗った「苦役に満ちた退屈な暮らし」だった。

ある日、ファウジアが庭で日光を顔に受けて楽しみ、山に降る雪を眺めていると、来客があった。3歳と4歳の子どもを連れたハーミドの姉とその夫、そしてハーミドの叔父だった。5人の姿を門前に見つけたファウジアは思わず「キャッ」と喜びの声を上げた。

彼らの話でわかったこと:「ハーミドは私たちの家に行ったが、カーテンが閉ざされ、誰もいなかった。周囲で聞きこみ、どこに行ったかを知った。そして好機到来かと思った。私がムジャヒディーンの支配地にいることは、武装した民兵や司令官に囲まれていることを意味する。みな私をレイプしかねない輩だ。なのにハーミドの見立てによれば、私の兄は二人の妻の安全を保つのに手一杯で、私の誇りにまでは気が回らない。そこで私たちの結婚に対して、兄はより寛容になるだろう。」こうして、一行が求婚の使いとしてやってきた。

子連れで戦時下の移動。さらに途中、雪崩にあって一晩凍えたと聞き、ファウジアはハーミドに対し若干怒りをおぼえた。「同時に、そこまで真剣に結婚しようと思う彼の気持ちに触れドキドキした。」

続けて、著者はアフガニスタンの求婚の風習に言及する:求婚をやんわり断る場合、はっきり「ノー」とは言わない。相手にとてもクリアできない要求を突きつける。しかも彼らは命をかけて求婚の旨を伝えに来ている。かねてから階級・財力の違いで二人の結婚に猛反対の兄も、簡単に拒絶するのは失礼だと考えた。

みなでディナーを楽しんだあと、ファウジアとハーミドの姉は別室へ。そして兄がハーミドの義兄と叔父に出した要求:「ファウジア名義の家の購入、しかるべき量の金と宝石の付与、そして現金2万ドル。」壁に耳を当てて話を聞いたファウジアはあきらめのため息をついた。「しかし驚いたことに、ハーミドの叔父は同意した。」

数日後、今度は兄がカーブルに出向き、ハーミド側の進捗状況を確認する手はずとなった。しかし戦闘が激化しており、サラン峠のトンネルの向こう側で兄は音信不通となった。生死が定まらない状況が続く。兄の第一夫人は夫をカーブルに行かせたファウジアを非難の目で見た。

40日たってようやく、兄は生きており、バダフシャーン州にいることがわかった。ターリバーンがあまりにも優勢なため、ムジャヒディーンは一時バダフシャーンに撤退し新陣地を築こうとしたのだ。やがて兄はファウジアのもとに戻って来た。

「そして春の緑の芽が雪を突き抜け充分にのびるころ」ハーミドの叔父がまたやって来た。「今度はハーミド本人を連れて。」再び、男だけの会議。ハーミドはファウジア名義の家を購入し、その書類と現金2万ドルを持参していた。

バダフシャーン州に土地を持ち、その一部を処分して資金を工面したハーミドは確かに貧乏ではない。しかし「カーブルに4軒の家、加えて(パキスタンの)ラホールにも別宅を持つ」兄は煮え切らない。常日頃こう言っていた:「ファウジアよ、こんな貧乏人とは結婚するな。男はいくらでもいる。お前は月給に頼る暮らしなどできない。リッチでパワフルな男と結婚しろ。」

ファウジアと隣室で息を潜めていた実の姉が、業を煮やして交渉の場に乱入。兄を部屋から引っ張り出して、こう言い放った:「かわいそうなこの人たちを試すのはもうやめて。約束のお金は持参したわ。今度はあなたが決める番よ。イエスかノーか、さあどっち?」

兄は無言で目を丸くして大きなため息を一つ。ついに不承不承ながら求婚を受け入れた。だが、こんな記念すべき日ですら当事者が直接会えないとは、目がくらむほど古風なアフガンのしきたりだ。婚約成立。家を出て、車へと向かうハーミド。窓のカーテンに隠れてフィアンセの後ろ姿を見つめるファウジア。ふと立ち止まって頭をかくハーミド。晴れて花嫁になる21歳のファウジアを、このあと大きな試練が待ち構えていた。
(第10章「北への撤退」から抜粋・翻訳)

 

==========<野口壽一>==========(2022年7月5日)

まことに現代は、何が真で、何が善で、何が美で、ましては何が愛なのか、さっぱり分からなくなった。と、ほとほと嘆かざるをえない。
ひと昔前は正義というものがあって、不正義に怒りをたぎらせたこともあった。自分はその時と変わらない、と思っているが、ただ単に歳をとっただけなのかもしれない。

そう言えば、若い時、不確実性の時代がきたと囃し立てられたことがあった。そのころは不確定性原理を勉強したあとだったのでそんなのあたりまえじゃん、と思ったものだ。自然と違って人間社会のファクターは無限にある。あちらを立てればこちらが立たず、という現象は日常茶飯事だ。とはいえ、人間社会には常識というものがある。とことん対立して闘いをやめなければ共倒れになる危険があるからどこかで妥協が成立して日常が復活する。一生添い遂げる夫婦関係では「愛」とは無数の「妥協」の集積なのだろう。

米ソが地球を破滅させられるほどの核兵器を蓄積して対立した冷戦時代にも、数々の内戦や国家間の戦争があったけれど、収拾の道筋について敵味方で共通認識があったような気がする。冷戦が終わってから、世界が騒がしくなりぎくしゃくとし始めたような気がする。ソ連のアフガニスタンからの撤退がそのような時代の始まりだったような気がする。イスラーム過激派が世界史のど真ん中に登場した。各国でポピュリズムが力をまし、常識の変更がせまられているような気がする。

アメリカでトランプ大統領が当選したあたりからそのような傾向が加速した。なんでもありの世界になって、反論はフェイクとされ、聞く耳もたずに拒絶される。もともと、芥川龍之介の「藪の中」(映画「羅生門」)のように人間社会の真実は当事者の数ほどありうるのだから、真善美や愛が一種類とは限らない。不可知論とか相対論とかの理論を打ち立てる哲学者もいる。

何百年と続いてきた資本主義は終わった、あるいは歴史そのものが終わった、と主張する学者もいる。しかし自分も人類も生きていかなければならない。終わったと達観して澄ましているわけにはいかない。現状維持はじり貧で老いさらばえるだけだ。現状変革を求めて抗うしかない。世界中にあらがうおびただしい人びとがいる。自分もその中のひとりだと認識して列に並ぶべきなのだろう、老骨に鞭打ってでも。常識の変革がもとめられるとはそういうことなのだろう。それにしてもしんどいなぁ。

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==========<金子 明>==========(2022年6月25日)

(Fawzia Koofi)

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第8弾。

1996年9月26日「ある普通の木曜日」、ファウジアは大学の授業がなかったため、姉を誘って新しい靴を買いに出かけた。ところが靴屋の店主にこんなことを言われた:「お嬢さんたち、明日になったらそんな格好でここには来られないよ。明日はターリバーンがここに来る。だから君たちが買い物を楽しめるのもこれが最後。今のうちに楽しんでおきな。」

気分を害したファウジアは言い返す:「それはあなたの思い込みよ。お墓までどうぞご大切に。絶対そうはならないから。」幼少期からのトラウマでただ怖いだけだったムジャヒディーンも、大学生になった今は「対話をしないで、ただ戦うだけの男ども」とクールに批判できた。彼女はターリバーンも同類だろうと思い、すっかり「うんざり」していた。

その晩、BBCラジオのニュースに耳を疑った:「マスードの部隊がカーブルから撤退し、パンジシールの渓谷に戻った。」
ラジオにかじりついたファウジアの分析:「だからといって負けたとは限らない。一時退却はよくあること。朝食前には戻って来て反撃し、ラッバーニを支援するだろう。」カーブル市民もほぼ全員がそう信じた。

しかし上級警察長官の兄が突然帰宅し、妻に命令した:「時間が無い。私の身支度をしておけ。ほかの上級官僚と一緒にパンジシールに移り、マスードに合流する。」兄の命令で、一人の妻はファウジアと一緒にマクロリアン(高級アパート)に残った。もう一人の妻はパキスタン、ラホールにある夫の別宅を目指して直ちに出発した。

BBCの速報:「ラッバーニ大統領とその閣僚たちも空路パンジシールへ。そこから大統領の故郷バダフシャーン州へ向かう見込み。」
さらに続報:「国連施設内で家族と共にかくまわれていたナジブラー元大統領に、マスードがパンジシールの渓谷に連れて行こうと申し出たが、ムジャヒディーンもターリバーンも信頼せず、罠を怖れたナジブラーは拒絶した。」

夜の8時、ジェット機が上空を飛び交った。やがて兄がその晩二度目の帰宅。こう言った:「私はいますぐカーブルを発つ。」ファウジアは怒って:「今こそ残ってカーブルと政府を守るべきよ。それなのにあんな連中を前に逃げ出すなんて!」

十把ひとからげの信心深い学生たちを相手に政府が勝利をあきらめるなど、ファウジアにはとても信じられなかった。「ラッバーニ政府が特段好きなわけじゃない。でも少なくとも政府は政府。なのに、私の兄のような官僚が地位を投げ捨て逃げ出した。」

そして迎えた金曜日の朝6時。窓から外をうかがったファウジアが見たのは、「小さな白い祈りのための帽子をかぶった人々。」みなが突然そんな格好をし始めた。そこへ噂:「彼らは人々を叩き、モスクへと連れ出している。」このとき初めてターリバーンが共産主義者ではないとファウジアたちは確信した。

次に起きた事件:「ターリバーンが国連施設を急襲、ナジブラー元大統領を引きずりだし処刑した。その死体は弟の死体と一緒に市内のランダバウトにさらされた。」さらにカーブル博物館に乗り込み、収蔵品を破壊。バーミヤンでは石仏を爆破した。

それだけでなく、アフガン人の「心を破壊し始めた。」つまり、学校や大学の建物を焼き払った。本を焼き、文学を禁じた。ファウジアの通う医大は閉鎖された。女性が医者になるのは禁じられた。派手な結婚式は御法度となった。スカーフをまとっただけでブルカを着ていない女性はその場で鞭打たれた。おしゃべりしている男女を見つけると、女を転がして鉄製のケーブルでたたく。テレビは禁止。ラジオから流れるのはターリバーンのプロパガンダのみとなった。

恐怖の様々な形を体験し、克服してきたと自負するファウジアだったが、ターリバーンの恐怖はまた格別だった。「冷たく、陰湿で、氷のような怒りが染め上げた」恐怖。その怒りの主は、誰あろうファウジア本人だった。ターリバーン入城以来ファウジアが外出したのは母の墓参に出かけた一度きり。それ以降、およそ二か月も部屋に閉じこもった。

その間も、カーブルの北東方面、ショマーリの平原とパンジシールの渓谷はマスードの支配下だった。そのため、カーブルから多くの市民がそこを目指して逃げ出した。「持ち家が内戦を生き延びたことを祝福してから数週間もたたないうちに、その家々の門扉に鍵をさして、人々は振り返ることなく歩み去った。」

しばらくして兄が手紙をよこした:「いまパルワン州にある運転手の家にかくまわれている。妻と子どもをよこしてくれ。」パルワン州はカーブルのすぐ北。美しい川と谷があって、夏になると多くの市民がピクニックに訪れる風光明媚な避暑地だ。

車でまっすぐ走れば1時間でつくところを、略奪や戦闘、地雷などをさけて迂回しながら進む。12時間もかかる大移動。途中、ファウジアは求婚者ハーミドのことを思っていた。最後に彼と会った場所は大学だった。そのとき「彼と話したのはほんの少し。でも本当に彼を愛し始めていると感じた。」ただ、こんな状況では次にいつ会えるか、まったく見当がつかなかった。

当時の世界がアフガニスタンのことをどう見ていたか、著者は悔しさを隠さずこう記す:
「冷戦は終わった。強いソビエト帝国は崩壊しつつある。アフガン人の対ロシア戦はもはや西側に関連がない。国際ニュースで毎晩取り上げられることもない。われわれの内戦は終わり、ターリバーンがいま、われわれの政府だと世界は認識した。われわれは昨日の物語。一面に載るのは別の悲劇だ。でもわれわれの悲劇は終わっていない。なのに世界は続く数年間、われわれのことを忘れてしまった。われわれが漆黒の中で何かを求めていたそのときに。」

(第9章「ある普通の木曜日」から抜粋・翻訳)

 

==========<野口壽一>==========(2022年6月25日)

日頃、パソコンとスマホの画面ばかり見つめていて運動不足。電車で1時間ちょっとで行ける鎌倉に「アルプス」があると聞いて出かけてきました。土曜日だったせいもあって長谷駅から登山口の大仏さん裏手までの参道は歩道から人がはみ出しそうな賑わい。すっかりコロナ前にもどっていました。マスクだけはほぼ全員してましたけど。
鎌倉アルプスは高低差157メートルほどのどこにでもあるハイキングコースといったたたずまい。場所柄が鎌倉だからありがたみはあります(なんで?)。今回は「ひこばえ」についてつぶやいてみます。
写真は源氏山公園手前でみつけたもの。コナラかなにかの切り株から新芽が生えています。これがひこばえ。漢字では「蘖」または「孫生え」。初々しい代替わりをイメージさせます。ひこばえといえば、12年前に大嵐で耐え切れず倒れた樹齢1000年ともいわれた鶴岡八幡宮の大イチョウが気になります。倒れた2、3年後を見ていますが、いまどうなっているでしょうか。

行ってみると神様になっていました(笑)(写真)。「茅の輪くぐり」と人形(ひとがた)奉納祈願をしてきました。ひこばえを従えた老木の横には独立した子銀杏が植えられて赤い柵と紙垂(しで)で結界が張られていました。命をつなぐ現場は神々しいものです。
歴史あるこの老銀杏の再生を支えるのは人の努力です。大木の倒伏から現在までを写真入りで見せてくれるブログがありました。(https://www.yoritomo-japan.com/hana-kesiki/ooityo-hatiman2.htm)後期高齢者の手前まで来た身としてはひこばえを生やせられるか気になるところではあります。

 

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==========<金子 明>==========(2022年6月15日)

(Fawzia Koofi)
アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第7弾。

第8章「彼女の喪失」の冒頭で、ファウジアは求婚される。会ったことも、話したこともない17歳の少女を妻として求めたのは、カーブルで「両替商のような小口の金融業」を営むハーミドという青年だった。彼はバダフシャーン州にある、ファウジアの生まれ故郷クーフ村からほど近い村の出身だった。

そのころ彼女の母は体を壊して入院中だったが、見舞いに来たハーミドを気に入り「この男なら私たちに十分よ」と第一印象を述べた。しかし、彼女は回復することなく、時を経ず死んでしまう。母を失ったショックでファウジアは寝込み、高校の卒業試験も受けずじまいとなった。

半年後やっと気を取り直し、卒業試験の追試に合格。18歳の誕生日を前に、大学受験の準備クラスに通い始めた。大学で医学を学び、将来は医者になるのが夢だった。そのクラスの帰り道、ハーミドがファウジアを出迎えるようになり、二人はようやく言葉を交わし始めた。

「当時、戦いは静まる兆しを見せていた。異なるムジャヒディーンの派閥が仲裁し合って、お互い合意を探り始めた。違う派閥が違う場所を制圧してカーブルは相変わらず分裂都市だったが、彼らはお互い交渉を始めた。新憲法の草案作りも開始した。内戦が終わりに近づき、ブルハヌッディン・ラッバーニが大統領に指名された。これは良い兆しだ、戦争は過去のものになったと、多くの人が考えた。」

翌年、ファウジアは19歳になり、英語の単位を取得した。そして年齢を問わず女性たちにボランティアで英語を教え始めた。「何かを理解したとき生徒の目が光を放つのを見ることは私にとって驚くべき経験だった。すごく楽しかった。」続いて大学入試に合格。晴れて医者への道を歩み始めた。

「やがて戦いはますます散発的になり、ラッバーニ政府は平穏な状態を築いた。1995年の夏、和平合意が仲裁された。ヘクマティアールはラッバーニ政府内で首相の地位を得る代わりに武器を置くことを約束した。この合意を裏で促したのは、南部におけるターリバーンの勢力拡大だった。」

ターリバーンをよく知るものは誰もいなかった。知っていたとしても、アフガニスタンとパキスタンの国境地帯にあるマドラサといういくつかの宗教学校で学ぶ生徒だということくらい。そしてよく耳にするのは、彼らが白い衣装を身にまとい、“救済の天使”と自称しているとの噂だった。

ここで著者は、アフガニスタンの人々がターリバーンに何を求めたのかを説明する。やや長いがそのまま引用すると:

「カーブルで戦いが熾烈を極めたころ、比較的静かな州に住む人々は、無視されうち捨てられたと感じた。彼らのとてつもない貧しさは、混乱の中で増大しこそすれ、消え去ることはなかった。彼らが必死で求めたのは、助けてくれるまともな政府だった。天使と自称するこの男たちがトラックの荷台に乗って村々に現れた。そしてコミュニティレベルで秩序と安全を立て直し始めた。まるで自己流の自警団のようだった。だが、略奪が怖くて店が開けられず、怖くて子どもを学校に通わせられない人々の住む場所を、この自警団が一つずつ安全にしていった。それだけで彼らは信頼を得るに値した。」

ムジャヒディーンの内戦は長すぎた。その和平合意は遅すぎた。彼らによるアフガニスタンの平穏は「蝶の命のように」はかなく、傷つきやすいものだった。そのつかの間の平穏な日々、20歳直前のファウジアは、恋愛し、教える喜びを知り、医者を目指して大学生活を始めた。次章ではそんな彼女の人生にいよいよターリバーンが登場する。

 

==========<野口壽一>==========(2022年6月15日)

梅雨のないアフガニスタン。砲弾やミサイルの雨が降りやまないウクライナに梅雨はあるんだろうか・・・
せっかくコロナも収まりかかっていた日本。ヨーロッパ戦争の影響で数十年ぶりの円安に揺れる。
それでも季節はきっちりとめぐり、紫陽花が美しい。
この花、同じ種類とは思えないほどバラエティーに富み、それぞれがボリュームいっぱいで存在感がある。しかしガクアジサイは可憐だ。中央に蕾のような小さな粒粒が手鞠のように盛り上がり、周囲を数片の花びら(実はガク)をもつ小花が取り囲む。それが額に縁どられた絵画にみえることからガクアジサイと命名されたらしい。小生には、暗闇の中で中央の火球から四方八方に花びらを散らす線香花火のようにみえる。あるいは髪にいくつも髪飾りを刺した少女の後ろ姿にみえる。
写真中央の粒粒部分をよく見ると、ひとつだけ小さな青い花が咲いている。それが雄蕊と雌蕊をもつ本当の花だという。周囲の小花は装飾花といってガクと中心の小さな粒(雌蕊)だけ。見栄えをよくするための品種改良が続けられた結果、このような複雑な形になったそうだ。
人間のあくなき欲と探求心のしからしむるところだが、この場合、許せる気がする。

 

==========<金子 明>==========(2022年5月30日)

(Fawzia Koofi 近影)
アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第6弾。

ファウジアのカーブルでの生活が再び始まった。家は以前と同じ、ソ連時代に建てられたマクロリアン(住処)と呼ばれる高級アパートの一画。第7章「内なる戦争」の冒頭では、当時の首都の混乱ぶりが紹介されている。

首都西部:ハザラ人の指導者マザリーが制圧
郊外のパグマン:サイヤフとその配下が制圧
郊外の別地域:ウズベク人の指導者ドスタムが制圧
城壁の南側:ヒズベ・イスラミの指導者ヘクマティアールが制圧
(このヒズベ・イスラミのナンバー2が新首相のコヒスタニだった)

「要は、政権を分かち合い、“北部同盟”の一員としてロシア人と戦った司令官たちがいま、権力を求めて互いに戦っていた。内戦が残虐さを増すにつれ、味方についたり裏切ったり、情勢は頻繁に変わった、まるで天気のように。」

特に政府内での処遇に不満なヘクマティアールは、高台から市内に毎日何十発もロケット弾を打ち込んだ。政府側だったグループが一夜のうちに反旗を翻し攻撃を仕掛ける。二、三日で何百人もの市民を殺した挙げ句、国営テレビで、あれは誤解だった、いまは政府を支持するとアナウンスする。「明日は何が起きるか、市民は全くわからない。多分、私たちの指導者たちも。」

そんなカーブルで、ファウジアは英語のレッスンに通い続けた。往きのタクシーがロケット弾に狙われるというのだから命がけだ。また、タクシーが拾えないと二時間も歩く。帰りも歩く。すると今度は、銃撃されたりレイプされたりの危険が生じる。夜アパートの前で待っていた母親はよく娘を叱った、「このコースがお前を大統領にしようが、どうでもいい。お前には大統領になって欲しいのではなく、生きていて欲しい。」

ファウジアが勉強好きなら、母親は信心深い。「キリングゾーン」と化した市街を歩いて、殺害された息子ムキムの墓に命がけで日参した。ある日の夕方、帰りが遅い母親を心配して、ファウジアは墓に向かった。「神経を研ぎ澄まして歩き続けた。この道の先、どこかに母がいると感じて。通りに死体が転がり始めた。撃たれたもの、爆破でこなごなになったもの。なきがらはまだ膨張が始まっておらず、新鮮だった。」

やっと拾ったタクシーには先客たちがいた。運転手が死体を拾い上げ、後部座席に乗せ、病院まで運んでいたのだ。「でこぼこを乗り越えるたび、乗客たちの手足が躍った。死んだもの、死にかけたものを見ると、家族のことを連想した。名も知らぬ犠牲者の顔が家族の顔に見えてくる、そんな自分の心と戦わねばならなかった。」

墓地に着くと、果たして母親はムキムの墓に覆い被さるようにして泣いていた。もと来た道をマクロリアンまで帰るのは時間的に危険だった。二人は墓地に留まり、すっかり暗くなってから夜闇に紛れて歩き出した。幸い近所に、かつて父親が所有していた家があった。そこに転がり込むと、管理を担っていた親類一家が迎え入れてくれた。こうして、どうにかその恐ろしい一夜を乗り切った。

母親が墓参りに便利だと主張し、母娘はその家で暮らすようになった。すると、ロケット弾が街を破壊するのを窓から眺めるのがファウジアのつらい日課となった。青い家は青い塵に、ピンクの家はピンクの塵に、瞬時に姿をかえ空に舞い散るというすさまじさだ。

中でも工芸学校の図書館の焼失は、彼女をひどく悲しませた。かつてロシア人が建てた施設で、「いまでも高校を出た若い多くの学生が集い、コンピュータ科学、建築、工学を学んでいた。あのマスードも学んだ学校だった。」

内戦は終わりが見えず、首都に住む知識人や技術者の多くはパキスタンに向かった。「彼らは不安な生活に備えて、衣服、書類、宝石を車に詰め込み、しっかりと戸締まりをし、戦いが静まった隙に、街から逃げ出した。車に乗るのは夫と妻か妻たち、そして子どもたち。大家族の一員である年寄りや遠い親戚たちは、命を賭けて残された家を守るのが定めだった。」

やがて冬が来ると、「世界がアフガニスタンへの関心を失い始めた」とファウジアは感じた。「西側はソ連の敗北と帰国に満足したようで、アフガニスタンについてそれ以上を知る必要などなかった。しかし、ムジャヒディーンが権力をめぐって戦い、やったりやり返したりを繰り返し、近隣国家と協定を結んでいたまさにそのときに、アフガニスタンのどこかで新たな勢力が育っていた。国の南部にあるマドラサと呼ばれるいくつかの宗教学校で育っていたある動き。それが後に、アフガニスタンのみならず、世界中を震撼させることになる。」

当時、ファウジアはやっと17歳。クーフ村、カーブル、ファイザバード、ヤフタル、カーブルと流転し、身をもって経験してきたアフガン内戦は、このあと新勢力「ターリバーン」の登場で新しい局面を迎える。

 

==========<野口壽一>==========(2022年5月30日)

ありがたいことに、『アフガン・ニュース・メール』を発行するようになって読者の方から思いもかけないありがたい情報をいただく機会が増えました。そのひとつに、ウクライナ支援に関する知見がありました。
ロシア軍はオデーサ攻略にむけて海上封鎖しています。小麦やヒマワリの種など農作物輸出を外貨獲得の主な手段としているウクライナにとって海路がふさがれるのは大きな痛手となります。兵器や銃弾など軍需品の支援は短期的に必須ですが、並行して経済活動を維持しないと長期戦になると国がへたってしまいます。ロシアの侵攻でウクライナのGNPはことし半分以下になるだろうと予測されています。陸路をもっと広げられないのだろうかと心配していたら、欧州委員会が、ウクライナの農産物を支援する「連帯レーン」を設置すると発表したそうです。(https://ec.europa.eu/commission/presscorner/detail/en/ip_22_3002
同委員会は「緊急時の解決策だけでなく、ウクライナのインフラストラクチャをEUのインフラストラクチャとより適切に接続および統合するための中長期的な対策にも対応」する、としています。さらに「ウクライナとEUの間の国境通過を緩和するためのEUとその加盟国による即時の努力にもかかわらず、何千台ものワゴンと大型トラックがウクライナ側の通関を待っています。ワゴンの現在の平均待機時間は16日ですが、一部の国境では最大30日です。より多くの穀物がまだ貯蔵されており、輸出の準備ができているウクライナのサイロに抑えられています。課題の中には、鉄道軌間幅の違いがあります。ウクライナの貨車は、ほとんどのEU鉄道網と互換性がないため、ほとんどの商品は、EU標準軌に適合する大型トラックまたは貨車に積み替える必要があります。このプロセスには時間がかかり、国境沿いの積み替え施設はほとんどありません。これらの障害に対処し、連帯レーンを設定するために、委員会は加盟国および利害関係者とともに、短期的に以下の優先行動に取り組みます」としてさまざまな具体的計画を発表しています。
軍事行動は国土を破壊しますが、欧州委員会の「連帯レーン」はウクライナ国民の自衛戦を支えるだけでなく、戦後復興につながる明るい話題です。
このような目立たないけれど重要な情報・話題をもっともっとお伝えしたいと思います。読者のみなさんのますますのご協力をお願いいたします。

 

==========<金子 明>==========(2022年5月16日)

(Fawzia Koofi氏 近影)
アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第5弾。

ファウジアがカーブルで過ごした「最も幸せな子ども時代」の3年間(1986年~1989年)とはアフガニスタンにとってどんな時期だったのか。今回はまず巻末の年表を確認する。

1986年:「米国がムジャヒディーンにスティンガーミサイルの供給を開始。ソ連の攻撃ヘリを撃墜するために使われる。ソ連が後押しする政権のトップはバブラク・カルメルからモハマド・ナジブラーに交代。」
1987年:「アフガニスタン、ソ連、米国、パキスタンが平和協定に調印し、ソ連軍が撤退を開始。」
1989年:「ソ連軍の撤退が完了。しかしムジャヒディーンがナジブラーを倒そうと攻勢に出て、内戦は継続。」

こうした流れを経て1990年代が始まった。今回紹介する第5章「再び村の少女」で、ファウジアは16歳となっている。休みを利用して母親とバダフシャーン州の州都ファイザバードに来ていたとき、ラジオが事件を伝えた、「国外逃亡を図ったナジブラー大統領を警察が逮捕した」と。翌日、ファイザバードを囲む山々で銃撃音がこだました。撃ち合っていたのは政府軍とムジャヒディーン。火器で勝るムジャヒディーンは、その残虐さも手伝い政府軍を圧倒した。そしてわずか2日後に新政府を打ち立てた。

山から降りて役場を占拠したムジャヒディーンの姿はファウジアを驚かせた。「長年、山岳地帯のキャンプで、わずかな食料を分け合い、毎日戦いに明け暮れていた彼らは、兵士らしい素敵な制服姿ではなく、ジーンズにスニーカーという身なりだった。」

娘を持つ親たちはレイプを怖れて子どもを学校にやらなくなり、ファウジアも自衛のためブルカをまとった。翌日カーブル空港が閉鎖され、彼女はファイザバードの叔母の家に足留めされた。ラジオが「学校は開いている、女子も登校せよ」という新政府の檄を放送し、ファウジアはファイザバードの学校に通うことになった。

1か月が過ぎた頃、一人のムジャヒディーン戦士が叔母の家の戸口に現れた。ナディールという名の異母兄で、ファウジアの母親にとっては、彼がロシア兵と戦うと告げてクーフ村を出て以来15年ぶりの再会だった。ナディールはクーフ村への軍事物資の補給を監督する指揮官になっていた。彼の地位は家族の安全を守るのには十分だったが、たまたまファウジアを見初めた「ファイザバードにいる兵士が彼女を強制的に妻にすることは拒めない」ため、町から逃げ出すことを提案した。

避難場所はヤフタル地区の村にあるナディールの家だ。彼はその日のうちに2頭の白馬を調達し、2人でファイザバードを後にした。初日の夜、泊めてもらった村でファウジアはカルチャーショックを受ける。「村の女性と話すうち、彼女たちの手の汚れに気づいた。長くきつい畑仕事で泥にまみれ、ろくに風呂にも入っていない。僻地の貧農が着る粗末な服。驚いてはいけないと思いつつも、時間を遡ったような感覚を拭い去れなかった。」

こんな体験をしながら、馬の背に幾日も揺られてたどり着いた村で新生活が始まった。テレビもラジオも学校もなく、夕食後7時には床につく。茹でた肉とナーンだけの素朴な食事はやがて喉を通らなくなり、体重が減り始めた。ふと耳にしたカーブルに残る兄ムキムの殺害の噂は彼女の心をひどくかき乱した。

ファウジアが村で約1年を過ごしたころ、カーブルの情勢が安定してきた。そこでファイザバードを越えて一気にカーブルにいる兄のもとに戻ることになった。ファイザバードから空路クンドゥスへ。そこで母親と合流し、カーブルまでは約300キロのバスの旅だった。その道は険しく、今でも有名な陸の難所である。夕方になってやっとカーブル近郊までたどり着いた。

待っていたのは大渋滞。AK47をかついだ兵士がバスに乗り込み運転手に告げた、「新政府の首相にコヒスタニ司令官が選ばれた。その車列を通すため道路をすべて閉鎖している」と。ソ連時代でもこれほど大がかりな道路封鎖はなかった、要人の警護にそこまで気を遣うのか、とファウジアはムジャヒディーンの政治力をいぶかった。

兄は首都警察の長官に出世していた。ソ連が開発した高級団地群の一画に暮らしており、母子はそこへ身を寄せた。歓迎した家族の中にムキムの姿はなかった。そして、ファウジアは彼が何者かによって殺されたと知った。「わたしたちは皆泣き崩れた、どうして?と。どうして、こうも善良で強靱な若者が、こうも卑怯な手口でわたしたちから奪われたのか?わたしたち家族の最も明るく輝く星が、またひとつ逝ってしまった。」

最後に、この間の年表を確認しておく。
1991年:「米国とソ連が、それぞれムジャヒディーンとナジブラーへの軍事援助の停止を同意。」
1992年:「抵抗勢力がカーブルに迫り、ナジブラーが失墜。民兵たちは互いに覇を競う。」
1993年:「ムジャヒディーンの各派による新政府内で、タジク人のブルハヌッディン・ラッバーニが大統領就任を宣言。」

こんな時流の中で、「村の少女」から再び首都カーブルに戻ってきたファウジアは、最愛の兄の死を悼む間もなく、内戦のまっただ中にその身を置くことになる。

 

==========<野口壽一>==========(2022年5月16日)

5月10日バイデン政権はウクライナがらみで「武器貸与法」を成立させた。ちょうどそのとき『誰が第二次世界大戦をおこしたのか』(渡辺惣樹)の「武器貸与法」の章を読んでいたときだったので驚いた。1941年にアメリカがイギリスに当時の金で310億ドル、ソ連に110億ドル分の武器貸与を行った、と書いてあった。アメリカのこの決断によって、ナチスドイツに追い込まれていたイギリスとソ連は息を吹き返し、反転攻勢に転じたのだった。特に、レニングラードまで攻め込まれて息絶え絶えになっていたソ連にとっては「壁紙まで煮て食べた」というエピソードまである900日にも及ぶ都市包囲をはねのける起死回生の決定打となった。
渡辺本によると武器貸与法とは「アメリカ防衛に役立つと考えられる場合には外国政府に、旧式新式を問わずあらゆる武器を、ほぼ無制限で供給できる権限を大統領に与えるもの」。今回のバイデンのものと同じである。この支援を要請していたチャーチルの言葉が絶妙だ。「我々は絶対にくじけないし、闘いに負けない。ただし、そのための道具(武器)が必要だ。それを提供してくれれば、自分たちで仕上げの仕事はする。」まるでゼレンスキーの言葉だ。チャーチルの強気は、ルーズベルトがイギリスをドイツにけしかけたことを知っていたからだ、と渡辺は書いている。これもまた、ゼレンスキーの強気の理由と同一だ。
アメリカ(とイギリス)はウクライナへの武器支援に全力をあげている。東欧に残存する旧ソ連の武器を根こそぎウクライナに送り、提供した東欧にはアメリカの新品を買わせる寸法だ。イギリスはそのためにソ連製武器の買い集めに奔走している。NATO諸国は新規輸入のための軍事費の増額を決めている。
『ウエッブ・アフガン』では、ソ連がアフガンに侵攻したのはアメリカ(ブレジンスキー)の罠にソ連がはめられたからだと知っていたので、ウクライナにプーチンが侵攻した時「罠にかかったプーチン」と論じた。
今回は、アメリカとウクライナは2014年のクリミア併合の失敗を繰り返さないために十分な準備をしたうえで、バイデンは「アメリカは参戦しない」と誘いをかけたのだった。
ルーズベルトに強気で接したチャーチルの役目をゼレンスキーは立派に果たしている。アメリカの軍需産業はとてつもない好景気に沸いている。
歴史は繰り返すというけれど、これほどわかりやすく繰り返されるとは信じがたい。初回の「武器貸与法」がナチス・ドイツの息の根を止めたように、二度目の「武器貸与法」がプーチンの暴挙を止めるよう祈りたい。

 

==========<金子 明>==========(2022年4月25日)

アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)の第4弾。今回紹介する第4章「逃走」では、父親アブドル・ラーマンが殺害されたあとの家族の逃避行がまず描かれる。

アブドルの死後幾日もたたないうちに、ムジャヒディーンは彼の遺族を捜索し始めた。最初は昼間に。ファウジアたちが急いで山に逃げ、岩陰から見守る中、彼らは屋敷にあったラジオ、家具、壺や鍋などを略奪し山へと戻った。

二度目の襲来は二三週間後の真夜中だった。屋敷を出て叔父の家の屋上で寝ていた一家は、ライフルの銃床で叩き起こされた。夜襲をしかけたムジャヒディーンは「怒鳴り叫んでいた。アブドル・ラーマンの息子たちはどこだと。」ファウジアの兄ムキムは当時6歳。見つかれば殺されるところを、隣家の屋上に飛び移り、女のスカートに潜り込んで逃げおおせた。

その代わりに共に16歳だった姉と義姉が捕まった。屋根から引きずり下ろされ、屋敷へと連行された。ファウジアたちが屋上から見守る中、「二人はピストルの吊り紐で打たれ、ライフルの銃床で殴られた。彼らはしつこく、武器の隠し場所を言えと脅した。」だが、姉は銃剣で胸をつかれ出血しても、口を割らなかった。

この蛮行に抗ったのは屋敷の庭にいた番犬のみ。鎖を引きちぎって男たちに噛みつこうとしたが、あっさり撃ち殺された。彼らは二人の少女を夜明けまで殴り続け、やがて祈りのため山へと戻った。

二日後、彼らがまた現れ、まだ10代だったファウジアの異母兄を脅して武器のありかを吐かせようとした。とうとう村人は立ち上がり、ムジャヒディーンにメッセージを送った。次に来たら抵抗する、女たちを守るために、シャベルも斧も使える物はなんでも使うと。返事が来た。「目的は村ではない。アブドル・ラーマンの家族の死だ。」

翌朝早く、ムジャヒディーンは村に刺客を放った。母とファウジアは牛糞の山に潜って、目前に来た敵をかわした。彼らの姿が消えた隙に、一家5人(母・二人の兄・姉・ファウジア)が集まり、逃走が始まった。

谷底を川に沿って逃げるのを、刺客が負う。足の遅い4歳児のファウジアを指して姉が叫んだ。「その子を川に投げないとみんな捕まって死ぬ。さあ、投げて。」母親はファウジアを持ち上げたところで思いとどまった。そして彼女を背負って走り出した。

今にも捕まって母親の背中から引き剥がされる・・・ファウジアが恐怖にさいなまれていたとき、一行は「突然、一人のロシア人と出くわした。」

軍服を着た金髪の兵士だった。敵はきびすを返して逃げていった。5人は谷に住む教師の家に二週間かくまわれた。やがて州都ファイザバードで警察署長を勤める兄のもとにクーフ村の惨状が伝わった。彼は谷までヘリコプターを飛ばし、一家を救い出した。

こうして生きのびた村の少女はファイザバードで暮らし始めた。7歳になると学校に入学。テレビで見たサッチャーやインディラ・ガンディーに憧れるようになった。11歳の時、兄の昇格によって一家は首都カーブルへ。黄色いタクシー、トロリーバス「ミリー」を操る女性運転手の青い制服、洋品店に飾られた最新のファッション、何百ものレストランから漂うバーベキューのかおりに驚いた。通ったハイスクールの同級生の家にはプールがあった。

ファウジアは「自由で明るく楽しい」3年間を首都カーブルで過ごした。生死をかけた修羅場をくぐり抜けた村の少女にとって、さぞや輝かしい思春期だったことだろう。そして、彼女は次のように第4章を締めくくる:
「しかし、より広い世界が再び、そんな私の小さな世界と衝突することになる。」

 

==========<野口壽一>==========(2022年4月25日)

▼ アフガニスタン、コロナ、ウクライナ、次々とおきる理不尽な事態で気持ちが晴れず社会全体がうつ状態になっている気がする。ゴールデンウィークが近づくが、子供たちや若者はどんな気持ちで休日を迎えるのだろうか。
▼ 後期高齢者一歩手前の団塊世代のひとりとして、ウクライナで命を惜しまず戦う国民の姿に、自由と独立を求めて戦っていたベトナム人民の姿を思い起こす。
▼ ウクライナ戦争について語る〝識者〟の中に、「ロシアが悪いのは大前提だが」といいつつウクライナ側の〝非〟をあげつらう人びとがいる。問題はそんなところにあるのではない。「ロシアが悪い大前提」、つまり、「他国の主権侵害」「力による国境の変更」「核兵器使用の恫喝」を許さない決意と闘いが、今、求められているのだ。それをやっているのがロシア=プーチンだ。
▼ 米英だってロシアよりはるかに多く侵略戦争をやってきた、ウクライナをけしかけて戦争させたのはアメリカのネオコンだ、とかの主張をする人もいる。まったくその通りだが、米英NATOなどは民間への誤爆や戦争犯罪については、たとえそれがトカゲのしっぽ切りであったとしても調査したり罰したり、賠償したりする。金子編集委員が連載したアフガニスタン・ペーパーズのような活動がアメリカにはあるし、それよりなにより、ベトナム戦争ではペンタゴン・ペーパーズを自分たちで公開に持ち込んだりして大統領を退陣に追い込んだりしている。〝民主主義陣営〟には戦争犯罪という概念も報道の自由もあるが、プーチン・ロシアにはその両方とも、カケラもないし、アメリカの仕掛けた罠に引っかかって先に手を出す脳なしだ。
▼  日本国憲法は、「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」と述べている。ロシアの行為は、この前提を否定するものだ。しかもそのような国際社会を保証するものとして自分たちがつくり存在させている国際連合を、常任理事国として否定しているのである。
▼ 憲法前文の最終行では「日本国民は、国家の名誉にかけて、全力をあげて崇高な理想と目的を達成することを誓う」と決意を述べている。憲法9条があろうとなかろうと、この最終行の決意を実行しなければ、日本国憲法の存在価値はない。
▼ 国際社会が「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努め」ないのであれば、日本国憲法の前文は無効となろう。ウクライナ戦争は、日本という国の存立の基本をも問う戦争なのだ。
▼ それは、帝国主義と植民地主義が歴史的に押し付けた社会的・経済的矛盾からの脱却過程で苦しむアフガニスタンのような国々に対して、いわゆる〝先進諸国(=先進帝国主義国)〟が償わなければならない罪悪を、日本も背負っているという自覚と一体のものなのだと思う。
▼ うつ状態から脱するためには、うつの症状を解剖しうつの原因を突き詰め、自己治癒力を発揮して治癒するしかない、と覚悟した。

 

==========<金子 明>==========(2022年4月12日)

今回は、アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri/ 2012)を紹介する第3弾。前回紹介した第2章「ただの少女」のラストにアフガン現代史の重大事件「四月革命」の解説がある:

「1978年4月28日、共産主義のアフガニスタン人民民主党(PDPA)がアフガニスタン政府から政治権力を奪い取った。ペルシャ歴では1年の第2の月をダリ語で“サウル”と呼び、その月に蜂起が起こったことからサウル革命(訳注:原文はthe Saur Revolution、日本語では四月革命)と呼ぶ。革命後に任命された政府はソビエト寄りの傀儡で、このときからソビエトのアフガニスタン支配が事実上始まったとされる。権力につくや、PDPAはソビエト共産主義の政治課題を実行に移した。国家無神論への道に邁進し、無謀な農地改革を実行して、事実上全国民を憤慨させた。国旗も、イスラームの伝統色である緑を捨て、ソビエト連邦の赤旗のコピーまがいとし、この保守的なイスラーム国の国民を怒らせ侮辱した。またPDPAは何千人もの伝統的エリート層、宗教的支配者層、そして知識人たちを拷問し、殺害した。」

このページを受けて、第3章「恐るべき喪失」が始まる。バダフシャーン州の風景の息をのむような美しさと、そこで起きる悲惨な出来事のギャップがすさまじい。少女ファウジアが3歳半、四月革命が起きた1978年の話である。

ファウジアの父アブドル・ラーマンは革命後も国会議員を続けた。すると新政府は彼に「失敗すれば死罪」という重大任務を与えた。それは、バダフシャーン州に新たに勃興した反政府勢力ムジャヒディーンの懐柔であった。地元に戻ったアブドルは州の各地から数百人の仲間を集め、先頭に立って馬上山岳ルートを行く。目指すはパミール山地にある反乱軍の陣地だ。

「肥えて茂った谷が、やがて岩肌へと姿を変える。それは光に照らされ、青から緑、さらにオレンジがかった黄土色に輝く。そして雪に覆われた頂がそびえる高原にたどりつく。」

その美しい高原で待っていたのはライフルを持った3人のムジャヒディーンだった。さらにどこかに援軍も隠れていたようだ。ライフルを撃って丸腰の一行を蹴散らし、落馬したアブドルを捕虜にした。2日後、彼は処刑されうち捨てられた。さらに、亡骸を回収に来る者も撃ち殺す、とムジャヒディーンは脅した。だが、アブドルの姉一家が勇気を振り絞って山に登り、探し出して連れ帰った。そして翌朝、葬儀。

「ひげをたくわえた老人の灰色の頭、白いターバン、緑の上着。みなが庭に座り、赤ん坊のように泣いた。父は屋敷の裏手、小高い一画に埋葬された。メッカと、彼がそれほどまでに愛したクーフの谷にその顔を向けて。」

幼くして親を亡くす子はいる。だが、その頭の一部が銃撃で吹っ飛んでいるのを見るのは、どうだ。戦争が長引く中、すべてのアフガンの子どもたちは平和を知らない。そんな子どもの1人だったファウジアが、このあとどんな人生を送ることになるのか。彼女が生き延びて、この本を書き残してくれたことに感謝しつつ、読み進めて行きたい。

 

==========<野口壽一>==========(2022年4月12日)

ウクライナでの虐殺事件の報道に接して、これまで戦争被害者への賠償金がどうなっていたのか気になった。ウクライナがロシアから賠償金を取るには、なにがなんでも勝たねばならないのだが。

村ごと焼き払う虐殺、絨毯爆撃、ナパーム弾、枯葉剤散布による国土破壊、多数の奇形児等々、誰かの言葉を借りれば「戦争犯罪のデパート」のようなベトナム戦争であれば、さぞかし多額の賠償金をアメリカに要求できるだろう、と思ったら、アメリカは一銭も払っていないという。ベトナム側が請求しなかったんだそうだ。

そういえば、中国も日本へ賠償を請求しなかったけど、北京空港はじめ多数のインフラ整備や製鉄事業など産業支援など多額の無償援助をしている。いろんなケースがあることが分かった。
そのアメリカだが、昨年夏、カーブル空港からの撤退の際にISを攻撃したつもりでまったく無関係な民間人十人をドローン攻撃で殺害した事件があった。アメリカはこれを誤爆として認め賠償金の支払いを申し出たというが、金額は明らかになっていない。
一方イギリスは、そのアフガニスタンで2006~2014年に死亡した民間人289人について、計68万8000ポンド(約1億円)を支払ったそうだ。1人当たりの平均は2380ポンド(約36万円)。保証額の最低額は1万5800円で6頭のロバの群れを誤って射撃して死なせた補償金より少なかったという。人間の命の安さに驚く。ハイジャック事件の際に「ひとの命は地球より重い」と発言して超法規措置を発動した日本の政治家(福田首相)もいたっけ。

コソボ紛争中の1999年にアメリカ軍機が駐ユーゴスラビア中国大使館を誤爆したことがあった。このとき、中国人3人が死亡し死傷者総数は29名という大事件だった。アメリカは誤爆を認め謝罪したが中国政府は強い抗議を行っただけだったという。金銭的な賠償がなされたかどうかはわからない。
戦争被害・戦争犯罪への過去の賠償がどうなされたのか、命の値段はいくらだったのか、がぜん興味がわいた。

 

==========<金子 明>==========(2022年4月4日)

今回は、アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏の自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri)を再び紹介する。その第2章「ただの少女」では、ラーマン家の暮らしぶりが幼い少女ファウジアの目を通して描かれている。その中身はアフガニスタンの女性たちが当時いかに虐待されていたかのカタログである。

こと男女差別に関しては、革命も敗戦も‘人道国家’による占領も有効な対抗策とはなり得ず、50年や100年くらいで改まらないのはわれわれ日本人も知っての通り。ましていまや復古主義のターリバーンの治世下である。現代アフガン女性たちの怨嗟の一端を知る上でも重要と思い、以下に列記する:

・生まれたのが女児なら父親がわざわざでばって赤ん坊の顔を拝みに来ることはない。少なくともこれまでのラーマン家では。
・女は人生の半分以上を台所ですごし、そこで眠り、料理し、子育てする。
・男は家では、毎晩別の妻と寝る。
・シャリア法では「全ての妻を平等に扱うべし」と定められている。が、男は生身だ。かかる掟の存在が何を意味するかは推して知るべし。
・認められる妻は4人まで。だがもっと欲しい。抜け道はある。古いのを「カリファ」にする。あのカリフと同じ語源かな。カリファは経済的には保護されるがセックスレスとなり、家族内にとどまる。ファウジアの母ビビが第二夫人にしてヘッドワイフだったのは、第一夫人がカリファ化したのもその理由だろう。
・ただただ絨毯織りの技術をほかの妻たちに伝授させるため、蒙古系の妻をめとるのもアリ。
・夫は怒ると妻を追いかけ回し、とっつかまえて殴ってよい。意識がなくなるまでも。また勢い余って髪の毛をガバッと引きむしってもよい。
・耐えられなくなって実家に逃げ帰る妻もいるが、たいがいその父親が夫のもとに送り返す。
・妻殴りは規範的行動で結婚生活の一部。娘は母が殴られるのを見て育ち、祖母も殴られたことを知り、自分がやがて殴られるのを予見する。
・いやなら夫と離婚できるが、その申請は妻の兄弟がなさねばならない。離婚すれば我が子とはもう会えない。
・妻が実家の兄弟に虐待を訴えることがある。しかし、それを知った夫は、またさらに殴る。ただその妻の家事能力が高ければ(利用価値があれば)すこし優しくして様子を見る。
・男児の誕生日は祝うが、女児の誕生日を祝うことはない。
・女児は学校に行かない。女児はやがて結婚して出て行き、投資した教育費が家計に還元されないから。
・ファウジアの17歳の兄は12歳の少女をめとった。セックスのあと姑のビビはまだあどけない嫁を入浴させ、傷ついた体をいやしてやった。

壮絶な虐待の一覧表である。著者はそれに「これが彼女たちの人生で、女の運命だった」とコメントする。そして第2章を締めくくる:
「母が12歳の義姉にできたことは、おそらくただ次の三つ。慰めようと努めること、まず軽い雑用をやらせること、さらに諸先輩と同じく次のように考えること。つまり、この娘もやがて成長し、疑問も不平も持たず、これを自分の運命として受け入れるだろうと諦めること。それが文化による謀略で、すべての女性を縛り付けていた。そして、誰もそれに異を唱えなかった。」(下線、原著者)

今回「世界の声」で紹介したジェハンギル氏の記事では、まさにいま「異を唱え」ている女性たちについて触れている。たとえ自らの生活に忙殺され具体的には何もできなくても、おぼえておくことはできる。ニュースがどんなにあふれても、決して「キエフ」を「キーフ」と呼び直しただけで満足し、忘れ去ってはならない。

 

==========<野口壽一>==========(2022年4月4日)

<視点025>の「ソ連もアメリカの罠にかけられていた」の節で、罠を仕掛けたズビグニュー・ブレジンスキーのフランスの雑誌とのインタビューを紹介しました。しかしその情報は孫引きでした。いま、そのオリジナルを見つけたので紹介しておきます。アメリカがアフガニスタンや中東で育てたイスラム主義過激派のテロに苦しむフランスやヨーロッパに対してブレジンスキーの自信満々な冷酷さと無責任ぶりがひときわ目立っています。
1998年1月15日号のヴォルテールネットワーク(Voltaire Network: https://www.voltairenet.org/article165889.html)です。このメディアはフランスの知識人Thierry Meyssanの主導で作成された、国際関係の分析に特化した非同盟の報道ネットワークとの自己紹介がありました。

Le Nouvel Observateur:CIAの元局長Robert Gatesは、彼の回想録で、アメリカのシークレットサービスは、ソビエトの介入の6か月前にアフガニスタンのムジャヒディンを支援し始めたと書いています。当時、あなたはカーター大統領の治安問題に関する顧問でした。それで、あなたはこの場合重要な役割を果たしましたか?
Zbigniew Brzezinski:はい。公式には、ムジャヒディンへのCIAの援助は、1980年、つまり、1979年12月24日にソビエト軍がアフガニスタンに侵攻した後に始まったことになっています。しかし、秘密にされていますが現実はまったく異なります。カーブル親ソ政権への反対者へ秘密支援行う指令にカーター大統領が最初に署名したのは、1979年7月3日でした。そしてその日、この援助はソビエトによる軍事介入につながるだろう、と大統領にメモを渡しました。
Le Nouvel Observateur:そのようなリスクがあるにもかかわらず、あなたはその秘密作戦に賛成したのですか。あなたはソビエトが戦争に参加することを望み、それを挑発したのですか?
Zbigniew Brzezinski:私たちはロシア人に介入を強要したのではありません。彼らが介入する可能性を意図的に高めたのです。
Le Nouvel Observateur:アフガニスタンでの米国による秘密の干渉と戦うために軍事介入したとのソ連の主張は正当化したとき、誰も彼らを信じなかったのですが、真実だったわけですね。あなたは今、その行為を後悔しますか?
Zbigniew Brzezinski:なぜ後悔する必要があるのですか? この秘密工作は素晴らしいアイデアでした。それはロシア人をアフガニスタンの罠に誘い込む効果がありました、あなたは私に後悔させたいのですか? ソビエトが正式に国境を越えた日、私はカーター大統領に、この事実の本質について次のように書きました。「われわれは今、ソ連をベトナム戦争に引き込んだのです。実際、モスクワはほぼ10年間、政権にとって耐え難い戦争、士気阻喪、そして最終的にはソビエト帝国の崩壊につながる紛争と戦わなければなりませんでした。
Le Nouvel Observateur:イスラム原理主義を支持し、将来のテロリストに武器とアドバイスを与えたことを後悔していませんか?
Zbigniew Brzezinski:世界史の観点から最も重要なことは何ですか? ターリバーンまたはソビエト帝国の崩壊? 若干のイスラム主義者を刺激したこと? 中央ヨーロッパの解放と冷戦の終結?
Le Nouvel Observateur:若干の? そんなことはないです。繰り返しますが、今日のイスラム原理主義は世界的な脅威になっています。
Zbigniew Brzezinski:ナンセンス。西側はイスラム主義に関してグローバルな政策をとるべきだと言われていますが、それはばかげた考えです。愚かです。グローバルなイスラム主義などありません。イスラム教を合理的に見てごらんなさい。これは、世界で最初の15億人の信者を持つにいたった宗教ですよ。しかし、それは、原理主義のサウジアラビア、穏健なモロッコ、軍国主義のパキスタン、親西エジプト、または世俗化された中央アジアという風に、何か共通したものがありますか? キリスト教の国々が団結して対抗すべきものはなにもありません。
(by ZbigniewBrzeziński, VincentJauver)

 

==========<野口壽一>==========(2022年3月28日)

英エセックス大学の経営学教授 Peter Bloomさんがロシアのウクライナ侵攻で軍需企業が大儲けしているとこんなことを言っています。(https://courrier.jp/news/archives/282803/#paywall_anchor_282803)
「(この戦争で)軍需産業がおよそ5000億ドルの武器を両陣営に供給し、かなりの利益を得ようとしているのだ。
この戦争における防衛支出は既に膨大なものとなっている。EUは4億5000万ユーロの武器を購入し、ウクライナに輸送した。アメリカは90トン以上の軍需品と、昨年だけでも6億5000万ドルの援助をしたことに加え、さらに3億5000万ドルの軍事支援を約束した。
まとめると、現時点(原記事掲載時の3月9日)で、アメリカとNATOは1万7000発の対戦車兵器と、2000発の防空ミサイル「スティンガー」を供給している。イギリス、オーストラリア、トルコ、カナダを含め、世界的な国家連合もまた、ウクライナのレジスタンスに積極的に武器を供給している。これが世界最大級の防衛関連企業に、多大に貢献しているのだ。
レイセオン社はスティンガー・ミサイルを製造し、さらにロッキード・マーティン社と共同でジャベリン対戦車ミサイルを製造した。これらはアメリカやエストニアのような国に供給されている。
S&P500指数が1%下がっているにもかかわらず、レイセオン社とロッキード社のシェアは約16%上昇し、ウクライナ侵攻以来、それぞれ3%上昇しているのだ。
また、イギリスとヨーロッパで最大の防衛関連企業、BAEシステム社は26%上昇した。売上高世界トップ5の防衛関連企業のうちでは、主に航空路線への影響が原因で、ボーイング社のシェアだけが下落している。」そして「戦争で儲かる国がある」として、
「西側諸国のトップ兵器企業は戦争に先駆け、利益が増大しそうであることを投資家たちに報告していた。アメリカの巨大防衛関連企業、レイセオン社の最高経営責任者であるグレゴリー・J.・ハイエスは、1月25日、以下のように業績発表を行っている。
「先週UAEで起きたドローン攻撃に注目する必要がある……そしてもちろん、東ヨーロッパの緊張、南シナ海の緊張、こういったことはすべて、現地における軍事費のいくらかを圧迫している。そこから利益を獲得できるであろうことを、我々は最大限に期待している」
その当時でさえ、世界的な防衛産業は、2022年に7%成長することが予想されていた。アメリカの防衛コンサルタント会社、エアロ・ダイナミック・アドヴァイザリー社の最高経営責任者であるリチャード・アブラフィアが言うように、投資家にとって最大のリスクは「すべてがロシアの砂上の楼閣であると明らかになり、脅威が消滅することである」。
そのようなことが起こらなかったため、防衛企業はいくつかの方法で利益をあげている。交戦中の国に直接武器を売りつけるだけではなく、ウクライナに武器を供与している他の国に武器を供給しているのだ。軍事費の増強を宣言しているドイツやデンマークといった国からの追加要請もあるだろう。
この産業の“世界のリーダー”はアメリカであり、2016年から2020年にかけて37%の兵器を売っている。次がロシアで20%、フランスが8%、ドイツ6%、中国5%と続く。
だが武器輸出トップ5のこれらの国以上に、この戦争で利益を得る可能性がある国がいくつかある。トルコはロシアの警告に逆らい、ハイテク・ドローンなどの武器をウクライナに供給することを宣言した。ハイテク・ドローンはトルコの防衛産業に大きく寄与しており、世界市場の1%ほどを供給している。
世界中のセールスの約3%を占めるイスラエルでは、現地の新聞が「ロシアの侵攻の最初の勝者は、イスラエルの防衛産業である」と称えた。
ロシアに関して言えば、2014年に遡る西側諸国の制裁への対応として、自前の軍需産業を打ち立てている。ロシア政府は巨大な輸入代替計画を作成し、国外の兵器と軍事知識への依存度を縮小し、さらには国外への武器輸出を増大させようとしているのだ。
世界第2位の武器輸出国として、ロシアは世界中の顧客をターゲットにしている。同国の武器輸出は2016年から2020年の間に22%まで下落した。だがその主な原因は、インドへの輸出が53%減少したことだ。時を同じくして、中国、アルジェリア、エジプトといった国への輸出は劇的に強化されている。
アメリカ合衆国議会予算報告書によると、「ロシアの兵器は高価ではないだろうし、西側諸国の兵器システムと比べると操作やメンテナンスが簡単だ」という。ロシアの最大の兵器企業はミサイル製造のアルマズ-アンテイ社(売上高66億ドル)、ユナイテッド・エアクラフト社(46億ドル)、ユナイテッド・シップビルディング社(45億ドル)などだ。」
そして結論として、「人殺し」に依存した経済基盤を放置してはならない、と次のように締めくくります。
「プーチンの帝国主義に直面して、成し遂げられることには限界がある。ロシアから長年の脅威に直面しているウクライナが、武装解除するという可能性はほとんど見出せない。
しかし、状況を沈静化する努力はいくつかなされてきた。たとえばNATOは、飛行禁止区域を設けるようにというウクライナ大統領ウォロディミル・ゼレンスキーの要求を、公然と拒絶した。
だがこうした努力が、兵器レベルを向上させようとする双方の巨大な経済的特権によって蝕まれている。
西側諸国とロシアが共有しているのは、大規模な軍産複合体だ。どちらの陣営も巨大兵器関連企業に依存し、その影響を受ける可能性がある。あるいは実際すでに、影響下にある。こうした影響力の強さはドローンや、洗練されたAI制御の自動兵器システムにいたるまで、新たなハイテク攻撃能力によって推進されるのだ。
最終的なゴールが事態の沈静化と持続可能な平和なら、「軍隊による攻撃」に依存した経済基盤を真剣に批判していく必要性があるだろう。
ロシアの兵器産業が原材料の入手をしづらくし、軍備に再投資するために外国へ商品を売ることがより難しい状況にすることで、アメリカは直接的な制裁を加えるとした。ジョー・バイデン大統領によるこの声明を、私は歓迎している。
そうは言っても、これは西側諸国の防衛関連企業に商機をもたらすだけかもしれない。それによって、アメリカとヨーロッパの企業に一時的な真空地帯が残され、今後の競争がかなり優位になる。その結果、世界的な兵器開発競争が拡大し、新たな戦争に備えた大きなビジネス上の特権が創出されることもありうる。
この戦争の余波として、私たちは軍需産業の権力と影響力を制限する方法を探求するべきだ。それには、特定の武器の販売を制限する国際的な同意や、防衛産業を縮小しようとする国への国際的な支援、軍備費を増強させようとロビー活動をしている軍需企業に制裁を加えることなどが含まれる。より根本的には、さらなる軍事力の展開に対抗する運動が含まれるだろう。
もちろん、簡単な答えなどない。一夜のうちに達成できることでもない。しかし儲かる経済産業としての「兵器の製造と販売」をできるだけ多く廃止しなければ、永続的な平和が訪れることはない──私たちはこの事実を、国際社会の一員として認識することが必要だ。」

まったくその通り。

 

==========<金子 明>==========(2022年3月21日)

すっかり忘れていたが、昨日(3月20日)は地下鉄サリン事件が起きてから、27年目の日だったという。もう四半世紀以上が経ったのかと感慨深いが、このサイトに関わっているいま、自分なりにあの日を回想してみようと思う:

当時私はテレビ朝日に派遣され夕方のニュース番組(蓮舫・宜嗣のステーションEYE)の製作にあたっていた。驚天動地だった神戸の大地震(1月17日)から2か月が経過し、報道局内の雰囲気も少し落ち着いていた。個人的には、番組立ち上げから2年勤めたその職場を3月いっぱいで離れ、ちょこっと自主映画を製作する予定だったので(のんきだねえ)のんびりしていた月曜の朝だった。

市川の自宅に電話がかかって起こされた。「すぐに出てこい。地下鉄は止まっているのでお茶の水でハイヤーに乗れ」という。私を待っていたハイヤーのドライバーは道々「ラジオによると、霞ヶ関の駅では爆弾騒ぎらしいですよ」などと言っていた。

六本木でカメラクルー&丸川アナと合流し、地下鉄中野坂上駅に向かった。駅の周辺には警察官が大量にいた。胸に星が複数ついている年配の制服姿に「何が起きている?」と聞いたが、どうもよくわかっていない模様。地下に降りて駅構内を撮影したあと、他社のクルーも加わって駅事務所に突入し、駅長を囲んだ。なんだかんだと10分ほど話を聞いたのだが、「駅員が車両の床にこぼれた液体を拭き取った」そのモップが、駅長の背後に立てかけてあった。

続いて、被害者の多くが搬送された新宿にある医大の附属病院へ。治療を待つ男性が語った内容:「ドア横の席に座っていた男女がまず倒れた。おいおい、こんなところで心中かよ、と驚いたが、すぐに自分も気持ちが悪くなった。見ると、床には麦茶のような液体が入ったビニール袋が転がっていた。1個は破れ、もう1個は無傷だった。」

ひるころ局に戻って美術パートに麦茶とビニール袋による証拠物件の再現を指示し、編集を開始した。6時のオンエアなので、4時には試写。プロデューサーは内容については満足したが、試写終わりにこうコメントした、「カネゴンがそばに来ると目がチカチカする。」

ふうむ、残留したアセトニトリルによる副作用か・・・実はさっきから口の中にツバがたまるのよねえ。トレーナーとジーパンの上下だったので、繊維中になにやらよからぬものを含み込んでしまったのかしらん。そう言えば、病院でインタビューしているときに気づいたが、何人かの患者さんの体からは揮発性っぽい刺激臭が出ていたなあ。

やがて毒ガスのサリンが撒かれたとわかり、退社時に私は着ていたもの全てを脱ぐよう命じられた。しょうがないので、局にあった雨合羽を全裸の上に着て、電車に乗って帰宅した。翌日が春分の日だったので、それほど寒くなかったのはありがたかった。

そんな1日だったのだが、その前年の暮れにふと耳にしたうわさ話は、思い返すと心に刺さる。いわく、「ロシアにあるオウム運営のラジオ局がこのところ『終末が近い』と騒ぎ立てている。麻原は不治の病で余命幾ばくらしい。アリゾナのカルト教団よろしく集団自殺をやらかすのではないか。」これを聞いたとき、「勝手に死ねば・・・」と思うことなど微塵もなかったと言えば嘘になる。年が明けて大震災、その2か月後にこのサリン事件が起きた。やらかしたのは集団自殺ならぬ、殺人ガスによる都市型無差別テロだった。

 

==========<金子 明>==========(2022年3月14日)

2010年、アフガニスタンの国会議員ファウジア・クーフィ氏は自伝「お気に入りの娘」(The Favoured Daughter/ Fawzia Koofi & Nadene Ghouri)を発表した。共著者のナディーン・グーリ氏についてはキンドル本上には紹介がないのでウェブで調べると、BBCとアルジャジーラで特派員を勤めたやり手のジャーナリストらしい。そのためか、英語の文章は簡潔で読みやすく、巻末の年表もありがたい。それによるとクーフィ氏が生まれた1975年はダウドのクーデターから2年後。78年にはそのダウドが殺され、翌79年暮れにソ連が侵攻してくる。なるほど彼女は戦争時代の申し子なのだ。

そして、バダフシャーン州で生まれた。さすがに地図の付録はないので再びウェブに頼る。すると、あの中国までひょろっと触手状に伸びた州ではないか。ちょっとした親近感。さらに細かい出生地は、バダフシャーンのダルワズ・クーフ地区というから、その右手に伸びる回廊部分ではなく、最上部にある一画だ。つまりアフガニスタンで最北に位置し、当時のソ連邦タジキスタンとの国境地帯である。「州都のファイザバードから今(2010年)でも車で3日かかる僻地の山岳地帯」と彼女が表現するのもうなずける。

物語はビビ・ジャン(美しい鹿)という名の女が8番目にあたる最後の子を放牧に訪れた山中で産み落とすところから始まる。夫はクーフ村で代々長老を務める一家の家長で、州を代表する国会議員アブドル・ラーマン。ビビ・ジャン自身もかつてクーフ村と対立した村の有力な家族の出身で、完全な政略結婚(第2婦人)だった。「結婚は家族、伝統、文化、恭順のため。それらすべてが個人の幸福よりも勝る。愛はめんどうを起こすだけ」というのが、この地域の山村の伝統だという。

持ち前の美貌と心配り、そして優れた能力で代議士一家の家事を取り仕切る立場(ヘッド・ワイフ)となったビビとはいえ、前年、夫が14歳の少女を7番目の妻として迎え入れたのには消沈した。その新妻はやがて男児(アブドルの第18子)を出産する。それを妊娠6か月のビビが介助した。「現代でも女は息子を授けてと祈る。息子を産むことだけで女には地位が認められ、夫を満足させられるから」と著者は解説している。

しかし、旅先の山で30時間におよぶ難産の末に生まれたアブドルの第19子は女児だった。気を落とし弱り切った母親は意識が朦朧とし、「青白く斑点だらけで小さくてふにゃふにゃの」赤ん坊を抱くこともなく、ただちに病に伏した。すると取り巻きは「村の文化では無でしかなく価値もない」女児などは外にほっぽり出し、数週間にも及ぶ放牧の旅を取り仕切るヘッドワイフの看病に専念した。

ひとびとが翌日になって女児の存在を思い出し室内に入れたとき、母親はようやく回復の兆しを見せていた。生まれた直後の丸1日、高温の外気で焼かれたにもかかわらず、10代まで残る顔のやけど跡だけを残して生き延びた我が子をビビは改めて見直した。すると彼女から最初の冷たさが消え去った。その子をぐっと抱きしめた母親は、以来激動のなか「お気に入りの娘」との絆を深めていく。

(「お気に入りの娘」第1章「昔の物語」より抜粋)

※ アフガニスタン全土の行政区地図は基礎データのページをご参照ください。

 

==========<野口壽一>==========(2022年3月14日)

● プーチン・ロシアのウクライナ侵攻は、アメリカのアフガニスタン侵攻、とくにイラク侵攻にそっくりです。アメリカは第2次世界大戦後、数々の侵略や他国への武力介入を山ほどやってき。だが、だからと言ってプーチンはロシアの侵攻を合理化することはできない。アメリカの産軍コンプレックスはアフガン→ウクライナ→新疆・ウイグル・台湾と緊張を作り出す長期プランを着々と遂行している。しかし、アメリカは国内に深刻な対立を抱え、また、経済力や世界における信用力においても長期衰退過程にあり、主敵である中国叩きもそうは思うように進むとは思えない。世界はますます危うさの度をましている。

● 最近のロシア国内からのニュースに接しているとまるで戦前の日本もこうだったのかと錯覚する。
・戦争を「特別軍事行動」と言い換える言葉の詐術の数々。
・自分らに都合の悪い情報はニセ情報。
・TV、ラジオ、新聞などでのプーチン崇拝。
・独自情報を流すメディアは解散。
・敵対者は暗殺。
・都合の悪い発言は個人のものであっても逮捕有罪化して弾圧。
・戦争支持、軍人激励の官製デモや行動への強制参加。
・経済制裁による生活苦には「勝つまで耐えろ」
・世界が反対しても唯我独尊。
親の世代からの伝聞や映像・書物でしか知らない日本の戦中が思いやられる。ただ、唯一違うのは、ロシア人民が戦っている、ということ。逮捕され、拘禁され、殴打され、職を失い、家族分断にさいなまれ、経済社会的に圧迫されても、街頭に出て、SNSで、さまざまな形態で「戦争反対」を叫び続ける人びとが全国にいる、ということ。
プーチンや世界が口をそろえて悪口をいうレーニンは、第一次世界大戦を終わらせるために自国の敗戦を主張してロシア革命を成功させ戦争を終わらせ平和宣言を発した。ロシアは「革命的祖国敗北主義」の伝統を持つ国。きっと、自分たちの力で自分たちの国を正しい道に引き戻すに違いないと信じたい。

 

==========<金子 明>==========(2022年2月28日)

このサイトの編集に関わるようになってキンドルで読む本が増えた。するとアマゾンさんは「しめた」とばかり、おすすめ情報をよこしてくる。半月ほど前に、カーター・マルカジアン著「アフガニスタンにおけるアメリカの戦争:ある歴史」(The American War in Afghanistan: A History/ Carter Malkasian/ Oxford University Press/ 2021)をすすめてきた。著者が、これまで読んできたアフガン本のようにジャーナリストではなく米軍関係者(将軍の政治アドバイザー)というのが気になり、立ち読みを始めた。サンプルで読めた第1章は序文だったが、さっそくそこに常々感じていた疑問をしっかり疑問ととらえ、うまく解説した一節にでくわした。

その疑問とは、米軍ともあろうものがターリバーンごときになぜ負けるのか?このサイトの常連ファテー・サミ氏によれば、米国らが仕組んだ陰謀とのことだが、それだけでかつての敗残者がかくも電光石火にリバイバルできるのか。サミ氏が当事者たるアフガン人であるため当たり前すぎて説明に及んでいない「何か」が、背景にあるのではないか。著者のマルカジアンはその点を以下のように記している:

ターリバーンが例示したのは、精神を奮わせる何か、闘いで自らを強力にする何か、アフガン人であることの意味に密接につながる何かが、存在することだ。簡単に言えば、彼らはイスラームのため、占領への抵抗のため、アフガン人たるアイデンティティーとして守り抜かれてきた価値のために戦った。外から来た占領国と手を結ぶ政府が、似かよった精神を奮い立たせることはなかった。政府は支持者を得られず、せいぜい頑張っても、数でターリバーンに勝るだけだった。政府がイスラームだと主張しても胡散臭かった。アフガニスタンでのアメリカの存在自体が、アフガン人であることの意味を踏みにじった。男女を突き動かし、自らの尊厳、宗教、そして故郷を守らせた。若者を戦いに挑ませた。ターリバーンを力づけた。アフガン軍とアフガン警察の意気を砕いた。ひとたび衝突するや、ターリバーンは怯まず殺し殺され、その気概は軍や警察を凌駕した。少なくとも大多数の軍や警察を。この本が総論として伝えたいのは、ターリバーンとアフガン人であることの意味の結びつきが、アフガニスタンでのアメリカの敗北には欠かせなかったということだ。

見落とせないターリバーンと「アフガン人であることの意味」との結びつき。それがアメリカ敗北の十分条件ではないが必要条件だった、と著者の論は続く。その視点に気づかされた瞬間、やるね!とワンクリックで全編を購入した。お代の約3千円は高いか安いか・・・いつかこの場でつぶやくネタにするので判断はそのときに。

さて、打ち負かしてから20年も駐留したと言うとことは、日本に当てはめると1965年まで駐留か・・・沖縄には1972年までいたし、出先機関の米軍基地は日本各地にいまも存在する。「日本人であることの意味」など考えなくても平和に暮らせるわが国は幸か不幸か。ただここへ来てコロナだ、ウクライナだ、とちまたは騒々しい。気を引き締めて2022年の春を迎えたいものだ。

 

==========<野口壽一>==========(2022年2月28日)

・ウクライナの首都の表記は日本語ではキエフ、英語ではKievと思っていたが、ロシア軍のウクライナ侵攻の前後から四六時中BBCとCNNを見るようになり、Kyivと表記されているのを知った。調べると、ウクライナ語ではクィイヴと発音されるらしい。「ウクライナの地名のカタカナ表記に関する有識者会議報告」(http://www.eb.kobegakuin.ac.jp/~keizai/v02/data/pdf/201912okabe.pdf)
・映画「戦艦ポチョムキン」で有名なオデッサはオデーサ、ハリコフはハルキウ、ドネツクはドネツィク、ルガンスクはルハンシクだそうだ。キエフをクィイヴと表記するのは現状ではまだなじまなので、キエフ、キーウ、キイフの3例表記を可とする、と提案されている。次の投稿で知りました。→ https://news.yahoo.co.jp/byline/obiekt/20220224-00283698
・今回、原稿を書くにあたって久しぶりに津田元一郎さんの『日本的発想の限界』(1981年、弘文堂)を読み返しました。<視点>「ウクライナとアフガニスタンの意外な関連-社会変革の意欲と外国との連携」で引用させていただきました。イラン・アフガンに在住して教育事業に携わりながら対象国の変革に関わる津田さんの愛情を感じると同時に、その地に生きる人びとの欲求でなく外部の搾取者の視点から意図的にニュースをつくり配信する外信(国際報道機関)の視点は実はユダヤ系エスタブッシュの視点にほかならず、それに拝跪する日本の言論機関の浅はかさを痛烈に批判していました。今度のウクライナ問題でもそのことを感じました。われわれの努力はミクロとも言えないほど小さいものですが、SNSの時代になって、ミクロの視点、ミクロの努力でも世界とリアル、ダイレクトにつながり、予想以上の大きな力になりうることも知りました。外信を利用しつつ洗脳されない視点を磨いていきたいと思います。

 

==========<金子 明>==========(2022年2月15日)

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第11弾(最終回)。

今回のテーマは「ザルメイ・ハリルザドの発言」

紹介してきた「アフガニスタン・ペーパーズ」たが、最終回はザルメイ・ハリルザドの発言を中心に取り上げる。大使や特使として米国のアフガン政策を長く牛耳ってきた人物で、当サイトで発表中のファテー・サミ氏の一連の記事によると、2人の大統領(カルザイ&ガニー)と並んで評判が悪い。そんなハリルザドが政策の中枢でどんな言葉を発し、後の「学んだ教訓」インタビューでは何を語ったか。アフガニスタンとアメリカの20年を考える上で貴重な史料である。

—2003年11月ハリルザドはアフガニスタン大使に就任したが、年明けの1月ワシントンポスト紙に署名入りコラムの体裁で檄文※を寄せた。その最後に:
「これほどの掛け金をもらっているので、成功という結果が出るまでは投げ出すわけにいかない。」

※ このコラム(2004年1月6日)は米国務省のアーカイブで確認できるので、以下に要約する:
https://2001-2009.state.gov/p/sca/rls/rm/27702.htm

「アフガニスタンの一里塚」 駐アフガニスタン大使 ザルメイ・ハリルザド 著
アフガン人は米国らが提供した機会をものにして国政選挙への道を歩み出した。それは民主主義への2つの道で、まずはターリバーンやアルカーイダらの極端主義者による妨害の排除。その結果、ロヤジルガの候補者に全体の2割に及ぶ102人もの女性たちが名乗りを上げた。次いで言論による問題解決。新聞、ラジオ、モスク、学校、インターネットなどで、国家の仕組みや宗教、人権、民族、地方自治の問題が討論された。アフガニスタン5千年の歴史で初の快挙だ。
 アフガン人の問題克服への思いが失敗の怖れを上回った。彼らは軍閥や極端主義者の妨害をものともせず健全な憲法を欲した。女性や少数者が指導的立場に躍り出た。ロヤジルガによって認められた7人の指導者のうち3人は女性だ。全民族の言葉が公用語と定められた。できあがったのはイスラム諸国の中で最も開明的な憲法の一つで、大統領制と強力な議会そして独立した司法府を定め、信仰の自由、男女平等などが盛り込まれている。
 アフガニスタンには今後も課題が多い。それは憲法遵守、極端主義者の残党討伐、軍属の武装解除、麻薬産業の撲滅などだ。だが整然として透明なやりかたで憲法を選んだことで最初のハードルはクリアされた。
 アメリカはアフガニスタンの成功に投資した。ブッシュ大統領は2004年度20億ドルの援助を行い、国軍と警察力と経済インフラ、学校、医療機関を整える。誇りを持ってその民主化をサポートしよう。
 われわれのアフガニスタンでの仕事は終わっていない。この国が自力で歩き出すまでにはさらに数年がかかり、国際社会の協力も欠かせない。(このあと最後のパンチラインとして前述の1文が登場する)

—このひどく楽観的なコラムにカーブルの米大使館員たちも驚いたようだが、そのうちの1人はこう証言している(2004年4月に採取された外務省口述歴史インタビュー):
「大使館のカフェで出くわした広報戦略の担当者に聞くと、あのコラムを書くのに20人ものチームが組まれたんだってさ。戦争について光り輝く記事の下書きを作るためだけに、政府はなんでそんな大勢に給料を払うのかねえ。」

ところがこの高価にして強気のコラムとは裏腹に下野中のハリルザドは2016年12月、「学んだ教訓」インタビューに答えて次のように語っている:
「もし米国が2001年12月の時点でターリバーンと話し合う気があったなら、アメリカの最も長いこの戦争は逆に最も短い戦争の一つとして歴史に刻まれただろう。多分われわれは機敏でも賢明でもなかったので、早い内にターリバーンに手を差し伸ばすことができなかった。彼らを受け入れ和解すべきだとは考えず、敗走した彼らは正義により裁かれる必要があると考えた。」

大使在任中ハリルザドは1日幾度もカルザイと話し合い、ほぼ毎晩夕食を共にした。その後も数時間話を続け、大使館に戻るのはしばしば夜中過ぎだったという。仲良しというか、ズブズブの関係だったというか。続いて同じ「学んだ教訓」インタビューから彼の証言をピックアップしよう。

—2003年から2005年の大使在任中に、アフガン国軍の規模をどうするか?米国vsアフガニスタンの論争があったが、そのいきさつについて:
「アフガン政府の要求は最初20万人だったが渋られ、せめて10万人から12万人を雇う資金を出して欲しいとワシントンに頼みこんだ。だが、ラムズフェルドはもっと数を減らせと命じ、訓練を施すことを“人質”に、結局兵員数は上限5万ということで同意した。」

—同時期、ブッシュ政権下米国がケシ駆除のため農薬の空中散布を画策したのに対し:
「空中散布などアフガン人に化学戦争を仕掛けるようなものだ、とカルザイは考えていた。」

アフガン側からの猛反発やベトナムでの枯れ葉剤使用のトラウマ、また麻薬撲滅作戦の効果自体に疑義が生じ、この試みは頓挫した。

2005年6月、ブッシュはイラク問題の収束をハリルザドに託し、彼をイラク大使へと配置換えした。カルザイはその決定を翻そうと個人的にホワイトハウスと掛け合ったが、願いはかなわなかった。その時分、ハリルザドはまだ米政府に信頼されていたと見える。

—さて、ハリルザドはイラク入りした当時を思い出して:
「イラクに行ったら、カルザイがすごく人気だった。ホワイトハウスの役人は冗談まじりにこう言ってきたよ、『イラクでもカルザイタイプの人物を探し出したらどうですか?』とね。」

有頂天だったハリルザドに対し、カーブルに着任した米大使(ロナルド・ニューマン)にとってはカルザイと食事を共にするなどもってのほか。それどころか腐敗対策に乗り出し、カンダハル州議会議長でカルザイの異母弟アハマド・カルザイの更迭を要求した。かの地で麻薬取引を仕切っているという嫌疑だった。この騒動はカルザイと米国の関係が悪化する大きな要因となったのだが、もともとアハマドに資金を与え顔役に育て上げたのはCIAだったわけで、もうどっちもどっち、ええ加減にせんかい、と言いたくなる泥仕合だ。ちなみにアハマドはしぶとく議長をやり続け陰の知事とも噂されたが、2011年自らの警備員によって暗殺された

イラク大使、国連大使を歴任したハリルザドは2009年以降しばらく野に下っていたが、トランプ大統領が呼び戻す形で、2018年9月、いわゆる「アフガニスタン和解の特別使節」として国事に返り咲いた。その後の活躍というか、迷走ぶりは、ファテー・サミ氏の一連の記事に詳しいところである。泥船でも船は船とばかりバイデン政権も対アフガン政策の最終局面を彼にまかせた形だった。そして昨年10月15日、ターリバーンの復帰からちょうど2か月後にその職を解かれた。翌週、彼はカーネギー国際平和基金によるライブインタビューに登場した。「この事態になったのは、あなたに何か間違いがあったためで、やり直したいことはあるか?」と尋ねられてこう答えている:
「それについてはこれから省みる。」

 

==========<野口壽一>==========(2022年1月25日)

「衣食足りて礼節を知る」という。歌舞音曲や文学・絵画・旅や遊興も、衣食足りてこそ大衆化するのだろう。芸術や科学も宗教組織や貴族の資金援助があってこそ発展した歴史がある。
2001年以降のアフガニスタンでは、国内で余剰資金はなくても国家予算の半分もの資金が外国から流入した。戦争余禄みたいなもので、それが戦争ビジネスや汚職・腐敗の原資になったけれど、一部は、社会インフラや教育などへの投資にあてられて90年代までの停滞とは異なる都市部の発展につながったのも事実だ。そのような社会改革の成果として『カーブルの孤児院』をつくった映画監督が生まれたり、エンターテイナーやスポーツ選手が生まれたりした。それらを社会的に普及するメディアとして、TOLOテレビなどのテレビ局、FMラジオ局、多くの新聞社・出版社が生まれた。また、インターネットの普及により、YouTuberも誕生し、SNSも盛んになった。
40年間の戦争の期間に、悲惨さだけでなく未来を背負う確実な才能が育っている。『ウエッブ・アフガン』は、それらのすべてを紹介したいと思うが力量が圧倒的にたりない。しかし今号では、歌手Ariana Sayeedを紹介することができた。彼女の歌声はYoutubeで「Ariana Sayeed」と検索すれば多くのコンテンツがヒットする。そのほかにも、ネット上での検索で、アフガニスタンのエンターテイナーやアートに触れることができる。ぜひお試しあれ。

 

==========<金子 明>==========(2022年2月1日)

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第10弾。

今回のテーマは「部族と軍閥」

紹介してきた「アフガニスタン・ペーパーズ」だが、キンドルで読むと検索がたやすく、テーマ別に並べかえて読み直すときとても重宝する。これまで、やっぱ本は紙だよね、と思っていたが、電子本もありがたいなあ、と宗旨が揺らぐほどだ。さて359ページにも及ぶこの証言集だが、その中に、小説か映画の主人公になれそう、と私が勝手に思う人物が2人いる。1人は第6回で紹介したギャンブラー兼銀行王、シャーカーン・ファヌード。そしてもう1人が今回登場するマイケル・メトリンコである。

メトリンコは米国人。イランに派遣され1979年には例のテヘラン大使館事件で人質の1人となった伝説の外務担当官だ。2002年、米国がカーブルに大使館を再開するにあたり、政務部長として登用された。ダリー語で現地の人々と直接話せるというアメリカ人としては希有な外交官であった。そのメトリンコがターリバーンをどうとらえたのか、今回はそこから紐解き始めよう。

2003年、外務口述歴史企画によるインタビュー
「我々がターリバーンと呼ぶ活動の多くは実は部族的なもので、ライバルとの競争、昔からのいがみ合いだ。そのことを私に、何度も何度も何度も説明してくれたのは、ほら知ってるだろ、あの白い長いあごひげでやってきて、ひとたび座るや1時間も2時間もしゃべり続ける長老たちだった。現状について彼らが笑いながら説明してくれたこともあった。でも必ず言った言葉は、『君たち米兵はこれを理解しないねえ。』つまり、彼らの考えではターリバーンの行為は、ターリバーンたちそれぞれの家族内でもう100年以上続いている内輪のいがみ合いにすぎなかったのだ。」

この後メトリンコはCIAの現地活動を「ド素人、効果ゼロ」とこき下ろして痛快なのだが、ここでは長老の言う「家族」つまりアフガンの「部族」はターリバーンに対してどう動いたのか、証言をひとつ紹介しよう。

2017年、アフガン国防省の政府高官
「地域の部族長に尋ねた、『500人という大部隊の治安兵たちがなぜ20人か30人のターリバーンを倒せないのか』と。地元の長老たちはこう答えた、『治安部隊はターリバーンと戦って人々を守るためにここにいるのではない。金を稼ぐためにいるんだ』と。治安兵はアメリカが支給した武器や燃料を横流ししていたんだ。そこでこう問い直した、『わかった、政府はあなたたちを守らない。でもあなたたちはこの地区に3万人もいる。ターリバーンが嫌いなら戦うべきではないのか』と。彼らの答えはこうだった、『こんな腐敗した政府には来てもらいたくないし、ターリバーンも望まない。だからどっちが勝つのか見ながら待っているのだ。』」

なるほど、国民に支持されない政府では戦争の先行きは怪しかろう。ではアフガンの大統領府を支えたのは誰だったのか?こんな証言がある。

第2次ブッシュ政権(2005~2009)下の国家安全保障顧問
「カルザイは決して民主主義を買わなかったし、民主的な機関にも頼らなかった。彼が頼ったのはお得意さんの軍閥たち。私の印象では軍閥が舞い戻ったのは彼が欲したからだ。」

かつてソ連に占領されていたとき反乱分子としてアメリカの援助で軍事力を増大させ、麻薬取引や賄賂でしこたま金を稼ぐ軍閥たち。独自の紙幣を印刷したり、武装解除にまったく応じないなど大統領府も頭が痛かったようだ。かつてカンダハルに暮らし、後に米軍の市民アドバイザーを勤めたジャーナリスト、サラ・チェイスは2015年、学んだ教訓インタビューに答えてこう述べている:
「敵の敵は味方であるという考えに従って我々は軍閥に頼った。我々はターリバーンが軍閥を蹴り飛ばすことにわくわくしている国民たちがいることを知らなかった。」

メトリンコに講釈をたれた長老たちが言うように、これはただの家族間の権力闘争なのか?それが軍事力と財力を持つ軍閥同士の内輪もめとなると、国家の一大事だ。差別を受け、生活に困り果て、命を落とす国民もさぞ多いだろう。アフガニスタンの状況は予断を許さず、人々の暮らしはいま緊張の極みにある。

 

==========<野口壽一>==========(2022年2月1日)

先週の号で紹介したが、アフガニスタン女性の闘いの歴史は多彩で揺るぎがない。その歴史の積み重ねが現在の不屈の闘いにつながっているのだろう。先週23日からオスロで開かれたターリバーンと欧米各国との対面協議でもそのことが如実に示された。アフガニスタンからやってきた二人の女性代表のオスロでの活動を、現地カーブルでは女性たちが街頭に出てデモンストレーションし、支えている。パンジシールでの闘いを先頭になって支えているのも女性たちだ。
女性が変われば男も変わる。1917年のロシア革命は食料が尽きて女性が街頭に出、パンをよこせと叫んだことが発端だった。翌年の1918年、日本で全国規模で発生した米騒動も米価高騰で家計を圧迫された女たちの決起が発端だ。日本では革命は起こらず逆に騒動鎮圧とロシア革命をつぶすためのシベリア出兵につながった。
オスロでターリバーンと対決した女性たちは、全国民が寒さと飢餓に苦しむアフガニスタンにもどりターリバーンと対決し続ける。国際援助は彼女たちに直接手渡されるべきだ。国連や各国政府がそのための手立てを講じるよう要求し、実行を見守らなけばならない。

 

==========<金子 明>==========(2022年1月25日)

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第9弾。

今回のテーマは「ラムズフェルド雪片」
アメリカが同時多発テロで攻撃を受け、その仕返しとばかりアフガニスタンに侵攻したとき、国防長官はラムズフェルド(在任期間2001〜2006年)だった。彼は下っ端に出す指示や様々なコメントを短いメモに残した。薄い白い紙がいつのまにか机上に降り注ぐので「ラムズフェルド雪片」と呼ばれた。その積雪量は5万9千ページにも上り、雪片どころかブリザードだと、「アフガニスタン・ペーパーズ」の著者ウィットロックは形容している。当然おおかたは機密文書であった。それらがすべて保存されているのもさすがだが、ジョージワシントン大学に基盤を持つ非営利研究機関が裁判の結果勝利し、その全貌を明かにしたとは恐れ入る。大寒にはいった今回は「アフガニスタン・ペーパーズ」で引用されているラムズフェルド雪片をいくつか紹介しよう。

—2002年3月28日テレビのインタビュー番組で「米兵の生命を守るために、あの会見室で事実を曲げて伝えなくてはならないことはありましたか?」と聞かれ「そんなことは一度もなかった。我々は事実を曲げることよりも信頼性の方がはるかに重要だと考えている。我々は今後も軍服を着た男女の生命を守るために、我々の国の勝利を見届けるために、やるべきことをする。そこに嘘は含まれない。」と答えたが、その数時間前に2人のスタッフに伝えた極秘雪片:
「いま心配なのはアフガン情勢が漂流中であることだ。」

—同年4月17日午前10時15分、ブッシュはバージニア州立軍事学校で演説をした、「春が来ればまたぞろ殺し屋どもは息を吹き返しアフガニスタンの恒久平和への道に水を差すだろう。最初はうまくいっても、そのあとでもがき苦しみ、みな最後は失敗する。それはアフガニスタンでの軍事闘争の歴史が物語っている。だが我々はそんな失敗を繰り返さない。」その1時間前にペンタゴンのトップ4人(統合参謀本部の議長・副議長を含む)のデスクに降り積もった極秘雪片:
「米軍はずっとアフガニスタンに足留めだろう。安定をもたらす何かが起きぬ限りは。その何かをしっかり見極めてやっと撤退できる。助けてくれ!」

—同年6月25日、国内世論を恐れて米国の対テロ戦争に協力しかねるパキスタンのムシャラフ大統領に関して、ペンタゴンの政策主任への雪片:
「パキたちを今いる場所で対テロ戦争に参加して本気で戦わせたいなら、つまりパキスタン国内で戦わせたいなら、我々が金をしこたま手に入れればいいと思わないかい? そうすればムシャラフに与えて、彼を今の場所から、我々が望む場所へと配置転換できるだろう。」(この意見は通り、軍事・対テロの名目でその後6年間にわたり100億ドルが援助された。)

—同年10月21日、ブッシュに「今週フランク将軍とマクニール将軍にお会いしますか?」と尋ねたことについて:
「大統領は言った『マクニール将軍とは誰か?』そこで『アフガニスタンを統括している将軍です』と答えた。するとこう言った『そうか、彼と会う必要はない』と。」

—2003年(侵攻開始から約2年後)、諜報部長へのメモ:
「アフガニスタンで誰が悪い奴らかについては視界ゼロだ。人物評価に関する諜報量が圧倒的に不足している。」

—2004年10月、フランスの国防大臣(女性)がケシ産業によってカルザイ大統領の政治力が弱められると心配していることに関して:
「彼女は直ちに行動すべきだと考えている。さもないと麻薬資金がアフガン国会を牛耳り、国会がカルザイに反目し、政府を汚染してしまうと。」

—同年11月、ブッシュ政権の目的なき麻薬対策を批判して:
「アフガニスタンにおける麻薬対策は、てんでんバラバラに見える。どこにも責任者がいない。」

—同年12月、カルザイ大統領の就任式典出席をブッシュに報告して:
「決して忘れられない1日でした。カルザイ大統領は言いました、『やっと命が活動し始めた。米国がアフガニスタンに来る前、我々は静物画のようだった。あなたたちが来て、全てが生き返った。あなたたちの助けでここまでやってこられた』と。」

—2005年2月、ライス国務長官に極秘リポート「アフガン警察恐怖物語」を提出しアフガン警察の現状(無学・無装備・無準備)をこき下ろした際に併せて送った雪片:
「ぜひ一読ください。これがアフガニスタン国家警察の現状です。大問題です。私の印象では、この2ページは人知の及ぶ限り柔和に物議を招かぬよう書かれています。」

—2006年10月16日、ラムズフェルドの演説執筆者たちが書いた「アフガニスタン:5年後」という米アフガン政策よいしょ原稿(アメリカさんのおかげで、19000人を超える女性養鶏家が誕生したとか、道路交通の速度が3倍アップしたとかというデータ集)を絶賛して:
「この書類は秀逸だ。どう使おうか?新聞記事にすべきか? 署名入りか? 折り込みでもいいか? 記者会見もするか? いや、もっと衝撃的にやれないか? 大勢とびつくと思うぞ。」

この文書「Afghanistan: Five Years Later」をいまググっても何も出てこない。記事にはならなかったのか。欣喜雀躍したのはラムズフェルドだけだったのか。
翌月の中間選挙で共和党が敗れたのを機に彼は国防長官を辞任した。アフガニスタンとイラク、同時に2つの戦争を遂行した国家の英雄と呼ぶべきだろうか。残された雪片に触れると、いかに堅固な要塞に守られていたとはいえ、難しい時代を切り抜けた長官の心労がうかがい知れる。昨年6月29日没。その47日後にターリバーンがカーブルを制圧した。

 

==========<野口壽一>==========(2022年1月25日)

「視点」で紹介した『RAWA 声なき者の声―アフガニスタン女性革命協会』はネットで購入可能だが、 amazon.co.jp では品切れになっている。紀伊国屋書店のサイト https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784906456536 では注文は受け付けているが出版社より取り寄せとなっている。古本が出る場合もある。根気よく探してでも購入する価値がある。パンフレットを入手できなくても、RAWA本体のサイト http://www.rawa.org/ は日本語ページもあるのでそちらをご覧になることをお勧めする。思いもかけない情報が満載である。また日本を拠点として活動する「RAWAと連帯する会」(http://rawajp.org/)のホームページにも豊富な情報が掲載されている。同会はカンパ、あるいは会費の受付を行っている。(http://rawajp.org/?page_id=1195)独自に現地アフガニスタンのRAWAに直接送金するルートを確保した、とのことなので、同会に寄付すれば、ターリバーンに抜き取られることなく支援対象者に確実に届く。アフガニスタンの情勢、特に女性たちの闘いに注目しつづけること、できればいくらかでも支援金を送ることを実践し、周囲にも知らせてください。

 

==========<金子 明>==========(2022年1月10日)

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第8弾。

今回のテーマは「軍隊と警察」。ターリバーンとの戦争状態が続くなか、米国は早急にアフガニスタンの軍隊と警察を整備・強化する必要に迫られた。

軍隊に関しては2003年にブートキャンプをカーブル近郊に開設し、米国流の軍事訓練で効果を上げようとするのだが・・・

—訓練にあたった米歩兵将校/ブートキャンプに来た800名の新兵の中で射撃試験に合格したのは80名だけにもかかわらず全員が卒業できたことについて
「みんな訓練ごっこをしているだけだった。」

—2005年にアフガニスタンに赴任した銃器教官/スイカを棒に突き刺し地面に立て標的にした射撃訓練を行って
「そしてこう言った『よし、アフガン兵さんよ。あのスイカを撃ってみな。』するとただ当てずっぽうに撃ちまくる。で、スイカにはかすり傷すらつかない。」

—アフガン部隊に配属されたカンザス州兵
「銃撃が始まると、アフガン兵は飛び出して敵の銃火を目指して走り出す。そこには敵が構えており、来るのを待っているのだから狂っている。ずっと撃ち続け叫びながら敵を目指して山の斜面を駆け上がる。体は小さいが勇敢な男たちだ。しかし、そんな戦法は我々のやりたいビジネスではない。」

—軍用車両教習官を勤めたウィスコンシン州兵
「フルスロットルかフルブレーキ、とにかくそのどちらか。何かにぶつけても自分の責任だとは思わない。こう考えているんだ、『教官が新しいのを調達するだろう、これは壊れたんだから』とね。」

—戦略計画を担当する米少佐/アフガン兵に「米軍撤退後も軍隊に残るか?」と質問すると
「大多数が、私が話を聞いたほぼ全員が、『いいえ』と答えた。元に戻ってケシかマリファナか何かを育てるんだろう、そこに金があるんだから。これを聞いて私は堂々巡りに放り込まれた。」

警察組織の状況はさらに大変。

—アフガン警察と共働した米国家警備隊委員
「腐敗はひどい。もし家に強盗が入ったとしよう。警察に電話をする…すると警察が現れる。そしてその警察が2度目の強盗になる。」

2012年9月には、ザブール州内の戦地でターリバーンの動向を探っていた米兵がアフガン警察の裏切りにあって銃撃され、4名が死亡、2名が負傷する事件が起きた。

—負傷した米特殊技能兵の一人
「我々は奴らならやりかねないと思っていた。奴らの姿を見るたびに考えていた、『おまえたちいつか俺を殺すだろ』と。」

—元米国務省高官
「軍隊をあれほど短期間であれほど上手に構築できると考えるなど正気ではない。また18か月という期間では、米国内で持続可能な地方警察の一支部を立ち上げることすらできないだろう。同じ期間内に、アフガニスタンでそれを何百も作り上げるなんて、どうすれば期待できるんだ?」

なんだか愚直でくそ勇敢な軍人と、かなりあくどそうな警察官。ターリバーンが舞い戻った今それぞれどんな新年を迎えたのか。今年もアフガニスタンから目が離せない。

 

 

==========<野口壽一>==========(2022年1月10日)

オミクロン株コロナの急拡大が始まったと大騒ぎ。でも驚いてはいけない。なんせこれは終わりの始まり。極めて強い感染力なんて言って脅かしてるけど、そのほとんどは無症状で死亡者もほとんどいない。ウイルスは弱毒化して少しでも多くにとりついたものが生き残る。これ、感染症の真理。
100年前、PCRもワクチンもなく、ウイルスのなんたるかもよくわかっていなかったスペイン風邪も3年で終息。Covid-19はこれまでのウイルスとは違うというけれど、違うのは、病気診断ではなくウイルス検査にPCR法を大々的かつ全世界的に採用し、極端なワクチン偏重策をとったこと。重ねてこれまた偏執狂的な隔離やロックダウン策をとったこと。そんな認識や対策への「科学的」な考察や研究なしに重大な政策を繰り出し、結果として為政者には好都合な国民強制監視体制が出来上がりました。まさにコロナ対策に名をかりたジョージ・オーウェル的世界の実現。そしてこれはコロナが終わっても、たぶん日本では、マスクや手指消毒やワクチン、ソシアルディスタンスなどが、デフォルト社会体制として残るのでしょう。
なぜ今回のコロナパンデミックが起こったのか。それは人災ではなかったのか。コロナウイルスそのものの実態解明、検査法から対処法、病理・薬学・疫学研究の妥当性などなど、政府・行政・既得権益者を排除した研究の必要性を痛感します

 

 

==========<金子 明>==========(12月26日)

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第7弾。

今回は2003年春のイラク戦争とその後の混乱が米国のアフガン政策にもたらした影響について。

去る12月9日、米国防総省は過激派組織イスラム国掃討のためにイラクに駐留していた米軍がついにその戦闘任務を終了したと発表した。2003年春のイラク戦争とその後の混乱をやっとのことでひとまず終わらせたことになるが、この戦争が米国のアフガニスタン政策にもたらした影響は何か?今回も「アフガニスタン・ペーパーズ」を紐解き、関係者の証言を確認しよう:

ハーミド・カルザイ大統領(2003年5月1日、イラク戦争が終った日、カーブルでの記者発表にラムズフェルド米国防長官とともに出席して)
「君らみんなイラクにいってしまったと思ったよ。まだいたのか。よし。つまり世界はアフガニスタンに関心があるんだな。」

2003年夏に参謀としてアフガニスタンに着任した米軍大佐
「われわれが忘れられたというのではないが、明らかに人々の目は多くがイラクへと向けられた。」

イラク戦争当時ホワイトハウスとペンタゴンで働いていた職員
「物量的にも、政治的にも、すべてはイラクへと傾いて見えた。自分の役割すべてが二軍的なもの、最悪は“兵力節約部隊”の任務だという現実を受け入れるのはつらい。君の仕事は勝つことではなく、負けないことだと言われる。情緒的にも心理的にも、これはつらい。」

2003年8月アフガニスタンに着任した米陸軍大将
「陸軍が送ってよこした人の中に将来大将にまで出世しそうな人はいなかった。穏やかにいうと、陸軍は協力的ではなかった。彼らの頭は明らかにイラク漬けで、われわれに提供するものは本当に最低限の援助、それだけだった。よりによってパイプラインのどん詰まりにいるような人を送ってよこすんだ。」

イラク戦争当時アフガニスタンに送られた参謀たちの自虐ネタ
「ここは米国退職者協会の世界的最前線支部だからな。」

ブッシュとオバマの両政権で戦争指導者としてホワイトハウスに勤めた陸軍中将
「ターリバーンが弱体化し統制を失っていたときにうまくやれば、状況は変わっていたかもしれない。しかしわれわれはイラクへ行った。上手により迅速に金を使えば、結果は変わっていただろう。」

2003年10月、ビン=ラーディンからのビデオメッセージ
「アメリカ人たちはティグリスとユーフラテスの泥沼にはまった。」

2003年10月、ラムズフェルド雪片(メモ書き)
「われわれは地球的規模の対テロ戦争に勝つのか、負けるのか?有志連合はアフガニスタンでもイラクでも、何らかの方法で勝てるだろう。だが長くて大変なゴチャゴチャが続くぞ。」

アフガン兵を訓練した米軍曹
「2003年にイラクへ配属されるはずだったが、出発直前に変更命令が出てアフガニスタンに飛び、国軍の訓練を始めた。田舎に行って『さて何をしようか?』って。あの痛みは半端なかったな。」

野戦砲士官として駐留したテネシー州兵
「出発前に国内で講義を受けた。講師がパワーポイントを開いてこう始めた、『では諸君、イラクに行くとだな。』そこで俺は『別の戦争に行くのですが、』と言った。すると講師はこう答えた、『ああ。イラクとアフガニスタンね。同じだよ、』とね。」

ロナルド・ニューマン在アフガニスタン米国大使(任期2005年~2007年)
「アフガン政府への追加援助として6億ドルを要求したがブッシュ政権が用意したのは4300万ドルだった。『イラクで使うので君には渡せないよ、』とは誰も言わなかったが、実質起こったことはその通りだった。」

ラムズフェルドの後を継いだゲーツ国防長官(任期2006年~2011年)
「当時の優先項目は3つあった。イラク、イラク、そしてイラクだ。」
平和を求める戦争を仕掛けられ、その挙げ句に殺されたフセインさんはお気の毒だったとしか言いようがないが、イラク戦争がアフガニスタンにも暗い影を落としたことは上の証言からも明かだ。最後に長くアフガニスタン問題に関わったジェームズ・ドビンズ外交官のインタビューを引用する:
「わかるだろ。まずルールその一。一度に一つの国に侵攻せよ。クリントン時代を見ると、まずソマリアから撤退してハイチへ。ハイチを終わらせてバルカンへ。ボスニアを安定させてからコソボへと向かったんだ。一か国ずつでも時間と注意はハイレベルで注ぐ。それを一度に2か国も展開すれば機能不全に陥るのは必然だ。」

2003年夏に「すべてがアンダーコントロール」と大見得を切ったブッシュに対し、この言葉は重い。

 

==========<野口壽一>==========(12月26日)

バイデン大統領が主唱して「民主主義サミット」が開かれた。あわせて人権擁護のための共同行動として「北京冬季オリパラ・外交ボイコット」も呼びかけられた。だが世界の反応はいまいち迫力が感じられない。しかも、民主主義そのものの定義に関して中国から「民主主義にもいろいろあらーな」的な反論をされて腰砕け。〝な~んでだろ〟と考えてみると、結構あたりまえなんじゃないか。

そもそもいろんな団体がいろんな観点から(といってもほとんどは欧米の価値観なのだが)「民主主義ランキング」なるものが発表されている。英エコノミスト調査の民主主義度ではアメリカは24位で「欠陥がある民主主義」。ほとんどの国が欠陥民主主義以下か非民主主義国。大統領選挙で負けた候補が選挙結果無視のクーデターまがいの行動に走ったり、人種差別や移民の人権迫害などが日常化しているアメリカにはいわれたくないと内心思っている国が多いんじゃないか。

人権擁護の点でも国連決議を無視して違法な武力行使で領土を増やしたりパレスチナ人への武力や暴力を使った迫害を70年以上もつづけているイスラエルを物心両面で支えているアメリカが新疆ウイグル人のために人権擁護を叫んでも、二枚舌三枚舌の下心がミエミエ

「民主主義」にかんしても「民主主義は最悪」というチャーチルの有名な言葉は実は「民主主義は現状では最善」との逆説にすぎず、マルクスやレーニンの系譜をひく革命思想においてもマルクスのコミューン三原則を引くまでもなく民主主義は理想化されている。資本主義のブルジョワ独裁を隠すイチジクの葉にすぎない民主主義の対抗概念として「プロレタリア民主独裁」という言葉が生まれたり、党運営においても「民主集中制」など言う言葉さえ生まれてきたのである。北朝鮮の国名は「朝鮮民主主義人民共和国」である。アフガニスタンのPDPAも「アフガニスタン人民民主党」であった。

そもそも民主主義という概念は国民を支配するためのシステムを合理化するための思想にすぎず理想の政治形態ではない。そもそも政治や国家などないほうが人間にとってはいいのだがそのような社会は古代国家成立後いまだに存在していないし矛盾と欠陥に満ちた民主主義に変わるシステムを人間は「発明」していない。そもそも人が人を強権で支配するシステムの不要な社会こそが理想とされるべきなのだろうが、いまだ空想の領域。

だから、「民主主義」だとか「社会主義」だとか「〇〇主義」だと「〇〇教」だとかの抽象概念を振り回すのでなく、起きている事象(殺人だとか戦争だとか干ばつだとか飢餓だとか貧困だとか疫病だとか拉致だとか、その他もろもろの不幸そのもの)を直接阻止したり解消したりする努力をこそすべきだろう。そうすれば下心を隠す必要もなく、二枚舌三枚舌にだまされることも少なくなるじゃないだろうか。

 

==========<金子 明>==========(12月09日)

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第6弾。
今回はアフガニスタン・ペーパーズ第5章「さいなむ汚職」後半より抜粋について。

2010年夏のある日 、シャーカーン・ファヌードという名の国際的ポーカープレーヤーがカーブルにある米国大使館ビルを内密に訪れた。当時彼の肩書きはカーブル銀行会長、6年前43歳にして銀行業の砂漠地帯と言われたアフガニスタンで、決まった得意先もないままカーブル銀行を立ち上げ、瞬く間に国内最大の市中銀行に育て上げた稀代のギャンブラーだ。

成功の理由は 卓越したマーケティング戦略にあった。彼は預金者に利子ではなくクジをばらまいた。預金額100ドルごとに一度のクジ引き権を与え、賞品は洗濯機から自動車、新築マンションまでと預金者の射幸心を煽った。月に一度開かれる抽選会は国中で評判となり、アフガニスタン全土に支店が広がった。

ファヌードは銀行王となり 、ドバイで不動産投資に着手、アフガンのエアラインも買収し、ベガス、ロンドン、マカオなど世界のカジノの顔となった。「私のしていることは上品ではないし、本来やるべきことでもない。だがこれがアフガニスタンだ、」と以前ワシントンポスト紙の記者に自慢していた。

しかし2010年の7月彼が米国大使館に現れたとき 、その手にはカーブル銀行が崩壊寸前のカードの館だと暴露する秘密書類があった。ファヌードを含む数人の銀行株主がクジ狂いの顧客の預金を吸い出し数億ドルも自らに不正投資したことの証拠書類だ。金の多くは消え去り銀行は沈没の危機に瀕していた。組織内の権力闘争に敗北した彼は仕返しに全ての銀行業務を停止させようと米国外交官に申し出たのだ。

アフガンの財政を揺るがし、民衆蜂起を誘発しかねない金融スキャンダル だった。加えてカーブル銀行は政府の給与支払い銀行で25万もの兵士、警官、公務員が預金をしていた。その多くは座して預金を失う運命だった。また、カルザイ大統領の兄マームードは銀行の第3株主だったし、タジク人軍閥のモハメド・ファヒム・カーン将軍も大株主でカルザイを支えて副大統領を務めていた。

ファヌードは自分と共謀して銀行の資産を盗んだのはこの2人 だと非難した。その上、銀行がカルザイ大統領に選挙資金として2千万ドルを与えたとも訴えた。米国財務省のある高官は学んだ教訓インタビューで匿名を条件にこう語っている、「この腐敗を1点から10点までで採点するなら、堂々の20点だ。カーブル銀行の経営陣と国政を担っていた連中の関係は多岐にわたり、スパイ小説をまるごと一冊書けるほどの要素がぎっしりだ。」

以来数週間でファヌードを含む主な経営陣は辞職 し、支払い能力を疑問視する報道に驚いた数万の預金者が引き出しを求めて各地の支店に殺到した。カルザイ大統領は記者会見して、中央銀行が運営に乗り出して預金を保証すると発表し、収拾に努めた。ただし舞台裏は大変で、ドイツの銀行に頼みこんでフランクフルトから急遽3億ドルを空輸してもらい当座の危機を乗り越えた。

この事態は当然オバマ政権も無視できず 、カルザイにスキャンダルの徹底究明を促した。この出来事がアフガニスタンにおける一連の反汚職キャンペーン、ひいては戦争自体の分岐点だったと見る米国政府関係者は多い。ある匿名の政府高官は学んだ教訓インタビューでこう語った、「やりたいことは100万もあった。だが実行するには効率的なパートナーとしてカルザイ政権に頼らざるをえなかった。こんなスキャンダルが続けば、他の試みもみな同じ轍を踏むんじゃないか?みんな怒って嫌気がさした。これはいただけないと。」

とは言え米国も非難できる立場ではない 。兆しはあったのだ。前年9月の時点で米国大使館は国務省に電文を打っている、「ファヌードが所有する航空会社の便で大量の現金がドバイへ持ち出されている」と。その頃には諜報機関もカーブル銀行内で不正が行なわれているのを察知していたと学んだ教訓インタビューで語った匿名の米国政府高官もいる。「銀行からターリバーンや他の反乱分子に資金が流れているのをわが国の諜報部員がつきとめ、アフガンのいくつかの諜報組織に伝達した。だがそこから警察に話が進まなかった。彼らにそこまでの権限はないからね。」

ファヌードが大使館に現れる5か月も前 に、ポスト紙はカーブル銀行の危険な状況を記事にして、その中でファヌードもインタビューに答えている。アフガニスタン中央銀行のフィトラート総裁はそれを読んでショックを受け、米国財務省にカーブル銀行の調査を依頼した。カルザイがその着手の許可を出し渋るなど、一悶着の挙げ句、夏には調査が始まった。財務省の調査員はカーブルに着任し、3年もアフガニスタン中央銀行のもとで働いている米職員に面会し話し合った。テーマはもちろんカーブル銀行だ。2人ともまさか失墜直前だとは思いもしていない。その調査員は学んだ教訓インタビューでこう述べている、「一時間も話し合ったよ。こう聞いたんだ『財政的に健全な銀行かい?』と。彼は『はい』と答えた。で、文字通りその30日後にカードの館は全壊したんだ。私の職歴を通して最大のミスの一つだ。つぶれた10億ドルの銀行に対して、わが国が派遣したアドバイザーが財政的に健全だと太鼓判をおしたんだぞ。」

その後は中央銀行が業務を引き継いだが、 打ち合わせの席は皿や椅子を投げつけ合うなど混乱を極めた。翌2011年4月にやっと焦げ付き総額は10億ドルと発表された。フィトラート総裁は預金を食い物にしたカーブル銀行の株主の資産を凍結することを発表したが、政治的にも有力な株主たちは猛反発し、逆に総裁が米国に亡命した。当時を彼はこう回顧している、「アフガニスタンはマフィアが操る政治家グループの人質だった。彼らは国民の生活を改善するために集められた貴重な国際援助を盗み取ったのだ。」

悪党たちが処罰されたのは大統領がガニーに代わった2014年 だった。裁判が開かれ、ファヌードと共に銀行の代表だった重役には15年の刑が言い渡された。しかし、拘禁条件は軽く、なんと毎日刑務所を出て大規模な不動産取引の現場に出かけることが許されているという。他にも9人が罰金刑か1年以内で出所するなど大スキャンダルのわりに犯人の処分は甘い。ただ一人何の後ろ盾もないポーカープレーヤーのみが言い渡された通り15年の刑に服していた。しかし4年後、ファヌードは刑務所内で死を迎えた。享年55。アフガニスタンの混乱を象徴する男だった。

 

==========<野口壽一>==========(12月09日)

ターリバーンが復権して3カ月がすぎました。「視点」で批判しましたが、さすがにムッラー・ナカタほど全面肯定、全面賛美する人は少ないとはいえ、「ターリバーンって本当に悪いの?」とか「ムジャヒディーンや軍閥だって同じようなことをしたでしょ?」とか、マスコミでもいろいろ取りざたされています。

一言でいいます。悪いんです。

軍閥やムジャヒディーンや私が支援したPDPAだって、ソ連だってアメリカだって悪いところはたくさんあります。いまだに反省していなければそれらもみーんな〝悪〟です。
ターリバーンが悪いのは、過去の〝悪〟を反省をせず今でも政策として掲げ、受容を拒否する人に暴力・武力で強制し、従わなければ有無を言わさず終極的には殺してさらす(さらして殺す)から〝極悪の悪〟なんです。PDPAやソ連やアメリカは、その時のアフガンのあり様から一歩も二歩も〝未来の善〟を現実に持ってきて強制したから失敗したのです。善を掲げて武力で強制した行為は間違いであり〝悪〟です。しかしそれらはいまは反省されています(少なくとも表面的には)。
ターリバーンもアメリカと有志連合にその座を追われた第一期の失敗を反省しているようなそぶりを見せています。しかしそれは素振りだけ。本質は全然変わっていないし、むしろ悪賢くなっただけです。

今号に掲載したファテー・サミ氏の「米国アフガン占領20年の失敗―その原因<5> 」や「トピックス」で外電も明らかにしているようにさまざまな非道が現に今なされており、多数の命が理不尽に奪われているのです。とくに小生が強調したいのが、秦の始皇帝がやった焚書坑儒の現代版が繰り返されていることです。ぜひ、ファテー・サミ氏の告発をお読みください。

また、この同じヘラートでの暴挙を、長倉洋海さんが自身のブログ「アフガン情勢に関するメッセージ」で現地からの情報を引用しながら告発しています。また、もっとも現地でターリバーンと果敢に闘う女性たちを支援する「RAWAと連帯する会」が提供する情報も必見です。

 

 

==========<金子 明>==========(11月29日)

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第5弾。
今回はばらまきについて。

民主国家をこしらえるという旗印のもと米国がアフガニスタンでいかにすさまじい“ばらまき”をしたか。「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)から証言をいくつか紹介する。

—米国国際開発庁の元役人(オバマ政権下での援助額の急激な上昇について)
「あの急上昇のころは、人も金も大量にアフガニスタンに送られた。たったひとつの漏斗に水をいっぱい注いだようなものさ。あまり急いで注ぐと漏斗からあふれた水が地面にこぼれるだろ。われわれのせいで地面はまさに洪水だった。」

—米国国際開発庁の別の役人
「費やした9割は無駄だったと思う。われわれには客観性が欠けていた。金を与えられて、使えと言われ、その通りにした。理由も無く。」

—現地の援助請負業者
「おおまか米国の郡くらいの大きさの一地域に毎日おおまか300万ドルをばらまくよう役人たちに言われた。アメリカの議員が視察に来たので聞いてみた。『おたくの国では立法者が責任をもってこれほどの金を使えるか』と。かれは断じてないと答えた。そこでこう言ってやった、『いいですか、だんな。そんな大金をわれわれに使い切れと迫っているのがあなたたちだ。だから使っている、窓もない土くれでできた小屋に住まう社会のためにね。』」

—ダグラス・ルート中将(オバマ政権下の戦争政策指揮官)
「ダムや高速道路をつくるのに気前よく金を払ったのは、ただ払えるのを見せたいがためだった。世界最貧国の一つで教育水準も最低レベルにあるアフガン人ができあがった巨大施設を維持できないことも十分に知っていた。まあ、たまの無駄遣いもいいだろう。われわれは富める国だ。穴ぼこに金を捨てても銀行はへっちゃらだ。だが、それはやるべきことか?もっと理性的でいることが大事じゃないのか?あるとき米軍がひどい僻地の州警察本部ビルを建設した。正面とロビーはガラス貼りだった。だが完成セレモニーでリボンを切った警察署長はドアさえ開けられなかった。アメリカ人が現地に相談せずに設計したのは明白だ。署長はそんな取っ手を見たことがなかったんだ。この出来事は私にとってアフガニスタンでの全体験の縮図である。」

—特殊部隊のアドバイザー
「われわれは誰も通わない学校の隣に新たに学校を建てていた。何の意味もないよね。地元民は学校など本当は欲しくないとはっきり言っていた。子供たちには外で羊の群れを世話して欲しいんだと。」

—米国職員
「まず安定した地域でプロジェクトを成功させ、他を羨ましがらせないのか? これまで私がつきあった国民の中でもアフガン人は最も嫉妬深い部類に属する。でもわれわれはその国民性を利用もてこ入れもしなかった。その逆で、子供が危険すぎて家を出られないような地域にまず学校を建てたんだ。」

—カンダハル州知事(2008年から2015年在任)
「アメリカ人が推し進めようとした手洗いキャンペーンは国民への侮辱だった。ここでは祈りのため人々は一日五回も手洗いしているのだから。そんなものより、仕事と技術を身につけさせるプロジェクトが必要だ。」

—カナダ軍へのアドバイザーを務めた海軍大学院教授
「カンダハル州で仕事を提供しようと月90から100ドルで村人を雇い農業水路を整備させた。すると月60から80ドルの給料しかもらえない教員たちが仕事を辞めて水路掘りにいそしんだ。」

—米軍将校
「アフガニスタンの東部で50も学校を建て公教育を改善しようとした熱心な陸軍旅団があった。しかしターリバーンを助けることになってしまった。教員が足りなくて、校舎は見捨てられ、爆弾製造工場に落ちぶれたのさ。」

政治家の人気とりには手っ取り早い“ばらまき”であるが、ここまで来るとほとんど破壊工作のレベルである。アフガニスタンで20年にわたってこうした事態が繰り広げられていたのなら、いま国家を受け継いだターリバーンも苦労は絶えまい。外国の金や助けに頼らない国の自立、それがまず大事だろう。

 

 

==========<野口壽一>==========(11月29日)

今年はペルーがスペインから独立して200周年だそうです。それを記念する『ペルー映画祭』が始まったので初日に2作連続で観ました。「ペルーの叫び」と「クッキング・アップ・ドリームス」です。
「ペルーの叫び」は、36年ぶりにWカップ出場を果たしたペルーサッカーの努力と奮闘を、ペルーという国のありようと重ねて描いたドキュメント。ありきたりのスポ魂物語ではなく、ペルーという国の成り立ち、貧富の差、人種民族の差別、植民地の悲劇、現実を深く掘り下げて、ペルー人とはなにか、ペルーという国はいかにあるべきかを追求した超一級の作品でした。さらに上映後の日系ペルー人仲村渠夏江氏のトークも考えさせる内容で、深く胸にささりました。自身と両親のペールでの生活と歴史を重ねて「貧困・格差・人種、ぐちゃぐちゃでなにも進歩がないペルー」「自己肯定感の低い国民」をシビアに明らかにしつつ「ペルー人としての恥」を感じてきた。それは自分だけでなくほとんどのペルー人が感じていることで、だからこそ映画の原題「アイデンティティ」にこめられた自己探索にふれ、ペルー人はペルー人としての一体感をもとめている、との話に、なぜペルー人がペルー人として唯一熱狂できるのがサッカーだけだったのか、と、日本タイトルが「ペルーの叫び」と変えられている理由に得心しました。日本人が忘れて久しい問題意識、アフガン人がいままさに闘い求めている課題がそこにありました。素晴らしい映画でした。
2本目の「クッキング・アップ・ドリームス」は本国のペルー料理の紹介とそれを世界に広げようとする人びとの努力を描いた映画。興味と食欲がそそられます。こちらのトークはボクシングインストラクターでマチュピチュ観光大使の青年・片山慈英士氏。世界一周旅行中にマチュピチュのふもとの村で7カ月間足止めを食らい、その間に閉鎖されていたマチュピチュに唯一の観光客として訪問できた幸運を、ペルーとの友好運動として恩返しするに至った体験と現在の活動を紹介。こちらも興味深いものでした。
ペルーは日系人大統領が誕生したり、日本大使公邸占拠事件があったりと移民の昔からゆかりの深い国。
11月27日から12月10日まで、新宿K’s cinemaで毎日3本上映。この機会をお見逃しなく。情報はここをクリック

 

 

==========<金子 明>==========(11月15日)

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers:A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第4弾。
今回は麻薬対策について。

2006年春、米国とアフガニスタンは共同して麻薬撲滅作戦を開始した。米国が資金を提供し、アフガン兵がケシ畑をトラクターと棒切れで破壊し始めたのだ。その成果はどうだったか。

—ジョン・ウォルタース麻薬問題担当長官(記者会見で)
「わが国がもたらした成果はものすごい。状況は毎日良くなっている。ヘルマンド州(訳注:南部に位置し麻薬栽培が国内でもっとも盛んな地域)が対アヘン戦争の中心地で、州内の農民も宗教指導者も役人も皆がこの撲滅作戦を支持している。」

—麻薬撲滅作戦でアフガン兵の顧問を務めたケンタッキー州兵中佐
「大成功だったと言われているが、ただの純粋な牛糞だね。作戦のどこにも何の値打ちもないよ。」

—米軍事顧問としてアフガン人部隊と行動を共にした少佐
「撲滅作戦は(有力者の畑には手をつけないなど)違法な作戦だった。国民の金を巻き上げる悪党どもに安全を提供しているのなら、われわれは国民に間違ったメッセージを伝えていることになる。いまにも反乱が起きるのではないかと心配で、作戦の終わる頃には髪が白くなったよ。本当さ。」

—駐留米軍副司令官の副官
「麻薬商人はケシの乾燥樹脂などどこからでも入手できるので、契約した農家の畑がつぶされてもただこう言うだけさ、『去年の冬に2千ドル渡したんだから、お前は俺に18キロ分の借りがある。なのに乾燥樹脂を渡せないというなら、お前か女房か子供たちを殺すぞ。ただ、もう一つ手がある。この銃を取って俺がアメリカ人と戦うのを手伝え』と。われわれのせいで全住民が敵に回った。ヘルマンド州は爆発したのさ。」

—ロナルド・ニューマン駐アフガニスタン大使(本国への電文で)
「撲滅作戦の結果、より多くのターリバーンがヘルマンド州で戦おうと集まってきた。おそらく自らの財政基盤を維持するためと、ケシの収穫を『守る』ことで地元民たちの支持を得るために。」

—ケンタッキー州兵
「麻薬撲滅作戦でわれわれを引き継いだ英軍は、わずか1週間で戦死者、戦傷者ともに数がはねあがった。麻薬王が加勢し、ターリバーンが加勢し、ほんとうに大変になった。」

—アフガニスタンの麻薬対策状況を視察した米下院議員(本国への機密電文で)
「ケシ畑は本当にどこにでもある。何百もの大きなケシ畑がヘリコプターから確認でき、生育の各段階にあった。満開の畑も多かった。」

—米国務省の南アジア対策を監督した上級外交官
「軍隊には同情します。防弾ジャケットを着てケシをみかけたら、わたしも『ああきれいな花だな』と言うだけだろう。花を刈るために戦地に来たのではない。なのに、花を刈ると農民が敵になりどこかから撃ってくる。」

—米麻薬取締局幹部
「対テロリストの場合なら政府に楯突く首領を殺せばいい。だが、アフガニスタンの麻薬ネットワークと戦うときは、首領を殺せない。そいつが政府のシステム内で囲われているから。」

—麻薬撲滅作戦の調整役を務めた米軍中佐
「こう尋ねる村人は結構いた、『中佐、あんたの国の人たちが欲しがり使っているものを、なんで撲滅するんだい?』とね。そこを彼らは理解できなかった。」

<金子>
アフガニスタンで育ったケシからとれた麻薬はそのほとんどが西側諸国で消費されているという。売る方も悪いが、買う方も悪いと言える。また30年という長期の戦争で耕地は荒れ、地雷もたくさん埋められている。ケシを育てて生き延びようとする農民を、簡単には非難できまい。

紹介している「アフガニスタン・ペーパーズ」の証言は、その多くが米国のアフガニスタン復興担当特別監察官による当事者へのインタビュー からなる。「学んだ教訓/Lessons Learned」というありがたい名称のプロジェクトだ。その中身を法廷闘争の末に著者が入手して公開した。先のロナルド・ニューマン大使は、後にそのインタビューに答えてこう語っている。

短期間で結果を出せという死に物狂いの圧力があった。国会が目に見える成果を欲しがったんだ。、農村全体を発展させようとする努力によってのみ麻薬対策が成功し機能することをワシントンは理解しなかった。

この教訓から学ぶものは大きい。

 

==========<野口壽一>==========(11月15日)

ガニー政権下で国家和解高等評議会議長を務めていたアブドラ・アブドラ氏。報道によれば元大統領のカルザイ氏とともにカーブルに残ってターリバーンとの交渉に当たっている、とのこと彼のツイッターをみると、11月8日にカーブルに駐在しているパキスタン大使と会って「アフガンの現状および今後の永続的な平和と安定を促進する方法を検討した」という。結構な邸宅にお住いのようで翌日は、同じ応接間で国連アフガニスタン支援ミッションの副代表とお会いになっているようだ。カルザイ氏も同様にカーブルに残り、アブドラ氏と連動して行動している。
1996年の第1次ターリバーンカーブル開城の時にはナジブラー元大統領と弟らを惨殺し死体を凌辱のうえ広場につるすという残虐行為を行い(パシュトゥーンの伝統的懲罰法)、世界のヒンシュクをかったので、今回はその旧政権の二人を丁重に扱っているようだ。ターリバーンは格段に成長している。われわれ『ウエッブ・アフガン』のみたてによれば、そもそもガニー政権とターリバーンは一体=メダルの裏表で裏はアメリカが仕切っている(かなり下手を打ってるけど)。
ターリバーンの宿題は、広範な国民を包摂し支持される政権となること。明治維新では徳川政権の責任は東北列藩同盟にとらせて徳川時代の遺産をごっそり薩長がいただいた。ターリバーンも、ガニーには金をわたして逃がし(薩長も徳川慶喜を殺さなかった)、西側が築いた20年のインフラと人材を頂戴しようと考えているようだ。
果たして、ターリバーンはアブドラ氏らを使って日本のようにうまいことやれるだろうか。アフガニスタンの民衆レベルでは、ターリバーンよりもカルザイ・ガニ政権の評判は悪いんだけど、大丈夫?

 

 

==========<金子 明>==========

「アフガニスタン・ペーパーズ」(The Afghanistan Papers: A Secret History of the War / Craig Whitlock / The Washington Post)からの証言紹介、第3弾。先週日本でも総選挙があったので、今回のテーマは選挙。みんな投票したかい?誰も言わんが、投票するにはハガキも身分証明書もいらない、ただ住所と氏名を告げればOK! そんな当然の権利に関する情報が国民に知らされていない。効率優先国家日本の問題はそこなんだよね。では、行こう:

—ラムズフェルド国防長官(記者会見で)
「アフガニスタンでは選挙などうまく行かないと皆が言った。『500年やったことがない。ターリバーンが立て直している。戻ってきてみんな殺すぞ。そしてわれわれは泥沼にはまる』とね。だが見て驚け。アフガニスタンで選挙だぞ。すごいだろ。

—東部ガズニ州に6か月駐留した大佐(1990年代バルカン戦争のベテラン)
「ボスニアとコソボでは、まず地域の選挙から始めて州選挙、国政選挙へと段階的に進めた。しかしアフガニスタンでやったことは全く逆だった。国民にまず大統領を選挙させた。そしてここらの人々はほとんどが投票の意味さえ知らなかった。そう、指に紫のインクを塗っていたよ。田舎の環境ではとても難しい試みだったと思うね。そう言えば、パトロールに出た部隊が尋ねられたことがあったな、『ロシア人が戻って来て何やってんだ?』とね。ここらの人々は米軍がいることすら知らなかったんだ。駐留して2、3年はたっていたのに。

—ゲイツ国防長官
「カルザイが軍閥と取引して選挙で詐欺を働いたのには訳がある。前回の選挙のようにわれわれが彼を支持しなかったので、彼はわれわれが自分から離れてしまったと気づいた んだ。そこでわれわれに基本的には『くたばってしまえ』と言ったんだ。」

—ノルウェーの外交官
(NATO国防相会議での発言前、隣席のゲイツにこっそりと)
「今から大臣たちにアフガンの選挙で露骨な干渉があったと伝える。ただそれが米国とホルブルック (訳注:オバマ政権下のアフガニスタン・パキスタン問題担当特使)の仕業だとは言わないよ 。」

—カルザイ大統領(2010年4月の演説)
「詐欺まみれの選挙となったのは私を陥れようとする外国人のせいだ。部外者が私への圧力を止めないなら、ターリバーンに加わることも辞さない 。」

 

アフガニスタンの女性国会議員ファウジア・クーフィ氏(バダフシャーン州選出)による自伝「お気に入りの娘」も面白い。彼女は投票所で誰々に入れろと指図している担当官を非難したり、反対派が捨てた自分宛の300票を見つけ出すなど、すったもんだの挙げ句当選した。アフガニスタンの国政選挙では各州で少なくとも2名の女性議員が選ばれるという割り当て制が採用されており、1800票でも当選だった。しかし彼女は8000票を集め、割り当てがなくても当選だったと自慢している。割り当て制について、女性の進出のためには良いことだと認めつつ、彼女は心配している。「そのせいで私たち女性議員が真剣に受け止めてもらえないかも。平等な場で人々の票を獲得したい」と

話は変わるが、戦前の英国映画はハリウッド製の米国映画には、人気実力ともはるかに及ばなかった。そこで国内の映画産業を守ろうとした政府は割り当て制を導入した。つまりある本数の映画を国内で作った会社だけが米国映画を輸入できると決めたのだ。その結果「クイッキー」と呼ばれる駄作群があたま数あわせのために乱造され、かえって英国映画の質を落としたという。

日本でも女性の政界進出を促すため割り当て制の導入が必要だ、他の先進国並みに、との声がある。政界のみならずすべての分野で女性の進出には大賛成だが、付け焼き刃的な対策はいかがなものかと考えさせられる逸話である。

(2021年11月8日)

 

==========<野口壽一>==========

精力的にアフガン情報を発信している長倉洋海さんのブログページで興味深い記事を拝見しました。
ターリバーンの州知事の1人が、フランス人ジャーナリストに「アフガニスタンはどこかわかりますか」と問われ、机の上にあった地球儀を手に取ったが、どこかわからない。「ココですよ」と指さされ、「あっ、このグリーンのところがそうだね」と答える動画です。【動画はここ】
この州知事は若い。40歳くらいかもしれません。ソ連軍の侵攻から40年以上たっているわけですか₉難民暮らしで満足な学校教育を受けたことがないのかもしれません。神学校(マドラサ)と言ってもモスクの片隅で床にあぐらをかいて体を揺らしながら熱心にコーランを暗唱している映像を見ます。コーランのみの授業しか受けたことがなく成人したのは自動小銃を抱えた戦場だったのかもしれません。悪評高いターリバーンですが、曲がりなりにも米欧軍を追い出し自分たちの世界を取り戻しつつあります。世の中はネット社会。いまは世界のどんな田舎でもネットで世界とつながっています。貪欲に外の世界の情報を吸収して自分たちの生活に生かしてほしいと願います。

(2021年11月9日)

 

==========<金子 明>==========

前回紹介した本「アフガニスタン・ペーパーズ」には面白い証言が満載なので引き続きいくつか。今回は米国がアフガニスタンで樹立を図った政権がいかに国の実情にそぐわなかったかを証言によって探ってみる。

EUの役人
「あとから見れば、中央集権を目指したのが最悪の判断だった。」

ドイツの高官
「ターリバーンが落ちたあと、われわれはすぐに大統領が必要だと考えたが、それは間違いだった。」

米国高官
「アメリカ型の大統領制など海外で決して通用しないのは知っての通りだ。なぜわれわれは中央集権政府を築き上げたのか、そんなものが一度もなかった場所で。」

米国の上級外交官
「強力な中央政府を築き上げるのに必要な時間枠は百年だ。われわれにそんな時間はなかった。」

米国務省主任報道官
「われわれは何をしているのかわからなかった。アフガニスタンが国としてうまく機能したのは、ある大物が出てきて種族と軍閥のごった煮をうまく料理したときだけ。しかも、お互いあんまり喧嘩するなよというレベルだ。それがわが国の州か何かのようになると思ったのがそもそもの間違い。おかげで2、3年で終わるはずがわれわれは15年も苦しんでいる。」

—ウルーズガン州駐留の大隊司令官
「まず、なぜ政府がいるのかを多くの人に証明しなければならなかった。みんな僻地の人だからね。いろんな場所があるだろうが、ともかくここでは中央政府が食わせてくれるわけじゃない。中央集権政府を持つメリットなど理解しないし見向きもしない。『羊と山羊と野菜をこの狭い土地で何百年も育ててきた。中央政府なんか持ったこともない。なぜいまさらそんなものがいるのかい?』とね。」

NATOカーブル本部に特派された米陸軍中佐
「彼らは家族や種族に対してとても長い忠誠の歴史を持っている。チャグチャラン(訳注:ヘラートの西380キロ、アフガン中部の町)の通りで座っている男にとっては、ハーミド・カルザイ大統領が何者かも、カーブルで政府を代表していることもまったく興味外だ。モンティ・パイソンの映画を思い出したよ。ほら王が泥まみれの農民のそばを馬で行くだろ。農民に向かってこう言った、『我は王だ。』すると農民は振り返って『王って何だ?』と返すやつ。」

ちなみにモンティ・パイソンの映画とは1975年公開の「モンティ・パイソンと聖杯」で、正しくはこんな会話が交わされる:
王「我はアーサー、ブリトンの王だ。あれは誰の城か?」
女「何の王だって?」
王「ブリトンだ。」
女「ブリトンって何よ?」
ところで、このアーサーは馬に乗っているのではない。後につく従者がココナッツをたたいて蹄の音を響かせ、ただパカランパカランとトロット走りをしているだけ。何とも辛辣なたとえではある。

どうやらこのタイプの政府を樹立したことそのものが間違いだったようで、それを認めるのは勝手だが、残された国民はたまったものじゃない。

(2021年11月1日)

 

==========<野口壽一>==========

衆院総選挙、驚きました。
大阪選挙区では自民全滅。公明党との合意のもと議席をゆずった4選挙区以外の15選挙区はすべて維新の勝ちです。いうならば維公全勝。ターリバーンのカーブル無血開城の時以上の驚きです。

マスメディアの評価は、まあ、可もなく不可もなし、というところでしょうか。
<毎日新聞>「勝者なしという民意」
<朝日新聞>「政権与党の〝勝ちすぎ〟を嫌ったものではあっても、政権交代を求めるものではなかった」
<日経新聞>「争点なき政治の危機」
<讀賣新聞>「与野党のどちらにも、〝追い風〟は吹かなかった」
<産経新聞>「安定勢力で成果を挙げよ 対中抑止に本腰を入れる時」

野党がだらしないというか、経済にしろコロナにしろ、安全保障にせよ、与野党の主張に大差なし(共産党を除く)の現状では、有権者としても燃えようがない。「候補者の人柄や主張をよく検討して必ず投票に行こう」とマスコミは言うが、現状の小選挙区制のもとではそんな選択はできない。日本の政治はとっくに政党政治に切り替わっているのだ。
そんななか、大阪小選挙区の結果には驚愕する。19小選挙区のうち維新が15、のこり4区は公明だ。しかも維新と公明はお互いに対立候補をださない協定を結んでいる。つまり、維公100%勝利である。自民全敗。小選挙区制の特徴をかくも見事に具現化した選挙結果を初めてみた。大方の批評では、コロナで顔と名前を売った吉村知事の功績と分析しているが、ひとたびポピュリズムの風が吹けば一夜にして天地がひっくり返るほどの変化に見舞われかねない脆弱な議会制度のもとにわが国はあるのだな、と実感した。
政治の劣化は言われて久しいが、官僚機構も大企業もそれに負けず劣らず劣化している。今の政治システムのままだと、ある日突然大激変ということがありうるのではないか。

(2021年11月1日)

 

==========<金子 明>==========

ターリバーンが旧政権を追い出して2か月になる。この間に当サイトにもいろいろな記事を上げてきたが、その中に「アフガニスタン・ペーパーズ(Afghanistan Papers)」を引用した記述があり、興味を持った。そこで、いい世の中になったなあと思いつつキンドルをクリックし即座に入手した。ワシントンポスト紙の記者が米政府を相手に裁判を起こし、勝訴。いくつかの極秘文書を公開させ、それをもとに書いた記事を書籍化したという。なるほど、米国では不都合な書類でも溶解したりはせず、また経口歴史というインタビューによる歴史記録が調査学問としてあるのかと感心した。いいとこどりではあろうが、うまく章立てされており解説文も楽しめた。紹介がてら少し引用すると:

国軍の兵士について/ブートキャンプの教官だった米軍少佐
「基礎訓練で脱落する者はいない。50回引き金が引ければ全部はずれでも  問題なし。弾の飛ぶ方向が正しければ良しとされた。」
アフガン警察について/警察を指導した米国家警備隊少佐
「問題があっても警察には行かないで村の長老に訴える。長老はそいつが気に入れば好きなようにしろと言い、気に入らなければ羊か山羊を持ってこないと撃ち殺すぞと脅す。」
カルザイ大統領について/国際麻薬法執行局アフガニスタン支部長
「麻薬対策をカルザイに強制するのは米大統領にミシシッピ川以西の米経済を全て停止せよと要請するのと同じ。それほどインパクトのある要請だ。」
ケシ栽培について/麻薬撲滅作戦の指南役を務めた米国家警備隊大佐
「ヘルマンド州の人たちは収入の9割をケシの売り上げに頼っている。それを取り上げるのがこの作戦だ。そう、もちろん彼らは武器を手にして撃ってくる。生計を奪ったのだから。食わせる家族がいるのに。」
汚職について/米国務省アドバイザー
「汚職はアフガンの問題でわれわれがそれを解決すると大方は思っている。しかし汚職には材料がいる。金だ。その金を持っていたのがわれわれだった。」
汚職について/在カーブル米大使館の高級外交官
「もちろん悲しくてうかつな話だが、われわれが成し遂げたことはただひとつ、汚職の大量生産だったのかも知れない。この失敗がわれわれの努力の終着点だ。」
腐敗選挙について/カーブルで勤務したドイツ人官吏
「人々はお互いに言ったものさ。だれだれが米大使館に行ってこの金額をもらったと。聞いたものは『よし、俺も行こう』と続いた。つまり彼らの民主主義とは最初から金にまみれた体験だった。」
「ターリバーンが橋を壊した。アメリカ人の役人は付け替えたい。1週間もしないうちに町の建設会社に新たな橋の建設を発注した。その社長の弟は地元ターリバーンのメンバーで、2人の事業は大盛況。知らぬはアメリカ人ばかりだった。」

米国が「やーめた」と放り出したあとアフガニスタンでこれから何が起こるのか。それを考える上で、この20年間に米国が果たした役割、その功罪について知っておくことは大切だろう。アフガニスタンに興味を持つものにとって必読の一冊である。

(2021年10月18日)

 

==========<野口壽一>==========

ターリバーンがカーブルに入城して2か月。編集部にはさまざまな情報が届くようになった。原理主義のターリバーンといえども、20年前そのままを実行するわけにいかないのだろう。

カーブル市内を巡回するターリバーンの一般兵は相変わらずに見えるが、スマホ手に自撮りをしている映像が流れてきたりする。そもそも大統領府にはいって大統領執務室からの映像も、20年前なら略奪されるか破壊されそうな絵画の前に陣取ってポーズを取ったりしている。拉致犯と称して殺害し市中にさらしたりつるし首のリンチをしたりしているのは相変わらずだ。しかも今回も、与しやすいと見たのか、女性隔離だけは多少の手直しをして厳格に実施している。しかし、女性の反撃はすさまじい。銃で脅しても効き目はなさそうだ。学校に行く権利ももちろんだが、生きていくための最低限の要求、仕事や食糧の確保に必死だからだ。

アフガニスタンの冬は厳しい。冬は戦闘も中止だった。今回は行政能力のない、しかも外国からの援助も途絶えたターリバーン統治のアフガニスタンだ。家があっても食料が乏しいのに、家のない国内避難民だけでも数十万人いるという。餓死、凍死の危険が迫っている。

そんななかでISによる爆破テロが増えてきている。内輪もめ、内部対立も厳しくなっているのだろう。悲惨なニュースを収集して危機感をあおるだけではだめだと思って、できるだけ未来のある情報を探っている。これまでは海外に避難しているアフガン人からの情報が多かったが、今回は、アメリカ初の女性解放運動『One Billion Rising』の活動を紹介することができた。趣旨、活動内容、規模のどれを取ってみても心強い運動だ。日本であまり知られていないのが意外だったが、世界では有名な運動だ。こんなところにも内向き日本の弊害がでているようだ。今後、この運動には注目していこうと思う。

(2021年10月18日)

 

==========<金子 明>==========

1994年春、館山行きの各駅停車でたまたま隣席だった老婦人と話をした。彼女は内房にあるとある宗教施設で開かれる「集まり」に行く途中だと言う。東京の東部にある町のタバコ屋の看板娘だったとのことで、確かに端正な顔立ちだった。

話しているうちに「ご主人はお元気ですか?」と聞くと、面白い返事がかえってきた。「ある日、消えたのです」と。彼女の夫は戦中モンゴルでラマ僧をしていた。日本のスパイである。市場などをうろつき人々の噂話を収集し軍部に報告していたらしい。帰国後彼女と結婚して家庭を築き、何不自由なく暮らしていたが、終戦から45年を過ぎて忽然と姿を消した。「モンゴルのうちに戻ったのでしょう」と語る彼女に夫を取り戻したいという思いはまったく見えず、かの地でもうひとつの家族と幸せな最後を迎えて欲しいと願っているようだった。いまとなっては彼の諜報活動の成果を評価する術はない。また莫大な量の情報が電話とインターネットを介して伝達される現代において、市場で交わされる人々の会話がどれほど諜報的意味を持つかは知らない。

ただそんな昔話を思い出したのは、アフガニスタンでは特に地方では未だにこうした原初的な情報がものを言うかもしれないと感じたからである。

このサイトはアフガニスタンに関するさまざまな情報をインタラクティブに提供しあう場である。
・米国が20年前に侵攻し滅ぼしたのがターリバーン政権で、いま米軍がきえターリバーンが再び政権につくのなら、この20年はいったい何だったのか?
それは誰もがいだく疑問だろう。米軍の撤退でいきなり火がついた報道合戦からは異なった視点で、この疑問へのこたえをさぐっていきたい。そのために、手元にとどいた質問をファテー・サミ氏らこのサイトの情報源にぶつけていく。
・6月に直接対談したガニーとバイデンだが、今になってその中身が漏れ聞こえてくることがあるか?
・各所でおきていた反ターリバーンの民衆蜂起は制圧されてしまったのか?
・パキスタンがターリバーンへの支援を真っ向から否定するのはなぜか、またパキスタン軍はどこまで関与しているのか?
・インドは現状をどう見て、今後どんな行動に出るのか?
・中国はターリバーン政権を認めそうだが、国内の対イスラム政策への影響は?
など。こうした質問へのこたえの中にアフガニスタンの現状を読み解き、将来の平和につながる手がかりが見えてくることを期待している。

(2021年9月2日)

 

==========<野口壽一>==========

9月1日のグランドオープンに向けた編集作業はアフガニスタン現地同様、激動の日々だった。
トピックスの編集のため海外メディアの報道をフォローするだけで日が暮れる。アフガニスタン問題を根底から理解するための書籍や日本の政府機関、研究機関の研究や提言のなかから、今必要なものをピックアップするだけで何日も過ぎてしまう。その間に見るのはアメリカ軍のもたもたした撤収模様。IS-Kの自爆攻撃。カーブル空港での混乱や自衛隊機の空輸作戦の失敗など、記録に残したくもない悲劇が繰り広げられる。(下の絵を描いたサラ・ラフマニさんはアフガン出身。カリフォルニア在住。詳しくはここをご覧ください。)
悲劇の舞台となったカーブル空港。僕らが何度も離着陸したことのある、あのカーブル空港。周囲を山に囲まれた狭い空港の滑走路に直進して着陸するにはその山をすれすれに飛ばなければならない。そうすると、アメリカがムジャヒディンに供与したスティンガーミサイルの格好の餌食となってしまう。だから、着陸も離陸も、空港上空でらせんを描きながら下降上昇し、加えて熱戦追尾式ミサイルであるスティンガーの追尾をくらますため、フレアを撒きらせん状に下降上昇する。ぐるぐる渦巻くフレアの炎と白い煙が空中芸術のように青空に映えた。
離陸する米軍輸送機にしがみついて振り落とされる人影の映像。カーブルに残るリスクより振り落とされて死ぬリスクの方が小さいと考える究極の行動判断。フレアを撒きながららせんを描いて上昇する航空機に乗って自分は帰ってきた。あのときのカーブル空港も戦場だったんだな。

もうひとつ。「アフガンの声」でFateh Sami氏が強調する、アフガン市民の戦う意欲。ガニー政権の指示でターリバーンに投降する国軍とは異なり、腐りきったシステムの下でも市民的権利と自由を築きつつあった人びとがいる。日本ではほとんど報道されないが、アフガニスタン国内にも国外にもたくさんのアフガン人が戦いに立ち上がろうとしている。その端緒を、8月28日の世界35カ国一斉行動に見た。今回はアムステルダムとロンドンしか紹介できなかったが、ネット上には難民として国外に出ざるを得なかった人びとが現地の心ある人びとと一緒に行動に立ち上がっている。確かに、ターリバーンの8月15日のカーブル占拠は、こんどこそアフガン人の手で中世の闇を終わらせるその始まりの日に違いない、と確信した。しかも、このふたつの都市の行動の先頭に立っているのは女性たちだ。日本アフガン合作記録映画『よみがえれカレーズ』の撮影に同行した時、監督の土本典昭さんが「その国の社会がどんなものか見るには女性や子供や老人や障がい者などをどうあつかっているか観察するのが一番だ」と繰り返されていたのを思い出す。今号のトップで紹介した詩「ガニーを逮捕せよ」の作者もヘラートの女性活動家だ。
アフガニスタンの女性たちは確実に新しい社会の扉をひらく強力な導き手だ。

(2021年9月1日)

 

=======<金子 明>=======

バーミヤンがあるくらいだから、大むかしは仏教がさかんだったんだろう。
立派な絨毯が有名みたいだけど、高いしうちには必要ないね。殺された中村哲さんは残念だったな。そういや、タリバーンのオマル師はどうなったの?アフガニスタンと聞いて思いつくのはそれくらいだった。しかし、このサイトを立ち上げた野口さんと最近であい、この国では数十年も内戦状態が続いていることを思い出した。なかは多民族でまとまりを欠いてぐちゃぐちゃ。そとはまわりや遠方のいろんな国からちょっかいをだされて大変。悲惨だなあ。日本は平和でよかったね、と通りすぎるのがおおかたの日本人だろう。
しかし、「最後の焼け跡派」を自称する自分にとって、戦争にはみすごせぬ魅力がある。ひいじいさんは、高砂の底のほうで機械をいじっていたため今も旅順港に沈んでいる。とうちゃんは、開拓義勇軍として張学良の兵舎を守っていたというが、戦後6年間もシベリアでおつとめ。帰宅時、見たこともない弟(わたしのおじ)がたまげて逃げ、「のきに乞食がおるがあ」と家人に訴えた。かあちゃんの小学校の先生は、生徒の胸に輝く万年筆をみつけて取り上げたが、爆発して片腕になった。その万年筆は米機が落とした仕掛け爆弾だった。
このたび、米軍が撤退するのにあわせて、戦闘も激しくなっている。たんに遠い国のはなしではない。アフガニスタンは隣国の隣国である。これまでの経験とひまな午前中と週末が、その和平にほんのちょっとでも貢献できればこれ以上のしあわせはない。

金子明 略歴 1958年愛媛県生まれ 元テレビの派遣ディレクター 担当した番組は「朝まで生テレビ」「知ってるつもり」「ステーションEYE」「どうぶつ奇想天外!」「見える歴史」「おはなしのくに」など 現在は放課後児童クラブの補助員

 

001

=======<野口壽一>=======

思えばいつの間にかアフガニスタンとの付き合いは41年を超えた。
1979年12月、ソ連軍がアフガニスタンに進駐。世界中が大騒ぎとなった。西側諸国はこぞって制裁をかけ翌年のモスクワオリンピックもボイコットしアフガニスタンへの正式取材もされなくなった。
そんななか、駐日アフガン大使と知り合い日本から最初の正式取材記者としてジャーナリストビザを獲得。1980年8月、タイ、インドを経由して42日間現地を取材した。帰国後、アフガニスタンでなにが起きているのか、スライドプロジェクターをかついで日本中で報告しまくった。翌年、写真記録『新生アフガニスタンへの旅』を上梓。さまざまな人びとと知り合いになり<アフガニスタンを知る会>をつくり、数年後<アフガニスタン友好協会>に発展させ友好連帯活動に走りまわった。その間、内戦が激しくなって中止するまで数年にわたって延べ100人以上を友好訪問団としてアフガニスタンへ派遣したり、鉛筆5万本やノート、古着など支援物資をコンテナ便で何度か送った。87年にはアフガニスタン政府からの要請をうけ新社会建設を支援するため貿易を主とする株式会社キャラバンを設立。88年から89年にかけては土本典昭監督の『よみがえれカレーズ』の制作に原案者としてかかわり、88年4月から同年10月までの半年間は、奈良で開かれた「なら・シルクロード博覧会」にアフガニスタンを代表してアフガン文物を出展販売した。1991年ソ連崩壊、92年アフガニスタン共和国崩壊により、アフガニスタンとの連絡が絶たれた。以後、北部同盟政権下で内戦はより激しくなり、タリバンが登場するにおよびますますアフガニスタン本国との関係は疎遠となり、亡命して各国に散った友人たちと連絡を取り合うだけの関係となった。2001年、9.11事件が起き、アフガニスタンは再び世界政治のホットスポットとなった。アメリカと有志連合がアフガニスタンに侵攻しタリバン政府を倒し、EUと日本など西側諸国が援助してアフガニスタンの平和と発展を支えることとなった。日本は経済や技術での支援を担当し東京会議が開かれた。2003年2月にはカルザイ大統領以下新政権のトップが東京に勢ぞろいした。このとき、新政権の支持を要請され、カルザイ大統領(写真中央。その左はアブドゥラー氏)との面会が設定され帝国ホテルで待つこと5時間、天皇や首相らとの会見で時間が取れなくなった大統領に代わりNo.2のアブドゥラー氏と面談することとなった。(写真下。アブドゥラー氏と名刺交換)駐日大使館も日米の支援で新規開設され豪華な館となった。アブドゥラー氏はマスード氏の盟友でありアメリカ主導の政権とはいえタリバン政権よりはましだと思ったが、自分がしゃしゃりでる幕ではないと判断し、新政権とは距離をおくこととした。アフガニスタンにおける革命、新社会の建設はいかにすれば可能なのか、研究活動に活動の軸足を移した。折から元駐日アフガニスタン大使でアフガニスタン共和国最後の副大統領としてマスード氏ら北部同盟への平和的な権力移行を実現したあと国外に亡命していたアブドゥル・ハミド・ムータット氏と文通・面談しながら研究を継続した。その間、ムータット氏は回想録の形で自らの経験を総括する文章を英文化し野口に託された。それを翻訳し2018年に日本語版を回想録『わが政府 かく崩壊せり』として出版した。
20年、ソ連の駐留のちょうど倍の年数、アメリカはアフガニスタンで戦争をつづけ、ついに勝利することなく完全撤退することとなった。日本はコロナとオリパラに目を奪われ、マスコミ的にはアフガニスタンは他人ごとの扱いだが、今年の秋以降、アフガニスタンでは戦争がおわらないどころか、三度目の国際政治の焦点となることは必定である。次に来る焦点化はこれまでと決定的に違うものになるかもしれない。それは、アフガニスタンで敗北したアメリカが、この問題を新疆ウイグル問題とからめて対中戦略に組み込む可能性があるからだ。アフガニスタンでの戦争を長引かせ西と東(台湾、南シナ海)に火種を仕込み中国を締め上げようとする。香港で強行的に50年契約を破棄した中国はその挑発に乗りかねない。そんななかで日本政府はどうする? いやおうなく政府の動向に支配される国民、自分たちはどう考える? どうする?
目を見開いて国際情勢を見つめなければ流される。

(2021年7月22日 14:39:09)

野口壽一 略歴 1948年鹿児島県生まれ 1980年夏アフガニスタンを単独取材し翌年<写真記録>『新生アフガニスタンへの旅』を上梓。2018年元アフガニスタン共和国副大統領の回想録『わが政府 かく崩壊せり』を翻訳出版。元株式会社キャラバン代表取締役、インターネットによるベンチャー支援組織「246コミュニティ」創設世話人、現在フェニックス・ラボラトリー合同会社代表。